朝の男
一番大きな布を剥ぎ取られて、肩にかかる紐に手がかけられた時、あたしは思わず目を伏せた。
恥ずかしかったからだ。だってほら、やっぱりちょっと…まだ慣れないし。その点、男はいいわよね、楽そうでさ。初めての時のこともそうだけど、女なんて損ばっかりよ。
ぎこちなくあたしに触れながら、ヤムチャが優しくキスをする。…キスだけは慣れてるから。皮肉じゃないわ。それはあたしだって同じだもの。
新旧入り混じった緊張と脱力のひとときを過ごして、あたしはいつもと同じことを考えていた。
…こんな時くらい、言ってくれてもいいのにな。
あたしは言ったのに。ねえ。


いつものように学院へ行って、いつものように研究室のドアを潜り、いつものように机の上で、研究論文の最終チェックを行おうとしていたあたしは、ディナの声にその手をとめられた。
「嘘!」
「本当。もう掲載誌も決まってるって。昨日教授が一日中あんたのこと探してたわよ。どうして2日も休んだのかは知らないけど…ちょっと、大丈夫?」
がーーーーーん。
あたしは顔を上げられなかった。
信じられない。あたしが夢の世界にいってた間に、そんなことになってたなんて。
一日を費やして肉体的ダメージから抜け出たあたしは、翌日再び学院を休んだ。…睡眠不足。昼間寝たから大丈夫だと思ったんだけど…甘かった。3ヶ月ぶりだってこと忘れていたわ。いえ、覚えてはいたんだけど。とにかく2日を昼寝で過ごし、学院へと出てきたあたしは、そこで5分を過ごすなり、精神的ダメージを被った。今度は一日どころじゃ収まらない。これまでの3ヶ月間がまるっきり無駄になった。
研究をすっぱ抜かれたのだ。どこかの誰かさんに。先んじられた研究なんて、何の価値もない。それどころか…
「だから、さっさと次のテーマにとりかからないと間に合わないわよ」
わかりきったことを言うディナの声を、あたしは脳裏から追い出した。
…あんまり畳みかけないでほしいわよね。
もうほとんど完成してたのよ。それがタッチの差で、一日にしてゴミになった。それがどれだけ悔しいことかわかる?
「やってられるかっつーの!」
あたしは叫んだ。そしてその言葉を実行に移した。
もと論文だったものをゴミ箱に捨てて、学院を後にした。

なんとはなしに街へ出た。
C.Cに戻ってもやることないし。…あるんだけど、やりたくないし。あいつはトレーニングで構ってくれやしないだろうし。
遊ぶのなんてひさしぶり。院生になってからというもの、あの研究にかかりきりだった。それにあいつもいなかったし。
ショッピングエリアに向かいかけて、足をとめた。買い物をする気分じゃないわ。
映画でも観ようかな。思いっきりハッピーなやつ。うんとロマンティックなやつ。
だって、こんな気分の時に頭なんか使いたくないもの。よってミステリーはパス。神経をすり減らすホラーもお断り。アクションは疲れちゃう。コメディは悪くないけど、女だったらやっぱりラブストーリーよね。
だから、あたしはぐうの音も出ないほどロマンティックな恋愛映画を観た。同時に1つの現実を見た。
どうして恋愛映画に出てくる男って、ああも甘ったるいわけ?
「愛してる」とか「好きだ」とか、すぐ言っちゃうしさ。常にヒロインのこと気遣っててさ。いつだって傍にいるの。あんな男、あんな男…羨ましいじゃない。
あたしのなんか、いつだって留守にしててさ。たまにいたって、トレーニングばかりしててさ。「好きだ」なんて、一度だって言われたことないっつーの。
同じ男なのに、どうしてこうも違うのかしら。

C.Cに戻った頃には、陽が暮れかけていた。あたしはなんとなく、ヤムチャの姿を探した。
外庭にはいなかった。リビングではウーロンとプーアルがジン・ラミーをやっているきりだった。自分の部屋へ行きがてらあいつの部屋を覘いてみようとして、途中の廊下でその姿を見つけた。
肩にタオル。手にバドワ。…休憩時間か。
あたしが声をかけるより早く、ヤムチャが立ち止まりこちらを振り向いた。
「よう、おかえり」
あたしはそれには答えず、その背中から腕を回して言った。
「慰めて?」
途端に、ヤムチャが口に含んでいた水を吹き出した。
ほらね、これが現実よ。
あたしが悲しんでたって、こいつは気づきもしない。優しい言葉だって、かけてくれない。
それどころかこの反応。雰囲気も何もあったもんじゃないわ。せっかくあたしが、汗臭い体を我慢して抱きついてやったっていうのに。
「おまえっ…」
文句を言いかけるあいつの声を、あたしは制した。
「もういいわ」
どうせわかってたことよ。お小言はごめんよ。
言われなくっても、ちゃんと現実を見るわよ。

いくつかの研究テーマを脳裏に置きながら、夕食を食べ進めた。
とにかく早くテーマを決めてしまわないと。時間はそうないんだから。なるべく手軽で面倒のないやつ…
そう考えかけて、思考とナイフを同時にとめた。
違うわ。そんなの逃げよ。そんなの自信のないやつのすることよ。あたしは先んじられただけで、内容で負けたわけじゃないんだから。
そう思ったら、俄然やる気が湧いてきた。胸の中がそれでいっぱいになって、ご飯なんか入る余地がなくなった。あたしは黙って席を立った。
やってやろうじゃない。

じっくりと吟味して、新たな研究テーマを決めた。
そもそも、他人と被るような研究をしていたのが間違いよ。そんなの天才でも何でもないわ。他人に理解されないくらいのことに取り組むのが天才というものよ。
そうと決まれば、明日からは早起きよ。時間はそうないんだから。
ある意味、これが一番の問題と言えた。
目覚まし時計で起きられた例がない。いえ、起きられることもあるんだけど、最低でも30分は経ってから。リピートアラームぎりぎりのところで起きるのよね。
誰かに起こしてもらおうか。でも、誰に?
ウーロンは問題外。プーアルに頼んだことはあるし、起こしにも来てくれたけれど、確か起きられなかったわ。父さん母さんもダメ。あの人たちにそんなこと期待しても無駄よ。
とすると、やっぱりヤムチャか…前は微妙だったけど、今なら問題ないし。あいつが起きた時に一緒に起こしてもらうか。少し(というか大分)早すぎるけど、まあいいわ。朝早ければみんなにバレることもないだろうし、かえっていいかもね。
このポジティブ思考。心の底から、やる気が出てきたわ。

「そんなわけだから、しばらくここで寝るわね」
言いながら学術誌を手に、あいつのベッドに潜り込んだ。
あいつの返事は無視した。だって、ここはあたしの家なんだから。あいつに逆らう権利なんかないわよ。
非常識なことだってことはあたしにもわかってるけど、背に腹は変えられない。弱い立場である女がそう思ってるんだから、問題ないでしょ。別にあいつをどうこうするわけじゃないし。ただ一緒に寝るだけよ。こいつが部屋でトレーニングをするのだって、咎めない。言わばシェアよね。ルームシェアよ。
いちいちこいつの部屋に来なきゃいけないのは、少し面倒だけど。あたしの部屋にこいつを呼ぶなんて、冗談じゃないわ。ベッドだけならいいけど、その他の部分には踏み込まれたくないわ。女って本当に気を遣うんだから。その点、男はいいわよね。気兼ねがなくてさ。
あたしはいつもより大分早めに眠りについた。こいつのベッドもだんだん慣れてきたわね。


翌日、激しい揺れを感じて、あたしは夢の世界を後にした。目の前にヤムチャの顔。うっかり怒鳴りつけようとして、何とか思い留まった。
怒らない、怒らない。起こしてくれって頼んだのはあたしなんだから。
枕元の時計を見た。5時。早いわ。早すぎよ。わかってはいたことだけど。
これから準備して学院に着いたら、…7時くらいか。まあ、許容の範囲内かな。異常な時間というほどのことではないはずよ。
「サンキュ…」
早くもドアのコンソールを押そうとしているヤムチャに向かって、そう言った。
「おう」
あいつはそれだけ言うと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
信じられない無骨さよね。おはようのキスくらいしてくれればいいのに。
「ふあぁああぁぁぁ〜…」
あたしは大きな大きな欠伸をした。
それから仰向けになって、全身を伸ばした。

「社長出勤なんて、余裕ねえ」
研究室に入るなり、そう声をかけられた。不躾な同室の友人に。
あたしは苦虫を噛み潰した。もう何匹飲み込んだかわからない。
真上をさす時計の針。最後にあいつの部屋で見たものは、それだった。
それと怒ったようなヤムチャの顔。冗談じゃないわ。怒りたいのはこっちよ。
起こすっていったらね、その人間を活動状態にまで持っていくってことよ。声をかけるだけなら誰にでもできるっつーの!
ええ、二度寝したわよ。だって眠かったんだもの。だからそれを起こすよう頼んだのに。まったく使えないんだから、あの男!
シャーレに水を張りたい欲求を、あたしは懸命に制した。そんなことをしている場合じゃないわ。
とにかく前進。今はそれあるのみよ。

「だって眠かったんだもん」
充実した半日を過ごし半ば睡魔に襲われて、夜ヤムチャの部屋を訪れたあたしは、あいつから二度寝を咎められてそう答えた。
当たり前のことを言わせる人間っているわよね。あたしの彼氏もその人種よ。
そしてそういうやりとりは、大抵あたしをイラつかせる。でも、今日はそうじゃなかった。
充実していたからだ。今度のテーマには絶対の自信があった。うまく進められる感触も掴んだ。後は時間との勝負よ。それにはこいつに一働きしてもらう必要があるわ。
っていうか、正直やりあう気が起こらないのよね。面倒くさくって。こいつはただあたしを起こしてくれさえすればいいのよ。実にシンプルなスタンスよ。
でも、それがわからないのが、あたしの彼氏よ。
「おまえ、もう諦めたらどうだ?」
ベッドの端に腰掛けながら、おもむろにヤムチャは言った。
「ダメ。早起きしないと間に合わない!」
それだけが問題なんだから。本当にそれだけなんだから。
「だから起こして。ね?」
言いながらヤムチャの腕に抱きついた。上目遣いと優しげな口調も加えてみた。
彼氏だったら、彼女のこういう仕種には騙されるべきよ。ね?特にあんたは、扱いやすさが取り柄の男なんだから。ね?あともうちょっと、話もわかるようになって。ね?
ヤムチャは黙った。…一瞬だけ。軽く頭を振って、呟くようにあたしに答えた。
「わかったよ」
よーし!それでこそあたしの彼氏よ!
「サンキュー」
あたしはお礼の意味を込めて、ヤムチャにキスをした。…ほっぺたに。口にすると面倒なことになりかねないし。
つい先日までは望んでいたことだけど、今はダメよ。面倒くさすぎるわ。
こいつはただあたしを起こしてくれさえすればいい。実にシンプルな状況よね。


朝7時に登院。午前中いっぱい実験をし、午後イチでそれを纏め、理論展開を咀嚼し、また夜まで実験。そんな日が続いた。
あたしは毎朝5時に目を覚ました。夜ともなれば、ヤムチャよりも早くに寝た。起床時間の早さと昼夜兼行の突貫作業が、あたしにそうさせた。
夜、ベッドの外で一緒に過ごす僅かな時間は、ちょっぴりだけ甘いものになった。ヤムチャはよくあたしを咎めた。毎朝のことで。本当にあたしの寝起きは悪い云々。あたしはそのたびに品を作った。
最初はウザったいと思ったものだけど、ややもしてあたしには解ってきた。きっとこれはあいつなりの愛情表現よ。じゃなきゃ、毎回同じ手に引っかからないでしょ。いくらあいつだって、そこまでバカじゃないわよ。
同じような夜と朝を繰り返しながら、いつしかあたしは思っていた。
――こういうのも悪くないな。
こういうのって『プラトニック・ラブ』って言うのよね!そりゃいつもそれじゃ嫌だけど、忙しい時にはちょうどいいわ。なんてったって早起きできるし、恋人らしい時間もそれなりにあるし、研究は捗るし。そう、こいつ意外と研究の邪魔しないのよね。口うるさくはあるけどさ。
『プラトニック・ラブ』というには、大きく欠如しているものがあるけど。それは前からのことだから。


もう数十分で4週間目に突入するという、その時。
「よーし!」
誰もいない研究室で、あたしは一人拳を掲げた。
外は真っ暗。廊下からの物音も聞こえない。孤独な居残り…でも、そんなこと全然気にならない。
終わったわ!実験が。結果もバッチリ取れた。ここから先はキーボード相手の世界。孤独な作業…でも、もう早起きをする必要はない。
意気揚々と実験器具を片付けた。意気揚々と研究室を後にした。
意気揚々とヤムチャの部屋のドアを開けた。

灯り一つ点いていないその部屋で、ベッドに潜り込んでいる人物を前にして、あたしは溜息をついた。
「ねえ、起きてよ」
本当にタイミングの悪いやつ。
いつもあたしより遅くまで起きてたくせに。こういう時に限って寝てるんだから。
『プラトニック・ラブ』でしょ。内助の功でしょ。ここは起きて待ってなきゃダメでしょ。
「ヤムチャってばー」
あたしがその背中を揺すると、やがてヤムチャは目を開けた。のそのそとベッドの上に身を起こしながら、不機嫌そうに呟いた。
「…ああ、おかえり」
こいつ、寝起き悪ーい。
ひとにさんざん言うわりには、自分だって結構なものじゃない。いつもあたしより先に起きてるから気づかなかったわ。
ヤムチャはそれきり言葉を発さず、ベッドの上に鎮座し続けた。あたしは黙ってその身に抱きついた。お礼の気持ちを込めて。
そう、こいつには感謝していた。ここまでこぎつけることができたのも、5%くらいはこいつのおかげよ。あとはあたしの実力だけど。
「構って!」
あたしが笑ってそう言うと、ヤムチャは苦虫を噛み潰したような顔で答えた。
「おまえ、明日だって早いんだろ」
「あ、いいのよ。早起きはもう終わり。一区切りついたから。あとは自分のペースでやるわ」
そう、終わったのよ。実験も。早起きも。ルームシェアも。…『プラトニック・ラブ』も。
「ああ、そう…」
あたしの笑顔にヤムチャは釣られてこなかった。もう。本当に機嫌悪いんだから。
ヤムチャの背中に回していた腕を緩めた。あいつの顔を見上げて、あたしはそれだけを訊いた。
「嫌?」
こんなにがんばったんだから、ごほうびほしいんだけどな。っていうか、普通そうするものよね。サクセスの後には愛。ラブストーリーのお約束よ。

数瞬の沈黙の後、ヤムチャはあたしのお願いをきいてくれた。
ひさしぶりにあたしからじゃないキスをして、耳元にくすぐったさ以外のものを感じながら、あたしは思っていた。
――やっぱり『プラトニック・ラブ』じゃない方がいいかも。


3週間ぶりに緊張と脱力のひとときを過ごして、あたしはまたあの心境に陥っていた。
…こんな時くらい、言ってくれてもいいのにね。
あたしは言ったのに。不公平よね。
明日からまた忙しくなる。きっとしばらくこいつの部屋には来られない。『プラトニック・ラブ』すらもおあずけ。
『プラトニック・ラブ』か…
「ねえ、ヤムチャ。あんたは言ってくれないの?」
ヤムチャの胸元に顔を埋めてその鼓動を聞きながら、あたしは訊ねた。
「何を?」
「あたしのことどう思ってるか、ってことよ」
あたしたちの『プラトニック・ラブ』に足りなかったもの。それは『言葉』よ。
プラトニックに生きるなら、言葉で支えあっていかなくちゃ。でも、こいつ何も言ってくれなかったのよね。
別に『プラトニック・ラブ』を求めていたわけじゃないけど。でも、3週間も一緒にいたのに。あんな迂遠な愛情表現をするくらいなら、一言言ってくれればいいのに。ねえ。
「は?」
「は、じゃないでしょ。あたしは言ったのに」
女だけに言わせるなんて、酷いわよね。恋愛映画じゃ絶対ありえないわよ。
いえ、映画じゃなくてもありえないわ。こんな関係になってるのにまだ一度も言ってないなんて、大問題よ。
「そんなの言わなくってもわかるだろ」
ヤムチャはそっぽを向いた。あたしは顔を上げ、反射的に叫んだ。
「言わないとわかんない!」
当たり前でしょ!あたしはエスパーじゃないんですからね。
なんて、本当はわかってるけど。こいつがあたしのことを好きだなんて、わかりきったことだわよ。
でも、言われてみたいのよ。だって、あたしまだ誰にも言われたことないんだもの。ラブレターなら貰ったことあるけど、あれは文字だけだし。口で言われてみたいのよ。誰でもいいからとにかく口で…
思考が危険な方向に行きかけていることに、あたしは気づいた。
こいつよ。こいつが悪いのよ。こいつがいつまでも言わないから、こういうこと考える破目になるのよ。
「一日待ってくれないかな?」
ヤムチャが思考を破った。…もっと早くに破ってほしかった。おまけに意味がわからない。
「一体何を待つっつーのよ」
あたしはもう充分待ったわよ。それでも言ってくれないから頼んでるんじゃない。…もしかして逃げる気?ありそうなことだわね。
「ん…」
口篭りながら、ヤムチャが頭を掻いた。その仕種で、あたしは勝利を確信した。
困った時のこいつの癖よ。…困ってるっていうのが気に入らないけど。
あたしは再びヤムチャの胸に顔を埋め、耳をすませた。鼓動が早まっているのがわかった。ほーらね。やっぱり勝利よ!
ちょっぴり幸せな気持ちになりながら、あたしは考えた。
…何て答えようかなあ。
あんまり過剰に喜ぶのも癪だし。でも素っ気なくするのも違うわよね。映画とかって、どういう反応してたっけ、そういう時。
ふと、髪に摩擦を感じた。ヤムチャがあたしの髪を撫でだした。優しく、優しく。
…あ、幸せ。
何だか心が温かくなってきた。体も。どことなくふわふわと、夢の中にいるような…
あたしは考えるのをやめた。
そしてヤムチャに身を任せた。


ふとなんの気なしに、あたしは目を覚ました。
辺りはまだ暗かった。真っ暗。朝日さえも昇っていない。完全に夜。隣には寝息をたてるヤムチャ…
…あたし、眠っちゃったみたい。
いつ寝たのかしら。全然覚えてないわ。
あの会話は夢…?いえ、違うわよね。現実よね。
時々、夢なのか現実なのかわからないこともあるけれど。あれは現実よ。はっきりわかるわ。
だって、あいつの夢を見て、あんな風に感じたことなんてないもの。あいつの夢でいい夢なんか見たことないもの。いっつもケンカとか、どっか行っちゃう夢ばかりでさ。もう完全に潜在意識の表れよ。あいつの夢には、夢すら入り込む余地がないのよ。
だから、あれは現実。…せっかくの現実だったのに。あたしは寝ちゃった。あーあ。
「ヤムチャ」
小声で呼んでみた。あわよくば起きてくれるかと思って。何が何でも起こす気はないわ。そういう時間じゃないもの。
ヤムチャは起きなかった。規則正しい寝息。完全に糸目。ひょっとすると起きている時よりも、引き締まった口元。
…すっきりした顔しちゃって。
何の悩みもなさそうよね、こいつって。いつも自分のペースで生きてて。誰かに邪魔されることもなくって。…羨ましいわ。
もう一度頼んだら言ってくれるかしら。っていうか、次っていつだろ。…1ヶ月くらい先?
あたしは考えるのをやめた。これ以上考えてたら、自己嫌悪に陥っちゃうわ。
もう寝よう。そして忘れよう。
…自分の失敗を。




「好・き・だ」
突然脳裏に響いたその声に、あたしは思わず固まった。
ぐるりと周りを見回した。一面の漆黒。それにとけ込む色の髪も、そうはならないはずの肌も、何も見えない。
闇に目を凝らしながら、その名を呼んだ。
「ヤムチャ?どこにいるの?」
隠れてないで出てきてよ!
「好きだ」
また響いた。
2回も言ってくれたのは嬉しいけど、何で声が怒ってるわけ?それに、顔が見えなきゃ喜びも半減よ。つーか、あり得ないでしょ!ガキの告白じゃないんだから。
「ちょっと!ヤム…」
その時、視界が白んだ。
そして、あたしはあいつを見つけた。

すぐ目の前にヤムチャの顔。あたしの耳にあいつの手。あたしは未だベッドの中。
ええ?ちょっと、まさか…
急いで目の焦点を合わせた。白い壁。白い天井。燦々とあたしたちを照らす太陽の光。闇の欠片はどこにもない。
…夢。そんな!!
こいつの夢でいい夢なんか、見た例がないのに。だから本当だと思ったのに。
ああいうガキっぽいこと、こいついかにもしそうなのに。だから本当だと思ったのに。
ひっどーーーーー…
その時、夢の続きが耳に響いた。あたしは目の前の男を見た。
だって、ここにはこいつしかいないし。それに、怒ったようなこの声音…
ヤムチャがあたしを見返した。一瞬にして、声音と同じ感情の兆しが顔から消えた。
そして言った。さっきまでとはまったく違った声音で。
「好きだよ」

あたしは反応できなかった。その言葉も、その声音も、その表情も、完全に想像外。
気がついた時には、時間が戻っていた。昨日の夜に。あたしとこいつの立場を替えて。
失敗の後に愛。そんなお約束あったっけ?


っていうか、わけわかんない。
おまけにまた学院休むのか…
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