無進の男
「やめた?」
休日、テラスの一角でヤムチャからその話を聞いて、あたしは軽く眉を顰めた。
「ああ、やっぱり武道に専念したいし。正直、物足りなかったし」
…こいつ、やっぱり軽いわね。
飄々と言い放つその顔を間近に見ながら、心の底からそう思った。
ヤムチャがハイスクールに通い始めて2ヶ月目。ヤムチャによってもたらされたあたしのストレスは、ヤムチャ自身の手によって解消された。クラブの助太刀。それを根こそぎやめたのだ。
あたしにとっては願ったり叶ったり。これでもうバカ女どもの奇声を聞かされずに済むわ。
でも、もっと早くに教えてくれたらよかったのに。そうしたら今日だって、どこかに連れ出してやれたのに。
「武道会まで半年しかないからな。今はそれだけに集中するよ」
あたしの心の中などまるで量らず、続けて発せられたその言葉に、あたしは今度は眉を上げた。
「武道会って何?」
「天下一武道会だよ。…あれ?言ってなかったか」
聞いてないわよ!
あたしが睨みをきかせると、慌てたようにヤムチャは言葉を繋げだした。
「武道の大会なんだ。世界で一番レベルが高いと言われている…武道家はみんなそれを目指すんだ」
「聞いたことないわね。どこでやるの?参加費用は?参加規定は?学生OKなの?」
当然のこの質問に、ヤムチャはあっけらかんと答えた。
「そこまではまだ調べてない」
あたしはまったく二の句が告げられなかった。
何こいつ!いい加減…?のんき?いえ、違うわ。
バカよ、バカ!正真正銘のバカよ!!
お気楽にも程があるわよ。目指すだけ目指しておいて、参加できなかったらどうするの!
都のやり方に疎いとか、そういう問題じゃないわよね。…だいぶんわかってきたわ。こいつ、一つの物しか見えないタイプね。悪い意味で。
あたしの苦悩にもまったく気づかず、のうのうとコーヒーを啜り込む目の前の男に、あたしはやむなく親切心を発揮した。
本当にやむなくよ!だって、こんなバカ、放っておけるはずないでしょ!
「いいわ、あたしが調べてあげる。その代わり、一つ条件があるの」
「何だ?」
「その大会に出ること、誰にも言わないで。特にハイスクールのやつらには。絶対よ!」

ヤムチャがトレーニングのため外庭へと出て行って、あたしはようやく一息ついた。
…疲れる人間ね、あいつ。
あんなに疲れる男、初めてだわ。まったく、手を焼かせすぎよ。
トレーニングしてる時は格好いいんだけど。っていうか、もうその時にしか片鱗ないわね。本当に、変わりすぎよ。
ヤムチャに対するあたしの評価は、刻一刻と変わっていった。初めて会った時。それから数週間後。ハイスクールに連れ出した一ヶ月目。そして今。
もうあいつのことを女たらしだとは思っていない。…フラフラしては見えるけど。たらしというよりは、その対極。
わかってないのよ、全然。女の気持ちってものが!軽いくせに手は遅いなんて、本当に最悪!
まあ、いいけど。まだ2ヶ月だし。あたしもそんなに急ぐ気ないし。
それに、もうクラブはやめたんだから。とりあえずは万々歳よね。
「本当によくやるなあ、あいつ」
いつの間にかやってきていたウーロンが、外庭に目をやりながら呟いた。
「あれしか見えてないのよ」
できるだけ素っ気なく、あたしは答えた。ひたすら手元のカップに目を落としていたあたしを、ウーロンが咎めた。
「おまえ、少しは気遣ってやれよ。彼女だろ?」
「プーアルがいるでしょ」
言葉と共に、視線でそれを示した。外庭の真ん中でトレーニングに励むあいつと、その傍らに付き従うプーアル。
従順よね。あいつがハイスクールに行っている時を除いて、ほとんど付きっきり。あんな男のどこがいいのかしら。さっぱり理解できないわ。
プーアル自身もよくわからないけど。性格があるんだかないんだか、未だにわからない。
本当に、わからない主従だわよ。
「冷たい女だな、おまえ」
唯一性格のわかりきっているブタが、淡々とそう言った。


あたしのストレスは完全に解消された。
と思ったら、大間違いよ。
「ねえ、どうしてヤムチャくん、クラブやめちゃったの?」
「ステキだったのにねー」
…もう、耳にタコができてきたわ。
あたしが知らされてからでさえ、もう4日も経ってるっていうのに。ハイスクールに行くたび、一日一回は誰かしらにこう訊かれる。
「知らないわよ」
嘘よ。本当は知ってるわ。でも、あんたたちにはぜーったい教えない!
教えたらどうなるか、目に見えてるもの。外でまであんな奇声聞かされるなんて、冗談じゃない…
あ。
ふいにあたしは思い出した。あいつとしていた約束を。


「5月7日。開催場所は南国パパイヤ島の武道寺」
明快にそう告げると、ヤムチャは目を丸くしてあたしを見た。
「何の話だ?」
「天下一武道会よ。あんた参加するんでしょ?」
本当にしっかりしてよ!
さらなるあたしの言葉にヤムチャはようやく話を理解したらしく、首を捻りつつ言った。
「パパイヤ島ってどこだ?」
「南国にある離島よ。ここからだと3〜4時間はかかるから、前泊した方がいいかもね」
今度は眉間に皺が刻まれた。珍しく声を落として、呟くような声を出した。
「そうなると旅費に加えて宿代もかかるわけか」
「いいわよそんなもの、うちで出すわ。あんたからだけお金取ったりしないわよ」
こいつ、未だにこういうこと言うのよね。小心というか、中途半端というか。只で住み着いてるんだから、いい加減他人行儀なことやめればいいのに。
「そういうわけには…あれ?ブルマさんも行くのか?」
「あんたね!これだけ手間かけさせておいて、置いてけぼり食わせる気!?」
他人行儀どころじゃなかったわ!本ッ当にわかってないんだから。
あたしは気が変わった。こいつからお金取る気なんか全然ないけど、でも只でやってやる気もなくなったわ。
「費用は持つわよ。でも、条件があるわ」
「…な、何?」
「今度の日曜、遊園地行こ!」

まったく、どうしてこんなデートのとりつけかたしなくちゃならないのかしら。
でもこいつ、ちっとも自分から誘ってこないし。いつまで経っても彼氏らしくならないんだから。
こんな男とどうしてみんな付き合いたがるのか、まったくもって謎だわね。


あたしはストレス解消法を一つ手に入れた。
「ヤムチャくんって、休日とか何してるの?」
もう何度訊かれたかもわからない、この質問。
そりゃあ、いつもいつもヤムチャのことを訊かれるってわけじゃないけど。3日に一度は訊かれるわね。それだって充分すぎるわよ。
でも、今のあたしは、それにこう答えることができる。
「あたしとデートするのよ」
嘘じゃないわ。本当よ。…これからの話だけど。
考えてみれば、嘘をついたっていいのよね。どうせバレやしないんだから。
でも、虚しくなるのよ。現実を見ると。…あいつの鈍さを目の当たりにすると。
あいつがあんなしょうもない彼氏だってことを知っているのは、あたしだけ。
…全然、優越感湧かないわ。


デート前日。あたしは再びその認識を新たにした。ヤムチャ自身がそうさせた。
「ごめん、ブルマさん。明日の約束なんだけど…来週にしてくれないかな。俺、ちょっと用事が…」
「ええー!!何よそれ!!約束したのに!嘘つき!!」
「ごめん。本当にごめん!」
あたしの非難に、ヤムチャはひたすらに頭を下げた。だからといって、怒りが治まるわけもなかった。
謝ればいいってものじゃないのよ。だいたいこいつ、まだ理由も言ってない。それで許せるわけがないでしょ!
最も、それはすぐに判明した。しどろもどろに、ヤムチャは弁明を始めた。
「どうしても外せないんだ。空手の都代表ってことになってて…」
「空手?クラブはやめたんじゃなかったの?」
確かにそう聞いたわよ。まだほんの一週間前の話よ。記憶違いとは言わせないわよ。
「そうなんだけど。全国大会らしいから…」
「もうー!!」
本当にいい加減なんだから!
全国大会なんて、もっと早くにわかっていたはずでしょ。それに、代表になってたなんて、全然知らなかったわよ。
どうしてこいつって、何も言わないわけ?いつまでも他人行儀なんだから。
「どこでやるのよ?時間は?」
「イーストエリアの武道館で…って、ひょっとして来るのか?」
当たり前でしょ!
明日デートするって、みんなに言いふらしちゃったんだから。それであたしが行かなかったら、どう思われるかわかったもんじゃ…いえ、わかるわ。わかりすぎるほどわかるわよ。それに…
それを理解していないただ一人の男を、あたしは睨みつけた。ヤムチャの顔に浮かぶ狼狽の色が強まった。
…絶対わかってないわよね。もう一つの理由もね。


翌日。全国空手道選手権大会。会場である武道館は、異様な雰囲気に包まれていた。
溢れる熱気と歓声。観客席を占めるのは、明らかに関係者とわかる屈強な男たち。試合場からほとばしるスピード感と緊張感…
そして、あたしの左耳に響き渡る黄色い声。
「ヤムチャくーん、がんばって!」
「ステキー!!」
うるっさい!!
あんたたち、この空気が読めないの!?あんたたちの放っている熱気は、会場の熱気とは明らかに違うのよ!異質なのよ!
空手がどういうものかなんて、あたしだって知らないけどね(もう調べる気にもならないわ)。この女たちが的外れだってことくらいは、わかるわよ。空手っていうのは、硬派なスポーツなの!黄色い歓声なんて必要ないの!だいたいこの会場の広さじゃ、こいつらの声なんて届かないわよ。
思った通り、ヤムチャは淡々と試合場に上がっていった。あたしの横の雑音どころか、あたしに気づいているのかどうかも怪しい。
あいつはいつも物腰が弱いけど、トレーニングしている時だけは別だわ。そして、今はその時と同じ雰囲気だった。

ヤムチャが実際に戦っているところを見るのは、初めてだ。
孫くんと戦ったことは聞いたけど、あたしはそれを見ていない。…寝てたから。今思うと、すっごくもったいないことしちゃったわ。
あいつ、孫くん相手に少しはやれたのかしら。怪我はしてなかったから、いくらかはやれたのかもね。
…無謀な人間よね、あいつ。

宙を舞うヘッドバンド。空を切る体。
黄色い声をBGMに、あたしは黙って試合を見ていた。
ヤムチャもまた他のものには目もくれず、ひたすら試合を重ねていった。そして結局最後まで、試合を続けてしまった。
最後の試合が終わった時、会場とあたしの左側の双方から、歓声が上がった。この時だけはあたしも、左の声に倣いたくなってしまった。
淡々とトロフィーを受け取る姿。颯爽と去るその雰囲気。
…やっぱり格好いいわよね。

なんとなくその場に留まって、再び左の声が鬱陶しく感じてきた頃、ふいに背中を叩かれた。今や全国大会優勝者となった、あたしの恋人がそこにいた。…気づいてたのね。
黄色い声とは反対方向に歩を進めながら、あたしは言葉を紡いだ。
「あんた、なかなか強いじゃない」
素直に褒めてあげたあたしとは反対に、ヤムチャはあまり素直じゃなかった。その口元に手を当てて、潜めるように囁いてみせた。
「大きな声じゃ言えないけどな。…レベルが低いんだよ」
「そんなことないでしょ。あんたが強いのよ」
珍しく謙遜(なのかしら)するヤムチャに思わず否定の言葉をかけると、ヤムチャは眉を締め、あたしがこれまで聞いたことのないほどしっかりとした口調で言った。
「そう思ってくれるのはうれしいけどな。本当のことだ」
思わずあたしが言葉に詰まったその時、どこからかプーアルとウーロンがやってきた。
「おめでとうございます、ヤムチャ様!」
「おまえ結構やるんだな」
こいつらも来てたのね。どうして声かけてこなかったのかしら。
プーアルの笑みに、ヤムチャはすっかり先ほどまでの真摯さを脱ぎ捨て、あたしたちはまったくいつもの雰囲気となって、会場を後にした。




それから数ヵ月後。あたしはこの時のヤムチャの言葉を、頭ではなく肌で理解することとなった。
天下一武道会、初戦敗退。それもまったくあっけなく。
武道会の記憶は、孫くん一色で塗り固められた。あたしたちの意識は、最初から最後まで孫くんに占められた。
それでも、あたしを魅了していた男の子がいなくなってしまうと、あたしはどこが魅力なんだかわからない他方の男を思い出した。
ヤムチャはまったく自分のことに触れることはなく、孫くんや他の試合についての話題を提供し続けていた。

様々な経緯を経てようやくエアポートに到着した時、陽はすっかり暮れていた。ウーロンとプーアルは、疲れのためかロビーのソファで寝入ってしまっていた。チケットのキャンセル待ちをしながら、あたしはなんとはなしに口を開いた。
「案外おもしろかったわ、武道会。あたしは武道なんて全然わからないけど、それでもね」
一瞬考えて、付け加えた。
「ま、正直言って、あんたにはもう少し活躍してもらいたかったけど」
こいつのことに触れないなんて、不自然だもの。そしてこれは、あたしの本音よ。
こいつが優勝するなんて、まさか思ってやしなかったけど(だって孫くんがいるもの)。それにしたって、少しはいいとこ見せてほしいと思うわよね。
ヤムチャは何も言わなかった。でも、怒っていないことは明らかだった。
興奮の後にくる静心と緩びが、あたしの口を動かした。
「でも、あんたが弱いとは思わないわ。ただ世界のレベルに届かなかった、それだけよ。あんたはまだ16歳なんだから、これからでしょ」
孫くんやクリリンくんはそれよりもっと年下だけど。それは言わないでおいてあげるわ。
ここでようやくヤムチャは口を開いた。あたしの思っていた通り、その声には険の欠片すら感じられなかった。
「俺もそう思ってるよ」
そう言って、緩やかに笑った。全然挫けてないわね。
そうよね。こいつはあたしがどんなに怒っても、何度文句を言っても、謝りはするけど落ち込みはしないのよね。
お気楽極楽。それがあんたのいいとこね。


西の都に帰り着き、再びハイスクールの日々が始まって、あたしの生活は平穏で退屈なものとなった。
と思ったら、大間違いよ。
いつものようにヤムチャと一緒に登校し、いつものように揃ってハイスクールのゲートを潜ったあたしは、その途端ヤムチャと切り離された。
見る見るうちに、あいつを取り巻くクラスメート。とそうじゃない人々の群れ。…何ごと!?
理由はすぐにわかった。誰に訊かずとも、勝手に耳に入ってきた。
「ニュース見たぞ。すごいな、おまえ」
「おまえって、本当に強いんだなあ」
「高校生が天下一武道会に出場するなんて、すごいことだぞ」
ニュース!?何それ。天下一武道会の結果って、マスコミに流れてんの!?
全然知らなかった。せっかくみんなに内緒にしておいたのに。これじゃ意味ないじゃない!
「すごいわよね、天下一武道会ベスト8だなんて!で、天下一武道会って何?」
「わかんないけど、とにかくすごいのよ!」
「ステキー!」
否が応でも耳に届く、バカ女どもの声。…もう聞くことはないと思っていたのに。
ヤムチャを囲む男のクラスメート。その周囲に群がるバカ女たち。さらに一種騒然と固まる女の集団…
最後に目にした集団の異様さに、あたしはすぐに気づいた。揃いのTシャツ、揃いのソックス…
趣味悪!!
思わず叫びかけたあたしの耳にその単語が入ってきた。
「ファンクラブ入会希望者はこの用紙に記入してね!」
「みんなでヤムチャくんを応援しましょ!」
…ファンクラブ!?
ちょっと、一体誰に断って、そんなもの勝手に設立してるのよ。あたし、そんなこと聞いてないわよ!普通そういうのは、彼女の了承を取るでしょうが!!
一体何なの、ここの女どもは。何なの、この学校は。
確かにヤムチャは天下一武道会に出たわよ。決勝にだって残ったわ。でもすぐ負けたっつーの!なのに何よ、この扱いは。
遠くクラスメートに囲まれる、ヤムチャの声が聞こえた。
「いや、俺なんかまだまだだよ。あんなのすごくも何ともないよ」
そうよ、その通りよ。でも、今はその台詞は謙遜にしか聞こえないわ。そんな言い方、株が上がるだけよ。いい加減、空気を読みなさいよ!
もう『鈍い』じゃ済まされないわよ!!

その時、ヤムチャが振り返った。茫洋としたその目を、あたしは思いっきり睨みつけた。
「ブルマ?どうかした…」
ヤムチャがあたしに向かって手を伸ばした。…その声!!
何も考えていない声。まったくのうのうとしたその声音。気づこうともしないその態度。
これを見逃せるわけないでしょ!!
差し出されたその手を、思いっきり引っ叩いてやった。それでもヤムチャは気づかない。そんなの、この顔を見ればわかるわ!!
「あたし帰る!!」
ポケットを弄った。ヤムチャと一緒に歩いて登校する時でさえ、もはや手放せなくなったあたしのエアバイク。
それをカプセルから戻すと、瞬時に飛び乗って、ヤムチャの声を置き去りにした。
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