亢進の男(前編)
「あー、朝日が眩しい…」
カーテンを開けた途端に、見慣れない強い光が目に飛び込んだ。空中の塵まで浮かび上がらせる、オレンジ色の光の流れ。
早く起きすぎちゃった。昨夜寝るの早かったから。早々にリビングから追い出されちゃったから…
ゆっくりと着替えを済ませて部屋を出た。横目に確かめた時計の針は5時半。本当に早過ぎだわ。こんな時間に起きてるの、あいつしかいないじゃない。
外庭へ一歩を出ると、遠目にヤムチャの姿が見えた。西側の木立の横で、相も変わらずトレーニング。…何があっても変わらないわね、こいつ。特にこういう時に限って、妙に平静なんだから。っていうか、ただ鈍いだけだけど。
あたしが木立の下で立ち止まると、ヤムチャは一瞬動きを止めて、逆光に笑顔を滲ませた。
「おはよう。早いな」
「目が覚めちゃったのよ」
あたしの返事に言葉は返らず、ヤムチャは再び体を動かし始めた。それを見ながら、あたしは立ち木の根元に腰を下ろした。
とりたてて何をしようと思っていたわけじゃない。早起きし過ぎて、ヒマだから。他に起きてるやつ、誰もいないし。
そうは思っていても、それに反駁しているもう一人の自分がいることに、あたしは気づいていた。
…ほんっと無骨よね、こいつ。
せっかく2人きりだってのに。この家で2人きりになれることなんて、そうそうないのに(昨夜それがよくわかったわ)。おはようのキスとかさ。そこまでいかなくても話相手するとかさ、何かいろいろあるじゃない。それが、そんなことされた日には絶対裏があるに決まってると思わせるなんて、どういう男よ。
「ねえ、ヤムチャ」
昇りきった朝日を見ながら、あたしは声をかけた。アイコンタクトをする気など、もうとうに失せていた。
「今日、午後から遊びに行かない?」
とりたててしたいことがあるわけじゃない。でも、ヤムチャがここにいるのもあと数日。せいぜい付き合わせておかなくちゃね。
再びヤムチャが動きを止めた。その口が開きかけた時、背後でかさりと草を踏む音がした。
「ちょっと誰よ、そこにいるの!?」
あたしが叫ぶと、木立の陰から恥知らずなブタが厚顔にもひょっこりと姿を現した。そのままあたしたちの方へと向かって草を踏みながら、ウーロンは開き直ったように呟いた。
「おまえ目聡いな。っていうかやらしいな」
「それはこっちの台詞よ!」
こんな朝っぱらから覗き見してるなんて、どれだけヒマなのよ、このブタは!
あたしが睨みをきかせても、ウーロンの横言は止まなかった。
「おまえ、いつもはギリギリまで寝てるくせして、こんな時だけ早起きしやがって」
「あんたたちのせいでしょうが!!」
あたしの爽やかな朝気分はすでに終わっていた。いえ、最初から爽やかなんかじゃなかったわ。しょうがなく起きたんだもの。こいつらのせいで。それを健気にもプラスへ転じようとあたしはしてたのに、また邪魔したのよ、このブタは!ヤムチャは相変わらずわかってないし!
「あ、おいブルマ…」
思い出したようにかけられたヤムチャの声を背に、あたしはC.Cのポーチへと歩き出した。話をする気など、とうに失せていた。とはいえ数歩を歩いたところで思い直して、答えを返してやった。赤目を剥いて、舌を出して。
「べーだ!」
ふんだ。ヤムチャのバーカ!

「…だな、あいつは…」
「うーん、でも…」
ハイスクールへの道すがら。一人先を歩いていたあたしは、ぼそぼそと背後から聞こえてきた男たちの声に、思わず眉を顰めた。
いつもの白けた口調で何かを呟いているウーロン。それに曖昧に答えるヤムチャ。
…一体、どういう神経してるのかしら。
どうしてさっきの今で、仲良しこよしできるわけ?昨夜の今朝で、何もなかったような顔していられるわけ?ウーロンが図太いのはいつものことだとして、ヤムチャってば、全然頭にこないのかしら。信じられない鈍さだわ。
結局最後まで悪びれた態度を見せず、ウーロンは小等部のゲートへ消えた。こちらもまたいつも通りの様子でそれに続くプーアルを見送ると、ヤムチャが隣にやってきた。さしたる考えもなさそうな、いつもの惚けた表情で。
「あんた、体より頭を鍛えた方がいいんじゃないの?」
ハイスクールのエントランスを通り抜け、クラスに面する廊下のロッカーを視界に入れた時、あたしはたまらず忠告してあげた。
そりゃあ孫くんなんかには遠く及ばないけど、ヤムチャだってそこそこ強いんだから。それよりも、孫くんとどっこいのその鈍さをどうにかしてほしい気持ちであたしはいっぱいだわ。
ヤムチャはロッカーに手をかけながら、淡々と言い放った。
「それはブルマにまかせるよ」
「あたしはもうクリアしてんのよ!」
溜息を押し殺して、あたしは叫び返した。
これほど鈍さを証明した答えもないわよね。だいたい、そういう問題じゃないでしょ。確かにあたしは頭がいいし天才だけど、バランス取れりゃいいとかそういうことじゃないのよ。
「あたしはあんたのことを言ってんの!あんた、考えなさすぎよ!」
「そうは言ってもな…」
あたしがたたみかけると、ヤムチャは言葉を濁した。たいして堪えてもなさそうな苦笑いを湛えて。もう、どうしてこいつってこうのんき――
バン!
溜息混じりに自分のロッカーへと向かいかけたあたしの横で、ふいに大きな音がした。見るとヤムチャが、持ってきたバッグを床に放り出して、開けたばかりのロッカーを片手で固く閉ざしていた。体重をかけるようにロッカーのドアに押し付けられた左手。それとは対照的に、その背で宙に浮く右の腕…
「…何してんのよ、あんた」
正面のロッカーにではなく、なぜかあたしに背けた背中。あまりにも不自然なその体勢を、あたしは当然問い質した。
「え?…」
あたしに向けられたヤムチャの目は、完全に泳いでいた。右腕がさらに背中に隠れた。
「何か隠したわね。見せなさいよ」
「い、いや、これは…」
消え入りそうな否定の言葉。竦んだように止まる動き。いつもとは違った意味で間抜けに惚けたその表情。…こいつが隠し事をするなんて、どだい無理な話なのよ。それにしたって、ムカつく態度だわ!
澱み固まった空気の中で、ヤムチャの右腕だけが動いた。かさりと紙と布の擦れる音がした。あたしが一歩を詰め寄ったその時、視界の外から場違いなからかいの声が飛んできた。
「よっ!モテる男は辛いね〜」
「げっ…」
最悪の呟きが漏れた。あたしはもう容赦なく、ヤムチャの右腕を掴み上げた。目前の宙に浮いたその手には、一通の封筒が握られていた。指の隙間から覗くハートの刻印。わざとらしい丸文字で書かれた、顔だけはあたしも知っている、あたしともヤムチャともクラスの違う女の名前。――ラブレター!?信じらんない!
「あんた、まだこんなことやってるの!?」
もう貰わないって言ったくせに。さも従順そうな目で泣きついてきたくせに。さんざん奥手ぶっといて、ひとに手間かけさせて。そのくせさっきなんて、まるっきり彼氏面してたくせに…!
「やってるって…これは勝手にロッカーに入れられて…」
まるで被害者のような顔をして、ヤムチャは呟いた。弱々しくも焦点のあっていないその目を、あたしは睨みつけた。
「じゃあどうして隠すのよ!!」
後ろめたいところがないなら見せなさいよ。こいつ、普段はいいだけ口軽いくせに。こんなことだけ隠そうとするなんて、なんて男よ!
忌々しい思い出が、脳裏に甦った。ヤムチャをハイスクールに連れてきた、最初の日。他人の彼氏にラブレターを手渡す不躾な女。そして、何も知らないような顔をしてそれを受け取る無粋な男。最低の思い出よ。あの時のヤムチャは、まったく何もわかっていなかった。でも、今よりはマシだったわ。わかっていない方が、まだマシよ!
廊下に人目が増えてきた。遠巻きにあたしたちを見る、見知った顔と知らない顔。もう、どうしてハイスクールでまで、晒し者にならなきゃいけないわけ!?
ヤムチャはすっかり黙り込んでいた。拙い言い訳の後から、口を開こうとさえしない。なにこいつ。どうして収めようとしないのよ。構わないってわけ?これでいいってことなの?どういうことなのよそれは!!
「バカ!女ったらし!!」
ヤムチャが目を閉じた。落ちかかる何かから身を守るように、左腕を顔の前に掲げた。その態度にさらにムカッ腹を立てられながら、あたしは他人のみを楽しませる茶番劇を下りた。

廊下の端までを一気に駆けた時、予鈴のチャイムが鳴った。立ち止まって振り向いたあたしの目に映ったものは、人気も疎らな廊下と開ける者のいないロッカーだった。
…どうして追いかけてこないのよ。いつもは平身低頭して謝るくせに。あいつってば小心なくせして、時々変に平静なんだから。ただ鈍いだけ?それとも…
「はあーぁ…」
溜息と欠伸が同時に出た。…眠い。今朝、早く起きすぎちゃったから。それになんだか疲れたわ。まだ一日は始まったばかりだっていうのに。あいつらのせいよ。…あいつのせいよ。
授業、適当に切り上げよっと。遊びに行く気はしないけど。真面目になる気は、もっとしないわ。

まだ怒りが治まりきらないうちに、3限目までの授業は終わった。4限目の授業は化学。そこであたしは、少しの間ヤムチャのことを忘れ去ってしまうことにした。
化学って結構好き。授業がじゃなくて学問がだけど。ハイスクールのテキストはたいして読む気しないけど、教師が時々する雑談は悪くないし、実験ともなればもっといいわ。今みたいな気分の時は特に。手を動かしていれば、余計なことを考えずに済むし。考えたくもないことを考えなくちゃならないほど退屈なテキスト授業よりはずっといい…
「ねえ、ブルマ。あんた今朝、ヤムチャくんとケンカしてたでしょ」
化学実験室のデスクの上で、水の電気分解が終盤に達した時、隣席の女が楽しそうに囁いた。その囁きはすぐに他の女を釣り上げた。餌に群がる小魚のように、同じ実験デスクについていた女たちが次々に口を開いた。
「見た見た。ロッカーのところででしょ。よくやるわよね、あんなところで」
「ヤムチャくん、思いっきり引いてたわよね」
「そりゃあ引くでしょ。あんな大声出されちゃあね」
「ヤムチャくん、かっわいそ〜」
どこがかわいそうなのよ!
かわいそうなのはあたしでしょ!あたしがヤムチャにひどいことされたのよ。なのにどうしてあたしが悪者なのよ。どうして理由も訊かないうちから、あたしのことばかり責めるのよ。そりゃあ、あたしは言いっぱなしだったけど。ヤムチャは何も言わなかったたけど。…引いてた?まさか。あいつはただ弱いだけよ。だいたい、こいつらだって理由を知ればあたしと同じことを言うに――
言葉が喉元まで出かかった。その時、中の一人が目を輝かせて訊ねてきた。
「で、原因は何なのよ?」
待っていたはずのその台詞に、あたしはすっかり逆撫でされた。
さりげなさを装おうともせずに身を乗り出してくる女たち。今さっきまでの非難の色はどこへやら、一転して期待に満ちたその表情。…どうしてそんなに嬉しそうなのよ。一体どんな話が聞きたいわけ。
すぐさま席を立ち去りたい衝動に、あたしは駆られた。とはいえ数秒口を噤んだところで思い直して、答えを返してやった。
水素の溜まった試験管を左手に、火のついた白金線を右手に持った。白金線を試験管に突っ込んだ途端に悲鳴が漏れた。
「きゃあっ!」
「ちょっとブルマ、何すんのよ!」
「やめてよ、あぶないじゃない!」
大きな音をたてて水素が爆発した。一瞬輝いた赤い炎。拡大すれば兵器にもなりえる化学の光。
「うるさいわね。これ以上ぐだぐだ言うなら、重水素化リチウム作るわよ」
リチウムだって水素と合わせれば立派過ぎる爆薬よ。最も、このバカ女たちはそんなこと知りもしないでしょうけど。一度経験してみるのもバカのためかもね。
壁際の薬品棚に目をやった。リチウム――いつもはあたしの目を楽しませる赤い鉱石。一度はあいつの目をも楽しませた深い紅色。人の心の壁を除く化学の光。…あの時のヤムチャは、優しそうで邪気がなくって、人を騙すことなんかまったくできなさそうに見えたわ。
いつの間にか女たちの声は止んでいた。バカはバカなりに危険を察知したらしい。怯えたように身を引く面々を一瞥して、あたしは白金線を放り投げた。ややもして、終業のチャイムが鳴った。
あたしは先送りにしていた欲求を開放した。デスクに飛び散った試験管片をそのままに、いち早く席を立った。クラスには戻らなかった。ロッカーからお弁当を取り出して、エントランスへと向かった。
午前の授業は消化した。もう十分。ごはん食べて帰ろっと。
これ以上不愉快な思いをさせられるのはごめんだわ。

昼休みの廊下は、人でごった返していた。追い出されるように教室から出てくる教師。移動教室から戻ってくる生徒。飲み物を買いに走る男子。それらの波を掻き分けて曲がりかけた廊下の角で、あたしは足を止めた。
すぐ目の前にヤムチャがいた。ほとんど目と鼻の先。ただただ目を丸くして、あたしを見ている。…なんだってこんなところで会うのよ。あたしはこいつを忘れに行こうとしていたところなのに。
即行で踵を返した。あたしから言うことなんか、何もないわ。そして、きっとヤムチャは何も言わない。となれば、顔を合わせる必要もないわけよ。当然、お昼ごはんだって別々よ。
「あっ、おい、ブルマ…!」
あたしの考えは一部分だけ覆された。背後から聞こえてきたヤムチャの声は、朝、最後に聞いたものよりは強かった。横目に見たその顔は、あきらかに弁解しようとしていた。周囲に行き交う人の波を見渡して、あたしは思った。
…そうね。ここで謝らせてしまうのも悪くないわね。あたしが悪いわけじゃないって、アピールできるし。あの女たちだって、こっちの件だけ見て見ぬふりもしないでしょうよ。
弁解のチャンスを、あたしはあげることにした。許すかどうかは別として、聞く耳くらいは持ってやるわ。…ま、ヤムチャの言うことなんか、だいたい想像つくけどね。
再びヤムチャが口を開いた。でも、あたしの耳に届いた声は、まったく別人のものだった。
「ヤムチャくーん、これ食べて!」
あたしとヤムチャの間に、いきなり女が割り込んできた。あたしが咎める間もなく半瞬の後に、場は女とヤムチャのものとなっていた。
「調理実習で作ったクッキーよ。絶対食べてね!」
あたしの存在になどまるで気づかぬふりをして、女がヤムチャに笑いかけた。この上なく間抜けな顔で、ヤムチャが女の手からペーパーバッグを受け取った。あたしは本気で自分の目を疑った。
何なのよそれは。あんたは今謝るべき人間でしょ。それがどうしてあたしの目の前で、他の女からクッキーなんか貰ってるのよ。あんたが押しに弱いってことはなんとなくわかってきたわよ。でも、いくら何でもそれは突っ返しなさいよ!
他人の彼氏に、その彼女の目の前で物を手渡す不躾な女。そして、何食わぬ顔をしてそれを受け取る無粋な男。…信じられないダメ押しだわ!
「もう、最低!」
気づいた時には手が出かかっていた。再びあの忌々しい記憶が脳裏に甦った。同時に、ヤムチャが腕を掲げた理由もわかった。だからといってやめようとは思わなかった。
思いっきりヤムチャの頬を引っ叩いて、あたしは2度目の茶番劇の幕を下ろした。

中等部校舎の屋上。そのペントハウスの屋根の上に仰向けに寝転がった。
頭上に広がる青い空。遠くに見える白い雲。…もう何度見たかしら。
ヤムチャとケンカした後に見る風景は、いつも同じ。屋上から見る空か、C.Cへの道すがらにエアバイクから見る空か。それはあたしの行き先が、だいたいその2つのどちらかだからだけど。それにしても、不思議なことが1つある。
…どうして、いつも晴れているのかしら。
晴れ晴れとした気分になったことなんてないのに。ケンカした後も。仲直りした後も。
ヤムチャはいつも謝ってくるし、あたしの言うことにも頷くけど、それにしては改善されないっていうか。改善されることもあるにはあるけど、また別のしかも似たような問題が出てきたりとか。…わかってないのよね、要するに。本質的なところが。人の…特に女の気持ちってやつが。
ラブレターは貰っちゃダメって言ったら、物を貰って。それもダメって言ったら、告白されて。しばらく大人しくしてたと思ったら、またラブレター。おまけに今度は物もコンボで。
いつまでも同じことの繰り返し。いつまでも堂々巡り。
飽きちゃった。同じこと考えるの、もういい加減飽きちゃった…
前髪が風に戦いだ。考えることをやめたからって、問題がなくなるわけじゃない。無視したところで、時間は流れる。風はあたしの体に吹く。太陽は刻一刻と傾いていく。そして問題がまた起こる。
手元の時計を確かめた。もうすぐ昼休みが終わる。一度クラスに戻ろう。そして荷物を纏めよう。
予鈴が鳴る前に帰ろっと。

周囲に人がいないことを確かめて、屋上からの非常階段を降りた。ハイスクールのエントランスへ続く内庭の並木道に、人は疎らだった。外で昼食をとっていた生徒たちも、ほとんどが校舎に戻っている。そのぶん、内庭に面する廊下に人が溢れていた。
昼休み最後の10分あまりを、騒がしく廊下で過ごす数人の男子。テキスト片手に教室移動をしているらしい女たち。それらに混じって一人のんきに歩いている今一番見たくない顔を、あたしは2階の廊下に発見してしまった。
言うまでもなくヤムチャよ。なんか今日はやたら目につくわね。いつもはもっと存在感薄いくせに。
苦々しく思いながらもその姿を目で追っていたあたしは、ヤムチャの進む方向を見て、さらに苦々しい気持ちになった。
…あんた、何でそっちへ行くのよ。
そっちはあたしのクラスでしょ。ヤムチャなんて、何の用もないでしょ。通っちゃいけないわけはないけど、今は行かないでよ。このままじゃ鉢合わせしちゃうじゃない。
エントランスを目前に、あたしは踵を返した。今や無人となった内庭を、中等部校舎へと歩き戻った。努めて高等部の廊下から目を逸らしながら、屋上への非常階段を上った。
ヤムチャなんて、絶対会いたくないわ。最初がラブレター。次がプレゼント。今度は何?また告白されるわけ?冗談じゃないわ。そんな無限地獄、あたしはごめんよ。
「ふあーぁ…」
溜息と欠伸が同時に出た。…眠い。今朝、早く起きすぎちゃったから。お弁当食べたら、また眠くなってきたわ。
青い空。白い雲。雨なんてこれっぽっちも降りそうにない春の空の下で、あたしはペントハウスの屋根の上に仰向けに寝転がった。
…5限目が終わるまで寝てよっと…




ふと、風が頬を撫でた。
唇をくすぐるように流れていった。すぐ近くで、ぱたりと物の落ちる音がした。手に何かが被さってきた。
薄目を開けて見た視界に、空はなかった。
目と鼻の先に焼けた肌。間隔を置いて頬に届く息。左手指を包む掌…
「きゃあああぁっ!」
隣に寝そべる男の体。あたしは瞬時に目を開けた。
「…ちょっとあんた、何してんのよ!」
起こしかけたあたしの体は、ヤムチャの手に阻まれた。あたしが声を荒げてもヤムチャは手を離そうとはせず、横向けに転がった体を揺らしただけだった。
「手離してよ!あんた何でここにいるの!?一体どうやって入ってきたのよ!」
誰にも見られていないはずなのに。ドアはパスの明かされていないマニュアルロック式…まさか、こいつ外したの?こいつに外せたってことは、ひょっとして他の生徒も…
「何で横で寝てんの!それに今触ったでしょ!ひとが寝てる隙に何してんのよ!!」
添い寝してるだけでも充分非常識なのに。触ってくるなんて最悪!
この時になって、ようやくヤムチャは手を離した。おもむろに身を起こして、どんよりとした目であたしを見た。
「あー…ああ、ええと…」
まったく動じていない声音。堪えた様子のない表情。…現行犯だってのに、図太いったらありゃしない。
「話をしようと思って来たんだ。ブルマが階段を上がっていくのが、廊下から見えたから。ドアは開いてたぞ。昼休みに来たんだけど、昨夜あまり寝てなかったもんだから、眠くなっちゃって。触ったって…それはブルマが髪の毛食べてたから…」
「…あっそ」
淡々と答え続けるヤムチャの声に、悪びれた感じはまったくなかった。あたしは何だかバカらしくなってきた。ヤムチャがわかっていないのに、あたしだけがやきもきしていることが。ヤムチャが気にもしていないことを、いちいち教えてあげなきゃいけないことが。
「もういいわ。さっさと出てって。あたしは5限目が終わるまでここにいるんだから。あたしが先に来てたんだからね!」
言いながらヤムチャの背中を押した。これ以上こいつの話を聞いていたくないわ。文句をつける気も起こらない。何を言っても暖簾に腕押しなんだから。
「いや、待て待て。ちょっと待て…」
ヤムチャは背中越しに視線を寄こしながら、いつもの弱気を覗かせた。それでいて妙に強気な態度で、あたしの腕を外した。
「話がしたいんだ。さっきのことで」
「話すことなんか、あたしには何もないわよ」
声の強さに少しだけ意表を突かれながら、あたしは話を切り上げた。…はずだった。
「俺にはあるんだよ。あのな。…ラブレターはちゃんと返したから…」
「…返した?」
すばやく突きつけられた台詞のタイミングと内容に、あたしは自分の耳を疑った。
ラブレターなんて、受け取らないのが当たり前。例え間接的に渡されたのだとしても、返すのが筋ってもんよ。でも本当に、こいつがそんなことするなんて…いえ、出来るなんて。一緒に住んでるあたしやウーロンにさえ、口篭るほど弱いのに。それが、今日告白されたばかりの、親密でもない他クラスの女を突っぱねたり出来るわけ…
「…どうやって?」
あまりにも嘘くさいこの話を、あたしは当然問い質した。ヤムチャは表情を変えることもなく、再び淡々と言い放った。
「ロッカーに入れておいた。俺が気づいたんだから、相手だって気づくだろ」
「ロッカーって…」
あたしは思わず言葉に詰まった。
そりゃあ、気づくでしょうけど。でも普通は、本人に直接返すものじゃない?断りを入れながらさ。それが、返事もしないでロッカーに入れとくなんて。こいつ、気弱いふりして、何気にひどいことしてるわね。やっぱり全然、女の気持ちってものがわかってないわ。…まあ、あたし以外の女にそうあるのはまったく構わないけど。
「クッキーは?」
一連のヤムチャの言葉に安心ではなく不安を増大させながら、あたしは訊いた。あれはしっかり貰っていたわ。押し付けられたにしたって一度は受け取ったものを、こいつが返せるものかしら。ラブレターさえロッカーに放り込むこいつに。
「…ああ、クッキー…」
ヤムチャは一瞬言い澱んで、でもその後は躊躇うことなく続けた。
「あれは他の野郎が食った。いつもそうなんだ。相手に言うのは忘れたけど、同じクラスの子だから、たぶん知ってると思う」
あたしは堪らず目を覆った。
ひどいわ。ひどすぎるわ。食べないのなら返しなさいよ。相手も知ってるって…知っていたって許されないわよ、そんなこと。女の気持ちを何だと思ってるの。踏みにじるにも程があるわよ。…まあ、あたし以外の女にそうするのはまったく構わないけど。でも、もしあたしに同じようなことをしたら殺してやるわ。即行で別れてやるわよ。
ヤムチャが口を噤んだ。あたしにも、これ以上知りたいことは何もなかった。問題は解消された――でも、あたしの気持ちは晴れなかった。…晴れるわけないでしょ!こんな無神経な男、見たことないわ。
本当に無神経で鈍感で、小心なくせして厚顔で。他人の気持ちってものが、まるでわかってないんだから。
「ブルマ?どうかした…」
「頭痛いの!あんたのせいよ!」
事実だけを、あたしは口にした。それ以上のことを言うつもりは、毛頭なかった。当然でしょ。どうしてあたしがそんなこと言わなくちゃいけないのよ。あんたが他の女に冷たいから頭痛いなんて。もっと他の女の気持ちを考えなさい、なんて。
この頭痛が治まることは、きっと永遠にない。あたしは溜息をつきながら、重い頭をヤムチャの肩に凭れた。だって、こいつのせいだもの。あたしが頭痛いのも、痛む頭を凭れるソファのない屋上なんかに今いるのも、みんなみんなこいつのせいよ。少しでもこの頭痛を和らげるよう努めるのが、こいつの責任ってもんでしょ。
「大丈夫か?」
あたしの肩に手を回しながら、ヤムチャが言った。あたしはさらに深く頭を凭れた。
大丈夫なわけないわよ。思いっきり我慢してるわ。心を寛大に持ってね。…この頭痛を治める方法を、あたしは一つ知っている。そうしないことを感謝してほしいものだわ。
ヤムチャの指が耳に触れた。さっきあたしの唇を撫でた風のような手つきで。くすぐるように横髪を撫でた。自然のではない息吹を頬に感じて、あたしは黙って顔を上げた。
あたしを見つめるヤムチャの瞳は穏やかだった。あの時化学実験室で見たのと同じ。素直で優しそうな、肩に力の入らない自然な雰囲気。…こいつにもようやくわかってきたようね。そうよね。あたしは他の女たちとは違うんだから。あたしたちはずっと一緒にいたんだから。
あたしの頭痛はすっかり治まっていた。遠くに聞こえるチャイムをBGMに、ヤムチャが呟いた。
「よし。じゃあ行くか」
そうして、あたしの肩を叩いた。親が子どもにするような、友人同士がするような、親密な仕種…
…って。
「ちょっと。ちょっと、ちょっとヤムチャ!」
ペントハウスの屋根から下りようとするヤムチャを、あたしはすんでのところで引き止めた。…一瞬、完全に呆けちゃった。
だって、おかしいでしょ。おかしすぎるでしょ!あたしたちはそういう関係じゃないでしょ。あたしたちは恋人同士!恋人同士がこういう時にすることといったら決まってるでしょ!
「ねえあんた、本当にしないつもりなの?」
不本意ながらも、今日もあたしはまた言った。
「何を?」
「仲直りのキスよ。普通するでしょ、こういう時は!」
あたしが言うとヤムチャは黙った。あからさまに眉を顰めた。それを見てまたあたしも眉を顰めた。
…こいつ、わかってない。あたしのこともわかってない。自分の彼女のこともわかってない。それどころか一般的なことすらわかってないわ。もう、なんでよ。昨日あれだけ言ったのに。女のプライドを捻じ曲げてまで、教えてあげたのに。
だいたいそれじゃ、今の雰囲気は何なのよ。今の異常にいい雰囲気は?ただの偶然?それとも奇跡?雰囲気だけは作れるようになったってわけ?そんなの一番始末に負えないわ。なんていうか、フェイントかけられるわよね。期待したぶん余計に。…なんて中途半端なの。
その思いはさらに深まった。ヤムチャはさして照れた様子もなく、実に中途半端な返事を寄こした。
「…今?ここでか?もうすぐ6限目が始まるし、それにもしかすると人が… 」
「いいじゃない、どうせあんたはもうじきいなくなるんでしょ」
わかってないくせして、シチュエーション選んでんじゃないわよ。鈍感なわりに図々しいわよ。だいたい、女に言わせておいて応えないなんて、あり得ないわよ。…でも、そのあり得ないことを、あたしはされてるのよね。しかも何度も。続けざまに。本当にこいつ、わかってないのかしら。実は故意犯なんじゃないの?
今も。昨日も。その前も。ずっとずーっと何ヶ月も。いつまでも変わらずわからないなんて、あり得るわけ?そんな男で、あたしはいいわけ?
…わからない。なんか本気でわからなくなってきたわ…
青い空。白い雲。いつまでも変わらない周りの景色。それに逃避しかけたあたしの視界を、黒い髪が遮った。あたしの左頬に触れながら、ヤムチャが窺うようにあたしを見ていた。
…中途半端もいいところよ。
睨み返そうとしたあたしの目は、瞑ることを余儀なくされた。
ヤムチャが顔を近づけたから。あたしの唇に触れたから。
ヤムチャ自身の唇で。…何こいつ。今頃わかったってわけ?
遅すぎるっつーの…

少し息が苦しくなりかけた頃、ヤムチャが唇を離した。2度目のキスはせずに軽く肩を抱いたまま、悪びれた様子もなく嘯いた。
「おまえ、あまり授業サボるなよ」
「辞める人間に言われたくないわね」
あたしはすぐさま言い返した。だって、こいつだって今サボってるのに。サボってこんなことしてるくせに。っていうか、それがキスの後に言う台詞?…やっぱり、全然わかってないわね。
「あのな。俺はおまえを心配して言っているんだ。おまえは一人だと…」
もったいぶった言い方に、あたしはようやく気がついた。ヤムチャの言わんとすることに。まったく、小心なんだから。
「安心して。カメハウスに行く時はサボらないから」
途端に、ヤムチャが体を離した。一瞬目を逸らして頭を掻きながら、俯き加減に呟いた。
「それなんだけど…カメハウスにはしばらく来ないでくれないかな」
「えぇー!?」
突然突きつけられた不当な要求を、あたしは当然問い質した。
「なんでよ!しばらくってどのくらいよ!?」
「武天老師様の修行に慣れるまで。…1ヶ月。いや2ヶ月くらいかな」
「2ヶ月も!?」
思わず自分の耳を疑った。2ヶ月も、一人で過ごせっていうの!?あの退屈なC.Cで!?
これから夏が来るっていうのに?ツバつけるだけつけといて、一人で過ごせって?信じらんない。なんて自分勝手なの!
「あ、いや、きっともっと短いよ。武天老師様の修行は厳しいけど、がんばるからさ。時期が来たらすぐに連絡するから…」
「当たり前よ!」
連絡するのなんか当たり前よ。いかにも取り計らっているように言わないでほしいわね!
あたしが睨みをきかせると、ヤムチャは黙った。弱々しい笑みを浮かべながらも、言葉を取り消すつもりはないようだった。
強情ね。いや違うか。わかってないのよね。あたしのことなんて、ちーっとも考えてないのよ。
「しょうがないわね。本当にちゃんと連絡してよ。2ヶ月経っても音沙汰なかったら、捨てるからね!」
しかたがなくあたしは折れた。こういう男を彼氏にするとね、寛大にならざるを得ないのよ。もちろん、どこまでもそうするわけじゃないけどね。だいたい、あたしが気に入ったのはこいつの見た目なんだから。会えなきゃそんなの、何の意味もないんだから。
「はは。肝に銘じておくよ。さて、そろそろ戻るか」
今度は声をたてて笑いながら、ヤムチャが言った。その瞬間、あたしの寛大心にひびが入った。
こいつ、どうしてこんなに軽いのよ。『捨てる』って言ったのが聞こえなかったの?
「ダメ。あたしはここにいるわよ。だからあんたもいなさい」
あたしに背を向けようとするヤムチャの腕を掴みながら、あたしは命じた。会わない約束を取りつけておいて、何のフォローもなしだなんて。そんなの、他の女は許しても、あたしは許さないわよ。甞めてるにも程があるわよ。
「でも、もうすぐ6限目が始まるぞ。2限も続けてサボるわけにはいかな…」
「いいじゃない。あんたどうせ辞めるんでしょ。最後くらい付き合いなさいよ」
「最後って…まだ明日も明後日もある…」
「じゃあ明日も付き合いなさい。そうね、遊園地。明日は遊園地に行くわよ!」
いちいち最もなことを言うヤムチャの声を、あたしはやり込めた。賢しげな口を利くって、こういうことよね。でも、あたしには通用しないわ。確かにこいつは時々機転が利くけど、一番大事なことがわかっていないんだから。
「真面目を通したって、辞めるんだから意味ないわよ」
あたしが拠りどころを崩してやると、ヤムチャは再びペントハウスの屋根に腰を下ろした。隣に座り込みながら、あたしはその顔を覗き見た。
眉の下がったその表情。観念したように吐かれた息。でも、あたしの心は晴れなかった。
当然よね。やっぱりぜーんぜんわかってないんだから。
「ねえ、もう一回キスして」
あたしは僅かに残った寛大心を掻き集めた。ヤムチャは不意を突かれたような顔をしながらも(やっぱりね)、あたしの言葉に従った。
あたしを見る穏やかでまっすぐな優しい瞳。あたしの頬を深く包む両の掌。甘くとろけそうな唇の感覚。…これがなければとっくに別れているところよ。これでこいつが自分からきてくれたらなあ…
…ないものねだりってやつかしら。




雲一つない青い空。それがその日の天気だった。
ひょっとして、ヤムチャって晴れ男なのかしら。こいつと何かある時に限って、晴れているような気がするわ。ということは、この後しばらくは雨かな。だって、今日からはしばらく会わないんだから。会わなきゃ何かが起こりようもないものね。…いいんだか悪いんだかわかりゃしないわ。
複雑になるあたしの気持ちをよそに、ヤムチャはいつも通りののんきな顔で、ポーチで父さん母さんと話し込んでいた。
「さようなら、ヤムチャちゃん。ヤムチャちゃんがいないと、ママさみしいわ〜。早く帰ってきてね」
「そうだね。部屋はいつでも空けとくからね。なんだったら、娘の部屋に転がり込んでも構わんよ」
「クソ親父!!」
耳に届いたアホな声を、あたしは瞬時に掻き消した。なんなのこの人。本当に父親なの!?自分の娘に何させようとしてんのよ!ヤムチャがここを出ていくのは正解かもね。こんな人が傍にいたら、うまくいくものもダメになるわ。…あたしも出ていこうかしら。
「さあ、さっさと行くわよ。プーアル!ウーロン!早く乗って!!」
これ以上アホな言葉を聞きたくない。あたしはその一心で、ポーチ横に置いたエアクラフトに乗り込んだ。
…おかしいわ。絶対に間違ってる。別れってこういうものじゃないはずでしょ。そりゃ少しの間だけだけど、もっとこう粛々とさ…お別れのキスとかさ。あっちまで送っていくことにして、本当によかった。こんな別れの雰囲気、あり得ないわよ。恋人同士ならなおさらよ。
慌てたようにプーアルとウーロンがエアクラフトに乗り込んだ。それでもなお、ヤムチャはポーチに留まっていた。懲りもせず父さんたちと話し込んでいる。
「ヤムチャ!早く!」
グズグズしてんじゃないわよ。男なら去り際は潔く!っていうか、父さん母さんに執着してどうするのよ。そういうことはあたしにしなさい!
あたしが呼ぶと、ようやくヤムチャはエアクラフトのタラップに足をかけた。その体がシートに沈むのを確かめて、あたしは操縦桿を握った。
目的地はカメハウス。我が家のお荷物を送りつけに。
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