纔進の男
カーテンの隙間から零れる光。耳に優しい小鳥のさえずり。遠くに聞こえる街の喧騒…
――ドッシーーーン!
「なっ…何!?」
休日の朝。ベッドの中でうつらうつらしていたあたしは、突如響き渡った大音響に意識を戻された。
咄嗟に窓から身を乗り出すと、遠く外庭の端に、もうもうと立ち込める土煙が見えた。すっかり呆気に取られながら、ベッドサイドの時計に目をやった。8時。こんな時間に外庭にいるのは…
「ヤムチャ!あんた、何してんの!」
ヤムチャは土煙が収まるのを待っていたようだった。あたしが外庭に足を踏み入れた時にはほぼ半視界となっていて、地面の上に横たわる伊吹の木と、その場から離れようとするヤムチャの姿が見えた。
「…あんた、何してんの」
当初の気持ちを一転させて、あたしは再び訊ねた。…逃げられると思ってるのかしら。どんなに知らん顔を通したって、こんな荒っぽい悪戯をするのはヤムチャしか――とりあえずうちには――いないのに。こんなに派手にやられちゃ、偶発犯扱いしてやることだってできやしないわ。
ヤムチャが足を止めた。呆れ返るあたしをよそに、ヤムチャは振り向きざましれっとした顔で言った。
「あ、ブルマ。おはよう。起こしちゃったか。ごめん」
「そんなことはいいから!」
「間伐だよ」
あたしの念押しに、今度こそヤムチャは答えた。あたしは再び呆気に取られた。
「間伐?」
「少し庭木を整理したいってブリーフ博士が言うから。そういう季節らしいぞ」
言いながら、ヤムチャは歩き出した。木立の中の、木と木に挟まれて少しばかり窮屈そうに伸び悩んでいる伊吹の木を、いきなり殴りつけた。幹に浅い切れ目が入った。ヤムチャに対する呆れは、父さんに対する怒りへと、すでに変わっていた。
…あの人、何てことさせるのよ。せめて道具を使わせなさいよ、道具を。手で木を倒すなんて、鈍感を超えた感覚だわよ、これは。
「ブルマはC.Cに戻ってろ。枝が飛ぶから危ないぞ」
そう言って、ヤムチャが木の向こう側に回り込みかけた。一瞬向けられた顔を見て、あたしは目を疑った。
「あんた!顔に傷ができてるわよ!!」
「ああ、ちょっとな」
ちょっとですって!
あたしの頭は今や完全に覚めていた。体もすっかり動き出した。さらに間伐を続けようとするヤムチャの手を、咄嗟に掴み取った。
「手当てしなくちゃ。ほら早く!」
「いいよ。このくらい放っておいても勝手に治る…」
「ダメよ。痕が残ったらどうするの!」
不服そうなヤムチャの声を、あたしは無視した。強引に腕を引いて、C.Cの中へと引っ張り込んだ。こいつ、わかってなさ過ぎ!鈍いことなんかとうに知ってたけど、自分の価値くらいわかりなさいよ。
あんたの価値は顔よ!こんなくだらないことで、それを捨てないでほしいわね。

医務室の医療ボックスの中から、即効性の、一番強い薬を取り出した。
絶対に治さなきゃね。あたしの人生にも関わることよ、これは。
「う…なんかすっごく染みるぞ、これ」
「男だったら我慢しなさい!」
引け腰になるヤムチャの体を、あたしは声で制した。わかんない感覚してるわよね、こいつも。こんなのが痛いのに、手で木を切りつけることは平気なわけ?無神経というよりも、神経が混線してるんじゃないのかしら。
「はい、終わり。いい?怪我したらすぐに教えなさいよ」
あたしが言うとヤムチャは頬のガーゼを擦りながら、なおも言ってのけた。
「こんなの怪我でもなんでも…」
「何言ってんの!」
本当は手で木を切ること自体、止めさせたいところだけど。きっと無理よね。
ヤムチャのトレーニングはいつもほとんど変わらない。やっていることも、その時間も。でも、最初の頃と一つだけ違っていることがあることに、あたしは気づいていた。
いつの間にか、剣技ってやつをやらなくなっているのよ。どうも肉弾戦一本に絞り込んだみたい。調べてみたら、武道と剣術って、別物なのよね。…あれ、格好よかったのに。孫くんだって如意棒を使ってるんだし、別にいいと思うんだけどな。
とにかくも、こいつなりの拘りってわけよ。そして、拘りがあるのはいいことよ。特にヤムチャみたいな、流されやすいやつにとっては。
そんなわけで、ヤムチャの無茶なやり方を無理矢理やめさせる気は、あたしにはなかった。でも、ある必要性を感じてはいた。
…監視する必要があるわよね。
できるだけ乱暴なことはしないように。怪我しないように。特に顔には絶対に。とはいえ、ヤムチャが大人しくそうさせてくれるとも思えない。わざわざ手当てしてあげてる今でさえ、不満そうなのに。…こいつって、本当に格好つけなんだから…
「あの…」
ふいにヤムチャが呟いた。窺うようにあたしを見るその顔を、あたしは一時解放してやることにした。
「ああ、はいはい。もう行っていいわよ。でも、くれぐれも無茶しないでよね」
とにかく数時間の間は、ヤムチャの顔にこれ以上傷がつかないよう願うしかない。
神様、頼むわよ。


「よーし、完成!」
部屋に篭ること一時間。数ヶ月間温めてきたあたしの目論見は、今や実物となってデスクの上に鎮座ましましていた。
手の平に収まる、手の平サイズに人間の体を縮小する夢の装置。――その名もミクロバンドよ。
一見したところ腕時計にしか見えない、さりげない外見。複雑な作用をたった2つのスイッチで操作する、シンプルな機構。やっぱり、あたしって天才ね。世界の宝物だわ!
さっそく試運転よ。ま、問題なんてないに決まってるけど。
ミクロバンドを左腕に嵌めて、青色のスイッチを押した。半瞬の後に、あたしの視界が様変わりした。
果てのない天井。数百mおきに林立する4本の柱。目の前に転がる金属のタイヤ。見たところ体に異常はない。成功よ!やっぱりあたしって天才――
「ふぎゃ!」
突然、体の上に何かが圧し掛かってきた。背中に掛かる異常な重みに耐えきれず、あたしは地に叩きつけられた。ついた両腕に力は入らなかった。
なっ…何!?何これ!し、死ぬーーー…
自由だけは利く右手で赤いスイッチを押した。半瞬の後に、あたしの視界が様変わりした。
汚れ一つない真っ白な壁。鈍く光るデスクの脚。目の前に転がる六角ナット。背中に感じる僅かな痛み。…戻った。ふうー…
「あらあらブルマさん、そんなところで何してらっしゃるの?」
頭の上から声がした。あたしを踏みつける能天気な女の顔を、あたしは上目に睨みつけた。
「母さん、足どけてよ!一体いつ部屋に入ってきたのよ!?」
「今よ。ブルマさんてば、キーテレホンにお返事しないから…」
「だからって、勝手に入ってこないで!」
あたしの当然の批難は、母さんのいつもの笑顔にかわされた。
「ブルマさんこそ、勝手に小さくなってちゃダメよ〜。お返事できないならできないって、ちゃんと教えてね」
愕然とした。母さんの矛盾した言葉にじゃない。勝手な言い分にでもない。
「…どうして小さくなってたのか、訊かないの?」
どうして驚かないのよ。人間が手の平サイズに縮小したのよ。信じられない光景よ。世紀の大発明よ!
あたしが言っても母さんは笑顔を崩さず、平然として答えた。
「新しい発明品ね。ブルマさんもパパに似て、頭がよろしいわね〜」
「……」
「お茶のお時間よ。ウーロンちゃんとプーアルちゃんはテラスに来てるけど、ブルマさんはお部屋でお茶になさる?」
「…テラスに行くわ…」
やっとの思いで、あたしは言葉を口にした。…母さんだからよ。この人はボケているから、事のすごさがわからないのよ。きっとそうに決まっているわ。
溜息を殺しながら、あたしは立ち上がった。さっさと部屋から出て行こうとする母さんに、その必要性を感じないながらも、一応釘を刺した。
「母さん。この発明品のこと、誰にも言わないでね。ヤムチャにもよ」
「あらん。内緒ごと?ブルマさんたらいけない人♪」
「…何でもいいから。頼んだわよ」
「はいはい」
まったく気の入らない返事をする母さんに、あたしは一切の不安を抱かなかった。
…どうせ、すぐに忘れちゃうに決まっているわ。全然わかってないんだから。本当にすごいことなのに。質量保存の法則を、あたしは覆したのに…
「パイが冷めないうちに来てね、ブルマさん」
さらにダメ押しとも言える台詞を吐いて、母さんは部屋を出て行った。

とにかく、小さくなっていたあたしは母さんに存在を気づかれなかった。その事実だけに、あたしは目を向けることにした。
テラスへ行くと、ちょうど外庭の方角からヤムチャがやってくるところだった。その顔に、あたしがつけたガーゼ以外の異物はなかった。よしよし。どうやら神様はいたようね。
あたしがコーヒーカップに口をつけた時、プーアルが驚いたように口を開いた。
「ヤムチャ様!どうなさったんですか、そのほっぺた!」
「うん、何、ただの擦り傷だ。たいしたものじゃないよ」
おもむろに言い放つヤムチャの言葉に、あたしは決心を固くした。
何が『たいしたものじゃない』よ。大問題だっつーの。あんたの存在価値を左右する大事よ。もっと自覚しなさいよ!
「ごちそうさま」
あたしは他の誰よりも早くお茶を切り上げ、テラスを後にした。そしてC.Cの裏手を回って外庭へ行き、ミクロバンドを起動させた。
先回りよ。絶対に見張っててやるんだから。


草葉の陰に隠れること十数分。やがてヤムチャがやってきた。
のんびりと外庭の中央を横切って、朝いたのとは別の場所へ歩いていった。あたしはその後を、草の陰に隠れながら駆け足で追いかけた。
なんだかちょっと楽しいわね。あたし、女スパイみたいじゃない。『君の使命はあの男を追跡することだ!』――なんちゃって。
ヤムチャが足を止めた。慌てて草地に伏せながら上目に見ていると、木立の内側に一本だけはみ出たように生えていた立ち木を、いきなり殴りつけた。幹に切れ目が入った。1、2…さらに数度続けて殴りつけると、手を止めて切れ目を検め出した。それから数歩を下がって、鋭い声を上げた。
「はっ!」
声に引かれて上を見上げたあたしは、木の枝の間から漏れる一瞬の日差しに眼を射抜かれた。思わず細めた目に、蹴りを放つヤムチャの姿が見えた。
ドッシーーーン!
地に音が鳴り響いた。大木とはいかないまでも2階ほどの高さのあった木が、僅かに根元を残して地面に倒れ込んだ。かあっこい〜い。…いえ違った。なんてやつなの。こんなの人間業じゃないわよ。孫くん並の異常さよ。野生児もいいところじゃない。
ヤムチャは腕を組むと満足そうな笑みを浮かべ、少しの間木の根元に佇んでいた。やがて腕を解いて、また別の場所へ歩き出した。
今切り倒した木から少しだけ離れた、木立の中。そこへおもむろに入っていくと、再び幹を殴りつけた。様子を見るようにもう一度殴りつけて、また叫んだ。
「はっ!」
何をするのかわかっているにも関わらず、あたしはまたもや頭上を見上げた。ヤムチャが蹴りを入れると、木が傾ぎ出した。さっきの木とは違って躊躇うように揺れる幹に、ヤムチャが再び蹴りを入れた。
ドッシーーーン!
鈍い音が地に響いた。今度こそ木は倒れ込んだ。もうもうと立ち込める土煙の中で、ヤムチャが微かに首を傾げた。
「う〜む…」
あたしはすっかり呆れ返った。
なんなの、その値踏むような淡々とした声は。あんた、一体どこのきこりよ。頼むから、そんなものにはならないでよ。
ヤムチャが再び歩き出した。あたしは半ば惰性で、その後を追った。正直なところ、初期の目的は薄れてきていた。

何度目かのジャンプを、ヤムチャがした。あたしはもう、視線を上げなかった。
…飽きちゃった。
だって、同じことの繰り返しなんだもの。手で切りつけて、蹴りを入れて、そればっかり。ヤムチャってば、よく飽きないわね。そりゃあ格好いいけどさ。だからって、いつまでも見続けていられるものじゃないわよ、これは。
すでに陽は高くなり始めていた。…しまった。日焼け止めクリーム塗ってこなかったわ。こんな庇のないところに一日中いたら、肌が荒れちゃうじゃない。第一、今日は休日なのに。休日を一日こんなことで潰すって、どうなのよ。怪我なんか、全然しそうにないし。むしろ、怪我をするような人間であってほしいくらいのものだわ。
そんなわけで、あたしはC.Cの中に戻ることにした。はっきり言って、付き合ってられないわ。ヤムチャにも、もう少ししたら切り上げさせようっと。きこりが天職だなんて、言い出されたくないし。せっかくの休日なんだもの、木なんか切ってないで、あたしに構うべきよ。ひさしぶりに映画でも観に行こうかな…
そんなことを考えながら、部屋のデスクの上を片付けた。出しっ放しにしていたツールをツールボックスにしまい込み、あたしの最も嫌いな『床の上に散らばるパーツ拾い』をするため、腰を落とした時だった。
ガッシャーーーン!
派手な音を立てて、窓ガラスが割れた。同時に、数本の木の枝が部屋に飛び込んできた。
「なっ…何!?」
咄嗟にデスクの下に潜って、様子を窺った。…地震!?
とはいえ、待てども待てども揺れはやってこなかった。デスクの下から這い出して窓の方に目をやると、割れた窓の左からこんもりとした木の枝の塊が突き出ていた。きれいさっぱり割れ切った中央部から身を乗り出すと、その正体がわかった。部屋のすぐ外に生えていた立ち木。それが一本根元から折れて――
「ヤムチャ!」
――少し離れたところに、男が一人うつ伏せに倒れていた。


運搬ロボットを起動して、ヤムチャを医務室に運ばせた。その間、ヤムチャは一度も目を開けなかった。気絶している…のよね。きっとそうに決まっているわ。
キーテレホンで1階の庭にいた父さんを呼び出した。父さんは手際よく医療ロボットを起動させ、電極を10本ヤムチャの体に繋ぐと、こともなげに言った。
「とにかく診察しようじゃないか。でも大丈夫、きっと命に別状はないよ」
「当たり前よ!」
こんなくだらないことで死なれてたまるもんですか!もしそうだったら、実の父親でも訴えてやるわ!
誘導心電図の波形は正常だった。肢誘導も胸部誘導も問題なし。でも、じゃあどうして目を覚まさないの?まさか…
考えたくもないことをあたしが考え始めた時、ベッドの上から蚊の鳴くような声がした。
「…あの。博士、ブルマ…」
「ヤムチャ!」
振り向くとヤムチャが少しだけ頭を動かして、弱々しげな瞳でこちらを見ていた。
「大丈夫!?」
「ああ、うん。悪い、なんか大げさに倒れちゃって…」
やっぱり弱々しげにヤムチャは答えた。紅潮した頬と青ざめた額を、あたしは怒鳴りつけた。
「何言ってんの!悪いのは父さんでしょ!父さんが無茶なことさせるから…!」
「いや、少し目が眩んだだけだよ。もう大丈夫だ。すいません博士、手間をおかけして…」
さらに弱々しげに笑いながら、ヤムチャは言った。その態度に、あたしはすっかり腹が立った。
何だってこいつは、こんな時までお人好しなのよ。しかもどうして、父さんなんかを気遣うのよ。どうせなら、心配してたあたしを気遣いなさいよ!おまけに…
「ダメ!まだ寝てなさい!!」
右手首の電極を外そうとするヤムチャの腕を、あたしは押さえつけた。…おまけに、自分のこともわかってない。得意気にきこりの真似なんかするから。間伐なんて、木材業者に任せておけばいいのよ。それを、父さんに踊らされて安請け合いするから…無茶なことばっかりするから。だから倒れちゃったりするんでしょ!
あたしが睨むと、ヤムチャは黙った。そして、困った時によくそうするように、右の手で頭を掻きかけた。でもその腕をあたしが押さえつけていたので、実際には軽く頭を振っただけだった。…そうそう、それでいいのよ。あんたはしばらく大人しくしてなさい…
あたしが息を吐いた時、それまで医療ロボットのモニターをチェックしていた父さんが、唐突に言った。
「急性胃腸炎だね。アデノウイルスだ。100%の診断結果だからね、人医を呼ぶまでもないと思うよ」
「胃腸炎?」
思わず復唱したあたしの声は、まるっきりヤムチャと被っていた。淡々と父さんは続けた。
「そうだよ。熱が40度あるね。嘔吐感とか腹痛とかはないのかい?」
「いえ、何も…」
淡々と、ヤムチャは答えた。あたしの心に新たな怒りが沸き起こった。
「何それ!バッカじゃないの!?あんた鈍すぎ!!」
気づいた時には叫んでいた。だって、そうでしょ!
「普通、熱が40度もあったら気づくでしょ!それがどうして、のんきに木なんか切ってるのよ!!この体力バカ!鈍ちん!!」
信じられない感覚よ。一体どういう神経してるのよ!ひょっとしてないんじゃないの!?無茶する以前の問題よ!!
即座に電極を外した。こんなもの必要ないわよ。急性胃腸炎っていったら、ほとんど嘔吐下痢症じゃない!それが自分で気づかないばかりか、症状も出ないなんて。何なの、その無駄に楽な体は!…あー、心配して損した!
電極を医療ロボットに戻して、点滴装置を引っ張り出した。体が自由になったと見るや、ヤムチャが上半身を起こした。…もう、本当にこいつは…!
「いや、だるいなとは思ったさ。でも暑かったし、間伐し通しだったから疲れのせいかと…」
「何が疲れよ!あんなに淡々と切りまくっていたくせに!!」
一体、強靭ぶりたいのか、そうじゃないのか。さっぱりわからないその声を、あたしは制した。あたしがそのことに気づく前に、ヤムチャが言った。
「どうして知ってるんだ?」
あたしは瞬時に口を閉じた。…ヤバイ。思わず言っちゃった。だって、だって…こいつってばさあ…
ヤムチャの言葉は無視して、点滴管をヤムチャの右腕に当てた。この上は無言を貫くに限るわ。だいたい、今はそういうことを言っている場合じゃないんだから。
「そんなことしなくても大丈夫…」
「何言ってるの!熱が40度もあるのよ!絶対安静よ!!」
普通の人間ならね!
再び強靭ぶり出したヤムチャの声を、あたしは切り捨てた。…こいつ、わけわかんない。もう付き合ってられないわ。
二の腕の静脈に、注射針を差し込んだ。途端にヤムチャが悲鳴を上げた。
「い…いってぇーーー!!」
「男だったら我慢しなさい!」
痛いのは生きてる証拠よ!だいたい、鈍いくせしてこんな時だけ痛がってるんじゃないわよ!!
引け腰になるヤムチャの体を、ベッドに押しつけた。…どういう感覚してるのよ、こいつ。手で木を切り倒した挙句に、高熱にも気づかないくせして、注射なんかが痛いわけ?…医療ロボットって、こういうやつのためにあるのかもね。本人の言葉なんて、全然当てにできないわ。
注射針の下にアルコール綿を詰めて角度をつけ、翼状針を固定すると、ヤムチャはさらに顔を顰めた。それを情けなく思いつつチャンバーを確認した時、所在なげにあたしたちを見ている父さんの姿が目に入った。
「はい、終わり。父さんはもう行っていいわよ。後はあたしがやるから」
「そうかい。じゃあ、まかせるよ」
やれやれといった風で、父さんは医務室を出て行った。その後姿を見ながら、あたしは思った。
あたしだって、解放されたいもんだわよ。でも、無理よね。
こいつは、自分の体調さえわからないほど鈍感なんだから。目を離したら、また無茶し出すに決まってるんだから。
監視する必要あり過ぎよね。まったく、面倒くさい男だわよ。

深部温モニターを起動して、プローブを右足首に取り付けた。枕元にはミネラルウォーター。点滴用高カロリー輸液を数袋。
絶食して腸管を休ませる以外に、急性胃腸炎の治療法はない。もっと早くに気づいていたら、午前のお茶だって飲ませなかったのに。ヤムチャってば本当に鈍感なんだから…
「はい、解熱剤。吐き気がないなら飲めるわよね。水は飲んでいいわよ。物は食べちゃダメ。熱が下がるまで高カロリー点滴を続けるからね」
あたしが言うと、ヤムチャはさして気がなさそうに、ぽつりと一言呟いた。
「それだけか?」
「それだけよ」
溜息を呑み込みながらあたしは答えた。…それだけのことに手こずらせてくれるわよね、こいつも。だいたい40度も熱がありながら、どうしてこんなに平然としてるのかしら。確かに顔色はいつもと違って見えるけど。それにしても…
「ねえヤムチャ、あんた本当に気分悪くないわけ?」
「ああ、全然」
溜息をつかせるようなことをヤムチャは言い、あたしは遠慮せず溜息をついた。…『バカは風邪引かない』って言うけど、あれはひょっとして『バカは風邪を引いても気づかない』の間違いなんじゃないかしら。こいつ、絶対に風邪を引いても気づかないわよね。っていうか、すでに今までにも引いていたのかも。ただ気づかなかっただけとか…
スツールに腰掛けながら、両腕を伸ばして伸びをした。…あー、何だか疲れたわ。
「なあ、退屈だろ?俺、本当に大丈夫だから、ついててくれなくていいぞ」
ふいにヤムチャが呟いた。あたしは思いっきり顔を顰めさせて、それに答えた。
「そんなこと言って、あたしがいなくなったら起きる気でしょ。そうはいかないわよ」
「そんなことしないって…」
どうだか。
ヤムチャがのんびり昼寝をしているところなんて、見たことないわ。熱があったって本人はいつも通りなんだもの、いつもはしていないことをするなんて思えるはずがないでしょ。
それに加えてあたしには、自分の部屋には戻りたくない理由が一つあった。
「もう今日はずっとここにいるわ。何と言われても、部屋にはぜーったい戻らない!」
わざとらしく言ってやった。少しは自分の状態が異常なんだってこと、ヤムチャにわからせなきゃね。
一瞬、ヤムチャが目を丸くした。でもすぐにいつもの惚けた表情となって、あたしに訊いてきた。
「何かあったのか?」
「あたしの部屋はめちゃくちゃよ!窓は割れてるわ、ガラスは飛び散ってるわ、木は突っ込んでるわ、葉っぱだらけだわ、パーツはぶちまけられてるわ――あんたのせいよ!!」
まあ、少しは自分のせいだけど。とにかくあの部屋を片付けるなんて、あたしはごめんよ。どんなに時間がかかったって、掃除ロボットにやらせるわ。
あたしが言い切るとヤムチャはようやくわかったらしく、少し頭を低くしてあたしを見た。
「ご、ごめん。最後の目論見を誤ったんだ。次からは気をつけるから…」
…あんたね。
完全に方向の間違えた陳謝の言葉にあたしが呆れ返った時、医務室のドアが開いた。
「ヤムチャ様!ご無事ですかー!!」
ヤムチャの従順な僕が、文字通り飛び込んできた。ベッドの上のヤムチャへとそのまま抱きつこうとするプーアルを、あたしはすんでのところで止めた。
「触らないほうがいいわよ。感染するかもしれないから。あんたは体が小さいんだから、感染したら生死に関わるかもしれないわよ」
「えぇっ…!」
一声上げて、プーアルは絶句した。でも、プーアルが心配しているのは、自分の体じゃない。それがあたしにははっきりとわかった。
「ヤムチャは大丈夫。こんな鈍感なやつ、殺したって死なないわよ」
「よかった…ヤムチャ様…」
あたしの皮肉はプーアルには通じなかった。聞こえてさえいなかったのかも。素直というかなんというか…似合いの主従よね。
ヤムチャがミネラルウォーターに手を伸ばした。プーアルはあたしの言葉に従う気はないようで、コップを取るとそれをヤムチャに手渡した。そしてミネラルウォーターを注ぎ出した…ま、一応触ってはいないか。
半ば呆れながら主従のやり取りを黙認していると、たいして心配そうな顔もしていなかったウーロンが、嫌味なのか冷やかしなのかわからない口調で呟いた。
「そう言うおまえはいいのかよ。ずっとここにいるんだろ」
「あたしは平気よ。こんな鈍感なやつのウィルスなんか、うつりゃしないわよ」
そもそも本当にウィルスがいるのかどうかすら、怪しいもんよ。まったくいつも通りでさ。
ウーロンは何も言い返さなかった。おそらく、何も考えていなかった、というのが本当のところね。プーアルはしばらく居座るようで、部屋の隅から2つ目のスツールを持ち出して、ベッドの横に設えた。あたしは少しの間、監視役を明け渡すことにした。
「あたし、ちょっとコーヒー飲んでくる。点滴が終わる頃また来るから。あんたたち、ここで食べ物食べちゃダメよ。部屋から出たらきっちり手を洗うのよ」
ミネラルウォーターのボトルを体に抱えたまま、プーアルが頷いた。コップに口をつけながら、ヤムチャがあたしの顔を見た。ウーロンがいつもの気のない表情で、あたしの空けたスツールに座った。3人の醸し出す雰囲気に、あたしはうっかり錯覚してしまいそうになった。
ここが医務室ではなく、いつものお茶の時間のリビングだと。…本当に、こいつら緊張感がないったらないんだから。




一時間ほどして医務室に戻った時、部屋の雰囲気はまったく変わっていなかった。
スツールの上にプーアル。ベッドの上には、弱気な表情を覗かせているヤムチャ。その脇から白けきった顔であたしを見ているウーロン…
「何よ、あんたたち。まだいたの」
あたしは言葉を隠さなかった。
呆れるわね。ここは医務室だってのに。そりゃヤムチャはどうしたって元気そうに見えるけど、普通は長居しないもんでしょ、こういう時は。
2人を追い出しにかかる前に、ちらと深部温モニターに目をやった。測定値は41度。
「熱が下がらないわね…」
ヤムチャみたいな体育会系の人間には、案外薬が効いたりするものなんだけど。ずっと起きてるせいかしら。それとも深部温モニターそのものが壊れてるとか。…あり得るわね。41度も熱があって、こんなにけろっとしているはずがないもの。
そこであたしは古来よりの方法に則って、ヤムチャの額に手を当ててみた。…熱い。さらに念を入れて、自分のおでことくっつけもしてみた。…やっぱり熱い。確かに熱はある。そうよね、頬だって赤く見えるし。科学の力を疑うなんてどうかしてたわ。おかしなのはヤムチャの方よ。
「何?」
ふと、ねめるようにこちらを見ているウーロンの視線に気がついた。あたしが声をかけると、ウーロンは口を尖らせながらも慌てたようにベッドから離れて、ドアの方へと後退った。
「べ、別に…じゃあなヤムチャ、ゆっくり休めよ。プーアル、行くぞ」
「あ、うん…ではヤムチャ様、お大事に」
あたしが追い出すまでもなく、2人は出て行った。素直すぎる2人(特にウーロン)の態度にあたしは眉を顰め、足音が廊下の向こうに遠ざかるのを待った。やがて静寂がやってきた。おそらく本物の。
「さ、ヤムチャ。あんたは寝なさい」
意識を室内に戻してそう言うと、ヤムチャが目を丸くしてあたしを見た。
「…いや、いきなりそんなことを言われても。今全然眠くないし…」
「あんたねー」
もうあたしは呆れも隠さないことに決めた。
「どうしてそう無駄に強いのよ!看護しがいのないやつね!」
普通は41度も熱があったらね、だるくて辛くていっそ眠りたいと思うくらいのものなのよ。一体、どこまでズレてるのよ、こいつは!
ふいに室内にブザーの音が鳴り響いた。点滴終了5分前の合図だ。デスクの上から新たな輸液パックを取り上げ点滴装置に手をかけて、あたしははたと考えついた。
…いっそ、薬を使おうかしら。放っておいたらこいつ、きっと夜までだって起きているに違いないわ。
薬品庫へ行って、睡眠薬の棚を開けた。ベンゾジアゼピン系…ダメね。本人に寝る気がないんだもの、きっと効かないわ。ベンゾジアゼピン系は不安・興奮を抑制する…ったって、そんなものどう見たってなさそうだし。まったくいつも通りよ。本当に鈍感なんだから。となればバルビツール系か。そこまでするほど重症じゃないんだけどな。副作用も気になるし――
再び深部温モニターに目をやった。測定値は41度。
――やっぱり使っちゃお。副作用なんて気にしてる場合じゃないわ。ヤムチャのことだもの、あってもきっと気づかないわよ。本人が気づかなきゃ問題なしよ。…あんまり高熱が続くとね、本当のバカになるのよ。勝手になればって言いたいところだけど、そうはいかないわ。
こいつはあたしの彼氏なんだから。あたしの青春を左右する大問題よ、これは。
あたしが思考を実行に移しても、ヤムチャは何も言わなかった。…こいつ、典型的な絶対服従タイプね。そういうところは楽でいいわ。ついでにデータも取っとこ。今後何かの役に立つかもしれないし。
点滴に睡眠薬を追加して5分ほど経つと、ヤムチャが目を閉じた。そしてほとんど一瞬にして、寝息をたて始めた。…ちょっと量が多すぎたかしら。依存性になったらどうしよう。ま、いっか。どうせ気づかないわよ本人は。
念のため医療ロボットを起動させ、電極を10本、ヤムチャの体に取り付けた。医療ロボットのアラームと点滴装置のブザーの音量を最大にして、ベッドの上にうつ伏せた。
できれば何事も起こりませんように。神様、頼むわよ。
そう心の片隅で呟きながら、あたしも目を閉じた。

あたしが目を覚ました時、窓の外は夕陽に満ちていた。壁の時計に目をやると、もうじき2時間になるというところだった。
ヤムチャはまだ寝息をたてていた。ラッキー。今のうちに電極外しちゃお。…異常がなければだけど。
誘導心電図の波形は正常だった。肢誘導も胸部誘導も問題なし。よしよし。神様はいたようね。
できるだけ静かに電極を外した。つもりだったのだけど、胸部誘導の電極をまず外し、次に肢誘導へと移った途端に、けたたましくアラーム音が鳴り出した。
しまった。アラーム片っぽ切り忘れた。っていうか、医療ロボット自体をオフにしておけばよかった。もう必要ないんだから。
ヤムチャが身動ぎした。あたしは瞬時に残りの3本を引っ張がした。電極を医療ロボットに差し込んだ瞬間、背後から吐息が聞こえた。
ベッドへ体を向けながら、片手で医療ロボットを停止させた。まさしくギリギリセーフ。…神様、ありがとう。
ヤムチャは2、3度ぱちぱちと目を瞬かせると、ゆっくりと上半身をベッドに起こして、ぐるりと部屋を見回した。どことなくどんよりとしていた目は、あたしと目が合った瞬間見開かれた。
「…ブルマ。ひょっとして、ずっといたのか?」
「うん、まあね」
あたしはすっかり安心しながら、スツールに腰を下ろした。ヤムチャってば、全然気づいてないみたいね。よかった。こいつが鈍くって。
ふと、ヤムチャがサイドテーブルに手を伸ばした。電極線にぶつからないよう少しだけ遠ざけておいたミネラルウォーターのボトルをあたしは手にとって、中身をコップに注いだ。そして、あたしの手渡した水を黙って飲むその顔を、2時間ぶりに観察した。
伏目がちにあたしを見るヤムチャの顔は、相変わらず赤かった。まだかなり熱があるわね、これは。意外と頑固ね。鬼の霍乱ってやつかしら。
ふいにブザーの音が鳴り響いた。点滴終了5分前の合図。あたしが新たな輸液を取るためデスクへと足を向けた時、ドアのコンソールから声が届いた。
「ヤムチャ様、お加減いかがですか?」
プーアルだ。律儀よねえ、こいつも。あれから2時間しか経ってないのに。おまけに気が早いわ。そんなにすぐ良くなるわけないでしょ。あれから2時間しか経ってないのに。
ドアが開くと共にプーアルはベッド脇へと飛んできて、すぐさま2つ目のスツールを引っ張り出した。ついでのようにやってきていたウーロンは、なぜかヤムチャではなくあたしをまじまじと見ていた。
「何よ?」
「別に〜」
あたしの当然の質問にウーロンは白々しい声音で答え、今まであたしが座っていたスツールに腰を下ろした。図々しいわね、こいつ。看護してる人間から席奪ってんじゃないわよ。
「ちょっと、ウーロ…」
口を開きかけたあたしを、プーアルが呼び止めた。
「ブルマさん、ヤムチャ様の具合はどうなんですか?」
「そうね、あまり変わらないわ。熱は…」
答えかけて、あたしは口を噤んだ。…熱、何度だっけ。
見てないわね、そういえば。昼寝から起きてから。それどころじゃなかったし。なのに、思いっきり惰性で点滴追加しようとしちゃってたわ。危ない危ない…
とりあえず輸液交換は後回しにして、深部温モニターへと目をやった。そこに示された数値を一目見て、あたしは目を疑った。
「あら?何よ、熱ないじゃない」
モニターは36.6度を計測していた。ヤムチャが異常に平熱の低い人間じゃなければ、どう見たって平常値…
「うっそ、マジ?もう下がっちゃったわけ?2時間で?」
信じらんない。
そりゃあ睡眠取らせたけどさ。解熱剤だって飲ませたけどさ。いくらなんでも効き過ぎだわよ。確かに体育会系の人間にはそういうところあるけど、それにしたって…
「あんた、一体どういう体してんのよ?」
あたしが言うと、ヤムチャは呆然としたように目を丸くしてあたしを見た。いやあんた、それはあたしのすることだって。
こんな人間見たことないわよ。いつからあったのか知らないけど、一時は41度もあった熱が2時間で平熱まで下がるなんて。…深部温モニターが壊れているのかしら。
あたしが再び科学の力を疑い始めた時、ウーロンが横から顔を覗かせた。
「なあ。今度はやらないのか?」
「何を?」
わけがわからずあたしが訊くと、ウーロンは唇の端にいやらしい笑みを浮かべて嘯いた。
「検温だよ。こう、顔と顔をくっつけてよ。そのままぶちゅーっとやっちゃったりなんかして…」
「なっ…」
ベッドから叫びが漏れた。おそらくはあたしと同じ表情をしている男の顔を、あたしは見返さなかった。
「やらしいわね、あんた!そういうことしか考えられないわけ!?」
「何言ってんだ。自然な流れだろ」
どこがよ!
ぬけぬけと言い放つウーロンの目を、あたしは睨みつけた。こいつ、変なビデオの見過ぎ!医務室を何だと思ってるの!…確かに、ヤムチャは全然病人らしくないけど。41度の高熱から生還した人間にはとても見えないし。41度って言ったら、普通は生と死の狭間なのに…
「ウーロン。…そのへんにしとけよ」
ふいに視界の外から加勢が入った。まったく期待していなかったその声の主を返り見て、思わず体が固まった。
ヤムチャは依然ベッドに半身を起こした状態で、眉間に深く皺を寄せていた。伏せ気味の目は呆れているというよりも、怒っているように見えた。どうしちゃったの、こいつ。ウーロンの横言に文句をつけたことなんて、今まで一度もなかったのに。いつだってあたしに任せっきりでさ。…睡眠薬の副作用が今頃現れたのかしら。
とはいえヤムチャらしいと言うべきか、その声音は荒いではいなかった。静かに少しだけ重々しい口調で、一音を付け足した。
「な?」
「ちぇっ。わかったよ」
舌打ちを漏らしながらも、ウーロンは素直に引き下がった。これも今までになかったことだ。でも、あたしにはその理由がわかった。
原因を知ってるあたしでさえ、驚いたんだもの。何も知らないウーロンが、驚かないはずないわ。
ヤムチャが大きく息を吐いた。次の瞬間けたたましくブザーが鳴って、あたしは我に返った。点滴終了の合図だ。少しだけ考えて、あたしはヤムチャの腕を取った。
もう点滴は必要ない。熱は下がったんだから。別の問題が出てきたけど。…どうしよう。
「プーアル、ウーロン、あんたたち、ちょっと席を外して」
「あいよ」
「ヤムチャ様、また来ますね」
プーアルはともかく、ウーロンはまたもや素直に引き下がった。その理由が、あたしにはわかった。
きっとヤムチャのおかげね。…本当に、どうしよう。

点滴装置を片付けて、再び深部温モニターに目を落とした。測定値は37度。まあ、平熱の範囲内ね。
深部温モニターをもオフにして、スツールに腰を下ろした。そしてさりげなく問診を開始した。
「ねえ、ヤムチャ。…えっと。どこかおかしなところはない?」
「おかしなところって?」
「だからその。気分とか。体とか…」
…頭とか。
あたしの言葉に、ヤムチャは不思議そうな顔をした。まったく、そうしたいのはあたしの方よ。
でも、隠さなきゃ。こんなことがバレたら訴訟ものだわ。ヤムチャはともかく、プーアルが黙ってないに決まってる…
「どこも何ともないよ」
あっけらかんとヤムチャは答えた。ふーん。本人に違和感はないのね。問診にも気がついていないみたいだし。鈍いところはそのままか。なら、放っておいてもいいかな。事を明るみに出したって、誰も得しないものね。あたしの人生が狂うだけだわ。
あたしは気持ちを固めた。その時、ふいにヤムチャが相好を崩した。
「ブルマも意外と心配性だな」
そう言ったかと思うとおもむろに手を伸ばして、あたしの髪に触った。横髪を、指先で梳くように弄び始めた。…えぇーっ!?何これ!!
どうしちゃったの、こいつ!人格変わっちゃったの?こんなこと、今までただの一度も――するどころか、したいような素振りすら見せなかったのに。やっぱり副作用?そんな…!
愕然としながら、あたしは視線を泳がせた。あたしの髪を黙って撫でるその指の持ち主を、至近距離に観察した。あたしに注がれる、柔らかく緩やかな笑み。端整な顔立ちに浮かぶ、優しい漆黒の瞳。あたしを惑わせる、ちょっぴり悪戯な指先…
…いいかも。すごくいいかも。元のヤムチャとだったら、こんなこといつになったらできるのかわかんないし(ひょっとすると永遠にできないかも)、あたしに従順なところは変わってないみたいだから構わないわ。だいたい変わったって言ったって、少し男らしくなっただけで。少し色気づいただけで…
『自然な流れだろ』
ウーロンの言葉が思い出された。そうよね、自然な流れよね。ヤムチャは41度の高熱から生還した男で、あたしは彼を親身になって看護した彼女。そうなって当然よね。それを否定するなんて、あたしがどうかしていたわ。ウーロンがおかしいんじゃない。あたしが元のヤムチャに毒されていたんだわ…
ふと、ヤムチャの指が頬に触れた。あたしの視線を、ヤムチャは外さなかった。あたしを見るヤムチャの瞳は温かだった。あたしは瞳を閉じかけた。…当然の流れよ。狭まりかけた視界の中で、ヤムチャの口が動いた。
「じゃあ、起きるかな。…起きていいんだよな?」
「えっ…」
耳に飛び込んできた意外な言葉に、あたしは瞬時に視界を元に戻した。
「う、うん…」
あまりにも堂々としたヤムチャの態度に気圧されて、思わずそう答えた。その表情を確かめながら、数秒前に寄こされた言葉を反芻して、さらに答えた。
「いいわよ。でも、あんまり無茶しないでね。お腹の調子が悪かったら、すぐに教えるのよ。熱が下がったからって、胃腸炎が治ったわけじゃないからね。…そうだ、間伐はもうやめなさいよ」
「うん。サンキューな」
あっけらかんと笑って言うと、ヤムチャはベッドを降りた。そうしてひらひらと片手を振りながら、ゆっくりとドアへと歩いた。ドアの向こうへと消えるまでの数秒間、ヤムチャは一度もあたしを振り向かなかった。ただの一度も。
「なーにあれ」
廊下に響く足音が耳に入らなくなった時、思わずあたしは呟いた。
あそこまで盛り上げておいて何もなし?一体どういう神経してるわけ?あいつ本当に男なの?何考えて生きてるのかしら。全ッ然わかんない。
さっぱりわかんない。でも、一つだけわかっていることがある。
あいつは変わってないわ。副作用も何もなし!まったく元の通りよ。あんなハズし方、元のヤムチャにしかできないわよ!!
『自然な流れだろ』
再びウーロンの言葉が頭に響いた。…ふん、そんなものヤムチャにはないわよ。そんな気の利いた感覚なんて。むしろそんなことをされたら、かえって心配になっちゃうくらいのものなのよ、あいつの場合は!
…ちぇっ。


気の利かない恋人を看護する半日から解放されて、あたしは自由になった。窓の外では、黄昏が消えようとしていた。
早いわよね。一日が終わるのも。あいつの熱が下がるのも。睡眠薬を使ったのは、やっぱり失敗だったわ。もっと長引かせるべきだったのよ。そうしたら回復の感動もひとしおだったに違いないのに。そうしたらヤムチャだって、もっとあたしに感謝して…
…ちぇっ。
物足りない気持ちで、あたしはキッチンへと行った。そしてフリーザーからイチゴを取り出した。つややかに光る紅い宝石。あたしの心を埋めるのは、今はこれしかないみたい。
イチゴを皿に山盛りにして、リビングのテーブルに置いた。左腕に嵌る夢の機械の、青いスイッチを押した。半瞬の後に、あたしの視界が様変わりした。
目の前に広がる大理石の平野。そこに聳える紅い山脈。…ああ、ついに長年の夢が叶えられる時がきたのね。
それも自力で。ドラゴンボールなんか使わなくても、自分でできたわ。それも偏に、あたしが天才だからよ。
一番大きな一粒を、あたしは慎重に選び出した。あたしの体の4分の1ほどもある特大イチゴ。『食べきれないほどのイチゴ』――う〜ん、幸せ!
いっただきまーす!!

『食べきれないほどのイチゴ』は、やっぱり食べきれなかった。今だ聳えるイチゴの山を目の前に、あたしは仰向けに寝転んだ。
おなかいっぱい。はちきれそう。完全に食べ過ぎだわ。しばらくは動けないわね。…あ〜、幸せ。
これは画期的な大発明よ。もう品種改良なんてやらなくても済むじゃない。高いところにいれば踏み潰される心配もないし。やっぱりあたしって天才――
夢気分はそこで終わった。ふいに違和感が襲ってきて、あたしは思考をとめた。
――胃にかかる重圧感。食道に感じる焼灼感。喉を刺激する不快感…
…ヤバイ!
自由だけは利く右手で赤いスイッチを押した。半瞬の後に、あたしの視界が様変わりした。でも、それに構っている余裕はなかった。
両手で口を塞ぎながらキッチンシンクへと走った。ラバトリーまでなんて、とても持ちそうにない。
「…ぁーーー…」
ほとんど一瞬で、あたしの体は軽くなった。一見血と見紛いそうな赤いものがシンクにほとばしった。でもそれが血ではないことは、嗅覚のある者にならすぐわかる。
誰もいなくてよかった。そう思いながら蛇口を捻り、排気ファンを回した。うがいをした途端、また嘔吐いた。僅かにピンク色をした液体が口から零れ落ちた。…もう胃液しか出てこない。午後はコーヒーしか飲んでないから…
数分の間シンクに突っ伏して、その後最後のうがいをした。そして今度はキッチンの床に突っ伏した。


遠くにドアの開く音が聞こえた。
たぶんこっちへやってくる。…よかった、吐き終わった後で。最悪な気分の中で、虚しい喜びをあたしは感じた。
「ブルマ!どうしたんだ!?」
頭の上から声がした。聞き慣れた低い声。今日一日あたしを煩わせ続けた男の声。あたしは薄目を開けてそれに答えた。
「…ちょっとね。気分が悪いのよ…」
「まさか!うつったのか!?」
ヤムチャの顔はすっかり青ざめていた。それで、あたしは言葉の意味がわかった。
「…違うと思う…」
むしろ、その方がよかったわ。
ふいに頭にそれが触れた。さっきあたしを惑わせた冷たい指。それが今度は前髪を掻き分けて、あたしの額を探っていた。
「違うって…」
何度も言わせないで。放っておいて。お願いだから。
あたしの言葉を、ヤムチャは聞いていないようだった。有無を言わせぬ表情で、あたしの体を抱え上げた。
「医務室は使えるな?すぐに博士を呼ぶから」
「…呼ばないで。誰も。絶対に…」
至近距離からかけられるヤムチャの言葉に、あたしはいちいち反応しなければならなかった。気分悪いって言ってるのに。今は何も話したくないのに。
「何言って…」
「呼んだら絶交よ」
いつまでもあたしを煩わせ続ける男の顔に、あたしは最後の台詞を投げつけた。ついにヤムチャは口を噤んだ。傷ついたような顔をして。でも、あたしは取り消そうとは思わなかった。そのまま黙って、目を閉じた。
わかってる。
心配してくれてるのよね。それはわかるわ。
でもね…

さっきまでヤムチャと一緒にいた医務室のドアを、あたしは再び潜った。ヤムチャと一緒に。まったく逆の立場となって。
真っ白なベッドに下ろされてまずあたしがしたことは、体をうつ伏せに転がせることだった。
「…おい、ブルマ。大丈夫か?」
大丈夫なわけないでしょ。
おろおろとするばかりのその声に、あたしは答えなかった。…本当に気が利かないんだから。
「…吐き気止め。簡易救急箱の中にある。それと本。細胞工学の…」
あたしが指示を出すと、ヤムチャは一瞬怪訝そうな顔をした。でもすぐに壁際へと飛んで行って、薬品棚の上から救急箱を引っ張り出した。出された一粒を口に含みながら、応えられなかった指示を、あたしは繰り返した。
「本。細胞工学の」
「おまえ、こんな時に…」
「いいから」
批難がましい目つきであたしを見るヤムチャを睨みつけようとして、あたしは失敗した。ヤムチャは大きく溜息をつくと、それでも本棚を漁り出した。…そうそう、それでいいのよ。あんたは大人しくあたしの言うことに従ってなさい…
数分の後に一冊の本が手渡された。あたしはうつ伏せのまま頭だけを持ち上げて、およそ察しをつけていたそのページを探し始めた。見つけた箇所を隅から隅まで読み尽くして、最後に自分自身に診断をつけた。
――消化不良。細胞レベルでの生化学的な不均衡による――
何なのこれ。一体どういうことよ。…いえ、そんなのわかってるけど。でも…
溜息をつきながら本を閉じた。それをデスクに除けがてら、気の利かない恋人が至近距離で口を開いた。
「どうすればいい?」
窺うように覗き込むヤムチャの瞳は、不安に揺らめいていた。…わかりやすいわよね、こいつ。いつだってそうよ。顔を見れば感情が丸わかり。それは悪いことじゃない。
問題は、こいつの方が感情を読み取ってくれないってことよ。
「…頭、撫でて」
「頭?」
あたしの言葉に、ヤムチャは不思議そうな顔をした。すぐには実行に移さず、小首を傾げてあたしを見た。
「背中じゃなくて?頭?」
「…何度も言わせないで」
まったく、もう。
そういうこと、訊き返さないでよ。気が利かないにも程があるわよ。どうしてこういう時だけ従順じゃないのよ。わざとやってるんじゃないでしょうね?
数瞬の間が開いた。ヤムチャがおもむろに手を伸ばして、あたしの髪に触った。横髪を、遠慮がちに撫で始めた。
あたしを見るヤムチャの瞳は温かだった。あたしの視線を、ヤムチャは外さなかった。でも、どこか遠くを見るような目つきだった。それを確かめて、あたしは顔をベッドにうつ伏せた。
…あー、虚しい。
何なの、今日は。今日はあたしの人生最悪の日よ。すべてのものに裏切られた日だわ。
ふと、ヤムチャの指があたしの耳に触れた。でもそれはもうあたしを弄ぶことはなく、すぐに頭の後ろへと戻っていった。…本当に、わかってないんだから。
…ちぇっ。
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