尠進の男
青い空。流れる雲。2人でサボったハイスクールの午後。2人で来た2度目のカフェには、2つの食べ物が並んでいた。
あたしの前には、白と赤の色目も綺麗なストロベリーパフェ。てっぺんのクリームをスプーンで掬いながら、あたしは思っていた。
…あたしが悪いんじゃないわよね。
初デートの記憶を忘れるなんて、ありえない。昨日は一瞬そうも思ったけど、やっぱり違うわよ。普通そういうことって、忘れようとしても忘れられないはずよ。
「まったく、何考えてるのかしらね。ウーロンたら、ひとの顔を見るたび、あんなことばかり言って。他にすることないのかしら」
とりあえずバカを一人扱き下ろしてパフェから目を離すと、もう一人のバカな男がちょうどコーヒーに砂糖を落とし終えたところだった。
「なさそうだな」
ヤムチャは素っ気なくそう呟くと、ゆっくりとカップを口元へ運んだ。伏せ目がちに傍観を決め込もうとするその態度に、あたしはすっかり腹が立った。
「もう!他人事みたいに言わないでよ!」
即座に、手にしていたスプーンの行き先を変えた。神聖なる一口目をその口に放り込むと、途端にヤムチャが咽込んだ。
「ブルマおまえ、俺がクリーム苦手ってこと知って…」
そして、あろうことか文句を言い始めた。ここぞとばかりに、あたしは言ってやった。
「なーによ。『あの時』は食べてたくせに」
おいしそうな顔で、とまでは言わないけど。でも食べてたわ。あたしは『フリだけでいい』って言ったのに(今思い出したわ)、食べてくれたわ。それが何よ。今じゃ、わざわざ食べさせてあげたのに、この態度。
ヤムチャは何も言わなかった。ひたすら黙って、喉元を擦っていた。俯き加減のその顔は、不貞腐れてさえ見えた。
まったく。これで覚えてろっていう方が無理よね。何よりも、本人の態度ってやつがなってないじゃないの。あの時はあんなにかわいかったくせに、今じゃそんなの欠片も感じられないんだから。
やっぱり、あたしが悪いんじゃないわよ。ねえ。

この世で五本の指にも入るおいしいものを今ひとつの気分で食べ終えて、あたしはスプーンをテーブルに置いた。
ストロベリーパフェをオーダーしたのは失敗だったわ。やっぱりこういうものは恋人と一緒に食べるべきなのよ。って、こいつが恋人か。じゃあ、もっと恋人らしい恋人と一緒に食べるべきなのよ。
とにかく、せっかくのストロベリーパフェはあんまりおいしくなかった。それが事実よ。
賑々しい喧騒。目の前を流れる人波。カフェから一歩を出てそれらを眺めながら、あたしは一瞬、立ち尽くした。
…これから、どうしようかしら。
ヤムチャを連れ出したのはいいけど、そういうこと全然考えてなかった。ショッピング…そんな気分じゃないわ。何かほしいものがあるわけじゃないし。ヤムチャの服は、修行が終わるまでは必要なさそうだし。何かおもしろそうな映画やってたかしら…
あたしが悩み続けていると、一体これを『読んだ』と言ってもいいものなのか、ヤムチャが非常に悪いタイミングで話を振ってきた。
「で、これからどうするんだ?」
「…歩きながら考えるわ」
溜息を堪えながら、あたしは答えた。こいつの性格も、良かれ悪しかれよね。素直って言えば聞こえはいいけど、主体性ってものがまるでないんだから。目的がある時はむしろ都合がいいんだけどな。今みたいな時は困っちゃうのよね。たまにはリードしてくれないものかしら。
そんな気分だったので、あたしはなんとなく言い出さずにいた。でも、カフェを出て行く数組のカップルの様子を目の当たりにして、すぐに趣旨変えをする気になった。口を開きかけた時、ヤムチャがあたしの手を掴んだ。
ちゃんと右手を。…ふうん。一応、学習はしているみたいね。
と言えば聞こえはいいけど。
言い換えれば、教えなきゃダメってことでしょ。…やっぱり面倒くさい男だわ。

それからなんとなく街をぶらついて、なんとなくC.Cに帰ってきた。
することが何も思いつかなかったからだ。映画を観る気には、やっぱりなれなかった。あまり惹かれるものがなかったというのが一番の理由だけど。映画って、デート向きじゃないと思うのよね。特にヤムチャが相手では。
ヤムチャがシアターでそれっぽいことをしてくれるなんて、まったく思えないし。まあ、人前でそういうことされても困るけど。そういう意味では、前にウーロンが言っていた推察は、正しかったということになる。
「あー、喉渇いた!」
無人のリビングに足を踏み入れた時、自然にそう声が出た。ずっと歩き通しで、すっかり喉が渇いていた。本当にヤムチャってば、気が利かないんだから。でも、実際にヤムチャを責める気には、あたしはなれなかった。…別に、引け目を感じているわけじゃないわよ。
のんびりと後ろからリビングに入ってきたヤムチャを尻目に、あたしはキッチンへと向かった。そしてフリーザーから、いつも飲んでいるストロベリーソーダを取り出した。プルトップを引こうとして、あたしははたと手を止めた。
…どうも、イチゴっていう気分じゃないわね。どっちかって言うと、苦水とか…
手元のソーダから、のんきに窓の外を見るヤムチャに視線を移した。その時、その後ろのベランダから母さんが顔を覗かせた。
「ブルマさん、ヤムチャちゃん、おかえりなさ〜い。今、ウーロンちゃんたちとお茶を飲むところだったのよ。テラスにいかが?」
あたしは止めていた手を動かして、ストロベリーソーダをフリーザーに戻した。

ストロベリーパイにイングリッシュスコーン。クロテッドクリームにイチゴジャム。それらをテラスのテーブルに認めた瞬間、ウーロンが非難がましい目つきで呟いた。
「おまえら、またサボったのか」
あたしは即座にウーロンを睨みつけた。あんた、いちいちうるさいわよ。他人に文句をつけられるほど品行方正でもないくせに。
「別にいいでしょ。放っておいてよ」
言い捨てて、チェアを引いた。スコーンに手を伸ばしかけた時、再び声が飛んできた。
「それで、今日はどこへ行ったんだ?」
「…別に。なんとなくブラブラしてただけよ」
なんとなく気が殺がれて、あたしは伸ばした手を引っ込めた。その時、本人は読んでいるつもりなのか、ヤムチャがイチゴジャムをあたしの手元にすべらせた。あたしはそれを、黙って横へ押しやった。…優雅にスコーンにジャムを塗りつけている気分じゃないわ。おかげさまでね。
「隠すな隠すな。どうせおまえらのことは、おれらみんな知ってるんだからよ」
「本当だってば!」
あたしは思わず叫びたてた。ウーロンのやつ、一体何なのよ。
昨日はしたって言っても信じなかったくせに、どうして今日に限ってそういうことを言うわけ?ちょっとは空気を読みなさいよ。悪かったわね、何もしてなくて!
再びウーロンを睨みつけた。ウーロンはわざとらしく首を竦めて、視線を横に流した。そこではプーアルがコーヒーカップに砂糖を落とし込んでいて、それをヤムチャがスプーンで掻き混ぜていた。あたしたちの会話なんてまるで耳に入っていないかのような、他人顔で。
あたしが睨む対象を変えようとしたその時、ウーロンがさらに言った。
「ちっ、つまんねえなあ、おまえら。もう少し色気出せねえのかよ。おれが教えてやろうか?」
「死んでもお断りよ!!」
「そうかよ。何もしないままできない歳になっても知らねえぞ」
何ですってーーー!!
何てこと言うのよ、こいつ!それが女に向かって言う台詞!?この色情ブタ!!
心の中で叫んだ瞬間、大きく咽る音がした。見るとヤムチャが慌ててカップを口から離して、大げさな手つきで喉元を叩いていた。
もう、何よ!ちゃんと聞いてるんじゃないの!だったら、何とか言いなさいよ。まさかこれまであたしに言い返させる気!?
どうやらヤムチャはそのつもりらしかった。あたしが睨むと、ヤムチャは咽ている口を無理矢理閉じて、わざとらしくカップを口に押し当てた。
「あー、お茶が不味い!ごちそうさま!!」
味わうまでもなく不味いに違いないお茶を、あたしは放り出した。席を立ちがてら、2人のバカに向かって最後の台詞を絞り出した。
「いーだ!」
あー、もう最低!
堂々とあんなことを言うやつも、堂々と言わないやつも。どっちも同じくらい最低よ!

油に塗れたスタッドボルト。出番を待つプラグコード。剥がれ落ちたセンサーの被覆。
それらを床に撒いたまま、暇潰しに始めたエアバイクの改造を途中で放り出して、あたしは自分の部屋を出た。そしてキッチンへ行って、再びフリーザーに手をかけた。
やっぱり喉が渇いた。ソーダを飲む気はしないけど、せめて喉を潤したい。
冷たいバドワを喉に流し込みながら、誰もいないリビングの窓から外を見た。テラスには誰もいなかった。どうやらお茶の時間は終わったようね。そこであたしは次に視線を遠くへやって、思わず首を捻った。
「あら?」
求める姿はそこにはなかった。珍しいわね。てっきり外庭にいると思ったのに。ヤムチャってば、いつもはヒマができるとすぐにトレーニングを始めるくせに。文句言ってやろうと思ったのに…
プーアルたちもいないし。エロブタはどうでもいいとして、ヤムチャがトレーニングしていない時は、たいがい2人でリビングでゲームをやっていたりするのに。…みんなして何やってんのかしら。っていうか、どうしてあたしを仲間はずれにするわけ。ひとのデートにはしつこくついてくるくせにさ。
もう一つの心当たりの場所へ、あたしは足を向けた。あんなことを言われながらもつるめる男の神経に疑問を抱きながら。


あたしの予想は当たった。ヤムチャの部屋の前まで来た時、中からガタンと大きな音がした。ついでガサゴソと何かを漁るような音。あたしは首を傾げながら、ドアコンソールを叩いた。
「何やってんの、あんたたち」
最初に目に入ったのはウーロンだった。だらしなく床に寝転がりながら、乱暴にベッドの下を弄っていた。少し離れたところに服が数枚散らばっていて、その手前ではヤムチャがウォークインクロゼットから衣装ボックスを持ち出していた。
「よう、ブルマ。おまえも手伝えよ。ヤムチャのやつ、らしくもなくうまいこと…」
「荷造りだ、荷造り!」
ウーロンの声を掻き消すように、ヤムチャが叫んだ。その態度にあたしは眉を顰めた。
ウーロンの言うことなんて、別にどうだっていいけど。その強気な態度を、どうしてさっき取れないものなのかしらね。
「足元、気をつけてくださいね、ブルマさん。まだ始めたばかりで、散らかっていますから」
ウォークインクロゼットから顔を覗かせてプーアルが言い、そして再びその中へと消えた。かと思うとヤムチャの道着のスペアを何着か持ち出してきて、丁寧に折りたたみ始めた。それであたしは口を挟むことをやめて、ベッドの端に腰を下ろした。
カメハウスへ行く準備か。それにしたって物々しいわね。
「で、あんたは何をしてるわけ?」
どう見ても荷造りを手伝っているようには見えないブタを見下ろして、あたしは訊ねた。ウーロンはベッドの下から手を引っ込め、仰々しくその奥を覗き込みながら答えた。
「それがよ、ヤムチャのやつ絶対に持ってないって言い張ってよ」
「何を?」
「男のロマンをだよ。こいつほど女に…」
「わっ!」
始めたばかりのウーロンとの会話は、またもやヤムチャの声に遮られた。
「何でもない、何でもないから!ウーロン、本当にないから…」
強気で否定しながらも、どこかヤムチャの声は弱々しかった。…何かしら。またラブレターでも隠し持ってるのかしら。
心に垂れ込める暗雲を自覚しつつも、あたしは追及することはしなかった。そんなことウーロンの前で始めたら、また何か言われるに決まってるわ。…後でじっくり問い詰めてやる。
「マジかよ。つまんねえやつだな、おまえは」
呆れたように舌打ちをして、ウーロンが体を起こした。ヤムチャがほっとしたような顔をして、ボックスを漁り出した。あたしは一時暗雲を吹き飛ばして、部屋の中を見回した。
中途半端に開けられた衣装ボックス。床に散らばる数枚のシャツ。ウーロンによって荒らされたベッド…
最後の要素は別として、こんなに大々的に荷造りをするなら、あたしも呼べばいいのに。邪魔っけなウーロンなんかは部屋に入れてるくせに、どうしてあたしには声をかけなかったのかしら。そりゃあ、この手の片付けものはあまり得意じゃないけど、ウーロンよりはマシな行動を取れるわよ。っていうか、普通、彼女には声をかけるものじゃない?これはいよいよ、ラブレターの線が濃厚になってきたわね…
「よし。あたしも手伝ってあげるわ」
その瞬間、ヤムチャが目を瞠ったのを、あたしは見逃さなかった。何か言われるより早く、あたしはプーアルのいるウォークインクロゼットへと向かった。プーアルの目なんて、いくらでも誤魔化せるわ。ヤムチャは単純だから、どうせすぐに見つかるわよ。証拠を見つけて叩きつけてやる。
あたしの勘では、きっとシューズボックスの中なんかに――

「う〜…」
小一時間後。ウォークインクロゼットの奥で、あたしは根を上げかけていた。
シューズボックス。チェスト。その他目ぼしいところは一通り見てみたけれど、出てこない。ひょっとしてラブレターじゃないのかしら。プレゼントとか?それだったら、未開封じゃない限り、見てもわからないわね…
「ブルマ、もういいよ。疲れたろ?」
ふいに頭上から声がした。床につけていた腰を上げる気にあたしはなれず、頭だけを動かした。するとすぐ後ろにヤムチャが立っていて、労わるように目を細めていた。あたしを見下ろすその笑顔を見た瞬間、あたしは自分の努力がまったくの無駄であったことを知った。
こいつは疚しいことがあると、すぐに顔に出るんだから。でも、今こんな風に笑ってるってことは…
「後は自分でやるから。あまり根を詰めるな」
ヤムチャが優しい声でそう言って、あたしの思いを助長した。…もう充分根を詰めたわ。ないのならないと、ちゃんとそう言ってよね!
言葉が喉元まで出かかった。あたしは自分を抑えるため、視線を床へと落とした。その途中で、あたしは見た。
ヤムチャの手が動いたのを。一歩後退ったその体の、後ろに何かを隠すのを。…ポケット?こいつ!いつの間に…
拳に力を込めた時、クロゼットの外からキーテレホンの音が聞こえてきた。
「あ、ボクが出ます」
ほとんど同時に、あたしの横から声がした。それで、あたしは思い出した。プーアルが――従順なヤムチャの僕が――ずっとあたしの傍にいたことを。…一杯食わされた?
「おーい。メシだぞー」
憤然としかけたあたしの耳に、クロゼットの外から呼びつける邪魔っけなブタの声が聞こえてきた。あたしは唾を呑み込みながら、追及することを諦めた。…そんなことウーロンの前で始めたら、また何か言われるに決まっているわ。
苦水を飲んだような気分になりながら、あたしは腰を上げた。


夕餉の食卓は、無駄にいい雰囲気だった。
「今日はすてきな夕暮れだから、テラスでお食事よ」
母さんがそう言って、テラスに食卓を設えたからだ。落ちかかる夕闇を阻止するように輝く、桃色の夕陽。舞い散る花びらのような、薄桃色の雲。確かにそうね。母さんの感覚を否定しようとは思わない。だけど…
鼻腔をくすぐる花の香り。テーブルを彩るキャンドル。その灯りに照らされた、バカな男の顔。
…だけど、どうして今なのよ。どうしてこんな気分の時が、一番いいムードなのよ。
「う〜…」
フォアグラと鴨肉のイチゴソースがけを目の前に、フォークとナイフを両手に構えて、あたしは情けなくも切実な声を上げた。
ダメ。こんなの全然食べる気しない。お腹は空いてるはずなのに、何かが喉元に痞えてしょうがない。何も食べたくない。そのくせ、ひどく喉が渇く。
すっごくイライラする。理由なんかわかりきってる。
カフェでのデートは盛り上がらないし。ウーロンには言い返してくれないし。荷造りは仲間はずれにされるし。その上隠し事はされるし…理由あり過ぎよ。これで食欲ある方がおかしいわよ。
あたしにイライラを抱かせている人物は、やや俯き加減に弱い視線を寄こしていた。他人顔ではないにしても、絶対にわかってなさそうな間抜け顔。あー、やだやだ。
「…ごちそうさま!」
食べたくない好物を目の前に、カトラリーを手放すことに、あたしは決めた。不本意ながら、生理的不欲求には逆らえない。皿の奥にあったグラスを掴み、喉の渇きだけを癒して、席を立った。
「あらブルマさん、お食べにならないの?」
「食欲がないのよ」
そんなの見ればわかるでしょ。
目は笑ったまま訊ねてきた母さんに、あたしは事実を告げた。食欲がない。それはわかっている。でも…
あー、やだやだ。

薄暗いリビングのソファに、テラスを背にして、あたしは座り込んだ。
自分の部屋には行きたくない。散らかしっぱなしだもの。こんな気分のときに片付けなんかもしたくない。イライラが増すだけだわ。
最低よね。
カフェではあんな態度を取るし。ウーロンの横言には見て見ぬフリをしてるし。勝手に出て行く準備始めちゃってるし。今だに隠し事なんかしてるし…本ッ当に、嫌だわ。
そんなことで物が食べられなくなるなんて。どうして今さら、そんな片思いみたいなことしなくちゃいけないのよ。悪いのはあいつの方なのに。立場が逆でしょ?
何より一番嫌なのが、この喉の渇き。どうしてこんなに渇くのよ。…理由なんて、わかってるけど。だからこそ余計に嫌だわ。
ふと後ろで音がした。小さな小さな、ベランダのドアの開く音が。あたしは振り向いたりはしなかった。
どうせヤムチャよ。こんな小心なドアの開け方するの、あいつしかいないわよ。まったく、顔色を窺うことだけはうまくなっちゃって。肝心なことは何もわかってないくせにさ。
「何よ?」
ソファの横に佇むヤムチャを横目に、あたしは言ってやった。無視したって、どうせしつこく食い下がってくるに決まってるんだから。うだうだと切れの悪いいつもの態度で。それならいっそのこと、一思いにやっつけてやる。
ヤムチャは何も言わなかった。ただ黙って、あたしを見ていた。俯き加減に。窺うように。
もう!一体、何しにきたのよ!わかってたことだけど、目の当たりにすると本当にイライラするわ。
「座りなさいよ」
さらにあたしは言ってやった。あたしは逃げも隠れもしないわよ。ちゃんと相手してやるわ。あたしが上位よ!
ようやくヤムチャは動き出した。ゆっくりと足を進めて、ちゃんとあたしの隣に座った。少しはわかってきたようね。ここで離れて座るようなら、本当に見限ってやるところだったわよ。
「さっき、何してたの?」
あたしは機先を制することにした。それがあたしのペースよ。主導権はあたしのものよ。
「さっきって…」
「夕食の前。部屋を出る前、何か隠したでしょ。一体何よ!?」
例によって、ヤムチャは黙り込んだ。窓から漏れる食卓のキャンドルの光が、その表情を逆光で隠した。不快と苛立ちの両方を感じながら、あたしはヤムチャに体を向けた。
「ポケットの中よ!」
黙り込んでいたヤムチャの口が、少しだけ噛まれたのをあたしは見逃さなかった。図星ね。まだまだ詰めが甘いわね。
「あー…ああ、あれは…」
「言えないことなの!?」
ほぼ予想していたヤムチャの曖昧な態度を前に、あたしは畳みかけた。そうよ。これでいいのよ。これこそがあたしのペースよ。今は誰もいないことだし、後はこのまま問い詰めてやる。
「そんなことはないけど…」
「じゃあ、教えなさい。隠すつもりがないなら、ちゃんと行動で示しなさい。あんた態度悪過ぎよ!!」
奇妙な満足感を感じながら、あたしは続けた。ヤムチャは明らかな戸惑いを瞳に浮かべて、困ったようにあたしを見た。
「今?ここでか…」
「あったりまえでしょ!!」
あたしは完全に勝ちを確信した。よーしよしよし、これでいいわ。後はヤムチャの隠し事を咎めるだけ。ぐうの音も出ないくらい追い込んで…
「ん?」
おもむろにヤムチャが腕を上げた。体をあたしに向けながら。一瞬、あたしに影が差した。次にヤムチャの行動を視覚によらず感覚で知った時、あたしは間抜けにも訊ねてしまった。
「…あんた、何してんの」
見ればわかることを。誰よりも自分がよくわかっていることを。
「何って…」
「どうして頭撫でるのよ!あんた、あたしをバカにしてるの!?」
ヤムチャの手があたしの頭を撫でていた。それも妙にゆっくりと。あたしの勝利感は一瞬にしてどこかへ飛んでいった。こいつ、こんな誤魔化し方、一体どこで覚えたわけ!?
「まさか、そんな。俺はただ感謝して…」
「どうして感謝するのよ!」
「だって、嬉しくって…」
ヤムチャの言葉はまったく要領を得なかった。怒られてるのに嬉しいなんて、わけがわから…いえ、そうじゃない。ひょっとしてこいつマゾ?
突如噴出した予想外の問題にあたしが愕然としかけた時、テラスから漏れていた光が強くなった。それと同時にいくつかの物音が聞こえてきた。
チェアを押す鈍い音。カチャカチャと皿を重ねる金属音。キッチンの方からは、コーヒーメーカーが蒸気を吹き上げ始める音…ヤバイ。食事が終わっちゃった。こっちは何も片付いていないのに…
「ヤムチャ!行くわよ!」
まったく気づいていないらしいヤムチャの腕を、あたしは引っ張った。こんなところをみんな(特にウーロン)に見られたら、一体何を言われるかわかったものじゃないわ。
「行くってどこに…」
「あんたの部屋!」
惚けたようなヤムチャの声に、咄嗟にあたしは答えた。一つしかない選択肢を。
あたしの部屋には行きたくない。引越し途中の人間の部屋より汚いなんて、いくらなんでも知られたくない事実だわ。


ウーロンによって荒らされたベッドを簡単に整えて、その端に腰を下ろした。あたしが身振りで促すと、ヤムチャがおずおずと隣に座り込んだ。
「一体どういうことなのよ。ちゃんとわかるように説明して!」
当然の質問をあたしがすると、ヤムチャは出し抜けに言い放った。
「だって、ブルマ片付け苦手だろ」
「…悪かったわね」
あたしは思わず苦虫を噛み潰した。どういう切り出し方なのよ、それは。あたしの片付け下手が、あんたの行動に一体何の関係があるわけ。
「それなのに荷造り手伝ってくれただろ。すごくがんばってやってたよな。だから嬉しくなって…なんとなく頭を撫でてやりたい気持ちになって。でも、あの時はプーアルたちがいたから」
そこで少しだけ間をおいて、ヤムチャは続けた。
「それでも我慢できない感じだったから、ポケットで手を封じたんだ」
ヤムチャの顔は真剣だった。煌々と光る部屋の灯りの下でそれを見て、あたしはまた一匹苦虫を噛み潰した。
恥ずかしい男ね、こいつ。よくこんなこと真顔で言えるわね。聞いてるこっちが恥ずかしくなるわ。一体どこまで素直なのよ。…いや、違うか。
単なる天然ね。だってこいつ、そういうこと言ってほしい時には、いつも絶対言わないんだもの。それに…
続くヤムチャからの言葉はなかった。どうやら話は終わったみたい。今ではヤムチャは、中途半端に緊張感を漂わせて、あたしを見ていた。…見ているだけだった。
もう!どうしてここで動かないのよ。ここはどうしたって、キスするところでしょ。やっぱりこいつは天然よ。っていうか鈍感よ。これだけ恥ずかしいことを言っておいて、どうして何もしないのよ!
ふとヤムチャが目を逸らした。そして天を仰ぐようにして、呟いた。
「…あのさ。その。そういうことは、ここではちょっと…」
まるであたしの心を読んだかのような台詞を。ヤムチャの腕に触れかけたあたしの手を除けかけながら。っていうか、絶対読んでる。何よ、ちゃんとわかってるんじゃないの!
「なんで?今は誰もいないわよ」
「うーん…」
あたしが事実を突きつけると、ヤムチャの目がさらに宙を泳いだ。ちょっと、何なの、その態度は。さっきは人がいたから我慢したって言ってたくせに。ひょっとして嘘なわけ?こいつ、一体どこでそんな誤魔化し文句を――
そう思った直後だった。開きかけたあたしの口をヤムチャが塞いだ。その感触が、あたしの怒りに燃えかけた心を冷やした。
いつだって今ひとつ燃え立たない、ヤムチャから流れ込んでくる感情が。
決してクールとは言い切れない、でも熱くなることもない、中途半端な感覚が。
あたしからすれば充分にそう感じられる、その感触が。
…少し冷たい唇が。

…本当に気が利かないんだから。
いつになく素っ気なく唇を外されて、そう思った。どうしてすぐやめちゃうのよ。ここは盛り上がるところでしょ!すればいいってものじゃないでしょ!いい加減に空気を読みなさいよ!!
あたしがヤムチャの顔を見ると、ヤムチャもまたあたしの顔を見返した。顔色を窺うようなその視線に、あたしの神経はすっかり逆撫でされた。
「ちょっとヤムチャ、あんたね…」
「…なんだか熱いな」
あたしの唇を親指で弄びながら、ヤムチャが言葉を遮った。その指先に熱気と冷気の両方をあたしが感じ取った時、ヤムチャがあたしの手を掴んだ。そのまま横にそっと置いて、もう片方の手であたしの頭を掻き抱いた。
思い詰めたようなヤムチャの顔を前にして、ふいにあたしは思い出した。自分がヤムチャの部屋の――ベッドの上にいたことを。
え、何?ひょっとして、そういう解釈をしたわけ?それで考え込んでたわけ?…嘘でしょ、こんな鈍いやつが。でも、そう考えると辻褄が合う。ものすごく合っちゃう…
ヤッバーーーーー!!
あらゆる意味で、あたしは身の危険を感じ始めた。だってこれじゃ、あたしが誘ったことになっちゃうじゃない!冗談じゃないわよ!!それにあたしまだ、ぜーんぜん心構えしてないのに…!
額にヤムチャの髪が触れた。思わず目を閉じた瞬間、耳元で声が聞こえた。
「やっぱり。おまえ、絶対熱あるぞ」
…はい?


「37度」
医務室で簡易体温計の示した数値を読み上げた時、あたしは安堵の気持ちが広がっていくのを自覚した。
「そんなものか?もっとあるように感じたぞ」
一時あたしを混乱に陥れた人物が、淡々と後ろで呟いた。あたしは振り向いたりはしなかった。
…それはあんたのせいよ。
一体どういうやり方なのよ、あれは。紛らわしいことしないでよ。
「あたし平熱低いから」
喉元にせり上がる言葉を呑み込みながら、ただそう答えた。恥ずかしい男よね、こいつ。素であんなことするなんて、どういう神経してるのよ。天然にも程があるわよ。
体温計をデスクの上に置いてベッドの端に腰掛けると、ヤムチャもまたあたしに倣った。顔色を窺うようなその視線を、あたしは黙って受け止めた。
平気よ。どうせこいつは天然だもの。…あー、やだやだ。
あたしの観察はまったく当たっていた。ヤムチャは何事もなかったかのような顔をして、至極一般的な質問を口にした。
「自分で気づかなかったのか?」
「んー…ちょっと気分が違うなとは思ったけど。でも、単なる遊び疲れよ、きっと。他におかしなところはないし」
「…なるほど」
あたしが答えると、ヤムチャはどことなく気の入らない声音で呟いた。視線は宙に向いているし、あたしをベッドに寝かせようとか、そんな気遣いも感じられない。とても心配している態度だとは思えない。でも、あたしは全然気にならなかった。
たぶん本当に遊び疲れだと思うし。正直言って、今はヤムチャの反応なんてどうだっていい。
…あー、よかった。熱があって。
熱があると感覚が違ったりするものね。どうりで気が乗らないと思ったわ。食欲が湧かなかったのも、喉の渇きも、熱があったのなら頷ける。何もかも当然の症状よ。…そうよね。他に理由なんかあるわけないわよね!
「ねっ、ヤムチャ。肩抱いて!」
相変わらず気の利かない恋人の腕を、あたしは引っ張った。安心したら、心が広く持ててきたわ。ヤムチャは学習能力はあるみたいなんだから、あたしがちゃんと教えてやらなくちゃ。一瞬どうでもいいと思ったけど、やっぱりダメよ。こんなの、彼女が熱ある時の態度じゃないわよ。もっと労わらせなくちゃ。風邪じゃないんだから、キスしたって平気だし!!
ヤムチャを掴んでいたあたしの手は、ヤムチャ自身によって外された。かと思うと再び掴まれて、そっとベッドの上に置かれた。もう一方の手が、優しくあたしの頬を包んだ。…よーしよしよし、よくわかってるんじゃないの!
後は…そうね。あの紛らわしいやり方をやめさせなきゃね。いざという時に見分けつかなくて困るし。だいたい、そういうことは女の了解を取ってからするものよ。ヤムチャはそういう空気読めなさそうだから、その時はあたしがちゃんと言ってあげるわ。あたしが上位よ!
気分がすっきりしたところで、あたしは瞳を閉じた。ヤムチャの髪が額に触れたから。ついで当てられたヤムチャの唇は、冷たくて気持ちよかった。
…えへへ。
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