漸進の男
「ふわぁ〜あぁぁ…」
部屋いっぱいに朝日が射し込んできた頃、欠伸が止まらなくなった。
「ふあぁ…そろそろ寝ようかな」
誰もいない部屋で呟いた。徹夜するとどうして独り言が多くなるのかしら。不思議よね。ま、独り言だから。誰も聞いてないんだから、別にいいけど。
「お腹空いた〜…何かうんと甘いもの。チョコレート。ダークホットチョコレート…」
設計図を片付けた途端に欲求が湧き起こってきて、ほとんど呆然と部屋を出た。
リビングからキッチンへと入りかけると、そこにはすでに先駆者がいた。平日と休日の区別もつけずに朝ともなれば早起きして、ただただトレーニングをするだけの単純な男がコーヒーを淹れていた。
その姿を見た途端、あたしの中に不機嫌が広がった。理由?そんなものないわ。ただなんとなくそうなるのよ。徹夜明けって不思議よね。
「あれ、ブルマ。おはよう。早…」
「寝てないのよ」
嫌味なほどつやつやとした健康そうなその顔に、即座にあたしは事実を告げた。
あたしだって、初めから徹夜しようと思っていたわけじゃない。気がついたら朝になってたのよ。週末の夜って、ついうっかりしちゃうわよね。
それにしたって、見てわかりそうなものなのに。昨夜とまったく同じ服。充血した目。どことなく血色の悪い肌…。心配するどころか、気がつきもしないなんて。よくもこんなに無神経な男と、あたし一緒にいられるものだわ。
「コーヒー飲むか?」
「いらないわ。ホットチョコレート飲みにきたのよ」
おまけに思いっきりズレてるし。コーヒーなんか飲むわけないでしょ。あたしはこれから寝るんだから。
使えない男を無視して、キッチンへと入りチョコレートを探した。チョコレートはなかなか見つからなかった。そして、結局最後まで見つからなかった。気がつけば芳醇なカカオの香りがキッチンいっぱいに漂っていて、あたしはストッカーを漁っていた手を止めた。
「俺が作るから、ブルマはリビングで待ってろ。なっ」
妙に爽やかな口調でそう言うと、ヤムチャはミルクパンを片手に持ったまま、シェルフからチョコレートカップを取り出した。…珍しいこともあるものね。天変地異の前触れかしら。
ソファに座って甘いチョコレートを飲んでいると、理論で凝り固まっていた頭が解れてきた。心地いい倦怠感が体を包み出した。そろそろ寝よう。再びそう思った時、ウーロンがやってきた。そして、あたしのカップの中身に文句をつけた。
「おまえ、よく起き抜けにそんなもの飲めるな」
「起き抜けじゃないわ。これから寝るのよ」
あたしはまた事実を告げた。まったく、揃いも揃って鈍いんだから。
ウーロンは露骨に不審そうな顔をして、口を尖らせ反駁してきた。
「これからって、もうすぐ8時だぞ。サファリパークはどうするんだよ?」
「サファリ…?」
「なんだよ、忘れたのか?おまえが行こうって言ったんだろ」
重い頭の中を弄った。あたしそんなこと言ったかしら。
「オープンしたての。評判いいからって」
続くウーロンの言葉に、薄れていた記憶が少しずつ甦ってきた。…そう言えば、そんな話があったような気もする。そうだ、確かに行くって言ったわ。でも、あれ今日だったっけ。
最後の一口と共に記憶を呑み込みかけた時、ウーロンがヤムチャに水を向けた。
「いい加減なやつだな。なあヤムチャ、確かにそういう話だったよな」
「うーん…どうだったかな…」
その惚けた声を聞いた途端、あたしの中に怒りが湧いた。
「ちょっと、何それ!あんた忘れてたの!?約束したでしょ!!」
あたしが忘れるのはしかたないわよ。いろいろと忙しいんだから。でも、ヤムチャは忘れちゃダメでしょ!
理由?そんなもの知らないわよ。ただなんとなくそんな気がするだけよ。だいたい、あたしが忘れててヤムチャも忘れてたら、約束そのものがなくなるじゃない。そんなのダメよ。そうよ、それが理由よ!
「なんだよ、おまえだって忘れてたくせに」
あたしに答えたのはウーロンだった。いつだってそうよ。いつだってこいつは、あたしを逆撫でしてヤムチャの味方をするんだから。
「忘れてなんかいないわよ。ただ脳裏の外に追い出していただけよ」
そうよ!その証拠に、約束の時間だってわかっているわ。確か10時よ。
「絶対行くわよ。あたしシャワー浴びてくるから、エスプレッソ淹れといて。リストレットでね!」
それにしても、いつの間にかウーロンたちも当たり前のようについてくるようになっちゃって。本当に図々しいんだから。
そしてそれを寛大に許しているあたし。そういうこと、もっとわかってほしいものだわ。

熱いシャワーで体を起こした。甘いエスプレッソで頭もしゃっきりさせた。
すっかり自分にエンジンをかけ終わって、次にエアカーのエンジンをかけようとしたところ、ヤムチャにそれを止められた。
「今日は俺が運転するから」
「でも、パークへの道がわからないでしょ」
「ナビ見りゃいけるよ」
言いながらドライバーズシートに乗り込んだ。有無を言わせぬ口調。珍しく強気に制する姿勢。どうしたのかしら。都の道は走りにくいっていつも言ってたのに。…騎士道精神に目覚めたのかしら。
まあ、いいけど。危なっかしかったら代わればいいわ。ベンチシートだから。
あたしが助手席に乗り込んでもなお、ヤムチャの気遣いは続いた。
「本当に大丈夫なのか?寝てないんだろ」
「平気よ。徹夜明けにハイスクール行ったことだってあるし」
最も、その時は一日中屋上でごろごろしてたけど。でも、今日だってたいして変わらないわ。どうせずっと車の中なんだから。見て回るだけなんだから、疲れることもないし。
サファリパークへの道程を、あたしはなかなか快適に過ごした。周囲に気を配る必要のない気楽な立場。心を落ち着かせる車の振動。すっぽりと体を包み込む心地いいシートクッション。あたしの意識は、ゆったりと睡眠の海を泳ぎ続けた。途中で一度だけ海面へ顔を覗かせて、ふと思った。
…この車、ベンチシートじゃなかったっけ…

小さな違和感の謎は、目を覚ますと同時に解けた。
「…あー…よく寝たー…」
半ば無意識に言いながら腕を伸ばすと、煙を巻いてシートクッションがなくなった。次の瞬間には、ちょっぴり眉を下げてあたしとヤムチャの間に佇んでいるプーアル…
「あら。あんただったの」
気が利くわね。なんか今日、朝から至れり尽くせりね。きっと日頃の行いね。こいつらもようやく、あたしの寛大さに気がついたってわけよ。
「サンキュー、プーアル。あんた、気が利くわねえ」
「いいえ、どういたしまして」
何の衒いもなく、プーアルは笑った。そして、さっさと自分の席へ戻っていった。
「パークに着いたらかりんとう買ってあげるわ」
後部座席へと視線を動かしながら、そう褒美の言葉を投げかけた。プーアルは、時々ちゃんと気が利くのよね。他の2人とはえらい違いだわ。ヤムチャは当然のように気が利かないし、ウーロンなんかそれ以前の問題なんだから。
ふと、視線に気がついた。そこはかとなく白けた目をして、ヤムチャがあたしを見ていた。
「何?」
「別に…」
答えながら、左手をハンドルに添えた。その仕種に、あたしは眉を顰めた。
「ちょっと、片手運転しないでよ。そんな危ない真似するなら、あたしが運転するわ」
おそらくここに来るまでに、首都高を通ってきたはずよ。ただでさえ道に不慣れだっていうのに、そんな格好つけてどうするの。
「わかってるよ」
「わかってないわよ」
言葉は素直でも、ヤムチャの声はどことなく素っ気なかった。何、その態度。あんたが格好つけるのは勝手だけどね。と言いたいところだけど、全然勝手じゃないわ。あたしは隣に座ってるのよ。一番危険なんだっつーの!
「もういいわ、あたしが運転するから。ちょっと止めてよ」
「いいって」
よくないっつーの!あたしはまだ死にたくないのよ!
ヤムチャは頑なに、ドライバーズシートに座り続けた。業を煮やしてついには怒鳴りつけてやろうとした時、後部座席からまったく空気を読まない声が飛んできた。
「おまえら、結局それかよ。いちいちケンカしてんなよな」
「うるさいわね。何が『結局』なのよ。あんたは死にたいわけ?」
あたしはウーロンの命も同時に救ってあげようとしてるのに。…ライオンの餌にしてやろうかしら。
そうこうしているうちに、サファリパークが見えてきた。その入園ゲートで、あたしは寛大にチケットとかりんとう、草食動物の餌を購入してあげた。

「そろそろ運転代わろうか?」
努めて声音を和らげて、ヤムチャにそう声をかけた。ふん、これなら問題ないでしょ。あたしって寛大よね。
ヤムチャは疲れているようには見えなかった。運転も決して下手なわけじゃない。でも、なんか素振りが怖いのよね、こいつ。首都高で片手運転なんて、あたしだってしないわよ。
「いいよ。ブルマはそこでのんびりしてろ」
言葉優しく、でも頑なに、ヤムチャは首を振り続けた。何なのかしらね。『運転が吉』とかいう占いでも出てたのかしら。
「なんならおれが代わってやろうか?」
ふいに飛んできたウーロンの煩悩に満ちた声を、あたしは即座に退けた。
「冗談じゃないわよ。あんたの隣に座るなんて、死んでもお断りよ!」
それならヤムチャの運転で死んだ方が、辱めを受けないだけまだマシだわ!
「どういう意味だよ、それは。ひとが親切で言ってやってるのによ」
「どうせベンチシートだからでしょ。あんたがそんなこと言うの、今までに一度だって聞いたことないわよ」
あたしが言うと、不貞腐れたようにウーロンは黙り込んだ。まったく、わからないとでも思ってるのかしら。
ウーロンと言い争っているうちに、エアカーはサファリゾーンに入り込んでいた。ベストよりベターを、あたしは取らざるを得なかった。
「制限速度をちょっとでも越えたら、即行運転代わるからね!」
「はいはい」
「『はい』は一度でしょ!」
ウーロンの次にはヤムチャ。あたしの窘めは尽きることがなかった。
誰も彼も態度がなってないんだから。…あたし、こんなに付き合いがよくていいのかしら。寛大にも程があるわね。

雲一つない青い空。目に優しい緑の大地。肌に当たるぽかぽか陽気。緩やかに走る車の振動。今はまだ現れない動物たち。手持ち無沙汰な時間…
ヤムチャは問題なくエアカーを走らせた。問題がなさ過ぎて、あたしは少しうとうとしてきた。
…ちょっと寝ちゃおうかな。
運転は大丈夫そうだし。隣はウーロンじゃないし。まだ何も見えないし。
軽くウィンドゥに頭を擡げた。さすがに、ここでプーアルを変化させるのはかわいそうだわ。あたしって寛大よね…
体はすぐに睡眠の海へと沈みだした。暗く静かなその底に心を横たえようとしたその時、声が聞こえた。
「…だろ!!」
聞き慣れた声質の、聞き慣れない声色。意外な怒声に、あたしは目を開けた。そして声の主を視界に認めた――
至近距離からあたしを見据える黄色い目。その中に浮かぶ半月。口に光る尖った牙。飛び出した舌…
――わけじゃなかった。
「きゃっ!」
鼻先に迫る絶対的に違うものの姿に、思わず声を上げた。反射的に飛び退った。無我夢中で、目の前のシートクッションに抱きついた。
「おい、ブルマ…」
「あ、あぁ…」
ヤムチャに軽く肩を叩かれて、我に返った。おそるおそる振り返って、それを見た。ウィンドゥを隔ててあたしに迫る灰色の犬…いや、オオカミか。
「あー、びっくりした。眠気が吹っ飛んだわ…」
あたしが言う間にも、オオカミたちは続々とエアカーの周りに集まってきた。鋭い半月形の瞳。一見緩慢に近づいてくる、敏捷そうな体つき。ウィンドゥの向こうから、微かに漏れてくる低い声。
「オオカミって結構迫力あるわねえ」
マジで食べられちゃうかと思った。おかげですっごい子どもっぽいことしちゃったわ。
何気なく呟いたあたしの言葉に、予想外の説明口調が返ってきた。
「これはコヨーテだ。あっちのがハイイロオオカミ。ところどころにいる色の違うやつは、ひょっとしてコイドッグかもな」
「コイドッグって何?」
「コヨーテと犬の子どもだよ。オオカミも犬と交配するけどな。それにしても、ここあまりちゃんと管理してないな」
恥らう様子もなく滔々と説明するヤムチャの様子に、あたしはすっかり呆れ果てた。
「あんた、やたら詳しいわねえ」
自分のそういうことに関しては、まるっきり無知なくせに。どうでもいいことに限って知ってるんだから。
「荒野にいたんだよ。なあ、プーアル?」
「そうですね、いましたね。懐かしいなあ」
ヤムチャに続いてプーアルまでも楽しそうな顔つきになって、あたしは現実を思い出した。
時々、というかほとんどいつも忘れてるけど、やっぱりこいつら荒野出身だったのね。今、初めてそれを肌で事実と感じたわ。ヤムチャもそうだけど、プーアルなんか信じられないくらい見事に、隠し込んでるんだから。
「おれたち、そんなところを歩いてたのか…」
ウーロンは少し前の冒険を思い起こしているようだった。あたしはというと、今や完全に素に戻って、少し前の自分の状態を思い起こしていた。
…この車、ベンチシートなんだけど。さっきのシートクッションは…またプーアルか。まあ、プーアルならいいか。ウーロンなら殺すところだけど。
それにしても、本当に隠し込んでるわね。今や盗賊どころか、ただの気のいいネコだわよ。
もはや感心すら抱き始めたあたしをよそに、プーアルがかりんとうを食べ始めた。すごく嬉しそうに、おいしそうに。次から次へとぼりぼりぼりぼり…
…やっぱり、ただのネコだわね。

それから先は、あたしはまったく意識を明確に、サファリパークを楽しんだ。もう睡魔は襲ってこなかった。
うるさいのよ、車内が。
ぼりぼりぼりぼりぼりぼりぼりぼり…かりんとう、帰りに買ってやればよかったかしら。サファリパークにムードなんて求めてないから、いいと言えばいいんだけど。かりんとう欲しさに、動物に襲われたりしないでしょうね?
でもまあ、プーアルの好物がかりんとうでまだよかったわ。これがもしガムだったりしたら、発狂していたところよ。…最も、すでに少しばかりそうさせかけている人が別にいるけど。
「あっ、プレーリードッグ。かわい〜」
もぐらたたきのごとく顔を覗かせる小さな野生動物が、遠目に見えた。あたしの視線の指す先を見て、当然のようにヤムチャが水を差した。
「あれは感染症を持ってるんだぞ」
「あんた、そんな夢を壊すようなことばかり言わないでよ」
ここは『そうだね、かわいいね』と同意するところでしょ!10人中10人が…いえ1000人中999人が、きっとそう言うわよ。残りの1人にあたしは当たってるわけだけど、全然嬉しくないわね。
それにどうもヤムチャの顔を見ていると、プレーリードッグよりもさっきのオオカミを好いているような感じがするのよね。一体どういう嗜好なのかしら。怖いものが好きなわけ?
趣味悪いわよね。

月が東に薄っすらと見える頃、サファリパークを後にした。
「尻が痛いな…」
ウーロンの呟きに心密かに同意して、あたしは当初のプランを捨てた。夜ご飯食べて帰ろうかと思ってたんだけど、これ以上イスには座りたくないわ。今は姿勢を正してごちそうを食べるより、ソファに沈んでスナックを齧りたい。…すでに一名、齧りまくってる人はいるけど。
空になったかりんとう袋を丸めるプーアルを尻目に、その主に声をかけた。
「帰りはあたしが運転しようか?」
もう充分、のんびりさせてもらったし。まるまる半日は運転してたんだもの、ヤムチャだってさすがに疲れてきたはずよ。
「いや、いいよ。もう道もわかったから」
ヤムチャはまたもや首を振った。本当に頑なね。…何かしら。タフガイを気どりたいのかしら。その意思は悪くないんだけど、その前にすべきことが山ほどあると思うんだけどな、こいつの場合。
「あんまり飛ばさないでよ」
儀礼的にそう言って、あたしは引いた。飛ばしたくとも飛ばせないことはわかっていた。休日の夕刻。典型的なトラフィックタイム。流れては止まり止まっては流れ、或いは淀みながら進む、魔の時間。
「おれ横になるからよ。着いたら起こしてくれよな」
ウーロンがそう言って、バックミラーから姿を消した。本当に無神経なやつね、こいつ。こういう時に寝ちゃうのって、ドライバーにとっては歯噛みしたい思いなのに。
夜の帳に包まれた首都高は薄暗かった。トンネルに入り込んで、いよいよ闇は濃くなった。緩やかなカーブ。緩慢な車の流れ。…
やっぱりかりんとう、帰りに買ってやればよかった。今、あの音が欲しい。眠たすぎる…
あたしの意識は、すでに睡眠の海を捉えていた。今にもその水際に、倒れ込んでしまいそうだった。落ちそうになる頭を薄皮一枚で繋ぎとめていたその時、まず肩にそれが触れた。
心地よく傾いたあたしの体はそのままに、体の芯だけを受け止めるその感触。支えながらも程よく放っておいてくれる、自然な形。
来る時のも悪くなかったけど、今のはもっといい気持ち。…かりんとうの効果かしら。『ネコは薄情』って、あれ嘘だわね…
あたしはすっかり腑に落ちて、遠慮なくシートクッションに体を預けた。
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