切られる男
髪を掬う優しい掌。肩に置かれた大きな手。
それらを後半身に感じながら、あたしはヤムチャの胸の鼓動を聴いていた。
こんな風に2人でゆっくりするのって久しぶり。こいつの修行中は、いつも誰かがいたり何かがあったりして、雰囲気ってものにまるで恵まれなかったから。
でも、これからは違う。あたしたちはもう誰にも邪魔されずに、甘く静かに恋人としての時を刻むのね…
「ねえ、それでどんな髪型にする?」
その胸元から僅かに顔を離して、軽やかにあたしは声をかけた。あいつは重々しく答えた。
「やっぱり切るのか…」
顔を上げてヤムチャを見た。それまであたしの頭を撫でていた手はいつしか止まり、その眉間には皺が寄せられていた。
「やっぱりって何よ。そういう約束でしょ」
「う〜ん…」
瞼を落とし、何やら神妙に唸ってから、ヤムチャは言った。
「もう少し伸ばしたいんだけど」
「それ以上伸びたら山親父になっちゃうわよ」
即座にあたしは切り捨てた。だって本当のことだし。もともと長いのなら別だけどさ、短髪の伸びかけって最悪よね。髪型も何もあったもんじゃないわよ。しかもこいつ、時々自分で鋏入れてたらしいし。中途半端に格好つけてないで、ちゃんとカットしとけっつーの。
「う〜ん…」
ヤムチャは再び唸った。そしておずおずとその台詞を吐いた。
「じゃあさ、来月にしないか?おまえもいろいろ忙しそうだし、俺も帰ってきたばかりだし」
往生際悪すぎ!っていうか、あんた。
「どうして切るのを嫌がるのよ!?」
「おまえこそ、どうしてそんなに切りたがるんだ」
みっともないからよ!!
あんたは顔はいいけどね、何もしなくても光るほどの玉じゃないのよ。ちゃんと手入れしなくちゃダメなの!!
その言葉は呑み込んだ。別に言ったっていいんだけど、あたしには少し思うところがあった。
こいつ、前に髪を切った時はおとなしく従ったのに。確実にふてぶてしくなってるわ。一筋縄じゃいかないというには程遠いけど、こっちもそれなりに対処していかなきゃダメね。
不満の色も顕なあいつの瞳をつぶさに見て、あたしは矛をおさめてみせた。
「わかったわよ。もういいわ。でも明日は付き合ってよ。服買い直しに行くんだから。あんたがダメにしたんだからね」
事故の時着てた服よ。弁償しろなんてケチなことは言わないけどさ、それなりに落とし前はつけてもらわなくちゃね。…それに、連れ出してしまえばこっちのものよ。
今度はヤムチャは文句を言わずに了承した。…溜息をつきながら。おまけに頭まで掻いちゃって。本当にふてぶてしくなってるわ。
でも、あたしはそれを見逃してあげた。女神様のような広ーい気持ちで。
とにかく、連れ出してしまえばこっちのものよ。


翌日。
昇り行く朝日の中、あたしは1人リビングで、モーニングコーヒーを啜っていた。外は快晴。雲ひとつない青空。今は少しひんやりとした空気も、数時間後には優しく肌を包むだろう。絶好のデート日和ね。
時計の針が一回りした頃、ヤムチャがやってきた。いつもの道着姿。額には汗が、って…
「あんた、こんな日にまでトレーニングしてるの?」
まったく呆れて、あたしは小さく息を吐いた。
3年ぶりのデートなのに。少しは機微ってものがないわけ。
あたしの言葉にヤムチャは直接は答えず、やや軌道を変えて返した。
「おまえこそ早いじゃないか」
「当ったり前でしょ」
デートの朝に気合いの入らない女なんていないわよ。っていうか、あんたが入らなすぎよ。3年ぶりのデートなのよ!もっと嬉しがりなさいよ。
あいつが口を噤んだ。あたしの心の文句が届いたのかしら。
「ちゃんとシャワー浴びてよ」
あんたが修行するのは勝手だけどね。汗臭い男なんて、あたしはごめんだからね。
「わかってるよ」
口を尖らせながら、ヤムチャはバスルームへと消えた。
まったく、機微なさすぎよね。

予想通りのいい陽気。爽やかに流るる風と柔らかな日差しの中で、あたしはまず、ヤムチャと腕を絡めて公園の中を歩いた。
風に戦ぐ木々。色づきかけた木の葉。足元を照らす木漏れ日…って、そんなものどうでもいいわ。
緑なんて見飽きてる。自然にだって全然飢えてない。おかげさまでね。でも、あたしはここに来たかった。だってね。
ここには熊はいない。オオカミも。コヨーテも。何にも怯える心配はない。それこそが一番重要なことなのよ!
ああ、幸せ。…普通ってステキね。

普通のカップルらしさを堪能して、あたしたちはショッピングエリアへと向かった。
探索開始よ!今日は人じゃなくって、物を探すわよ!…普通ってステキね。
「何買おっかな」
なんとなくラフな物を買いたい気分ね。夏物バーゲンもまだやってるから、定番物を買い溜めするのもいいかも。でもあんまり時間がないから、さくさく行かなくちゃ。
ショウウィンドゥを覘き込みながら一軒一軒品定めをしていたあたしに、ヤムチャが怪訝しげな目を向けた。
「買い直すんじゃなかったのか?」
「バカね。同じ服買ってどうするのよ」
本当に、男ってわかってないわよね。あんなの口実に決まってるでしょ。
だいたい同じ物を買うのなら、あんたなんか連れてきやしないわよ。邪魔なだけだわ。
それに正直言って、あの時何着てたか覚えてないのよね。徹夜明けだったし。たいしてお気に入りのものじゃなかったことだけは確かだけど。
「ちょっと、何よその顔」
不貞腐れたようにあたしを見るヤムチャの顔を、あたしは嗜めた。
「3年ぶりのデートなのよ。もっと楽しそうな顔しなさいよ」
酷い男だと思わない?まったく。

5軒目の店に入りかけて、ふいにあたしは気づいた。
時間。時間を確認するのをすっかり忘れていた。ちょっとショッピングに熱が入りすぎちゃったわ。
慌てて手元の時計を見た。11時30分。そろそろいい時間ね。
開けかけていたドアから手を離して、ヤムチャの腕を引っ張った。いよいよ、今日のメインイベントの始まりよ!…本当はフルラのランチ食べたかったんだけど。しょうがないわよね。この時間しか空いてないって言うんだから。
「おまえ、どこへ行くつもりなんだ?」
メインストリートを外れてその場所まであと一区画というところまで来た時、ヤムチャが再び訝しげな顔であたしを見た。絶対気づかれっこないと踏んでいたあたしは、うまい言い訳を用意していなかった。
だってこいつ、デートの時っていつもあたしにまかせっきりだったし。路も店も、自分が今どういうエリアを歩いているのかも、わかってないと思ってたんだもの。
「…えっとー」
あたしは両腕を寄せ指で唇を弄んで、軽く品を作ってみせた。
「だって、ほら。せっかく街に来たんだし。やっぱり整えておかないと。ねっ」
言いながらにっこり微笑んだ。彼氏だったら、彼女のこういう仕種には騙されるべきよ。ねっ。特にあんたは、扱いやすさが取り柄の男なんだから。ねっ。
「おまえ『もういい』って言ったよな?」
ヤムチャの声音は冷ややかだった。えぇー、何でよ。何でひっかかってくれないのよ。あたし、バカみたいじゃないのよ。
あたしはサービスするのをやめた。こうなったら論破してやるわ。もともと理はこっちにあるんだから。
「そりゃ、あの時はそう言ったけど。やっぱり切らなきゃダメよ。約束したでしょ」
男だったら…いえ男じゃなくとも、約束は守るべきよ。だいたいヘアサロンに行くのでなければ、そんな頭をした人間を連れて歩くわけないじゃない。あたしは我慢して一緒に歩いてあげてたんですからね!
「俺は切らないぞ」
ヤムチャは思いっきりそっぽを向いた。まったくらしくない、横柄なその態度。ムカつくー。
「何言ってんの。せっかくアポイント取れたのに。すっごい人気店なのよ」
フルラのランチを諦めて取ったアポよ。キャンセルなんて許されないわよ!
繰り返し説得するあたしの言葉にも、ヤムチャはまったく耳を貸そうとはしなかった。本当にふてぶてしい。過去最高にふてぶてしいわ。しかも――
「冗談じゃない」
そう呟いた、次の瞬間。あいつが脱兎のごとく駆け出したのだ。
「ちょっと!ヤムチャ!」
あたしがそう叫んだ時には、すでにあいつはメインストリートの人込みの中へと消えていた。あたしはたっぷり3秒間は思考を停止させて、ただただそれを見送った。
…信じらんない、逃げるなんて。あいつ一体、どこのガキよ!
再び時が動き出して、あたしはヤムチャの後を追いかけた。あまりのことに遅れをとってしまったけど、あいつ長身だし!メインストリートを逆流しながら駆けているいい大人なんて、すぐ見つかるわよ。
思ったとおりあたしはすぐに、メインストリートの角から小路に入ろうとするあいつの姿を、遠目に捉えた。あたしはその後ろを追うことはせず、一本奥の小路に入った。ショートカットよ。あの先は一本道なのよ。そう、こと都に関して、地の利はあたしにあるわ。それにあいつガタイいいから結構目立つし!見失いっこないんだから!
そんなわけで、あたしは常に視界の隅にヤムチャを置いていた。なのに、なかなか捕まらない。あいつってば、本気で逃げてるわね。なんてやつよ。あんたが本気で走ったら、あたしが追いつけるわけないでしょうが!!
「ヤムチャのバカー!!」
息が切れてきた。思わず、角に消えるあいつの背中に向かって大声で叫んでから、慌ててその小路から飛び出した。
…まったく、恥かかせてくれるわよね。

街路樹の添え木に体を凭れかけて、軽く呼吸を整えたあたしは、再び捜索を開始した。
アポの時間は過ぎちゃったけど、まだ諦めないわ。少しくらいなら見逃してくれるはずよ。ダメだと言っても捻じ込んでやる。せっかく取った有名店のアポなんだから。それにフルラのランチ!
ヤムチャの駆けていった方角の小路を、しらみつぶしに歩いた。あいつって妙にのんきなところあるから、悠々と闊歩してるっていう可能性がまだあるわ。ウィンドゥショッピングも兼ねてもう30分だけ…
「やあ、ブルマ」
ふいに背後からかけられたその声に、前方にのみ注意を払っていたあたしは、まったく意表を突かれた。振り向きざま懐かしい顔を視界に認めて、緊張の糸が切れた。
「あら、リーク」
ハイスクールの頃通っていた研究所の仲間だ。あたしと並んで所内で最も出来る人間だった彼。
顔を合わせるのは1年ぶりくらい。でもあたしたちはまったく月日の年輪を感じることなく、話を始めることができた。同好の士ってそんなものよ。
「ひさしぶりね。今、何やってるの?」
「ツイスター理論だよ。イゴール・ロビンソンの数式で可視化してる」
その言葉は一瞬にして、あたしの心を捉えた。
「あの数式はいいわよね。簡潔で」
「その先が遅々として進まないけどね。5次元のヌル測地線の空間のCR構造との関係を調べてるんだけどさっぱり…」
笑いながら言葉を紡ぐ彼の姿に、あたしは愕然とした。
何、もう理論にメスを入れてるわけ?ってことは、あれを解釈したの?…なんてあっさり言ってくれるのかしら。やっぱり彼は出来るわ。ひょっとして、あたしより出来るかも…これはうかうかしていられないわ。
彼は完全にあたしの心を虜にした。今やあたしは、鼻先に人参をぶら下げられた馬同然。いいのよもう、馬でも何でも。
「さすがね。よかったら話聞かせてくれない?ランチでも食べながら」
ちょうどお腹も空いたし。フルラのランチも、今からなら間に合う。いえ、フルラじゃなくっても、どこでもいいわ。とにかく話を…
ガン!
あたしがさらに彼を促そうとしたその時、背後で大きな音がした。足元に空き缶が1つ、転がってきた。あたしたちは反射的に、後ろを振り返った。
「ヤムチャ?」
あたしは、視界と脳裏の両方から消えかけていた男の名前を呼んだ。
「…何してんの、あんた?」
あたしの言葉に、ヤムチャは答えなかった。ゆっくりとした歩みで、あたしたちの方へと近づいてくる。
あんた、自分からいなくなったくせに。何でのこのこ現れるわけ?…こっちは願ったり叶ったりだけど。
ほとんど思考を停止してヤムチャを見つめていたあたしの耳元に、視界と脳裏の両方から消えかけていたもう1人の男性が囁いた。
「邪魔者は消えるよ。続きは機会があったら、また」
…は?
それだけ言うと、リークは苦笑を浮かべながら、おもむろに去っていった。一方では黒髪の男が、やっぱりおもむろに近づいてくる。…何、この微妙な空気。
「あんた、今まで何してたの?」
わけがわからず、あたしは訊ねた。
どうしたって逃げたように見えたけど。あたしの気のせい…じゃないわよね。でもじゃあ、何で戻ってきたのかしら。
「別に」
ヤムチャは簡潔に答えた。答えにならない答えを。そして空き缶を拾い上げると、静かに手首を翻した。それは微かな音を立てて、目の前のゴミ箱に入った。
あたしが黙って見ていると、ヤムチャは1つ大きな溜息をついて、あたしの隣に立ち左手を腰に当てた。腕を1本絡めるスペースが、そこにできた。
何?デート続行するわけ?
…そりゃ、あたしは願ったり叶ったりだけど。


20分程遅刻して、あたしたちはヘアサロンのドアを潜り抜けた。心の中ではどうか知らないけど、店員は嫌な顔ひとつせず、あたしたちを出迎えた。やっぱり、本当にいい店は対応が行き届いているわよね。
ヤムチャは憮然とした表情で、散髪台に座り込んだ。美容師が当然のように、あたしに水を向けた。
「どういったスタイルにしますか?」
あたしはバッグから一枚の写真を取り出した。
前時代の俳優の写真(のコピー)。たぶんこの美容師は彼の名前なんて知らないでしょうけど、それは全然構わない。あたしが美容師にわかってほしいのは、彼の名前ではなくその髪型だから。
「これと同じヘアスタイルにしたいんだけど」
格好いいのよね、彼!
ディナに見せてもらった前時代書籍のコレクションの中でその存在を知ったんだけど、イケてるなんてものじゃないわ。どうして前時代に生まれなかったのか悔やんだくらいよ。
あたしが美容師に見せるより早く、いつの間にか横にきていたヤムチャが、その写真を引っ手繰った。
「ちょっと、何すんのよ」
「勝手に決めるな」
何でよ。
あんたは髪型なんてどうでもいいんでしょ。自分で鋏入れちゃうくらいなんだから。いくら伸ばしたいって言ったって、手入れもしないなんてあり得ないわよ。構っていない証拠よね。
「俺の髪だ。俺の好きにさせろ」
「好きにさせた挙句が、その様でしょうが!」
ヤムチャはしつこく食い下がった。戻ってきたはいいけれど、全然態度が変わっていない。あたしたちは堂々巡りを繰り返した。美容師も困った顔であたしたちを見ている。
あたしは一歩を譲ることにした。持ってきた写真とヘアサロンにあったヘアカタログを、ヤムチャの鼻先に突きつけた。
「わかったわ。じゃあとりあえず好きなヘアスタイルを選びなさいよ。でも、この写真より格好いいやつじゃなきゃダメよ!」
こいつにそんなセンスあるわけないんだから。どっちみち、あたしの勝ちよ。
あたしの目論見は当たった。…半秒の後に。おざなりにその写真に目を走らせて、次の瞬間ヤムチャが言ったのだ。
「…結構いいな」
「でしょー?でしょでしょ!イケてるでしょ。あんたなら似合うと思うのよね!」
同じ黒髪だし。イースタン系だし。顔かたちも似てるし。…まあ、写真の方がいい男だけど。
でももう、とっくにいなくなった前時代の人間だし。それでも、例え似たものでも見てみたいと思うのは、人間の心理よね!
「じゃあこれで」
「オッケー!!」
ヤムチャは再び散髪台に座り込んだ。
あたしは満足の呈で、あいつのレベルが上がっていく様を見つめていた。

へっへー、いい気分。
行き交う人込みの中で、時折ヤムチャに向けられる視線を糧に、あたしの気分は浮き立った。
「ねっ。あたしの見立て通りでしょ!」
あんたは磨けば光る玉なんだから。もっとがんばってよね!
あたしたちは再び腕を組んで、帰路についた。
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