閑歩の男
少し硬いベッドの感触。どことなく汗ばむ空気。異常に閑静な田舎の雰囲気――
「ほれ、では始めるぞい」
「はい!!」
――それを破る、体育会系男たちの掛け声。
いつもとは全然違う休日の朝。最後の要素に、あたしは目を覚まさせられた。おぼろげな頭で壁の時計に目をやると、そこには信じられない光景があった。
…4時30分。
あいつ、何もこんな時間から修行しなくても。体力バカに磨きがかかってるわね。
暑さとうるささをふるいにかけて、それまで足元に蹴っていたタオルケットを引き上げた。瞬間、閉じかけた視界の端に信じられない光景が見えた。
ランチさんが。すでに着替えを済ませた青い髪のランチさんが、部屋を出て行こうとしている…
「…ランチさん、早いわね。いつもこんなに早く起きてるの?…」
薄目を開けてあたしが言うと、ランチさんがぱっちりとした目で振り向いた。そしてにこやかに笑って言った。
「おはようございます、ブルマさん。ええ、いつもいつもっていうわけじゃありませんけど。でも、自然と目が覚めるものなんですよ」
…そりゃあ、あれじゃね。
朦朧とした頭であたしは考えた。C.Cにいた時はそんなにうるさく感じなかったんだけどな。きっと家の広さと頭数のせいね。
「ブルマさんはまだお休みになっててくださいな。朝食は8時頃ですから」
笑顔と共に向けられたランチさんの好意を、あたしは素直に受け取った。…例え起きろって言われても、起きられないわ。窓の外から聞こえてくる足音と声に耐えかねてタオルケットを頭から被りながら、あたしは思っていた。
あたし、ランチさんと同室でよかったわ。ヤムチャと同室のウーロンは、きっと叩き起こされてるわね…


とはいえ結局6時過ぎ頃に、あたしは叩き起こされた。
「ほっほっ、2人とも終わったな。では畑に行くぞい」
「はい!!」
どこぞの農民が、再び掛け声を響かせたからだ。いちいちうるさいわね。畑に行くくらいもっと静かに…
…畑?
朦朧とした頭でも、十分不思議に感じられた。…あいつら一体何やってんのかしら。畑って、畑よね。旗気…端毛…傍家とか?
目を擦りながら階段を下りていくと、仄かに香ばしい香りが鼻をくすぐった。リビングのテーブルで、ランチさんがコーヒーを啜りながら、何かの雑誌を捲っていた。
「あら、おはようございます、ブルマさん。お早いんですね」
「…ランチさんほどじゃないけどね」
さして気分も害さずに、あたしは答えた。ランチさんが嫌味を言っているのではないということは、すぐにわかった。
「コーヒーお飲みになります?」
あたしの返事は待たずに、ランチさんはキッチンへと消えた。テーブルの下へと除けられた雑誌になにげなく目をやると、表紙にはこう書かれていた。『きょうの料理』。…ランチさんもハウスキーパーがすっかり板についてるわね。
「どうぞ、ブルマさん」
ランチさんの淹れてくれたコーヒーは、少し薄めだった。ひとつだけ砂糖を落としながら、あたしは訊いてみた。
「ねえ、あいつら何やってるの?こんなに朝早くから修行する必要あるのかしら…」
そのぶん昼寝を外せばいいのに。
昨日から引き摺っている疑問を、あたしは未だ捨て切れずにいた。ちょっとしつこいかしらね。でも、誰だってそう思うわよね。
ランチさんからの返事は、ある意味明快だった。
「いろいろあるみたいですよ。牛乳配達とか、畑仕事のお手伝いとか」
「……へ〜え…」
明快だからといって、理解できるとは限らない。世の不条理を、あたしはしみじみ噛みしめた。体育会系のすることはわからないわ。どうすればバイトと修行が一緒くたになるわけ?
「シャワー使わせてもらっていいかしら。寝てる時暑くって」
「ええ、どうぞ」
体力バカを理解するという無駄な努力を一瞬で諦めて、あたしはあたしの条理を通すことにした。ランチさんはにこやかにそれを受け止めた。


熱いシャワーを浴びていると、ようやく意識がはっきりしてきた。同時に思考が正反対の方向へと動き出した。
なんだかなあ…
ヤムチャに会いにきたっていう気が、全然しないわ。まあ、もともと強く思ってきたわけじゃないけど。それにしたって実感なさ過ぎ。実感どころか、違和感もないし。なんかここって、異常に時間がさりげなく流れてるわよね。気がついたら一日経ってるんだもの。ヤムチャだけじゃなく、他のみんなと会うのもひさしぶりなのに。この不自然な自然さは一体何なのかしら。
「まずいですよ、ヤムチャさん!」
「武天老師様ーーー!!」
ふいに、慌てたような弟子たちの声が遠くに聞こえた。続いてどかどかと床に響く、複数の足音。あたしは溜息をつきながら、シャワーの勢いを強くした。
…ヤムチャのやつ、何やったのかしら。あんな大きな声出しちゃって。どこにいても世話をかけるやつね。
「これ、そう騒ぐでない。これくらい構わんて」
ややもして、また声が聞こえてきた。弟子たちとは裏腹に、落ち着き払った師匠の声が。
「音と光の動きから、何をしているか読み取るんじゃ。これはなかなかにテクニックを要する技じゃぞ」
亀仙人さんの言葉は、さっぱり状況を読ませないものだった。とはいえ、いつもと違って少しだけ畏まったその声音が、あたしの心を清新にした。
何だかよくわかんないけど、それっぽいこと言ってるじゃない。武道に関しては案外真面目なのね。そうよね、あんなに朝早くから修行してる程だもの。前にもこういうこと言ってたような気もするし。まあ、それくらいじゃなきゃ、あんなエロいじいさんに弟子がつくはずもないか。
「おぬしら融通利かんのう」
亀仙人さんの説教は、思いのほか長く続いていた。そうそう、もっと言ってやって。特に末の弟子には強く。そう考える一方で、あたしは少し不快にも感じ始めていた。
…この家、声が筒抜けだわ。
きっと広さと間取りのせいね。ひょっとして、昨夜のヤムチャとの会話も、1階まで聞こえていたのかしら。だからランチさんまであんなこと――
…まあ、別にたいしたこと話してないか。
今やすっかりクリアになった意識に、昨夜の光景が浮かび上がった。あたしは再び溜息をつきながら、シャワーのコックを締めた。あー、やめやめ。昨夜のことは忘れちゃお。今さら怒っても不毛なだけだわ。みんなにも、あいつにも。寛大よね、あたしって。
いつしか男たちの声は止んでいた。どうせまた修行しに行ったのよ。本当に、そればかりなんだから。ランチさんの苦労が思いやられるわ。テーブルセッティングくらい手伝ってあげなきゃね。気の利かない男所帯のハウスキーパーって、本当に大変そう…
壁にかかったフェイスタオルで軽く体を拭きながら、あたしはバスルームのドアを開けた。瞬間、新たに開けた視界の真ん中に、信じられない光景が見えた。
その気の利かない男たちが。修行しているはずの男たちが、揃いも揃ってラバトリーにいる…
「あ」
先頭の男と目が合った。思いきり目を丸くして、ヤムチャが一言呟いた。『あ』じゃないでしょ、『あ』じゃ!どうしてあんたらがここにいるのよ!!
「きゃあぁぁあぁぁあぁぁーーーーー!!!!!」
声が聞こえた訳だけを理解して、あたしはタオルを持っていない方の手を閃かせた。

信じらんない!
てっきり修行してるものだと思ってたのに。亀仙人さんはともかく、ヤムチャとクリリンくんはこういうことしないやつだと思ってたのに!
取り急ぎ着替えを済ませて、犯人一味の待つリビングへと顔を出した。行きたくないけど、しょうがない。リビングを通らなきゃどこへも行けないんだから、この家は。
「何だってあんなところにいたのよ!あんたたち、修行してたんじゃなかったの!?」
この当然のあたしの疑問には、ひとまずの回答が与えられた。
「してたさ。でも武天老師様がバスルームに行ったっぽかったから、止めに行ったんだよ」
「ああそう!!」
ある意味明快なヤムチャの言葉を、疑う気持ちはあたしにはなかった。ありそうなことだわ!でも、だからといって、気が治まるわけもない。当ったり前よ。全然止めれてないじゃないの!!…エロい師匠に、それを止められない気弱な弟子。本当に、ランチさんの気苦労が思いやられるわ。彼女、平気なのかしら。
一瞬逸れたあたしの思考は、すぐさま現実に戻された。
「まったく何で俺まで…俺はただ武天老師様を連れ出そうとしただけなのに…」
頬についたあたしの手形を擦りながら、ヤムチャが白々と呟いた。目を伏せあまつさえ偉そうに不平を漂わせるその声を、あたしは当然退けた。
「何言ってんの!あんただって見てたでしょ!!」
思い出したくもない光景を、脳裏に再生しながら。ヤムチャってば、あたしの一番近くにいたのよ。それに加えてあの反応。きっと絶対見てたわよ!
あたしの言葉に、ヤムチャは反論しなかった。目は相変わらず伏せながらも、あからさまにその身を縮こまらせた。…嘘のつけないやつね。もう最悪!
「おれなんかほとんど見てないのに…」
やっぱり頬を擦りながら、もう一人の自称被害者が横からそう嘯いた。認めているに等しいクリリンくんの声をも、あたしは退けた。
「ちょっとでも見てたら同罪なの!!」
さすが兄弟子ね。末弟子よりふてぶてしさが断然上だわ!
「一体どうなさったんですか、みなさん?」
ランチさんと一緒に朝食の席を調えていたプーアルが、不思議そうに首を傾げた。まったく何も気づいていないらしいその顔を見て、あたしは言葉を詰まらせた。その隙に、最も項垂れるべき人物が、いけしゃあしゃあと言い放った。
「ほっほっ。なに、ちょっとしたアクシデントじゃよ。ブルマちゃんのないすばでぃがじゃな…」
「黙らっしゃい!!」
どこがアクシデントなのよ。立派な犯罪行為でしょ!
さっぱり反省の色が見えない亀仙人さんを睨みつけながら、あたしは世の不条理をしみじみと噛みしめていた。
もう、一体何なのよ、これは!あたしはヤムチャに会いにきたんであって、セクハラされにきたんじゃないのよ!
「ごめんなさい、ブルマさん。私が亀仙人さんのお相手をしていなかったから…」
「ランチさんが悪いんじゃないわよ」
なぜか謝る部外者に、あたしは思わず頭を下げた。あたしの怒りは、今や完全に呆れへと変わっていた。
どうなってるのかしら、この家は。一番悪い亀仙人さんが堂々としてて、どうして何もしてないランチさんが謝るわけ?そして、それがどうしてこうも自然に感じられるのよ。
異常に不自然な自然さだわよ、これは。


部屋中に立ち込めるアメリカンコーヒーの香り。とろけるような口当たりのスクランブルエッグ。瑞々しいグリーンサラダ。いつもとは少し違った朝食を、あたしはとても微妙な気持ちで食べていた。
…あー、おいしくない。
すっごくおいしいんだけど、ちっともおいしくない。こんなに料理上手な人が、こんな雰囲気の悪い家でハウスキーパーをしてるなんて。まったく、宝の持ち腐れだわ。
世の不条理を、あたしはひしひしと噛みしめていた。そんなあたしの思いをよそに、ランチさんはにこやかにみんなのカップにコーヒーを注いで回っていた。そして朝食も半ばに差しかかった頃、やっぱりにこやかに言った。
「ブルマさん、イチゴお食べになりませんか?この辺りで採れたものなので、少し小粒なんですけど。お好きなんでしょう?」
「あ。ありがとうランチさん」
あたしが答えるが早いか、ランチさんは颯爽とキッチンへ姿を消した。でもすぐに戻ってきて、きれいに盛り分けられたデザートカップを一つ、あたしに差し出した。それを受け取った瞬間、あたしの中で彼女の評価がいや増した。
カップはすっかり冷えていた。きっと前もって冷やしていたに違いない。それでいて、上にかかっているクリームは垂れていない…
目に見えるランチさんの好意と、見えない意の両方を、あたしは素直に受け取った。…情報源が誰なのかなんて、訊くまでもないことだわ。
いつもの朝と同じように、いつもとは違う種類のイチゴをあたしは味わった。野性味の中にある微かな甘みが口の中に広がって、心が一瞬清新になった。それであたしはこれを機に、気分を改めることにした。
もう忘れるわ。そして忘れさせるわ。いつまでも覚えられていてたまるもんですか。
イチゴを頬張るあたしの斜め向かいで、ヤムチャは黙々と料理を口に運んでいた。一見すましきったその顔が、実は何も考えていないだけなのだということを、あたしはよく知っていた。…本当に、鈍感とさりげなさって紙一重よね。
「きゃっ」
「あ、悪ぃ」
手元のイチゴへと視線を戻しかけた時、テーブルの反対側から小さな悲鳴が漏れた。見ると、テーブル中央に置かれたコーヒーポットへ伸ばしたランチさんの手に、ウーロンが手をかち合わせていた。…このブタは。こんなところまで来て、そういう姑息な真似…ランチさんの隣に座らせたりするんじゃなかった。せっかく気分を変えたところだったのに!
フォークと拳を同時に握った。その時だった。
「は…は……はっくしゅん!!」
ランチさんがくしゃみをした。一瞬にして、ランチさんの髪の色が変わった。あっという間もなかった。
「っちーーーーー!!このやろう、何しやがる!!」
一瞬にして人格をも変えたランチさんが、大声でがなり立てた。そして一体どこに隠し持っていたのか、サブマシンガンを取り出した。ガキリと鈍い装填音が響いた。ええ!?ちょっと、まさか――
「ブルマ、ウーロン!伏せろ!!」
いきなり飛んできた緊張感溢れるその声に、あたしは従わなかった。すでに従わされていたからだ。気づいた時にはあたしは仰向けに床に押し倒されていて、目の前が真っ暗になっていた。視界を覆い隠すヤムチャの胸の向こうから、応報とも言うべきウーロンの叫び声が聞こえてきた。
「うわわわわわわわわーーー!!」
おそらくはフルオートで放たれている、サブマシンガンの銃声をBGMに。食器の割れ砕ける音も華々しく。…確かに自業自得だけど。ちょっとやり過ぎなんじゃないかしら。
土にも似た汗の匂いに混じって、硝煙の臭いが鼻腔に染みつき出した。その焦げ臭さに思わず鼻を顰めると、銃声が止んだ。同時に鋭い舌打ちの音が小さく聞こえた。どうやら全弾撃ち尽くしたみたい。ここでヤムチャが体を除けたので、次のランチさんとウミガメの会話は、あたしの耳にはっきりと聞こえた。
「気ぃつけやがれ!ったく、躾の悪いブタだぜ!」
「はいはい、そうですね」
「茶もゆっくり飲めねえ家だぜ、ここは!」
「はい、本当にそうですね」
…ウミガメってば図太いわね。さすが亀の甲と年の功、両方揃えているだけあるわ。
呆れながら頭を上げると、テーブルの端を飾る銃弾のえぐり跡が目に入った。壁に穿たれた兆弾の跡も。ひえぇ。人間盾がいてよかった。あたしは身を竦ませながら、一足先に体を起こした隣の男に目をやっ た。ヤムチャの視線の先にはウーロンがいた。ウーロンはソファの陰からおっかなびっくり顔を覗かせて、恨めしそうにあたしとヤムチャを見ていた。
「おまえ、どうしてブルマだけ庇うんだよ。どうせなら、おれも一緒に助けろよな!!」
…ウーロンも図太いわね。っていうか、図太過ぎるわ。あんたが元凶でしょうが!
「そんなこと言われても…まあ、次からは気をつけろよ」
無造作にヤムチャは答えた。まるで何事もなかったかのような顔をして。かろうじて割れずに済んだコーヒーポットを、なにげなく引き寄せながら。いかにも気の入っていないその態度に、あたしは思わず横から口を挟んだ。
「次って、あんた何言って…」
こいつ、まさか容認したわけ?それとも気づいてないのかしら。相変わらず鈍いわね。でも、もしそうだとすると意味がわからないわ。
「ああ、時々あるんだよ、こういうこと」
やっぱり無造作にヤムチャは言うと、カップにコーヒーを注ぎ始めた。今だ残る硝煙の中に、仄かなコーヒーの湯気が上がった。よくこんな状況でコーヒーなんか飲めるわね。その図太さに呆れさせられながらも、あたしは完全に腑に落ちた。
気の利かない男所帯。エロい師匠に、それを止められない気弱な弟子。そんな中、ランチさんはこうやって、身を守っているわけね。どうりで、亀仙人さんのこともたいして意に介さないはずだわ。
形だけはテーブルに向かいながら(もう食欲なんかないわ)、あたしは周囲の面々を見回した。苦虫を噛み潰したような顔をして、図々しくも再びテーブルにつくウーロン。やれやれといった表情で、体に浴びた白磁の欠片を払い落しているクリリンくん。慣れた手つきで、テーブルの上の食器の残骸を片付けているプーアル。相変わらずのんびりと、ランチさんを宥めているウミガメ。一見気遣うような顔をして、そこに近付いていく亀仙人さん…
最後の要素に眉を顰めて、あたしは少しだけヤムチャの方に身を寄せた。…あたし、ヤムチャの近くに座っててよかった。これからもせいぜい、この気弱い弟子の傍に座っていようっと…


朝食が終わると、ヤムチャたちはさっさと外へ出て行った。何があってもまた修行。体育会系の神経って、量り知れないわね。っていうか、さらに鈍さに磨きがかかってるわ。
いま一つ使い慣れないキッチンで、あたしはプーアルと一緒に、数少ない食器の後片付けをした。ランチさんが、金髪のままだったからだ。ウーロンは部屋の掃除。これが一番大変だけど、自業自得よ。
洗濯物はすでにハウスの横に翻っていた。フリーザーを開け閉めしながら昼食をどうすべきか頭を悩ませていると(ここ、ランチャブルとかテレビディナーなんか絶対ないわよね)、ウミガメがやってきてさらりと言った。
「こういう時のために、フリーザーに下拵えを済ませた物が用意してあるんですよ。オーブンで焼くだけで食べられます。パンはパントリーにあるはずですし」
「あ、そうなの」
あまりの手回しの良さに、あたしは思わず舌を巻いた。もう、ここではこれが普通なのね。
いくつか用意されていたストックの中から適当に料理を選び、オーブンに放り込んだ。いま一つ着慣れないフリフリエプロンを投げ捨ててリビングへ戻ると、ランチさんが床に座り込んで、銃の手入れをしていた。さっき使ったサブマシンガンと、見たことのない短銃。透けるはずもない銃身を宙に透かしてほくそ笑むその姿を見て、あたしは深く考え込んだ。
…あたし、リビングにいて大丈夫なのかしら。ブタとネコと亀。ここに残っているのは、頼りない連中ばかりなんだから。しかもそれですら、今は姿が見えないし。ランチさんを怒らせるつもりなんか、これっぽっちもないけど。それにしたって、心許なさ過ぎ…
「おまえ、銃使ったことあるか?」
ふいにランチさんが呟いた。あたしは一瞬固まって、次に周りを見回した。あたしの他には誰もいない。これはやっぱり、あたしに訊いてるのよね?
「…ええ。一応あるけど」
「へえ。意外だな。おまえ、いいとこのお嬢さんなんだろ?」
ランチさんの反応は、ちょっぴりあたしの神経を刺激した。そういうこと、まったく言われたことないわけじゃないけど。でもやっぱり慣れられないわ。
「そんなの関係ないわよ。必要があれば、誰だって使うでしょ」
あたしが言うと、ランチさんは笑った。片口を上げて、それはそれはニヒルな表情で。でも、今度はあたしの腹は立たなかった。あまりに似合い過ぎていたからだ。
「何使ったんだ?」
「何って…えーと、何だっけあれ。映画でJ・Bが使ってたやつ。それとB・Wが撃ちまくってたサブマシンガン」
「ワルサーPPKとH&K-MP5か。ちゃんと当たったか?」
「たぶん全弾当たったわ」
「そいつはどうなった?死んだのか?」
「ピンピンしてたわ」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、ありのままをあたしは答えた。最後の質問に答えた途端、静寂が訪れた。その時のランチさんの顔は、あたしが初めて見るものだった。
「はっはー!そいつはよかったな。人殺しにならずに済んだってわけだ」
一瞬丸くした目を笑い目に変えて、ランチさんが豪快に笑った。組み直した胡坐の下から、銃弾がいくつか出てきた。
「オレもそういう奴に会ってみたいぜ。タフで強くてワイルドな男によ」
今度はあたしが目を丸くする番だった。だってあたし、男だなんて言ってないのに。…ランチさんと恋愛談議。そんなの想像したこともなかった。
心の底から驚きながらも、あたしは一つ訂正しておいた。
「タフで強くてワイルドなのは確かだけど、男じゃないわよ。孫くんだもの」
「あー、あいつか。そうだな、あいつは死ななさそうだな」
「でしょー」
あたしの話を笑って受けるランチさんに、あたしは気を緩めかけていた。これが他の人だったら――特にウーロンやヤムチャやクリリンくんだったら――絶対に顰めっ面をしているところよ。このランチさんって、案外話はわかるのかもね。まだちょっぴり怖いけど。
「ま、ここの連中も十分死ななさそうだけどな」
「そうかしら…」
心情的にはランチさんに同意しながらも、あたしは首を傾げてみせた。何しろランチさんは、本当に殺しかねないんだから。あまり軽々しく同調すると、後が怖い…
あたしの感覚は間違っていなかった。ふいにランチさんの口元に、不敵な笑みが閃いた。
「じゃあ、試してみるか?そうだな、とりあえずおまえの男から」
「え?」
あたしは思いっきり意表を衝かれた。どうやら恋愛談議はまだ続いていたらしい。…これが恋愛談議なら、だけど。
いつの間にか銃弾が、ランチさんを取り巻くようにして床の上に並べられていた。ランチさんは中の1つを手に取って、念入りにためつすがめつし始めた。
「おまえ、ヤムチャの奴に会いに来てるんだろ?なのにあいつ、修行ばっかしてやがるし。ま、オレにとってはどうでもいいことだけど、撃つには十分過ぎる態度だろ。…どうだ?一丁、灸を据えてみないか?」
「…いえ。それはちょっと…」
ランチさんの感覚に部分的には同調しながらも、あたしは言葉を濁した。だって、いくら何でもそれだけの理由で撃つのは。…過激過ぎるわ。
「そうか?気に入らないことがあったら、すぐ言えよ。いつでもオレの相棒を貸してやらあ」
笑い飛ばすランチさんの顔は、軽快そのものだった。それにも関わらず、あたしは言葉を返すことができなかった。気づいていたからだ。
ランチさんが短銃に、弾を込め始めていることに。確かにこのランチさんは、性格はそれほど悪い人じゃないのかもしれない。でも…
やっぱり怖いわ。

額に滲む汗を隠して、あたしはキッチンへと退散した。ふと思い出してオーブンの中を覗き込むと、チキンがジュワジュワと音を立てながら、焦げ色をつけ始めていた。次にパントリーに手をかけた時、リビングから大きくドアが開く音がした。
「おーい。じいさんたち帰ったぞー」
一拍置いて、揚々と帰宅を告げる『だけ』のウーロンの声が聞こえてきた。こいつ、今まで一体どこに隠れていたのかしら。掃除だけ済ませてさっさとどっか行っちゃってさ。ちょっとは手伝えっつーの。
パントリーからパンを探し出して、トースターに放り込んだ。すでに挽いてあったコーヒーを、コーヒーメーカーにセットした。一息ついてリビングへと目をやると、そこはもう立派な男所帯だった。
ぶらぶらと鬱陶しくその辺りをうろつき回っているウーロン。能天気な笑い声を響かせてテーブルについている亀仙人さん。気の抜けた顔をして、それに付き従うクリリンくん。足もとにのんきそうななウミガメ。ドア傍に、ずっと一緒にいたにも関わらずさらにヤムチャに纏わりついているプーアル…
ふとソファの陰から紅一点の姿が覗いた。むさ苦しい男たちの雰囲気に呑まれもせず、飄々とした顔で銃を手にしている。次にランチさんのしたことを見て、あたしは思わず笑ってしまった。
「バーン!」
そう叫んで、わざとらしく銃を撃つ真似をして見せたからだ。銃口をまっすぐヤムチャに向けて。さっきあたしに見せたのに似た笑みを口の端に乗せて。その時の、ヤムチャの顔ったらなかった。
これ以上ないってほど、目を丸くしていた。思いっきり腰を引いて、どこからどう見てもビビっていた。あんなの冗談に決まってるのに。ランチさんは撃つ時は、間なんかおかないんだから。でも、すっきりした。何かよくわかんないけど、すっごくすっきりしたわ。
ややもすると、そのヤムチャとウーロンもテーブルについた。本当に、ここの男たちは働かないわね。あたしは呆れ返りながら、オーブンからチキンを取り出し、大皿に乗せた。たぶんもう少し焼いた方がいいんだろうけど、もうこれでいいわ。パンもコーヒーももうできたし。えぇとカップは一体いくつ…
リビングにたむろする頭数を数えていると、プーアルがやってきた。そしてトレイの上にコーヒーカップを並べ始めた。続いてウミガメもやってきて、どこからかパントレイを持ち出してきた。…唯一働くのが、この人の好い小動物たちか。なるほどね。
ともかくも、昼食の席はでき上がった。誰からともなくカトラリーに手をつけて、さしたる言葉もなしに食事が始まった。
「武天老師様、一体どこに行ってらっしゃったんですか。先ほど隣町の方が、お願いがあると仰って見えられましたよ」
その始まったばかりの昼食の席で、ウミガメがさりげなくあたしの興味をさらっていった。『町の方がお願い』。ふうん。こんなじいさんにお願い事をする人なんているのね。正体を知らない赤の他人ね、きっと。
「ほっほっ。いやなに」
能天気な笑い声を響かせながら、亀仙人さんが答えた。それもまた、あたしの興味を引く言葉だった。
「ちょっとしたアクシデントが起こってな。ヤムチャの奴めが…」
「武天老師様!!」
のだけど、途中でヤムチャ本人が邪魔をした。あたしは一瞬呆気に取られて、次に笑いを堪えた。
ヤムチャはあからさまに焦っていた。顔は笑っているけど、作り笑顔なのがバレバレ。柄にもなく大声出しちゃってるし。相変わらずわかりやすいやつね。それじゃ、自分で喧伝しているようなものよ。朝は従犯だったけど、今度は主犯なのに違いないわ。
「ほっほっほ」
「なーに?何かあったの?」
能天気に笑い続ける亀仙人さんに、笑いを押し殺してあたしは訊ねた。聞いても耳に耐えられそうだと思ったから。亀仙人さんのこの態度、きっとそんなにひどい話じゃないわ。たぶんヤムチャのボケ話よ。亀仙人さんはエロいけどまだボケてはいないみたいだから、ボケた弟子にいちいち付き合うのも大変でしょうね。
「…別に。何にも」
そのボケた弟子が答えた。雰囲気をぶち壊す、重々しい口調で。あたしは一瞬呆気に取られて、次に眉を顰めた。
ヤムチャが溜息をついたからだ。それは反省しているといった感じでは、全然なかった。っていうか!どうして、あたしの顔見て溜息つくのよ!
「何それ。言えないことなわけ?」
「い、いや!本当に何でもないんだよ…」
あたしが強く言ってやると、ヤムチャの態度は一転して軽々しくなった。ものすごく大げさな仕種で両手を振った。目が完全に泳いでいた。何が『何でもない』よ。バレバレだっつーの!
「…あっそ!」
折れてくるなら今のうち。あたしはそう思いながら、チキンの大皿を引き寄せた。こんな、みんなのいるところで、あからさまにケンカしたくないわ。ここの連中ってば、揃いも揃って野次馬なんだから。
チキンを口に運び始めても、ヤムチャは何も言ってこなかった。それどころか露骨に目を逸らして、あたしとの会話を避け続けた。そしてそんな態度を取っておきながら、しれっとした顔を装って(そんなの丸わかりよ)、チキンの大皿を引っ張っていった。物言わぬその口が再び溜息を吐きだすのを、あたしは見た。
何こいつ。態度悪ーい。ランチさんの言う通りね。撃つには十分過ぎる態度――
自分がヤムチャを撃つところを、あたしはちょっぴり想像してみた。同時に思い返してもいた。これまでのヤムチャのことを。それと孫くんのことを。
――うーん…………やっぱり、撃っちゃダメかも。


それからヤムチャとは一言も口をきかないまま、昼食の時間は終わった。とりあえずカップ類だけをキッチンのシンクに突っ込んで泡に塗れさせていると、ヤムチャがやってきた。残りの食器を重ねて手にしながら。相変わらず何も言わなかったけど、あたしにはわかった。
本当にヤムチャってば、わかりやす過ぎ。機嫌取ってるのが見え見えだわ。まあ、取らないよりはマシだけど。
「ふわあぁぁ…」
少しだけ気を緩めると、途端に大きな欠伸が喉から出た。あー、眠い。今朝は早起きし過ぎたからなあ。
目の前の小窓から流れ込んでくる、生ぬるい常夏の空気。隣には、洗い終えた食器を静かに片づけるプーアル。リビングから漏れ聞こえてくる、ランチさんとウミガメの声…
「今日の昼メシはなかなかイケたな」
「あれはランチさんが作ったものなんですよ」
…のんきよね。まったく、平和そのものよ。
そう感じたことに、自分自身で驚いた。どうやらあたしも、ようやくここに慣れてきたみたい。そうよね。もうすぐ、丸一日過ごしていることになるんだものね。
洗い物を終えてリビングへ戻ると、窓辺で亀仙人さんが煙管をふかしていた。悠々と、時の流れを忘れさせるような雰囲気で。そうしてると、少しはそれらしく見えるわね。そう思った時、亀仙人さんが腰を上げた。
「どれ、ではそろそろ昼寝にかかるとするかの」
一瞬感じたあたしの敬意は、瞬時にどこかへ飛んでいった。今や亀仙人さんの顔は、武道の達人というよりは、楽隠居しているじいさんそのものだった。ただ朝とは違って、今度はヤムチャとクリリンくんは、あの体育会系掛け声を上げなかった。よかった。さすがにここであの声を出されたら、本気でバカかと思っちゃうところだったわ。
「ねえ、あのハンモックって予備はないの?あたしも昼寝したい」
呆れと安堵を噛み締めながらあたしが言うと、一瞬ヤムチャがあたしを見た。その表情を探る間もなく、亀仙人さんから能天気な声が返ってきた。
「いくつか余分に取りつけてあるぞい。どこでも好きなところを使うがよかろう」
「…サンキュー」
つるつると答えるその態度に、あたしの呆れは強まった。それでもとりあえずお礼は言って、すぐに玄関のドアを開けた。どこでも好きなところを使っていいって言ったわよね。それなら断然、一番高いところよ!
昨日見た、ハウスの横手へとあたしは走った。そこには気持ちのいい夏風が吹いていた。目当てのハンモックに手をかけながら、あたしはつくづく思っていた。
こんな風に他の人間の分まで用意されているなんて。やっぱりどう考えても修行じゃないわよね、これ。でもまあいいわ。あいつらはきっと、朝早くから修行して、それっぽい雰囲気に浸りたいのよ。その気持ちはわからなくもないわ。何しろ、師匠があれなんだから。
ハンモックへは、なかなかよじ登れなかった。雑念が入っているからかしら。あたしがそう思った時、ふいに体が持ち上がった。
ちらと振り返って見ると、雑念の一端がそこにいた。ヤムチャの表情を探る間もなく、あたしは頭からハンモックに突っ込んだ。もう、乱暴なんだから!
「サンキュー」
そうは思ったけど、あたしはとりあえずお礼を言った。…どうしてやってきたのかなんて、もうわかりきってるわ。
木の葉の隙間から覗く青い空。うまい具合に弱まる夏の日差し。髪を弄る清涼な風。五感で自然を感じ取りながら、あたしは仰向けに体を返した。
「ハンモックなんてひさしぶり。気持ちいい〜」
こうしてると、何だかいろいろ忘れられるわ。…ここへ何をしにきたのかまで、忘れちゃいそう。
あたしはなんとなく独り言を吐き出していた。そのつもりはなかったけど、結果的にそうなっていた。ヤムチャが何も言わなかったからだ。…相変わらず、気が回らないやつね。それであたしの意志は、より強固になった。
もう夕方までガーンと寝ちゃお。起きてたってどうせヒマだし。きっと家事をやらされるだけだし。ここは真面目な人間ほど損をするシステムなんだから。ゲストも何もお構いなしでね。ランチさんは特異体質でよかったのかもしれないわね。真面目一辺倒の人間だったら、きっと疲れちゃうわ。彼女は変身することによって、体を休ませているのよ。
でも、あたしは変身できない。だから、すぐさま目を閉じた。
「おやすみ。…修行がんばってね」
傍らに黙って佇む人間への、軽い皮肉を忘れずに。


とはいえ結局まだまだ陽の高い時分に、あたしは叩き起こされた。
「ほれ、午後の修行を始めるぞい」
「はい!」
体力バカたちが、思いっきり間近で掛け声を響かせたからだ。本当にうるさいわね。いちいち声を上げないと、行動できないのかしら。っていうかさあ…
「…あんたたち元気ね〜。起きたばかりだってのに。朝もそうだったけど、何でそんなにきびきびしてるのよ」
凹凸激しく目の前に並ぶ2人の弟子に、あたしは訊ねた。どうして起き抜けに、そんなにきびきびできるわけ?あたしにはわからないわ。
あたしに答えたのはクリリンくんだった。
「いつものことですから」
でもその答えは、全然答えになっていなかった。どうしてそういつもいつもきびきびできるのかって、訊いてるのに。もういいわ。訊いたあたしがバカだったのよ。
体力バカを理解するという無駄な努力を、あたしはもう完全に諦めることにした。ひょっとして、ランチさんもこうだったのかしら。彼女の寛容さは、諦めの極致なのかも。ひょっとして、あたしもそうなるわけ?…冗談じゃないわ。
「だからって、あたしまで叩き起こさないでほしいわ。夕方まで眠ってようと思ってたのに。ここって本当に退屈なんだから」
最後のセンテンスに特に力を込めて、あたしは言ってやった。すると、あたしが意図した相手ではなく、その師匠が食いついてきた。
「そんなに退屈なら、ブルマちゃんも一緒に修行してみたらどうじゃ?」
あたしは思わず目を丸くした。思いっきり意表を衝かれた。…何でそうなるわけ?
「どうしてあたしが、そんなことしなくちゃならないのよ」
どうしてあたしが、そっちに合わせなくちゃならないのよ。あたしはゲストでしょ!
「健康と美容のためじゃよ。ランチちゃんも一度一緒にしたことがあるぞい」
「ランチさんが?」
亀仙人さんから返って来た言葉は、またもやあたしの意表を衝いた。いい加減なことばかり言って。そう思いながらも、あたしは試しに想像してみた。ランチさんが武道の修行をしているところを。…ありえないわ。大人しい方のランチさんは当然ありえないし、怖い方のランチさんだったらもっとありえない。あのランチさんがこのじいさんに従うわけ…
そこまで考えて気がついた。ありえるかも。従うだけなら、大人しい方のランチさんなら従うかも…
「ちゃんと女子用の道着も用意してあるぞい。ないすばでぃなブルマちゃんにぴったりの、オシャレな道着じゃ。ちと待っておれ。すぐに持ってくるからの」
妙にウキウキとした足取りで、亀仙人さんがカメハウスへと飛んでいった。今だ朦朧とした頭をさらに呆然とさせながら、あたしはそれを見送った。…あたし、やるなんて言ってないのに。せっかちねー。それともボケてきてるのかしら。
しかたがなく、あたしはハンモックから体を下ろした。少し離れたところでは、敏速な師匠に対し反応の鈍い弟子たちが、何やら小声で囁き合っていた。
「道着って、男と女で変わるものか?」
「まさか武天老師様…」
『まさか』?
クリリンくんの言葉を聞き留めたその時、やっぱりウキウキとした足取りで、亀仙人さんが戻ってきた。両脇に、それぞれ色の違う小箱を抱えて。
「いやあ、迷ったわい。ブルマちゃんには赤かのう。黒かのう。この際だから両方持ってきちゃったわい。てへっ」
瞬間、怖気が走った。…ちょっと何なの、その笑い…
「さあさあ、早よう開けてみい。どちらでも好きな方を選べばええ。何なら両方試してみても構わんぞい」
胸元に無理矢理小箱を押しつけられて、あたしは深く考え込んだ。…これ、開けるべきなのかしら。何か、変な雰囲気なんだけど。亀仙人さんはいつにも増して変だし、クリリンくんの言葉もちょっと気になる。絶対によからぬ物が入っているわよ、これ。でも、一応道着なのよね。よからぬ道着って何かしら。ユニフォームではあるんだろうから、…水着とか、レオタードとか?どっちにしても、見ないと怒れないか…
十中八九怒る破目になるだろうことを予感して、あたしは一つ目の箱を開けた。通常の服にはありえない滑やかな黒の布地とそれを縁取るレースの飾りが目に入った。予想的中。それにしても案外少女趣味ね、このじいさん。そう思いながら、服を箱から取り出して宙に広げた。その瞬間、あたしは心の底から後悔した。
目の前に現れたのは、水着でも、レオタードでもなかった。肌に同化しそうなほど薄い布地。乏し過ぎる布の面積。通常かわいらしく見えるはずのレースの縁飾りは、それを見事に裏切って――
「ちょっと!これ道着じゃなくて下着でしょ!!」
予定していたはずの大声を、まったく反射的にあたしは上げた。亀仙人さんは飄々として、それを受け止めた。
「いやいや。我が亀仙流では、昔からそれを道着として扱っておってじゃな」
「なお悪いわ!!」
完全に脊髄反射で、あたしは亀仙人さんの頭を殴った。武道の神様のはずの亀仙人さんは、あたしの拳をまともに受けた。
「つれないのう…」
「つれてたまるもんですか!!」
息を切らしながら、小箱を地面に投げつけた。そして息を整えながら、目の前の顔に背を向けた。すると今度は違う顔が目に入った。
エロい師匠の気弱い弟子。あたしと亀仙人さんのやり取りを、黙って見ていた2つの顔が。クリリンくんは、やれやれといった表情で亀仙人さんを見ていた。そしてヤムチャはというと、顔を真っ赤にしてあたしを…あーーーーーっ!!
「最ッ低!!」
あたしを前と後ろから見る二人の人間と、あからさまに目を逸らす一人の人間。惚けた顔をしている二人の人間と、惚けたがっている一人の人間。特に後者に強く向けて、あたしは怒鳴りつけた。同時に足を動かした。これ以上ここにいるつもりは、あたしにはなかった。
「おーい、ブルマー…」
「どこに行かれるんですか、ブルマさん」
その場の空気そのものに背を向けると、背後から気弱い弟子たちの声が聞こえてきた。あたしは歩きながら、それに答えた。
「散歩!!」
それ以上を言うつもりも、振り向くつもりも、あたしにはなかった。
もう、最ッ低!!
あたしはヤムチャに会いにきたんであって、セクハラされにきたんじゃないのよ!一体どんなレベルのエロさなのよ、あのじいさんは。いい加減にボケなさいよ!じいさんはじいさんらしく、早起きだけしてりゃいいのよ!それに、クリリンくんのあの態度。あれ、絶対知ってたわよ。何てやつなの。知ってたんなら止めなさいよ!本当に反応鈍いんだから!ヤムチャだって鈍いくせして、あんな顔…何考えてるのか丸わかりなんだから!!もう…!
…本当に、最低。

田舎特有のだだっ広い平地をしばらく歩いて、あたしは丘の上に出た。
丘じゃなくて山かしら。いえ、やっぱり丘ね。よくわかんないけど、歩いていける範囲で一番高いとこ。どうしてかって言われても困るけど。…きっと癖ね。
いつも何かあった時は、屋上へ行っていたから。何かって、たいていケンカだけど。エアバイクがあれば、もっと高いところへ行けるんだけどな。今度から持ってこようかしら。
「はーーぁ…」
夏草の生い茂る木陰。大きく息を吐き出しながら、そこに胸から倒れ込んだ。うつ伏せのまま腕を丸めると、顔のすぐ横に木漏れ日が落ちた。
あーあ、やんなっちゃう。
いっそあたしも、ランチさんみたいに銃撃ってやろうかしら。そのくらいしてもいいレベルよね。亀仙人さんのエロさはただごとじゃないわ。ウーロンが(ちょっとは)かわいく見えるわよ。師匠が師匠なら、弟子も弟子だし。ヤムチャもヤムチャよ。何、想像してんのよ。男って本当にやらしいんだから。…どれくらい経ったら忘れてくれるのかなあ。今日中に忘れてくれるかしら…
ふと草の葉が鼻孔をくすぐった。何かの虫が目についた。それであたしは、木のないところへと場所を移した。今度は仰向けに寝転がると、涼やかな風が頬を弄った。
頭上に広がる青い空。遥か遠くに浮かぶ入道雲。昨日来た時に見たものと同じ…
「はーーぁ…」
あたしは再び溜息をつきながら、薄く目を閉じた。
…もう一日経っちゃった。
まだ何にもしてないのに。そのわりには、何かすっごく忙しいけど。ここ、人口密度高いからなあ。でもまあ、慣れてみると、あんまりうちと変わらないわね。エロい人間がいて、ちょっぴりお人好しな小動物がいて、料理好きなハウスキーパーがいて、何だか少しズレたやつがいて…
…違うのは、帰らなければならないということ。帰って、また来なければならないということ。
「ふわぁ…」
忘れかけていた欠伸が戻ってきた。それであたしは、今度こそ目を閉じた。
もう夕食の時間までガーンと寝ちゃお。どうせその時くらいしか、ヤムチャとまともに話せる時間なんてないんだから。女手が必要なら、誰かがランチさんにくしゃみをさせるでしょうよ。
あたしはゲストなんだから。残り少ない時間くらい、のんびり過ごさせてもらうわよ。




あたしは本当にのんびりした。誰に起こされることもなく惰眠を貪って、ふと目を開けると、そこには見たことのない風景があった。
空いっぱいに広がる、オレンジ色のカーテン。真っ赤に燃える遠くの山々。地平線に大きく輝く眩い太陽。あたしはやや呆然となりながら、現状を把握した。
…寝過ぎちゃった。
ここって日が長いんだから。もうとっくに夕食の時間よね、きっと。昨日夕食を食べていた時、確か窓の外がこんな感じだったもの。まあ夕食はともかくとしても、今から戻って、陽があるうちに出発できるかしら。できれば夜間飛行は御免こうむりたいわ。明日からハイスクールなんだから。
頭はわりとすっきりしていた。たっぷり寝たからね。居眠り運転だけはしなくて済みそう。そう思いながら、丘を下りた。
ネオンに彩られることのない、自然の光だけに満ちた空。遮るものの何もない、どこまでも見渡せる大地は赤に染まって。あたしがこれまでに見た中で、きっと一番大きな夕陽。写真でしか見たことのない、まったく自然そのものの風景。なんてきれいなのかしら。特にこの空。信じられない色合いだわ。
少し前までよく感じていたことを、あたしはまた感じ始めていた。
…どうして、こういう時に見る空って、いつもいつも、こうもきれいなのかしら。
まあ、今日のはケンカじゃないけど。でも、やっぱり皮肉よね。もう帰らなきゃいけないんだもの。まだ何にもしてないのに。あたしにとっては貴重な休日だってのに。これじゃ、わざわざ疲れにきたようなもんだわよ。
そう思いつつも、あたしの足は不思議と軽やかだった。少しだけ気持ちを切り替えることもできた。
どうせだから、たっぷり目の保養をしながら戻ろっと。
田舎って、何となく気持ちが緩むわよね。うん、なかなかいいところじゃない、ここ。

延々と続くなだらかな丘陵。視界の端を掠める、鬱蒼とした木々。その奥に切り立つ鋭い崖。最後の要素をしげしげと見上げて、あたしはふと考え込んだ。
ひょっとして、迷ってるんじゃない?あたし。
こんな崖、来た時にはなかったわ。平地をひたすら歩いてきたんだもの。だって、崖なんか何の用もないし。あんなことで投身するほど、バカらしいこともないわ。
どのくらい歩いたのかは、もうよくわからない。でも、陽は確実に落ちてきていた。今や空のてっぺんには薄闇が広がりつつあった。エアジェットを使いたいけど、カプセルから出せそうな平地がない。とにかく、闇雲に歩くのだけはダメよ。ここは誰かに道を訊くべきだわ。そう、さっきから思ってるんだけど。
目の前の風景を凝視しながら、あたしは何度目かの溜息をついた。
…いないのよ、人が。
一体、どれだけ田舎なのよ、ここは。道を訊こうにも、マジで人っ子一人いないんだから。車が走っていないどころか、民家すら見当たらないじゃない。まあ、襲われる心配だけはなさそうだけど。…いえ、やっぱり襲われるかも。人じゃなくて動物に。もう、田舎って最悪!! あたしは散歩していたのであって、冒険していたわけじゃないのよ!
あたしは固く決心した。2度と来ないわ、こんなとこ。そしてそれに条件をつけた。…生きて帰れたらの話だけど。
「あーあ!!」
ことさらに大声を上げて(動物除けよ)、あたしは崖に背を向けた。何となく嫌な感じがしたからだ。この崖、今にも何かが降ってきそう。岩とか。…熊とか。この辺、いかにもそういうの出そうな感じ。めいっぱいど田舎なんだから。
そう思った、次の瞬間だった。一歩を踏み出したあたしの背後で、カラカラと小さな音がした。反射的に振り返って見ると、崖から小石が数個、転がり落ちてきていた。思わず足を止めたその時、さらに大きな物が落ちてきた。
ものすごい音がした。崖下の木々の間に突っ込んだのだ。次にがさがさと茂みを踏む音が聞こえてきて、あたしはすぐに走りだした。
何なのかはわからない。早過ぎて見えなかった。でも、絶対に生き物よ!…もう嫌!何であたしがこんな目に遭わなきゃならないわけ!?もう2度とこんなところ――
「ぎゃあぁぁあぁぁあぁぁーーーーー!!!!!」
あたしの文句は、自分の悲鳴に掻き消された。ほとんど一瞬にして、左手を取り押さえられていた。何この生き物。動き速過ぎ!どれだけ襲い慣れてるのよ!!
「きゃーー!きゃーー!嫌ーーー!離してーーー!…ヤムチャーーーーー!!」
あらん限りの力であたしは叫んだ。そしてまったく無意識のうちに、その名を呼んでいた。そのことに気がついた時、その男の声が答えた。
「ちょ…ちょっと、ブルマ。落ち着けって、な?話せばきっとわかるから…」
相変わらずの弱々しい声音を響かせて。幻聴でもなんでもなく。あたしのすぐ傍で。
あたしの腕を掴んでいたのはヤムチャだった。

一瞬、あたしは完全に呆けた。反射的に出た自分のその声で、我に返った。
「な、何であんたがここに…もう!驚かさないでよ!!」
あたしは今きっと、ヤムチャと同じような顔をしている。そう思った。あたしとは違って生来の、気の抜けたような顔を目の前に見て、あたしは大きく息を吐いた。
「ああ、びっくりした…!」
おそらくは今日初めての、安堵の息を。それだって、ヤムチャの前振りあってのことだけど。まったく、人騒がせなんだから!
何だって、あんな派手なことするわけ?崖から飛び降りるなんてバカなこと…いえ、理由なんてわかってるわ。相変わらず格好つけね。…失敗してたけど。
そしてさらに悪いことには、失敗したのにぴんぴんしてる。頭に葉っぱが乗っていること以外は、まったくいつも通りよ。一見惚けたその顔が、実は何も感じていないだけなのだということを、あたしはとっくに知っていた。…ランチさんの言う通りかも。ひょっとしてこいつ、マジで死なないかも。鈍感と強さって紙一重なのかしら。きっとそうね。孫くんの例だってあるし…
あたしは何となく腑に落ちた。掴まれていた手を緩く解くと、ヤムチャが小首を傾げた。髪についてた葉っぱが飛んでいった。
「…怒ってないのか?」
心の底から不思議そうに呟く、間抜け声。それに、あたしもきっと同じように答えた。
「怒ってるって何で?」
呆れてならいたけど。
心の中でそう呟いて、あたしも首を傾げかけた。でも、その途中でわかってしまった。
ヤムチャが、一体何のことを言っているのか。それが、ヤムチャの目を見た瞬間に、わかってしまった。だって、その惚けた目。さっきあたしを見てた目とおんなじ!…いえ、少し違うかしら。そうね、違うわね。たぶん、これはいつも通りの目よ。きっと、そうなんでしょうけど。
「あんたねー!そういうこと言わないでよ!さっさと忘れなさいよ!!どうして思い出させるのよ。せっかく忘れかけてたのに!!」
ぼんやりとあたしを見るヤムチャの目から視線を外しながら、あたしは一気にまくし立てた。だって、本当の本当に忘れかけてたのに。…その、ヤムチャの惚けた目を見るまでは。そりゃあ生来のものなんでしょうけどね…!
「エッチ!覗き魔!痴漢!!」
この際だから全部言っておいてやることに、あたしは決めた。このくらい言っておいた方がいいのよ。じゃないとヤムチャのことだもの、きっと亀仙人さんに流されちゃうわ。っていうか、すでにもう流されかけてるし!今はまだ罪悪感があるみたいだからいいけど、これで開き直られたりしたら堪らないわ。それに何より…
「痴漢って…あれは武天老師様が」
「わかってんなら忘れなさいよ!!」
おずおずと食い下がってくる声を、あたしはみなまで聞かずに切り捨てた。そう、それが一番大切なことなのよ!!
ヤムチャはもう言い訳をしようとはしなかった。ただ黙って、じっとりとした目つきであたしを見た。…だから!そういう目するのやめてよ!少しは気づきなさいよ。もう、ヤムチャってばデリカシーなさ過ぎ…
あたしの怒りは、徐々に嘆きへと変わり始めた。思わず目を伏せかけた時、ヤムチャの視線が動いた。それまで見ていたあたしの顔から、その下へ。一瞬、感情が逆流しかけた。でも殊勝にもヤムチャはすぐに目を逸らして、首を振り振り言った。
「忘れる。忘れるよ」
その態度に、あたしはギリギリ持ち堪えた。そうよ。それでいいのよ。今はそれで許してあげるわ!
「今度言ったら殴るからね!!」
とはいえ、一応釘は刺しておいた。例え直接言ったのじゃなくっても殴ってやるわ。ヤムチャの考えてることなんて、丸わかりなんだから!…本当に、わかりやす過ぎるわ。嫌になっちゃうくらいよ。
はーぁ。
溜息を一つついて、あたしは今度こそ目を伏せた。…疲れた。何かすっごく疲れたわ。相変わらず疲れる男ね、こいつ。…でも、おかしいわねえ。ヤムチャって、こんなにかわいくないやつだったかしら。今日は朝から逆撫でされてばっかりよ。前はもう少し素直だったと思うんだけどな。ひさしぶりだからそう思うのかしら。でも、そのわりには、ひさしぶりっていう感じは全然しないし……変なの。
あたしは少々微妙な気持ちになりながら、隣に立ちつくす男に声をかけた。
「で、どっち?」
「何が?」
「道!」
嘆きが今度は呆れへと変わり始めた。迎えに来たんなら、さっさと連れて帰れっつーの。そんなの丸わかりよ。…正直言って、来るとは思ってなかったけど。
ま、いいや。もう帰ろっと。
ヤムチャが何となく目線で方向を示したので、あたしはそちらへ向かって歩き始めた。すでに薄闇は、空の真ん中辺りまで迫ってきていた。…あー。本当に、あたし何しに来たのかしら。いいわよね、ここの連中は毎日休みで。羨ましい限り――
「わっ!」
あたしの文句は、自分の声に掻き消された。一瞬にして、ヤムチャに右手を握りしめられていた。何、急に。それに、全然足音聞こえなかった。こいつ、動き素早過ぎ!
「あんた、そうやって人を驚かすの――」
「ん?」
言いかけたあたしの文句は、ヤムチャの発した一音に止められた。いえ、すでに隣にあるそのものに止められた。
そこには、あたしの一番よく知っている顔があった。不貞腐れているのでも、邪なことを考えているのでもない。言い訳をしているのでも、照れているのでもない。まっすぐにあたしを見る従順そうな…ああ、この瞳。付き合い始めた時からずっと変わらない、この優しい眼差し。やっぱりひさしぶり…
あたしの足は自然と止まっていた。でもすぐにそのことに気がついて、再び歩き出しながら、会話を再開した。
「足音殺すのやめてよね。びっくりしたじゃないの」
「ああ、ごめん」
だって、ヤムチャは足を止めなかったから。まったく自然に、あたしの手を取って歩いていたから。それなのにあたしだけが反応してるだなんて。気づかれたくないわ、そういうの。
「あのさ。散歩するのは構わないけど、この辺の山へは来るなよ。この辺り、時々ハンターがいるから」
「げ。やっぱり何か出るんだ」
あたしたちは他愛のない話をしながら、ひたすらにカメハウスへと歩き続けた。
それにしてもヤムチャってば、いつのまにかこういうこと平気でするようになっちゃって。そりゃあ、今さら緊張されても困るけど。
…本当に、鈍感とさりげなさって紙一重よね。


カメハウスの灯りが遠目に見えてきた時、あたしが感じていたのは安堵ではなかった。
…ああ、疲れた。きっと明日は筋肉痛だわ…
途中から張ってきた太腿を擦りながら、あたしは固く決心した。…次に来るときはエアバイクを持ってくるわ。絶対に。
ハウスの中では、全員が雁首揃えてあたしたちの帰りを待っていた。昨日のこの時間は、体育会系は揃って食後の修行をしていたはずだけど。まあ、当然か。あたしはゲストなんだからね。
口当たり爽やかなアボカドスープ。ほろほろと口の中で崩れる子牛のワイン煮。都で食べるものより数段野性味の強いそれらの料理をヤムチャと一緒に食べながら(ランチさんは青黒髪のランチさんに戻っていた。やっぱり、女手がほしけりゃほしいで何とかするのよ、この家は)、あたしは心配する面々に、帰宅の遅れた理由を話した。返ってきた反応は、かなり儀礼に欠けたものだった。
「道に迷ってたって…」
全員が全員、声を揃えて不自然に声を落とした。プーアルは丸い目をさらに丸くして。ウーロンはいつもの白けきった表情をかなぐり捨てて。亀仙人さんはサングラスで瞳の奥の表情を、本人だけは隠しているつもりで。クリリンくんは呆気に取られたように。ランチさんは心底気の毒そうに。ウミガメはいつもながらの眠そうな顔で。
…ちょっと、何よその反応。迷ってたんじゃなかったら、一体何だっつーのよ。こんな何もないところ、遊びようもないでしょ。昆虫採集をしてたとでも思ってたわけ?あたしはあんたたちみたいな田舎っぺじゃないのよ。
「どうしたらこんな見晴らしのいいところで迷えるんだよ」
早くも白けを取り戻して、ウーロンが言い捨てた。思わずフォークを置きかけると、ヤムチャがあたしに先んじた。
「山の方で迷ってたんだよ。北の山岳地帯の手前でな。ほら、林に分断された小山があるだろ」
「あんなところまで行ったんすか…」
田舎っぺの兄弟子が呟いた。その声には、あからさまな呆れが漂っていた。それでつい、あたしは言ってしまった。
「誰のせいだと思ってるのよ」
クリリンくんは答えなかった。どことなくびくついた表情で、慌てたように目を伏せた。のみならず、亀仙人さんも同じような態度を取った。…ふうん。少しはわかっているようね。いまいち態度が気にいらないけど、まあいいわ。
「ごめんなさい、ブルマさん。わたしがこの辺りの道をお教えしておくべきでしたわ」
「ランチさんが悪いんじゃないわよ」
すまなさそうに頭を下げる部外者に、あたしもまた頭を下げた。本当にお人好しね、こっちのランチさんは。そんなにお人好しでストレス溜まったりしないのかしら。…あ、だから銃をぶっ放すのか。
この家の条理が、ようやくあたしにはわかりかけてきた。この家の条理は、不条理なのよ。まあ、うちと似たようなものよ。かなりエロい年配者がいて、お人好しなんだけど意外と失礼な態度を取る小動物がいて、世間浮きしてるハウスキーパーがいて、素で突っ込むやつがいて…
そして、どこでもそれなりにやっていけるやつがいて。
「で、どうすんだ?やっぱり今日帰るんだろ?」
「当り前でしょ。これを食べたら出発するわよ。プーアルは?あんたはどうするの?」
「ええ、ぼくも今日は帰ります」
あたしはこんな風に時折気を散らされながら、目の前の料理を平らげた。
それは今日一日で、一番おいしい食事だった。


食後のコーヒーもそこそこに、荷物を纏めてカメハウスの外へ出た。地平線には、まだ大きな太陽がしぶとく姿を覗かせていた。
本当に日が長いわ。帰るのがもったいなくなっちゃうじゃない。でも、こうやって夕陽をバックに去っていくのも悪くないわね。映画みたいでさ。
「それじゃあね。お邪魔しました!」
感謝に皮肉のニュアンスを響かせて、あたしは言ってみた。本当に邪魔されたわ。せっかく来たのに、なーんにもしなかった。それどころか、サービスさせられっぱなしよ。まったく、色ボケじじいなんだから。…でもまあ、いいか。また来ればいいことだわ。
「たいしたおもてなしもせずにごめんなさいね、ブルマさん。ウーロンさんにプーアルさんも。また来てくださいね」
邪気のない顔に気さくな笑みを浮かべて、ランチさんがそう言った。目に見える彼女の好意に、あたしは素直に甘えることにした。
「そうね。来週、天気がよかったらまた来るわ」
はっきり言って、ここにはランチさん以外に、気を遣うべき人間はいないんだから。気を遣ってくれる人間もいないけど。本当に、男ってどうしようもないわよね。主に体育会系。中でも特に新参の男。…あんた、気を利かせるの遅過ぎよ。
あたしの思いをよそに、ヤムチャは笑っていた。妙に落ち着いたいい笑顔で。それを見て、あたしの思いはさらに強くなった。
どうしてそういう顔を、初めっからしないのよ。っていうか、何で帰る段になってするわけ?失礼しちゃうわね!
今や不満に変わりつつある不条理を心の中に抱え込んで、あたしはエアジェットをカプセルから戻した。ここでケンカなんかしてたら、陽が暮れちゃうわ。こんなに疲れているところに夜間飛行なんて冗談じゃないわよ。それに、せっかくそれらしいシチュエーションなんだもの。ここは美し〜く帰ってやるわ。…次に会った時、覚えてなさいよ。
「ランチさん、今度料理教えてね!」
唯一の良識人にそう声を投げかけて、エアジェットのタラップに足をかけた。あんまり気はすすまないけど、しかたないわよね。あっちのランチさんが本性になったら困るもの。それに、どうせそのうち習わなきゃいけないことなんだから。母さんに習うよりは、ランチさんの方がずっといいわ。
「2人とも、シートベルト締めてね。夕陽に向かって飛ばすわよー!」
ビビるウーロンとプーアルを尻目に、エアジェットの操縦桿を握った。ベルトと気持ちの両方を引き締めて。明日はハイスクールサボっちゃおうかな、なんてことを心の片隅で考えながら。
疲れるエスケープゾーンだわよ。まったく。
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