噂の男
変よね。
急にあんなことするなんて。

いい風の入るその部屋で、まる一日をかけて、あたしは論文を完成させた。
出来はまずまずというところ。おかげであたし個人の研究にも一区切りついたし。テーマは気粒子理論――気の研究の処女作よ。
床に散らばる資料を片付けて、新たな資料の山を解いた。
「さあ、もう1本行くわよ!」
「まだあるのか」
背後から声がした。いつの間にか部屋の主がそこにいた。
「あら、ヤムチャ。おかえり」
ヤムチャの髪は濡れていた。こいつの一日は終わったのね。でも、あたしはもう少しやらせてもらうわ。
「今度はレポートだけどね」
新たに広げた資料と、随所に挟まれたメモと付箋をちらと見て、ヤムチャが気だるそうに口を開いた。
「論文とレポートって、どこが違うんだ?」
こいつがそんな質問をするなんて、少し意外な気もするけど。まあ、こいつも一応元学生だし。レポートがどんなものかくらいは知ってるわけよ。書いたことはないけれど――ハイスクールでレポートの課題が出た時は、全部あたしがやってたからね。
「一言で言えばボリュームかな。あとは、意見を主張することとそれを考えることの違い」
「よくわからないなあ」
「うん、実はあたしにもよくわかんない」
本当に、わからないことだらけだわ。

あたしは、今日は一日中カメハウスに篭っていた。ヤムチャは時々部屋にやってきて、ぶつくさ文句を言いながら、資料やメモを勝手に動かした。特に変わった様子もなく。…人が変わったわけじゃないみたい。まあ、変わられたら困るけど。
すでに決めていたレポートのタイトルを、パソコンに打ち込んだ。
『ウイルス感染症の迅速診断を目的とした単クローン抗体の作出』――気合が入ってないって、きっとディナなら言うわね。でも専門じゃないんだもの。こんなもんよね。
微生物学もね、おもしろそうだけど。ディナのやってることを見てたら、少しそう思ったわ(彼女の専門よ。あたしは研究室には入り浸ってるけど、手は出してない。まだ1年だし)。
でも今は、そこまで領分を広げているヒマはない。…ような気がする。なんとなく。
なんとなく、違うのよね。4ヶ月前にも思ったことだけど、それよりもっと。
あの時は照れてたけど、昨日は全然照れてなかった。…いや、そこじゃないか。照れずに動くことなら、今までだって時々あったし。
なんか昨日、わけわかんなかったわよね。あんな風にされたこと、今まであったかしら。別に嫌ってわけじゃないけど。なんだかちょっと。
そう、なんだかちょっと…
…気が散るわね。
「ねえヤムチャ。海行こ、海」
ベッドの上でひたすらに柔軟体操を続ける男に、あたしは意識して声をかけた。
このレポートが終わったら、あとにはもう何もないし。あたしは遊び放題、自由の身よ。…褒美があればやる気も出るってもんよ、きっと。
「何だよ急に」
「いいじゃない、夏なんだし」
夏は海、白い砂浜。常識よ!
それにここの海は何かといいものが見つかるし。去年そうだったじゃない。コンクパール。レアメタル。鉱物の穴場よ。
だけど、あそこは少し危ないし。あたしに襲われてほしくなかったら、こいつも来るべきよね。男だったら、騎士道精神ってやつを見せなさいよ。
でも、それは言わない。そんなこと言ったら、きっと反対されるに決まってる…
あたしは精神の再建を果たしつつあった。そんなあたしに、ヤムチャは言った。
「ダメだって。俺には修行があるの」
…もう、完全に想定の範囲内。まったくパターンよね。
でも、あたしはそれを打ち破る術を持っている。
「あーら、そんなこと言っていいわけ?」
きょとんとしたヤムチャの顔がおかしかった。
「あんたが夜な夜な何やってるか、みんな知ってるのかしらねえ」
もはや、あたしは完全に復活した。


…大丈夫みたいね。
目の下の隈もやつれもなしの美人を鏡の向こうに認めて、あたしは安堵の息を吐いた。
昨夜はまったく眠れなかった。ほとんど徹夜。理由は恋煩い。
あいつのことを考えただけで、夜も眠れないの。あいつのあの間抜けな顔、さっぱり気持ちを汲み取ってくれない鈍重な思考回路、それだけは異常に発達した筋力…
…よし、調子出てきたわ。
今のは冗談よ。決まってるでしょ。でも一度使ってみるのもいいかもね(もちろん後半部分は挿げ替えて)。あいつ絶対ひっかかるわよ。想像しただけでわくわくするわ。
ほぼ一昼夜でレポートをやっつけて、あたしはまったく調子付いていた。そして今日はこれから海。今からが本当の夏休み!
黒のニットボーダーの水着の上にパーカとショートパンツを身につけて、あたしは一人カメハウスを後にした。

相変わらずここの海は熱いわね。
輝く水面を左手に、先に行っているはずのカメハウス住人を探し歩いていたあたしは、すでに片手の指以上の男に声をかけられていた。
去年よりナンパ人口が増えているみたい。常夏の海の良さが世に知れ渡ってきたのかしら。
そして去年よりナンパのマナーも良くなっているわ。みんな長く引き止めないし、無理と見たらすぐ引き下がる。そういうナンパならね、女もいい気分になれるし。結構なことよね。
10分程歩いたところで、ヤムチャがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。うんざりするような人込みの中で、あたしにはそれがすぐにわかった。
あいつが妙に偉そうな態度だったからだ。正確に言うと、あいつがというより、周りが勝手に引いてる感じ。あいつの周りだけ明らかに人が少ない。
みんな何ビビってんのかしら。確かにあいつはガタイはいいけど、そういうタイプのやつじゃないのに。むしろ対極だっつーの。
「よう、起きたか」
あたしの視界を占領して、ヤムチャが片手を上げた。
「見りゃわかるでしょ」
わかりきったこと言わせないでよ。
「体がじゃなくて、頭がだよ」
「殴るわよ」
まったく失礼な言い草よね。
そりゃあ、確かにあたしは寝起き悪いけど…それは認めるけど。でも起きてる時は、あんたより頭働いてるわよ。それはもう間違いないわ。
あたしの隣に並びかけて、唐突にヤムチャが訊いてきた。
「おまえ、ここに来るまで何人に声かけられた?」
「…何でそんなこと訊くの?」
まさか気になるわけ?…あんたが?一体どういう風の吹き回しかしら。
あたしの質問に、ヤムチャは答えなかった。
「で、何人だ?」
「そんなのいちいち覚えてないわよ」
数えないでしょ、普通。
実際は、片手の指以上両手以下ってところだけど。そんなことわざわざ言わないわよ。そんなの、自分はモテないって公言するようなものよ。見くびられてたまるもんですか。
それにしても急にどうしたのかしら。目くじら立てられることはあっても、こんな風に気にされることなんてなかったわよね。
あたしの疑念を、ヤムチャはさらに掻き立てた。
「ほら、行くぞ」
そう言って、あたしの手を取って歩き出したのだ。

本当にどうしちゃったのかしら、こいつ。
悪い気はしないけど。っていうかかなり嬉し…
固く握られた右手に吸い付きそうになる視線を、あたしは故意に外した。
だって、こんな風に感じてるなんて知られたくないし。癪じゃない、なんとなく。こんなの恋人同士なら当たり前の行為なんだから。ここは当然って顔をすべきよ。
でも変よね。
こいつがあたしのことを好きだなんて、わかりきったことだけど。こいつの方から手を繋いでくるなんて初めてだわ。しかも人前で。一昨日のこともそうだけど、一体どういうスイッチなのかしら。
ひょっとして、嫉妬してるとか?ナンパの数とか訊いてきたし。
どことなくくすぐったいような思いに、あたしは囚われた。そして、それを振り払おうと(だってバレたくないし)ゆっくりと頭を振って、周囲の様子に気づいた。
気のせいじゃない。あたしたちから微妙に距離を置いて、時折ちらちらと向けられる視線。
…何かしら。美男美女カップルが珍しいのかしら。
相変わらずだったはずの海が、あたしにとって違うものに見えてきた。

やや手前で手を離して、あたしたちはカメハウスのみんなと合流した。
嫌な気持ちはしなかった。だって、そこで手を離すってことは、こいつも意識してるってことだもの。…くすぐったいわよね。
「おいヤムチャ、おまえ何やったんだ?」
顔を合わせるなり、ウーロンが不審そうな顔つきでそう言った。
「何の話だ?」
「おまえ、噂になってるぞ。ナンパ野郎の間でよ」
こいつが噂?しかもナンパ?
「ヤムチャあんた、ナンパしたの?」
ひょっとして、それで様子がおかしかったのかしら。罪の意識ってやつよ。
あたしはヤムチャを思いっきり睨みつけた。当たり前よ。ナンパしたのも許せないし、それでご機嫌取ろうとしてたなんて、最低よ!最悪だわ!!
ヤムチャは目に見えて慌てた。それが余計に怪しかった。
「何言ってんだ!するわけないだろ、そんなこと!」
だったら何で慌てるのよ。堂々としてればいいじゃない。本当にこいつって嘘がつけないんだから。
「本当だって!だいたい、俺さっき来たばかりだし!なっ、プーアル。っていうか、おまえらみんな一緒にいただろうが!!」
プーアルは一も二もなく頷いた。
でもそれは、何の保証にもならなかった。だってプーアルはヤムチャの僕だし。こいつが何を言ったって、きっと一も二もなく頷くわよ。
一頻り揉めた後、ヤムチャは(一応は)身の潔白を証明した。
「と、いうわけで人違いだ」
何が『というわけ』なんだか。
ウーロンはなおも食い下がった。眉を寄せて、さらなるナンパ仲間情報を披露した。
「でもよう、風貌がそっくりなんだよな。黒髪でガタイが良くて拳法の使い手で、荒野訛りがあってガキのくせに生意気で。どう聞いたっておまえだろ」
あたしは思わず吹き出した。なんて見事な形容なの。ものすごく言い表しているわ。
確かにこいつ、この頃生意気だもの。ガキっぽいところはそのままなくせしてさ。
ヤムチャは苦虫を噛み潰した。『ガキ』に反応したのが明らかだった。でもこいつは大人ぶって、そこではないところを突いてみせた。
「俺、訛りなんてあるか?」
「さあねえ、そうでもないと思うけど。でも時々喋り方が独特なのは確かね。同年齢の男と比べればだけど」
何ていうか固いわよね、語彙が。語彙っていうか語尾っていうか、雰囲気?みたいなの。少なくともハイスクールに、こんな喋り方をするやつは他にいなかったわ。
あたしが言うとヤムチャは妙に納得したような顔をして、ウーロンに先を促した。
「で、どういう噂なんだ?」
「いい女と見るや横から手を出してくるってさ。『ナンパ荒し』って言ってたな」
『ナンパ荒し』?
何それ。どういう造語よ。
ナンパを荒らすわけ?こいつが?ケンカふっかけるとかかしら?確かにこいつ見た目はワイルド系だけど、中身はそうじゃないのに。それに『横から手を出す』って…
ああー!!
あたしの脳裏で、バラバラだったパズルのピースが組み合わされた。瞬間、あたしは笑い声を上げた。
「何だよ、ブルマ」
苦々しげに訊ねるヤムチャに、あたしはお腹を抱えたまま答えてみせた。
「あれよ、きっと。あんた、あたしを助けたじゃない。去年、ナンパに絡まれた時。3回も」
あれもナンパに含むのは許せない気もするけれど。とりあえずのところはね。
「わたしも助けてもらいましたわ」
ランチさんが横から言い添えた。あたしは確信した。
「じゃあ合わせて4回か。それはもう立派な『荒し』よ。こういうところの地元っていうのは、噂広まるの早いからね。きっとすっかり有名人だわよ」

ヤムチャはぶすったれた。片肘をついて、むくれた顔をその上に乗せて。口元は尖ってるし、眉は上がりっぱなし。もう30分以上もそうしていた。
初めはおもしろかったけど。そこまでしつこいと嫌んなっちゃうわよね。
「そんなに怒らないの」
あたしが肩を叩いても、まるで無視。
こいつ普段はあっけらかんとしてるくせに、こういう時だけしつこいんだから。だからガキだって言われるのよ。所詮噂なんだから、流しちゃえばいいのにさ。そんなもの、まともに取る方がどうかしてるわよね。
「ね、泳ご」
海って、そんな風に過ごすところじゃないわよ。もっと気楽にいきなさいよ。
あたしの言葉に、ヤムチャはぶっきらぼうに答えた。
「そんな気分じゃないよ」
あーもう本当、しつこい。
「あっそ。じゃあいいわよ、一人で泳ぐから。あの島まで行こっと」
あんたは一生そこで不貞腐れていればいいわ。でも、何かあったらあんたのせいだからね!
あたしは言って服を脱ぎ、さっさと水面へ歩き出した。やがてヤムチャが隣に並びかけた。
まったく、扱いやすいんだから。

ぬるい水の中ゆったりと体を泳がせると、ものの10分もしないうちにヤムチャの渋面は消えた。
そういう男よ、こいつは。しつこいところもあるけれど、所詮一過性のものなのよね。
そして、それは悪いことじゃない。っていうか長所よね。単純で結構なことだわ。…最も最近は、少しわからないところもあるけれど。
やがてあの島に泳ぎ着いた。
直径100mくらいの、草も木もない岩だらけの小島。中央部に、小高く盛り上がった岩場。そこから続く獣道。切り立った崖…
…微妙な気持ちになるかなって少しは考えもしたけど、案外そうでもないものだわ。ま、島に罪があるわけじゃないし。今年はナンパのマナーもいいし、きっとああいうやつらもいな…
…あ。ひょっとして、ヤムチャ効果なのかしら。
ナンパが長引かないのも、わりとあっさり引いていくのも、あいつに入り込まれることを避けてのことなのかも。辻褄は合うわよね。
ふーん、なるほどねえ。
あの崖の切っ先に、足を投げ出して座った。見晴らしいいのよね、ここ。すごく夕陽がきれいだったわ。そうだ、それと…
あたしは崖下を覗き見た。修行場所の崖よりは低いわね。
「マシュマロ持ってくればよかったかな」
今日は飛び降りる必要ないけど。リベンジしてみるのもありだったかも。
あたしの呟きに、ヤムチャが小さく笑った。いつの間にかあたしの隣に座っている。
ヤムチャはあたしの顔を覗きこみながら、おもむろに口を開いた。
「おまえさあ、ここに来て平気なのか?普通、避けたりするもんだろ」
あ、やっぱりあんたもそう思う?あたしもそう思ったのよね。
だけど実際平気なんだから、しょうがないわよね。まあ、結局は無事だったわけだし。それに今年は…
「あんたがいるから平気よ」
噂もまんざら捨てたもんじゃないわよね。

こいつ気づいてないだろうなあ。自分が防波堤になってるなんて。言ったら喜ぶかしら。それともまた不貞腐れるかな。
あたしは考えた。ヤムチャの顔を見ながら。ふいに一昨日のことを思い出した。あの読みきれなさを。
その時、ヤムチャがあたしの頬に触れた。

…ほらね、また。
やっぱりわからない。どうしちゃったの、こいつ。
何でいきなりそうなるの?何で急に大胆なの?
「あんた、どう…」
一体どういうスイッチなわけ?

優しく触れる掌とその唇を、あたしは拒まなかった。だって、そうしたいわけじゃないんだもの。
ただちょっと。そう、ただちょっと…
…悔しいだけよ。




少しお尻痛くなってきちゃった。
相変わらず崖の端に座り込んでいたあたしは、肩の上に置かれた大きな手を見つめた。
…またあとでやってもらおっと。
あたしがその手に触れると、ヤムチャがふと視線を寄越した。あたしはにっこり笑ってみせた。あいつは軽く笑みを返した。優しい笑顔。なんか、かわいい。
「あたし、あの場所行ってくる。また何か見つかるかもしれないから」
言いながらあいつの腕を外した。だって、やっぱり見抜かれたくないし。
…本当に、このくすぐったさ、どうにかならないものかしら。


あたしたちのいた場所から数十m離れた、僅かな岩の平地。そう、あのレアメタルの穴場。
夢の中からそこへ向かう途中で、あたしはその聞き捨てならない台詞を聞いた。
「間違いないって。あの女だぜ。それにあの男…」
穴場の奥、小山然とした岩陰の向こう側。ちらちらと見え隠れする派手派手しい色の頭が3つ。
「まさかカップルだったとはな」
「早く帰ろうぜ。あいつら絶対ヤバイって」
あたしはピンときた。こいつら、ヤムチャの話してる。髪色、声音、この如何にもなナンパの風体、間違いないわ。
「ちょっと!それどういうことよ!!」
それはいい。それは全然構わない。
「何よ、あいつらって。ヤムチャはともかく、何でそこにあたしが含まれるのよ!!」
濡れ衣もいいところだわ!!
あたしは1人を岩陰から引きずり出した。そして問い詰めた。
問い詰めて、問い詰めて、問い詰めて…
「どうした?ブルマ」
背後でヤムチャの声がした。
「あ、ヤム…あっ!!ちょっと待ちなさいよ!!」
あたしがヤムチャに一瞬気を取られた隙に、男たちは逃げて行った。
悔しがるあたしと逃げ行く男の背を交互に見て、不思議そうにヤムチャが言った。
「一体どうしたんだ?」
って、あんた鈍すぎ!少しはこの異常な空気を感じ取りなさいよ!!
「あいつらあたしのこと美人局だって言うのよ!!何なのよその噂は!!」
あたしがそう叫んでも、ヤムチャの反応は薄かった。ふと顎に指を当て、考え込むような仕種をしただけだった。だから、あたしは言ってやった。
「そしてあんたはその共謀者よ!」
ヤムチャが目を丸くした。
「何でそうなるんだ」
「知らないわよ、そんなこと」
あたしたちは2人、見つめあった。


岸壁の上。蒼天の下。波間に光。海猫の鳴き声。あたしの肩にあいつの手。
再び2人、崖の切っ先に並んで座った。そして2人同時に溜息をついた。
「噂なんていい加減なものよね。あたしたち、こんなに平和なカップルなのに」
「まったくだ」
あたしたちは珍しく、意見の一致をみた。
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