欠進の男
ハイスクールに限らない。スクールと名のつく場所で、あたしが一番嫌いなもの――
それは『体育祭』よ。

大嫌いな体育祭を、あたしはうんと遠目に眺めていた。
グラウンドを包む歓声。その一角に黄色い声――例によってバカ女たちの叫び声。でもその言葉は、あたしの耳には届かない。
その視線の先にある、体力だけが取り柄の男。その顔も、あたしにはわからない。それでもそれがヤムチャだとわかるのは、明らかに他の人間と動きが違うからだ。
よくやるわね、あいつも。
本当に真面目よね。まったく、馴染み過ぎだわよ。
開祭式の花火が上がってより3時間。あたしはずっと、高等部校舎の屋上にいた。ストロベリーチップスを齧りながら、時折グラウンドに目をやって、エアバイクで飛び去るチャンスを窺っていた。
案外ないのよ、隙が。普段と違って、みんな外にいるし。あたしのエアバイクは結構エンジン音が大きいし…
ペントハウスの側面に背中を凭れて、なんとなく空を見上げていると、ふいにドアの開く音が聞こえた。息を潜めるあたしの耳に、幾つかの足音と自分を呼ぶ声が入ってきた。
「ブルマ?いるのか?」
「お弁当持ってきましたよ」
「面倒くさいからさっさと出てこいよな」
ヤムチャたちだ。どうしてここがわかったのかしら。
「ドアちゃんと閉めて。大きな声出さないでよ」
3人の後に誰も続いていないことを確かめて、あたしはペントハウスの陰から顔を出した。

うちの体育祭は小中高等同時に行われる。合同ではなく、別々のグラウンドで同時開祭。プログラムはほとんど同じ。だから、昼食時間にこいつら3人がつるんでいることの説明はつく。…ちょっと呆れちゃうけど。何もこんなところでまで、つるまなくたってねえ。でも…
「どうして、ここにあたしがいるってわかったのよ」
たいして空いてもいないお腹に、デザートのストロベリーパイを詰め込みながら、あたしは訊ねた。
だって、誰にも見られていないはずなのに。実際、こいつらが来るまでは誰も来なかったし。
「エアバイクが光ってたぞ。最初に見つけたのはプーアルだけどな」
「高等部校舎は日向だから、すぐ気づきましたよ。どうぞ、ヤムチャ様」
プーアルにお茶を注がせながら、ヤムチャが答えた。思わず屋上隅に待機させたエアバイクに目を走らせた時、ウーロンが白けた口調で追い討ちをかけた。
「おまえって抜けてるよな」
「うるさいわね」
やっぱりプーアルに注がせたお茶を、ヤムチャがあたしに差し出した。ウーロンを小突き終えた手で、あたしはそれを受け取った。
「どうして体育祭に出ないんだ?クラスのやつらが探してたぞ」
「嫌いなのよ」
能天気なヤムチャの声に、苦々しい気持ちであたしは答えた。決まりきったことを訊かないでほしいわ。他に理由があるわけないでしょ。
「どうしてだ?」
さらに間抜けな質問を繰り出すヤムチャに、あたしはヤムチャ自身に教えられた言葉を返した。
「…トラウマなのよ」
その言葉の出所すら知らないブタが、これに反論した。
「おまえ、いい加減なこと言うなよ。体育祭がトラウマって、何だよ」
「あんたたちにはわからないわよ。…あんな格好できるもんですか」
これきりあたしは口を閉じた。
どうせ、こいつらにはわからないわよ。こいつらはあたしじゃないんだから。『ブルマ』っていう人間じゃないんだから。
この名前のせいで、どれだけバカにされたことか。特にジュニアスクール。あれであたしの体育嫌いが決定されたのよ。
ミドルスクールになって、ようやく体操着があれじゃなくなったと安心してたのに。どうしてハイスクールがまたあれなのよ。しかも、普段は私服のくせに、体育祭だけあれなのよ。嫌がらせとしか思えないわよね。そりゃ、ハイスクールともなれば、そんなくだらないことを言う人はいないでしょうよ。だけど、そういう問題じゃないのよ。
目の前の面々を見回した。埃の映える白いシャツに、色の違うハーフパンツ…
「いいわよね、男は」
あたしが男だったら、こんなことはなかったわ。それはもう絶対よ。

結局、閉祭式までも、あたしは遠目に眺めることとなった。
グラウンドに蔓延する倦怠感。勝利クラスの面々の間に広がる歓声。その言葉は聞こえずとも、賑わう集団のヘッドバンドの色で、どのクラスが勝ったのかだけはわかった。
まあ、当然の結果でしょうね。
ここぞとばかりに活躍する人間が、一人いるものね。普通は一人くらいの力じゃどうにもならないものだけど。あいつは色々と普通じゃないから。特に感性とか。
今までグラウンドに溢れかえっていた人の群れが、スクール敷地全体に溢れかえり出した。なかなか散開しないバカ女たちの集団。グラウンドの片隅に座り込んで、ダベり始める男たち。だるそうに後片付けをする、係りの生徒。エントランスにたむろする、暇人たち。
もう!終わったんだから、さっさと帰りなさいよ。みんな引き際悪いんだから!
ペントハウスの側面に背中を凭れて、ストロベリークッキーの封を開けた時、ドアの開く音がした。ほとんど同時に、鬱陶しい批難の声が耳に届いた。
「おまえ、まだそんなことしてんのか。さっさと帰り支度しろよ」
ウーロンだ。プーアルもいる。小等部の方も終わったのね。って、何よその偉そうな態度は。
「放っといてよ。一体何しにきたのよ、あんた」
「おまえ、かわいくねえな。わざわざ迎えに来てやったのによ」
「頼んでないわよ」
何であたしがウーロンと一緒に帰らなくちゃいけないのよ。そんなの、頼まれたってお断りよ。
「おれだって頼まれてねえよ。プーアルがヤムチャと一緒に帰りたいっていうから…どうせおまえも帰るんだろ」
「今日は別々よ。あたしは後で帰るわ」
あたしが言うと、ウーロンは呆れたような目をして、不愉快な批難の言葉を吐いた。
「おまえら、またケンカ…」
「してないわよ!」
あーもう、ウザイ!
どうしていつもいつもそういうこと言うわけ?あたしたちがケンカなんかしてないの、こいつだって見てたでしょうが。
「だったら、早く帰り支度しろよ。あいつが来たら帰るぞ」
「だから、帰らないって言ってるでしょ。あんたたち先に帰ってなさい。あたしのことはいいから」
「そんなこと言って、後で怒るくせによ」
「怒らないってば!」
むしろ今怒ってるわよ!
本当に空気の読めないブタよね。プーアルもプーアルよ。さっさとこんなブタ、連れてってくれればいいのに。揃いも揃って、空気読めないんだから。
「どうしたんだ?」
その時、空気の読めない人間がもう一人やってきた。空気の読めない僕の、空気を読めない主に向かって、空気の読めないブタが、空気の読めない返事をした。
「おー、ヤムチャ。ブルマが帰らないって言い張るんだよ」
「どうしてだ?」
一向に流れようとしない空気に、あたしはすっかり頭にきた。
「帰らないなんて言ってないでしょ!後から一人で帰るって言ってんのよ!」
「何が違うんだよ」
「大違いよ!今帰ったらサボりがバレるでしょうが!まだこんなに人がいっぱいいるのに!」
そんな簡単なこともわからないわけ?バカって最悪!
あたしが種を明かしてみせたにも関わらず、ウーロンは引かなかった。自分のバカさを棚に上げて、こんなことを言い出した。
「おまえ、人がいなくなるまで待つつもりかよ。手際悪いサボりだなあ」
「放っといてよ!」
「エアバイクはバレバレだし、帰りのことは考えてないし。おまえって本当に無計画…」
「うるさいわね!」
本当にしつこ過ぎ!いい加減、口を動かすのにも疲れてきた。
ハイスクールの人間を避けるより先に、こいつらを避ける方法を考えるべきだわ。なんか作ろうかな。透明になれる薬とか、小さくなれるメカとか…
あたしが理論的に現実逃避をし始めたその時、空気の読めないあたしの彼氏が視界に入ってきた。…そういえばヤムチャもいたっけね。ほとんど忘れかけてたわ――
「『脳貧血』ということにしておいたよ。だから見つかっても大丈夫だろ」
――この台詞に、あたしの思考は一瞬完全に止まった。『脳貧血』。
…こいつ、よく覚えてたわね、その言葉。それに…
「あんた、本当にこういうことに関しては知恵が回るわね…」
心の底から、あたしは言った。正直言って、見直したわ。ヤムチャが、こんな気の利いたことをするなんて。
遊園地でも同じようなことがあったっけ。ヤムチャって普段はボケッとしてるくせに、時々妙に機転が――いえ、すでに悪知恵の域よね。少し前まで悪人だったっていうのも、頷けるわ。…今は隠してるのかしら。
思わずヤムチャの顔を見つめた。ドアへと向かいかけるその足に続こうとしたあたしの耳に、ウーロンの声が飛び込んできた。
「おいブルマ、エアバイクはどうするんだ。置いていくのか?」
「あっ、忘れてた…」
というより、ほとんど呆けてた。あんまり意外だったから。
出番を得られなかったエアバイクをカプセルに戻しながら、あたしは思った。
今度からはヤムチャもサボりに誘ってやろうかしら。いいブレーンになりそうよね。
普段は大人しいし。なかなか使える性質だわ。


翌日、あたしは普段通りにハイスクールへ行った。昨日までは、まるまるサボろうと考えてたんだけど。体育祭のサボりのこと、文句言われるに決まってるし。でも、その必要もなくなっちゃった。
『脳貧血』のことに関しては、誰にも何も訊かれなかった。理由はだいたいわかる。みんなそんなこと、どうでもいいのよ。特に女たちなんか、ヤムチャとの付き合いのことはいろいろ訊いてくるけど、あたし自身のことなんて気にしてもいないわ。
あたしの観察はまったく当たっていた。そのことが昼食時間に証明された。あたしがお弁当片手に、ヤムチャのクラスへ行こうと席を外しかけた時、一人の女が言ったのだ。
「あらブルマ。あんた、ヤムチャくんとケンカしたんじゃなかったの?」
残念そうな、それでいて嫌味たっぷりなこの口調。文字で伝えられないのが残念だわ。
言葉は一人の女のものでも、向けられている視線の数はそうじゃなかった。女たちはいつだって、あたしとヤムチャがケンカすることを望んでるのよ。早く別れないかと手薬煉引いて待ってるのよ。本当に嫌なやつらよ。
「おあいにく様。ラブラブよ」
あたしは言ってやった。ある気持ちを心の隅に押し込めながら。
なんだって、こんなことになってるのかしら。
彼氏がいるって一番最初に言った時は、誰も信じなかったくせに。格好いいって、どんなに言っても信じなかったくせに。
それが今じゃ、あいつの格好よさだけ認めてさ。あいつのよさはそれだけだってことにも気づかないでさ。あたしの彼氏だってことを、信じたがらないのよ。本当に頭にきちゃうわね。
そして、すっごく虚しいわ。

「これあげる」
裏庭の片隅で、あたしはお弁当箱を開けた。そして、おかずの中にそれが混じっているのを見つけて、隣に座る男のお弁当箱に、それを放り込んだ。ヤムチャは何も言わずに、少しだけ呆れを漂わせてあたしを見た。
このおかず、あまり好きじゃないって言ってるのに。母さんたら、あたしの言うことなんて全然聞きやしないんだから。ヤムチャの好きそうなものばっかり、詰め込んでさ。
あんな男好きの母親がこの世にいていいのかしら。父さんも物好きよね。
「あたし、午後は化学実験室にいるから。授業が終わったら迎えに来て」
あたしが言うとヤムチャは、やっぱリ呆れを漂わせながら、やや的外れな質問をした。
「午後全部サボるのか?」
あたしがサボることをヤムチャは時々咎めるけど、本気で怒られたことはまだない。従順でいいことだわ。
「数学と物理だもの。自習の方がまだマシよ」
このハイスクールは特にレベルが高いというわけではない。そんなもの特に求めてないからまあいいけど(求めていたらとっくに転校しているわ)、それにしたって、数学と物理の授業はレベルが低すぎよ。
眠っていたって解ける問題ばかりよ。実際に、居眠りしてて当てられて解いたことあるし。それ以来、教師もあたしには当てなくなった。もはや居眠りを妨げる刺激すらない。つまらないの極致だわ。
ふと、昨日のことを思い出した。何も言わずお弁当をかき込み続けるヤムチャの顔を肩越しに見ながら、あたしは訊いてみた。
「あんたも一緒にサボる?絶対バレっこないわよ」
化学実験室はマニュアルロックされてるから他の生徒は来ないし。今日、使用予定が入っていないことはチェック済みよ。
あたしの言葉に、ヤムチャはうっすらと笑みを浮かべた。あたしは少しだけ虚をつかれた。誘っておいてなんだけど、そういう反応をするとは思わなかった。きっとまた困ったような顔をするんだとばかり思っていた。
だって、いつもそうなんだもの。ケンカをした時はもちろん、何かを報告する時も、デートの約束をする時でさえ、そうなんだから。
いい感じにあたしを裏切ったあたしの彼氏は、その雰囲気のまま、でも普段とたいして変わらない台詞を零した。
「いや。俺、今日の化学、当てられてるから」
普通、当てられてると余計にサボりたくなるんじゃないかと思うんだけど、ヤムチャはその逆みたい。変わってるわよね。
「どの問題?答え教えてあげるわよ」
脳裏に化学のテキストを紐解きながら、あたしは言った。こいつも、もっと早くに言えばいいのに。要領悪いんだから。昨日見せた機転は、どうやら奇跡だったみたいね。
「たぶん3節の最後のページのどれかだな」
「アバウトね〜」
脳裏でテキストを捲りながら、あたしはできるだけ丁寧に、幾つかの問題の答えを紙に書いた。前に、文字が読めないって言われたことあるから。…大人しそうな顔して、結構失礼なこと言うわよね、こいつ。
こんな色気のない会話しかできない相手のどこがいいのかしら。ちっとも妬ましくない関係だと思うけど。
みんな、夢見過ぎよね。


化学実験室は2階の東端にある。資料室やら未使用室に囲まれて、授業が始まってしまえば、ほとんど人はやってこない。だからというわけではないけれど、あたしはここが好きだった。
新鮮なのよね。
父さんは理工学全般齧っているけど、化学にはさほど重点を置いていない。C.Cの業務についてもやっぱりそう。ホイポイカプセルの発明には化学的見地からの考察も必要だったはずだけど、あれを発明したのはもう20年以上も昔のことだ。だから、C.Cの研究室には、化学関係の物品はほとんどない。それが化学実験室に新鮮さを感じる理由よ。
とは言っても、所詮はハイスクールだから、たいしたものはないけれど。でも、シャボン玉で火の玉を作ったり、きれいな炎色反応を見ているだけでも、充分に楽しい。最近ハマっている遊びは、試験管の中でする炎色反応。普通に燃やすより長く楽しめるし、発光ダイオードみたいですごくきれいなの。
デスクの一部を照らすリチウムの深い紅色を楽しみながら、一枚の図面をカプセルから取り出した。ヤムチャたちがC.Cに来る前から引いていた、この図面。しばらく忘れていたんだけど、昨日ウーロンとやりあっている途中で、思い出した。
鬱陶しいあいつらを避ける方法。本当はそのために考えついたものじゃないんだけど。でも、充分に有効だわ。初期の目的はまだ果たせないとしても、とりあえず試作品として作ってみようかな。『不便さから発明が生まれる』って、本当ね。
思考を進めるあたしの耳に、5限目終了のチャイムが鳴り響いた。こういうことをしていると、時間が経つのってあっという間。つまらない授業は自習するに限るわよ。
頭と手の両方を休めて、軽く体を伸ばした。5分程も過ぎた頃、ふいにドアが叩かれた。ノック3回。知人の合図。思わず動きを止めていると、ノックの主が小声であたしの名を呼んだ。
「…おい、ブルマ…」
聞き慣れた低い声。どことなく周囲を憚るような弱々しいその声音。
向こうからはわからないように、ドアコンソールのモニターを起動した。ドアの向こうにいるのがただ一人であることを確認して、フル起動させた。
「名前呼ばないでよ。授業なら出ないわよ」
今さら説得しに来るなんて、間抜けもいいところだわ。
再びコンソールをハーフオンにしかけたあたしの指を、コンソール越しのヤムチャの声が止めた。
「そうじゃなくて…その、俺もちょっと休もうかと」
「マジ?」
思わず声を高めた。珍しすぎ!っていうか、きっと初めてよ。ヤムチャがサボるなんて。
「そんなこと言って、引き摺り出す気じゃないでしょうね?」
ヤムチャがそんな強行をするなんて、ちょっと考えにくいけど。サボりよりはあり得そうなことよね。
あたしがあからさまに不審がってみせると、モニターの中の顔が思いっきり不貞腐れた。同時にこれまた不貞腐れた声がスピーカーから流れてきた。
「なんだよ、自分で誘ったくせに…」
笑いを堪えるのが大変だった。この顔。この声音。ひさしぶりに見るかわいさだわ。
「周りには誰もいない?さっと入ってね」
コンソール越しに放った最後の言葉は、面と向かったヤムチャの声で報われた。ここぞとばかりに敏捷さを発揮して、ヤムチャは実験室に入り込んだ。
「用心深いなあ」
「当ったり前でしょ」
ヤムチャにサボりを教えている時点で、あたしはすでに危険を冒しているんだから。だってこいつ、本当に口が軽いんだもの。
「何しに来たの?」
「何してたんだ?」
あたしの当然の質問は、間抜けなヤムチャの言葉と、ほぼ完全に被った。
「何ってサボってたのよ」
「サボりに来たんだよ」
再び声が被って、あたしは思わず眉を顰めた。…ひょっとして、あたしこいつと同レベルなのかしら。まさかね。信じたくないわ、そんなこと。
あたしは一時口を閉じることにした。これ以上被っちゃったら、きっと立ち直れないわ。そうしたら、ヤムチャもまた口を噤んだ。重くはない沈黙が降りかけて、なんとはなしに室内を見回したあたしは、デスクの上にそれを広げていたことを思い出した。
あの図面。見たって、まずヤムチャにはわからないでしょうけど。こいつを対象にすべきかどうかは、今のところ微妙だけど、一応隠しておこうかな。こいつ、口軽いから。
さりげなさを装って図面をカプセルに戻し入れた。ヤムチャはどことなく物珍しそうな目で、窓から外を見ていた。やがて窓を閉め無造作にスツールに腰を下ろして、やっぱり無造作に口を開いた。
「こういうところでいつも何してるんだ?化学実験室なんかでやることあるのか?」
「いっぱいあるわよ。炎色反応を見たりとか、単結晶を作ったりとか。金属樹を作ったこともあるし」
あたしの言葉は、ヤムチャにはさっぱり理解できないようだった。この茫洋とした目を見ればわかるわ。本当に体力バカなんだから。
「いいわ、見せてあげる」
スツールを足場にして、物品棚の最上段から薬品壜を取り出した。塩化リチウム、塩化ナトリウム、塩化カリウム、塩化バリウム。全部一度にやるのと一つずつやるのと、どっちがきれいかな。
それはヤムチャの反応次第ということにして、とりあえずは試験管を並べた。まずはリチウムから。あたしはこれが一番好き。
「カーテン閉めて」
不思議そうな顔をしながらも、ヤムチャはあたしの言葉に従った。薄暗闇の中、再び正面のスツールに腰を下ろしたヤムチャを見ながら、あたしはバーナーに火を点けた。
試験管に塩素酸カリウムと塩化リチウムを入れて、バーナーで加熱する。泡が立ってきたら、硫黄を入れる。たったこれだけ。これだけで…
硫黄に火が点いた。それはすぐに花火となって、あたしの手元を照らし出した。まばゆいばかりの深い紅。試験管の形をした灯火。目を楽しませる化学の光。
「何だ、これ?」
薄闇に浮かび上がったヤムチャの顔は、驚いているように見えた。紅に染まるその顔とリチウムの光を見比べながら、ヤムチャも知っているはずの答えを、あたしは口に出した。
「炎色反応よ。授業でやったでしょ」
「やったけど。こんなにきれいだったかな」
「授業では燃やすだけだからね。でも、こうした方がずっときれいよ」
数十秒もすると花火は消えた。新たな試験管を手に取って、今度はナトリウムを放り込んだ。
再び燃える花火。鮮やかなレモンの色。続いてカリウムの淡い紫。バリウムはライムグリーン。
ヤムチャは黙って、あたしを――いえ、手元を飾る花火を見ていた。ほとんど何も喋らずに。でも、あたしは満足だった。気が利かないとも思わない。
こういう時はそれでいいのよ。こういう時にお喋りな男の方が、むしろ幻滅するわ。
それに、なんとなくいい顔してるし。仄かに浮かんだ優しそうな笑みと、素直に見つめる邪気のない瞳。肩に力の入らない、それでいて男っぽい雰囲気。まったくもって、自然体ね。こういうヤムチャを見ていると、ハイスクールの女たちが浮き足立つのも頷けるわ。
「もう一回やってみる?」
一通りの反応をやり尽くして、あたしは声をかけた。
本当はもっといろいろな薬品があるといいんだけど。所詮はハイスクールだから。目を引くようなきれいな光を発するものは、このくらいしかないのよね。
ヤムチャは少しだけ目を細めて、なかなか嬉しいことを言ってくれた。
「最初のがもう一度見たいな。あれが一番きれいだった」
それがおべっかやご機嫌取りじゃないことはすぐにわかった。そのつもりなら、もっとうまいことを言うでしょうよ。だいたい、あたし何にも言ってないし。
…かわいいわね、こいつ。
「リチウムね。オッケー」
あたしはまったく満足して、ヤムチャと一緒にリチウムの深い紅を楽しんだ。

6限目終了のチャイムが鳴った時、ちょっぴりだけあたしはそれを恨んだ。
こんな風にヤムチャと一緒に過ごすことなんて、あまりないから。C.Cでは、いつもウーロンが邪魔をするし。そうじゃなくても、こんなに落ち着いた雰囲気になることなんてないわ。今日のこの時間は奇跡かもね。
あたしの未練になどまったく気づいた様子もなく、ヤムチャはさっさとカーテンを開けた。ええ、ええ、わかってるわよ。こいつはそういう男よ。本ッ当に、人の機微に疎いんだから。…さっきのあいつは、やっぱり奇跡ね。
デスクの上の薬品壜を一箇所に掻き集めた。まずは未練の元を、さっさと片付けちゃお。試験管洗いは…ヤムチャにやらせようかしら。面倒くさいのよね、あれ。こいつもそれなりに楽しんだみたいだし、それくらいさせてもいいわよね。
黒い後ろ髪を横目に、スツールに上った。瞬間、あたしの腕の中で壜が踊った。あたしは身を反らして、壜を持ち堪えた。でも、スツールがあたしを持ち堪えてくれなかった。自分の体が引力に、後ろ向きに引っ張られるのがわかった。
ヤバイ!塩素酸カリウム…
落としたら爆発するかも!そんなことになったら、一発でサボりがバレる。いくら一緒が楽しいって言ったって、一緒に怒られるのはごめんだわ!
かつてないほど、あたしは背筋を使った。何とか体を斜め前へのめらせて、両腕で壜を棚に突っ込んだ。危なかった…!
そう思ったら、今度は自分が危なくなった。スツールが思いっきり傾いた。
「あーっ!!」
後ろへと転がり倒れるスツールの上で、あたしは完全に宙に浮いた。

「いったーい!!」
反射的に叫んでしまってから、すぐにあたしは気づいた。…痛くない。
「あれ、ヤムチャ…」
いつの間にか、あたしと床の間にヤムチャがいた。本当にいつの間に来たのかしら。確か窓のところにいたのに。素早いわね。
「ちょっと、ヤムチャ?」
ヤムチャは動かなかった。仰向けになったまま、あたしの首元に頭を埋めて微動だにしない。…死んでる?わけないわよね。だいたい、あたしの背中で手が組まれてるし。
「あんたね!いい加減に…」
お礼の気持ちが怒りに変わりかけた頃、室内の空気が動いた。ほとんど同時に、いくつかの足音と女の声が部屋に入ってきた。
「本当に見たんでしょうね?嘘ついてキー借りるの大変だったんだから。これでいなかったら…」
「間違いっこないって!それに、6限目いなかったらしいし」
ええ?何で?どうして人が来るわけ?
誰にもバレてないと思うのに。実際、5限目には誰も来なかったし…
「でも、あのヤムチャくんがサボるなんて…」
こいつか!!
睨みつけてやろうにも、あたしの下にいる男の顔は、あたしの視界にはなかった。いついつまでもあたしを放そうとしないヤムチャの脇を、あたしは小突いた。
「ちょっと、ヤム…」
続いて呼びかけたあたしの声は、完全に掻き消された。
「あーっ!!」
「きゃーっ!」
「やだーっ!」
顔を上げたあたしの視界に、女たちの姿が入った。いつにも増して非難の入り混じったその声音。露骨に敵意を表したその視線。
その視線は、ひたすらあたしに向けられていた。ヤムチャの体の上に重なる、あたしに。
「最低ーーーっ!!」
揃って叫んだ女たちが一体何を考えているのか、あたしにははっきりとわかった。
「ちょっと!違うわよ、これは…ヤムチャ!あんた、いい加減に放しなさいよ!!」
可能な限り体を起こすと、ヤムチャの手が解けた。上半身を起こしかけたあたしの下で、ようやくヤムチャが顔を上げた。
「何だ?どうしたんだ?」
遅い!
遅すぎるわ。何なの、その鈍い反応は。あの女たちの奇声が聞こえなかったっていうの!?
そう、女たちはとっくにいなくなっていた。ヤムチャが顔を上げるより早く。ヤムチャが手を解くより早く――その瞬間を見さえすれば、あたしが被害者だってわかったはずなのに!
「何考えてんのよ、あんたは!一体何してたのよ!!」
「何って、ブルマを助け…」
「どこがよ!」
本当に遅いわよ!一体いつの話をしてるのよ。
怒鳴りつけるあたしとは反対に、ヤムチャは静かだった。やや伏し目がちに、おもむろにあたしの名前を呼んだ。
「あのな、ブルマ…」
そしてあたしの肩に手を置いた。紅潮する頬。耳元に囁きかける低い声。な…
「な、何しようとしてんのよ!」
何考えてんの!
今まで一度だって、こんなことしたことなかったくせに。よりによってこんな時に…デリカシーなさ過ぎ!
「あたし帰るから、試験管洗っておいて!それから、しばらく校内で話しかけないでよ!!」
言いながら、ポケットからエアバイクのカプセルを取り出した。カプセルにしておいてよかった。今は一秒だって惜しい。これ以上ハイスクールにいられるもんですか。
今だけじゃないわ。明日からどうすればいいのよ。しかも、あたしがこんな大変なことになってるっていうのに、こいつは…こいつは。…何もこんな時に…!
「バカヤムチャ!!」
すかさずエアバイクに跨った。先ほどヤムチャが外を見ていた大きな窓から、あたしは外に飛び出した。
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