初めての男
大団円の後のアンハッピーエンド。あたしは本当に不幸な女よ。

「で?」
C.Cのリビング。ソファに深く身を沈め、コーヒーの湯気を顎に当てながら、重々しい口調でヤムチャが口火を切った。
「どうして俺は殴られなきゃいけなかったんだ?」
半ば目を瞑って偉そうに呟くその表情に、あたしはヤムチャの姿勢を見てとった。
こいつ、全然悪びれてない。ちっとも悪いことをしたと思っていないわ。
どういうことなのよ、それは。開き直ったってわけ?許してもらえるとでも思ってるの?許さないわよ、絶対に。いくら謝ったって許すもんですか!
…許さないけど。だけど、まずは謝りなさいよ!
心の中で叫ぶと共に、思いっきり睨みつけた。わざわざ説明してやるつもりはないわ。こいつの方から頭を下げてくるべきなのよ。
あたしの姿勢は態度に表れていたはずだ。なのに、ヤムチャは顔色一つ変えない。それどころか飄々として、さらに言ってのけた。
「おまえが『話し合おう』って言ったんだからな。ちゃんと話せよ」
あったまきた!
どうしてこんなに偉そうなのよ、こいつは。自分のしたことわかってないの?黙ってやりすごすつもりなの?そうはさせるものですか。
「あんたが浮気したからでしょ!」
あたしの言葉に、ヤムチャは黙った。コーヒーカップをテーブルに置いて、わざとらしく嘯いた。
「何言ってるんだ?」
「あたし見たんだから!あんたがあの女とキスしてるところ!」
こんなこと、わざわざ言う必要もないと思ってたのに。ここまでバカな男だったなんて…
いえ、わかってたわ。わかってたわよ。ふんだ、ヤムチャのバーカ!
「あのさ。まったく話が見えないんだけど」
ヤムチャはなおもそらっ惚けた。依然ソファに座ったままで。その空気の読めなさぶりに、あたしは心底腹が立った。
右手を振り上げた。ことさらそれを見せつけるようにして、あいつに詰め寄った。
「惚けないでよ!見たって言ったでしょ。…また殴られたいの?」
ヤムチャは目に見えて怯んだ。おずおずと両手を掲げて、陳謝するようにあたしを見た。ふん、最初っからそういう態度に出てればいいのよ。よし、じゃあこのまま謝らせて――
「ちょっとブルマさん…」
「その呼び方やめて!!」
ふいに耳に飛び込んだ呟くような声に、ほとんど反射的にあたしは叫んだ。この呼ばれ方、大嫌い。
だって、考えてもみてよ。もう8ヶ月にもなるのよ。こいつがC.Cに来てから…あたしたちが付き合い始めてから。なのに、何で未だに『さん』付けなのよ。そりゃ、最初はちょっとかわいいとも思ったけどさ。いい加減にしてほしいわよね。
怒りが頂点を越えた。疲れと呆れがそれに入り混じってきて、あたしは右手を振り下ろすタイミングを失った。その時になってようやく、ヤムチャの口からその言葉が漏れた。
「ご、ごめん。悪かった。謝る。ごめん!」
「やっと認めたわね」
遅いわ。遅すぎるわよ!
でもいいわ。とっくり話を聞かせてもらおうじゃないの。
そう言おうとした矢先、ヤムチャが前言を翻した。
「い、いや!違う…」
あーもう!こいつ女々しすぎ!本ッ当に捨てるわよ!
「往生際が悪いわよ!!卑怯者!女ったらし!」
そう叫んだ瞬間、ヤムチャが動いた。今までの言動からはうって変わった、素早い動作。戦っている時に見せるあのスピードで。
「ブルマ!」
そうと感ずる間もなかった。半瞬にしてあたしの右手を掴み上げ、仁王立ちしている目の前の男の姿に、思わず体が竦んだ。
「おまえの話はさっぱりわからないけどな、一つだけ言っておくぞ。俺は誰ともキスはしていない!」
続いて浴びせられた堂々としたヤムチャの言葉に、今度は心が凍りついた。
…情けない。でも、真実味はあるわ。だってこいつ、8ヶ月も一緒にいるあたしにすら、何もしてこないんだもの。でも…
「…だから、したんじゃないの?」
してないから。相手を求めて。『浮気』したんじゃないの?
自身で辿り着いたこの結論に、心が沈んだ。ふと手を引かれて、身をもソファに沈み込ませた。ヤムチャが静かに口を開いた。
「あのな。…おまえにもしてないのに、他のやつにするわけないだろ?」
ヤムチャの言葉は本気に感じられた。少なくとも、嘘ではないと思えた。でもそれで、あたしの心が治まったわけではなかった。
「何で?」
新たな不満が首を擡げた。自制心を動員する暇もなく、それが口をついて出た。
「何でよ。何でしないのよ!」
自分の声に気づくと同時に、ヤムチャの手を振り払った。その顔は見ず、足早にリビングのドアへと向かった。
自室のベッドに飛び込んだ時にはすでに後悔し始めていた。…あんなこと言いたくなかった。
「…最悪」
その声を聞く者の誰もいない部屋の中で、あたしは自分自身を咎めた。


翌日目を覚ました頃には、すっかり朝日が昇りきっていた。誰もいないキッチン。まったく無人のリビング。
…どうせ、こんなものなのよね。
何も変わりはしないのよ。あんなことのあった後だって、あいつは平気でハイスクールに行くのよ。
エスプレッソをダブルで飲んで、冴えない頭を少しだけしゃっきりさせた。今日は提出しなきゃいけないレポートがあるから、まるっきりサボるというわけにはいかない。ウーロンにでも言付けておけばよかった。
いつもに輪をかけて乗らない気分で、あたしはエアバイクに跨った。

ハイスクールって大嫌い。嫌いというより、つまらない。授業は退屈だし。レベルのことは置いておくとしても、この場所で何か得るものがあるとは思えない。
それは入学当初から感じていたことだ。そして最近では、それに加えて新たな不快の種ができた。
「ブルマ、あんた今朝ヤムチャくんと一緒に来なかったわね。ケンカでもしたの?」
「まさかね。あんなステキな彼とケンカなんかするわけ、ないわよねえ」
3限目の休み時間。授業終了のチャイムと共に、クラスメートたちがあたしの机に集まった。
「デートの時の彼って、どんな感じ?」
「彼って何が好きなの?」
矢継ぎ早に繰り出される質問。あたしの沈黙をよそに、騒ぎ立てるクラスメート。
このクラスメートたちは、あたしとヤムチャの惚気話を聞きたがっているわけではない。冷やかし半分、あたしたちがどこまで進んでいるのか探り半分、というところ。つまり、狙ってるってわけよ。
いっそ教えてやりたいわ。あいつは8ヶ月付き合った彼女にもキス一つしない、情けない男なのだということを。あんたたちが思っているような格好いいやつなんかじゃ全然ないということを。でも、それはこいつらを喜ばせるだけなのよ。
デートの時?何も変わりゃしないわよ。あいつが自分から何かをしようなんて言ったこと、一度だってないわ。いつもいつも、あたしにまかせっきりよ。
ヤムチャに関する話と言えば、情けないことばかり。だから、あたしはヤムチャのことをクラスメートには話さない。それで余計クラスメートの妄想は膨らむし、いつまでもヤムチャを諦めないというわけ。悪循環もいいところよ。
「あっ、ちょっとブルマ、どこ行くのよ」
その声には答えず、あたしは教室を後にした。

中等部校舎の屋上。そこがあたしの校内でのエスケープゾーンだ。
ドアにはマニュアルロックがかかっている。その点でもお気に入り。誰も来ようとしないから。あたし?そんなもの開けられるわよ、簡単に。ここのセキュリティシステムはC.Cのと同じだもの。
スナックなんかを食べながら、高等部校舎の中でクソ真面目に授業を受けている連中を眺めるの。あいつの姿だって見えるわよ。
でも今日は、そちらには目をやらなかった。ただなんとなく、青い空を見上げていた。
…こんなものなのかしら。
もっとステキな毎日になると思ってたんだけどな。恋人がいれば。
退屈なハイスクールも楽しくなると思ってたんだけどな。恋人がいれば。
でもあいつ、自分からはちっともあたしに構ってこないし。いてもいなくても同じみたい。いえ、もっと悪いわ。以前より、イライラすることが増えた。
あたしは思い始めていた。
…もう一度、ドラゴンボールを探しに行こうかしら。
やっぱり、ちゃんと頼まなくちゃダメなのかも。あたしに釣り合う恋人を。
もっとステキな恋人を。正直、イメージはできないけど、とりあえずあいつよりはマシな恋人を。
っていうか、あいつ恋人なのかしら。何もしてなくても、恋人って言えるのかしら。
あたしは目を閉じた。あいつの姿を思い浮かべるためにではなく、睡魔を迎え入れるために。




気づいた時には夕闇が迫っていた。
思いっきり寝ちゃった。昨夜あまり寝られなかったから。
「ふわあぁぁ…」
大きく伸びをして、少し目から涙を零したあたしの心は、妙にすっきりとしていた。
とりあえず来年まで待とう。どうせ一年経たないと、探しには行けないし。
あいつも邪魔ってほどじゃないし。それまで置いておくくらい、何の問題もないわ。…どうせ何もしてこないんだから。あいつ、顔は結構いいし。とりあえずの格好つけにはなるわよね。
「…帰ろっと」
そしてあいつの顔を見てやろう。あたしがこんなことを考えているとも知らず、のうのうとしているあいつの顔を。


ポーチの脇に、ヤムチャがいた。C.Cの上空、エアバイクを降下させながら、あたしは視界にその姿をおさめた。
「やっほー。ただいま」
ごくごく普通に声をかけた。ヤムチャを怒る理由も、避ける理由も、あたしにはもうなかった。
割り切ったわ。こいつは暫定的恋人よ。あたし、こいつのこと嫌いってわけじゃないし。気の利かない恋人でも、いないよりはいる方がマシってもんよ。
昨日言っちゃったことは、少し問題になるかもしれないけど。でも、どうせそのうち忘れるわよ。こいつはそういうやつよ。
一年経ったら、今度こそステキな恋人を手に入れるわ。そうして、こいつにうんと見せつけてやるわ。その時になって後悔したって遅いんだから!
ヤムチャの返事は待たず、さっさとC.Cの中に入った。余裕を持って、後ろ手を振ってやった。


夕食の後、コーヒーとドライストロベリーのボトルを手に、リビングのソファに座った。
そこにはすでにヤムチャがいた。でも、気にはならなかった。
どうせ暫定的恋人だし。いないよりはいる方がいいんじゃない?話し相手にもなるし。
あたしの心を読んだように、ヤムチャが話しかけてきた。
「なあ。それ何なんだ?その、イチゴみたいなやつ」
言いながらあたしの手元を指差した。ドライストロベリーのボトルを。
「これ?イチゴみたいじゃなくてイチゴよ。『ドライストロベリー』。イチゴを乾燥させたやつ。今ハマってるの。あんたも食べる?」
「いや…」
ヤムチャは言葉を濁した。自分から話を振ったくせに。変なやつ。
ま、いいけど。『食べる?』とは訊いたけど、本当に食べさせたいわけじゃないし。むしろ食べてくれない方がいいわ。その方があたしがいっぱい食べられるもの。
本当に、どうしてイチゴってこんなにおいしいのかしら。食べ物の中で一番好き。『食べきれないほどのイチゴ』…それがあたしの夢よ。
それと二分するのが『ステキな恋人』。叶えられたように思わせておいて、叶えられなかった夢。
たいしてお腹は空いていなかったけど(夕食食べたし)、あたしはドライストロベリーを口に運び続けた。なんとなく、口淋しかった。ストレスかもね。きっとそうよ。
その元凶となっている人物が、すぐ傍にいる。ぼんやりと、まったくマイペースにコーヒーを啜っている。
だから、あたしもマイペースに、横目でその姿を眺めていた。

やっぱり、顔はいいわよね。どちらかと言えば好きなタイプだし。
声も結構いいし。身長だってあるし。体も鍛えられてるし。
見た目はいいのよ、見た目は。問題は性格よ。
なんだって、こいつこんなに弱いのかしら。戦っている時は、あんなに強気なのに。あんなに男っぽいのに。プライベートとなると、途端に女々しいんだから。…神龍に、性格改善してもらえばいいんじゃないかしら。
そうしたら『暫定』じゃなくなるわよね。だって、あたしこいつのこと嫌いじゃないし。
見た目もいいし。どちらかと言えば好きだし…

ここで思考を止めた。その方がいいと思った。
これ以上考えたら、決心が鈍っちゃう。せっかく、ドラゴンボールを探そうって決めたのに。せっかく、吹っ切れかけてたのに…
「やっぱり、それくれるか」
ふいにヤムチャが言った。ドライストロベリーのボトルを指差しながら。こいつにしてはいいタイミング。あたしを現実に返してくれたわ。
最も、本人にとっては逆でしょうけど。…本当に、こいつって間の悪いやつね。
あたしはすっかり素に戻って、ドライストロベリーを弄った。ヤムチャがそれを取りにきた。にも関わらず、ストロベリーを渡そうと伸ばしたあたしの手は、ヤムチャに完全に無視された。右手が空を切った。零れるドライストロベリーを視界の端に、その感触があたしを襲った。
頬に感じる大きな手。少し乾いたその唇。
目の前にヤムチャの顔。塞ぎ込まれたあたしの吐息。

どうして?
どうしていまさらこうくるの?
せっかく、吹っ切れかけてたのに…

肌で感じる息遣い。あたしに合わせられる優しさ。
仄かに香る大地のにおい。あたしの夢の欠片。

それはとても長いキスだった。初めてとは思えないくらい。その長さに比して、あたしの決心も遠のいていった。
遠く、遠く。もう手の届かないところへ…
……

「って、あんた長すぎ!!」
ようやく唇が開放されて、大きく息を吸い込みながらあたしは叫んだ。
「息続かないでしょうが!!あたしを殺す気!?」
ヤムチャの息吹を感じることは、あたしに対価を要求した。…あたし自身の息吹。後半、本当に苦しかった。
「ご、ごめん。引きどころがわからなくて…」
「そんなもの適当にしてよ!」
うろたえたように呟くヤムチャの顔を、反射的に怒鳴りつけた。おかげで余韻も消し飛んだわ。本当に、間が悪いんだから。
「適当って?」
「あたしだって知らないわよ!」
ああもう、わかったわよ!こいつは初めてよ。どう考えたって経験なしよ!!
「うーん…」
腕を組みながらヤムチャは唸った。…何これ!
これがファーストキス?一体どういう現実よ!
キスって、普通幸せを感じるものなんじゃないの?それがどうして、生命の危険を感じなきゃならないのよ。
その言葉は封じられた。気づくとまた目の前にヤムチャの顔があった。

頬を包む掌。ストロベリーの香りの移った唇。
再びその感触に襲われて、あたしは今味わったばかりの危険を忘れた。
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