再進の男
テラスに射し込む朝の光。どこからか聞こえてくる小鳥のさえずり。コーヒーの香りを漂わせる優しい空気。何にも急かされることのない、緩やかな休日の時間。
いい朝ね。やっぱり、ああいうことのあった次の日は、こうでなくっちゃね。
ゆっくりとストロベリーサンドウィッチにナイフを入れた。いつもは手掴みで食べちゃうものだけど、今朝はそういう気分だわ。
純白のクリームの濃厚な甘さ。イチゴの爽やかな香りと甘酸っぱさ。どことなく清新な、あたしの心の中…
あたしの夢気分はここで終わった。一匹のブタの声が、それを壊した。
「おまえ、七面倒くさい食い方してんなあ。クリームはみ出してるぞ」
「うるさいわね。放っといてよ!」
あーもう、台無し!
ここまで舞台が揃ってて、どうして隣にいるのがウーロンなのよ。こいつは今一番必要のないやつなのに。ヤムチャも今朝くらい、トレーニング休めばいいのに。本当に気が利かないんだから。
その気の利かない恋人が、やがてやってきた。いつもと同じ時間。いつもと同じ僕。いつもとはちょっぴり違った服装で。
「おはよ」
最後の要素に目をやりながら、それだけをあたしは言った。話したいことはいっぱいあるけど、そのどれも口に出すつもりはなかった。ただ黙って、ヤムチャの目を見つめた。
アイコンタクトよ、アイコンタクト!恋人同士はこれに決まってんでしょ。
あたしのこの幸せな試みは、またもやウーロンの声に邪魔された。
「おまえ、何睨みつけてるんだよ。ったく、まだケンカしてんのか」
「どこが睨みつけてるのよ!失礼ね!!」
あーもう、こいつ邪魔!
ウーロンだけじゃない、プーアルだって邪魔過ぎよ。いつもいつもヤムチャの隣にくっついててさ。それはもう諦めたけど、今日くらいそうじゃなくたっていいじゃない。こんな時くらい…この甘い雰囲気がわからないのかしら。
少なくともウーロンにはわからなかったらしい。無粋なブタは不躾な目つきで、不審そうにあたしを見た。
「ふーん?じゃあ、今日の映画は行くんだな?」
「当ったり前でしょ!今日で終わりなんだから。あんたたち、用意はできてるの?」
いつだってあたしたちの邪魔をする、2匹に向かって訊ねた。…本当に邪魔よね!ファーストキスの後のデートが、どうして2人きりじゃないのよ。どうしてウーロンとプーアルも一緒なのよ。それだって諦めたけど、それはあたしが寛大だからよ。当たり前だなんて思わないでほしいわ。っていうか、こんなことになるのなら、きっぱり断り捨てておくべきだったと、今後悔しているわ。
「だから、それを訊いてから用意しようと思ってたんだよ」
「もたもたしてるとおいてくわよ」
偉そうに言い訳するウーロンに、まったく感情を込めない声で、あたしは言ってやった。ぜひもたもたしていてほしいものだわ。ここにヤムチャがいなけりゃ、口に出してやってもいいくらいよ。
さらに睨みつけると、ぶつくさ文句を言いながらウーロンは席を立った。ろくにお茶に手もつけず、プーアルが慌てたようにその後を追った。プーアルはいくらか空気が読めるのよね。まだまだ全然足りないけど。C.Cの中へと消えかける2人を尻目に、舌打ちしたい思いとしてやった気分の両方に、あたしは囚われた。努めて後者の中に身を置いて、ヤムチャの隣に移動した。
「ねっ、キスして」
チェアに横向きに腰を下ろして、コーヒーを啜り込むヤムチャの顔を覗き込んだ。そこに映る表情は、あたしの期待していたものではまったくなかった。
「お、おまえ、何をいきなり…」
すっかり慌ててコーヒーを咽させる、篭った声。
「どこがいきなりなのよ。少しは空気を読みなさいよ」
本当に鈍すぎ!こいつがこんなんでどうするのよ。
だいたい、いきなりって言うのなら、昨夜のヤムチャのキスの方がよっぽどいきなりだったわよ。…マジで空気読めてないわよね。
「いいじゃない、これからデートなんだし」
努めて優しくあたしが言うと、ヤムチャは珍しく苦笑めいたものを口の端に浮かべた。
「ウーロンとプーアルもいるけどな」
少しはわかっていたらしいヤムチャのこの言葉に、あたしは完全に逆撫でされた。だって、そうでしょ。
「そう思うんなら、あんたもたまには断りなさいよ。だいたい、プーアルはあんたの僕でしょ!」
「そんなこと言ったって、いまさら…」
「いまさら、何よ!」
今日は特別でしょ!そんなこともわからないわけ!?空気が読めないにも程があるわよ!
寛大にもそれを教えてあげようとしたあたしの耳に、わざとらしい咎めの声が届いた。
「おまえら、またケンカしてんのか」
いつの間にかウーロンが戻ってきていた。あーもう、早過ぎ!ちょっとは気を利かせなさいよ。
「どこがケンカなのよ!」
ちょっと文句言っただけでしょ。しかも、あんたたちが原因よ!
それにしたって、どうしてあたしたちが2人でいる時に限って、そういうこと言うわけ?偏見もいいところだっつーの。あたしたちを何だと思ってるのよ。
ウーロンはまったく悪びれた様子を見せず、それどころか肯定すらしてみせた。
「どう見たってケンカだろ。で、どうするんだ?行くのか行かないのか?」
「しつこいわね!行くって言ってるでしょ!」
偉ぶるウーロンを正面に、テラスの窓の向こうに見え隠れするプーアルと母さんの姿を横目に、あたしはこっそりと溜息をついた。誰も彼も空気読めてないんだから。
その中でも、あたしの彼氏が格別よ。


シアターへと向かってエアカーを走らせた途端に、色気のない会話が始まった。
「ところでよ、ヤムチャ。おまえ、あのじいさんのところにはいつから行くんだ?」
「言ってなかったか?来月から、きっちり3年間だ」
思い出したように零したウーロンの問いに、きっぱりとした口調でヤムチャが答えた。いつの間にか決まっていたらしい決定事項を。
こいつも失礼なやつよね。そういうことはまず彼女に教えるものでしょ。そうじゃなくたって、訊かれる前に教えなさいよ。勝手なんだから。
「あんなじいさんで大丈夫なのかよ」
ウーロンの呟きともつかない言葉に、あたしはまったく同意した。本当に、あたしもそう思っていたわ。
亀仙人さんが強いことは知ってるけど、それ以上に問題があり過ぎよ、あのじいさんは。…本当に大丈夫なのかしら。
「武天老師様は武道の神様と呼ばれているお方なんだぞ」
明らかにわかっていない返事を、ヤムチャはした。呆れ半分安堵半分で、あたしは釘をさした。
「余計なことは教わってこないでよ」
「ナンパの修行をする時は、おれも誘ってくれよな」
さらにウーロンがダメ押しをして、ようやくヤムチャはわかったようだった。
「おまえら…」
呆れたように呟くその声に少し安心しながらも、あたしの気は緩まなかった。…やっぱり、わかってないわね。あたしは本当に心配してるのよ。
あんたがそういう反応をしなくなってしまうんじゃないかということを。こいつ、本当に流されやすいんだから…

「あたしストロベリーソーダね。スナックはいらないから、あんたたちの分だけ買ってきなさい。わかったら、さっさと行って!」
シアターに着いてすぐ、いつものようにウーロンとプーアルをスタンドへと追いやった。いつものように去っていく2人を見ながら、いつものようにロビーのソファに腰を下ろした。
あと2週間。…3年間か。しばらくはこういう風景も見納め…
いや、そんなことはないか。ヤムチャがいなくたって、あたしは遊ぶし。あの2人だって扱き使ってやるわ。
ヤムチャがいなくなることを、それほど淋しいとは思わない。会えなくなるわけじゃないし。でも、少しはつまらなくなることは確かね。C.Cには、まともに会話できる人間なんて、いやしないんだから。ハイスクールも退屈だし。…あたしのハイスクール生活は、あと2年もあるっていうのに。どうしてくれるのよ、まったく。
「どうしたんだ?寝不足か?」
ふいにヤムチャがそう言って、あたしの隣に腰を下ろした。
「違うわよ」
本当に空気の読めないやつ。まあ、今は読まなくて結構だけど。
「気分が悪いんなら…」
「そんなんじゃないってば」
あたしが否定してみせても、ヤムチャの憂い顔は消えなかった。あたしは少しイライラしてきた。
「おまえ、疲れてるんじゃないのか?」
「もう、しつこい!違うって言ってるでしょ!」
いい加減にしないと、本当に気分悪くするわよ!だいたい、気の利かせどころが違うっつーの。
今そんなに気にするくらいなら、朝のうちにしなさいよ。こいつって、いっつもこうなんだから。いっつもどこかズレてるんだから。だから、あたしがそれを教えてあげてるのに。そうするといつも…
「おまえら、またやってんのか」
ほらきた!
思った通りのタイミングで、スタンドから戻ってきたウーロンの声がして、あたしは思わず叫んだ。
「あんたたち、いい加減にしなさいよ!いつもいつもいつもいつも、そうやって…あたしだって、いい加減怒るわよ!」
「な、何だよ、急に」
慌てたようにウーロンが呟いた。あたしは事実を告げた。
「急にじゃないわよ!」
前からよ。最初からよ。ずっとずーっとよ!こいつらみんな、空気読めなさ過ぎなのよ!
「ソーダちょうだい!さっさと行くわよ!」
ウーロンの手からストロベリーソーダをもぎ取った。そして、代わりにチケットを握らせた。
本当に、あたしって寛大よね。付き合いよすぎよ。

今日観る映画は、アクション系恋愛映画。そういうのって大好き。一番身近に感じるジャンルだわ。
以前は、あんなめちゃくちゃやる男なんているわけないと思ってた。でも今では、それが現実にいるってことがわかってる。…まだてんでガキだけど。孫くんだって、生物学上は男だもんね。とにかく、現実感が増したわ。
それと同時にわかってしまったこともあるけれど。それは、アクション系の男にロマンティックなやつはいないということ。ヤムチャに孫くんにクリリンくんに亀仙人さん…ベクトルはみんなバラバラだけど、ロマンティックじゃないことは確かよ。むしろ対極よね。しかもみんな、同じ流儀か。本当に大丈夫なのかしらね…
目はスクリーンを捉えながら、あたしはそんなことを考えていた。現実感があるのも良し悪しね。あたしはもうアクション系恋愛映画に夢を見ることはできない。そんな気がする。
それでも、映画を楽しむことはできた。2時間強をいつものように過ごした後で、あたしは飲み残したストロベリーソーダをロビーのドリンクダストに捨てた。どことなく心に空腹感を覚えながら。なんかすっごく甘いものがほしい。でも、体に入れたいわけじゃない。恋愛映画を観た後は、いつもそういう気持ちになる。特に最近はそれが顕著ね。だってねえ…
「映画だってことはわかってるけどよ。あんなことできるやついるか?」
「悟空ならできるんじゃないかな」
「確かに、悟空さんならできそうですね…」
シアターからの帰り道、男3人の会話を耳に入れながら、あたしは孤独なドライバー役に徹した。
紅一点って、映画やドラマの中ではやたらに優遇されたりしてるけど。あれも夢よね。


結局あたしたちは、そのままC.Cに帰ってきてしまった。
陽はまだまだ高くにあった。買い物くらいしてもいいかな、って途中までは思ってたんだけど。でもウーロンとプーアルを連れては、やっぱりちょっとね。遊びに行くだけならいいんだけど、買い物くらい、あいつらなしでしたいわ。あいつらがいると、少し微妙なのよね。…男と女とブタとネコ。バランス悪いったらありゃしない。一体何の集団なんだか、わかりゃしないわ。
着替えを終えるとすぐに、ヤムチャは外庭へと出て行ってしまった。プーアルが当然のように、その後を追った。プーアルもね、ちょっと心配しちゃうわよね。あの子、ヤムチャがいなくなったらどうするのかしら。相当ヒマになるんじゃないかしらね。
とは言え、他人の心配をしている場合では、あたしはなかった。あたしが今ヒマだった。ベランダから覗く青い空。風に戦ぐ緑の葉。今ひとつコーヒーを飲む気にはなれないこの心境。それで、あたしも外庭に出ることにした。一掴みのドライストロベリーをポケットに押し込んで。
ポーチから一歩を出ると、遠目にヤムチャの姿が見えた。いつものようにプーアルを傍に置いて、いつものようにトレーニング。本当にいつも通りね。何にも変わらないんだから。武道、武道ってそればっかりなんだから。それが昂じて、亀仙人さんのところなんかに行くんだものね。…似たような人間を、あたしは一人知っている。孫くんだ。
外庭の、ヤムチャたちから遠く離れた角の木に、背中を凭れた。青い空の下で、ただなんとなく虚けていた。庭の真ん中に位置する対の2人を視界に入れていると、やがてそれが1人になった。あたしの顔に影を落としながら、ヤムチャが隣に並びかけた。
「どうしたの?」
単純にあたしは訊いた。休憩時間じゃないことはわかっていた。こいつはそういうことに関しては、妙に律儀なんだから。
ヤムチャは答えなかった。とはいえ物言いたげなその口を、あたしはさらに促してみた。
「珍しいじゃない、あんたが来るなんて」
それでもヤムチャは答えなかった。軽く首を傾げると、遠目にプーアルの姿が見えた。どことなく不安そうな顔つきで、あたしたちを――特にあたしを――窺っている。
…あんたたち、不審がってるのがバレバレよ。しょうのない主従ね。はいはい、どうせあたしはお邪魔虫ですよーだ。
「わかったわよ。戻るわよ。もう邪魔しないから、トレーニング続けていいわよ」
言いながら寛大な気持ちで、後ろ手を振ってあげた。失礼しちゃうわよね。見てるくらい、いいじゃないのよ。だいたい、ここはあたしの家なのに。
…孫くんも、大きくなったらあいつみたいになるのかしら。今だって充分似てるけど。鈍感なところとか、天然なところとか。「気にしない」と「気にはするけどわからない」の違いか。孫くんが大人になって少しは考えるようになったら、ヤムチャみたいになるかもね。
あたしは昨日と似た気分に陥っていた。でも、絶対的に違う何かを自覚してもいた。
結局は食べなかったドライストロベリーを、リビングのダストボックスに捨てた。


窓から戦ぐ夜の風。薄闇に浮かび上がる庭の桜。
いい夜ね。最も、家の中にいるんだからあまり関係ないけど。
外にいてさえ関係なさそうな人間もいるし。きっと、気づいてもいないんじゃないかしら。本当に感覚鈍いんだから。
その鈍い彼氏が、やがてやってきた。夜のお茶の時間。コーヒーの香り漂うリビング。香ばしいパイの香り。
「今日はストロベリールバーブパイよ。ヤムチャちゃんはお好きかしら?」
母さんがとびきり大きい一切れをヤムチャの前に差し出した。傍らではプーアルが、主のコーヒーに砂糖を落としていた。
ヤムチャがいなくなったら、お茶の時間は変わるかもね。プーアルだけじゃない、母さんだって手持ち無沙汰になるに違いないわ。この人はウーロンやプーアルにも甘いけど、ヤムチャには度を越えて甘いんだから。娘の目の前でその彼氏にちょっかいを出すって、信じられない神経よね。それに加わる父さんも。まったく、似合いの夫婦だわ(褒めてないわよ)。
とはいえ父さんは、パイを食べ終えるとさっさとどこかへ行ってしまった。しばらくして母さんも、電話片手にリビングを出て行った。少しだけ静かになった空気の中で、あたしはもう一度試してみることにした。
アイコンタクトよ。ヤムチャにそれが通じるなんて、もう思ってやしないけど。試してみるだけならタダだし。まあ、遊びの一つよね。それに、万が一奇跡が起こるかもしれないし。
あたしの淡い期待は、あっけなく崩れさった。ヤムチャの反応より先に、ウーロンの声が飛んできた。
「おまえ、何睨んでんだよ。仲直りしたんじゃないのか?」
「睨んでないわよ!失礼ね!!」
たいして期待していなかったとはいえ、またもや同じ言葉で邪魔されて、あたしはすっかり頭にきた。
「あーもう、邪魔っ!あんたたち、邪魔過ぎ!!」
「何が邪魔なんだよ」
白々しくも反論するウーロンを、あたしは横目で一喝した。
「邪魔だから邪魔って言ってんのよ!さっさとどっか行きなさい!」
思いっきり邪険な声で言ってやった。もう遠慮しないわ。ヤムチャに聞かれたって構わない。むしろ聞かせるべきよ。本当にわかってないんだから。
「おまえ、ケンカしてるからって、おれに当たる…」
「うるさい!さっさと行きなさい!プーアル、あんたもよ!!」
さらに反駁するウーロンと、ヤムチャの傍らで固唾を呑むようにあたしを見ているプーアルを、まとめて切り捨てた。プーアルの態度だって、充分にムカつくわ。誰も彼もわかってないんだから。
不貞腐れた顔をして、ウーロンが出て行った。慌ててそれに続くプーアルがドアの向こうに消えたのを確かめて、ヤムチャの隣に移動した。
「ねえ、キスして」
ソファに横向きに座り込んで、少し下からヤムチャの顔を覗きこんだ。この究極のアイコンタクトにすらも、ヤムチャは惚けた反応をした。
「は?」
「『は?』じゃないでしょ!」
ヤムチャの発した一音と、軽く仰け反るその姿勢に、あたしは完全に頭にきた。
だって、これで2回目よ。いい加減にわかってもよさそうなものなのに。しかも、朝よりも反応が鈍くなってるって、どういうことよ!
「何であんたはそうなのよ。そうやってあんたがいつまでも空気を読まないから、ウーロンにああいうこと言われるのよ!」
もう寛大ぶってる場合じゃないわ。いくらなんでも鈍すぎよ!
わずかにヤムチャが額を寄せた。その口から出てきた言葉は、あたしの期待していたものではまったくなかった。
「俺のせいなのか?そういうことは両方の…」
「男が悪いに決まってるでしょ!」
あたしには引く気が、完全になくなった。当たり前でしょ!女に3度(一昨日のケンカの時も含めて3度よ)も言わせるなんて、何考えてんの!
「何よあんた、嫌なわけ?」
「嫌っておまえ…」
ヤムチャは反論しなかった。相変わらずの弱い語尾。否定してるんだかしてないんだかわからない曖昧な態度。そして何よりあたしを窺うようなその視線。
それらすべてが、あたしは嫌になった。…もうこんなやつ、知らないわ!
左手でヤムチャの胸倉を引っ掴んだ。右手でその頭を引き込んだ。
勝手にキスしてやった。ふん。嫌なら外せばいいのよ。はっきりそう言えばいいのよ。そんなことしたら、ただじゃおかないから!
ヤムチャは何もしなかった。あたしを離すことも、掴むことも。否定することも、肯定することも。あーもう、本当に嫌になる。どうして、こいつはこうなわけ?
黙ってヤムチャから手を離した。打つべき手がもうなくなって、ある意味では冷静になっていた。舌打ちしたい思いが、してやった気分を上回っていた。諦めが首を擡げて、この後の引っ込みをどうつけようかとさえ考え始めた。さらに身を離そうとしたその時、ふと顔に影が落ちかかった。そして視界がなくなった。
唇に感じる甘い感触。頬に触れる大きな掌。黒い髪も黒い瞳ももう見えない。感覚だけの世界。
昨夜あたしを繋ぎとめたヤムチャのキスは、昨夜より少し短かかった。昨夜よりずっと優しく。あたしがしたよりも、ちょっぴり長く。一瞬唇を離して、もう一度。あたしを抱き寄せながら、もう一度…
躊躇のないタイミング。当然のようにあたしを引き寄せる掌。
そうよ、これなのよ。あたしの求めていたものは。こういう恋人っぽさを、あたしは求めていたのよ。
時間を忘れかけた頃、ヤムチャが唇を離した。そのままあたしは、ヤムチャの胸に頭を預けた。ヤムチャは何も言わなかった。そのまま黙って、あたしの髪にその手を乗せた。思わず褒めてあげたい気持ちに、あたしはなった。
あー、幸せ。こいつとこんなことできるなんて夢みたい。
…いえ、この言い方には語弊があるわね。これじゃ、あたしがヤムチャのことをすごく好きみたいじゃない。そうじゃなくって、ここまでこぎつけるのが大変だったっていう話よ。
とにかく、これでようやくあたしにも、一人前の彼氏ができたというわけよ。そうよ、そういう幸せなのよ。

しばらくヤムチャの胸の中にいるうちに、あたしは再び冷静になってきた。
この後、どうすればいいのかしら。どうやって締めればいいのかしら。
正直言って、そういうこと全然考えてなかった。だって、その前提となるものがなかったんだから。それがないのに考えるなんて、究極に虚しい行為じゃない。
昨夜はなんとなく顔を見合わせて終わったものだけど。それって全然恋人っぽくないわよね。
ヤムチャがうまく締めてくれるはずなんてないし。またあたしがなんとかしなくちゃいけないのかしら。…疲れる男ね、こいつ。
思考はなかなか纏まらなかった。纏まらないうちに、現実が襲ってきた。
黙って抱き合うあたしたちの他には誰もいない、静かなリビング。にも関わらず聞こえてくる、囁き声。完全に平常に戻った聴覚が、それを捉えた。何?ちょっと、まさか…
瞬時にヤムチャから身を離した。慌ててドアコンソールを叩いた。ドアが開くと同時に、その声が聞こえた。
「あらん、見つかっちゃった」
言葉とは裏腹に、まったく悪びれていない表情で頬に手を当てる母さん。どこかへ行ったはずなのに、なぜかいる父さん。いつもいつもあたしたちの邪魔をするウーロン。大人しげな顔をして、結局はそれに便乗するプーアル…
「やっぱり仲直りしてやがったな。どうもおかしいと思ったんだ」
「お二人ともラブラブね〜」
「おまえたち、キスはしとったんじゃな」
信じらんない!
何見てんのよ!しかも、その態度は何よ。ここは謝るところでしょ。なのに何で、そんなに楽しそうなのよ!空気が読めてないどころじゃないわよ。存在そのものを知らないんじゃないの?
「みんな、どっか行っ…」
空気の読めない集団を追い返そうと放ったあたしの声に、続くウーロンの言葉が被った。
「しかしおまえら、素早いな。いつの間にくっついてたんだ?」
「『いつの間に』とは何よ!最初っから付き合ってたっつーの!…もういい!あたしが出て行くわ!」
もはや完全に平常に戻った思考回路が、瞬時に結論をはじき出した。それがベストよ。こんな空気の中にいたら、あたしまでおかしくなるわ!
「で、どこまでいっとるのかね?こっそり教えてくれんかな」
「クソ親父!!」
まるっきり意に副わない締めの言葉を投げかけて、あたしはリビングを後にした。
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