線上の男
30分をそのカフェで一人で過ごして、あたしは帰ってきた。
やっぱり一人で。

「あの嘘つき男!何が『二度としない』よ!」
C.Cのポーチへ足を踏み入れかけて、あたしはその向きを変えた。テラスに設えられたテーブルに、のんきにお茶を啜るプーアルとウーロンの姿が見えたからだ。
「プーアル!あんたヤムチャに、今日のこと何か聞いてる!?」
テラスに踏み込むなり、そう叫んだ。プーアルはきょとんとした顔であたしを見返した。
「何かって、何をです?」
「今日のデートのことよ!」
例えプーアルに言付けていたって許さないけど。むしろプーアルだけに言っていた方が許し難いわ。
そう思ってはいたけれど、あたしは訊いた。だって、他に情報源がないのよ。
「あ、今日デートだったんですか?それにしては帰りが早…」
「あいつがすっぽかしたからよ!」
思わず答えてしまってから、あたしはほぞを噛んだ。
…情けない。こんなこと自分でバラしてしまうほど、情けないこともないわ。
続けて何かを言いかけたプーアルの背を、ウーロンが小突いた。あたしはそれを見逃さなかった。
「ウーロン!あんた、何か知ってるの!?」
ウーロンは肩を竦めて、頭を勢いよく横に振った。
「め、滅相もない!おまえが知らないことを、おれが知ってるわけないだろ」
そうか。そうよね。当然よね!
でも、だからといって腹の虫が治まるはずもない。
あったまきちゃう!


「酷いと思わない?いきなりすっぽかしよ!?何の連絡もなく!!」
一度は悔しいと思った、ディナの前でのあいつの罵倒行為も、今やあたしはすっかり平気になっていた。
あいつとディナの彼氏じゃ出来が違うのよ。そして、あいつの出来が悪いのはあたしのせいじゃないわ。
それでも他の人に聞かれるのはやっぱり恥ずかしいので、主に夕刻、人気の疎らな研究室であいつを罵倒することに、あたしは決めていた。
ディナはほとんど惰性とも言える手つきで素材の仕込みをしながら、気の入らない口調であたしに言った。
「何か理由があるんじゃないの?事故にでも遭ったとかさ」
その言葉に、あたしの怒りはさらに増大した。
事故?あいつに限ってそんなことあるわけないでしょ。あいつは銃で撃ったって死なない人間よ。だいたいあんた自身、そんなこと思ってもいないくせに。
「あり得ないわね。絶対、ただのすっぽかしよ!」
言いながらシャーレを探した。こんな時に限って手元にない。
ディナの右脇に置かれたそれに伸ばしかけたあたしの手を、左にいた人間が止めた。
「やめてよ。とばっちりはごめんよ。そんなことしてないで、本人に文句言いなさいよ」
「それができれば苦労しないわよ!」
「何でよ?」
「連絡取れないのよ!」
あいつのところに電話が繋がった例がないわ。いつだって人外魔境にいるんだから。
あっちからしか連絡取れないのに。…あっちからは取れるはずなのに。いつもいつも梨のつぶてよ。だから頭にくるのよ!
「ねえ、それって終わってるんじゃないの?」
ディナが急に身を乗り出した。その言葉と態度の両方に、あたしは思わず気を殺がれた。
「何でそうなるのよ…」
「普通そうなるわよ。遠距離で、2ヶ月ぶりのデートはすっぽかし、連絡もつかない。終わってないと思う方がおかしいと思うけど」
まじまじとディナの顔を見た。ディナは本気で言っているようだった。さっきまであんなに気のなさそうな素振りだったくせに、なんてやつよ。だいたい、的外れもいいところだっつーの。
「違うわよ。こんなのいつものことだもの」
吐き捨てるように答えたあたしを見て、ディナがなんとも言えない口調で呟いた。
「何あんた。いつもすっぽかされてるの?」
あたしはボロを出しすぎてしまったことに気づいた。ディナの目から同情の光を消し去りたくて、やむなく事実を口にした。
「…一度だけ」
ディナはもはや呆れを隠そうともしなかった。再び気のなさそうな口調で言った。
「あんた、虚言癖あるんじゃない?」
…あたし、何でこんな人と友達やってるのかしら。
そう思いながらも、あたしは口を噤んだ。


鬱々と怒りを内包してC.Cへと帰ったあたしの目に、それが映った。
ポーチ脇に着陸しつつある一機のエアジェット。ここ数ヶ月間のあいつの愛機。
何それ!
瞬時に怒りが噴出した。
あいつ、帰ってきたの?どの面下げて帰ってきたわけ!?つーか何で今日帰ってくるわけ?帰ってくるなら、昨日帰ってきなさいよ。今さら謝ったって許さないわよ!!…でも、終わってなかったわ。やっぱりいつものことよ!
ぶつける怒りの優先順位を定めきれぬまま、あたしはエアジェットに駆け寄った。とはいえ、エンジン音が止んだ瞬間、自ずとそれが心に浮かび上がった。
まずは謝らせてからよ!すべてはそれからだわ。

コクピットのハッチが開いた。タラップを下りてくるあいつを、あたしは黙って見ていた。
こういう時はね、こちらからは話しかけないものなのよ。まずは、弱い立場の者から喋らせる。それに、タラップの上から答え返されるのもごめんだわ。
エアジェットからやや離れた場所で、あたしは立ち止まった。そこへ一見平然と、あいつがやってきた。
「相変わらずだな、おまえ」
笑いながらそう言うと、あたしの頭に片手を置いた。ちょっぴり湿った大きな優しい掌が、あたしの髪を乱した。
微風のごとく爽やかに、あたしを素通りして歩み去っていくその姿…
…って、ちょっとあんた。
「何なのよ、その態度は!!」
堪らず怒鳴った。まさにポーチへと消えかけていたヤムチャの背中に向かって。
何で笑ってんのよ。何が『相変わらず』なのよ。…今のは一体何なのよ。誤魔化してんじゃないわよ!
振り向いたあいつの胸倉を、すかさず掴んだ。
「あんたには反省の色ってものがないわけ!?」
どうして謝らないのよ。あんなので誤魔化してしまおうだなんて。冗談じゃないわ。
ヤムチャの態度はどこまでもあたしの神経を逆撫でした。あいつは僅かに身を竦めながら、呟くように言った。
「何の話だ?」
空っ惚けてんじゃないわよ!
そんなので逃げられると思ってるの?さっさと謝りなさいよ。話はそれからよ。
そう言ってやろうとして、あたしは口を噤んだ。茫洋としたヤムチャの瞳に宿る、不解の色。こいつ、まさか…
「最ッ低!」
「だから何だよ!?」
ヤムチャが叫び返した。逆切れ?いいえ、そうじゃない。その方がまだマシよ。
あたしはヤムチャを睨みつけた。そして、言いたくもない台詞を吐いた。
「昨日のデートよ!!あたしずっと待ってたんだからね!」
「デート?…」
ヤムチャは口篭った。…やっぱり!
忘れてたのよ。約束を。約束そのものを…
「どんな約束だったっけ」
その間抜けな声を耳にした瞬間、手が動いた。あいつの左頬を思いっきり引っ叩いてやった。
のうのうと訊いてくれたもんだわよ。まったく小バカにしてくれるわよね!
右手に痺れが走った。掌がじんじんする。
平手打ちなんてね、本当はしたくないのよ。こんなの痛いだけよ。なのに、どうしてこいつはあたしにそれをさせるのよ。
「消えてよ」
横目で睨みつけながら、それだけをヤムチャに言った。
これ以上戯言は聞きたくないわ。これ以上ぶったら、右手が使い物にならなくなっちゃう。あたしはこれから卒業論文を書かなくちゃいけないのよ。
「ブルマ…」
「さっさと消えて!」
ヤムチャは慰みを乞うような目であたしを見た。それにあたしは再度腸を煮えくり返された。
冗談じゃないわ。慰めてほしいのはこっちよ。あんたは加害者。あたしが被害者よ!
ヤムチャが後退った。あたしの顔を見つめながら、2歩3歩。
そして踵を返した。その足の向く方向を、あたしは見咎めた。
「ちょっと待ちなさいよ」
ヤムチャは再びポーチへと向かっていた。
「あんた、あたしのことはすっかり忘れてたくせに、その家には入り浸ろうっての?都合良すぎなんじゃないの?」
あたしが消えろと言ったら、あたしの目の前から消えろということよ。そしてここはあたしの家なのよ!
「ブルマ、それは…」
「あたし、間違ったこと言ってる?」
あたしはもう声を荒げなかった。その必要はなかった。こいつに理なんてないわ。だいたい、すべてこいつが蒔いた種よ。
「…わかったよ」
微かに視線を外しながら、ヤムチャは言った。そして元来た道を戻り始めた。下りたばかりのタラップを、静かに上った。最上段に足をかけて、あたしの目を見つめて言った。
「…じゃあな」
囁くような、呟くような声で。
あいつの乗ったエアジェットは去った。豆粒と化すそれを遠目に見ながら、あたしは一人ごちた。
「ざまー見なさい!」


「追い出してやったわ」
翌日、人のごった返す学院の研究室で、あたしは高らかに宣言した。
こんなことですっきりするはずもないけれど。とりあえずの成果よね!
素材を試験管に取り出す手は休めず、ディナが言った。
「何の話?」
「こうるさい男の話よ」
昨日はこうるさくはなかったけど。案外、素直なものだったわ。
今度はディナは手を休めて、訝しげな視線をあたしに寄越した。
「あんたたち、離れてたんじゃなかったの?」
「帰ってきたのよ」
のうのうと間抜け面を引っ下げてね。
あたしは事の次第を話して聞かせた。全然恥ずかしくないわ。勝利報告だもの。それを受けて、ディナが神妙な顔で言った。
「今度こそ終わったってわけか」
「だから、そうじゃないったら」
「どこがよ?」
「どうせそのうち帰ってくるのよ」
のうのうと間抜け面を引っ下げてね。
あたしが言うと、ディナはわざとらしく目を瞬かせ、ついで呆れたようにあたしを見た。
「何その男。そこまでやっても帰ってくるの?奇特な男ね。もっと大事にしたら?」
今度はあたしが呆れる番だった。
「あんた、いちいち言うことが違うじゃない。一体どっちの味方なのよ」
「どっちの味方でもないわよ。他人の色恋沙汰には立ち入らないことにしてるの、あたし」
考え方には同意だけれど、とてもそれを実行しているとは思えないわ。だって…
「それにしては身を乗り出すじゃない」
ディナの答えは簡潔だった。彼女は気のなさそうな口調で言い切った。
「おもしろいからよ」
…あたしには友達はいないと思うわ。
そう思って、あたしは口を噤んだ。


2週間を、あたしは大勢の人の中で過ごした。
学院では同期の人間に囲まれて。C.Cでは父さんやみんなに囲まれて。その中にあいつはいなかった。
ヤムチャはまだ一度もやって来なかった。連絡も何もなし。まったく梨のつぶて。
何よあいつ。マジで帰ってこないわけ?普通もう一度謝りにくるでしょ。根性なしなんだから。
あたしの生活は、あたし自身の要素にすっかり染まった。C.Cで父さんと話すことも、学院でディナと話すことも、もっぱら研究の話。ディナには、もうヤムチャの話をしなくなった。
話すことが何もなかったからだ。ディナも話をあたしに振ってこない。彼女はもともとそういう人だ。聞きはするけど振ってこない。張り合いないったらないわよね。
まあ、訊かれても困るけど。だって、何もないんだから。
…そう、何も。
あたしは少しイライラしてきた。


「…はい、まだ…。はい。はい!え?…はい!ヤムチャ様!お気をつけて!」
ひさしぶりにあいつの名前を聞いた。あいつの僕の口から。あたしが眉を上げた時、すでにプーアルはその電話を切っていた。
C.Cのリビング。イレギュラーで学院から早く帰ってきて、あたしはこの不愉快極まる事態に遭遇した。
あいつ、プーアルには連絡してたのね。何てやつよ。
しかも、あたしがいない隙に。どこまで卑怯なやつなのよ!
一時の呆然から解き放たれて、あたしはプーアルの元へ駆け寄った。その足音で、初めてプーアルはあたしの存在に気がついたようだった。さすがあいつの僕ね。鈍いったらありゃしない。
「あいつからの電話ね。あいつが今どこにいるのか教えなさい」
リビングの片隅で、プーアルに詰め寄った。プーアルは驚きと困惑の入り混じった目で、あたしを見つめた。
「で、でも…」
「早く!」
ここはあたしの家なの!そのあたしを無視して、2人でこそこそ何やってんのよ。バカにするにも程があるわ。
プーアルは口篭りつつも、結局はあいつの居所を吐き出した。当然よ。プーアルはあいつの僕。あいつの僕はあたしの僕よ!
そして今度はその主を絞めてやるわ。


「またここなの…」
もう怒る気力も失せてきた。
絶対、わざとよ。あいつ、わざとやっているに決まってるわ。
プーアルに伝え聞いたあいつの今いるポイントは、北の森だった。前に来たところとは違う方面だけれど、結局は北の森よ。…ここ、あいつのエスケープポイントなのかしら。
見晴らしのいい場所を選んで、エアジェットを下ろした。もう空から探すのはこりごり。このエアジェットは狭地着陸できないし。…あれは全壊しちゃったわ。そのうちまた造ろうかしら。今度は生命探知機も組み込んで。まったく、手間かけさせるんだから。
エアジェットをカプセルに戻して、あたしは歩き出した。だいたいの居場所はわかっている。電話がきてからまだ3時間しか経っていない。きっとすぐ見つかるわ。
陽が出ているにも関わらず、森の空気は冷たかった。こんもりと生い茂った木々が、陽の光を遮っている。できるだけ視界の効く森の端を歩きながら、遠目にあいつを探した。
どうして、あたしが探さなくちゃいけないのかしら。悪いのはあいつなのに。あいつの方から謝りにくるべきなのに。そんなことを考えながら。
小一時間程歩いて、1つ目の森を抜けた。遮蔽物のない平地を目の前にして、立木に身を凭れた。休める場所があるうちに一休み。あたしみたいな都会人はね、こういうところを歩くのに慣れてないのよ。…あたしって、えらいわよね。あいつみたいな面倒な男と付き合えるのはあたしくらいのものよ。もっと大事にされるべきだわよ、本当に。
一陣の風が吹いた。落ちゆく葉と平地に巻き起こる砂塵から目を守って、再び目を開けた時、黒い影が視界を掠めた。
「いた!」
顔も何もわからないけれど、人であることは間違いない。となれば、当然あいつよ!
「ヤムチャー!」
声が届くかどうかはわからないけれど、とりあえず叫んでみた。こっちからはわからないけれど、あいつの方からは見えているに違いない。森の方は視界がクリアーだし、だいいちあいつはそういう人種よ。
反応はなかった。あたしはすっかり頭にきた。
だって、絶対気づいてるはずなのに。理由はないけどきっとそうよ。大概いつもそうだもの。…無視か。上等じゃない。
「ヤームー」
さっきよりも大きな声で叫びかけたその瞬間、陽が翳った。あたしの周りだけ。
振り向いたあたしの視界をそれが占拠した。体長4mにもなろうかという暗灰色の4本足の獣。…熊!?でも熊ってこんなに大きかったっけ!?
顔は熊に向けたまま腰のあたりを弄って、何も掴めなかった手を握った。そうだ、銃は持ってこなかったんだった。あいつはすぐに見つかると思ったから。それに、銃は使うなとも言われていた…ヤムチャに。こんな事態になってもあいつの言うことをきいてるなんて、あたしがどうかしていたわ。あんな嘘つき男の言うことなんて!
でも今は、後悔している時じゃない。恥を覚悟で、言いだしっぺに助けを求めるしかない。
「ヤムチャ!助けてー!!」
あたしは疑っていなかった。ヤムチャが来てくれることを。だって、聞こえるはずだもの。例えそうじゃなくたって、気づいてくれるはずだもの。あいつはそういう人種だもの。今までずっとそうだったもの。
木の根に足を取られた。尻餅をつきながら、あたしは再びその名を呼んだ。
「ヤムチャー!!」
逆さまになった視界の片隅に、さっきと同じ場所に留まり続ける相変わらず豆粒のような黒い影が見えた。

どうして?
あたしが見えないの?あたしに気づかないの?あたしの声が聞こえないの?
いつだって助けてくれたのに。いつもは助けてくれてたのに。
もうあたしのことはどうでもいいの?

あたしは目を瞑った。もう何も見たくなかった。目の前にいる生き物も。目の前にはいない人物も。
視覚が黒一色で占められた。次に聴覚がその音で占められた。

轟音が静まって、その声が耳に届いた。
「大丈夫か?」
おもむろに目を開けた。逆さまになった視界を占拠するその姿。黒髪黒瞳の…
一瞬、視界がぼやけた。あたしは意識して瞳を見開いた。
「バカ!」
逆さまのあいつに向かって叫んだ。身を起こしてまた叫んだ。
「根性なし!」
ヤムチャは怯んで見えた。あたしはその身に抱きついた。

怖かったからよ。怖いと、人は何かに抱きつきたくなるのよ。
そして、ここにはこいつしかいないのよ。
他に理由はないわ。




森の隅に設置したカプセルハウスの中で、塗れた土と砂をシャワーで洗い流しながら、あたしは考えていた。
…どうやっていたぶってやろうかしら。
あたしは、まだヤムチャのことを許してはいなかった。当然よ!さっきは助けてもらったけど、それとこれとは話が別よ。
あれだけ見事に忘れ去っておいてお咎めなしだなんて、あり得ないわ。たっぷりお灸を据えてやらなくちゃ。
だいたい、まだ謝ってもらってないし。そうよ、まずは謝らせてからよ!すべてはそれからだわ。

「おまえ、またそんな格好で…」
ラバトリーからひさしぶりにパウダーピンクのバスローブを引っ張り出して、あたしがリビングへと行くと、キッチンカウンターに凭れていたヤムチャがそれを見咎めた。
「しょうがないでしょ、何も用意してなかったんだから」
こいつを見つけたら、すぐに帰るつもりだったし。だいたい、ここにいる時はいつもこの格好だったのに、今さらよね。
ヤムチャはわざとらしく溜息をつくと、キッチンへと行きおもむろにフリーザーを開けた。その手に掴まれたゴールドラベルの黒い瓶に、今度はあたしが咎める番だった。
「あんた、何ビールなんか飲もうとしてんのよ。未成年のくせに」
いつもいつもあたしにそういうこと言うくせに。そもそもどうしてビールなんかあるのよ。ひょっとして、これまでも飲んでたのかしら。…ズルイわね。
あたしが言うと、ヤムチャは会心とも言える笑みを浮かべた。
「残念だったな。俺はもう大人だ」
「は?」
「誕生日だ」
一瞬、時が止まった。

…誕生日。マジ?嘘でしょ?
ヤバイ。すっかり忘れてた。っていうか、覚えてなかった。こいつの誕生日って今日だったっけ?

誕生日を忘れるなんてあり得ない。あたしはそう思っていた。あたしも一度忘れられたけど。でも結果的にプレゼントは貰った(本人は気づいていないみたいだけど)。翻って、今日のあたしと言えば…
…助けてもらった。
あちゃぁ〜。最低。最低だわ、あたし。
せめてこいつが帰ってきていればなあ。そうすれば思い出せたかもしれないのに。いえ、思い出せたに違いないわ。だからこいつが悪いのよ!そもそもこいつが…

あたしは問題の人物を見た。ヤムチャはあたしの内心の葛藤などまるで気づかずに、楽しそうにビールを飲んでいた。ちびちびと、舐めるように。…ビールってこんな風に飲むんだったかしら。あたしのイメージとは少し違うわね。
「ねえ、あたしにも一口ちょうだい」
言いながら両手を出した。その片方を、ヤムチャがピシリと叩いた。
「ダメだ。おまえはこっち。まだ未成年だろ」
「ケチ」
あたしは口を尖らせながら、もう片方の手に掴まされたバドワを口に含んだ。それを見て、ヤムチャが愉快そうに笑った。


ま、いいか。本人は気にしてないみたいだし。
やぶへびにならないよう、適当に優しくしておこうっと。
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