不審な男
あたしが部屋で過ごしたあの日から、ヤムチャがだんだん変わってきた。


夕食後、あたしが白衣片手に外付けエレベーターへと続く廊下を歩いていると、リビングにいたはずのヤムチャが声をかけてきた。
「こんな時間に学院か?」
「うん、ラッシーに餌やりにいくの」
ヤムチャは普段、あたしのすることにはあまり興味を示さない。特に研究なんかには。
でも、この時は違った。
「ラッシー?」
「『エスケリキア・コリ』――ラッシーよ」
そう答えるとヤムチャは何やら考え込んで、やがてあたしの視線に気づくと、慌てたように「ふぅん」と言った。
「送っていこうか?」
こいつがこんなことを言うなんて本当に珍しい。いつもは、あたしが出て行くことにさえ気づかないのに。
「いいわ。バイクで行くから」
もったいないかなと思いつつ、あたしは断った。


許してしまうと男は変わる。そんな話を聞いたことがある。
横柄になるか、優しくなるか。
ヤムチャはどう考えても前者ではないな、というあたしの予想は当ったわけだ。


学院の研究室では、後輩が1人シャーレを前に、色水を大量生産していた。次々と結果を出していく彼の手際に、あたしは心底舌を巻いた。
「上手ねえ。やっぱり専門にやっている人は違うわ」
「細菌、好きなんです」
あたしだって好きなんだけどなあ。この差はどこからくるのかしら。
あたしが不慣れな手つき(そう後輩には見えたに違いない)でラッシーに餌をあげていると、後輩があたしの顔をじっと見つめながら言った。
「よかったらお手伝いしましょうか?」
何ということのない申し出に聞こえるかもしれないけれど、通常こういうことはありえない。他人の研究材料に手をつけるなんて。
しかしながら大変魅力的でもあるこの申し出にあたしが心中迷っていると、彼が最後の一押しをした。
「ぼく、ブルマさんと一緒に細菌育ててみたいんです」
あら?あらら?
そうなの。そういうことか。この子、あたしのこと好きなんだ。そうよね、あたしにもそういうことが、たまにはあってもいいはずよね。
ヤムチャの気が利くようになったといったって、やっと1人前といったところだし。だいたい、あの日以来何もなしってどうなのよ。普通ちょっとはラブラブになったりするもんじゃないの。
「お願いするわ」
あたしはにっこり笑ってそう言った。

あたしの思惑など知りもしないで、ヤムチャはまったくのんきなものだ。
「今日は行かないんだな」
「どこに」
「学院だよ。ここのところ、毎日行ってたろ」
それにしてもこいつ、最近やたらとあたしが学院へ行くのをチェックするのよねえ。ひょっとして、束縛ってやつなのかしら。
「ああ、あれ。後輩に頼んでるから。細菌が好きなんだって」
そしてあたしのこともね。へっへーんだ、ざまーみろ。
ヤムチャは呆気に取られたように一瞬口をつぐみ、それからあいつらしくもない台詞を吐いた。
「変わったやつだな。しかし、本当に任せて大丈夫なのか?」
「どういう意味?」
「その後輩にちゃんと世話ができるのかってことさ」
何?こいつ、ひょっとして気にいらないわけ?
めっずらし〜い。
もともと後輩とは何もするつもりはなかったけど(ただ一緒に研究するだけよ。健全でしょ)、このヤムチャの反応だけでも収穫があったというものだ。
「何でそんなこと聞くの?」
あたしの正面切っての質問にも、あいつは躊躇することなく答えた。
「そりゃだって、彼女のことなら何でも知りたいからさ」
やった!
心の中はしてやった気分でいっぱいだったけれど、あたしはめいっぱいポーカーフェイスを装って、ヤムチャの部屋を後にした。


10日間が経った。あたしのラッシーはすごく元気だ。好意を利用しているようで少しは気が咎めるけど、やっぱり頼んでよかった。
「今日は行くのか」
「うん、後輩いないから」
肉視窓に夜景輝くエレベーターの中であたしはヤムチャと話していた。やっぱり気にしてる。本当に隠し事の下手なやつね。
ちょっとからかってやろうか、そうあたしが思った瞬間、照明が落ちた。一面の暗闇。
「何よ何よ何よ何よ」
「どうやら停電みたいだな」
窓から外を覗いてヤムチャが言う。そこには星の光以外、何も見えなかった。かなり大規模な停電だ…あっ!!
「ラッシーが死んじゃう!」
あたしは悲痛な声をあげた。
ラッシーの置いてある無菌室には、自家発電装置がついていないのだ。すぐに装置のある施設に移さなければ、1時間ともたないだろう。
今から行ったのでは間に合わない。しかし学院には誰もいない。
「あ〜ん、もうダメだわ」
あたしは絶望的に呻いた。
「せっかく後輩も手伝ってくれてたのになあ」
思わず呟いたその言葉に反応したのかどうかはわからない。ヤムチャがあたしの肩に手を置いた。ぽんぽんと、頭を撫でる。
…あんた、本当に気が利くようになったのねえ。
妙な感心をしながら、あたしはヤムチャの体に身を寄せた。ヤムチャはいかにも付け足しといった感じで呟いた。
「ところで俺にはさっぱり理解できんのだが、その後輩というのは、一体どういうやつなんだ?」
まったく小心なんだから。そろそろそういう迂遠なのやめなさいよ。どうせバレバレなんだから。
「だから、細菌が好きなのよ」
納得しない。そりゃそうだ。あたしでもしないだろう。
「あたしと一緒に細菌を育てるのが好きなんだって」
あたしは本当のことを言ってみた。どうせわかりゃしないんだから。
「パリダの時も手伝ってくれたのよ。本当に好きなのねえ」
後半部分に特に力を入れたのは言うまでもない。
ヤムチャは黙った。わかってるんだかいないんだか。
300秒の時を数え、あたしが重い吐息を吐いた時、ヤムチャの指があたしの頬に触れた。そのままそっと口づける。
…まったくあんたってば、鈍い上にタイミングも何もあったもんじゃないんだから。
その夜、あたしは学院へ行かなかった。

翌朝あたしが身支度を整えていると、まだ半分布団に包まったままでヤムチャが言った。
「この前の時、ピアスが落ちてたぞ」
ピアス?あたしの?
「あんたも男のくせして細かいわね。でも変ね、ピアスなんてそう簡単に外れないのに」
「…俺もそう思うんだがな」
ヤムチャは神妙な顔でそう言うと、あたしの衣服を検め始めた。なんだか神経質になっているみたい。
それとも疑ってんの?何よ、あたし(まだ)何もしてないわよ。
「とにかく気をつけてくれよ」
それはおそらくあいつが思っている以上に、あたしの心に響いた。

学院へ行くと、ラッシーはもういなかった。死んでしまったラッシーをあたしに見せまいと、後輩が片付けてくれていたのだ。…この子ちょっと気が利きすぎるわね。
「昨夜は参りましたね。他にも被害を受けた人がいるそうですよ」
「で、次は何を育てましょうか?」
後輩の期待に満ちた目をあたしは直視できなかった。どうやら彼との垣根を補強する必要があるようだ。
「どうしようかしらね…」


「『サーマス・サーモフィルス』…サリーを見に行ってくるわ」
訊かれてもいないのに、あたしはヤムチャに告げていた。
「例の後輩はいるのか?」
「え?…ああ、いるけど…」
「そうか…」
うっ。
何なの、この罪悪感は。あたし(まだ)何にもしていないのに。
あたしって本当に心の清い人間なんだわ。筋斗雲に乗れなかったのはやっぱり美貌の業だったのね。
それきりヤムチャは何も言わなかった。あたしは初めて、鈍さにもメリットがあるのだということを知った。

サリーは育った。後輩はよくやってくれていた。ちょっとヤバすぎるほどに。
「餌ならもうやっておきましたよ」
「好きなんですから、一方通行でもいいんです」
「ボクのこと、もっともっと扱き使ってください」
…ちょっと、じゃないかもしれない。
あたし、地雷を踏んじゃった?

2週間が経った。あたしはさすがに後輩の態度に辟易しだし、決心をつけたところだった。そんな時ヤムチャが言った。
「サリーは元気か?」
…本当に間の悪い男。
あたしは荒れる心を押さえつけながら答えた。
「…ああ、あれ。もうやめたわ」
「何?」
「レスポンスが良すぎ…いや悪いし。言うこと聞きすぎて怖いし。ちょっと性格に難ありっていうか」
自分でもわけがわからないことを言っていたと思う。だが、さらにわからないことを言ったのがヤムチャだった。
「…性格に難があるのはおまえのほうだろ」
声のトーンがいつもと違う。一体どうしたの?
「おまえって何でそう気が短いんだよ!」
これまでに聞いたことのないその声音に、あたしは身を固くした。
「明日で15日目なんだぞ!」
「それがどうしたのよ」
「どうしたっておまえ…」
騒ぎを聞きつけて、ウーロンとプーアルがやってきた。ヤムチャはなおも捲くし立てる。
「それくらいがんばれないのか!これが最後なんだぞ!」
「せっかく最後に俺が残ったのに」
「一度くらい的中させてくれたって」
「ここまできてニアピンだなんて納得できるか!」
「ダメです、ヤムチャ様!」
「気持ちはわかるが、ちょっと落ち着け!!」
プーアルが必死に宥める。ウーロンが羽がい絞める。
あたしはヤムチャの台詞を咀嚼した。最後?的中?ニアピン…
…ちょっと。
「あんたたち一体何してたのよ!正直に言いなさい!!」
ウーロンとプーアルがしまった、というように顔を見合わせた。
inserted by FC2 system