隣の男(後編)
朴念仁って救い難いわよね。
黄昏れる空。頬をなぶるそよ風。遠く聞こえる街の喧騒。身を凭れる女の子。誘いの言葉――
こんなステキなシチュエーションで、こんなことを言うんだから。
「今日はも何も、俺これから帰るんだけど」
ヤムチャの言葉に、あたしのロマンティックは一瞬にして吹き飛ばされた。
「えぇー?何でよ」
あり得ないっつーの!こんなにいい雰囲気なのに。ここで帰るなんて、まったくあり得ないわよ。
「まだ話足りない!」
あたしの抗議の言葉にも、ヤムチャは淡々と答えた。
「おまえが遅刻したからだろ?」
ちょっとお!
「あんた、そういうこと言うわけ!?」
このシチュエーションで?このタイミングで?
絶ッ対!あ・り・得・な・い!
一連のヤムチャの態度に、あたしは口を尖らせた。当然よ!
女心がわかってないにも程があるわよ。っていうか、男心さえ持ってないんじゃないの?
「言うも何も事実だろ?」
なおもヤムチャは言い張った。依然、常とまったく変わらぬ口調で。
…一体どういう神経してるの、こいつ。
どうしてこの雰囲気の中で、そういうことが言えるわけ?少しは空気読めないの?あんた、何も感じないわけ?鈍い以前に、どっかに欠陥あるんじゃないの?
あたしは溜息をついた。それがどういう種類のものなのか、自分でもよくわからない溜息を。
「だからあんたはダメなのよ。もっと臨機応変にいきなさいよ!」
すでにそういう問題じゃないような気もするけど。他に言いようもないわ。
「臨機応変?」
瞬間、ヤムチャが眉を上げた。ほとんど宙を見ながら話していたあたしにもそれがわかったくらい、あいつの周りの空気が一瞬にして温度を下げた。
「自分で遅刻しておいて、予定を潰した挙句に相手を拘束するのが、臨機応変か?そういうのはな、自分勝手って言うんだ!」
返す言葉が出てこなかった。荒げられた声音よりも、その醸す雰囲気の冷たさに、あたしは思わず我を忘れた。
…何、マジで怒ってんのよ?
…つーか、何であたしが怒られなくちゃならないのよ?
「ちょっと!あんたね…」
我と言葉を同時に取り戻したその時、ヤムチャがふいに立ち上がり、あたしに背を向けた。
「とにかく俺は帰るぞ。明日からまた修行だ」
ヤムチャの声はもはや荒いではいなかった。強く冷たく静かな声音で、切り捨てるように宣告してみせた。…怒鳴りあったりするのならしょっちゅうだけど。こいつがこんな風に一方的に言い放つなんて…
…ムカつく。
「わざわざ平原に帰ることないでしょ。どうせ近くなんだから、明日の朝一番に帰れば…」
理で説き伏せながらも、あたしの声は自然と弱まった。だって、こいつ何だか怖いんだもの。らしくもなく迫力出しちゃってさ。…窮鼠猫を噛むってやつかしら。
「あそこには戻らない」
その声はほとんどギリギリのところで、あたしの耳に届いた。
「じゃあどこに行くのよ?」
ヤムチャは答えなかった。あたしに背を向けたまま、黙って歩いてゆく。それによってできた距離に、あたしの心の拘束が解けた。
「あんた、世捨て人になりたいの!?…捜索願出すわよ」
脅しじゃないわ。本気よ。自分で探せないのなら人を使うわ。これ以上ないってほど、大々的に探してやるわよ。
ヤムチャは歩みを止めた。背中を見せたまま、やや頭を傾げて答えた。声音が少し弱まった。
「…東の谷だよ」
「東の谷のどこよ!?」
さらに畳み掛けたその時、ヤムチャが地を蹴りつけた。その名を呼ぶ間もなかった。半拍の後、あたしの視界の中で、あいつの姿は豆粒と化した。
「な…」
思わず呆然として、あたしは叫んだ。
「さ…最ッ低ー!」
――あいつは逃げた。


「あいつは大バカ者よ!」
怒りに任せてリビングのコンソールを叩きつけた。ドアが開くと同時に、首を竦めるウーロンの姿が目に入った。
「何よ!?」
横目でそれを睨みつけた。ソファから身を転げるようにして、ウーロンがリビングを出て行った。何よ、あの態度!
どうしてあそこで逃げるのよ。そもそも何で逃げるのよ。
あたしはただ、当たり前のことを訊ねただけなのに。あいつ、一体あたしのことをどういう目で見てるわけ?あたしは鬼か蛇かっつーの!
ソファに置き去りにされた雑誌を、床に叩きつけた。おもしろくないったらありゃしない!
そのままソファに寝転がった。そして両腕を投げ出した。

翌朝、リビングに差し込む陽の光で、あたしは目を覚ました。
体じゅうが痛い。関節が悲鳴を上げている。…最低。
半身を起こして腰をさすっていると、ウーロンがやってきた。そしてあたしの顔を見るなり、首を竦めた。あたしはその顔に目を走らせた。
「何よ?」
「べ、別に」
それが『別に』っていう顔なの!?
あたしがソファから腰を上げると、ウーロンはリビングを出て行った。何なのよ、あの態度は。
あたしはただ訊いただけでしょ。どうして逃げるのよ。あたしを何だと思ってるのよ。
「ヤムチャのバーカ!」
再び無人となったリビングで、あたしは叫んだ。


1ヶ月を過ぎても、ヤムチャはC.Cに戻ってこなかった。
最低よね!そうやってずっと逃げてるつもり?だいたい、何で逃げるのよ。わけわかんないったら。
あたしはシャーレを取り出した。黙ってそれに水を張るあたしを、ディナが呆れたように見た。
学院の研究室。他には誰もいない夕刻。あたしはストレスを放出しながら、ディナと本分的会話を繰り広げていた。
「生物科学の『植物採集』はどうする?」
「どうするって…やるっきゃないでしょ」
やらなきゃスキップできないんだから。スキップできなきゃ卒業もできない。自明の理だわ。
あたしとディナは現在5年生。でも今年卒業する。…予定。現在スキップ試験の真っ最中。試験はそれなりに難しいけど、不可能を感じてはいない。
ただ1つ、厄介を感じている試験はある。生物科学の『植物採集』がそれだ。
内容は、自分で採集したレア植物を研究するというもの。単純でありながら、かなり厄介な試験だ。だって採取って、ほとんど肉体労働だもの。学者の試験にそんな要素組み込まないでほしいわよね。
「他のみんなはツアーを組んでやるって言ってるけど」
「それはパスかな」
そういう『なかよしこよし』作戦はどうもね。自分のペースでやれないし。いいもの見つけてもすぐバレちゃいそうだし。出し抜いてやれないじゃない。
あたしがそう言うと、ディナは一も二もなく同意した。
「でも、ボディガードは必要よ。あたし彼氏引っ張ってくつもりなんだけど。あんたも来る?」
思わず目を丸くした。誘われたことに驚いたわけじゃない。一見矛盾しているように思えるディナの言葉がそうじゃないことは、あたしにはわかっていた。あたしたちは互いのすることに干渉しない。そこだけは似た者同士だ。あたしが驚いたのは、その中ほどの言葉だ。
「あんた、彼氏のこと鬱陶しいって言ってたくせに」
こうるさいって、散々言ってたくせに。それなのに連れてくわけ?
あたしの言葉にディナは笑って、ポジティブ思考を展開した。
「こうるさいからこそよ。せいぜい役に立ってくれるわよ。こういう時くらい使わないとね」
あたしは何も言えなかった。
…ズルいじゃない。うるさいだの鬱陶しいだの束縛がどうだのって、散々扱き下ろしてたくせに。…結局、うまくやってるってわけか。
完全に裏切られた気持ちに、あたしはなった。当然、その誘いは辞退した。


C.Cの自分の部屋で、あたしはシャーレを取り出した。
今はディナの前で、この行為はしたくない。そんなの、悔しすぎるわ。
おもむろに水を張った。それに放り込むためのセシウムを砕いた。
本当にズルいわよね。自分が逃げ腰な振りしといて、その実ちゃっかりコントロールしてるなんて。…鬱陶しがってる部分もあるのは確かみたいだけど。それにしたってズルすぎるわ。同志だと思ってたのに。
あたしなんて、鬱陶しがってはいないのにさ。この差はどこから来るのかしら。
…個性の差か。あいつの個性。
いつか自分がディナに言った、あいつの形容を思い出した。今とあの頃では少し違っている部分もある。でも、そこもわかっている。
元盗賊で荒野育ちでわりと強くて背が高くて顔が良くて童顔で天然で軽くてボケててお調子者でお人好しで鈍くて女心がわかんなくて時々妙にこうるさくて流されやすくて基本的には扱いやすいはずの男…
こんなに把握してるのに、考えてることはちっともわかんない。今いるところすらわからない。
シャーレにセシウムを放り込んだ。
「…ヤムチャのバカ」
それが踊り狂う様は見ず、あたしはデスクに突っ伏した。
ほんの数瞬。

異常に気づいた時には遅かった。いつもとは違う臭気に気づいて、あたしはすぐに顔を上げた。
目の前のシャーレを見た。水の上で、セシウムと赤い火花が踊っていた。
「ヤッバイ!」
あたしはデスクの下に伏せた。
ほんの数瞬遅かった。


「いつかやると思ってたわよ」
あたしの左頬に貼られたガーゼを見て、ディナが呆れたように呟いた。
「思ってたんなら言ってよね!」
「言ったわよ」
あたしは声にならない声を上げた。悔しすぎるわ!
どうしてよりにもよって爆発するのよ。どうしてこのタイミングなのよ。恥の上塗りもいいところだわ。
あいつよ。何もかもあいつが悪いのよ。
「決めたわ」
あたしはディナを睨みつけた。いえ、ディナではなく、その背後に見え隠れする男の姿を。
「『植物採集』にあいつを連れていくわ。めいっぱい扱き使ってやる!」
そもそも、あんな風に鬱々とストレス発散してたのが間違いなのよ。不満をぶつけるべきはセシウムではなく、最初からあいつだったのよ。逃げた?それが何だっていうのよ。そんなものとっ捕まえてやるわ。逃げたのなら捕まえる。自明の理よ!
今まであいつのところに踏み込まなかったのは、単に学院が忙しかったからよ。でも今では大義名分がある。こんな厄介な試験、あいつを使わなくてどうするの!
あたしの叫びに、ディナは一も二もなく頷いた。
「そうしなさいよ。男なんて、使ってなんぼよ」
やっぱり彼女は同志だわ。


植生地形図で東の谷を確認した時、あたしは神の息吹を感じた。
かなり好ましい植物群落が存在している。あたしは運命は信じないけれど、神様はいるのかも!
一通りの装備を整えて、エアジェットに飛び乗った。今やすべての事柄が、あたしを後押ししていた。やっとやる気出てきたわ。出し抜いてやる!学院のみんなも、あいつも、全部ひっくるめて、出し抜いてやるわ。
鼻歌を歌いながら、エアジェットをオートパイロットに切り替えた。あたしはコクピットのシートを倒して、そこに突っ伏した。
気力を充実させるために。

やっぱり、神様はいないのかも。
東の谷で3日を過ごして、あたしはそう思い始めていた。
ヤムチャは見つからなかった。灰色の谷の中では目立たない黒髪も、目立ちすぎる気の光も、あたしは目にすることができなかった。東の谷って言ったくせに。あの嘘つき男!
だからもっと正確に教えろって言ってるのに。それに、移動したのなら移動したって教えなさいよ。人として最低限のマナーよ!
あいつがC.Cに帰ってきたら、思いっきりいびってやるわ。あたしが帰ったら、いびり倒してやるわ。この間のことも含めて、いびり尽くしてやるわ。
そのためにはまず、試験を終えてしまわなきゃね。
失望と引き換えに新たな糧を手に入れて、あたしは東の谷に腰を落ち着けた。他のところを探そうとは思わなかった。これ以上あいつに割いている時間はない。本末転倒にもなりたくない。こうなったら、1人でだってやってやるわ。
エアジェットのコクピットの足元から銃を取り出した。銃なんてもう何年も使っていない。腕が鈍ってないといいんだけど。
動植物分布図によればさほど危険な生き物がいるとも思えないけど、野犬くらいはいるかもしれない。
心地悪い緊張感と共に、あたしは採取を開始した。

あたしがようやくこの地の植生を肌で感じ始めた頃――3日後の午後――、それは訪れた。
木々の向こうに動く気配。背後に聳える小山の影で、その姿はまったく見えなかった。
あたしが身を竦めていると、やがて大きな音がした。がさがさと、長く茂った草を掻き分けながら、こちらへと近づいてくる。
野犬?違う、もっと大きな生き物。
瞬間、あたしは思い出した。ここが、あいつの選んだ場所だということを。
これまであいつが修行場所に選んだところには、いつも野生動物がいた。それもこぞって危険なやつが。熊、オオカミ、コヨーテ…グリズリーがいたという話を聞いたこともある。動植物分布図なんか信じるんじゃなかった。あいつの異常な嗜好をこそ、吟味するべきだったわ。
ヤムチャの姿を思い浮かべながら、あたしは銃を構えた。あいつはいつもあたしを助けに来てくれたけど、今日だけはあり得ない。だって、あいつはここにはいないのだから!
最初の8発はすべて外れた。肉眼によらず、あたしにはそれがわかった。だって、もし当たったなら、鳴き声か何か聞こえるはずよ。慌ててポケットを弄った。弾を装填しなおさないと。間に合うかしら。この拳銃古いから、クリップが旧式なのよ!
装填は完了した。再び狙いをつけて、次の瞬間あたしは固まった。シリンダーが動かない。マジ?まだ一巡しかしてないのに、もうシリンダーギャップが埋まっちゃったの?
あたしは後退った。物音はもう前からは聞こえなかった。移動している。たぶん側面…でもどっちの?
どこへ向かって構えればいいのか、あたしにはわからなかった。そもそも構えるものがもうなかった。
ふいに、背中が叩かれた。反射的に振り向いて、あたしは思わず声を上げた。
「ヤムチャ!」
まさか。どうしてここに?あたしを助けに来てくれたの?
再び神の存在を信じ始めたあたしの目の前で、ヤムチャの拳が開かれた。
弾丸が零れ落ちた。1、2…5発。
「おまえなあ…」
呆れたような溜息が後に続いた。
怪しい物音は、もう聞こえなかった。

カプセルハウスのソファに腰を下ろして、あたしはすっかり安堵していた。でもそれは顔には出さず表向きは粛々として、喉元までせり上がっている言葉を呑み込み続けた。
だって、彼氏を撃っておいて「獣じゃなくてよかった」なんて言えないじゃない?
すべて外したと思っていたあたしの弾は、1発だけヤムチャを掠めていた。あいつは残り7発のうち2発は叩き落し、5発は素手で掴み取ったらしい。…意外とやるわね、こいつ。
「ごめんね。痛かった?」
その左頬にガーゼを当てながら、あたしは優しく声をかけた。だって…ねえ。
「痛かったっていうか…」
ヤムチャは怒らなかった。どことなく不自然に言葉を濁した。
ややもして怪我の手当ても終わった頃、ヤムチャがあたしの左頬を指差しながら言った。
「おまえ、その傷はどうした?」
半日に渡る、木々と草の隙間を縫っての植物採集の間に、あたしの左頬のガーゼはどこかへいってしまっていた。そこには割れたシャーレの欠片に傷つけられた、赤く長い直線が現れていた。
「あんたがやったのよ」
結構痛かったんだから。だからおあいこよ!
…なんてわけにはいかないか、やっぱり。

数瞬の思考の後、あたしはヤムチャの口を塞いでおくことにした。こいつのよくやる方法で。
だって、こんなこと他人に知れたらいい笑い者だし。でも、こいつの考えてることって、さっぱりわからないから。
だけど、こいつの方法でやっとけば伝わるでしょうよ。…もし、伝わらなかったら。

その時は、存分にいびってやるわ。
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