堕とした男
ヤムチャのやつ、一体どこにいるのよ。
行き先教えるなら、もっと正確に教えなさいよ。本当にいい加減なんだから。
あたしは論文を仕上げなきゃならないのよ。だからさっさと見つかりなさいよ!

忌まわしい記憶の残る北の森。そこにあたしは、やっぱり今日も忌まわしい想いを抱えてやってきた。
否が応でも甦る、あいつを探して駆けずり回った日々。そしてまた…
本当にね。考えなしも度を越えると嫌味よね。それともわざとやってるわけ?
暮れなずむ東の空に月の姿が浮かび上がるのを認めて、あたしは溜息をついた。あたしは一般人よ。夜目は利かない。…生命反応探知機も装備しなきゃダメかしら。
今日はここまでかな…
諦めと共にエアジェットの操縦桿を引いた。その時、遠くに花火が上がった。
いえ、花火とは少し違う。どちらかというと照明弾に近い。音はなく四散することもない光の塊。
一体それが何なのかあたしにはさっぱりわからなかったけど、それを使用した人間の目星はついた。こんな辺鄙なところ、あいつ以外に人なんかいるもんですか。
とっ捕まえてやるわ!首根っこ掴んで引き摺り戻してやるわ!
ひとの気も知らないでさ。やり方が汚いわよ。寝ている隙に出て行くなんて。だいたい普通、帰ってきたその日に出て行かないでしょ。あいつは本当に女心ってものを…
再び光が閃いた。
あたしの意識はそれに吸い込まれた。








「う…」
遠くに自分の声を聞いた。それであたしは目を覚ました。
…『目を覚ました』?
まったく、わけがわからなかった。
あたしはベッドの中にいた。見覚えのあるベッド。見覚えのある天井。見覚えのあるカーテン。見覚えのある部屋。
あたしがあいつにあげたカプセルハウスだ。それもあいつの部屋。間違いない。
ぼんやりとした頭で考えた。 
…また夢かしら。
だって、あたしはまだあいつに会っていない。眠気を感じた覚えもない。ましてやベッドに入った記憶なんて。
あたしはエアジェットに乗っていた。あいつを探していた。…そこまでは覚えている。そうだ、花火を見たわ。少しおかしな花火だったけど。
耳が痛い。頬も。まるで焼けるよう…
それで、夢じゃないと気づいた。夢なら痛いはずがない。例え怖いことはあっても。
ゆっくりと体を起こした。床に足を下ろしかけて、あたしは我が身を疑った。
あたしはバスローブを身に着けていた。…バスローブだけを。その下は…
…裸。
「どういうこと?」
思わず口に出した。
何これ。一体どういうこと?服はどうしたの?
あたしは絶対、脱いでない。脱いだ記憶もないし、今までに記憶もなく脱いだことだってない。お酒だって、飲んだことはない。
…脱がされたの?
それしか考えられない。だって、あたしは脱いでない。他に考えられない。
…誰が脱がせたの?
混々としたまま、あたしは立ち上がった。服。あたしの服はどこにあるの?…どうなったのかしら。
床やソファの上には何もない。…ゴミ箱にだって入ってない。あたしはクロゼットの中を引っ掻き回した。まったく何も見つからなかった。この部屋を出ることに決めた。ドア横のコンソールに手を伸ばして、それを操作しようとした時、ドアが開いた。見覚えのある人物がそこにいた。
黒髪黒瞳の家出男。目を丸くしてあたしを見ている。
「おまえ!まだ寝て…」
「嫌!」
最悪!
たぶんそうだろうとは思ったけど。ここにこいつ以外の人間がいるなんて、考えられなかったけど。
「あんただけ?」
おそらくそうに違いないと思いつつも、あたしは訊いた。最後の望みよ。
「あんただけなの?ここにいるの」
ヤムチャは飄々と答えた。
「そうだけど」
「バカ!!」
瞬時に手が出た。もう何も考えられなかった。
あいつの左頬を殴ったその手で、ドアのコンソールを叩いた。開くと同時に駆け出した。エントランスに据え付けられたボックスから、エアクラフトのカプセルを取り出した。
「おい、ブルマ!」
背後から怒鳴るようにかけられたその声にも、あたしは振り向かなかった。


最悪。
…の風邪に、翌日あたしは見舞われた。
何が最悪って、その理由よ。バスローブ一枚で数100kmもの逃避行。風邪を引かないわけがない。でも、こんなこと誰にも言えやしない。…C.Cに帰り着いたのが夜中でよかった。
犯罪行為を犯されたわけじゃないことはわかってる。そんなの自分ですぐにわかるわ。そもそもそんなことを疑っていたわけじゃない。そんな風に思える人間と付き合ったりはしないわよ。…一応確かめはしたけど。
でも、それが何だっていうのよ。何の免罪符にもなりゃしないわ。
あいつ、一体何してたわけ?どうしてあたしはあんな格好にされたわけ?そもそも、どうしてあそこにいたわけ。
ドアが開いた。父さんと医療ロボット、そして1人の医師がそこにいた。

外科医の診察を受けながら、あたしは父さんの話を聞いた。あたしの疑惑を解消するはずのその話は、余計にそれを深めただけだった。
「凍傷…」
あたしが?
「湖に…」
落ちた?
…どうしてそうなるわけ。
湖なんて、あたし行ってないし。だいたい、どうして落ちたわけ?
あいつも連絡したのなら、もっとちゃんと説明しなさいよ。本当にいい加減なんだから。
そう、父さんは伝え聞いたにすぎない。事の発信源はヤムチャだった。
そりゃそうよね。あいつの他に、このことを知っている人間がいるとも思えないし。でも、だったら、もっと正確に教えなさいよ!
だいたい、何であいつは来ないのよ。あたしがそんな目に合ったって知ってるくせに。
…たぶん助けてくれたんだろうけど。でもそんなの、何の免罪符にもならないわ。普通、帰って来るでしょ!彼女がそんなことになってるってわかってたら。…あいつは追いかけても来なかった。
うんざりするほど耳と頬を弄くって、医師の診察は終わった。結果は異常なし。ただし翌日再診。…凍傷って面倒くさいのね。
医療ロボットの吐き出す解熱剤をサイドテーブルに置いて、去り際父さんが言った。
「そうそう、ヤムチャくんが後で来るって言ってたよ」
「…会いたくないわ」
あたしはベッドに潜り込んだ。

それを目にした瞬間、あたしは頭から布団を引っ被った。呟くような声が布団越しに聞こえた。
「おい、ブルマ…」
ベッドの脇に腰を屈めて、ヤムチャがあたしを覗きこんでいた。あたしが眠っている隙に、部屋に入り込んでいたらしい。あんたねえ!いくらロックがかかってないからって(病人だからかけないわよ。何かあったら困るでしょ)、女の部屋に勝手に入らないでよ。
でも、今はそんなこと言ってる場合じゃないわ。
「出てってよ」
布団の中でさらにそっぽを向きながら、あたしは言った。ヤムチャの声を意識から追い出すよう努めながら。その努力にも関わらず、耳には届き続けた。淡々としたあいつの声が。
「ごめん。あんなことになるとは思わなかったんだ。誰もいないと思ってさ」
「もういいわよ」
全然よくないわよ!!
そうよ、全然よくないわ。
でも、あたしはそうは言わなかった。こいつとそんなこと話したくなかった。正直、ヤムチャの言ってることはよくわからなかったけど、それすらもどうでもよかった。
「本当にごめん。…あの、一応言っておくけど、俺何も…」
「うるさい!!」
黙ってよ!
悪いと思ってるんなら黙ってよ!言い訳なんか聞きたくないのよ!
こいつ、いつもは何にも言わないくせに、こんな時だけ何なのよ。しつこいったらありゃしない。
「ブルマ…」
「出てって!」
あたしはあんたに会いたくないのよ。あんたと顔合わせたくないのよ。あんたと顔合わせられないのよ。それくらいわかりなさいよ。この鈍感!!
さらなるあたしの怒声に、ヤムチャは一瞬黙った。そして再び、しつこくその言葉を繰り返した。
「とにかくごめん。…話はそれだけだ」
あいつの足音が遠ざかっても、あたしは布団から出なかった。


翌朝、医師が再びやってきた。その時、あたしはベッドの中にはいなかった。
熱はすでに下がっていた。あたしは論文修正の手をとめて、医師の診察を受けた。結果は異常なし。ただし2日後また再診。…本当に凍傷って面倒くさいわ。それもこれも、みんなあいつのせいよ。
学院へ行く支度をすっかり整えて、あたしはキッチンへと向かった。一杯のコーヒー。それで、このくさくさした気持ちを流してしまいたかった。
いつにも増して苦いコーヒーを、あたしは啜った。そこへヤムチャがやってきた。いつもの道着姿。額に汗が滲み出ている。
…あんた、どうしてまだここにいるのよ。
この前は、あたしが寝ている隙に勝手に出て行ったくせに。どうしてこんな時に限っているのよ。しかも平然と修行なんかしちゃって。そんなに修行がしたいんなら、さっさとどっか行けばいいでしょ。
そう言ってやりたかった。でもできなかった。…今はまだあいつの顔を見られない。
「おまえ、もう…」
ヤムチャが何か言いかけた。あたしは一口啜っただけのコーヒーカップをシンクに突っ込んだ。
そして、C.Cを後にした。


「ああ、もう!」
思わず怒鳴りつけた。パソコンに向かって。学院の研究室で論文修正に励んでいたあたしは、遅々として進まないその作業に、心底イライラしていた。
どうしてこうなるわけ?あたしは被害者なんだから、もっと堂々としてていいはずなのに。今さら何であいつを意識しなきゃならないのよ。まったくバカげてるわよね。でもどうしようもないのよ。
許せないのよ、あの状況が。どうしても許せない。
…あたしって、意外と潔癖症ね。
キーを叩く指は完全に止まっていた。怒りが得体の知れない何かに姿を変えだした頃、それまで隣で素材の仕込みをしていたディナが、器具の洗浄を始めた。
「あんた、もう帰っちゃうの?」
もう少し付き合ってよ。今は誰かと話していたい気分なのよ。
「今日は拘束される日なのよ」
素っ気ない口調とは裏腹に、ディナは笑っていた。
…デートか。
治まりきらない心の中で、あたしの思考は一瞬飛んだ。
…いいな。デートなんてもうずいぶんしてないな。
だって、あいつはずっと修行してたし。そりゃ時々会ってはいたけど、あんなの全然デートじゃないし。
帰ってきてからだって、そんな話全然出ないし。っていうか、それどころじゃないし。だいたい話すことすらほとんどしてないんだから…せっかく帰ってきたっていうのに。
あたしの思考は完全に論文から遠ざかっていた。溜息をつきながら、あたしは視界からもそれを遠ざけた。

結局、ずいぶん早めに、あたしは学院から帰ってきてしまった。
これ以上あそこにいたって、全然仕事にならないし。今日はもう諦めたわ。
C.Cのゲートを通り抜けて、あたしは気づいた。ホールの出口にあいつがいる。
あんた、どうしてそんなところにいるのよ。さっさとどっか行っちゃってよ。…いなくなるまで待とうかしら。
そこまで考えて、あたしは自分自身に憤慨した。
何でそうなるのよ。あたしは被害者なのよ。小さくならなきゃいけないのは、あいつの方よ!
平然を心に誓って、あたしは歩き出した。ヤムチャが駆け寄ってきた。何でよ。何でこっちに来るのよ。
あたしは思わず目を伏せた。…やっぱり、顔合わせられない。
無言であいつをやり過ごした。あいつは何も言わなかった。ホールへ一歩を踏み入れて、あいつの足音が聞こえないことを確認し、あたしは振り返った。あいつは外庭へ向かっているようだった。
…また修行か。
どこにいても、修行、修行。あいつ、あんなこと一生やっていくつもりなのかしら。まったく理解に苦しむわ。だいたい今度のことだって、その修行が原因なのに。
部屋に着くなり、寝室に直行した。ベッドに体を投げ出し、目を閉じた。
脳裏から、あいつの顔を追い出したかった。

小一時間ほど惰眠を貪って、少しだけあたしの気分は回復した。コーヒーを飲んで、論文に手を着けよう。そう思える程度には。
その前に、篭った部屋の空気を入れ替えようと窓際へ近づいたあたしの目に、それが入った。
ポーチの側面に、一機のエアクラフト。それに向かう黒髪。…あいつ、何してんの?
あたしは駆け出した。自分でもわからないままに、そうしていた。
ポーチから僅かに一歩、外へ足を踏み出した。あいつは、さして多くもない荷物を、機内に放り込んでいるところだった。
やっぱり、顔は見られなかった。でも一言をかけることはできた。
「…どっか行くの?」
あたしの声に、ヤムチャの動きが止まった。数瞬の間があいた後、ヤムチャは振り向きもせずに言った。
「修行だよ」
…修行?また?
あたしは黙った。言葉が出てこなかった。
ヤムチャはやっぱり振り向かずに、そして何も言わぬまま、タラップへと足をかけた。
その服の裾を、あたしは引っ張った。
その顔は見ずに。

だって、やっと帰ってきたのに。また行っちゃうの?また何も言わないで?

ヤムチャが振り返った。あたしは思わず目を逸らした。…だって、やっぱり顔見られない。
裾は掴んだまま、目を背け続けるあたしの耳に、大きな吐息が聞こえた。
ヤムチャがあたしの手を裾から外した。あたしの手は宙に浮いた。…一瞬だけ。


ヤムチャに手を引かれて、あたしはその部屋へと行った。あいつの部屋。再びあいつのものとなった部屋。
ゆっくりと、ヤムチャが壁を背に床に座り込んだ。あたしはその隣に座った。少しだけ距離をおいて。
なんとはなしに体を丸めた。両足をへの字に立てて、両腕でそれを抱え込んで。そしてちょっぴり顔を伏せた。
変よね。あたしがこんな風に縮こまらなきゃならない謂れなんてないのに。もっと堂々としてていいはずなのに。縮こまらなきゃならないのは、こいつの方のはずなのに。
でも、自分でもどうしようもないのよ。
やがて、ヤムチャが話を始めた。今回の事故の話を。そして最後にまた言った。
「ごめんな」
あたしは一瞬あいつの顔を見て、それを心の中で突っぱねた。
違うのよ。
謝ってほしいわけじゃないのよ。そういうことを知りたいわけじゃないのよ。そうじゃなくて…
そうじゃなくて…何なのかしら。
あたしにはわからなかった。望んでいるのにそれがわからないなんて、おかしいわよね。でもしょうがないのよ。
あたしは何も言わなかった。何も言えなかった。再び目を伏せた。
ふと、気配が近づいた。あたしは視界の片隅にそれを見た。
柔らかな瞳。差し出される掌。
それは優しく優しくあたしの髪を撫で始めた。あたしは黙ってそれを受け入れた。
ヤムチャがあたしの額の髪を掻きあげた。そしてそこに優しくキスした。その一連の動作の中で、あたしには1つだけわかったことがあった。

…こいつ、あたしのこと子ども扱いしてる。
あんた、あたしの裸見たくせに。それでも子ども扱いするわけ?
失礼しちゃうわね。

でも、あたしはそれを言わなかった。
だって、今日のあたしはおかしいんだもの。…でも、今日だけよ。


明日からはこうはいかないわ。
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