遊進の男
熱いシャワーを浴びると、体に生気が戻ってきた。窓から流れ込んでくる生ぬるい夜気を肌に感じて、新しいパジャマをおろした。肌に水を馴染ませ、髪をブローしながら、あたしは一つ問題が沸き起こりつつあることに気がついていた。
…今夜は眠れなさそうね。
思いっきり昼寝しちゃったものね。発熱を理由にハイスクールを休んでおきながらあまり動き回るのも体裁が悪いし。そう思って大人しくしてたんだけど、失敗だったわ。夜になって、こんなに目が冴えちゃうなんて。
しかたなく、あたしは廊下を歩いた。心当たりの部屋へ向かうべく。外庭ではやってなかったから、きっと部屋よね。って、ちょっと短絡的過ぎるかしら。
だけど、他に適当な人がいないんだもの。こんな夜更けにウーロンなんかと親睦を深めたくはないし。母さんとなんか、まずまともに話が続かないし。父さんとは、今共通の興味テーマはないし。ヤムチャとだってたいして盛り上がるわけじゃないけど、とりあえず今日のところは話題があるから…
そんなわけで、あたしはヤムチャの部屋のドアコンソールを叩いた。ドアが開いて目に入ってきた光景は、少々あたしの予想を裏切った。
「何これ。まだ荷造り終わってないの?きったない部屋ねー!」
床に積み重なる、いくつかの服の山。あちこちに散らばる、空っぽの衣装ボックス。その奥で、ミニクロゼットから服を溢れ出させているヤムチャ。…外でトレーニングしてないから、てっきり部屋の中でトレーニングしてるんだと思ってたのに。こいつもたまには武道以外のことを――
…してないか。修行の準備だものね、これ。
「プーアルはいないの?」
ベッドの端に腰掛けながら、裏切られたもう一つの予想について、あたしは訊ねてみた。
「もう休ませた。あいつはまだ子どもだからな。夜更かしさせると体に悪い」
至極当然のような顔をして、ヤムチャが言った。…変なの。主が従を気遣ってるわ。自分はこんな疲れそうなことしてるくせに。普通は逆じゃないの?
…ま、いっか。
プーアルがいると思ったから来たんだけど。いてもいなくても、きっと変わらないわね。こいつは天然だから。
あたしの睨んだ通り、ヤムチャは何も考えてなさそうな顔つきで、黙々とミニクロゼットを掻き回していた。確か、昨日もやってたわよね、そこの片付け。こいつも案外、手際が悪い…
「あっ!それ!」
クロゼットから取り出されたヤムチャの手元に目を留めて、あたしは思わず腰を上げた。どこか見覚えのあるシャツが一枚、そこにあった。
「去年あたしが買ったやつ!見ないと思ったら、こんなところにしまい込んでたのね。どうして着ないのよ。せっかく買ってあげたのに!」
久しぶりに見たそのシャツは、過去の自分を思い出させた。今から2つ前のあの季節。冒険の後の秋の頃。あの頃は情熱があったわよね。ヤムチャを磨いてやろうという情熱が。だって、こいつ見た目は悪くないし。おまけに、素直でかわいかったし。それが今じゃ――
「いや、なかなか着る機会がなくてさ。その服、動きにくいんだよ。タイト過ぎるっていうかさ…」
――それが今じゃ、平気でこんなこと言うようになっちゃって。…やる気も失せるってものよね。
「何言ってんの。ちゃんと試着したでしょ。だいたい、そういうことは買う前に言いなさいよ!」
至極当たり前のことを、あたしは口にした。途端にヤムチャが両手を挙げた。
「わかったわかった、これから着るから…」
「じゃあ明日ね!」
間髪入れず、あたしは言ってやった。最初からそう言えばいいのよ。それを、いちいち口答えしちゃってさ。かっわいくないんだから!
あたしは部屋に来たことを、ちょっぴり後悔し始めた。こんな会話続けてたら、ますます眠れなくなるわ。せめて話題を変えなくちゃ。そう思った時、ヤムチャがおもむろに口を開いた。
「おまえ、熱は下がったのか?」
「うん、もうすっかり」
それで、あたしは気分を改めることにした。タイミング的にはどうかと思うけど(一番最初に訊くべきよね、こういうことは)、一応は本気で心配してくれてるみたい。そんなの、顔を見ればすぐわかるわ。こいつは感情がもろに顔に出るんだから。確かめるようにあたしの顔を覗き込む黒い瞳。うん、こういうところは素直でいい――
「って、ちょっと、いきなり何するのよ!」
何の前触れもなく近づいてきたヤムチャの顔を、あたしはすんでのところでかわした。というより、気がついたら避けてしまっていた。
だって、いくらなんでもいきなり過ぎよ!そりゃあ、ヤムチャはいつも空気読めてないけど。それにしたって前兆すらなかったわよ。初めてじゃないんだから、そういうことするんならもうちょっとそれっぽく…
言おうか言うまいか迷いかけたあたしの言葉は、次の瞬間永遠に封じられた。
「何って検温だよ」
淡々とヤムチャは呟いた。何もわかってなさそうな、惚けたいつもの表情で。…検温!?これが!?
「そういうやり方、いい加減にやめてよね!」
昨日感じた感覚を、あたしは再び感じ始めた。
「いちいち紛らわしいのよ!普通は手でしょ、手!」
一体どういうやり方なのよ、それは!どうしていきなり顔をくっつけてくるのよ!…正確には額だけど。どっちにしても、こんな時間に二人きりでいる時にそんなことするなんて、そう思われてもしかたないわよ。…普通、そう思うわよね?
「うーん…」
さっぱりわかってなさそうな顔で、まったく反省の気配がない呟きをヤムチャは漏らした。そして、しれっとした声で言った。
「わかったよ。手、洗ってくるよ」
「何それ!」
あたしが非難したにも関わらず、ヤムチャは部屋を出て行った。…逃げたわね。っていうか。
やっぱり天然だったわ…


話し相手のいない十数分の間、あたしは時間を持て余して、ベッドの上でごろごろしてみた。
眠りたい。眠れない。眠くならないのよねえ。起きてたって、することないんだけどなあ。
睡魔の存在すら確認できないうちに、ヤムチャが部屋に戻ってきた。もう荷造りはやめたみたい。ボックスに向かおうとする気配すらない。よしよし、いい態度ね。今からなら、一時間くらいは付き合わせられるかな…
心の中でほくそ笑んだその時、ヤムチャが腰を下ろした。その途端、あたしの満足感が薄くなった。
ヤムチャがあたしから離れた床の上に座り込んだからだ。それもあたしに背を向けて。何その態度。ケンカ売ってるわけ?
「どうしてそっち向くのよ。ちゃんと隣に座ってよ」
そんなの、恋人同士じゃなくっても、当たり前のことよね。気が利かないとかいう以前の問題よ。
ヤムチャはすぐにあたしの斜め前に座り直した。一言の文句も言わずに。どうやら一応わかってはいたらしい。だったら、最初からそうしなさいよ。一言どころか、一挙一動余計なのよ。本当にかわいくないんだから!
そうは思ったけど、口に出すのはやめておいた。あたしは自分自身のために、気分を改めることにした。こんな気分を引き摺っていたら、ますます眠れなくなるわ。それに、今はそういうことしたいわけじゃないから、別にいいわよ。
「ねえ、明日はどこ行く?」
建前と本音の双方から、あたしは訊ねた。こういうこと、たまにはヤムチャにも考えさせないとね。いつもいつもあたしにまかせっきりでさ。いい加減、案も出尽くしたというものよ。
ヤムチャの反応は、あたしの期待を完全に裏切るものだった。というか、それ以前の問題だった。
「…またサボるのか?」
「いいでしょ、あんたはもうすぐ辞めるんだから」
「それはそうだけど…」
胡坐に荒く乗せた手。顰めた眉。ヤムチャは口篭りながらも、全身から不満の意を発散させていた。往生際が悪いわよね、こいつも。
どうせ最後には折れるんだから、最初から素直に首を振っておきなさいよ。ハイスクールなんかでは素直過ぎて騙されたりしてるくせに、どうしてあたしにはいちいち口答えするわけ。ちょっと前まではこんな風じゃなかったわよね。…反抗期かしら。
あたしが様子を見ていると、ヤムチャは何やら考え込み始めた。挙句に非常につまらないことを口にした。
「明日は長距離走大会があるんじゃなかったか?一単位分のやつ」
「えぇー?いいわよ、そんなの…」
「いや、ダメだろ。単位分なんだから」
流しかけたあたしの言葉を、ヤムチャは受け取らなかった。妙に強気で同じ単語を繰り返した。今までこんなこと言ったことなかったのに。さっきから思ってたんだけど、こいつ今日ちょっと…
あたしの心中を知ってか知らずか、ヤムチャはさらに続けた。
「おまえ天才なんだろ。天才がそんなことで留年したら…」
そこで一瞬、言葉を切った。でも結局は、先を続けた。
「まあとにかく、情けないぞ」
「…おべっか遣い」
思いっきり皮肉を篭めて、あたしは言ってやった。まったく、こんなことだけ言い切れるんだから。もう部屋を出てっちゃおうかしら。こんなこと言われるために来たわけじゃないし。
そうは思ったのだけど、あたしは留まった。あたしの皮肉に、ヤムチャが少しもぐついたのがわかったからだ。でもそれは、すぐに後悔するところとなった。
「とにかく、明日はハイスクールだ。そうだな、それで…大会が終わっても万一ブルマが元気だったら、何なりと付き合うよ」
そう言うヤムチャの顔には、笑みが浮かんでいた。いつもの穏やかな笑みとは全然違う、妙に堂々とした腰の据わった笑みが。この瞬間、あたしの不審は不快へと転化した。
なっまいきーーー!!!
何なのその、それっぽい態度は!急にらしくなっちゃって!ちょっと調子に乗ってるんじゃないの?…あたしの方から来たからってさ!
もうあたしは衝動を抑えなかった。出てってやるわ、こんな部屋!これ以上調子に乗られてたまるもんですか!…でも、約束は取りつけてやる。
「その言葉、忘れないでよ!!」
ヤムチャの答えは待たずに、ドアコンソールを叩いた。言い訳なんか聞くもんですか。自分の口の軽さを後悔するがいいわ。あたしはちょっと気紛れで来ただけなんですからね!
それにしたって生意気!かっわいくな〜い!!




翌朝は、いつにも増して気だるかった。
結局、昨夜は全然寝られなかった。ようやくうとうとし始めたと思ったら、朝になっちゃった。それもこれも全部ヤムチャのせいよ!…それと少しだけ昼寝のせいね。
いつにも増して動かない胃に、無理矢理朝食を詰め込んでいると、やがてヤムチャがやってきた。口約通りの、あのシャツを着て。
「それ、動きにくいんじゃなかったの?」
思いっきり皮肉を篭めて、あたしは言ってやった。だって、今日は長距離走大会だってのに。どうしてわざわざそんな日に、動きにくい服を着てくるのよ。いくら約束したからってさ。嘘つきの証拠よね!
ヤムチャはちょっぴり目を丸くしてあたしを見た。でも次の瞬間には目を伏せて、ただこう言った。
「まあな」
そして、そのまま朝食の席に着いた。いつものような言い訳もなし。今度はあたしが目を丸くする番だった。
おっかしいなあ。昨夜みたいな言い合いの後には、いっつも腰を弱くしてくるのに。まだ調子に乗ってるのかしら。
「ちゃんとメシ食っとけよ。長距離は体力勝負だからな」
「わかってるわよ!」
淡々と言い放つヤムチャの態度に、あたしは思わず声を荒げた。まったく、当たり前のことを偉そうに言わないでほしいわ。増す一方の不快感を、ウーロンがさらに掻き立てた。
「おまえら、またケンカしてんのか」
「ケンカじゃないわよ!!」
あたしは即座に否定した。ケンカじゃないわ。これはね、『戦争』って言うのよ!あたしとこいつの、順位を賭けての戦いよ!何が勝利条件なのかは、今ひとつわからないけど。とりあえずは受けて立つことに、あたしは決めたのよ!
…そうだ、あの言葉。『何でも付き合う』ってヤムチャが自分で言ったんだから、思いっきり無理難題吹っかけちゃお。自分の軽率さを後悔させてやるわ!
心の中でほくそ笑みながら、あたしは朝食を食べ進めた。

「本当にわかりやすいな、おまえら。こないだまでサボって遊びに行ってたかと思ったら、これだもんな…」
ハイスクールへの道すがら。後ろから、ウーロンの白けた声が聞こえてきた。
「いや、今日は長距離走大会があるからさ。参加しないと単位が貰えないんだよ」
さらに、いつになくきっぱりとそれに答える声が聞こえてきた。…まったく、まる聞こえだっつーの。こっちが距離取ってるんだから、そっちも少しは控えなさいよ!
確かに、ヤムチャは本当のことを言っている。でもそれも、あたしの気に障った。
嫌味よねー、こいつ。
ヤムチャは参加する必要ないくせに。単位取ったって、どうせ近いうち辞めるんだから。それなのにどうして参加するのかって、それはこいつがそういうこと得意だからよ。体を動かしている時に限って、生き生きするんだから。根っからの体力バカよ。
――っていうかさ。
心の中で文句をつけて、ふいにあたしは気がついた。
…どうしてあたし、ヤムチャのフィールドで勝負しなくちゃいけないのかしら。
今の今まで考えもしなかったけど、これってすっごい不公平なんじゃない?ヤムチャは課題とか、全部あたしに丸投げしてるのに。…ひょっとして、乗せられたのかしら。
「やっぱり休もうかなー…だるいし」
ウーロンとプーアルが小等部のゲートへと消えた時、自然と言葉が口から出た。なんだかバカバカしくなってきたわ。
ヤムチャは少しだけ心配の色を瞳に覗かせながら、それでもこともなげに言った。
「熱はもう下がったんだろ?」
「でも、だるいんだもの!」
「どうしてそんなに嫌がるんだ」
ヤムチャの口調にははっきりと、呆れの色が漂っていた。その態度に、あたしの不快感が甦った。こいつ、どうしてそういうことだけ読めるのよ。おまけに、やっぱり偉そうだし!ヤムチャがそうくるんなら、あたしだって遠慮しないわよ。
「だって、単調じゃない。走るだけでしょ。そういう体力勝負の原始的なスポーツは、都会育ちのあたしには合わないのよ」
思いっきり皮肉を篭めて、あたしは言ってやった。でもそれは、ヤムチャの惚けた態度に撥ね返された。
「でも、都会の学校でやってるスポーツだろ?」
しれっとした顔で、ヤムチャは言い放った。呆れと共にあたしは反論を呑み込んだ。
こいつ態度は弱いくせに、どうしてそういうことだけ言えるわけ。っていうか、いちいちつまらない事実を挙げつらわないでほしいわ。自分の言葉で反論できないのかしら。
頭の悪い証拠よね!




結局あたしは、そのままハイスクールのゲートを潜った。そして始業のチャイムと共に、再びその外へ出た。長距離走大会は、周囲の公道をコースとしている。だから、サボろうと思えば今からだってそう出来る。でも、そうする気はあたしにはなかった。
ふーんだ。いいわよ。参加すればいいんでしょ。走り終わっても、平気な顔してればいいんでしょ。私服OKなくらいなんだから、気合なんか入れないわよ。まともに勝負する必要なんかないわ。のんびり走って、思いっきり無理難題吹っかけてやる。調子に乗ったこと、後悔させてやるんだから!何がいいかしら。一見出来そうに思わせられて(ここがミソよ)絶対に出来なさそうなこと。もしくはヤムチャの苦手そうなこと。うんと困らせてやれそうなこと…
スタートの銃声が響いた。いくつかの思考と一つの事実が、あたしの足を動かした。男子とはスタートにタイムラグがあるから、いくらヤムチャの足が速くとも追いつかれはしないはず。ゴールで待ち構えて、一汗掻いて戻ってきたところで、冷や汗掻かせてやるわ!
それから30分ほどを、あたしは走った。周囲にあるのは、ちっとも目を楽しませない無彩色の住宅。前を走るのは、競争心の欠片も感じられない生徒たち。コースの角々で目を見張らせる監視員。それでも、あたしの意欲は尽きることがなかった。体力も尽きなかった。ただ一つ。思考だけが尽きてきた。
なーんか、うまいこと思いつかないのよね。
あまり変なことやらせると、彼女であるあたしに返ってきそうだし。貶めてやりたいけど、品格を落としちゃったら、元も子もないし。あいつの苦手そうなことって言ったら情緒面だけど、説明するだけでストレス溜まりそうだし。なにより――
…だるい。
体が眠りたがってる。昨夜あまり寝てないから。それで頭が働かない。
少しだけ考えて、あたしは自分に正直になることにした。とにかく完走すればいいのよ。体育の成績に未練なんてないし。
…ちょっと休んじゃお。

それから数百mを走ると、右手に人工林が見えてきた。監視員の姿も消えたところで、あたしは足を止めた。
今まで考えたこともなかったけど、人工林は都会のオアシスね。公園だと人目が気になるけど、ここなら少し奥に行けば完全に隠れられるし。今みたいな時にはうってつけだわ。
楢の木に絡む蔦。木と木を繋ぐ何かの蔓。ぶら下がれそうな枝の先。孫くんが好きそうね、こういうところ。あたしはそんな野蛮な遊びはしないけど。あたしがしたいのは昼寝よ、昼寝。
あたしは慎重に場所を探した。あまり鬱蒼としていなくて、それでいて後続の人間に見つからないようなところ。土にお尻つけたくないから、枯れ葉の積もっているところ。やがてよさそうな場所を見つけた。その場所へ辿り着いて、次の瞬間あたしは最後の条件をつけたことを後悔することとなった。
「ひゃぁっ!?」
一瞬、体が宙に浮いた。気がついた時には、足の下に地面がなかった。目をつけた枯れ葉の下が空洞だった。ほとんど垂直に、あたしは落ちた。
「痛ぁ〜…」
重力に耐え切れず打ちつけたお尻を擦りながら、自分の周囲を見回した。ちょうど人が一人入れるくらいの大きさの、身長の半分ほどの深さの不自然な…落とし穴?なんだって、こんなところにそんなものがあるのよ。…孫くんみたいな子どもの仕業ね、きっと!『ははっ、引っかかった、引っかかった!』あいつの高笑いが聞こえるようだわ。もうー!
しょうもない空想で気を紛らわせつつ、あたしは土の壁に手をかけた。深さは1m程。登れないわけもない。子どもの遊びだもの、そんなものよね。ただ…
…足が、少し痛かった。


地表に出た根を避けながら、ゆっくりと人工林を公道へと向かって歩いた。
昼寝をする気は、すでになくなっていた。足が痛いから。眠れないほど痛いわけじゃないけど、もう眠る必要はなくなったわ。少し休んだら帰っちゃお。実はエアバイクのカプセル、持ってきてるのよねー。もちろん、こうなることを見越していたわけじゃないけど。…単位なんかもういいわ。まさかC.Cの令嬢を留年にはしないでしょうよ。っていうか、棄権よね、これって。
林の端で10分ほど足を休めていると、徐々に痛みが和らいできた。その間、生徒は誰も来なかった。どうやらみんな先に行っちゃったみたい。次の監視員がいるのはずっと先だし。あたしは自分を納得させながら、ポケットに手を入れた。カプセルを取り出す間もなく、いきなりそれが視界に入ってきた。
異常な速さで遠近感を縮める一つの人影が。水平になびくヘッドバンドが…
早ッ!
もう来ちゃったの!?ヤムチャってば、早過ぎよ。タイムラグ足りてないじゃない。何が『動きにくい』よ。ちゃっかり一番で走ってるくせに。すぐ誤魔化そうとするんだから。…まあいいわ。ちょうどよかった。一言言っておこうっと。
「やっほー、ヤムチャ」
あたしが声をかけた時には、すでにヤムチャは足を止めていた。たぶん気づいてたわね。肉体的な意味でだけ、目聡いんだから。
「ブルマ。…何してるんだ…」
返ってきたヤムチャの口調と目つきには、呆れの気配があからさまに漂っていた。…失礼なやつね、こいつ。
「んー、ちょっとね。足痛めちゃって。そんなわけであたし帰るから、ゴールしたら誰かにそう言っといて。あ、断っておくけどサボりじゃないわよ。棄権よ、棄権!」
思いっきりわざとらしく言ってやると、途端にヤムチャの態度が変わった。一瞬前に見せた呆れはきれいさっぱり消えて、今では心配そうな顔であたしを見ていた。本ッ当に失礼なやつ!最初からそういう態度に出なさいよ。はなっから疑ってかかるなんて(しかもそれを隠そうともしないなんて)、どういう神経してるのよ。
「棄権って…、…足を痛めたって?」
「うん。だから帰るから」
当て付けと足元を掬ってやった感の両方から、あたしは繰り返した。咎めてやりたい気持ちはもちろんあるけど、それは後回しよ。とりあえずわかったみたいだから、今はいいわ。『ちゃんと心配しろ』なんて当たり前のこと、公道で教え込みたくないし。そんなの、恥晒しもいいところよ。
あたしの複雑な心境に、おそらくヤムチャは気づかなかった。こいつはそういうやつよ。それでも一応は心配する気配を濃くして、例によって情緒的とは言いかねる、現実的な話をし出した。
「どうやって帰るんだ?」
「エアバイクで。今日はカプセル持ってきてるからね!」
再びわざとらしく言ってやった。どうして持ってきてるかなんて、少し考えればわかることよ。今朝は気分が悪かったからよ。誰かさんのおかげでね!
「そんなの無理だろ」
あたしの言外の意は、まったく伝わらなかった。ヤムチャはどこか淡々とした口調で、あたしの言葉を否定した。やっぱりこいつ、今日は何か変ね。いつもだったら、もっといかにもって感じで心配するんだけどな。何だか妙に落ち着いてるし。…さっさと帰ろっと。
「平気よ。うちまで帰るだけだもの」
言いながらポケットを弄った。まさにこういう時のための、保険的カプセルを取り出すために。少しもたつくポケットにヤムチャから視線を移した時、ポケットを弄ること自体ができなくなった。
「ダメだ」
ほとんど一瞬であたしの手首を掴み上げて、ヤムチャがきっぱりとそう言った。思わず固まったあたしの耳に、さらなる寒声が入ってきた。
「まずハイスクールに戻るぞ。断りを入れたら、俺が送ってってやる」
一瞬、あたしは耳を疑った。気のせい…じゃないわよね。
「えぇー?いいわよ。面倒くさい。あんたが伝えといてよ」
「ダメだ」
流しかけたあたしの言葉を、ヤムチャは受け取らなかった。妙に強気で同じ単語を繰り返した。確かに、ヤムチャはそれほどおかしなことを言っているわけではない。いえ、むしろ及第よ。だけど…
だけど!どうしてそんなに偉そうなわけ?いつもの腰の弱さはどこにいっちゃったのよ!
不快を感じながらも、あたしは掴まれた手を解けずにいた。さらにヤムチャが、畳みかけるように言葉を繋いだ。
「俺一人で説明したって、きっと信じてもらえないぞ。エアバイクで帰るならなおさらだ。ブルマのサボり癖は有名なんだからな」
何ですってーーーーー!!
事ここに至って、あたしの不快は怒りへと転化した。今までこんなこと言ったことなかったのに。おまけにその口調。らしいと言うより、腰強過ぎよ!いつまで調子に乗ってるのよ!っていうか!
「暴言よ!取り消しなさいよ!今言うことじゃないでしょ、それ!!」
サボりじゃないって言ってるのに。そんなこと、ヤムチャだってわかってるくせに。この状況でそんなこと言うなんて、一体どういう神経してるのよ!
ヤムチャは何も言わなかった。否定も肯定もなし。ただ黙って、眉を上げ続けていた。あぁーー、ムカつく!こういう態度が一番――
「って、ちょっと、何するのよ!」
何の前触れもなく伸びてきた腕を、あたしは避けることができなかった。慌てて足をバタつかせたけれど、もう遅かった。一瞬にしてヤムチャはあたしの体を抱き上げていて(この体力バカ!)、目と鼻の先とも言える距離から、しれっとした顔で言い放った。
「ハイスクールに戻るんだよ。その足じゃ歩けないだろ」
少しだけ声音を弱めながら。その態度に、あたしもほんの少しだけ気を殺がれた。
「強引ーーー!!」
「何とでも」
素っ気なく、ヤムチャは呟いた。自分からしたことなのにどこか気乗りしなさそうな表情で、でも手だけはがっちりとあたしの体を捕まえていた。いつものヤムチャとは決定的に違ったことに、心配していると言うよりはむしろ淡々と、あたしを抱えていた。
そのままヤムチャが歩き出したので、あたしは抵抗することを諦めた。そんなことしたって無駄よ。女のあたしが男のヤムチャの腕を振り解けるわけないんだから。こいつはきっと、それをわかっててやってるに違いないんだから。
…まったく、急にらしくなっちゃって。と思ってやりたいところだけど、そうはいかない。とても気分を改める気には、あたしはなれなかった。
ヤムチャのしていること自体には、それほど不満はない。一人で帰そうとしないのは、いい姿勢だわ。お姫様抱っこしてるのだって、上出来よ。…だけど、この顔。この態度。
かっわいくな〜い!

とは言え、その状態は長くは続かなかった。5分も経った頃にはヤムチャの眉はすっかり下がっていて、さらに少しするとまったくいつも通りと言ってもいい気の抜けた表情で、こんなことを訊いてきた。
「ところで、どうして足を痛めたんだ?」
その声に、強気の名残りはなかった。それで、あたしも気を改めることにした。タイミング的にはかなり問題だと思うけど(もっと早くに訊くべきよ。普通はせめて三言目くらいには訊くわよね)、まさにこれこそがヤムチャ本来の姿よ。さっきまでの腰の強さは、何かに憑かれていたのだとでも思っておくわ。
「落とし穴に嵌まったのよ。枯葉の下に隠すなんて、悪質極まりないわよね」
「落とし穴?」
「人工林の奥の方にあったのよ」
そこまで言うと、ようやくヤムチャの目に理解の色が広がり始めた。まったく、反応悪いんだから。すっかりいつも通りね。安心したけど、やっぱりイラつくわ。
「…どうしてそんなところにいたんだ?」
おもむろにヤムチャが呟いた。あたしは反射的に言葉を呑み込んだ。
ヤムチャの口調と目つきには、呆れの気配があからさまに漂っていた。失礼よ、あんた!どうしてすぐにそういう風に考えるのよ!…当たってるけど。
「しょうがないなあ…」
「ちょっと休もうとしただけよ。だるいって言ったでしょ。なのにあんたが…」
言いかけたあたしの言葉は、大きな溜息と共に吐き出されたヤムチャの声に遮られた。
「ああ、わかったわかった」
何その言い方!
ヤムチャが呟いたいつも通りの折れる言葉は、いつもとはまったくニュアンスが違っていた。あたしはバカ正直に理由を話してしまったことを後悔した。エアカーに轢かれかけたとでも言っておくべきだったわ。どっちにしても、悪いのはヤムチャだけど!
「あんた、態度がなってないわよ!ひとが怪我してるっていうのに――」
「余裕だな〜、おまえ。彼女を抱っこかあ〜?」
あたしの言葉は、再び遮られた。どこからか飛んできた根明な声は、まったく知らないものではなかった。どこのクラスの誰だったかしら。あたしが一瞬記憶を探ったその隙に、声の主はヤムチャの隣へとやってきていて、ニヤニヤとおもしろそうな顔をしてあたしたちを眺め回していた。眉を顰めるあたしをよそに、ヤムチャが口を開いた。
「ああ、ちょっとな」
でもすぐに、言葉を切った。軽く笑みを漏らしながら、ゆっくりと首を振った。あたしは自分の目と耳を疑った。同時にヤムチャの頭の中も疑った。
「ちょっとじゃないでしょ!ちゃんと説明しなさいよ!」
ヤムチャの仕種を受けて、声をかけてきた男子生徒は先へと行ってしまった。時すでに遅しとわかっていても、あたしは言わざるを得なかった。
「あれ、絶対誤解してたわよ。どうしてちゃんと言わないのよ!」
「別にいいだろ。いちいち説明してたらキリないぞ。ハイスクールに戻ればどうせわかることだ」
淡々とヤムチャは口にした。何も考えてなさそうな、惚けたいつもの表情で。
「冗談でしょ!!」
再び不快が怒りへと変わった。だって、こいつは男子の先頭にいるのよ(今2番になったけど)。これから一体何人の生徒がやってくると思ってるの。まさかハイスクールに戻るまでずっと、あの目つきに晒されるわけ!?
どう考えても、そのまさかのようだった。ヤムチャは苛つかせるだけの宥め文句を言う気配すら見せず、ただただ呆気に取られたようにあたしを見ていた。
「どういう神経してるのよ、あんたは!もういい、下ろして!自分で歩く!」
あたしは諦めた。ヤムチャを説得することを。そんなことしたって無駄よ。こいつは天然なんだから!
「いや無理だって、その足じゃ」
「見世物になるよりはマシよ!」
「見世物?…」
さっぱりわかってなさそうなヤムチャの耳に、あたしは思いっきり文句を吹き込んだ。
「あんたはどうせ辞めちゃうからいいでしょうけどね。あたしはずっとここにいるの!あんまり恥ずかしいことしないでよ!!」
ヤムチャが愕然としたようにあたしを見た。ようやくわかったようね。って、遅過ぎ!本当に鈍感なんだから。というより、何も感じていないのかも。
とはいえそこまでは、あたしは言わずに済んだ。ヤムチャが足を止めたからだ。その瞳に浮かぶ表情は、いつもの従順そのものだった。ヤムチャはゆっくりと道路脇へと移動すると、腕を解いてあたしを下ろした。よしよし、それでいい――
「!ちょっと…!」
地に着けたはずの両足が、再び宙に浮いた。いつのまにかヤムチャの腕が、後ろからお腹に回っていた。ほとんど二つ折りの体勢で、あたしは人工林へと引き摺り込まれた。
「何すんのよ!ちょっと!!」
そう言った時にはすでに、地面に座り込まされていた。ヤムチャを背に。胡坐を掻いて座るヤムチャに抱っこされるように。ひぇ〜。何考えてるの、こいつ!
「とにかく事情が分かればいいんだろ」
平然とヤムチャは言った。そんな雰囲気なんて微塵も感じられない、いつもの口調で。呆気に取られるあたしをよそに、無造作に頭からヘッドバンドを外した。そしてそれを巻きつけ始めた。
さっき痛めたあたしの足に。あたしは再び呆気に取られた。…これ、打ち身なんだけど。ひょっとして、こいつバカ?
「これで傍目にも、怪我をしていると分かるはずだ」
言いながら、緩く結び目をつけた。それで、ようやくあたしの思いは氷解した。
「あんたって、こういう知恵だけは働くのよね…」
「…何だ、その言い方は」
「その通りでしょ」
昨日感じた感覚を、あたしは再び感じ始めていた。
こいつ、一体どういう神経してるのよ。せめて説明しなさいよ。いきなりこんなところに連れ込まれてこんなことされたあたしの身にもなってほしいわ。本当にどうしようかと思ったわよ。あたしじゃなくたって、女なら誰だってそう思うわよね。…って、誰にも見られてなかったでしょうね?
この林から二人で出て行くのってやだな…そうあたしが思った時、ヤムチャがおもむろに腰を上げた。
「よし。じゃあいいな。もう行くぞ」
差し出された手を、あたしは拒まなかった。そうするつもりは、もうなかった。
何かこいつ、今日は妙に強引だし。そのくせやっぱり、天然だし。天然で強引って最悪ね。完全に処置なしよ。
もうこの上は、被害者に徹しようっと。…早く憑いてるもの取れてくれないかしら。


それからハイスクールへ着くまでに、あたしは片手の数ほどの興味の視線に出会った。
本当はもっといっぱい出会ったはずだけど、あたしの記憶には入っていない。途中で眠っちゃったから。抱っこって睡眠欲の敵ね。殊に諦めをつけたらてきめんに眠くなっちゃったわ。でも、結果的にはそれでよかったのかもしれない。
あとあと何か言われたら、全部ヤムチャが勝手にやったことにしちゃおっと。どうせこいつはいなくなっちゃうんだから。死人…じゃないけど、まあ口なしよ。
そんなわけで、気がつけば着いていたハイスクールの外庭の一角で、あたしは堂々とエアバイクをカプセルから戻した。周りには、走り終えて一息入れてる男子たち。一息入れ終えたにも関わらず、ダベり続けている女たち。相変わらず興味の視線は感じるけど、まあいいわ。面倒なことは、あとあと…
「これ、タンデムできるのか?」
周囲にはまったく気を配っていないらしいヤムチャが、エアバイクのステップを踏みながらそう言った。それであたしも完全に、意識をエアバイクへと向けた。
「能力的には。シートはちょっと狭いけど」
もともと一人サボり用だもの、タンデムパーツなんかつけてないわよ。
あたしが答えると、ヤムチャは今度はハンドル周りを弄り出した。さんざんチェックした挙句に、こんなことを言い出した。
「ちょっと危なくないか?歩いて帰った方が…」
「冗談でしょ!」
みなまで言わせず、あたしは叫んだ。長距離走のコースとは違って、C.Cへの帰り道は街の横を通るのよ。そんなとこ、抱っこされて歩きたくないわ。っていうか、あたしのエアバイクが信用できないわけ!?
「あんたが操縦を誤らなければ平気なの!自信がないならやめときなさいよ。あたし一人で帰るから――」
「あ、いや、大丈夫大丈夫」
あたしの言葉を遮って、ヤムチャが慌てたように両手を振った。もうー!
気が強いんだか弱いんだか、わかりゃしない。どっちみちすぐに折れるんだから、いちいち小さなケンカを売るのやめてほしいわ。もっとスマートに事を運べないのかしらね。
ともかくも、ヤムチャはエアバイクに跨った。それであたしも、その後ろに跨った。体を固定させるため両足を前に投げ出し軽く組むと、再びヤムチャが文句をつけ始めた。
「ブルマ、この足…」
「ステップがないんだから、しょうがないでしょ」
自分だって、さっき似たようなことしたくせに。あたしがすると文句を言うわけ?
そうも思ったけど、口に出すのはやめておいた。そんな突っ込みいちいち入れてたら、ここから一歩も動けないわ。
「それより、もっと前行って」
両腕をヤムチャの腰に回しながら、シートから落ちそうになるお尻を無理矢理前に滑らせた。少しばかり強引にヤムチャの体をも前へと押すと、途端にヤムチャが腰を浮かせた。
「ちょちょちょ、ちょっと待て!」
それがあまりに大げさな動きだったので、危うくあたしは後ろにひっくり返るところだった。慌ててシートの端を掴んだ時、ヤムチャがどことなく悪びれた様子で後ろを振り向いた。
「あ、悪い。…ええと、もう少し体を離して…」
「そんなことしたら落ちちゃうじゃない。早く座ってよ。さっさと帰りたいんだから」
少しだけ声を潜めて、あたしは促した。あんまり人前で駄々捏ねないでほしいわ。それも、何だって今さらそんなことを言うわけ。説得力なさ過ぎだっつーの。だいたい、くっつかないでどうやってタンデムするのよ。わけわかんないんだから。
ヤムチャはやや伏し目がちに、それでいて妙にじっとりとした目であたしを見た。どうにもそのまま動く気配がなかったので、あたしは半ば強引にゴーグルを被せてやった。さらにグローブを手渡すと、ようやくヤムチャは動き出した。伸縮性グローブを窮屈そうに両手に嵌め、ゴーグルの角度を隙なく直し、再びシートに座り込んだ。そしてそこまでやっておきながら、なお小首を傾げてあたしを覗き込んだ。さすがにあたしが眉を上げた時、一転してきっぱりと口を開いた。
「あのさ。前に乗らないか?」
「は?」
声を上げた次の瞬間、シートに滑らせたばかりのお尻が再び宙に浮いた。呆れたことにシートに座ったままのヤムチャの腕が、あたしの体勢をすっかり変えた。なぜかあたしは横座りになっていた。ヤムチャの胸元に。抱き込まれるようにして。ハンドルを掴む両腕が、あたしの体を押さえつけた。ちょっとぉ〜。何考えてんの、こいつ!
一気に強まった周囲からの興味の視線は、一瞬にして彼方に消えた。つい先日取り付けたばかりのハイパワーエンジンが、あっという間もなくあたしたちを宙へと運んだ。自慢のエアバイクの加速力が、いつもより強く感じた。温い風が目を刺して、あたしは思わず目を閉じた。
ヤムチャってば、吹かし過ぎ!おまけにこの位置。あたしゴーグルつけてないのに。少しは配慮しなさいよ!直風だし、狭いし…っていうか、離れろって言っといて、どうしてこういうことするわけ?本当にわけわかんないったら。…恥ずかしくないのかしら。
心の中で一通り文句をつけ終えた頃、エアバイクのスピードが落ち着いた。開けた薄目に空色の景色が飛び込んできた。ハイスクールはすでに豆粒。周囲に他のバイカーはいない。
もし誰かが通りかかったら他人のフリ…いえ、それは無理か。じゃあ、寝たフリしちゃお。あたしがそう決めた時、ヤムチャが言った。
「で、何にする?」
まったく何も感じていないらしい声音で、さっぱり意味のわからないことを。呆気に取られながら、あたしは何とか口を開いた。
「何の話?」
「何でも付き合うって言っただろ」
再びヤムチャが呟いた。まったく何も考えていないらしい声で、あっさりと。それであたしはようやく思い出した。昨夜売られた小さなケンカを。
そんなこと、もうすっかり忘れてた。忘れてたって言うか、どうでもよくなってた。今日はあまりに忙しなかったから。主に誰かさんのせいで。
「このままどこか行くか?時間はあるし」
「あんた、態度が昨日と違うわよ…」
「そうかな。まあいいだろ」
まるで堪えていない口調で、ヤムチャは答えた。あたしの呆気は去ってくれそうになかった。だって、サボるなって、昨日こいつが言ったのに。軽いというか、いい加減というか…おまけに、能天気過ぎるわよ。
少しは考えないのかしら。とんでもないこと言い出されたらどうしよう、とか。確かにまだ何も思いついてないけど。っていうか、すでに考えてもいなかったけど。…でもそうね、一つだけあるわ。
考える必要なんかなしに、すぐにでも口に出してやれることが。なんてことのないことのようでいて、こいつにはきっとできないだろうことが。今言えば絶対に困らせてやれるだろうことが、一つだけ…
そこまで考えて、あたしは故意に気を逸らした。あたしが考えている間にも、エアバイクは飛び続けていた。今やすっかり、いつも通りに肌を弄る風。体に伝わるエンジンの振動音。眼下に広がる見慣れた風景――時折視界をヤムチャの腕が遮ることを除けば。ヤムチャはヤムチャらしいのんびりさで、ハンドルを握り続けていた。今のこの状態にも、今現在の状況にも、まったく構う素振りはなかった。それを見て、一時的に逸らした気を、あたしは元通りこのままずっと逸らし続けておくことにした。
…言わないわよ、そんなこと。口が裂けたって、絶対に言うもんですか。ヤムチャが平気な顔をして行こうとしてるんだもの、あたしだってそうしてやるわ。
閉じかけた心の片隅で、ふとあることを思いついた。自分のその想像に少しショックを受けながら、あたしは口に出してみた。
「どこにも行かないで。このままどこにも行かずにうちにいて」
「うん?」
耳元で小さな呟きが漏れた。その声を聞きながら、あたしはすぐに付け足した。
「…それで、お茶の時間になったら、あたしに『あーん』ってして」
「は?」
「冗談よ」
さっぱりわかっていなさそうなヤムチャの声を、あたしは一言で往なした。至近距離に確かめたヤムチャの反応は、あたしの予想に違わぬものだった。あからさまに不思議そうな顔をして、あたしを覗き込んでいた。どう見ても伝わったようには思えない。でもそれでいい。本気で伝えるつもりなんて、あたしにもない。じゃあどうして口に出してみたかと言うと…
ちょっと試してみただけよ。ったく、本当に鈍いんだから。わかりきってたことだけど。
少しくらい困ってくれたっていいのに。ねえ。



つまらない現実は、あたしの心を寛大にさせた。
困らせてやろうとか、考えるのはもうやめたわ。何やったって不毛なだけよ。ヤムチャは困ったって、せいぜい一瞬なんだから。どうせすぐに持ち直しちゃうに決まってるんだから。こいつは他人の機微どころか、自分の機微さえないやつよ。幸せ者よね。全然羨ましくないけど。
「ふわあぁぁ…」
C.Cに帰って鎮静剤を飲み、数十分も経つと、忘れかけていた欠伸が出始めた。
だって、退屈なんだもの。口うるさいブタはミドルスクールだし。プーアルもそうだし。母さんはどっか行っちゃってるし。父さんは相変わらず行方不明だし。あたしもどこか行けばよかったかな。でも、この足じゃね…まあ、もともと寝不足だし。さらに体を動かしたとあっちゃ、眠くならない方がおかしいわよ。
そこであたしは少しだけ考えて、ヤムチャの部屋に行くことにした。ここで昼寝なんかしたら、また夜眠れなくなるに決まってるもの。ヤムチャといたって、たいして気が覚ませられるわけじゃないけど。話し相手がいるだけマシよね。それに、今のうちに済ませてしまいたいこともあるし…
ヤムチャの部屋のドアを開けて目に入ってきた光景は、ほぼ予想通りのものだった。
「本当にきったない部屋!」
床に積み重なる、いくつかの服の山。あちこちに散らばる、空っぽの衣装ボックス。その奥で、早くもいつもの武道着に身を包んでいるヤムチャ…
「トレーニングなんか、亀仙人さんのところへ行けばいくらでもできるでしょ。それより今は、この部屋どうにかしなさいよ」
重なる衣装ボックスの傍に寄りながら、唯一予想を裏切った最後の要素をあたしは咎めた。外でトレーニングしてなかったから、てっきり部屋の片づけをしてるものだと思ってたのに。ただ単に、これからトレーニングするところだったってわけね。まったくこいつは…
あたしが呆れの息を吐きかけた時、ヤムチャがしれっとした顔で言った。
「ああ、でもだいたい終わったから。あとは夜にでも少しずつ…」
「ダメ!先にするの!」
思わず声を荒げると、ヤムチャが僅かに眉を顰めた。まったく、そうしたいのはこっちだっつーの。
「目障りなのよ。いつまでも落ち着かないったら。出て行く準備くらい、さっさと終わらせちゃってよね!」
そうなのよ、ヤムチャが悪いのよ。いつまでもグズグズと荷造りを終えないから。これ見よがしにそういう雰囲気をチラつかせてるもんだから。だから、こっちの気まで散らされちゃうのよ。こういうことは、さくっとやってほしいわよね。おまけに、あたしの買った服ばかり目につくところに置いちゃってさ。デリカシーがないんだから。
「ほら。あたしも付き合ってあげるから」
空の衣装ボックスを一つヤムチャに向かって押し出すと、ヤムチャがミニクロゼットの引き出しを開けた。いかにも渋々といった感じで。もう、ひとが手伝ってあげようってのに。かわいくないっ!
心の中で怒鳴りつけて、あたしは衣装ボックスのカバーを開けた。ふいにベルが鳴り響いた。ドア横のキーテレホンへと走りかけるヤムチャを尻目に、あたしはミニクロゼットを覗き込んだ。
そこには、記憶がいっぱい詰まっていた。初めてヤムチャをハイスクールに連れて行った時に着せた服。一緒に映画を観に行った時に着てたシャツ。これは学校帰りに…って、これ、全部あたしが選んだものじゃないのよ!一体どういう嫌がらせよ。ええ、ええ、受けてたってあげるわよ。こんなのただの物よ、物。
「あっ!それ!」
気づけばヤムチャが戻ってきていた。隣で伸びた手の行方に目を留めて、あたしは声を上げた。例によってあたしが選んだシャツが一枚、衣装ボックスに放り込まれようとしていた。
「その服お気に入りなんだから、しまっちゃわないでよ。持ってって!」
「いや、でもこういう服は着る機会…」
「外に出ることくらいあるでしょ。まさか3年間、人里に出ないとでも言うつもり?」
やや口篭りながらも反抗しようとするヤムチャの声を、あたしは封じ込めた。どう考えても、あの亀仙人さんがそれほどストイックだとは思えない。電話もない生活してるくせに、テレビなんかはしっかり観てるんだから。食べてるものだって、全然仙人らしくないし。だいたい3年も、髪も切らずに済ませられるわけ…
…髪?
ここであたしの思考は脇に反れた。そういえば、あそこに散髪の必要な人間って、いたかしら。ランチさんは別枠として、唯一必要のありそうだった孫くんは伸ばしっぱなしだったし。ヤムチャだって、会った時は伸ばしっぱなしだったし。あたしが切らせなかったら、きっと今でも伸ばしっぱなしだったし。で、亀仙人さんとクリリンがあれ。…武道やってる人間って両極端よね。っていうか、結局みんな手入れしてないのよ。その上孫くんなんか、放っておいたら何日でも同じ服を着続けててさ。ヤムチャだって似たようなものよ。あたしが買ってやらなきゃ、きっと同じ服ばかり着ていたに違いないわ。ヤムチャってば素地はいいのに、そういうこと全然気にしないんだから。それでも最近ようやくこなれてきたと思ってたのに。こいつ、一人でちゃんと現状維持できるかしら。なんか3年後、あたしすっごく苦労しそうな予感がする。いえ、3年もいらないかも。だって、あそこのトップは、あろうことか亀仙人さんなんだし…
…やっぱり、行かせるべきじゃないのかも。
それまで頭の中に棲んでいた睡魔が、別のものに変わり始めた。さて何と言って諭せばいいかと、言葉を探しながら口を開いた時だった。
「ひょっと、あにふるのよ!」
何の前触れもなく口に放り込まれた甘酸っぱい食べ物を、あたしは呑み込めなかった。って、当たり前よ!どうしてここでいきなりイチゴが突っ込まれるのよ。つーか、何で突っ込むのよ!一体何してんの、こいつ!?
その言葉は、口の中のイチゴに封じられた。熱いシロップに塗れたイチゴを飲み下している隙に、ヤムチャがしれっとした顔で言った。
「さっきやれって言っただろ」
手にしたフォークで、パイらしきもののフィリングをほじくり返しながら。行儀悪い食べ方!っていうか、それ一体どこから湧いたわけ!?突っ込みどころはいっぱいあるけれど、とりあえず筆頭はヤムチャの感覚だった。
「違うでしょ!!」
すでにあたしは思い出していた。少し前に零した自分の言葉を。そして後悔していた。あんなの適当に言っただけだったのに。それを真に受けたばかりか、思いっきりバカな解釈してくれちゃって。うっかり冗談も言えないわけ、こいつには?
「そうじゃないでしょ!あたしが言ったのは食べさせろって意味じゃなくて、かたっぽが『あーん』ってフォークを差し出したらもうかたっぽも『あーん』って口開けて…こう、もっとそれっぽい雰囲気の中で…」
「ふーん」
雰囲気どころか脈絡もなしにあたしの口にフォークを突っ込んだ男は、さして堪えた様子もなく、今度は自分の口にそのフォークを突っ込んでいた。あたしは改めて、今日のヤムチャの異質さを呪った。
強引な天然って最悪ね!ボケに磨きがかかってるわ。フォークくらい、自分の使いなさいよ!だいたい、こいつくらいの容姿の男がこういうことをしたら、もっといい感じになるはずなのに。どうしてこんなにバカっぽく見えるわけ!?
複雑になりかけたあたしとは対照的に、ヤムチャは淡々とフィリングを弄くりまわしていた。ややもして、少し大きめのイチゴが、再びあたしの口元に突きつけられた。
「じゃ、『あーん』」
あたしは一瞬、息を呑んだ。目の前に閃いたあるものに、あたしの心は深く呆れさせられた。ヤムチャのバカ具合にじゃない。むしろ正反対のその表情にだ。
「あ…あんたは…どうしてそういうことを真顔でするのよ。恥ずかしくないの!?」
見てるこっちが恥ずかしくなるくらいのまっすぐな瞳に向かって、あたしは怒鳴りつけた。ヤムチャはフォークを持つ手を引っ込めながら、なおも真顔を崩さず言った。
「ブルマがやれって言ったんだろ」
「冗談だって言ったでしょ!」
ヤムチャってばいつもはてんで気が利かないくせに、どうして今はこんなに食いついて…あたしが言ったからか。本ッ当に、冗談の通じないやつね!こんなことで大丈夫なのかしら。亀仙人さんに思いっきり染められそうよね。それこそ冗談じゃない…
再び口元にイチゴが突きつけられた。もう、しつこい!怒りに変わり始めた呆れの言葉は、ヤムチャの呟きに制された。
「嫌なのか?」
…こいつ、処置なし。心からあたしはそう思った。
「そういうことじゃなくって!嫌とかいう以前に、あれは冗談――」
何度言っても、ヤムチャの表情は変わらなかった。ひたすらにあたしを見る真剣な瞳。緩やかに胡坐を掻くその姿勢には揺ぎない強気さえ篭って……ヤムチャってば、全然ひとの話聞いてないんだから。さっきだって、ちゃんと冗談だって言ったのに。それにしたってこの態度。らしくないにも程があるわ。何が憑いてるのか知らないけど、早く出て行ってほしいものね。
「嫌じゃないなら、ほら、『あーん』」
「だっ、だからぁっ!」
「ほら、ブルマも」
「……」
あたしは完全に言うべき言葉を失った。何を言っても、暖簾に腕押し。ボケているわりに、どこか有無を言わせない強固な雰囲気。何よりヤムチャの表情に、あたしは気圧された。…だって、こんな真顔で。こんなにまっすぐな瞳で。おまけにこいつ、素地がいいんだから…
「ん?」
うぅ…
念を押すようなヤムチャの囁きが、あたしの心を唸らせた。
…どうしよ。何か、逃げられなさそう。誤魔化すのも今さらだし。ここで部屋を出て行っちゃうのも、負かされたみたいで何だか嫌だし。………………どうせ負かされるのなら。ちょっと癪だけど…
無意識のうちに外していた目線を、意識して戻した。こんなの、何てことないんだから。何もかも、今さらなんだから。ヤムチャがこんな風にあたしを見ることだって、むしろ当然のこと…
あたしは心を固めた。それとほとんど同時だった。
いきなりヤムチャが目を逸らした。目だけじゃなく、顔も逸らした。フォークを持つ手が震え出した。あからさまな雰囲気の変化に気を逸らされたあたしの耳に、聞き慣れない吐息が聞こえた。
「くっ…」
笑いを噛み殺そうとする歯の隙間から漏れる息。一時はあんなにまっすぐだった目を今やすっかり掌で包み隠して、ヤムチャが体を震わせた。すぐに吐息が声になった。
「くく、くくく…」
「あ、あんた…からかったわねーーー!!」
手の隙間から見えたヤムチャの笑顔は、これまでに見たことのないものだった。まるっきり悪戯が成功した子どもの顔。いかにもおもしろくてたまらないといった顔。
信じらんない!まさかこいつがこんなネタで、あたしをからかうなんて!てっきりいつもの天然かと思ったのに。今まで一度だってこんなことしたことなかったのに。それどころかついこの前まで、自分からは何もしないやつだったのに。全部あたしがお膳立てしてやってたのに。なのに、この顔、この態度。そして何より、さっきのあの言い回し…
なっまいきーーーーー!!!!!
「いや、ちょっと言ってみただけ…」
「同じよ!」
むしろ、なお悪いわ!
「だって、ブルマがあんまり…」
「あたしが何よ!」
それまでの真摯さだけを捨てて、ヤムチャは笑い続けた。あたしがいくら怒鳴っても、悪びれた様子をちらとも見せなかった。語気はすっかりいつも通りになっているけど、何やら言い訳もしてるけど、でも態度が決定的に違う。腰が弱いというよりも、腰が軽い。何こいつ。どうしてこんなにらしいのよ。でも全ッ然嬉しくないわ!
「あ…あんたねー…いい加減にしなさいよ!」
悔しさを悟られずにぶつける言葉を、あたしは探した。見つからないまま一声吐いて、とりあえず一睨みしたその時、おもむろに部屋のドアが開いた。
「おまえら、結局またサボったのか」
何の断りもなく、ウーロンが部屋に入ってきた。そして何の躊躇もなく、あたしたちを見るなり嘯いた。
「そしてまたケンカかよ。廊下にまで聞こえてるぞ」
「ケンカじゃないわよ!」
あたしは即座に否定した。だって、本当のことだもの。これはケンカなんかじゃないわ!これはね、これは…………えーい!とにかくケンカじゃないのよ!!
「それがケンカじゃなかったら、一体何なんだよ」
しつこくウーロンが嘯いた。ヤムチャの笑い声は、今ではすっかり止んでいた。まるで何事もなかったかのような顔をして、ウーロンに続いて入ってきたプーアルを、いつものように肩に乗せていた。もう、こいつは…!空気読めてるんだか読めてないんだか、それすらもわかりゃしない。
「おまえら、やっぱりわけわかんねえな。もう少しどうにかならねえのかよ」
「あんたにわかってもらわなくても結構よ。このガキ!」
「どっちがガキなんだよ」
「当然あんたよ!!」
ウーロンの言葉は、どこまでもあたしの神経を逆撫でした。こいつ、機微なさ過ぎ!ガキの証拠よね!少しは空気を読みなさいよ。ケンカじゃなかったら何なのかなんて、あたしにだってわからないわよ。わからないけど、ケンカじゃないってことだけははっきりしてる。だからこそ腹が立つのよ。いっそケンカであった方が、ずっとすっきりするわ!
「けッ、ヒステリー女」
「エロブタ!」
ウーロンとの言い争いは、完全に不毛の境地に達していた。もうこいつを追い出す以外に切り上げる方法はない。あたしがそう思った時、おもむろに横から声が割り込んできた。
「まあまあブルマ。ウーロンも、その辺にしとけよ」
呆れたように首を振って、ヤムチャが身をも割り込ませてきた。遅!!っていうか!自分だって当事者のくせに、のんきに第三者面してんじゃないわよ!
「何よ、偉そうに!元はと言えばあんたが――」
「何したんだよ、一体?」
ヤムチャに矛を向けた途端、今度はウーロンが割り込んできた。あたしは再びその声を否定した。
「なっ、何でもないわよ!!」
あー、ウザイ!こいつらウザ過ぎ!!
もう部屋を出てっちゃおうかしら。そう思って一時的に拳を下ろしたところ、またもや横から声が飛んできた。
「そうそう、何でもないから。ほらブルマ、菓子が冷めるぞ」
のんびりとした手つきで、まったく平然とヤムチャが皿を差し出した。不安そうな顔つきであたしたちを見るプーアルを肩に乗せながら。呆れたようなウーロンの視線もものともせずに。何より、わざとらしく皿にフォークを添える様が、あたしの神経を刺激した。
「あんた、本当に処置なしね!」
まったく、どういう神経してるのかしら!無神経?それとも故意犯?…どっちでもいいわ。どっちでも、あたしには同じことよ。
これ以上ヤムチャに文句をつける気が、すでにあたしにはなくなっていた。同時に部屋を出て行く気もなくなった。そんなことするもんですか。ヤムチャがそんな風に振る舞うなら、あたしだってそうするわよ。言うのだって、もうやめたわ!
こいつはきっと、どこでだってこんな風に自分のペースでやっていくに違いないわ。惚けたフリして、ちゃっかりとね!鈍いし、バカだし、それでいて変なところでだけ神経が図太いんだから。…本当に図太過ぎるわ。せめて、別のフォークを寄こせっつーの!
あたしが床に腰を下ろすと、ヤムチャも斜め前に座り込んだ。ウーロンとプーアルは、何だかよくわからない表情で、あたしたちを見ていた。その視線を、あたしはことさらに無視した。
いいのよ、わからなくて。あんたたちには10年早いわ。
当事者のあたしにだって、よくわからないんだからね!



よくわからないままにあたしはヤムチャの部屋を後にし、なんとはなしにそれからの時間を一人で過ごした。ウーロンはもう何も言わなかった。プーアルは言わずもがな。ヤムチャはまったくいつも通りだった。
何だったのかしらね、今日は。
いろいろあったような気もするし、何もなかったような気もする。目に見えて起こったことと言えば、足をちょっと痛めたくらいで。それも鎮静剤を飲んだら落ち着いたし。わりと平和な一日だったわよね。
…なのにどうして、こんなに疲れているのかしら。
不条理な疲労感に包まれて、あたしは廊下を歩いていた。春の日長の後にできた、退屈な時間を持て余しながら。自分の部屋にいても、いま一つすることがない。夜のお茶の時間にはまだ早い。かといって、もうヤムチャのところへ行く気には…
「わっ!」
突然耳元で声が響いて、あたしは思わず足を止めた。この上なく陳腐な掛け声。後ろから両目を塞いで驚かせたりする時の。ご多分に洩れず両目を隠す掌に指を伸ばしかけて、あたしは一瞬躊躇した。
「…あんた、何してんの」
「何って…」
両目を隠されたままあたしが訊くと、両目を隠したままヤムチャが口篭った。その声はどことなく気落ちしていたけれど、あたしは構わなかった。
…何、今の声。
まるっきり子どもみたいな声。後先考えずちょっかいを出す悪戯小僧みたいな声。ヤムチャが後先考える性格だなんて、もともと思ってやしないけど。それにしたって今のは…らしいと言うよりむしろ…
「浮ついてるわねー、あんた」
ものすごくしっくりくる表現を、あたしはついに見つけ出した。それに対してヤムチャは、悪びれもせず答えた。
「そうかな」
解いた手を宙にとどめながら。その顔は悪戯を咎められた子どもというより、十分にいい歳をした男に見えた。
「そんなことばっかりして。それより部屋の片付けしちゃいなさいよ」
「もう終わったよ」
本当かしら。
訝りながらも、あたしの足は自然とヤムチャの部屋へと向いた。ちょうど目と鼻の先だし。もし嘘だとしたって、いつまでもそんな気分でいるわけもない。どちらかというとすでに、部屋の主の様子の方が気になっていたくらいよ。でも、それもたった今すっきりしたし。どうして浮ついているのかなんて、考えるまでもないことだわ。
「あら本当」
ヤムチャの部屋のドアを潜った瞬間、あたしは心の一部を間接的に暴露してしまった。そしてそれは当然のようにヤムチャにも伝わった。ひねた口調で零された呟きがそれをあたしに知らせた。
「信じろよ…」
僅かに寄った眉間の皺もそのままに、ヤムチャはベッドの端に座り込んだ。やっぱりちょっと生意気ね。まるでいっぱしのやつみたい。まあ、このくらいなら悪い感じはしないけど。
すっかり片付けられてしまった部屋を眺め回しながら、あたしはヤムチャの隣に腰を下ろした。そして、ずっと思っていたことを言ってみた。
「信じてないわけじゃないけど。あんたの言うことって、いまいち信用できないのよね」
「それを信じていないと言うんだ…」
ヤムチャのひねた口調はいつしか拗ねた口調へと変わっていた。同じように変わっていく顔を横目に、あたしは指折り数えてみせた。
「だってヤムチャってば、デートはすっぽかすし、キャンセルだって平気でするし、隠し事はするし、すぐ他人に流されるし、何でもかんでも安請け合いするし、それに…」
それでいて他人には好かれるし。
口には出さなかった最後の要素を、あたしはしみじみと噛みしめた。まったく、これほど信用できない人間もないわよね。数少ないこいつの長所があたしに向けられてなかったら、とっくにお払い箱にしていたところよ。
ヤムチャはすっかり黙り込んだ。ちょっと本当のこと言い過ぎちゃったかしら。あたしって嘘つけないからなあ。そう少しだけ自分を反省した時、おもむろに声が飛んできた。
「そういう男と付き合ってるのは誰なんだ?」
「…へ?」
我ながら間抜けな声を、あたしは上げた。完全に意外を突かれた。いえ、台詞自体はよくあるものよ。ドラマや漫画なんかで時々聞くわよね。でも、何だってヤムチャがそんなことを言うわけ?…新手のジョークかしら。
あたしに不審を与えた男は、それきりなぜか黙り込んだ。微かに斜めに構えるその様は、冗談という雰囲気からは程遠かった。姿勢とは裏腹にまっすぐな瞳。それでいて探るような目つき。…ちょっと、ひょっとしてマジで訊いてるわけ?普通そういう台詞は、悪ふざけで言うものじゃないの?
面倒くさい話吹っかけちゃったな。あたしは心底そう思った。こいつ、そんなに冗談通じないやつでもないと思ってたのに。…特に今日は。でもそうね、ヤムチャってば鈍いから。昼間はあたしも『冗談だ』ってはっきり言ったからなあ…
「普通、信じてないやつと付き合ったりはしないよな」
今度は幾分くだけた口調で、ヤムチャが言葉を続けた。あたしは軽く小首を傾げた。…なんだ、わかってるんじゃないの。ってことは何?またからかってるわけ?でも、いまいち目的がわかんない…
「な。そう思わないか?」
「あんた、一体何が言いたいのよ…」
少しだけ感じ始めた苛立ちを、あたしは胸に押し込めた。別に嫌なことを言われているわけじゃない。だけど、何となく落ち着かない。浮ついてるのはわかったけど。気持ちがもうここにないのもわかったけど。それにしたってらしくなさ過ぎ!っていうか、そういう話を真顔で振るなっつーの!
「んー…」
軽く唸りながらも、ヤムチャは視線を外さなかった。軽い声音に重い態度。らしさとらしくなさがミックスされたヤムチャの雰囲気に、あたしは気圧されかけていた。…絶妙のバランスだわ。これで長所がなかったら、完璧詐欺師かたらしよね。
「ブルマはどう思ってるのかなって思って」
「どうって…」
わけがわからず復唱すると、またもやヤムチャは黙り込んだ。変わらず視線は外さずに。まっすぐに探るという器用さで。何かを待っているような瞳で。…あ。
あっ。あーっ!あぁーーーーーっ!!
ついにあたしは気がついた。ヤムチャが何をしようとしてるのか。あたしに何をさせようとしてるのか。何を言わせようとしてるのか。…何こいつ!信じらんない!
「ちょっとヤムチャ!あんた何でそういう――」
「ん?」
畳みかけるように呟きながら、ヤムチャが深くあたしの顔を覗き込んだ。あたしは慌てて口を押さえた。…ヤバ。気づかないフリしとけばよかった。
ヤムチャはそれ以上何も言わなかった。ただ黙ってあたしを見ていた。でもそれはあたしにとって、何の救いにもならなかった。いえ、むしろなお悪いわ。
『言ってみただけ』って笑いなさいよ!ここは断然そうすべきよ。そんな顔するのやめてよ。ああもう、どうしてこいつは素地がいいのよ。色仕掛けって、普通は女がやるものでしょ!!
沈黙は長かった。でも、それをあたしから壊すつもりはなかった。…だって、間違ってるもの。こういうのは普通――
ようやくあたしは、攻撃どころを一つ見つけた。それとほとんど同時だった。
「ブルマって、本当に俺のこと好きなのか?」
おもむろにヤムチャが言った。平然と言い放った。しかも真顔で。その瞬間、頭の中が急激に冷えた。
…それは言っちゃダメでしょ。それだけは絶対にダメでしょ!!とっくにわかってたことだけど――こいつ、軽過ぎ!!!
今すぐに部屋を出ていくことに、あたしは決めた。逃げ?いいえ、違うわ。あたしがこいつを捨てるのよ!!こいつがもうすぐいなくなるところで、ちょうどよかったわ!
ベッドから腰を上げながら、あたしは最後の睨みを利かせた。途端にヤムチャが態度を変えた。それまでの真摯さだけを引き摺りながら、あたしの手を掴んだ。あたしが睨み続けても、手を放さなかった。
「悪い!悪かった」
「何がよ!!」
あたしが一言怒鳴りつけると、ヤムチャはすっかりいつもの腰の弱さを露呈した。やや涙目になりながら、弱々しく呟いた。
「…俺が調子に乗り過ぎました」
「よくわかってんじゃないの!!」
あたしを見るその瞳は、心底反省しているように見えた。態度だってそれらしく見えた。でも、あたしの心は晴れなかった。
何だって、こいつはこんなにバカなのよ。少しそれらしくなったと思ったら、途端に調子に乗るんだから!さっさと修行に行っちゃって、性根を鍛えなおしてもらうといいわ!
「だいたいね、おかしいわよ!告白っていうものは、男の方から言うものでしょ。特にあんたはいなくなる側でもあるんだから。あんたが先に言いなさいよ!」
さっき見つけた攻撃どころを、あたしは敢えて口にした。ヤムチャと共に、再びベッドの端に腰を下ろしながら。…寛大よね、あたしって。時々こんな自分が嫌になるわ。
「え…俺?」
「そうよ。あんたから言うのが筋ってもんでしょ!」
そういうのは、出て行く側が繋ぎ留めておくためにすることよ。それを先に引き留めさせようとするなんて、どういう神経してるのよ。どこまでもズレてるんだから!
「そんな急に言われても…」
「あんた、あたしのこと好きじゃないわけ?」
あたしが畳みかけると、ヤムチャは黙った。あまつさえ目を伏せた。何こいつ。さっきまでのらしさは一体どこへ行ったのよ。あのノリで言っちゃいなさいよ!
ヤムチャがそんな態度なら、あたしだって言わないわよ。そんなことしたら、調子に乗るに決まってるんだから。っていうか、さっきもう乗ってたし!
結局、ヤムチャは言わなかった。どうやら憑きものは落ちちゃったみたい。いつものポジションを取り戻したことを感じ取った時、あたしの怒りはすでに嘆きへと変わっていた。

…あたし、どうしてこんな男が好きなのかしら。ヤムチャよりあたしの方が、ずっと一本気なんじゃない?もしかして。
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