亢進の男(後編)
数百kmを進み、カメハウスがあるという場所へ近づいた時、外気温センサーがプラス3度を計測した。
「あっついわね、ここ。すでに夏みたい」
「常夏地帯だからな。季節による寒暖差がなくて修行もはかどるというものだ」
ヤムチャの答えるそばから、センサーの数値が上がった。あたしはなんとなくおろしていた髪を、まとめておくことにした。
「ちょっとウーロン、計器見てて。オートパイロットにしておくから」
「あいよ」
ウーロンに操縦席を明け渡して、ヤムチャのいる後部座席へとすべり込んだ。ヤムチャはどことなく緩んだ顔で、ただただ窓の外の入道雲を見ていた。
「あんた、何してんの」
いろいろな意味を内包して、あたしは訊ねた。ヤムチャの返事は、呆れるほど単純なものだった。
「雲が出てきたなと思って」
「のんきねー」
あたしが言うとヤムチャはようやく顔をこちらへ向けて、嫌味のない口調で言い返してきた。
「ピリピリしなきゃならない理由がどこにある?」
「そうじゃなくて。あたしが言いたいのは…」
あたしはそこで口を噤んだ。でも、言葉が見つからなかったわけじゃない。髪を括るリボンに気を取られていたからだ。
少し高い位置で髪を括り終えた時、操縦席から素っ気ない声が飛んできた。
「おい、お二人さん。それくらいにしとけよ。ブルマ、そろそろ着陸地点が見えるぞ」
「ああ、はいはい」
ウーロンも気が利かないわよね。こういう時はさりげなく遠回りしたりするものでしょ。しかも何よ、その言い方は。まるであたしたちがケンカでもしているみたいじゃない。空気ってものがまるで読めてないんだから。ヤムチャよりさらにダメなやつよ、こいつは。
「5分後に着陸ね。全員、シートベルトを締めて」
これ以上的外れな茶々を入れられたくない。その一心で、あたしは操縦席からウーロンを追い出した。操縦桿を握って、風速メーターに目を落とした。…結構、風が強いわね。エアジェットで来るべきだったかしら。
暑い空気に、強い風。都とは全然違う環境だわ。

エアクラフトを地につけてキャノピーを開けると、涼しい風が頬を弄った。
「へえ…いい風が吹いてるのね」
体感温度が2度は下がるわ。暑いところの何がいいのかと思ってたけど、これなら納得ね。
ウーロンとプーアルが、一足先にエアクラフトを降りた。そしてさっさとカメハウスへと向かった。操縦桿にロックをかけ終えたあたしの耳に、ウーロンの叫び声が聞こえてきた。
「おーい。誰もいないみたいだぞー」
「ええ?そんなはずは…」
答えたのはヤムチャだった。タラップを下りようとしていたあたしの手を取りながら、困惑したように呟いた。惚けたように驚くその顔に、あたしの悪戯心が疼いた。
「あんた、歓迎されてないんじゃないの?」
言った途端にヤムチャが手を離した。そうしてその場に愕然としたように立ち竦んだ。…冗談の通じないやつね。こんなことであの亀仙人さんについていけるのかしら。まっ、ついていけなくてもあたしは全然構わないけど。
「冗談よ」
言いながらあたしもカメハウスへと向かった。ウーロンを退けて探ったドアに、ロックはかかっていなかった。
「なんだ、開いてるじゃないの。こんにちはー、誰か…」
「Hands up!」
ドアを開け放った瞬間、鼻先に銃が突きつけられた。視界を埋める黒く鈍い光。凝り固まったあたしの耳に、野太い女の声が響いた。
「全員手を上げろ。有り金全部出しな」
掬うように左手を差し出しながら、片口を上げて不敵に笑う金髪の女。…ランチさんだ。
「…あの。あたしたちヤムチャを送り届けにきたんだけど…」
あたしの言葉にも、ランチさんは眉一つ動かさなかった。
「そんなことはわかってる。だから金を出せと言ってるんだ。まさか、タダでここの敷居を跨げると思っていたわけじゃねえだろうな?」
冷や汗が出た。特に何をするつもりでもなかったから、小銭しか持ってきていない。カードで納得してくれるかしら…
ともかくもあたしがウェストポーチを弄りだすと、ランチさんがガンを持つ手を翻した。数回転させて銃口を上に向け、硝煙を吹き消す素振りをしてみせた。
「なんてな。冗談だよ。ビビったか?」
言うなり、がははと豪快に笑った。でも、あたしは笑い返せなかった。すっかり気圧されてしまっていた。…全然冗談に聞こえなかったわ。
「もう。悪い冗談はなしにしてよ…」
ウェストポーチから手を離しながら思わず溜息をついた時、視界の端からのんびりとした声がした。
「おやおや、みなさんお揃いで。ヤムチャさん、お待ちしておりました」
ランチさんの足元に、いつの間にかウミガメがやってきていた。…もう、遅いわよ。ランチさんより先に出てきてほしかったわ。
「やあウミガメ、世話になるよ。武天老師様とクリリンは?」
やっぱりいつの間にかあたしの後ろに来ていたヤムチャが、会話を引き取った。…こいつも遅いわ。それに妙に飄々としちゃってさ。何が起こったか気づいてないのかしら。鈍さと豪胆さって紙一重なのかしらね。孫くんもそうだし。鈍さって武道をやる人間に必要な資質なのかも。そうよね、あんな乱暴なスポーツ、まともな神経をした人間のやることとは思えな…
「きゃああああっ!!」
ふいに何かがお尻を撫でた。偶然触れたというにはあまりにも露骨なその感覚に、全身に鳥肌が走った。反射的に振り向いたあたしの目の前に、もう一人のまともじゃない人間の姿があった。咄嗟に声の出ないあたしの代わりに、ヤムチャが場を引き取った。
「あ、武天老師様…」
『あ』じゃないでしょ!
「何すんのよ、このエロじじい!!」
2人に対する怒りを篭めて、あたしは亀仙人さんの頭を殴った。武道の神様のはずの亀仙人さんは、あたしの拳をまともに受けた。
「ご挨拶じゃのう。会うたばかりだというのに…」
「それはこっちの台詞よ!!」
再び拳を振り上げたい衝動を押さえつつあたしが叫ぶと、亀仙人さんが一人の男を引っ張り出した。今の今まであたしの後ろにいたはずの、鈍いあたしの彼氏…
「つれないのう。老人を邪険にすると、おぬしのボーイフレンドを苛めるぞよ。こやつは今からわしの弟子なのじゃからな」
「勝手にすれば!!」
あたしは引かなかった。当たり前よ!どうして、あたしが身を呈してヤムチャを守らなくちゃいけないのよ。普通は逆でしょ!
亀仙人さんはそれ以上脅しつけてはこなかった。とはいえ改心したようにも見えず、わざとらしく舌打ちすると、口の横に手を当ててヤムチャの耳に囁いた。
「おぬしら、うまくいっていないのと違うか?」
「え…」
ったく、丸聞こえだっつーの。
…ヤムチャも、口篭ってるんじゃないわよ。

リビングのソファに座り込むと、ほどなくして芳醇な香りを発するカップが運ばれてきた。
「そろそろお茶の時間ですから、クリリンさんも戻ってきますわ」
ランチさんがにこやかな笑顔でそう言った。いつの間に変身したのかしら。訝るあたしの視界の隅に、何かの茎を持ったウミガメの姿が見えた。…ウミガメも、案外神経が太いわね。
「武天老師様、50セット終わりました。…あっ、ヤムチャさん。みなさんも来てたんすね」
玄関のドアが開いて、クリリンくんが入ってきた。その姿を一目見て、あたしは目を瞠った。
「なーにあんた、その格好?」
クリリンくんの背中には、大きな甲羅が背負わされていた。亀仙人さんの物とは微妙に色の違った、でも形はほとんど同じ甲羅。その姿はまるで…
ほっほっ、と愉快そうに笑いながら、亀仙人さんが言い放った。
「亀の甲羅じゃよ。60kgのな。ヤムチャ、おぬしにも背負ってもらうぞ。最初は20kgからじゃが」
「60kg!?」
驚くあたしたちの前で、クリリンくんがおもむろに甲羅を脱いだ。そして、さりげなくそれをドアの横に立てかけた。どしんと大きな音がして、壁にかかった絵が揺れた。
あたしはすっかり呆れ返って、亀仙人さんに訊いてみた。
「ひょっとして、それで『亀仙人』なわけ?何か他に逸話があったりとかは…」
「しないぞよ。それだけじゃ」
すっぱりと亀仙人さんが言い切った。何それ。そんなことでいいわけ?じゃあ、もし亀の甲羅じゃなくカタツムリの殻だったなら、『蝸牛仙人』って名乗るわけ?
再び呆れ返ったあたしをよそに、ヤムチャが立ち上がった。クリリンくんと声を交わしながら、甲羅を弄り出した。
すっかり気持ちが武道の方にいっちゃってるわ。一緒に驚いていたわりに、もう対応してるし。ひょっとして本当に豪胆なのかしら。それにしても…
危なっかしげな手つきでクリリンくんの甲羅を背負うヤムチャを見て、あたしは思った。
「あんた、全っ然似合わないわね、それ」
クリリンくんは体が小さいせいかなんとなくかわいく見えるし、亀仙人さんは板につきすぎちゃってるくらいだけど。ヤムチャってば、全然まったく似合ってないわ。なまじ見た目がいいだけに、ギャップがね〜…
「なんか、無理矢理被り物させられてる新入社員みたい」
父さんが時々社の方でやってるのよね、そういうこと。それで秘書はみんな辞めちゃうみたいだけど。まっ、ヤムチャが弟子を辞めちゃっても、あたしは全然構わないけど。
あたしが言うと、瞬時にヤムチャが体を強張らせた。その頬がみるみる赤くなった。あー、本当のこと言い過ぎちゃったかしら。あたしって嘘がつけないから…
「まあ、そのうち見慣れるわよ。だからそれまでがんばってね」
できるだけ優しい声音で、あたしは言ってあげた。ヤムチャがうまくやろうがやらなかろうが、あたしにとってはどうでもいいことだけど。でも、あたしの言葉でやる気が失せたなんて言われたら、たまらないからね。

あたしの心配は杞憂に終わった。
「ヤムチャ。おぬしは武道を何と心得る?」
「…は。それは強くあるために…」
一杯目のコーヒーを飲み終えた頃、亀仙人さんがおもむろにそれらしい話を始めた。ヤムチャはソファから下り床に正座をして、神妙にそれを聞いていた。
もうあたしのことなんて、全然目に入ってないわね。別れの儀式も何もなしに、始めちゃってるわ。ひどいったらないわよね。
「ブルマさん、コーヒーのお代わりはいかがですか?」
にこやかに微笑みながら、ランチさんがコーヒーポットを傾けた。手持ち無沙汰なあたしを気遣うように…っていうか、はっきりと気遣われてる。あたしは少し情けなくなった。
本人は全然気遣ってないのにね。本っ当に気が利かないんだから。
「ありがとう、ランチさん。でもいらないわ」
ウーロンはだらけきった格好でテレビを見ていた。プーアルは何をするでもなく、ソファに座り込んでいる。これ以上ここにいても時間の無駄。あたしはそう判断した。
「ねえ、あたしたちそろそろ帰るわ」
話し込む師弟に向かって声をかけると、ヤムチャがゆっくりと顔を上げた。それとは対照的に亀仙人さんが素早く腰を上げて、煩悩をほとばしらせた。
「なに、もう帰るとな?まだ陽は高いぞ。ゆっくりしていったらええ。ここは暑いでな、汗も掻いたじゃろう。シャワーでも浴びてさっぱりして…何だったら、泊まっていっても構わんぞよ。寝具の用意はできておらなんだが、よかったらわしの部屋で一緒に寝…」
「寝るか!!」
呆れと怒りの両方を感じながら、あたしは亀仙人さんの頭を殴った。武道の神様のはずの亀仙人さんは、またもやあたしの拳をまともに受けた。
…こんなことで大丈夫なのかしら。いくら武道に長けているといったって、全然生活に応用できてないじゃないの。それ以前に問題あり過ぎだわよ、このじいさんは。
それと、こんなじいさんを尊敬している(らしい)ヤムチャも。2人とも、感性に問題あり過ぎよ。
「あんた、あんまりこのじいさんに触発されないでよ。本当に頼むわよ!」
鈍いだけでも問題なのに、その上エロいなんて、あたしはお断りよ。そうなったら、本当に捨てるわよ。
「ああ…いや、えーと…」
とてもわかっているとは思えない返事を、ヤムチャはした。それを聞いて、あたしは非常に微妙な気持ちになった。
わかっている方がいいのか、わからない方が安心なのか。
こういう時は一体どっちなのかしらね…

「本当に帰るんっすか?ブルマさん」
「私の部屋でよろしかったら、お泊りになりませんか?お布団はご用意できますし」
カメハウスから一歩を出ると、今度は本当に好意からの声が次々にかけられた。それを嬉しく思いながらも、あたしは答えた。
「ありがとう。でも…」
言いながらヤムチャの顔を見た。しばらく来るなって言ったのよね、こいつ。当然、泊まるのもダメってことよね。どんな理由があるのかは知らないけど。結構、本気で言ってたし…
「せっかく、わざわざ都から来られたんですから。ごゆっくりなさって、明日お帰りになられては?」
ウミガメがのんびりとした口調でそう言うと、その主が嬉々とした声で追随した。
「そうそう。一緒に住んでいたボーイフレンドと3年間も離れるんじゃからな。さぞ淋しかろうて」
亀仙人さんの意図は見え透いていた。でも、その台詞に説得力はあった。一人を除く全員が、その言葉に頷いた。
そうよね。あたしがみんなの立場でも、きっとそう思うわ。泊まっていくよう勧めるわ。それでもし相手が断るようなら――
「でも、ヤムチャが…」
頷かなかったただ一人の人間の名を、あたしは出した。ヤムチャはというと、みんなの後ろですまなさそうに陳謝の手振りを取っていた。もう!
そんな顔してる場合じゃないでしょ!どうして黙ってるのよ。ちゃんと言いなさいよ。これじゃ、あたしが薄情な女みたいじゃない!最後まで気が利かないんだから!
「やっぱり帰るわ。またね。バイバイ」
温かな目をした一同に背を向け、あたしはカメハウスの前面にとめていたエアクラフトへと歩き出した。面と向かってヤムチャに文句をつける気は、不思議と起こらなかった。とはいえ数歩を歩いたところで思い直して、意思表示はしておいた。赤目を剥いて、舌を出して。
「べーだ!」
ふんだ。ヤムチャのバーカ!
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