迫る男
さて、どうしたものかしら。
ベッドに潜り込みながら、あたしは思案を巡らせた。さっきのことよ。
睡魔はまったくやってきそうにもなかった。当たり前よね、まだ12時前だもの。全然宵の口だわ。それで考えることにしたのよ。
あいつ、流してくれるかしら。たぶん無理よね。そういう器用なことできなさそうだもの。
きっと気まずくなるわよね。しかも同じ家の中で。面倒くさいなあ。
いっそ逃げるか。それもいいわね。何日かおけばあいつのことだもの、忘れるんじゃないかしら。
あいつだって、似たようなことしたことあるし。しかも月単位で。あいつがやってよくて、あたしがやってダメってこともないわよね。
よし決めた!そうしよう。
あたしは目を閉じた。
明日は朝から行動よ。睡眠たっぷり取っておかなくちゃ。


目覚まし時計が煩い。
起きる。止める。寝る。リピートアラームが鳴る。
それを3回繰り返して、あたしは起き上がる腹を決めた。
ああ、眠い。まったく、逃げるのも一苦労ね。スパイっていっつもこんな睡魔と闘ってんのかしら。大変ね。
どうしてあたしがこんな目に、とは考えない。あたしにだって自覚はあるわ。昨夜のはあたしが悪かった。キスしたいって思ったのが悪いとは思わないけど、やっぱりタイミングが悪かったわ。あれは明らかにあたしのミスよ。
ヤムチャには悪いことしたって思ってる。本当よ。だってねえ、普通あの状況で抗えるわけないじゃない?…あいつは抗ってたけど。えらいわよね。
ひょっとすると鈍いだけっていう可能性もあるけど。いえ、やっぱりありえないわ。だって、あたしみたいな魅力的な女とあんな状況になって何も感じないわけないもの。
とにかく、あいつはえらいわ。それだけは褒めてあげる。
だって、そのおかげであたしは助かったんだもの。いくら褒めておいたって損はないわよね。言うだけならタダだし。

午前9時。あいつは修行している時間だ。
まったく、今のあいつから逃げるなんて造作もないことね。ほとんど一日中修行してるんだもの。昨日まではそれが不満だったけど、今となっては大感謝だわ。
あたしは窓から外を見た。すごくいい天気。太陽の光に照らされて、積もった雪がシャーベット状になっている。
うわ、歩きにくそう。これは濡れるわ。…靴、どうしよう。
そうだ、確かあいつがブーツカバーを持ってたわ。あれ、借りていこう。どうせあいつは修行しかしないんだもの、必要ないでしょ。
あたしはあいつの部屋へ行った。誰にも見つからずに――と言っても、今この家にはプーアルしかいないけど。部屋にはロックがかかっていた。
どうしたのかしら。昨日はかかってなかったのに。こんな人里離れた場所で泥棒なんか出るわけないし。ここにはあたしとプーアルしかいないのに…無駄な用心してるわね。
まあいいわ。ロックなんて簡単に開けられる…
あたしがコンソールのモニターを切り替え、OSを操作しようとしたその時。
「おまえ、何してるんだ?」
背中越しに声をかけられた。あたしは振り向かなかった。声の主が誰かなんて、言わずもがな。
ヤバイ。…現行犯。
「ブルマ?」
ヤムチャは怒ってはいなかった。顔は見なくても声色でそれがわかった。…よかった。気づいていないのね。
「あんたこそ何してるの?修行は?」
あたしはすばやくコンソールのモニターを元に戻すと、努めて明るく尋ね返した。とにかく話を逸らすことよ。
「ああ、ちょっとな」
ヤムチャは言葉少なに答えた。もう。それじゃ話が終わっちゃうじゃない。もう少し会話のマナーってものを…
それにしても変ね。こいつがこんな時間にこんなところにいるなんて。何で今日に限ってサボってるわけ?どうせなら昨日サボってくれればよかったのに。そうしたら…
あたしは頭を振った。ダメダメ。今はそんなこと考えてる場合じゃなかったわ。
「そうなの。あたしもちょっとね」
言葉を捜しながら、あたしは気づいた。こいつの目。
…何か据わってない?
怒ってるってわけじゃないんだけど。眼の色が何だか怖いわ。
「ちょっと?」
「ええ、ちょっと…」
あたしは完全に言葉に詰まった。何か変よ、こいつ。それに妙に会話が続かないわ。…ひょっとして、感づいてるのかしら。
「じゃっ!」
あたしは走り出した。もう体裁なんてどうでもよかった。
どうせ感づかれているのなら(その可能性は高いわ。こいつ普段はぼーっとしてるけど、索敵能力は高いから)、先手必勝よ!
ヤムチャはすぐに追ってきた。すぐにじゃないのかもしれないけど、こいつの方が足速いし。階段の下で左手を掴まえられた。あたしはヤムチャの手を思いっきり振り払った。
ヤバイ。…どんどん深みに嵌ってる。
でももう、戻れない。

あたしは森の奥へ逃げた。エアジェットをカプセルから戻す時間がなかった。あいつってば、何て足が速いのよ。
あー、もうダメ。
一体何km走ったのかしら。こんなに走ったの、ジュニアスクールのマラソン以来だわ。
木に背中を凭れながら、息を吐いた。もう少ししたらカプセルを戻せるような場所を見つけて、そしたら帰ろう。あーあ、それにしても…
…完全に失敗だわ。
一人密かにいなくなるつもりだったのに。バレバレもいいところよ。これじゃあほとんど意味ないわ。
あいつ、どうするかしら。C.Cに連絡してくるかしら。嫌だなあ。きっとまたウーロンに何か言われるわ。
それとも梨のつぶてかしら。そっちの方が可能性高そうね。それに、今回はその方が助かる…
「わっ!!」
耳元で大声がして、あたしは声と反対方向へ後退った。踵を返した時には遅かった。気づけばあいつに両手を掴まれていた。
「掴まえたぞ」
ヤムチャは笑っていた。こんな時に。…やっぱりおかしいわ。
あたしの疑念は、続くヤムチャの言葉でさらに深まった。
「逃げるなよ。だいたい、おまえが逃げることないだろ。悪いのは俺なんだから」
ヤムチャは自嘲気味に呟いた。何言ってんのこいつ?
あたしの背中を倒木に向けて、あいつは手を放した。あたしは逃げるのを諦めた。どうせまた捕まるわ。それにもう走りたくない。
「何がよ?」
あたしは尋ねた。最後の言葉が気になった。悪いって何がよ?誤魔化しにしても、何だか変よね。
あいつはちょっと頭を掻いて(これは困った時のあいつの仕種よ。ということは本音なのね)、伏し目がちに言った。
「俺が怖がらせた。悪かった」
一瞬、意味がわからなかった。昨夜のことを言っているのだと気づいても、意味が図れなかった。
あたし怖がった覚えなんかないし。だいたい怖がらせたからって何がどうなるもの…
…ああ。
何度も反芻して、ようやく意味がわかった。なるほど、そういうことか。女が男を怖がるあまり、ね。典型的な一般論だわ。
あたしはヤムチャの顔を見た。伏し目がちにあたしの様子を伺うその瞳には、心配そうな光が浮かんでいた。本当にそう思っているのね。
心外だわ。
謝ってるんだから、勝手にさせとけって意見もあるかもしれないわね。でも、そうはいかないわよ。
「ちょっと、勘違いしないでよ。あんたなんか怖くないわよ!全然、これっぽっちも怖くないわ!!」
そうよ。それだけは譲れないわ!
あたしがあんたに屈してあんなことしたと思ってるの?冗談じゃないわ。あたしはあたしの意思でしたのよ。あたしがしたいと思ったからしたのよ!
あたしの怒声にヤムチャは顔をあげ、当然のように訊いた。
「じゃあ、何でだ?」
「何でって…」
それをあたしに言わせるわけ?
っていうか、あんた本当にわからないわけ?
この…
「大バカ男!!鈍感!!」
信じられない鈍さだわ。
「やっぱりあんたはただの鈍感よ。褒めて損したわ!!」
本気でえらいと思ったのに。あたしがバカだったわ。
あたしが横目で睨めつけると、あいつは片眉を上げ口を尖らせた。
「何だよ、その言い方」
「本当のことを言ったまでよ。何度でも言ってやるわ。この鈍ちん!!」
あんたが鈍いことくらい知ってたわよ。でも、どうしてそういつもいつも上をいくわけ?
まったく、こんな男をどうしてあたしが怖がらなくちゃいけないのよ。むしろ、怖がらせてほしいくらいだわ。

その時、ヤムチャがあたしの腕を掴んだ。あたしは倒木に押し付けられた。
両の腕であたしの逃げ道を塞ぎながら、あいつはあたしを睨みつけた。
…上等じゃない。受けて立つわよ。
あたしはあいつを睨み返した。
一瞬の睨めっこ。どっちが勝ったかはわからない。
だって、瞳を閉じたから。


これで怖がれっていう方が無理よね。
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