際遇の男
青い空。白い雲。その中に軌跡を残すひとすじの紫の雲を見た瞬間、あたしは目を瞠った。
「孫くーーーん!」
気づいた時には叫んでいた。でも、きっと間違ってない。
「孫くんてばーーー!」
返事はなかった。それどころか、一切の反応がなかった。それでも、あたしの確信は揺るがなかった。
あれは絶対孫くんよ。都の空の上で雲に乗るような異常なやつ、他にいるわけないでしょ。一体何しに来たのかしら。ずいぶんひさしぶりよね。
「ちょっと、孫くん!待ちなさーーーい!!」
最後にもう一度名前を呼んで、エアバイクのスロットルを全開にした。

青い空。白い雲。ひとすじの紫の軌跡。
あたしの視界は、一向に変わらなかった。どんなに追いかけても、孫くんは豆粒のまま。視界には入っているのに、いつまでも届かない。何この、馬にニンジン状態!
「孫くーーー…」
風に声を飛ばされながら、スピードメーターを振り切った。絶対に捕まえてやるわ。このまま逃してなるものですか。
少しして、ゴムの焦げる匂いがしてきた。エンジンがおかしな音をたてた。…ヤバ!エンジン焼きついた?そう思った瞬間、エンストした。
間髪入れず、エアバイクが落ち始めた。今やあたしにも感じられる地球の引力。迫り来るコンクリートジャングル…
なんでこうなるのよ!ちょっと孫くん!孫くーん!!
きゃあぁぁあぁぁあぁぁーーーーー!!!!!

「なんだ、ブルマじゃねえか」
ふいに頭上から間抜けな声がして、あたしは左手を掴まれた。足元から吹き上げるビル風。肉眼に迫るビルの屋上。…ギリギリ。本当にギリギリよ!!
「いきなりでっけぇ声がしたからさ…おめえ、何してんだ?」
筋斗雲の上からあたしを見下ろすのんきそのものの顔を、あたしは睨みつけた。
「あんたを追ってたんでしょうが!何度も呼んだでしょ!!」
「そうなんか?」
そのままあたしをビルの屋上に降ろしながら、孫くんは笑った。…笑ってる場合じゃないでしょ!あたしはもう少しで死ぬところだったのよ!!
苦虫を噛み潰しながら、屋上に落ちていたエアバイクをカプセルに戻した。エンジンは死んだ。フレームもぐしゃぐしゃ。ほとんど廃車寸前ね。これは直すのが大変だわ。明日もハイスクールあるってのに…
孫くんはフェンスの上に立って、物珍しそうに都の街並みを見下ろしていた。その身をまったく心配せずに、あたしは訊ねた。
「ところであんた何しに来たのよ。っていうか、今一体何してんの?」
軽やかにフェンスから飛び降りると、孫くんはけろりとした顔で答えた。
「オラか?オラは東の山ってのに行こうとしててよ」
「…あっちは西の平原よ…」
あたしはすっかり呆れ果てて、孫くんの向かっていた方角を見つめた。孫くんは動じた様子もなく、しれっとした声で言い放った。
「そうなんか?でもよ、西の向こうは東だろ。このまんま飛んできゃ着くよな!」
「あんたは幸せ者ね…」
飄々とした孫くんの顔を見ながら、あたしは思った。孫くんと話していると安心するわ。上には上がいるってことがよくわかって。もちろん呆れは消えないけど。あたし、孫くんと付き合ってるんじゃなくて、本当によかったわ…!
「じゃあな、ブルマ。もう落ちるなよ」
平然とそう言って、孫くんは筋斗雲に飛び乗った。あたしは慌ててそれを引き止めた。
「ちょっとあんた!あたしをここに置いてく気!?」
ここは他企業のビルなのよ。あたしがここにいることを、一体どう説明するのよ。だいたい、ペントハウスのドアだって開けられやしないわ。
「ちゃんとうちまで送ってよ。エアバイクが壊れたのは、あんたのせいなんだからね!」
「面倒くせえなあ。おめえ筋斗雲に乗れねえしよぅ…」
ぶつぶつと文句を言う孫くんの背中に、あたしは強引に負ぶさった。なんつー狭い背中。相変わらずチビなんだから。
やっぱり、あれ作っちゃおっと。背中よりは服の中の方が、きっといくらか快適だわ。


C.Cへの道すがら、あたしの下になる人間は延々とボケ続けた。
「ひょーっ!いっぺぇ人がいるなあ。祭りでもやってるんか?」
「普通よ。いつもより少ないくらいよ。今日は平日だからね」
「これじゃあ、誰か誰だかわかんねえぞ。おめえ、よくみんなの顔覚えられるなあ」
「覚えてるわけないでしょ」
田舎者をナビするのって、本当に大変。いちいち話が明後日の方向にいくんだから。
ようやくC.Cに帰り着いた時には、お茶の時間になっていた。地に足を着けながら、あたしはすでに予想していたその台詞を耳にした。
「腹減った…」
ほとんど同時に、それを裏付けるお腹の音。
「ごちそうするわよ。もうじきお茶の時間だし」
「オラ、飯がいい」
「はいはい」
遠慮の欠片もないその声に、即座に二つ返事を返した。了解したというより、気にしていなかった。どうせ孫くんにとっては、お茶もごはんも変わりないわよ。
「ただいまー。孫くん連れてきたわよ〜」
言いながらリビングのドアを開けると、床に寝転がってジン・ラミーをやっていたウーロンとプーアルが、瞬時に顔を上げた。
「おっす!」
すでに慣れた孫くんの第一声。それに答える声も、ほとんど決まりきったものだった。
「よう悟空。ひさしぶりだな」
「おひさしぶりです、悟空さん」
盛り上がる3人を横目に見ながら、あたしは調理ロボットを5台起動させた。

C.Cのテラスで、孫くんは3時のごはんを迎えた。あたしたちのお茶は、もうちょっとだけおあずけ。理由は…
「まあ、アムヒャは(なあ、ヤムチャは)?」
脂身一つ残さない、無駄のないかつ下品な食べ方でラムローストにむしゃぶりつきながら、この場にはいない人間の名前を孫くんが出した。
「さあね。まだハイスクールにいるんじゃないの」
半ば上の空であたしは答えた。24、25、26…27皿目。小羊一頭ぶんは食べてるわね。パイも10皿目だし。量だけじゃなく、食べ方にも節操ないんだから。
ウーロンが、それまでは孫くんに向けていた呆れ目を、あたしに向けた。
「おまえら、またケンカ…」
「してないわよ」
すぐさま後に続く言葉を掻き消した。本当にやんなっちゃう。
どうして一緒に帰ってこないだけでそうなるわけ?あたしはただサボっただけ!こんなにいい天気の日に、授業なんか受けていられるわけないじゃない。
あたしが否定しているにも関わらず、ウーロンの態度は変わらなかった。
「まったく、おまえらもくだらないことでいちいちケンカするよな。悟空聞いてくれよ、こいつらケンカするたび俺に当たりやがってよ…」
「だから、してないって言ってるでしょ!…料理がなくなったわよ。あんた取ってきなさい!」
「なんでおれが…」
「給仕するのは男の役目でしょ!」
さらに怒鳴りつけると、しぶしぶとウーロンはC.Cの中へと入っていった。プーアルが逃げるようにそれに続いた。…ああそう。プーアルもウーロンと同じように思ってたってわけね。失礼しちゃうわよね。なんだってみんな、すぐにそういうことを考えるわけ?だいたいケンカしてるなら…
「ただいま。ブルマ、おまえ今日はどこへ行っ…」
その時、あたしと同じ迫害を受けているはずの男が帰ってきた。あたしが軽くチェアを引くと、途端にヤムチャの顔が輝いた。
「悟空?悟空じゃないか!」
「おっす!」
「帰ってくる途中で会ったのよ」
思いっきり優しい声で答えてやった。ほーらね!ケンカしてないでしょ。
あたしのこの細やかな気配りは、まったくの無駄だった。孫くんはそんなことにはまるで気づいた風もなく、あたしたちから完全に目を離して、その大きな口に最後のパイを詰め込んでいた。…そうね。孫くんにそんな機微、あるわけないわよね。
「元気そうだな。相変わらず食ってるなあ。どうしたんだ?ずいぶん急じゃないか。何かあったのか?」
「ん?ホラあえつにあんもねえよ。ウルマが…(オラは別に何もねえよ。ブルマが…)」
食べることを優先しながら孫くんが答えて、最後にカフェオレボールいっぱいのミルクを一気に飲み終えた時、ウーロンとプーアルを従えて、母さんがやってきた。
「おかえりなさい、ヤムチャちゃん。じゃあ、お茶にしましょ」
「えぇ!?これからですか!?」
途端にヤムチャが大声を上げた。その反応に、あたしは思わず眉を上げた。
「何よその態度は。あんたを待っててあげたんでしょ」
いつもはわざわざ待ってやったりしないけど。この状況でこいつ一人外すのはかわいそうだもの。あたしって優しいわよね。
「いや、だって…」
「だって、何よ!?」
畳みかけると、ヤムチャは黙った。チェアに腰を下ろしながら、誤魔化すように孫くんに向かって呟いた。
「おまえ、本当によく食うなあ…」
「ほのにふうんめーろ!ひょっとひょっぱいけろな!(この肉うんめーぞ!ちょっとしょっぱいけどな!)」
「あんた、30皿も食べておいてそれを言うわけ!?」
信じられない無神経さね!あたしの周りの男って、どうしてこうも失礼なやつばかりなのかしら。
あたしが怒鳴っても、孫くんは口を休めはしなかった。そうして、31皿目のラムローストに手をつけた。
…本当に、上には上がいるものね。


結局、孫くんはそのまま泊まっていくことになった。次の日遊びに行く約束も取りつけた。
そうよね。そうこなくっちゃね!っていうか、昼食、お茶、夕食と3食も食べておいて、食い逃げなんて許されないわよ。
夕食が終わっても、誰もリビングを出て行こうとはしなかった。ヤムチャもトレーニングをしようとはしなかった。なんとなく気持ちはわかるわ。
ソファでコーヒーを飲みながら話し込んでいると、いつの間にか短い足が腿の上に乗っていた。あたしがそれに気づいた時には、すでに寝息が聞こえていた。
「もー、孫くんてば、本当にガキね。まだ8時よ」
あたしの声にも、孫くんはびくとも動かなかった。食べたら寝る。…シンプル過ぎるわよね。
だけど、そのシンプルなガキが、妙におもしろいのよねえ。なんとなく構いたくなるっていうか。四六時中一緒にいるのはごめんだけど。
「疲れたんだろ」
寝室へ連れて行こうと孫くんの体を揺さぶりかけると、そう言ってヤムチャが立ち上がった。
「疲れたのはあたしの方よ。エアバイクまで壊されちゃってさ」
「壊された?悟空にか…で、悟空はどこに寝かせるんだ?」
ついでのように答えながら、ヤムチャは孫くんを抱き上げた。ヤムチャってば、孫くんのことを気に入ってるのが丸わかりね。常になく気が利いちゃって。しかもなんか、顔つきがお兄さんみたいになってるわ。
あたしがドアコンソールに向かうより早く、プーアルがドアを開けた。…本当に孫くんって、優遇されてるわよね。でも、それも腹は立たない。そういう性質なのよね。
「2階の客室。…まあ見てってよ。ひどいんだから」
廊下を歩きながら、自分のことと孫くんのことを一緒くたにあたしは話した。どことなく気が緩んでいた。この時間にヤムチャとゆっくり話をすることなんて、あんまりないし。
「それじゃ、どうやって帰ってきたんだ?」
「負ぶってもらったのよ」
あたしが言うと、ヤムチャは眉を顰めた。嫉妬?…違うわね。あたしにはそれがはっきりわかった。
ほとんど同時に客室に着いた。あたしがドアを開けると、ヤムチャは素早く孫くんをベッドに横たえて、優しい手つきでタオルケットを被せた。そしてまたお兄さんのような顔つきになって、ぽつりと呟いた。
「おつかれさん」
本当にお気に入りね。なんかすっごくおもしろいものを見ちゃったような気がするわ。

リビングには戻らず、あたしはそのままヤムチャを自分の部屋へ連れていった。今日のあたしの大変さを見せつけるためよ。
ポケットからエアバイクのカプセルを取り出して、部屋の中央に投げつけた。ひと目見るなり、ヤムチャは呆れたように呟いた。
「これはまた派手にやったな…」
そうでしょ、そうでしょ。
その反応にすっかり満足しながら、あたしは答えた。
「外見もそうだけど、肝心のエンジンが死んだわ。直すのに一体何日かかるか…」
ことさら意識して大変そうに言った自分の台詞に、自分の心が感化された。
…本当に大変だわ。こんな目に遭わされた相手にごはんをごちそうしてあげたのね、あたし。こんなに寛大な人間がいていいのかしら。
デスクの下からツールボックスを引っ張り出した。状態だけ確認しておくつもりだった。レンチを吟味していると、またもやヤムチャが呆れたように呟いた。
「直す?これをか…」
「ミドルスクールの頃から乗ってるから」
ここまで改造したんだもの。今さら捨てたりなんかしないわよ。
「ふぅん…」
曖昧に頷きながら、ヤムチャはデスク横のスツールに腰を下ろした。珍しく居座る気ね。トレーニングはしないのかしら。
ちょっぴり意外に、そして嬉しく思いながらラチェットレンチを手にした時、ヤムチャがぽそりと呟いた。
「…あのさ。できたらサボる時は、前もって教えてくれないかな」
あまりの話の突飛さに、思わずヤムチャの顔を凝視した。俯き加減の瞳。顰められた眉。眉間に寄った皺…
ちょっとぉ〜。なんなのよそれは。さっきまでの優しげな雰囲気はどこへ行ったのよ。…失礼しちゃうわよね。
「帰る直前でもいいから。せめて一言…」
微かに弱気を覗かせながらもなお続けるその声に、あたしは答えた。
「教えたら一緒にサボってくれる?」
「え…」
ヤムチャは目に見えて強張った。心外だと言わんばかりのその目つき。完全に言い澱んだ台詞。…本当に失礼しちゃうわ。
「冗談よ」
それでも、あたしはそう言ってあげた。いつもなら怒鳴りつけてやるところだけど。今日は機嫌がいいから、このくらいで許してあげるわ。
孫くんに感謝するのね。




翌朝あたしは、少しだけ早く目を覚ました。
今日はホテルのプールに行くんだから。都で孫くんと平和に遊べるなんて、そうそうないことよ。いつだって危険と隣り合わせでさ。
そんなわけで、あたしは気合いを入れた。危険を冒すことを前提としていない気合いを。平和っていいわね。…こないだ買った水着、どこにしまったかしら。
クロゼットの隅からそれを見つけ出して、パジャマを脱ぎ捨てた。ちょうどスリーピングブラを外した時、鏡の中にそれが映った。
黒い髪。黒い瞳。あたしの半分にも満たない身長…
「きゃあぁぁあぁぁあぁぁーーーーー!!!!!」
「わわっ!な、何すんだよ〜…」
あたしが枕を投げつけると、孫くんはベッドの陰に隠れながら、こともあろうに文句をつけた。
「それはこっちの台詞よ!あんた、なんでそこにいるのよ!」
部屋にはロックがかかってたはずでしょ!まさか壊して入ってきたんじゃないでしょうね!?
あたしが睨みをきかせても孫くんは堪えた素振りも見せず、しれっとした顔で言い放った。
「おめえの父ちゃんが入れてくれたぞ」
「あのクソ親父!!」
あたしの怒りは、孫くんを飛び越えて父さんへと向かった。あの人一体何考えてんの!娘の寝ている部屋に男を入れる父親が、どこの世界にいるのよ!…孫くんだから、まだよかったけど。これがウーロンやヤムチャだったら、親子の縁を切ってるところよ!
「オラ、腹減ったんだよ」
「だからって、どうしてあたしの部屋に来るのよ!リビングに行けば誰かいるでしょ!」
「この家、道が全然わからねえよ」
あたしはすっかり呆れ果てた。この田舎もん!それに、一体どういうお腹してるのよ。昨夜あんなに食べたくせに。おまけに、あたしの裸を見ても何にも反応してないし。…本当にガキなんだから。
「わかったわよ。着替えちゃうから、ちょっと待ってなさい」
「なんで脱いだのと同じの着るんだ?」
「これは水着!っていうか、見てるんじゃないわよ!」
怒りとバカバカしさに襲われながら、あたしは思った。
こんなガキがお気に入りだなんて、ヤムチャもたいがいどうかしてるわ。

ヤムチャにプーアル、ウーロン、母さん…リビングには、父さん以外の全員が揃っていた。もう!ここにはこんなに人がいるのに、どうしてあたしが全被害を引き受けなくちゃいけないわけ?
「父さんはどこ!?」
誰に挨拶をするよりも先に、ここにはいない人間の行方をあたしは訊ねた。
「パパなら会社に行っちゃったわよ〜」
「逃げたわね…」
あたしは瞬時にそれを悟った。あの人、いつもは社になんか顔も出さないくせに。おもしろがってすぐああいうことするんだから。まったくどういう父親よ!
「逃げた?何かあったのか?…それと悟空、おまえどこにいたんだ?組み手やろうと思ってたのに」
あたしの言葉についでのように答えながら、ヤムチャが孫くんに水を向けた。
「オラ、ブルマの部屋に…」
「あんたは余計なこと言わなくていいの!」
「ブルマ、おめえなんかおっかねえぞ」
「あんたが悪いんでしょ!」
なんだってこいつはこんなにガキなのかしら。ガキっていうか、常識はずれもいいところよね。孫くんには、教育係が必要だわよ。専属の…誰か探してやろうかしら。でも、相手がかわいそうね…
数秒の思考の後、あたしは自分の考えを引っ込めた。やめやめ。他人の世話なんかしてる場合じゃないわ。あたし自身がそれで苦労してるってのに。
「何があったか知らないけどよ。プールは行くんだろ?何時頃行くんだ?」
「あたしはいつでも行けるわよ」
苦虫を噛み潰しながら、あたしは答えた。…気合いなんか入れなきゃよかった。いえ、そもそも父さんが――
…もう2度としないように、後で釘刺しておかなくちゃ。


ホテルの最上階。オープンしたての予約会員制屋内型レジャープール。
「これカードね。ショップも同じ階にあるから。適当に見繕ってやって」
そこへ向かうエレベーターの中で、ヤムチャにカードと招待状を手渡した。
孫くんの水着よ。いくらガキとはいえ、そんなもの見立てるなんて、あたしはご免だわよ。ここはやっぱり、お兄さんの出番でしょ。
「スペースは招待状に書いてあるから。わかんなかったら、そのへんのボーイに訊いて」
言い捨てて、ゆっくりとチェンジングルームへ向かった。あくせくする必要はない。それが予約会員制のいいところね。このまま会員になってやろうかしら。
すっかり優雅な気持ちでフロアを歩いていたところ、慌てたようなプールの支配人に呼び止められた。
「C.Cのブルマお嬢様ですね。お久しぶりです。お越しいただいて何よりです」
こういうところでお偉い方に捕まえられるのは、とりたてて珍しいことじゃない。あたし、お嬢様だし。でも、この支配人の言葉には、あたしは首を捻った。
「前に会ったことあったかしら?」
支配人の顔が、まったく記憶になかった。このプールに来るの初めてだし。だいたい、ここオープンしたてなのに。
「覚えていらっしゃいませんか。お嬢様がご誕生の際にお祝いに上がらせていただきました…」
覚えてるわけないでしょ!
支配人の話は延々と続いた。生後一ヶ月の頃のあたしの話から、傘下の会社がこのプールに納品したパドルホイールについてまで。もう、鬱陶し過ぎ!全部知らないっつーの!いえ、パドルホイールの件については知ってるけど。でもどうしてあたしが、そんな小さなことを話さなくちゃならないのよ。
この支配人、面倒くさ〜。会員になってやるのやめたわ。

なくなったのは、入会する心積もりだけではなかった。もっと重要なことに、時間もなくなった。
40分間も立ち話された。冗談じゃないっつの!もう絶対あいつら先に行ってるわよ。ついでに連れてきたあいつらが遊んでて、なんであたしだけこんな目に遭ってるのよ。
チェンジングルームをパスして、直接プールへと向かった。プールサイドを歩いていくと、ビーチチェアの上で腕組みをしているヤムチャの姿が見えた。その視線の先には、口からあぶくを出しながら、水に浸かっている孫くん。その傍には浮き輪で浮いているウーロンとプーアル…やっぱり!
「あんたたち!レディファーストを守りなさいよ!」
だいたい何よ、その泡ぶくは。ここはお風呂じゃないのよ。恥ずかしいわね!ヤムチャもちゃんと注意しなさいよ。
「遅かったな。…泳がないのか?」
その頼りない監督兼お兄さんが口を開いた。水着の上に着けていたデニムを脱ぎながら、あたしは答えた。
「支配人に捕まってたのよ」
ふいにヤムチャが口を噤んだ。心なしか頬が赤く見える。
「何?」
「い、いや…」
その顔をさらに見返すと、ヤムチャはしどろもどろに呟きながら今度ははっきりと頬を染めて、あからさまに目を逸らした。…何かしら。水着に免疫がないのかしら。そこまで女を知らないとも思えないけど。そんなに大胆なカットでもないし…
…ま、いっか。それより今は、あの無礼な男どもよ。
「ちょっと、あんたたち!普通、主賓は待つものでしょー!」
孫くんたちのところへ走りながら、あたしは叫んだ。招待されたのはあたしなのよ。レディーファーストもままならないうえに、立場もわかってないんだから。おまけに…
「孫くん!その泡ぶくやめなさい!あんまり恥かかせないでよ」
「おっ、そうか。オラ、風呂入るとついやっちまうんだ」
「ここはお風呂じゃないっつーの!言っとくけど、体洗ったりしないでよ!」
「ダメなんか?」
「当ったり前でしょ!」
延々と続く孫くんのボケに、あたしはなんだか頭が痛くなってきた。いつまでもビーチチェアの上であたしたちを見る、もう一人の保護者の名を呼んだ。
「ヤムチャ、あんたも早く来なさいよー」
こんな時に限って、何してんのかしら。こんなバカの相手、いつまでも一人でさせないでちょうだいよ。

「あら?孫くん?」
一人プールサイドでドリンクを飲んでいたあたしは、無視したくとも無視しきれない強烈な存在が、いつの間にかプールからいなくなっていたことに気づいた。
「ヤムチャー?」
おまけにヤムチャまでいない。…彼女をほったらかして勝手に消えないでほしいわね。
「ヤムチャ様なら、悟空さんと一緒に飛び込み台へ行きましたよ」
言いながら、プーアルがその場所を指し示した。人も疎らな、水深5mの飛び込みプールゾーン。中央に浮かぶ船の形をした高さ5mの飛び込み台。…なるほど。あいつらの好きそうな遊びね。それにしたって、一声かけてくれればいいのに。
後尾から船へと上がって舳先へと歩いていくと、飛び込み台の手前に2人の男の姿が見えた。
「もう、あんたたち、仲間はずれはなしにしてよ」
あたしが言うと後ろにいた孫くんが振り向いて、意外そうな顔をした。
「おめえ、いなかったじゃねえか」
「ちょっとドリンク飲みに行ってただけでしょ。それくらい待ってなさいよ」
こういうところのプールでは、バカスカ泳いだりしないものよ。男同士仲がいいのは結構なことだけど、主賓を忘れないでよね。
孫くんはきょとんとした顔を崩さずに、相変わらずの単調な口調でさらりと問題発言をした。
「でも、ヤムチャがおめえには無理だって」
なんですって!!
「よっ」
あたしが拳に力を入れると同時に、その無礼な男の声がした。そちらへ顔を向けた時にはすでに、舳先からヤムチャの姿は消えていた。急いで脇から下を覗き込むと、途中で体を一回転させて水の中へ飛び込んでいくのが見えた。最後に小さな水の音。…逃げたわね。しかも技まで入れちゃって。嫌みったらしいったらありゃしない。
「ふーん、ああやるんか。よ〜し、オラもやるぞ〜」
素直にやる気を触発されたらしい孫くんが、腕をぶんぶん振り回しながら、舳先に上がった。そのさらに先から下を見下ろしてから、ちらりとあたしの方を見た。
「よし!行くぞ〜。…ブルマ、おめえはやめておいた方がいいんじゃねえか?」
「あんたまでそういうこと言うわけ!?」
叫んだ時にはすでに、孫くんは台から足を離していた。…ヤムチャの無礼さが刷り込まれつつあるわ。あいつに面倒見させるんじゃなかった…
頭の片隅でそう考えながら、舳先から孫くんの行方を見守った。孫くんは丸めた体を、器用に回転させて落ちていった。1回、2回…さっすが孫くん!なんて長い滞空時間――
あたしのその感心は、数回目の回転の後に呆れに変わった。
びったーん!!
大きな激突音と共に、孫くんが着水した。水しぶきはまったく上がらなかった。孫くんの体は一瞬たりとも水の中に消えることはなく、見事な大の字となって水の上に浮かび上がった。すぐさまヤムチャが駆け寄ってきた。スイムゾーンから、慌てたようにウーロンとプーアルがやってきた。いつまでも大の字を崩さない孫くんに、疎らだった人が集まり始めた。
「ちょっと、その子どけてよ!後がつかえてんのよ!」
できるだけ他人のふりをして、孫くんを揺さぶっているヤムチャに声をかけた。…先に飛び込まなくてよかった。あんな恥っさらしなお調子者の面倒を見るなんて、あたしはご免だわ…!
その声が届いたのかどうかはわからない。とりあえずヤムチャは孫くんを船の脇の方へと引っ張っていった。そして何やら喚き始めた。あたしのいる舳先に向かって。
ふん。全然聞き取れないけど、何を言ってるのかはだいたいわかるわ。無理だって言うんでしょ。あんまりバカにしないでほしいわね。こんなお遊びの飛び込み台、あたしにだってできるわよ。これはミドルスクール以上OKなんですからね。
人が散り始めたのを確認して、後ろに下がった。思いっきり助走をつけて、舳先から足を離した。
一瞬感じる浮遊感。身一つを宙に投げ出す爽快感。
気持ちいーーー!
あたしはなんなく入水した。水しぶきはそれなりに上がったと思うけど、遊びなんだからなんの問題もない。ほーら見なさい!あたしにだってできたわよ!孫くんほどの曲芸は無理だけど。…できなくていいわ、あんなこと。たかがお遊びの飛び込みに、あそこまで体を張る必要ないわよ。痛そうだし。…本当にバカなんだから。
ほとんど一瞬でそんなことを考えて、体から力を抜いた。真上に輝く水面へと両腕を漕ぎかけて、ふと気づいた。胸にかかる水圧が、さっきより強いことに。…ヤバ!あたし、マジで身一つ…いえ、一枚になってる!!
すぐさま体に力を入れた。水面から離れながら順序を辿った。一体いつ?――飛び込んだ後よね(そうであってほしいわ)。どこにいったのかしら。周りにバレる前に見つけないと。あたしのビキニ…!
視界は良好だった。海じゃなくてよかった。流されちゃったりとか最悪。
とはいえ、ビキニはなかなか見つからなかった。もう、なんで?プールなんだから、海じゃないんだから、なくなるはずないのに。まさか、もう誰かに拾われちゃったとか?探すのあいつらにも手伝ってもらおうかしら…
その思いつきは即行で却下した。…ダメよ。孫くんとプーアルはともかく、ヤムチャとウーロンにはちょっと…特に、ウーロンには絶対にバレたくない。あーん、どこいったのよ!あたしのビキニ〜!!
あたしの思考は空回った。ついでに動きも空回った。ほどなくして、息が切れかけてきた。…一度上がらなきゃダメか。息の続く限り人のいない方へと体を泳がせて、ようやく人の足が水面下から消えた時、左腕が引っ張られた。
間髪入れず、後ろから体を抱え込まれた。強引にあたしを引き上げようとする太い腕。視界にちらつく黒い髪…
なんでヤムチャが来るのよ!?つーか手!手の位置がっ…
きゃあぁぁあぁぁあぁぁーーーーー!!!!!

水面から顔を出した時には、あたしはまるっきり正面から、ヤムチャに抱きかかえられていた。…もう、最悪!!
「ブルマ、大丈…」
「やっ!…放して!早く!!」
あたしがそう叫んでも、ヤムチャは軽く眉を寄せただけだった。
「胸!…ビキニ外れたの!ちょっと、見ないでよ!!」
釘を刺しつつ事実を告げると、ようやくヤムチャはあたしの体を放した。頬を赤く染めながら。…遅!触ってる時点で気づきなさいよ!!
「背中向けて!人が近づいてこないか見張っててよ!!」
両手で胸を隠し、さらにそれをヤムチャの背中で隠しながら、周囲の水面に目を走らせた。あーん、やっぱりない。しょうがないわね。プーアルにタオル投げてもらうか。あーあ、この水着、買ったばかりだったのに…
「ねえ、プーアルはどこ?タオル持ってきてもらいたい…」
「おーい!!ブルマーーー!!!」
肩越しにヤムチャに問いかけたあたしの声は、遥か遠くから響き渡る大声に掻き消された。
「ちょっと孫くん!大きな声出さないでよ!人が見てるじゃないの!!」
「これおまえんだってウーロンが言うんだけど、本当かーーー?」
あたしの言葉を思いっきり無視して、孫くんは叫び続けた。両手を大きく掲げながら。その手の中には、あたしの探していたレモンイエローのビキニがあった。
「あっ!孫くん、それ返して!それと、大声出さないでったら!!」
「なんでだよーーー?」
「なんでじゃないでしょ!!…ちょっと、ウーロンはこっちに来ないでよ!!」
まったく状況を把握しないガキ。触ってるのに気づかない男。こんな時だけ寄ってくる、今一番必要のないブタ。…本当に、こいつらどうにかならないのかしら。
「孫くんは後ろにいて!ヤムチャは前見てて!絶対に人を近づけさせないでよ!!」
ガキ2人に挟まれながら、ようやくあたしは水着をつけた。
それにしても、どうしてあたしばかりこんな目に遭うのかしら。何だか昨日から、叫んでばかりいるような気がするわ。
きっと孫くんね。孫くんが何かを運んできたのよ。この子って本当にトラブルメーカーなんだから。孫くんの相手をする人は、きっと苦労するわよ。バカだし、鈍感だし。まったく、上には上がいるものね。…あたし、孫くんと付き合ってるんじゃなくて、本当によかったわ…!


「腹減った…」
ほとんど決め台詞と化している台詞を、孫くんが呟いた。時刻は正午きっかり。立派な腹時計ね。ヤムチャも時間には律儀だと思ってたけど、孫くんとは根本が違うわね。孫くんのは天性の資質だもの。
チェンジングルームを経由して、ホテルの一階にあるレストランへと向かうべくフロアを歩いていると、ホールの端で支配人に捕まった。
「お嬢様、お帰りでございますか。ところで、お嬢様が気分を害されていたとお聞きしたのですが、何か不手際でも…」
「あ、いえ、何でもないのよ」
あたしは努めて笑顔を返した。いちいちうるさいわね、この支配人。おまけにまた話が長くなりそうだわ。
「ですが悲鳴をお上げになられていたと…」
あたしの隣に立ち尽くしているヤムチャの腕を小突いた。こういう時は、男が何か気の利いたことを――いや、それはこいつには無理か…
思わず自己完結しかけた時、孫くんが口を開いた。
「あれはブルマが水着ってやつを脱…」
「黙らっしゃい!!」
我に返った時にはもう遅かった。孫くんのほっぺたと口を思いきり抓りあげていたあたしを、支配人が驚きの目で見ていた。あー、せっかくお嬢様扱いされてたのに。…この支配人とはもう会いたくないわね。
「ひててて、ひてーよ、ウルマ〜」
「じゃあ、そういうことで…」
溜息を押し殺して、無理矢理笑顔を作った。支配人の次の言葉は待たずに、孫くんをエレベーターへと押し込んだ。

お昼ごはんはフレンチ。…いえ、特にフレンチが食べたかったというわけじゃない。孫くんにフレンチが似合うとも思えない。ただ――
「個室は空いてる?できれば、隅の部屋がいいんだけど」
「はい!すぐにご用意いたします!」
レストランのフロアマネージャーの返事は、異常にきびきびとしたものだった。これは確実に、支配人から話がいってるわね。手っ取り早くていいわ。せめてホテルのレストランでは、孫くんは個室じゃないとね。
「オーダーの量が多いんだけど、大丈夫かしら?」
「はい!ごゆっくりお召し上がりくださいませ!」
やっぱりきびきびとしたフロアマネージャーの声に、あたしは思わず苦笑した。そういう意味じゃないのよ。…驚くわよね、絶対。
「じゃあ、Cコース5人前と、アラカルトを全部…そうね、前菜と一緒に持ってきてちょうだい」
メニューを一瞥してそう告げた途端、マネージャーの流暢な喋りが消えた。
「は…?」
「だから、メニューにあるアラカルトを全部…」
マネージャーは驚きを通り越して、怪訝そうにあたしを見ていた。でも、懐の心配をされているわけではないことは、あきらかだ。…まったく、オーダーするだけでひとっ恥ね。あたし、もうこのホテルには来られそうにもないわ。
「おわ!なんらほのにふ、はおたえあねえぞ(何だこの肉、歯ごたえがねえぞ)」
「それはフォアグラだ。ガチョウの肝臓だ」
「あちょう?オラふったことあるけど、こんな味じゃなかったぞ。それに何で一口しかねえんだ?(ガチョウ?オラ食ったことあるけど、以下略)」
「…フォアグラのソテー10皿追加ね」
過程はヤムチャたちに任せて、結果だけをあたしは担当した。たいして懐は痛まないけど、ちょっと心配しちゃうわよね。孫くんって、まるで食べるために生きているみたい。…こいつんちのエンゲル係数とか、どうなっちゃうのかしら。それ以前に、この子と付き合える人がいるのかしら。一緒に食事しただけでフラれちゃうような気がするけど。
まあ世の中は広いから、一人くらいは相手してくれる人もいるかもね。いつか顔を見るのが楽しみだわ。

「あ〜、食った食った。ごっそさん!じゃあ、オラ行くな」
ホテルから一歩を出るなり、孫くんは言い切った。いい根性してるわよね。食い逃げもいいところよ。
「もう行くのか。まだ陽は高いんだし、もう少しいいじゃないか」
妙に優しげな口調で、ヤムチャがそう引き止めた。こいつ、本当に物好きね。あたしはもう充分。孫くんと遊ぶのは楽しいけど、それほど引き止めたいとは思わないわ。こんな生活何日も続けてたら、そのうち行き場がなくなるわよ。
「気をつけてね。言っとくけど、東はあっちだからね。太陽の昇る方よ」
最もここからなら、東廻りでも西廻りでもたいして距離は変わらないかもしれないけど。…いえ、あたしまで孫くんの思考に染まってどうするの。
「サンキュー。じゃあな、みんな。筋斗雲よーーーい!!」
孫くんはあたしの皮肉に気づいた様子もなく、声高に相棒の名を呼んだ。ひとすじを引きながらその雲が現れた。筋斗雲――あたしには乗れない紫の雲。
そうね。孫くんの相手をするなら、筋斗雲に乗れなきゃね。あたしだって、そのうち乗れるようになってやるわ。孫くんの相手はしないけど。
「バーイ」
「気をつけてな」
「また来いよー」
「さようなら、悟空さん」
最後に大きな笑顔を見せて、孫くんは去って行った。後に残る、ひとすじの淡い紫色の軌跡。
無視したくとも無視しきれない強烈な存在がいなくなって、あたしたちはいつもの状態に戻った。
どうかすると影の薄くなりがちな、鈍感なあたしの彼氏。そんな男になぜか懐いているネコ。いつだって必要のないブタ。
ふと、その最初の要素がこちらをじっと見ていることに、あたしは気づいた。
「何?」
「髪のここんとこ、はねてるぞ」
そう言って、ヤムチャはあたしの横髪を指し示した。来る時には軽く括っていた左横。プールで濡らしてそのままだったから…っていうか、遅!そういうことは、もっと早く――せめてレストランに入る前に教えなさいよ!
とはいえ、あたしはそれほど腹は立たなかった。孫くんと遊べて楽しかったから。今は機嫌がいいから。それともう一つ。…孫くんとひさしぶりに会って、よかったと思うことが一つあるわ。

それは、ヤムチャが幾分マシに見えてきたことよ。
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焔さま(宙の愛し子)からイメージイラストいただきました♪
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