制する男
…何やってんのかしら、あんなところで。
カプセルハウスから遥か遠く、針葉樹の森の端、ぎりぎり視認できる距離に人影が1つ。顔は見えないけど、こんなところに他に人がいるとは思えないから、たぶんあいつなのに違いない。
例の修行かしら。でもそれにしては、ぼーっとしてるわよね。
ま、あたしには関係ないけど。それより早く探さなきゃ。
あたしはヤムチャの部屋にいた。C.Cにいた頃と大差ない簡素なあいつの部屋で、クロゼットを漁っていた。
朝一番に空調を直そうとして、作業服を持ってきていないことに気がついたのだ。だってまさか、こんなところに来てまで、そんなことするはめになるとは思わないじゃない。
でも、あたしがやらないと。こういうことに関しては(も)ヤムチャはてんで当てにならないし。今朝は正常に動いているみたいだけど、だからといって放っておくわけにはいかないわ。いつまた調子が悪くなるか知れないなんて、落ち着かない限りだもの。それにどうせヒマだし。
ヤムチャのクロゼットの中身は、部屋同様簡素なものだった。私服の大半は、未だC.Cの部屋に置きっぱなし――修行に出る時「立つ鳥後を濁さず」とかあいつは言ってたけど、有言不実行もいいところよね。そもそもが衣裳持ちじゃない上に、趣味が偏りすぎだから(ワードローブ全般チャイナ寄りっていうか、放っておくと拳法着みたいなのばかり買ってくるのよ)、さして選ぶ余地もない。…あ。
あたしはクロゼットの一番奥から、ジーンズを1本引っ張り出した。
懐かしい。あいつが都に来たての頃、あたしが買ってやったやつだわ。…ということは、これが一番ウェストが細いわけね。
ジーンズを穿き(このくらいの太さなら腰でとまるわ。メンズジーンズってやつはね)腰にレンチを1本ねじ込んで、あたしはハウスを出た。時計の針は10時を指していた。

冷たい風がマフラーを戦がせていく。
寒っ。本当にここは寒いわ。雲1つない快晴なのにも関わらず、この寒さ。まったく勘弁してほしいわよね。あいつってば今までさんざん常夏の中で修行してきたくせに、どうしてこんな場所を選ぶのかしら。もっと気の利いたところに行けばいいのに。聞けば夏にはクーガーも出るというし、冬は寒いし。まったくいいとこないじゃない。そういうのが好きなわけ?理解不能だわ。
それにしたって、あいつがそれほどストイックだとは思えないんだけどなあ。荒野育ちがどうとかあいつはよく言うけど、そのわりには随分ええ格好しいじゃない?本人は野性を好んでいるのかもしれないけど、性格は正反対よね。
ま、いちいちそんなこと言ってたらキリないけど。あいつは欠点だらけの人間なんだから。許すわけじゃ絶対にないけど、少しは大目に見てやらなきゃね。
あたしは昨夜のことを思い出した。
まったく、あいつの取りえは扱いやすいところだけよ。それがあるから、あたしは相手してあげてるのよ。そこんとこ、肝に銘じてほしいわね。


その扱いやすい男が視界に入った。無防備な背中をこっちに向けて、木立の影に立ち尽くしてる。…本当に何やってんのかしら。
えっへっへ、ちょっと驚かしちゃお。
あたしはうんと用心して、あいつに近づいた。こいつといいクリリンといい、やたら目がいいというか、勘が鋭いというか、普通だったら絶対気づかれないはずの距離にいても見つけられたりするのよね。普段はてんで鈍いくせに。バランス悪いわよね。
でも、この時は違った。あたしはまったくあいつに気づかれることなく、あいつの背後に忍び寄った。ちょっと背伸びして、勢いよく両手であいつの目を覆った。
「わっ♪」
「うわっ!!!!」
ヤムチャはこれまであたしが聞いたこともないような甲高い声を上げて、一瞬体を宙に浮かせた。
えええ?ちょっとちょっと。
あんた、驚きすぎよ。相当ぼーっとしてたわね。…こんなんで大丈夫なのかしら。
驚かせたはずのあたしがなぜか驚いて、一瞬体を固まらせていると、肩で息をしながらあいつがあたしを睨みつけた。
「ブルマ!おまえいきなり何する…危ないだろうが!!」
危ない?何が。だいたい、あんた武道家でしょ。そんなんでどうするのよ。
「何がよ。ぼーっとしてたくせに」
あんたはいっつもそうだけど。それにしても、今のは心配になっちゃうくらいのものよ。
ヤムチャは怒っているようないじけているような――ううん、不貞腐れているっていうのがぴったりだわ――視線をあたしに投げかけた。
ちょっと驚かせただけなのに。融通利かないわよね。
「怒らない怒らない。余裕がないと大成しないわよ」
いくら修行してるったって、合間にちょっと構うくらい、いいじゃない。本っ当、クソ真面目なんだから。

空調システムのチェックはすぐに終わった。結果はまったく異常なし。
おかしいわねえ。昨日は確かに変だったのに。あたしの気のせいだったのかしら。いまいち釈然としないけど…ま、いいか。どうせあたしの家じゃないし。
あたしはハウスに戻った。家の中は暖かだった。マフラーを放り投げキッチンへ行くと、ヤムチャとプーアルが2人並んで昼食を作っていた。
…本当に仲がいいわね、こいつら。もう妖しいくらいよ。
カウンターの上で湯気を立てているコーヒーをカップに注ぎながら、あたしは2人を横目で見た。ヤムチャがバゲットに具を挟み込みながら(サブマリンサンドイッチね。気の利いたもの作ってるじゃない。何が荒野育ちよ、すっかり俗世に染まっているわ)、あたしに問いかけた。
「おまえ、何やってたんだ?」
「ん?ちょっと空調システムをね。何ともなかったけど」
言いながらコーヒーを啜る。あー、生き返った。…何か甘いもの食べたいわね。
あたしはストッカーを漁った。調理台の下にスナックを溜め込んでるのは、昨日確認済みよ。程なくしてドライストロベリーのボトルが見つかった。…もうこれが誰の仕事かなんて考えない。あ、そうだ。
「プーアル、あんた、あのバスローブどこで買ったの?めちゃくちゃかわいいじゃない。いいセンスしてるわよ、あんた」
あたしの賛辞を、プーアルは衒いもなく受け止めた。
「あれはこの前、町に買出しに行った時に…あ、ヤムチャ様のぶんもありますよ」
…プーアルあんた、それはちょっと深読みしすぎってもんよ。
あたしはヤムチャの顔を見た。思った通り、憮然としてる。もうどっちがこの家の主なんだか、わかりゃしないわね。
でも、それは言わないでおいてあげた。この顔見りゃ充分よ。
あたしは表向き無反応なヤムチャの手元から、サブマリンサンドイッチを摘み上げた。
「これから書斎使うから。入って来ないでね」
面倒なことを片付けてしまうつもりだった。


…さっぱり使った形跡がないわね。
服を着替えて書斎に入り込んだあたしは、ひと目見てそう思った。
まあ、あいつが書斎なんて必要とするとは思えないけど。せめて形くらい整えておけばいいのに。宝の持ち腐れよね。結構高いのに、このハウス(ちなみにあたしがあげたのよ)。
ま、主がどうしようと勝手なんだけどさ。
机の上に原稿用紙と答辞原本リストを放り置いて、椅子に腰掛けた。なかなか座り心地いいじゃない。
やっぱり、宝の持ち腐れだわ。

ちょっとうたた寝しちゃった。
目を擦り擦り顔を上げたあたしは、部屋がいつの間にか暗くなっていることに気がついた。
えー、もう夜?あたしどれだけ…
そうじゃなかった。点けたルームランプに照らされて、窓の外に白いものが散らついているのが見えた。
雪だわ。
さっきまであんなに差していた日の光はまったくなくなって、代わりにふわふわと水の結晶が降り注いでいた。もうだいぶ積もっている。もともと何もなかった場所だけど、今では雪に包まれてさらに目につくものがなくなっていた。
あたしはプーアルを誘って外に出た。プーアルは雪を見たことは1、2度しかないと言った。あたしはそれよりはあるけれど、きっと感覚は似たり寄ったりね。こんなにたくさんの本物の雪を踏みしめたことはないし(人口雪なら何度かあるけど)。髪が雪で真っ白くなる、なんてことも。
雪玉を転がしながら駆けていると、木立の影にヤムチャの姿が見えた。
こいつ、邪魔するなとか言うわりに、目につくところにいるのよね。何なのかしら。
「ヤムチャ」
返事はなかった。
おっかしいわね。聞こえてるはずよ。少なくともいつものあいつなら、聞こえてる距離だわ。…ひょっとして無視してるのかしら。
あたしは少しだけ距離を詰めてあいつの正面へと回り込むと、雪を手に取り振りかぶった。
「てーいっ♪」
「いてっ!!」
我ながらなんというコントロールの良さ。あたしの放った雪玉は、きれいな放物線を描いて、あいつの額に命中した。
…それにしても、こいつの台詞はないわよね。たかが雪でしょ。全然痛くない…と思うんだけど(実は雪玉作ったのって初めてだから、わかんない)。こいつ本当に武道家…
あたしの思考をあいつの怒声が遮った。
「ブルマ!おまえ何する…!!」
「雪が降ったら雪合戦。常識よ!」
らしいわよ。聞きかじりだけどね。
ヤムチャは喚きたてた。俺は荒野育ちなんだからどうとかこうとか。だったらなおさらでしょ。ちょっとは羽目外しなさいよ。
あたしはさらに雪玉を投げつけた。あいつは返してこなかった。
ふーんだ。つまんないやつ!
「べーだ」
あたしは最後に思いっきり挑発して、ハウスの前で雪だるまを作っているプーアルのところへ駆け戻った。
本当にあんたのご主人様は、ストイックぶっちゃって。
あんなに自制することないのにね。いくら修行中だからって、こういう時くらい羽目を外してもいいと思うんだけどなあ。何か無理してるような気がするのは、あたしの気のせいかしら。


雪は深々と降り続けた。雪の降る夜って、こんなに静かなものなのね。知らなかった。
夕食を終えシャワーを浴びてから、あたしはずうっと雪を見ていた。2階の窓から。
ヒマだったっていうのもあるし。それにやっぱりきれいだわ。
こういうところに住みたいかと訊かれると困るけど(困るというか、はっきり言って断るわ)。たまに見ているぶんにはいいわよね。
ふいにあたしは思い出した。このハウスの仕様を。2階真ん中のパーティルームに、確か天窓があったはず。
あれを利用しない手はないわ。本当に贅沢な作りのハウスだわよ。
住人は全然価値を見出していないみたいだけど。

パーティルームはほとんどリビング化していた。壁に寄せてソファ、テーブル、観葉植物。まあ、こんなもんね。あいつにしては上等だわ。
コンソールを叩いて、天窓を開けた。空の彼方から雪が落ちてきた。大丈夫、寒くはないわ。フロアヒーティングがあるから。床も濡れない。揮発するから。
あたしは天窓の真下に膝をついた。
特に何をするでもないわ。なんとなくやってみたかっただけよ。どうせヒマだし。それにやっぱりきれいだわ。
ふわふわとあたしに向かって降る雪は、でも決してあたしには触れない。その前に消えるのよ。床から1mくらいの高さでね。ヒーティングの効果よ。なかなかうまくできてるわよね。
そう言えば昔、雪の結晶を自社ロゴに使った企業があったっけ。ステキな発想よね。…最もそこは不祥事を起こして、経営不振に陥ったけど。
そんなくだらないことを考えながら(シチュエーションがそうだからって、考えまでロマンチックになるとは限らないのよ)、あたしは自分には届かない雪を黙って見ていた。
なんとなく、こんな風に楽しくなること、あるわよね。

「おまえ、寒くないのか?」
ふいに静寂が破られた。いつの間にかドアを開けて、ヤムチャが立っていた。
あら、あんた帰ってたの。ということは、もうそんな時間か。
「フロアヒーティング効いてるから」
答えながら壁の時計に視線を走らせた。まだ10時半にもなってない。珍しいわね、あんたが修行をサボるなんて。何かあったのかしら。
「天窓か…」
あたしが訊くより早く、ヤムチャが呟いた。空を仰ぎ見ながら。その声音にあたしは疑念を抱いた。
「あんた、知らなかったの?自分の家でしょ」
まったく、呆れるわね。
「修行ばっかりしてるからよ。書斎だって、まだ一度も使ってないでしょ。そのうち、あたしがこの家乗っ取っちゃうわよ」
1つのことに入れ込むのは悪いことじゃないとは思うけど。程度ってものがあるわよね。
だいたいこいつ、こないだその修行のせいであたしのこと忘れたんだから。…重症だわ。
ヤムチャは無言でソファに座り込んだ。あたしの言葉にはまったく触れず、話題を変えた。
「で、おまえはここで何してるんだ?」
「見りゃわかるでしょ。雪見てんのよ」
ただそれだけよ。
「きれいよねえ」
あたしがそう言うと、ヤムチャは驚いたようにあたしを見た。
「まさか、おまえずっとそうしてたのか?」
「そうよ。いけない?」
わかんないかなあ。
きれいだって思って、なんとなく触ってみたくなったり、ただ立ち止まって見ていたくなったり。あるわよね、そういうこと。
うまく説明できないけど、とにかく、そういう気分だってことよ。

無言で雪と戯れるあたしをよそに、ソファの上でヤムチャはうとうとし始めた。別にいいけど。
そうは思いながらも、何だかおもしろくない気分になって、あたしはあいつを起こそうと立ち上がった。その時、急にヤムチャが目を開いた。
思う間もなく、あたしの体は宙に浮いた。
たぶん背中に手を回されて、抱き込まれるようにして。
気づくとあたしはヤムチャの下になって、床に倒れこんでいた。
あたしたちの倒れた場所から数メートル横、天窓の真下あたり(あたしがいたところだわ)に、何か光る物が見えた。ガラス…ううん、氷?
「大丈夫か?」
ヤムチャがあたしの顔を心配そうに覗きこんだ。
…えーっと。
今の何?
正直、何が何だかわかんないんだけど。
…たぶん助けられた…のよね?こいつの表情からすると。
あたし、説明してもらいたい気持ちでいっぱいなんだけど。そんな雰囲気でもない感じ。…これはどうやって切り出せばいいかしら。
あたしが真剣にそれを考えていると、あいつの手があたしに触れた。最初に髪。それから首筋。
「ちょ、ちょっと…」
あたしの呟きはそこで途切れた。あいつの瞳があんまり真っ直ぐにあたしを見つめていたから。
あたしとヤムチャの視線が合った。なぜとはなしにそれは絡み合った。
…どうしたのかしら、あたし。
「どいて」って言わなきゃいけないのに。何だか体が動かない。

ヤムチャは動かなかった。あたしも動かなかった。
永遠に思える一瞬の中で、あたしの心が動いた。

そういえば、もうずっとキスしてないわ。最後にしたのはいつだったかしら。あの夏の日?…ひどいわね。
あたしはあいつの首に手を回した。
だって…そうよね。

あたしはあいつの顔を引き寄せた。あいつの唇は頑なだった。
…何よ。少しくらい応えてくれてもいいんじゃない?
ねえ。そう思うわよね。

ようやく解れたと思った時、あいつが目を固く閉じた。
それが、いつもの感じじゃない。瞑っているというには、固く固く。
何で?あたし何か変なことしたかしら。

…あ。

今までその存在にすら気づかなかった可能性が、心の中に浮かび上がった。
ひょっとしてそうなの?あんたがそんなこと思うなんて、考えてもみなかった。
でも当たり前よ。恋人だったら当たり前だわ。…バカなのはあたしよ。
どうしよう。

あたしはキスを止めなかった。だって、止めたら始まってしまう。
どうしよう。
あたし、何も考えてなかったの。そんなこと考えてなかった。これっぽっちも思ってなかった。

…でも。

その時気づいた。こいつの手。
最初にあたしに触れた手が。あたしの首筋に触れた指が。
あたしのキスに応えながらも、今なおあたしの耳元に留まるこいつの指が…

あたしは唇を離した。
「あんた、えらいわね」
自然と笑みが零れた。…見直したわ。ハッタリじゃなかったのね。
ヤムチャはさっきまでとは違う色の瞳で、あたしを捉えながら言った。
「…おまえ、試したのか?」
まさか。そんな余裕なかったわよ。
「あんたが嫌がってるから止めたのよ」
あたしだって、はなからする気なかったけどね。信じないかもしれないけど、あたし身持ちは固いのよ。
…でも。
「嘘よ。あたし、する気ないもん。あんただってそうでしょ。…気が合うわね、あたしたち」
あたしは笑った。こいつはいつも大事な時に、あたしに余裕を与えてくれる。得がたい資質だわ。
無言になったヤムチャをそのままに、あたしは立ち上がった。


パーティルームのドアを後ろ手に閉めながら、あたしは息を吐いた。
…あー、危なかった。危うく流されるところだったわ。性に合わないはずなんだけどな、そういうの。
あいつの自制心に感謝だわ。

あたしも少し気を引き締めなくちゃね。
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