夜の男
そのプログラムを完成させて、モニターから目を離した。
おもむろに『引き出し』に手をかけた。
軽くなる体。周囲を巡る柔らかな光体。どこまでも続く漆黒と深遠。何物にも触れない空間。
「ああ、終わったぁ〜」
全身から力を抜いて、あたしは宇宙に自分を投げ出した。
発明が当初の目論見を外れて使用されることは、よくあることで。自分の負の感情を宥めるために造ったはずのこの発明品を、あたしは違う目的で頻繁に使用していた。
正の感情を増大させるためだ。特に一仕事終えた後に発動すると、すごくいい気分になれる。開放感がいや増すと言うべきか。同時に充足感も満ちてくる。
まあ、正と負は表裏一体だから。あながち的外れな結果というわけでもないのかもね。

いい感じに手持ち無沙汰になったあたしは、久しぶりにヤムチャの部屋を訪れた。
そこにあいつがいたからだ。あいつは一週間ほど前からC.Cに帰ってきていた。ほぼ3ヶ月ぶり。あたしはちょうど先の作業が佳境に入ったところで、全然構えなかったけど。
あたしが部屋に入った時、あいつはちょうど筋力トレーニングを始めるところだった。
タイミング悪すぎ!っていうか、まだやるわけ?もうすぐ明日になるっていうのに。だいたいあたしといる時くらい、少しは手を休めてもいいんじゃない?3ヶ月ぶりなのよ!
床に両足を投げ出して、清めたはずの体を再び汗に塗れさせるその様を、あたしはあいつのベッドの上で、一週間放置していた学術誌を捲りながら見ていた。
「ねえ、まだ寝ないの?」
奇を衒わず訊ねたあたしの言葉に、ヤムチャは答えた。
「眠くならないんだよ」
どう思う?これ。妥当な答えだと思う?
5ヶ月前に結ばれたばかりの男女が、片手の指にも満たない数の夜を一緒に過ごしている時の会話だと思う?
露ほども言葉の意味を量らないあいつの顔をまじまじと見つめながら、あたしは自分に言い聞かせるように呟いた。
「あんたってそういう人間よね」
「は?」
初めてキスをした時もそうだったわ。
少しは熱くなる時期もあるんだけど、すぐに素に戻っちゃうのよね。また元の鈍ちんよ。
せっかく一段落したのに。あーあ。


一日を待たずして、あたしは再び忙しくなった。
院生なんてそんなもんよ。忙しくない院生なんて、ただの親の脛齧りよ。それでなくても、あたしはそう言われかねない立場だし。正確には、脛齧りじゃなくて七光りだけど。
最も、外ではすでに言われている。そういう時は、父さんとは違う大学を選んでよかったとつくづく思う。プライベートでまでそうだったら、やってられないものね。
こういうのってあいつらにはないのかしら。亀仙流のやつらよ。亀仙人さんは、世の中では結構敬われているみたいだし。信じ難いことだけど。
あたしが訊ねると、ヤムチャはこともなげに答えた。
「ないな。っていうか知らん」
「知らない?」
「そんなこと言われる機会がないよ」
「…幸せね」
縦社会がないなんて、本当に羨ましいわ。あっても気づいていないのかもしれないけど。…余計に幸せ者だわ。
あたしの呟きに、ヤムチャが意外そうな声を出した。
「おまえにはあるのか?」
「パーティとか行くとあるわよ」
父さんの代理としてパーティに出ることが、あたしには時々ある。よっぽど父さんの手が放せなくて、なおかつあたしが暇な時だけだけど。っていうか、まだ一度しか行ったことないけど。
でもこれからその機会は増える一方だろうし。少なくとも減ることはないし。パーティなんて、フリーでもなきゃ行くメリットないわよね。もしそうでも、どうせおっさんしかいないけど。
あたしが小さく溜息をつくと、いつの間にか隣に座り込んでいたヤムチャが、軽く肩を引き寄せてくれた。…ちょっとは気が利くようになってるのよね。そこは評価したいんだけどな。
でも、その後こんなことを言うし。
「おまえ、隈ができてきてるぞ。もう寝ろ」
ふーんだ。朴念仁。


「ま、こんなもんか」
鏡の中の自分の姿に及第点をつけて、最後に後ろ髪を撫でつけた。少し寝癖が残っている。
陽気がよかったから、うっかりうたたねしちゃったのよね。気合いが入らないったらないわ。
空にはまだ夕陽が残っていた。初夏の夕暮れ。気持ちのいい黄昏。世の中休日。なのにあたしはこれから仕事。
ポーチを出たところで、外庭からこちらへと向かってくるヤムチャの姿が見えた。あたしは足を止めて、その声を待った。
「どこか行くのか?」
あたしの足を飾るハイヒールに目を落としながら、ヤムチャが訊いた。
「仕事。パーティよ」
「ブリーフ博士は?」
この質問に、あたしは苦虫を噛み潰した。
「…ダブルブッキングしたのよ」
そうでもなきゃ休日出勤なんてしないわよ。
前の時もそうだったのよ。父さんって、そういうの本当に断らないんだから。っていうか、何も考えてないのよね。絶対、秘書が必要な人種よ。あんな人の秘書なんかやりたくないけど。
結果、夫婦で行く必要のある重要なパーティに父さんたちが行って、わりとどうでもいい方のパーティにあたしが行くというわけ。使われてるのもいいところよね。
「あんたも来る?エスコート役なら空いてるわよ」
今日のはそれは必要ないパーティだけど。こいつ、見た目的には合格ラインだし。暇潰しにはなるわよね。
「いや…」
ヤムチャは笑いながらも言葉を濁した。その態度に、あたしは腹を立てなかった。
こいつが行くなんて言うわけないわよ。修行してた方が楽しい人種よ。だいたいあたし自身、サボりたいくらいなんだから。
「じゃあね。行ってきます」
あたしはさっさと後ろ手を振った。
さあ、仕事仕事。

せめて学者のパーティだったらな。いくらかでも楽しめるのに。
この日あたしが行ったのは、何かの施設の創立記念パーティ。C.Cがそこのシステムに関与していたから。っていうか、実質構築したから。装置とかプログラムとかいろいろ。詳しいことは知らないわ。10年も前のことだもの。
目に入ってくるのは、恰幅のいいおっさんばかり。科学のかの字も齧っていない、小物政治家よ。何の共通点もないわ。
時折廊下で若い男にすれ違ったけど、そういう人はみんな秘書控え室に吸い込まれていく。あっちの部屋にだったら、喜んで行くのにな。結構いい男も見かけたし。
…やっぱり、暇潰しを連れてくるべきだったかな。
溜息を数えるのもバカらしくなってきた頃、突如マイク越しにあたしの名前が呼ばれた。
あたしは思わず固まった。

帰りの道を、あたしは自分のエアカーで進むことができなかった。会場で手配されたタクシーから、やっとの思いでC.Cの敷地内へと転がり下りた。エントランスへ入ったところで、力尽きた。もう一歩も動けなかった。
いいわ、もう。どうせ夏だし。今夜はここで寝るわ…
おざなりに横になり、運よくまどろみかけた頃、上から声が聞こえた。
「何やってんだ、おまえ」
ヤムチャだ。夜の修行が終わったのね。
そうは思ったけど、あたしは答えなかった。答えられなかった。
「おい」
ヤムチャがあたしの手に触れた。しかたなく、あたしは口を開いた。
「…気持ち悪いのよ」
だから放っておいて。うまい具合に眠れそうなんだから。
「飲んだのか」
咎めを隠そうともしないその声音に、息も絶え絶えにあたしは答えた。
「…飲ませられたのよ」
スピーチがあるなんて聞いてなかったわよ。
それは適当に切り抜けたからいいんだけど。スピーチなんて慣れてるし。でも、その後が大変だった。
ひっそり壁の花やってるつもりだったのに。後から後からおっさんたちがやってきて…あんな色もクソもないパーティにこんな若い美人がいるってわかったら、そうもなるわよね。4時間ひたすら乾杯の嵐よ。あれ、絶対わざとよね。女を酔わせて楽しもうって魂胆よ。…オヤジって最悪。
「吐いちまえよ。楽になるぞ」
「無理」
それができたらとっくにやってるわよ。だいたい、動くことすらままならないっていうのに。
あたしは口を閉じた。…もう喋りたくない。
続いて目も閉じた時、耳元に吐息がかかった。脇の下にあいつの手が潜り込んだのがわかった。
「持ち上げるぞ。いいか?」
あたしは答えなかった。
…もうどうでもいいわ。

ベッドは気持ちよかった。床よりずっと。
「サンキュ…」
暑さのあまり除けたタオルケットを、ヤムチャが強引にかけた。
「温かくしなきゃダメだ。ほら、薬。水も。可能な限り体に入れろ。明日酷いぞ」
「無理」
再び呟きながら、あたしは思った。
…こいつなんで、こんなに詳しいのかしら。医学の講義受けたあたしだって、酔いの対処法なんて知らないのに。
ヤムチャはなおも言い張った。
「ダメだ。薬と水は飲んでおけ」
…何だか至りすぎて鬱陶しくなってきた。ありがたいけど、放っておいてほしいわ。ここまででもう充分。早く眠らせて…
「飲ませて」
ただただ惰性であたしは呟いた。起き上がって飲む気力なんかないわよ。そんなものがあったなら、こいつを追い払ってる…
返事はなかった。ふいに口に温かいものが当てられて、2粒と水が流れ込んできた。
…口移し。
「サンキュ…」
あたしはただそれだけ呟いた。
そして眠りに落ちた。


目が覚めた時、ヤムチャの姿はなかった。燦々と差し込む太陽の光を床の上に認めて、枕元に手を伸ばした。自分の物ではない時計で時間を確かめて、そこでようやくあたしは気づいた。
…あいつの部屋か。
そう言えば昨夜盛んに何かを訊かれた気がする。あれ、あたしの部屋のロックナンバーだったのね、きっと。
朦朧とする頭を持ち上げた。途端にもう1つ要素が加わった。…頭痛。あったま痛〜い。
コーヒー…いえ、水がほしい。うんと冷たいやつ。

リビングへ辿り着いた頃には、大分頭が醒めていた。のうのうと昼食の席についている人物を目にして、それはますます醒めた。
「ちょっと、父さん。スピーチがあるならあるって言ってよ。知ってたらもっとユニセクシャルな格好で行ったのに」
そうすれば少しは場も落ち着いたかもしれないのに。少なくともあんなに目立つことはなかったのに。
父さんはのうのうと答えた。
「はて、そうじゃったかな」
「そうだったかじゃないわよ!おかげで酷い…あいたぁ…」
あたしは頭を抱えた。精神的、物理的共に。
自分の声が、自分に厳しい。こんなこと初めてだわ。…これが二日酔いってやつか。
悩ませるだけの人間を相手にすることをやめて、キッチンへと足を向けた。あたしが何か言うより早く、そこでコーヒーを淹れていたらしいヤムチャが、栓を抜いたバドワをあたしに寄越した。
「サンキュー」
まったく至れり尽くせりね。珍しいこともあるものだわ。
ベッドにも連れて行ってくれたし。薬も飲ませてくれたし。
ふいにあたしは思い出した。手渡されたバドワを口には運ばず、あいつの方へ差し出してみせた。
「飲ませて」
途端にヤムチャがコーヒーを咽させた。昼食の席から、父さんを除くみんなの視線が向けられた。
「おまっ…」
「冗談よ、冗談」
あたしが打ち消してみせても、ヤムチャの変化はやまなかった。
一応意識してやってたのね。こいつのことだから、ただの天然行為なのかと思ってた。
まあ、天然であれをやられちゃ堪ったもんじゃないけど。他所でもやってるかもしれないなんて、冗談じゃないわ。
ヤムチャの頬は赤らみ続けた。自分でやっておいてこんなに動揺するなんて、やっぱり朴念仁…
とは、ちょっと違うか。
…小心者?
その言葉を、あたしは脳裏から引っ張り出した。

午後の時間のほとんどを、あたしは外庭で過ごした。ヤムチャの言葉に従って、ひたすら水を飲みながら、昼寝と排泄行為を繰り返した。…ようやくわかってきたわ。こいつ経験者ね、二日酔いの。
こいつがそんなに飲んでるところなんて見たことがないけど、ものすごく想像できるわ。きっと調子に乗って浴びるほど飲んだのよ。こいつ外面は、えらく威勢がよかったりするから。…それを内でも発揮してくれるといいのに。
視界の中で躍動するあいつを、あたしはなんとはなしに眺めていた。あたしの寝転がる場所とは真逆のところに、あいつはいた。
…なんとなく素っ気ないような気がするのよね。
朝…というか昼に会ってから。あれから話したことと言えば、二日酔いのアドバイスだけだし。さっさと外庭に行っちゃって、しかもあたしのところに全然来ないし。せっかくあたしが学院休んだ(というか休まざるを得なかった)んだから、もうちょっと構ってくれればいいのに。避けられてるというほどじゃないけど。まあ、もともと日中は別々の生活だけど…
昨夜は異常に甲斐甲斐しかったから、そのギャップかしら。

夕食の頃には、あたしの二日酔いはほとんど鳴りを潜めていた。さすがにまだご飯を食べる気にはなれなかったけど。なんとなく手持ち無沙汰でしかも覇気にも乏しいあたしは、この前完成させたプログラムのデバッグをやることにした。
面倒で退屈。でもやらないわけにはいかないし、インスピレーションを要するというわけでもない。そんな作業を延々と続けた。思っていたよりもはかどって、日付が変わる少し前に、最後のキーを押すことができた。
「ああ、終わったぁ〜」
達成感はない。でも開放感はある。デバッグってそういうものよ。
肩から力を抜いて、コンピュータの電源を落とした。そして今やすっかり習慣となった『引き出し』に手をかけた。
軽くなる体。周囲を巡る柔らかな光体。どこまでも続く漆黒の深遠。何物にも触れない空間。
不調だった体は今や元に戻りつつある。デバッグとはいえ、二日酔いの体でよくやったわ。
なのに、どうしてかしら。
なんとなく物足りない。もちろん心地いいんだけど、なんていうか…満たされない。
あたしの造った空間。あたしのために造った空間。あたしだけの空間。
…あたししかいない。

その時、ふと気づいた。思い出した。これを造った時のことを。あの時考えていたことを。
確かこれ、あいつがいない時に使おうと思って造ったのよね。もともとはストレスを発散するためのものだった。
なのに今では、あいつがいる時に、充足感を得るために使っている。
正と負は表裏一体よ。発明が当初の目論見を外れて使用されることも、よくあることだわ。
でも、あたしのこの行為は…


シャワーを浴び、僅かに残っていた酔いを体から追い出して、あたしはヤムチャの部屋へ行った。あいつの一日が終わった頃を見計らって。
いつもと同じようにドアを開けた。ロックを外し、あいつの名を呼びながら。
あいつはベッドの上にいた。仰向けに寝転がって、頭の後ろで腕を組んでいる。あたしの顔を見ると一瞬顔を上げて、すぐに姿勢を戻した。
「どうしたの?」
あたしは思わず訊ねた。
こいつが部屋で、こんな風にごろごろしているのは珍しい。調子悪いのかしら。
「うん?別に」
ヤムチャは淡々と答えた。どことなく気乗りしない様子。何になのかは知らないけど。あたしはベッドの上に座り込んだ。
「今日はトレーニングしてないのね」
「うーん、ちょっとな」
変なの。
トレーニングをしていないのは結構なことだけど。その方が話しやすいし。でもどこか妙な感じよね。…いつもとのギャップかしら。
あたしはヤムチャの横に寝転がった。いつもと同じ場所。いつもと違うのは、暇潰しのための雑誌がないということ。それと、こいつが隣にいるということね。
「なんか怒ってる?」
その鼻を突つきながら、ヤムチャの顔を覗き込んだ。眉が上がってるとかそういう目に見える兆候はないけど、なんとなく表情が固い。あたし自身には怒らせたような心当たりはなかったので、どうでもいいと言えばどうでもいいんだけど、なんとなく気になった。ううん、気になったというよりも、珍しかった。おもしろいというほどのことではないけど、やっぱり珍しい。陽気でも安穏としているわけでもないのに、何をするでもなくベッドに転がっているこいつの姿が。
「怒ってないよ」
ヤムチャは微かに笑ってそう言うと、あたしの髪に手を伸ばした。伸びかけの横髪を耳に引っかけたり、後ろ髪を指に巻きつけたり。無言でそんなことをし続けた。
すっごく妙な雰囲気。流れている空気は緩いし、あたしも嫌ってわけじゃないんだけど、こいつの考えていることがいまひとつ掴めない。そういう雰囲気に近いような気はするんだけど、そうじゃない。
なんていうの、そういうの。…生殺し?
いきなりヤムチャが起き上がった。もうまったくあたしの髪に未練はないようで、今までの態度からは打って変わってきっぱりとした口調で言った。
「おまえ、もう自分の部屋に戻れよ。明日は学院行くんだろ?」
瞬時に、あたしの心に火がついた。
ちょっと、何よそれ。
自分の気が済めばそれでいいわけ?っていうか、あんなので気が済むわけ?
たかが薬飲ませるためだけにあんなことするくせに、それよりはまだいい雰囲気の今は何もしないわけ?
そりゃ、あんたは気が済んだんだからいいでしょうよ。あんなので気が済むあんたの気が知れないけど。でもそれじゃ、あたしの気持ちはどうなるのよ。朴念仁だか小心者なんだか知らないけど、中途半端なことしないでよ。
言ってやる。もうはっきり言ってやるわ。
「今夜はいいわよ。昼間寝たし。今日は戻らない!」
ともすれば睨みつけたくなる気持ちを、あたしはどうにか抑えつけた。ヤムチャが片眉を上げた。その口から出た言葉に、あたしはまったく唖然とした。
「おまえなあ。そんな誘いをかけてる女みたいなこと言ってないで…」
信じられない。
そこまでわかってるのに、どうしてわからないの?こいつの心は一体どうなっているの。
あたしの怒りは一瞬にして呆れへと変わった。
「みたいじゃなくてそうなの」
噛んで含ませるように、あたしは話した。
「あんた、本当にわからないの?」
ヤムチャは黙った。あたしは思い出していた。
なんか、初めての時もこんな感じだったような気がする…
そう思ったら、ちょっぴり心が広く持てた。ちょっぴりだけ。あたしは一時呆れも捨てて、ただ一言訊いてみた。
「ダメ?」
「ダメ、って…」
ヤムチャは困ったようにあたしの言葉を繰り返した。
でも、結局はあたしの言うことをきいてくれた。




いまひとつ体から力を抜けぬまま、あたしはベッドに横になった。
「重い」
思わずそう呟いた。あたしの上になる男の存在を確かめながら。
体を浮かせかけたあいつの胸元を、拳で叩いた。
「固い」
シングルベッドからはみ出しかけた足先を、タオルケットの中へ戻した。
「狭い…」
「おまえな…」
ヤムチャが眉を顰めさせてあたしを見た。
不思議よね。
とても心地いい状態だとは思えない。こんなに緊張してるのに。恥ずかしくすらあるというのに。
何か言いたそうにしているあいつを無視して、あたしはその首元に腕を絡め、あいつの顔を引き寄せた。
あたしの両腕の中に収まる、深遠には程遠い漆黒の脳細胞。
ふと、心の中にその言葉が浮かび上がった。いいえ、違う。本当は初めからそこにあった。ただ引っ張り出さなかっただけ。
あいつの髪を頬に感じながら、あたしは自分でも不思議なほど自然にそれを口に出していた。
「…き」
その瞬間、ヤムチャがあたしから身を離した。
「もう一度」
あいつはひどく驚いていた。あたしの顔を両手で包み込んで、かつてないほど強い眼光で、あたしを見下ろしていた。
「…もう一度言ってくれないか」
あたしは心を引き締めた。もう一度それを取り出す気は、あたしにはなかった。
「ダメ。もう言わない」
だから、あいつの視線を外した。物理的に。自分の腕で。
再びあいつの髪を頬に感じながら、心の中で呟いた。

一度だけよ。あんなことは一度だけ。
聞き逃したあんたが悪いのよ。
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