隣の男
部屋で荷物を纏めている。もう何度も見た光景。
本当にこいつって、修行バカよね。
「で、平原のどこ?」
西の都周辺の地形図を取り出して、あたしはヤムチャに訊ねた。あいつは一瞬荷を造る手を休め、宙を見ながら答えた。
「山の麓かな。或いは森の中か…」
…全然答えになっていないわ。
山の麓って、どの山のよ。森なんていくつあると思ってるの。あんた、修行しててよかったわよ。修行してなきゃ、ただのバカって呼ばれるところよ。
地形図とペンを手渡した。あいつはすらすらとチェックを入れた。1、2、3…5箇所。
「ちょっと。もっとはっきり決めてよ」
これじゃ、教えてないも同然じゃない。
「そんなこと言ったって、行ってみないとわからないよ」
そう言うと、ヤムチャはわざとらしく首を竦めてみせた。
本当にいい加減なんだから。行き当たりばったりもいいところだわ。
だいたい足の怪我だって、まだ治りきっていないのに。そりゃ医者からOKは出たけど、傷跡だって残ってるし。いつだって見切り発車なんだから。
日々酷使していたにも関わらず、ヤムチャの骨折は最短予想の3ヶ月で治ってしまった。正確には2ヵ月半だけど。ピッコロの手下がカメハウスにやってきた時に闘わなければ、2ヶ月で治っていたかも。…こういう人種って、本当にいるのね。
そして医者からOKが出るや、嬉々として荷造りを始めた。早々と修行。一にも二にも武道。…まったく、ひどい男だわ。
最後に身の回りのものをバッグに詰め込むあいつの手を見ながら、あたしは念を押した。
「15日の約束、忘れないでよ」
「わかってるって」
本当にわかってるのかしら。
あたしはさんざんあんたの世話を焼いたんだからね。一日くらいのデートじゃ済まされないところよ。学院が忙しくなければ、今からだって付き合わせてやるのになあ。
だいたい、さっさと行っちゃうあんたもあんたよ。もう少し女の気持ちを解れっつーの!
荷物を片手に、ヤムチャが立ち上がった。何も言わずに、ドアの方へと歩いていく。
…本当にね。こんな朴念仁と付き合えるの、あたしくらいよ。
ドアのコンソールを押される前に、あたしはヤムチャを捕まえた。
「何だよ」
不思議そうな顔をして、ヤムチャがあたしを振り返った。その上着の裾を掴んだまま、あたしは答えた。
「お別れのキス!」
こいつって、どうしてこう気が利かないのかしら。
自分のしたい時にしかしなくてさ。それもいつも突然よ!雰囲気も何もあったもんじゃないわ。
「たった1週間だろ」
「1週間でも別れは別れよ」
本当はそういうことじゃないのよ。でも、自分でそれを言わなきゃならないほど、虚しいこともないわよね。
「ん」
ヤムチャは一瞬頭を掻きかけて、それでもキスはしてくれた。いつものやつから強引さを除いたキスを。こいつって、本当にギリギリのところで及第点なんだから。
…わざとやってるのかしら。


それから一週間。あたしは大変不規則な毎日を過ごした。
太陽が真上に昇る前に登院。昼間は講義を受けて、夜中まで学院の研究室に篭る。2日ほど、先輩と酒盛り(いつものことだけど飲んでないわよ。まだ未成年だからね)。
まるっきりの夜型生活。もともと朝に弱いこともあって、あたしはそれがほとんど板につきかけていた。だから、その日もいつもと同じように目を覚ました。
その日。…ヤムチャと約束してた日。
「ヤッバイ!!」
ベッドの中の自分に降り注ぐ太陽の光で、時計を見ずともあたしには、ほぼ正確な時間がわかった。――もうすぐ昼よ!
「服!バッグ!靴!リップ!」
間に合わないどころじゃない。約束の時間は10時なのだから。30分くらい遅れたことなら何度かあるけど、こんな大幅な遅刻は初めて。いくらあいつでも怒るわよね…もう、あいつのこと咎められないわ。
「いってきまーす!!」
走り出すと同時に叫んだ。…無人の部屋に向かって。なぜって?
こういう時はそうするものと、相場が決まっているのよ。

「待ち合わせしてるんだけど!!」
カフェのドアを開けるなり、そう叫んだ。ウェイターが目を丸くしてあたしを見た。その不躾なウェイターと、それ以上会話を続ける必要はなかった。
すぐにヤムチャを見つけたからだ。もう探す必要もないくらい。――突き刺すような視線。
あたしがテーブルへと近づくと、ヤムチャはほとんど立ち上がって、あたしを睨みつけた。
「お・ま・え・なあ〜〜」
テーブルの上には、湯気の立たないコーヒー。
「一体何時間待ったと思ってるんだ!!」
「…に、2時間くらい?」
「3時間だ!!」
気ぃ長いわね、こいつ。取り柄っていうか、そこまでいくとただのバ…
「C.Cに電話しても誰も出ねえし!!」
そういえば誰も起こしに来なかったわね。ま、いっつも誰も来ないけど。
思わず宙を見て考え込んでいると、ヤムチャが再びあたしを睨みつけた。
「ご、ごめん。徹夜続きだったものだから。研究が佳境に入ってて。謝るから。許して…」
「ふん!!」
ヤッバ〜。完全に怒ってるわ。…まあ、当たり前か。怒ってない方が異常よね。
っていうか、3時間も待ってる時点で、すでに異常だと思うけど。どうしたらそこまで待てるのかしら。ちょっと信じられないわよね。いくら連絡つかなかったからって、普通帰るわよ。一体どういう神経してるのかしら。
やや薄いエスプレッソを啜りながら、目の前の奇特な男を見ているうちに、ようやく頭が働いてきた。とっくに目は覚めてたけど、いまいち思考が鈍かったのよね。そして、頭が働いてきたら、お腹も空いてきた。手元の時計を確かめた。13時20分…
腕組みをしながら未だ不貞腐れる男に、あたしは声をかけた。
「ねっ、ご飯食べに行こ!フルラのランチ!あんた、お昼まだでしょ?」
こいつが1人で先にご飯食べてるわけないわ。それくらいはお見通しよ。…まさかまだ待ってるとは思わなかったけど。
「ね!お腹空いたでしょ?」
「…ああ」
あたしがさらに言うと、ようやくヤムチャは声を出した。
なかなか席を立とうとしないあいつの腕を引っ張って、あたしはカフェを後にした。

ギリギリセーフ!
のランチタイム30分前に、あたしたちはフルラのカウンターについた。
「ここすっごく評判いいのよ。まだ食べたことはないんだけど」
ヤムチャは依然口を尖らせながらも、ナプキンを膝の上に広げた。その様子を横目に、あたしは内心安堵した。
こいつっていっつもこう。怒らせても自然と機嫌直っちゃうのよね。今日はまだがんばってるみたいだけど。…3時間だもんね、当然よね。
でも大丈夫。おいしいご飯を食べればもっと機嫌直るわ。それに、不貞腐れてる顔も結構かわいいし。
「ねえ、別々の物頼んでシェアしましょうよ。それとアラカルトね」
「そんなに食べられないだろ」
あ、乗ってきた。
「こういうところのは量が少ないのよ。それにあんた男でしょ」
男だったらいっぱい食べなきゃね。孫くんくらいまでいくと異常だけど。それにいろいろ食べてみたいし。
「決まりね!」
ヤムチャが黙ったので、あたしは勝手にメニューをオーダーした。
いいのよ。これがいつものあたしたちのやり方よ。

「あ」
それぞれ料理を一口頬張って、あたしたちはほとんど同時に声を出した。
「うまいな」
「おいしいわね」
評判通りの味と、このヤムチャの反応に、あたしはすっかり満足した。
こいつがこんな風に声を高めるのは珍しい。好き嫌いなく何でも食べるやつだけど、いつもはどっちかというと黙々と食べているのに。嬉しいのと羨ましいのと半々で、その言葉が即行口から出てきた。
「本当?一口ちょうだい!」
「もう少し食べてからな」
ヤムチャはこれまた珍しくあたしの言葉を退け、今度は黙々と自分の料理を食べ始めた。…本当においしいのね。料理って偉大ね。だって、黙々とはしてるけれど、もう怒ってないのは明らかだもの。
その証拠に、ヤムチャは目に微かな笑みを浮かべて(口元はまだ引き結んでる。こいつもがんばるわね)、半分ほど食べ進めた皿をあたしの方に寄越した。あたしはそれには倣わず、さらに自分の料理にナイフを入れた。そして、物欲しそうにあたしの皿を見つめるあいつの口元に、一口を刺したフォークを突きつけてみせた。
「はい、あーん」
「な!!」
その時のヤムチャの顔。もうこれで決まりね。
「おまえ!そういうこと…」
「冗談よ、冗談」
当ったり前でしょ。
まさか本当にそんなことするわけないでしょ。こんな一流の店で。振りだけよ、振りだけ。振りだって、充分冒険よ。でも、やっただけのことはあったわ。
今やヤムチャは料理には目もくれず、赤くなった頬を隠すようにそっぽを向いている。2皿ともあたしががめていることも、きっと忘れてるわね。…このまま全部食べちゃおうかしら。
その誘惑には、あたしは打ち勝った。さすがに2人前は食べられないし。それに満腹にさせておいた方が好都合ってもんよ。人ってお腹がいっぱいだと幸せになるのよね。満腹中枢が満たされると不快な感情が鎮静することは、すでに立証されているわ。リラックスしておいしいものを食べると、感情が満足するということも。
料理って偉大よね。

フルラから一歩を踏み出して、あたしはヤムチャの左腕を取った。あたしがわざとらしくバッグを右から左に持ち替えても、あいつは何も言わなかった。あたしはヤムチャの腕に自分のそれを絡めて、さっさと歩き出した。
はい、陥落。すべて元通り。ちょろいもんよ。
「じゃ、映画でも観よっか。あまり時間もないし」
本当は、今日は遊園地に行く予定だったのよね。こいつ、遊園地好きだから。それで今日のデートをOKさせたのよ。でも、もう夕方だし。臨機応変にいかなくっちゃね。
あたしたちはのんびりと公園を歩いた。シアターへのショートカットよ。最近の映画情報をさっぱり仕入れていなかった(学院が忙しかったし、もともと映画なんて観るつもりなかったから)あたしは、とりあえずジャンルだけでも決めておこうと、今の気分を整理しにかかった。ロマンティックには少し遠いし、ホラーもパス願いたいし…アクションかミステリーってところかな。
「今、忙しいのか?」
ふいにヤムチャが言った。今日初めての、こいつからの切り出し。やっぱり、完全に機嫌直ってるわね。
「学士の準備あるから。そろそろ実験終わらせなきゃ」
本当はもうとっくに実験を終えて、執筆作業に入ってなくちゃならない時期なんだけど。ここんとこ、こいつがずっとC.Cにいたものだから、つい遊びすぎちゃったのよね。
あたしの言葉に、ヤムチャは答えなかった。さして気にはならなかった。こいつが聞きっぱなしにするなんて、いつものことよ。特に学院の話になんて、乗ってきたこと一度もないんじゃないかしら。
少しだけ間が空いた。ふとヤムチャが、あたしの顔のその部分を触った。
昨日できたばかりの吹き出物。よりにもよって目立つとこ。
そろそろ、お化粧覚えなきゃダメかしら。でも1年生はともかく、研究室のみんなってほとんど化粧っけないのよね。上級生になるほど、していないような気がする。黙々と研究するだけの場所だもの、化粧する気も失せるってものよね。
「ちょっと、やめてよ」
いえ、化粧云々の前にこいつをどうにかするべきだわ。普通、こういうものは見て見ぬ振りをするものじゃない。そうじゃなくたって、触ったりなんかしないわよ。
「うん…」
神妙に頷いて、ヤムチャは手を離した。と思いきや、また触れた。そこより少し上の部分を。――あたしの唇を。
同じあいつのその部分で。――あいつの唇で。


結局、あたしたちは映画を観なかった。少し遠かったその気分に、突然襲われたからだ。
そう、突然。どうしてこいつって、いつもいつも突然なわけ?せめて前兆とかさ、何かないわけ?
公園の、木陰に据えられたベンチの上で、暮れ行く夕陽を眺めた。一見無骨に座りながらあたしの肩に置かれた手が、その実すごく優しく添えられていることに、あたしは気づいていた。
所謂恋愛モードというやつに、こいつは滅多に入らないけど、入ったとなったら本当に優しい。まるでいつもの無神経さを埋め合わせるように。だからあたしもつい、誘いの言葉をかけてしまう。
「ねえ、今日はあたしの部屋に来ない?たまにはいいでしょ」

――これが限界だけど。
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