僅進の男
「…あの、週末の約束なんだけど。ホラー映画を観に行きたいって言ってただろ。俺、空手で前々日から合宿に行かなくちゃならなくて…」
夕食後のリビング。正面のソファに座を占めながら放たれたヤムチャの言葉に、あたしは思わず眉を寄せた。
「クラブはやめたんじゃなかったの?」
確かにそう聞いたわよ。
そして、前にも同じことを訊ねたわ。その時、ヤムチャはこう答えた。
『そうなんだけど。どうしても外せないんだ』…
「そうなんだけど、どうしても外せないんだ。師範と一緒に稽古をつけることになっていて…俺、一応全国大会優勝者だから…」
デジャビュどころか、完全に記憶と重なるヤムチャの返答に、今度は息を漏らした。
進歩がないにも程があるわ。おまけに――
「それでまた、あたしとのデートを潰すってわけね」
割を食うのがまたあたしって、どういうことよ!
こいつ、だんだんあたしのことぞんざいに扱うようになってきてない?最初はあんなに従順だったのに。
なんとはなしに捲っていた雑誌を、ソファの隅に放り投げた。
「いいわよ、わかったわ。もうあんたとは約束しないから!」
「そんな…」
あたしがそっぽを向いて見せると、ヤムチャは目に見えて慌てた。慌てた挙句に、こんなことを言った。
「当日には帰ってくるから。…それで映画の回を遅らせてもらえないかと…直行すれば間に合うから…」
しどろもどろのこの口調。わざとらしく添えた手振り。
「何?デートはするってわけ?」
「うん」
「だったら最初からそう言いなさいよ!」
要領悪過ぎ!それに、この態度の弱さは何よ。悪いことしてるわけじゃないんだから、もっと普通にしてなさいよ!
あたしが腰を浮かせかけた時、もはや逆撫でしているとしか思えない世にも幸せな声が、キッチンからやってきた。
「ハーイ、お茶が入ったわよ〜ん。あらブルマさんてば、怖いお顔。怒ってばかりいちゃダメよ〜」
それに続いて、こちらはあからさまに逆撫でしているブタの声。
「おまえら、またケンカしてるのか…おまえも、いつもいつもよく怒るよな」
「ケンカじゃないっつーの!」
今や完全に腰を浮かせて、あたしは怒鳴った。
どこがケンカよ!正当な抗議でしょ!何でもかんでもケンカ扱いしないでほしいわね。
そこへ、主と同じくマイペースに事を運ぶ僕の声が被った。
「砂糖はいつもと同じでいいですか、ヤムチャ様?」
まったく、この家には空気を読める人間はいないわけ?つーか、砂糖くらい自分で入れなさいよ!だいたい、どうしていつもあたしが悪者扱いされるのよ。ろくに話も聞かないでさ。
すっかり不貞腐れてソファに腰を戻すと、ウーロンがソファに座り込みがてら、あたしの放り投げた雑誌を抓み上げた。
開いているのは臨床例のページ。幹細胞と各器官の写真…
「げー。何だこれ。おまえ、グロいもん読んでるなあ」
「グロくなんかないわよ。医学雑誌よ」
おまけに教養もないんだから。あたしだってなんとなく読んでるだけだけど、グロいなんて思ったことないわよ。そんなの、医学に対する冒涜よ。
「おまえ、こんなのばっか読んでるから怒りっぽくなるんだ。もう少し女らしい物、読んだらどうだ?」
「余計なお世話よ!」
ウーロンとの不毛な会話に花が咲きかけたその時、目の前にコーヒーカップと皿が押しやられた。その皿の上に乗っている物を見て、あたしは一時矛を収めた。
こんがりと焼けたキツネ色の生地の上に乗る、赤い宝石…
こんな会話しながら食べてたら、味がしなくなるわ。せっかくのストロベリータルトが不味くなるわ。
「ヤムチャちゃん、お味はどーお?」
「ええ、美味しいですよ」
今頃普通の声音に戻ったヤムチャの言葉を聞きながら、あたしはタルトを食べ続けた。


「じゃあ、行ってくるよ。明後日には帰るから」
「がんばってくださいね、ヤムチャ様!」
「ただの稽古づけだよ」
僕の熱い視線に片手で応えて、ヤムチャは出かけていった。どこかの山奥で行われる、『特別空手合宿』とやらに。
ゲートの外へと消えるヤムチャの後姿を見ながら、ウーロンが気もなさそうに呟いた。
「まったく、あいつもよくやるなあ」
「本当にね」
あたしは心の底から同意した。
何だかんだ言って、すっかり利用されてるわ。あいつ、流されやすいんじゃないの?
やめたはずのクラブの部員として大会に出て、やめたはずの空手の第一人者になって…
たまには断るとかすればいいのに。自分の意思ってものがないのかしら。


家から人間が一人いなくなって、少しだけ増えた退屈な時間を、あたしは読書に当てた。
と言えば聞こえはいいけど、実のところこの医学雑誌を読むのも3回目。レイアウトも写真も、すっかり頭に叩き込まれたわ。
「おまえ、よくそんなグロいもん見て平気でいられるな…」
夕食後のリビングで、ウーロンが呆れたような目を向けた。
「だからグロくないってば」
「どこがだよ。このページなんかまるでスプラッタじゃねえか」
「これは臨床例よ!」
本当に教養なさ過ぎ!おまけにデリカシーもないわ。医学者が聞いたら怒るわよ。
現場を見ずして、どうやって学ぶのよ。あたしは読んでるだけだけど、それでも臨床例を見ないと雑学にもならないわ。
「無神経な女だぜ」
「あんたは医者にかかるのをやめなさい」
「何でだよ」
さんざんバカにしておいて、恩恵だけ受けようなんて甘いのよ。
まったく、どうしてこんな不毛な会話を、ウーロンとしなくちゃならないのよ。…あいつ、早く帰ってこないかしら。
ヤムチャの方がまだマシだわ。


デート当日は、少しだけ肌寒い陽気だった。
ショートパンツからサブリナパンツに履き替えて、テラスで時間を潰していると、珍しく母さんがやってきた。
「ブルマさん、お電話よ。ヤムチャちゃんから」
「ヤムチャから?」
少し新鮮な気持ちになった。ヤムチャと電話で話をすることなんてなかったから。だって、一緒に住んでるし。
回線を開いた途端、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
「ブルマごめん、少し遅れそうなんだ。急に模擬試合をすることになって…」
「は?」
「本当にごめん。終わり次第帰るから。…あっ、はい、今、今行きます」
「ちょっと、ヤム…」
あたし以外の人間に向けた声を最後に、電話は切れた。
しばらく呆然と、あたしはテラスに立ちつくした。

「いいじゃねえか。早くにわかったんだし。ちゃんと電話してきたんだろ」
「何言ってんのよ!」
のんびりとコーヒーを啜りつつ嘯くウーロンに、あたしは当然の反論をした。
「電話すればいいってものじゃないでしょ!」
あたしは返事してないのよ。こっちからは連絡できないんだから、立派なドタキャンでしょうが!
「仕方ないですよ。ヤムチャ様は優勝者なんですから…」
「もとはと言えばおまえが無理を言ったんだろ。ヤムチャのやつが今日いないってことはわかってたんだからよ」
忠実な僕が、忠実に主の擁護をした。今や白けた目を隠さずに、ウーロンが言葉を続けた。2人の声に、あたしは完全に逆撫でされた。
「あいつが行くって言ったのよ!」
デートはするって、あいつが言ったのよ。時間をずらせば大丈夫って、あいつが言ったのよ。
なのに何よ、この雰囲気は。
どうしてあたしが責められるのよ。あたしは何もしてないのに。
「今日はヤムチャちゃんとお茶できると思ってたのに、残念だわ〜」
世にも幸せな声が、あたしの心に止めを刺した。

あったまきた!
どうしてあたしが悪者扱いされるのよ。どうして誰も慰めないのよ。どうしてみんなヤムチャの肩を持つのよ。被害者はあたしなのに。あたしなんか、すっかり用意して約束の時間を待ってたのに。できない約束をしたのは、あいつの方なのに。
動きにくいキャミソールワンピースを脱ぎ捨てて、いつものチューブトップを身につけた。サブリナパンツからショートパンツに履き替えた。もう外には行かないんだもの、これでいいわ。
たまには外で待ち合わせするのもいいかと思ってたのに。気合い入れて損した。

誰もいないリビングで、あたしは4度目の読書をし続けた。
やがてヤムチャが帰ってきた。テラスから聞こえてくるいくつかの声で、それがわかった。
よくものうのうと帰ってこられるもんだわね。絶対許さないんだから!
「あ…えーと…ただいま…」
歯切れ悪くリビングに入ってきたその声に、あたしは答えなかった。
当然よ。笑顔で『おかえり』なんて言ってもらえると思ってるの!?
あたしが黙ってソファに座り続けていると、ヤムチャはあたしの前に立ち尽くしたまま、弁解を始めた。
「ごめんブルマ。どうしても外せなくて…」
「急に師範と模擬試合をすることになって…」
「俺、一応優勝者だし…」
「それで相手にせざるをえなくって…」
ウザイ!
理由があればいいと思ってるの?だいたい何よ、その理由は。自慢してるわけ!?
ヤムチャは延々と言い訳し続けた。あたしはそれを無視し続けた。ヤムチャは目に見えて狼狽し始めた。そうして最後にようやく言った。
「本当にごめん。埋め合わせはするから…」
「当ったり前でしょ!!」
即座に雑誌を放り投げ、ソファから立ち上がった。当然の文句を、あたしは投げつけた。
「ドタキャンしておいて、埋め合わせもなしなんてありえないわよ!明日!明日行くわよ!!」
本当は封切り初日に行きたかったんだから!寛大な処置もいいところよ。
「う…うん…」
弱々しいヤムチャの返事の裏にあるものを、あたしは追求しなかった。
そんな必要ないわ。こいつには拒否する権利なんてないんだから。

夕食後のリビングで、あたしは5度目の読書を始めた。
なんかすっきりしない。むしゃくしゃする。
明日デートすることにしたけど、そんなの当たり前だし。何日か放置するべきだったかしら。でも、あの映画観たいし。女が一人で観にいくものではないし…
「おまえ、まだ怒ってるのか。いい加減しつこいぞ。だいたい、明日約束したんだろ?」
いつだってヤムチャの味方をするウーロンが、あたしの神経を逆撫でする言葉を吐いた。あたしはそれに答えなかった。
そういう問題じゃないのよ。
埋め合わせすれば何もかも許せるってわけじゃないのよ。
埋め合わせすることなんて当たり前よ。問題は、その態度よ。
何なのよ、ヤムチャのあの態度は。初っ端からおどおどしてて、最後に付け足しのようにフォローして。だいたい、フォローにすらなってないわ。
あれじゃ、まるであたしが無理矢理言わせてるみたいじゃない。あいつの意思ってものはないわけ?あいつの考えってものはないわけ?
…あいつの感情ってものはないわけ?
自分の苛立ちの理由を見つけかけた瞬間、リビングのドアが開いた。ヤムチャと、何があってもヤムチャの味方をするプーアルが、のんびりとリビングに入ってきた。自分に向けられかけた視線を、あたしはことさらに無視した。
「おまえ、かわいくねえな…」
ウーロンがぼそりと呟いた。
放っといてよ。
心の中でそれに答えた。ほとんど同時に世にも幸せな声が、部屋に響いた。
「トレーニングお疲れ様、ヤムチャちゃん。お茶にしましょ」
母さんが、コーヒーセットをテーブルに並べながら、ヤムチャに向かって能天気な笑顔を見せた。
「ヤムチャ様、お砂糖入れますね」
注がれたばかりのコーヒーに、プーアルが砂糖を落とし始めた。
誰も彼もヤムチャヤムチャ。本当に嫌になっちゃうわ。
どうしてこいつこんなに好かれてるのかしら。自分は誰も好かないくせに。いつだって適当に応えてるくせに。自分は誰も気にかけていないくせに…
ほとんど捲ってもいなかった雑誌を、ソファの下に投げ捨てた。コーヒーを啜り込もうとした瞬間、目の前に皿が押しやられて、あたしは誰にともなく訊ねた。
「何これ?」
濃いピンク色の直方体。ケーキみたいにも見えるけど、少し違う。シューでもないし、レアケーキでもないし。見たことのないお菓子ね。こんなお菓子、都に売ってたかしら。
「ヤムチャちゃんのお土産よ。ストロベリーブラウニーですって」
「イチゴ好きだろ」
母さんの返事に何気なく添えられたヤムチャの言葉を耳に、あたしはカップを置いた。なんとなくフォークを持つことを躊躇していると、横からウーロンが皿を引いた。
「気に入らないなら、おれが食うぞ」
「食べるわよ」
あたしは即座に皿を奪い返した。
だって、あたしはイチゴが大好きなんだから。イチゴのお菓子だって大好きなんだから。食べるわよ…


翌日、あたしは再び動きにくいキャミソールワンピースとサブリナパンツを身につけた。
新しいコーディネートを考えるの面倒くさいわ。昨日もこれを着てたこと、あいつは知らないんだから、これでいいわよ。
身支度を整えてリビングに行くと、すでにヤムチャがそこにいた。その服装に目を走らせる前に、それが目に入った。
何かというとあたしたちに便乗するウーロンと、大人しげな顔をしながらも結局はウーロンと同じことをするプーアル…
「だから、どうしてあんたたちまで来るのよ!」
あたしの当然の文句に、ウーロンは飄々として答えた。
「おまえ、いい加減おれたちを外すのやめろよ。いいじゃねえか、ホラー見て抱きつく柄でもないだろ。あんなグロい本読んでるくせによ」
「あれは医学雑誌よ!」
本当に教養がないったら。おまけにどうしてそういうことを言うのよ。本当に怖かったらどうしてくれるのよ!
「医学だろうが何だろうが、グロいものはグロいんだよ。なあプーアル?」
そう嘯きながら、ウーロンは部屋の隅のマガジンラックからあの医学雑誌を取り上げ、ページを捲ってみせた。例によって臨床例のページ。幹細胞と各器官の写真…。プーアルがおずおずと、でも遠慮はせずそれに答えた。
「医学って結構スプラッタなんですね…」
「うーん、これは確かに…」
いつの間にかヤムチャまで、雑誌を覗き込んで頭を振っている。
あーもう、わかったわよ!
どうせあたしは平気よ!ホラーなんか怖くないわよ。臨床例だって何とも思わないわよ。
なんとなく男がいた方がいいかなって思っただけよ。万が一怖くたって、ヤムチャを当てになんかしないわよ。
「ウーロン!あんたは絶対にあたしの隣には座らないでよ!」
最終通告を、あたしはした。

この日あたしたちが観にいったのは、スリラー寄りのホラー映画。前評判も高く、予告編が盛んにテレビで流されていて、惨殺シーンなどの直接的描写は少ない。
…ええ、ウーロンの言う通り。抱きつくタイプの映画じゃないわ。っていうか、そんなセコい考えで観に行ったりしないわよ。だいたい、どうしてあたしがヤムチャを相手に、そんな面倒くさいことをしなくちゃいけないわけ。
だから、あたしたちは極々普通に映画を観ていた。ヤムチャは血なまぐさいことには慣れているようだし(それもどうかと思うけど)、あたしも誰かさんのせいで臨床例を嫌というほど見続けたので、すっかり慣れてしまっていた。
と、思っていた。その瞬間までは。映画が始まって、小一時間経つまでは。
それはふいにやってきた。
一瞬、頭の中が白んだ。
シネマチェアに座っていたから、倒れることはなかった。次に胃の不快感を伴わない吐き気が襲ってきて、あたしにはすぐにわかった。
…脳貧血。
どうしてかしら。臨床例の方がよっぽど生々しいのに。あの日だからかな…
気持ち悪い…頭、頭を下げないと…
医学知識というよりは動物的感覚で、頭を膝の上に落とした。ほとんど無意識のうちに目を閉じた。気休めにしかならない、大きな息を吐いた。
「どうかしたのか?」
隣に座っていたヤムチャの声が耳元で聞こえて、あたしは何とか事実を告げた。
「…脳貧血よ…」
こいつにこんなこと言っても、どうせわからないでしょうけど。でも、貧血って言って、下手に救急車でも呼ばれたらかなわないわ。
「…横になりたい…」
半ばは独り言として、あたしは言った。たぶん横になりさえすれば回復する。というより、頭を上げていられない…でも、ここにこれ以上座っているのは無理。ロビーのスツールで横になりたい…
あたしは何とか、席から離れた。…はずだ。正直言って、あまりよく覚えていない。
気がついたら横になっていたのか、横になったから気がついたのか。どちらかはわからないけど、とにかく数分後、あたしはロビーのファブリックスツールの上に、仰向けに寝転がっていた。

あたしの胸元に、着ていたネルシャツを被せようとしているヤムチャには、はっきりと気がついた。
「いらないわ」
できるだけはっきりと、あたしは断った。あまりたくさん喋りたくなかった。ヤムチャはおずおずと、でも手は引っ込めずになおも言った。
「でも温かくしないと…」
「寒くないからいいわよ」
ヤムチャのやり方を否定したわけじゃない。対処法は間違っていない。でも本当に寒くはなかった。
今は横になっていたい。ただそれだけ。実際、脳貧血の処置としてはそれくらいしかない。
ヤムチャはそれを尊重してくれた。ずっと黙って、あたしの傍であたしを放っておいてくれた。…こいつにしては上出来ね。
「はぁー…」
30分ほどもすると、あたしの気分は回復してきた。
大きく息を吐きながら、少しだけ体を起こしてみた。…大丈夫…のような気がする。
「大丈夫か?」
傍らであたしを見つめる男に、無言で頷き返しながら、あたしは考えていた。
どうしてヤムチャがここにいるのかしら。特にこいつに何かできるわけでもないのに。なんとなく当然のような気がしてたけど、別に必要ないわよね。
「あんた、もう席に戻っていいわよ。話はだいたいわかるでしょ。結末観てきなさいよ」
あたしが言うと、ヤムチャは少しだけ眉を寄せた。
「そういうわけにはいかないだろ。女の子を一人置いていけるか」
思わず目を瞠った。こいつが、こんな断定口調で話すのは珍しい。いつだって弱腰で、あたしの言うことに逆らうことなんかしないのに。
それに、『女の子云々』なんて言うこと自体が珍しい。ヤムチャが硬派だなんて、もう思ってやしないけど。ヤムチャはそういうことには疎いというか、鈍いというか、とにかくさっぱりわかっていないやつなんだと思ってたのに。
一つだけ可能性を思いついた。それはかなりあり得そうなことのように思えた。あたしはそれを、率直に口に出してみた。
「…格好つけ」
「何とでも言え」
さらに強い口調でそう返されて、あたしは今度は息を呑んだ。新鮮な空気に、あたしは包まれていた。なんか…なんだか…
…なんだかヤムチャが男に見える。
いえ、もともと男なんだけど。でも、どうにもいつもはそれらしくないというか。妙に腰低いし。おまけに引け腰だし。トレーニングなんかをしている時は格好いいんだけど、それ以外の時はさっぱり男らしくないというか…
あまり心楽しくない個性の列挙をし始めていることに気づいて、あたしは思考を止めた。よくわかんないけど、男が男らしいのはいいことよね。問題は、それがいつまで続くかだけど。
「何か飲むか?」
ふいにヤムチャが訊ねてきて、あたしはまたもや目を瞠った。
どうしたのかしら。妙に気が利くわね。…珍しすぎるわ。
「イチゴのフレッシュジュースが売ってたぞ」
続けて発せられた言葉は、思いっきりあたしの苦笑を誘った。
「あんた、あたしにはイチゴさえあげとけばいいと思ってるでしょ」
「そんなこと…」
ヤムチャは軽く目を伏せて、口篭った。
まったく、しょうのない男ね。
本当に単純なんだから。しかも、もう元に戻ってるわ。
今やすっかりいつもの腰の弱さを露呈して、ヤムチャは言葉を続けた。
「他の物がいいんなら…」
「イチゴでいいわ。でも、ストロベリーソーダにして」
あたしははっきりと答えた。
フレッシュジュースはちょっとね。…生々し過ぎるわ。こいつも、まだまだ甘いわね。

「んーーー」
ヤムチャがジュースを買いに行っている間に、立ち上がって伸びをしてみた。
うん、もう大丈夫。立ちくらみもしない。でも一応大事を取って、急激に動かないよう気をつけとくか。もともと低血圧だし。その気はあるのよね。
「立って平気なのか?」
やがて戻ってきたヤムチャが、ピンク色の液体の入ったドリンクカップをあたしに差し向けながら言った。再びスツールに座り込みながら、あたしはそれを受け取った。
「ぼちぼちね」
ヤムチャの声に惰性で答えながら、素早く周囲に視線を飛ばして、それを探した。
背凭れ。どうしてここのロビーには、背凭れのないファブリックスツールしかないのかしら。気が利かないわよね。
そりゃあ、開放的な空間は演出できるかもしれないけど。見た目だけじゃなくて、実も組み込んでもらいたいものだわ。
隣に腰を下ろしかけるヤムチャに、あたしははっきりと頼んだ。
「ねえ、ちょっと背中貸してよ」
「背中?」
「背凭れがほしいのよ。あたしの後ろに座ってよ」
腑に落ちない顔をし続けるヤムチャに、あたしは丁寧に説明してみせた。本当に反応鈍いんだから。もう喋っても平気だから、いいけど。
どことなくおずおずと背後に置かれたヤムチャの背中に、あたしは躊躇なく背を預けた。
「あー、楽ちん」
男の背中って広くていいわね。こいつは体を鍛えてもいるし。気兼ねなく凭れられるわ。
ストロベリーソーダを飲み干した後も、あたしはヤムチャの背に凭れ続けた。少し体が冷えてきたから。こいつの背中、あったかいし。
…それになんとなくいい感じだし。
一方のヤムチャはと言うと、ずっと無言であたしの背を支え続けていた。急に動かれるのは困るけど、もう少し何か言えばいいのに。さっきの『女の子云々』はどこにいっちゃったのよ。いまいち何考えてるのかわからないわよね、こいつ。
ヤムチャに引き摺られるようにあたしも無言を通していると、上映終了のベルが鳴った。ほどなくして、ウーロンとプーアルが出てきた。ウーロンは背中合わせに座っているあたしたちを一目見るなり、呆れたように言い捨てた。
「おまえら、またケンカしてたのか。こんなとこまできて、ケンカするなよな」
「ケンカなんかしてないってば!!」
「ケンカなんかしてない!!」
咄嗟に叫んだあたしの声は、完全にヤムチャのものと被っていた。あたしたちは一瞬、目を合わせた。
丸くなりかけているヤムチャの目。少しだけ凝り固まったその表情…
それにつられかけたあたしの耳に、さらなるウーロンの声が飛び込んだ。
「なんだよおまえら、2人して。何かあったのか?」
「何にもないわよ!!」
「何にもない!!」
また被った。
再び目を合わせたあたしたちに向かって、ウーロンはなおも言い募った。
「怪しいな、おまえら…」
今度はあたしは口を噤んだ。これ以上被ると、何もなくても怪しく思われちゃう。そう思ったから。
そうしたら、ヤムチャも口を噤んだ。
もう、何でよ!
こういう時は、男が庇うものでしょ!本当に気が利かないんだから。
いいわよ。わかったわよ。こいつはそういう男よ。
「一体何が――」
しつこく続けるウーロンの声を、あたしは制した。
「何もないわよ。それより飲み物買ってきて!あたしフレッシュジュース!イチゴのね。ヤムチャ、あんたは?」
あたしが水を向けると、ヤムチャは目を白黒させて言い澱んだ。
「いや、俺は…」
「こういう時は便乗しなさい!」
そのとぼけた目をも、あたしは制した。本当にわかってなさ過ぎ!
「こういう時って何だよ」
「何でもないわよ!」
勃発しかけたウーロンとの口論に、ヤムチャの声が被った。
「うーん、じゃあ俺も同じもの…」
そのタイミングの悪さと声音の弱々しさに、あたしはうっかり聞き逃すところだった。本当に要領が悪いんだから。
「じゃあ、ストロベリージュース2つね。キャッシュはプーアルに持たせるから。早く行ってきなさい!」
プーアルに財布を預けながらウーロンを怒鳴りつけて、あたしは強引に場を収めた。
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