仄進の男
ヤムチャがいなくなって、あたしの生活は変わった。より正確に言うと、あたしの周りの人間が変わった。

今日もハイスクールは、朝からその話題で持ちきりだった。
「ねえ、もう見た?3年に来た転入生!」
「見たー!王子様みたーい!」
騒ぎ立てる女たち。噂話の嵐。…何なのかしらね、このハイスクールは。
「フライングボール部に入ったんだって!」
「知ってる!年間得点王なのよね!」
「うっそー!あたし放課後、練習見に行っちゃお」
「あたしもあたしもー!」
…何なのかしらね、このハイスクールの女たちは。
ついこの前までは、目の色変えてヤムチャを追い回していたくせに。いなくなったらもう次の男ってわけ?節操なさすぎだわよ。
「ちょっとあんたたち、うるさいわよ!読書の邪魔よ」
体は動かさずに視線だけを向けて怒鳴りつけると、輪を作っていたクラスメートが一斉にあたしの方を向いた。
「何よブルマ。またそんな本読んでるの?」
「あんた最近そんなことばかりしてるわね」
クラスメートの視線も言葉も、もう前ほどあたしに厳しくない。でもそれも、あたしには気に入らない。
嫌味も言われなくなって、ちょっかいも出されなくなって、万々歳のはずなのに。なーんか、おもしろくないのよね。
あたしが眉を顰めても、クラスメートはしれっとして、余計なお世話というやつを焼き続けた。
「科学者になるのはいいけどさあ、昼休みにまでそんな本読むことはないでしょ」
「そんなんじゃ、彼氏できないわよ」
あたしは瞬時に、読んでいた雑誌を机に叩きつけた。
「あたしは彼氏持ちだっつーの!!」
怒鳴りながら睨みつけるとクラスメートは一瞬口を噤み、次には驚いたような顔をして、口々に言い始めた。
「マジ?あんたたち、まだ付き合ってたの?」
「とっくに別れたんだと思ってた」
「逃げられたんじゃなかったんだ?」
どうしてそうなるのよ!
あんたたちがヤムチャのことを忘れるのは勝手だけどね、あたしにまで忘れさせようとしてんじゃないわよ!あたしたちは順調よ。キスだってしたし。ケンカもずっとしてないわよ!
…そりゃあまあ、もうずっと――かれこれ1ヶ月以上も会ってないけど。

5限目の授業時間、あたしは中等部の屋上で、読書の続きをしていた。昼食後の物理の授業。これほど起きているのが辛い時間もないわ。自習している方がまだマシよ。
あたしはここ最近、細胞工学の雑誌を愛読するようになっていた。理由は…
…本当は、何でもいいのよ。ただ時間を忘れられるなら。あいつのいない時間をそれと気づくことなく過ごせるなら…
――などということはない。
これにはちゃんとした理由があった。当たり前でしょ。そんなくだらない理由で、いちいち学問を究めていられますか。
一区切り読み終えて、ストロベリーチップスの袋を開けた。ハートの欠片を齧りながら、ゆっくりと視線を泳がせた。
雲一つない梅雨空。あたし以外には誰もいない屋上。高等部校舎の中でクソ真面目に授業を受けている生徒たち。すでに見慣れたこの風景。…窓の中にヤムチャの姿が見えないことを除けば。
別に淋しいわけじゃない。ただ、退屈なのよ。ハイスクールはやっぱりつまんないし。C.Cにはたいして話の出来る人間はいないし。時々父さんと細胞工学の話をするくらいね。母さんはいつだってボケてるし。ウーロンは相変わらず白けてるし。プーアルは…ヤムチャのところに行ってて、しょっちゅういないし…
…納得いかないわ。どうしてプーアルがよくて、あたしはダメなのよ。普通、逆じゃないの?
とはいえそれは、あたしにとっては、さしたる不満ではなかった。ただ…
退屈。
その2文字だった。


翌日もハイスクールは、朝からその話で持ちきりだった。
「ステキだったわねー、昨日!」
「知ってる?高等部体育館にフライングボールドームを増設するらしいわよ」
「なんたって得点王だもんね!」
雑誌を一区切り読み終えて、ふと手を止めた。ストロベリーミントを口に放り込みながら、少しだけ体を動かして、あたしは訊いてみた。
「ねえ、その『フライングボール』って何?うちにそんなクラブあったっけ?」
クラスメートの反応は素早かった。輪に加わっていなかった女までもが、驚きの目であたしを見た。
「何、あんた知らないの?」
「時々テレビでやってるでしょ。プロ化するかもしれないって」
なるほど、アマチュアスポーツか。
「今は断然フライングボールよねー!」
「っていうか、あんたマジで知らないわけ?」
「そんな本ばかり読んでるからよ」
クラスメートの言葉は、あたしの耳には全然痛くなかった。どうせこいつらだって、つい最近までは知らなかったに決まってるわ。そんなの話題にしてるとこ、見たこともなかったわよ。格好いい転入生とやらが来たからでしょ。所詮は付け焼刃よ。
「放課後、練習やってるわよ。見に来なさいよ」
「あんたくらいよ、見に来ないの」
クラスメートはしれっとして、余計なお世話というやつを焼き続けた。鬱陶しく思いながらも、あたしは徐々に感化され始めた。
そんなに言うなら見に行ってやってもいいわ。退屈だし。
その格好いい転入生とやらが一体どの程度のものなのか、確かめておくのも悪くないわよね。

6限目終了のチャイムがなった。読みかけの雑誌に折り目をつけて、あたしは屋上から中庭へと続く非常階段を下りた。そしてそのまま、中等部の敷地へ入り込んだ。
フライングボール部の練習は、中等部の体育館でやっているとのことだった。何でも、中等・高等で部が合同なんだとか。…本当にアマチュアスポーツね。競技人口足りてないんじゃないの?
あたしが体育館のドアを開けた時にはすでに、2階のギャラリーは人で埋め尽くされていた。言うまでもなく、ほとんどが女。その数はヤムチャの時よりも多い。それもそうか。ここは中等部の体育館なんだもの、中等部の子にも自然と顔が売れるというわけよ。
2階のギャラリーの、フライングボール部の使用しているコートの上面に強引に割り込んで、適当な誰かに観察対象を訊ねようとして、あたしは口を噤んだ。
訊く必要なんてない。ひと目見てわかったわ。
コートに散らばる凡人たちの中に、燦然と輝く星が一つ。豪奢に流れる金髪。涼しげな蒼氷色の瞳。線の細い顔立ち。凛とした雰囲気。
結構いいわね。いえ、かなりいいわ。本当に王子様みたい。ヤムチャとは違って、いい意味で浮世離れしてるわ。あいつのは、ただの鈍感だから。
3年生…年上か。それもいいわね。年上なら、きっとちゃんとリードしてくれるわよね。ヤムチャとは違って。
金髪碧眼って好きなのよね。セオリーの一つよね。金髪には青い瞳、黒い髪には黒い瞳、鳶色の髪には緑の瞳。こんなところかしら。…ただ前髪がねえ。ちょっと鬱陶しいわね。目が半分隠れちゃって、あれじゃせっかくの青い瞳が台無しよ。
あたしの感想は尽きるところがなかった。だって、本当に格好いいんだもの。どれだけ見てても飽きないわ。
騒ぎ立てる女たちを咎めだてする気も、もうない。いいものはいいのよ。これで騒がない方がおかしいわよ。
その騒ぎ立てる女たちの中から、ふいにその声が耳に飛び込んできた。
「ほんっとステキよねー!あの硬派な雰囲気がまたいいのよ」
「ずっとボーイズスクールだったんだって。全寮制の」
全寮制のボーイズスクール。ということは――
ふーん、フリーなんだ…


フライングボール部の練習は週3回。それをあたしは、その後しばらくの間、毎回見に行っていた。
C.Cに帰ったって、どうせヒマだし。たいていリビングにはウーロンしかいないんだから。ヒマそうなブタの相手をするよりは、いい男を遠目に見ていた方がずっとマシだわ。
2週間目のある日、あたしがいつものように中等部体育館のギャラリーでフライングボール部の練習を見ていると、待ち構えたような顔をしてウーロンが傍にやってきた。
「おまえ、ここんとこ帰りが遅いと思ったら、こんなところに来てたのか…」
あたしは何も答えなかった。わざわざ答えるようなこともない。見ての通りよ。
あくまで無視してコートへ視線を落としていると、ウーロンが吐き捨てるように呟いた。
「ケッ、浮気女」
「浮気じゃないわよ」
今度はあたしは答えた。口うるさいブタを横目で睨みつけながら。
ただ見てるだけだもの、浮気じゃないわ。自分の時間に目の保養して何が悪いのよ。ひとのプライヴェートに口を出さないでほしいわね。だいたいヤムチャなんか、会おうともしないくせに。
会おうとしない男なんか、彼氏でもなんでもないわよ。ただの知り合いよ。…そうよね、ただの知り合いよ。ちょっと本気で考えちゃおうかな…
いつの間にかウーロンがいなくなっていたことに、あたしは気づかなかった。ただ目の前の金髪碧眼のことを思っていた。
風を切る肩。そこにかかる毛先。きれいな青い瞳を覆い隠す豪奢な金髪。
…あの髪を、あたし好みに切ってやりたい…


『フライングボール――近年バスケットボールから派生した新種の球技。5人対5人で一つのボールを使い、相手チームのゴールにボールを入れることなどで得点を競う。試合時間終了後に、より多い得点を得たチームが勝利となる。コートの条件は…』
そこまで読んで次のページへ視線を動かしかけた時、いつの間にか傍にプーアルがやってきていたことに、あたしは気づいた。
「ブルマさん、今週末カメハウスへ行きませんか?ヤムチャ様がそうおっしゃって…」
あたしは思わず眉を寄せた。…嫌なタイミングで呼びつけるわね、あいつも。ひとがせっかくやる気を出しかけたのに。
まあ、いいか。どうせ休日はヒマだし…
「いいわよ。泊まってもいいのかしら?」
「はい。ランチさんのお部屋でよろしかったら」
「そう。じゃあ、そこを使わせてもらうわ」
あたしが言うとプーアルはどことなく嬉しそうな顔をして、キッチンへと飛んでいった。あたしは自分の目が白んでいくのを抑えられなかった。
あんまり期待しないでほしいわね。あたしは別に、ヤムチャと長く会っていたいとか、そういうわけじゃないのよ。日帰りだって全然構わない。それほど会いたいとも思わないし。でもきっとあいつは、あたしがいたって一日中修行を続けるに決まってる。日帰りだったら、顔を合わせることさえないかもしれないわ。そんなの、行く意味ないじゃない。
フライングボールのルールブックをソファの隅に放り投げて、プーアルの淹れてくれたコーヒーを手に取った。一口を啜りこもうとしたその時、向かい側のソファに座っていたウーロンが、白々しい目つきで呟いた。
「おまえ、よく顔出せるな…」
「何がよ」
ウーロンの言わんとしていることはわかった。一呼吸おいてから、あたしはそれを言い切って捨てた。
「呼ばれたから行くだけでしょ。それに何の問題があるのよ」
あたしは後ろめたいことは、まだ何にもしてないわよ。ただフライングボールの練習を見学して、ルールを勉強してみただけよ。それに文句をつけられるなら、ぜひつけてみてもらいたいもんだわね。
だいたい、どうしてウーロンが文句をつけるのよ。あたしに文句をつけることが出来るのはただ一人――ヤムチャだけよ。でも、ヤムチャはここにはいない。だから、会いに行ってあげるんでしょ。それもあいつの都合に合わせて。どう考えたって、あたしにケチをつけられるところはないわよ。
コーヒーには一口も口をつけずに、あたしはリビングを出た。…なんだかむしゃくしゃする。
いたらいたで、いなかったらいなかったで、煩わせてくれるんだから、あいつってば。




エアジェットを操縦するのは久しぶり。前に動かしたのはドラゴンボールを探しに出た時(少しだけだけど)で、それ以来だから――10ヶ月くらいか。
どことなく懐かしさを覚えながら、慣れない中型飛行艇を人家の疎らな田舎に着陸させた。降りてすぐ目の前に、見覚えのあるピンク色の家があった。
「こんにちはーーー。ヤムチャー、亀仙人さーん」
燦々たる日差しを浴びながら、ドアの向こうに呼びかけた。期待していた声は返ってこなかった。プーアルが訳知り顔で飛んできて、あたしの前に進み出た。
「みなさん修行中なんですよ」
軽い口調でそう言うと、慣れた手つきでドアを開けた。その後に続きながら、あたしは少しだけ眉を寄せた。
そりゃそうなんだろうけどさ。今日あたしたちが来るってことは知ってるんだから、待っててくれたっていいじゃない。だいたいの時間だって知らせておいたのに…
無人のリビングを見渡しながら溜息をつきかけたその時、階段のあたりからドスのきいた低い女の声がした。
「よう。ひさしぶりだな」
「…あ。ラ、ランチさん…」
両腕をカーゴパンツのポケットに突っ込んで斜めに構えるその姿に、あたしは思わず言い澱んだ。
…あたしたちには危害を加えることはしないって、もう知ってはいるけど。それでもやっぱりいきなり会うと、こっちのランチさんはちょっとビビるわ…!
ランチさんは薄ら笑いを浮かべながらリビングの中央にやって来ると、ソファを背にしてどっかりと床に座り込んだ。
「なんだなんだ、しけたツラしやがって。来る途中ハイジャックにでも襲われたか?」
言いながら、がははと豪快に笑った。あたしはすっかり気圧されながら、とりあえず訪問の儀礼をまっとうした。
「あ…えっと、これお土産…」
「おう、サンキュー」
ランチさんの片手に渡したお土産は、無造作にソファの上に投げ出された。気分を害するというよりは気を殺がれて、半ば呆然と立ち尽くしていると、背後でドアの開く音がした。
「あ、みなさん、こんにちは。…すいませんねえ、何のおもてなしもしなくって…」
振り向いた視界の下から聞こえてくる、のんびりとした爬虫類の声。ウミガメはゆっくりとランチさんに近づくと、何かの茎でその鼻をくすぐり始めた。
「は…は…はっくしょん!!」
一瞬にして、ランチさんの髪の色が変わった。目を引く金髪から色の薄い黒髪へ。それと同時に、あたしたちを見る彼女の目の色も変わった。
「あらみなさん、お揃いで。今いらしたんですか?」
「あ…ええ、それお土産…」
あたしがソファの上の箱を指差すと、ランチさんはにこやかに笑いながらそれを手に取った。礼儀にかなった手つきで蓋を開けて、さらに目を細めてみせた。
「まあ、わざわざありがとうございます。あら、おいしそうなお菓子。さっそくお茶の時間にいただきますわ」
「どういたしまして。あの、ヤムチャ…いえ、みんなは?」
なおも呆然としながらあたしが訊ねると、ランチさんはお土産を丁寧に持ち直して、笑いながらもきっぱりと言った。
「みなさんなら、横手の木陰でお昼寝してますわ」

青い空。遥か遠くに浮かぶ入道雲。
それを見ながらカメハウスの横へと回ると、数本の立ち木の間にそれが見えた。緩やかに揺れる3つのハンモック。それに身を任せる3人の男たち…
その一つに歩み寄って、あたしは溜息をついた。
規則正しく漏れる寝息。下がりきった黒い眉。なんとも間抜けなこの寝顔…マジで寝てるわ。本当に昼寝してるわ。
信じらんない。クリリンくんはともかく、こいつは17歳でしょ?免許持ってる年でしょ?
だいたい、聞いてた話と違うじゃない。『修行が厳しいから慣れるまで来るな』って、こいつが言ったのよ。これのどこが厳しい修行なのよ。この嘘つき男!
百歩譲って他の修行が厳しいとしてもよ。昼寝の時間は取れてるわけだから、その時間を使って電話するとかさ…そりゃあ、ここの電話は略式だけど(あたしが作ったやつよ)。確かにあれじゃ会話は筒抜けだけど…
あたしは再び溜息をついた。ヤムチャの鼻を抓みあげようと手を伸ばしかけた時、背後からプーアルとランチさんの声がした。
「ダメですよ、ブルマさん。これも修行のうちなんですから」
「3時になったらみなさんお茶になさいますから、それまで近所をご案内しましょうか?」
…3時。お茶。そして昼寝…
あたしはなんだか頭が痛くなってきた。
「いいわ。ここにいるわ。少し休みたいわ…」
変わらずにこやかなランチさんとプーアルに向かって呟いた。それはまったく本音だった。

木立の一つに、あたしは腰を下ろした。
プーアルとランチさんはお茶の準備に取りかかったようだった。ウーロンもカメハウスの中にいる。きっとランチさんに纏わりついてるのよ。本当にやらしいんだから。…まあ、ランチさんなら心配いらないだろうけど。ウミガメもいるし。
幹に背を凭れながら、あたしは3度目の溜息をついた。
…なんか、気が抜けたわ。
それほど張ってたわけじゃないけど。でも少しは考えてたのに。どうしてるかな、とか。ちゃんとやれてるのかな、とか。まったく無駄な心配だったわ。別の意味でなら心配になってきたけど。…知らないわ、そんなこと。
肌に纏わりつく常夏の空気。時折頬を撫でる微風。あたしの目の前で揺れ続けるハンモック。…もう寝顔を見る気も起こらない。
「ふわぁ〜あぁ…」
自然と欠伸が出た。完全に気が緩んでいた。引き締めるつもりなど、あたしにはなかった。
「寝よっと…」
お茶の時間まで。本当に優雅な生活よね…


不確かな意識の片隅で、何かが触れた気配がした。
ほんの小さな何か。…虫かしら。木の葉かしら。
薄く開けた目をゆっくりと瞬かせると、その正体がわかった。怪しく光るサングラス。白いあごひげ。派手なアロハシャツ。あたしの胸元に向けられた一本の指先…
「きゃあぁぁあぁぁあぁぁーーーーー!!!!!」
「わたたたたっ…とっ、ほっ」
あたしが思い切り悲鳴を上げると、亀仙人さんはわざとらしくよろけてみせた。
「いやはや、びっくりしたわい。余命幾ばくもない老人を驚かせんでくれんかの」
そして、いけしゃあしゃあと言い放った。自分のしたことを棚に上げて。それを見逃してやる義理はあたしにはなかった。
「何言ってんの!どこ触ってんのよ、エロじじい!!」
「少しくらいつつかせてくれんか。減るもんじゃなしいいじゃろ」
「減るわよ!あたしの純潔が!!」
乙女の価値が!ひょっとしたら貞操も!
この世の煩悩を一つ減らしてやろうかしら。あたしが真剣にそう考え始めた時、木立の影から世にものんきな弟子たちが顔を覗かせた。
「あ、ブルマ…」
「来てたんすね、ブルマさん。お久しぶりです」
「あんたたちねー!」
あたしの怒りは増大した。何その態度。ひとがあんたらの師に襲われたっていうのに。もっと動揺しなさいよ。すまながりなさいよ!
「ちゃんと師匠の行動に責任持ちなさいよ!それでも弟子なの!?」
あたしが怒鳴ると、弟子たちは目に見えて慌てた。
「は、はい、すみませんブルマさん。…武天老師様、修行修行!!」
「そ、そうだな。…老師様、早く次の修行をお願いします!」
まるで合言葉のように『修行』を連発しながら、クリリンとヤムチャは亀仙人さんを引き摺っていった。遠ざかる3人の男の影を最後まで見届けて、あたしは思った。
エロい師匠に、気弱い弟子。切り替えの激しいハウスキーパーに、困り顔の爬虫類。
…ここの人間って、本当に変わらないんだから。

ランチさんの言った通り、3時になるとヤムチャたちはカメハウスに戻ってきた。額に汗を滲ませてお茶に口をつける末弟子に、あたしはつい言ってしまった。
「いい生活してるわね、あんた」
あたしがあんなに退屈を持て余していたっていうのに。その間こいつは、ここでのうのうと3食おやつ昼寝付きよ。一ヶ月以上も電話一つ寄こさないでさ。…本当に浮気してやろうかしら。
あたしの言葉に、ヤムチャはどことなく戸惑ったような顔をした。すぐに返事が返ってきた。ヤムチャではなく、ウーロンから。
「おまえ、ひとのこと言えんのかよ」
見下したようなその口調に、あたしはすっかりむかっ腹が立った。即座にヤムチャを相手にするのをやめた。
「あんた、何が言いたいのよ」
あたしは訊いていたわけではない。ウーロンの言わんとすることはわかっていた。
「ここで言っていいのかよ」
「言われて困ることは何もないわよ」
あたしが事実を告げると、ウーロンは語気を弱めて呟いた。
「…図太い女だな、おまえ」
「放っといてよ」
だから、どうしてウーロンがそういうことを言うのよ。あたしにそれを言えるのはただ一人――ヤムチャだけよ。でもどうせこいつは…
顔はウーロンに向けたまま、あたしは横目で自分の彼氏を盗み見た。思った通りヤムチャは何も気づかぬ顔で、お茶を飲み干し平然と席を立った。
「俺、ちょっと体慣らしてきます。武天老師様、お先に失礼します」
そう言って、一人さっさと外へ出て行った。一瞬向けてしまった目を戻して、あたしはウーロンを睨みつけた。
…ヤムチャはどうせ気づかない。いつだってそうだもの。本当に鈍感なんだから。
怒りが嘆きに変わり始めたその時、クリリンくんがおずおずとあたしに言った。
「あのー、ブルマさん。ひょっとしてケンカしてるんすか?ヤムチャさんと…」
「まさか」
一言の元に、あたしはそれを否定した。ケンカなんてしてるはずないわ。
だって、あたしはあいつと口をきいていなかったんだから。別れてから一言も。


結局、ヤムチャとはその後夕食の時に一言二言言葉を交わしただけで、あっという間に夜が更けた。
わかっていたことよ。C.Cにいた時だってそうだったもの。あいつはトレーニングに関してだけは、妙に生真面目なんだから。その他のことには結構いい加減なくせしてさ。
昼寝やお茶が修行に組み込まれているところが、今ひとつ解せないけど。解せないっていうか、許せないわ。いい生活よね、本当に。
一応無事にお風呂に入り終えて(たぶん覗かれてはいなかったと思うわ。気づいた範囲では)、あたしは2階の、ヤムチャに宛がわれている部屋へ行った。
この部屋、窓からいい風が入るから。暦の上では初夏だけど、ここは常夏。結構蒸すのよね。お風呂上りに汗なんて掻きたくないもの。
ヤムチャはまだ夜の修行から戻ってきていなかった。そこであたしは勝手に部屋に入り込んで、その窓際に陣取った。修行先の部屋に見られて困る物があるはずもないし、別にいいでしょ。文句を言われたら出てけばいいわ。でも、本当に言われたら、あたしも言ってやるけど。だって、まだまともに話もしてないのに。…特に話したいことがあるわけじゃないけど、これじゃ何のために来たのかわからないじゃない。セクハラされにわざわざやってきたようなもんだわよ。
微かにドアの軋む音がした。体は窓辺に添ったまま顔だけを動かして、あたしは半ば無意識に声をかけた。
「おかえり」
ヤムチャは少しだけ目を丸くして、静かにドアを閉めると、ベッドの端に腰掛けた。体から仄かに湯気を漂わせながら。あたしはなんとはなしに、窓の外に目をやった。
つい癖で。ここのところ、2階のギャラリーから下を見下ろしてばかりいたから。でも、今このハウスの2階から見えるものは何もない。ただ漆黒が広がっているだけ。
「ずいぶん遅くまでやってるのね。いつもこんななの?」
少しだけ気になりかけていたことを、あたしは訊いてみた。C.Cにいた頃もヤムチャはわりと遅くまでトレーニングをしていたものだけど、ここで同じ時分までやっているというのが、今ひとつ解せなかった。だって、昼間はあんなにのんびりしてたのに。お茶や昼寝の時間を取るくらいなら、そのぶん早く切り上げた方が効率いいと思うんだけど。
「ああ…まあ、だいたいこんな感じかな」
ヤムチャの返事は素っ気なかった。詳しく話すつもりはないみたい。なんとなく言葉に詰まって、あたしは窓枠に片頬杖をついた。
半日も経った今、再会の言葉もないだろうし。近況はもう聞いちゃった。…普通こういう時は、男の方から何か言うものよね。相変わらずわかってないんだから。
ヤムチャは黙って、濡れた後ろ髪をタオルで叩いていた。緊張感の欠片もないその仕種。これっぽっちも疑ってなさそうな気の抜けた瞳。
…今さら緊張なんてするはずないわ。ずっと一緒にいたんだもの。キスまでしといて緊張されちゃたまんないわよ。人を疑わないのだって、こいつの元からの性質よ。
濡れそぼっても瞳の隠れない前髪。やっぱり、髪はこのくらい短い方がいいわよね。…あれがあたしの彼氏だったらなあ。思いっきり髪切ってやるのに。
…しょうがないか。あたしの彼氏はあれじゃなくて、これなんだものね…
ふとヤムチャと目が合った。水の滴る前髪の下にある瞳を見て、あたしはひさしぶりに試してみることにした。
アイコンタクトよ。こいつ、覚えているかしら。…覚えてるも何も、気づかれてなかったんだっけ。今はどうかしら。たいして変わってないような気もするけど、でも2人きりなんだし…
窓に添う姿勢はそのままに、軽く首を傾げてヤムチャを見た。髪にタオルを当てるヤムチャの手の動きが、少し緩まったような気がした。あたしを見る深黒の瞳を、あたしは探る思いで見返した。
一見すると優しそうにも思える黒い瞳。その奥に見え隠れする曖昧な表情。今ひとつ定まらないその意思。初めて試みた時と同じ――
…やっぱり変わってないわね。いえ、むしろ退化してる。あの後の雰囲気がすっかり消え去ってる。戻ってる。『既成事実があるだけマシ』みたいな空気をひしひしと感じるわ。
ただ黙ってあたしを見る、きょとんとした目。あたしは溜息をつきながら、試みを諦めた。
「ねえ…」
「あの…」
言いかけたあたしの声に、ヤムチャの声が被った。口篭ってはいるものの、思いもかけずヤムチャの方から呼びかけられて、あたしはちょっぴり期待した。
「何?」
「いや…」
とはいえ、あたしが訊くとヤムチャは言葉を濁した。もう!情けないわね。あんた、引くの早すぎよ。
もう何度目になるかわからない溜息を、あたしは零した。そして同時に現実を受け入れた。…しょうがないわね。またあたしから言わなくちゃダメなのか…
「ねえ、ヤムチャ」
頬杖を解いた。言いながらヤムチャの隣へ行こうと腰を上げかけて、ふいにあたしは気づいた。
ギシリと軋む、旧式のドアの音。ほとんど同時に、ドアの向こうから住民たちの声がした。
「さっぱり動きませんね」
「つまらんのう」
「だから言ったろ。あいつらはこんなもんなんだって」
「いえいえ、こういうことの気は長く持ちませんと…」
「そろそろお茶をお持ちしてもいいかしら」
階下から漏れてきているには大きすぎる。っていうか、その台詞。ちょっと、まさか…
すぐさまドアに駆け寄った。向こう側で人の動く気配がした。嫌な予感を確定させながら、あたしはドアを開けた。
「あ。ブ、ブルマさん…」
決まり悪そうに笑いながら、あたしの名を呼ぶクリリン。しれっとした顔で頭を掻き続ける亀仙人さん。さんざん文句をつけた挙句に邪魔までするウーロン。いつもは窘めてるくせに結局は同じ穴のムジナのウミガメ。偶然なのか口実なのかはわからないけど、確かにお茶の乗ったトレイを持ってはいるランチさん。そして大人しげな顔をしてても、やっぱりみんなに便乗するプーアル…
「みんな、一体何やってんのよ!」
あたしは訊いていたわけじゃない。そんなの、わかってるに決まってるでしょ!わからないのはヤムチャくらいのものよ!!
「いえ、あの、その、お2人がケンカしているんじゃないかと心配になりまして…」
「余計なお世話!!」
見え透いた言い訳をするクリリンを、あたしは怒鳴りつけた。ほんっと、下手くそな言い訳!こいつとヤムチャは似合いの兄弟弟子だわよ。だいたいそうだとしたって、覗き見していいわけないでしょ!
「あんた、修行怠けてるんじゃないの。煩悩ありすぎよ!」
っていうか、エロじじいに洗脳されてるんじゃないの?絶対そうよ!…今からでもヤムチャを連れて帰るべきかしら。
「さあ、散った散った!!」
さらに怒鳴ると、ウミガメを除くみんながマッハの速さで階段を下りていった。もたもたと後に続く爬虫類が階段の下に消えるのを見届けて、あたしも部屋の外に出た。
「じゃあね。おやすみ!」
ヤムチャの顔は見ずに言い捨てた。旧式のドアを、力任せに閉め切った。
当然よ!こんな環境でそんなことできるもんですか!…やっぱり、ここに修行に来させたのは失敗だったかも。
もはや数える気にもなれない溜息をつきながら、あたしは自分に宛がわれた部屋のドアを開けた。
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