潜る男
週に一度ドアを開けるだけだったその部屋に、あたしは一歩を踏み入れた。
カーテンの掛かっていない窓。止まったままの時計。クロゼットには、プレスされたまま袖を通されていない服。もうずいぶん長いこと使われていなかったベッド。
いつものように掃除ロボットをオンにして、いつもとは違った気持ちで、あたしはその部屋を眺め回した。
いまいちピンとこないのよね。
出征していた恋人が帰ってくる映画とかあるけど、あたしたちの場合はそれとも違うし。だって会ってたもの。
たぶん遠距離恋愛ってことになるんだろうけど、絶対一般の感覚とは違うわよね。だいたい住所不定(そういう時期があったわ)の場合、それに該当するのかしら。
別に帰ってきてほしくないというわけじゃない。会いに行く手間省けるし。余計な時間も取られなくて済むってものよ。
でもやっぱり、ピンとこないのよね。
一週間後にはあいつがここにいるなんて。


夏も始まったばかりのある夜。体から潮の香りを追い出して、あたしはカメハウスのあいつの部屋の窓辺にいた。
隣には、その日一日修行をサボった男。そのせいか、どことなく空気が緩んでいたように思う。
「ねえヤムチャ、あんたそろそろ髪切らない?」
あたしが言うとヤムチャは虚を突かれたように押し黙って、一瞬あたしを見つめてから、手元のミネラルウォーターに目を落とした。
「まだいいだろ」
素っ気なく答えるあいつの髪に当てた指の隙間から、あたしは弄ぶ髪の一房を掬ってみせた。
「でもボサボサよ。せめて整えないと」
気になってたのよね。昼間、海で見てからずっと。
乾いてる時はまだいいけど、濡れるとちょっとひどいわよね。こいつの髪って、伸びると変にカールするし、量は多いし。もっとマメにカットしなきゃダメなのに。実はすでにチェック入れてるヘアスタイルがあるのよ。前時代の俳優のしてる髪型なんだけど、これがなかなかイケて…
脳裏に現れた暫定的な恋人の姿は、本物の恋人の声によって掻き消された。
「帰ったら切るよ」
それは完全に不意打ちだった。あたしはさんざんその台詞を咀嚼して、芸もなくそのまま言葉を返した。
「…帰ってくるの?」
こいつが帰ってくる場所といったら、1つしかない。…はずよね。
「秋になったらな。そろそろ3年経つし」
再び言葉を咀嚼した。…もう3年経っちゃったか。
なんて思ったはずはない。
そんなこととっくに気づいてた。いつ言い出してやろうかと考えてたのよ。
でも、こいつの方から切り出してくるなんて、思ってもみなかった。だって、こいつって…
窓の外に広がる、夜の闇を見た。そしてヤムチャの髪を見た。帰ってくるのか。
…ふぅん。


それが3ヶ月も前のこと。
もう夏は終わっていた。少なくともあたしにとっては。
鏡の前でタイを結んだ。あたしには少し太すぎるブルーのタイを。
うん、やっぱりこのジャケットにはこのタイだわ。
それはヤムチャのタイだった。武道会に行く時つけるんだとか言ってたけど。武道会なんてまだ先のことだし、いいわよね。
要するに、あたしはそれを黙って拝借してきたのだった。だって、やっぱりこのジャケットにはこのタイだし。今日はこのジャケット着るって決めてたし。
いつもより少しだけ気取った服装で、あたしは学院へと向かった。
夏休みは終わったのだ。

学院へ行くと、今や先輩から同期へと変わった(全科目スキップしたわよ)ディナが、パンダになっていた。…いえ違う、逆パンダか。
「どういうオイルの塗り方したら、そんな風に焼けるわけ?」
まあ、塗り方はわかるけど。一体どうしてそんな風に焼いたわけ?
呆れ以外の何物をも含まないあたしの質問に、ディナは苦々しげに答えた。
「スキー焼けよ」
「スキー?」
全然ピンとこなかった。そういうウィンタースポーツを自分がやらないってこともあるけど。こんな季節にそんなところへ行ったわけ?
夏は海でしょ。白い砂浜でしょ。普通、そうよね。
あたしが言うと、ディナはまたもや意表をつく言葉を吐いた。
「拉致されたのよ。こうるさい男にね」
「あんた彼氏いたの!?そんなこと一言も言わなかったじゃない」
「あんたが訊かないからよ」
何ですって。
普通、ひとに訊いた時は、自分も話すもんでしょ。…まったくあたし、甞められてたのね。
「どんな彼氏なの?」
「だから、こうるさい男よ」
あんたね。
そう思いつつも、あたしは反芻した。『こうるさい男』。どこの彼氏も同じね。男なんて本当、みんなこうるさいんだから。あいつは扱いやすい方だとは思うけど、それでも時々こうるさいわ。
それがきっかけだった。あたしたちは互いの彼氏の『こうるささ』について、存分に話し合った。こういう話って本当に盛り上がるわよね。自慢話よりよほど盛り上がるわ。
罵詈雑言も出尽くした頃、ディナが言った。
「いいじゃない。あんたたちは離れてるんでしょ。会おうと思えば会える程度に離れてるなんて最高じゃない。一緒にいなきゃ死ぬわけでもなし、男なんて離れてるに越したことないわよ」
あたしは思わず目を丸くした。
すごい恋愛観。初めて聞いたわ、こんなこと。
「何言ってるの。傍にいた方がいいに決まってるでしょ」
別にあいつと四六時中一緒にいたいというわけじゃないけど、そうに決まってるわよね。一般論的にも。
あたしの意見に、ディナはまったく反対のようだった。ふと頬杖をつくと、飄々と言い放った。
「じゃあ訊くけど、あんたは徹夜明けの日に彼氏と会いたいと思う?」
これには完全に言葉に詰まった。
「論文の締め切りが迫ってる時に踏み込まれたい?」
「いちいち顔色チェックされたいわけ?」
なるほど。
個性の問題でもあるんじゃないかとは思ったけど、それでもディナの言葉には説得力があるように思えた。あたしは最後の牙城を崩してもらうべく、その質問を口にした。
「じゃあ、どうしてあんたは実践しないのよ」
ディナの答えは簡潔だった。彼女はわざとらしく諸手を上げてみせた。
「そううまくはいかないのが、現実の厳しいところよ」
…やっぱりね。


あいつが帰ってくる3日前になって、C.Cのフリーザーが異常に充実し出した。
「ヤムチャちゃんとお食事するの久しぶりね。楽しみだわん」
そう言って、母さんが山のように食料品を買い込み始めたからだ。
あいつはそんなに食べないわよ。孫くんじゃないんだから。
あたしはそう言ったのだけど、母さんの熱を冷ますことはできなかった。それどころか、こんなことを言われた。
「ブルマさんてば冷たいんだから」
そういう問題じゃないでしょ。
プーアルはあいつのベッドを調えだした。気、早すぎよね。だいたい、そんなのメイドボットにやらせればいいのに。
てっきりプーアルはあいつを迎えに行くものだと思っていたのだけど、そうはしないみたい。それはするなと言われたとか。あいつも本当、格好つけなんだから。
あたしはというと、なんとなく白けた気分で、みんなの高揚ぶりを眺めていた。
どうしてそんなに大騒ぎするのかしら。当たり前のことなのに。
あいつはもともとここの人間なんだから、ここに帰ってくるのは当然でしょ。何にも特別なことなんかないわよ。
ねえ。


その日は、研究室の飲み会だった。
飲み会といっても、あたしは飲まないけど。未成年だし。でも参加はする。夏休みが終わって初めての会だし、みんな同好の人間だからそこそこ実もあるし。一番の理由は、上級生には逆らえないってことだけど。
下級生の務めを最後まで全うして、C.Cに帰り着いた頃には、ほとんど朝になっていた。
未だ陽の昇らない暗い空を見上げた。漆黒の闇。あいつの髪の色。明日…いえ、もう今日ね。あと数時間後には、その髪が明るい空に映えているはずだ。
でも、やっぱりピンとこないのよね。
…あいつ、本当に帰ってくるのかしら。
あいつはこの都が――いえ、こういうネオンの光り輝く場所が、嫌いなんだと思ってた。だって、あいつの選んだ修行場所って、いっつも何もないところだったし。山とか崖とか森の中とか、そんなところばかりだったし。
カメハウスだって、わりと辺鄙なところにあるし。いつもそんなところで、修行修行しか言わなくて。
都に連れてきたばかりの頃に少しは都会人っぽくさせたつもりだったけど、ほとんど戻っちゃってるし。
今から「やめた」って言われてもきっと驚かないわ。…怒るけど。
シャワーを浴びて、体から眠気を追い出した。窓の外に広がる朝靄をぼんやりと眺めているうちに、あたしは1つ思い出した。
あいつのタイ。
あいつが帰ってきたら、気づかれる前にバッグの中に入れておこう。
あくまで1人で帰ってきたがる格好つけのあいつのことだ。おろしたてのタイで出陣、とか考えそうなことよね。あたしが一番に使ったって知ったら(少しは)怒るかも。…いくらなんでも、初っ端からそんなくだらないケンカはごめんだわ。
皺にならないよう慎重にそれを丸めて、あたしはタイをポケットに入れた。

絶対そんなに食べないって。賭けてもいいくらいだわ。
思わずそう呟いてしまったほどの量の料理が、テーブルに並べられていた。
そもそもメニュー偏りすぎ。何でデザートのパイが5種もあるわけ。
あまりにもマイペースな母さんの気合いの入り方にあたしはまったく呆れながら、クッキーを1つ抓んだ。製作者がそれを見咎めた。
「ブルマさんたら抓み食いしちゃダメよ」
「だって、あいつ来ないじゃない」
そう。
約束の時間になっても、ヤムチャは帰ってこなかった。
本当に、いい加減なんだから。格好つけるなら、ちゃんときっちりつけなさいよ。そんなことしてるから、みんなに軽んじられるのよ。
パイを切り刻みかけたあたしに、再び声がかけられた。
それは咎めではなかった。1本の電話があたしの応答を待っていた。

あたしにも、あいつの間の悪さが移ってきたみたい。
学院の教授室のドアを慇懃に閉めながら、あたしは溜息をついた。
何もこんな時に呼び出さなくたっていいのにね。いい話とは言ってもさ。
スキップ試験のために書いた論文が、予想以上に認められた。…教授に。それでそれを学術誌に投稿しろと言うのだ。修正を入れて。
まったく、面倒くさいったら。だいたい何でわざわざ呼び出すわけ。自分の出張の都合に、他人を合わさせないでほしいわね。そんなもの後回しでいいっつーの。
あたしは空を仰いだ。
すっかり陽が暮れていた。

学院からC.Cに戻っても、あいつはまだ帰ってきていなかった。
一歩を踏み入れた途端にわかった。帰ってきてる痕跡がないし、賑やかさの欠片もなかったから。
あたしは誰とも顔を合わせず、まっすぐに自分の部屋へと向かった。何だかバカバカしくなってきちゃった。
論文修正でもやるか。

赤ペンだらけの論文を前にして、あたしのキーを打つ手は動かなかった。
頭が働かなかった。あいつのことを考えてたから?まさか。難解?そんなわけないでしょ。
寝てないからよ。睡魔こそやってはこないけど、昨夜は一睡もしていない。これで頭が働くはずないわよね。
あたしは未だ無人のヤムチャの部屋へ行ってみた。どうしてかって?…頭が働いていないからよ。そうじゃなければ、あいつの部屋へなんて行くはずないわ。
あたしはあいつが出て行ってから初めて、その部屋に一歩以上を踏み入れた。…そう。
あいつがここから消えてから、あたしはこの部屋に入ることはなかった。ただ週に一度、ドアを開けて掃除ロボットを放り込んでいただけ。
だって、そういうのって嫌だもの。
誰かがいなくなった後にさ。恋人がいなくなった後にさ。あいつがいなくなった後にさ。そういう時にそういう場所へ行って、感傷に耽るとかさ。そういうのって、大嫌い。まったくメリットないわよね。
それに、あいつとは時々会ってたから、そんなに淋しくなかったし。もとより感傷自体がなかったわけよ。
あたしは部屋の真ん中に立ってみた。そしてぐるりと見回した。
開け放たれた窓。翻るカーテン。動き出した時計。メイキングされたベッド。クロゼットの中で持ち主を待っている服。
…あいつ、本当に何やってんの。
待たされすぎて、欠伸が出てきた。あたしは、ベッドの隅に腰を下ろした。
そして、皺にならないよう、タイをポケットから取り出した。








「おいブルマ!おい起きろ!」
あいつの声が聞こえた。あたしは重い頭を持ち上げた。
ベッドの上、やっとの思いで半身を起こしたあたしの目の前に、座るヤムチャの姿があった。その顔を見た瞬間、あたしは思った。
…本物かしら。
起こされる夢を見たこと、あるのよね。あの時も、起こしていたのはこいつだったわ。
夢だったら。もしこれが夢だったら、きっとここで何か言うはず…
そうね、例えば「好きだ」とか。ありえないことが次から次へと起こるものね、夢って。
あたしが黙って見ていると、ヤムチャは何も言わずにあたしを引き寄せ、あたしの唇に口づけた。
この無骨さ。強引さ。…そして、甘さ。
…本物だわ。
ヤムチャの首に腕を回した。そして、頭の後ろを撫でた。
うん、このボサボサ具合、確かに本物だわ。
「あんた、遅いわよ」
あたしが言うと、ヤムチャは微かにその口元に笑みを浮かべた。
何、その態度。
ここは謝るところでしょ。なのに何で、笑ってんの。
髪を弄っていた手を拳にした。そして一発、小突いてやった。そうしたら、ヤムチャはさらに笑みを増した。
「ただいま」
ほとんど満面の笑顔。
こいつ、だんだんふてぶてしくなってきたわね。…何だか、うるさく言われるより腹立つわ。

壁を背にベッドの上に座るあいつの横に並びかけようとして、あたしは気づいた。
…ヤムチャのタイ。
ポケットから出したまま、忘れていた。それはあたし自身の体にプレスされて、ベッドの上に転がっていた。
またこうるさいこと言われるわね、きっと。
覚悟と共に反論を考え出したあたしを横目に、ヤムチャはそれを拾い上げると、2、3撫でつけてクロゼットにしまい込んだ。
怒らないのかしら。ま、その方があたしはいいけど。
再びベッドに座り込んで、ヤムチャがあたしの顔を見た。まるで覗き込むように。何かついてるのかと問いかけて、あたしは口を噤んだ。
…あたし、徹夜明けだったわ。
ディナの言葉を思い出した。
徹夜明け。論文。顔色。…フルコンボじゃない。
でも、別に嫌じゃない。
やっぱり個性によるのよね。ディナの彼氏が問題なのよ。
こいつにだって、こうるさいところはあるけど。でも時々だし。基本的には扱いやすい男よ。
そして、それがこいつの最大の取り柄よ。


いつの間にかあたしは眠ってしまった。…らしい。
2日分の睡眠を貪ってすっきりと目を開けた。捲り上げた布団から、一枚の紙が落ちた。自分しかいない部屋の中で、あたしはそれを拾い上げた。あいつからの伝言が、そこに書かれていた。
『北の森に行ってくる』
その文字を目にした瞬間、あたしの中に眠っていた本音が目を覚ました。

ちょっとお!!
何よ何よ何よ。
甘えんじゃないわよ。あんた、あたしを甞めてんの!?
あたしはあんたが3年って言うから我慢してあげてたのよ。女神様のような広ーい気持ちで、接してあげてたのよ。
それが何?今度は自分で修行!?
…あんたまさか、このまま一生修行していくつもり?

あたしは布団を撥ね上げた。次の行動は決まっていた。
だって、あいつの取り柄はそれだけなんだから。それだけは失わせないようにしないと。それにまだ髪も切ってない!あんなみっともない格好でウロウロされちゃ困るわ。
「ヤムチャのバーカ!!」
あたしは駆け出した。
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