足す男
「『Conformal Anomaly via AdS/CFT Duality』…ずいぶん気合の入ったタイトルじゃない。たかがスキップ論文に」
感心というよりはむしろ呆れの篭った口調で、ディナが言った。
「ちょうど個人的に進めていたものだから」
手元の目録に目を落としたまま、あたしは答えた。
夏休み3日目。カメハウス滞在2日目にして、あたしは西の都に戻ってきた。ケンカ?バカ言わないで、そんなのするヒマなかったわよ。
物理学のスキップに必要な論文の資料に、手落ちがあることがわかったからだ。昨日の今日で戻ってくるのは正直面倒くさかったけど、そこは一発気合を入れた。こんなのさっさと終わらせて、あたしはあたしの夏休みを堪能するのよ。
夏休みでも学院を休めない人たちは大勢いるし(今、目の前にいる人物もそうよ)、それに比べれば気楽なものよね。
「ねえ、ところでこれ、何の意味があるの?」
一通り素材の仕込みを終えたらしいディナが、あたしの持ってきた小袋に片手を突っ込みながら言った。例の発明品よ。
あたしは驚いた。まったく心外だわ。まさか、学者(の卵)仲間にそんなことを言われるなんて。
「意味?おおありじゃない。飛べるのよ。浮けるのよ。すごいことよ。人類の夢への第一歩よ」
質量保存の法則を無視するなんて、天才にしかできないことよ。
ディナは手にしたマシュマロを食べることはせず、細々と千切りだした。
「一歩なのは認めるけどさ。絶対、方向性違うって。せめて実用性を加味しなさいよ」
「何言ってんの。超実用的よ。崖から飛び降りても平気だし、熊だってまけたわよ」
途中で邪魔は入ったけど。ああいう要素は最初から排除すべきだったのよね。
ディナは目を丸くした。屑となったマシュマロをゴミ箱に捨て(ひどいことするわよね。だから早く同条件になりたいのよ)、まじまじとあたしを見つめた。
「崖?熊?…あんた一体どんなところに行ってんの?」
長い長い閑話が始まった。
あたしが一部端折って(あまりにもプライベートな部分は外すわよ。当たり前でしょ)事の次第を告げると、ディナは先ほどとは打って変わって、今度は大いに感心した口調で呟いた。
「アインシュタインも変人だったっていうし。あんた本物かもね」

まったく、何てこと言うのよね。
あたしが変人?冗談言っちゃ困るわ。あたしはまともな一般人よ。
だいたいあたしが変人なら、あいつらは何だっつーのよ。スーパー変人?
あたしはディナに、あいつらのことをさして詳しくは話していなかった。ヤムチャのことは前に少し話したけど。それだって大雑把もいいところよ。
面倒くさすぎるのよ、あいつら。だいたい、修行が何かってところから話さなくちゃいけないのよ。そうよ、それが一般人の感覚なのよ。
何で亀の仙人なの?とかさ。もう答えられないこと、てんこもりよ。だいたい、『仙人』って口にした時点でホラ話だと思われるわね。間違いないわ。
あいつらにとっては、あたしは唯一のまともな友人なんだから。もっと大事にしてもらいたいものだわ。


カメハウスへ近づいた頃には、すでに陽が暮れていた。夕食もとっくの時間。あたしはトゥインキーズを齧りながら、北の山岳、この時間ヤムチャがいるであろうあの場所に針路を設定した。
こんな中途半端な時間に帰ったって、どうせ何もできないし。それに、あいつがあんまり熊相手に欲情するようなら、少し戒めてやらなくちゃね。あれは異常よ。

あたしの親切心は行き場を失った。調教の対象が見当たらなかったのだ。
この辺りにいることは間違いないのよね。この時間、カメハウスの近くにいたことないし。他の場所には民家があるだけだし…森の奥に行ったのかしら。熊を探して。ありそうなことだわ。
ふと、自分の影の濃さに気づいた。あたしは天を仰いだ。
…月が、きれい。
すごくクリアーだわ。時々雲がかかるけど、まったく美しい。眼下の森も輝いて見える。ここって、こんなにきれいなところだったのね。
昨日はそんなこと気にしてるヒマなかったからなあ。あいつのせいで。
崖の切っ先に腰を落ち着けた。この状況を楽しむ気に、あたしはなった。

膝の上に小型パソコン。手元に資料。
楽しむとはいっても、無為に過ごすつもりはないわ。
こういう精神状態っていいのよね。研究を纏めるのに。集中できるし。頭の中がすっきりするわ。
時折マシュマロを口に運んだ。こうすればお尻が汚れないのよ。まったく、実用的だわ。ディナったらわかってないわよね。こんなに使えるものもないわよ。
論文ははかどった。次から次へと思いつく展開法。あたしはその断片を、片っ端からメモに書き付けた。キーを打つ手が間に合わない。
あたしはまったく集中していた。すっかり意識が体から分離していた。


「起・き・ろ」
耳元に風が吹いた。
あたしは布団の端を掴んだまま、反射的に体を動かした。すぐ目の前に、ヤムチャの顔があった。
「…あ。ヤムチャ、おはよ」
もう朝か…
それとも昼かな、こいつが起こしにきたってことは。たいがい、いつまでだって寝かせといてくれるのに。珍しいこともあるものね。…今日、何か約束してたっけ。
意識して目を擦った。もやがかる瞳に、それが映った。…まったくの闇。
「何よ。まだ夜じゃない」
――そんな夢を、あたしは見ていた。


鈍い痛みが走った。
あたしは思わず目を瞬かせた。すぐ目の前に、ヤムチャの顔があった。左頬に、こいつの掌。
擦らずとも、もう目は開いていた。もやがかる瞳に、それが映った。
まったくの闇。月を隠す雲。鬱蒼と茂る森…
…どこだっけ、ここ。そしてあたしは何を…
重い頭。だるい肩。力の入らない膝。動かない体。
あたしはあたし自身を起こしにかかった。そんなあたしにヤムチャが言った。
「おまえ、ほんっと寝起き悪いなあ」
「あんまりそういうこと外で言わないでよね」
「何で?」
…鈍感。
この会話で目が覚めた。っていうか、あたし寝ちゃったのね。あんなに調子よかったのに。
急いでメモを手に取った。脳裏に残る思考の欠片を形にしてしまいたかった。パソコンを膝の上に乗せた。画面を開…
「げ、電源落ちてる」
「バッテリー切れたんだろ」
そんなあ。
大きな溜息が出た。
あたしにとって論文は、未だ生ものだった。あたしは書き溜めたメモたちが、明日の朝にはゴミと化しているであろうことを、ほぼ正確に予測した。
メモをまとめて握り潰した。まったく無駄なことをしちゃったわ。
ヤムチャが意外そうな顔でそれを見た。
「必要なものじゃなかったのか?」
「さっきまではね」
そう、さっきまでは。あたしはタイミングを逃したのだ。これでまた、やりなおし。
不貞腐れかける気分をそのままに、あたしは崖の切っ先に足を投げ出した。その隣にヤムチャも座った。
「おまえ、いつからここにいたんだ?」
「9時くらいかな。月がきれいだったから」
あたしは手元の時計を見た。11時30分。…はぁ。
その時、つかの間隠れていた月が、流れる雲の後ろから姿を現した。千条の光が万物を輝かせた。
本当、きれいよね。嫌味なくらいにね。おかげですっかり無駄な時間を過ごしちゃったわよ。
あたしは自嘲した。そもそも、科学者が月の光なんかに見とれたのが間違いよ。あんなの、ただの太陽光の反射だわ。
ふいにヤムチャがそっぽを向いた。伸びた髪から覗く耳元に、ほんのり赤みが差している。
何かしら。どことなく高揚してるようにも見えるわね。何か見つけたのかしら。
…熊とか?
崖の周囲を見回した。何よ、何もいないじゃない。
月は今や完全に夜を支配したらしい。白く鈍く輝く光。あたしたちの前にできる、2つの黒い影。月光に映え渡る緑の森。…胸くそ悪いったらありゃしない。
あたしはゆっくりと腰を上げて、ヤムチャの後頭部を見下ろし言った。
「もう帰ろっか」
どうせあんたも修行は終わったんでしょ。こういう時は熱いシャワーを浴びて、さっさと寝るのが一番よ。
いきなりヤムチャが振り向いた。その目は驚きに満ちていた。
「何?」
あたしの後ろに何かいるわけ?
…熊とか?

「ブルマおまえ、もう1度ここに座れ」
凛とした顔、涼しい声音。
いつになく真剣な雰囲気を漂わせながら、あたしが今まで座っていた場所を、ヤムチャは指し示した。
「は?」
その表情と仕種の意外さに、思わずあたしは頓狂な声を上げた。そんなあたしを、あいつの瞳が捉えた。
「やりなおしだ」
やりなおし?
って、何をよ?あんた、まだ何もしてないでしょ。
あたしにはわからなかった。ヤムチャの放った言葉の意味が。
意図を図ろうと、黙って顔を見つめるあたしの腕を、ヤムチャが掴んだ。力任せに両肩を押されて、あたしは無理矢理、先の場所に座らせられた。
「ちょ…ちょっと。ちょっと、ヤムチャ」
あんた、いきなり何すんのよ。一体、何をしようとしてるわけ?そして、どうしてそんなに強引なの。
あたしの右腕を掴む手を、あいつは緩めなかった。もう一方の手が、左頬に触れた。今度は痛みを伴わず。そっと、優しく。
…待って。ちょっと、待ってよ。
「何よあんた。一体どうしたのよ」
なんでいきなりそうくるのよ。脈絡がないにも程があるわ。
一見拒絶とも取れる(というより、こいつはそう取るわ。…いつものこいつなら)あたしの言葉にも、ヤムチャは動じなかった。あたしの鼻に自分の鼻をくっつけて、あいつは囁いた。ちょっぴり甘く、でも確固たる声で。
「嫌なのか?」
「…何言ってんのあんた」
本当に何なのこれ。どうなってんの?
何かあったわけ?何があったわけ?あんたのスイッチって一体何なわけ。
あたしは訊きたかった。でも聞けなかった。あいつがそれをさせなかった。
あたしの五感は塞がれた。


まったく、わけわかんないったら。こいつの思考回路ってどうなってんの。
誰か教えてよ。
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