逃進の男
いつもと同じにカーテンの隙間から差し込む光。いつもと同じに遠くに聞こえる街の喧噪。いつもと同じ週末の朝。あたしはいつもと同じように、ちょっぴり寝過した。
いつもと同じように身支度を整えてリビングへ行くと、いつもと同じ朝食の風景がそこにあった。自分のではないカップに、コーヒーポットからコーヒーを注ぎ込んでいるプーアル。のんきな顔でそれを見ているヤムチャ。その向かい側で、トーストに被りついている白々しい目つきのブタ。
「おはようございます、ブルマさん」
「おはよう、ブルマ」
「…おはよ」
いつもと同じようにかけられた主従の声に、いつもと同じように喉の奥から声を絞り出して答えた。それきり口を噤むと、挨拶をしなかった3人目の人間が、文句を言い出した。
「いつもながらおっせえなあ、おまえ」
「…週末の朝に早起きできる方がどうかしてるわよ」
もう何度になるのかもわからないその台詞を、あたしは今朝も口にした。今日で終わりだという安心感。まだ今日があるという疲労感。そういうものが混じりあう日よね、金曜の朝って。
「今日は遅刻させんなよ。走らされるのだってごめんだからな」
「あんたに待っててなんて頼んでないでしょ」
それどころか、一緒に登校することすら頼んでないわ。なのにいつもいつもうるさいのよね、ウーロンのやつ。一体何様のつもりなのかしら。
「かわいくねえなあ」
「あんたがね」
敢えて感情を込めずに、あたしは返してやった。わざわざ悪口を探してやる気にもなれなかった。
毎度のことよ。もう耳にタコができちゃったわ。こいつ、こんなだから女の子にモテないのよ。それを教えてやるつもりもないけどね。
あたしとウーロンの言い合いをよそに、ヤムチャとプーアルは黙々と朝食を食べていた。これもいつものこと。やがて母さんが新しい皿を運んできた。フレッシュイチゴと、旬のフルーツ…
「はい、ヤムチャちゃん、デザートよ〜ん。とっても甘くてコクのあるアンコールオレンジよ。すっごく香りがいいからそのまま食べてね。それともマンゴーの方がいいかしら?」
「いえ、これで充分です。いただきます」
追従するようにオレンジを口に入れるヤムチャと、にこにことそれを見守る母さんを横目に、あたしはイチゴの皿を引き寄せた。
春は絶対にイチゴだと思うんだけどなあ。母さんも気を遣い過ぎよね。だって、あたししかいなかった時は、イチゴしか出さなかったもの。
「プーアルちゃん、コーヒーは足りるかしら?それと、ホットミルクのおかわりはいる?ウーロンちゃんのトーストは?」
どことなく酸っぱく感じるイチゴにクリームをかけながら、あたしは今朝も思っていた。
…露骨な人だこと。
デザートを出すタイミングが、すっかりヤムチャに合わせられてるわ。プーアルやウーロンはまだわかるとしても、娘のあたしが食べ始めたばかりだってのに。まあ、時間ないからいいけどさ。
いかなる時でも異常に早起きする、体育会系の男。それに付き従う小動物。あたしよりちょっと早く起きただけのくせして偉そうに文句を垂れるブタ。
全然タイミングの違う人間が集まった、朝の風景。…いつからか定着していた、あたしの朝の。

朝食の後、ラバトリーで最後のブラッシングをしていると、キーテレホンから馴れ馴れしいブタの声が流れてきた。
「おーい、まだかよー」
「今行くってば!」
二の句は告げずにあたしは答え、キーテレホンのスピーカーをオフにした。まったく、同じハイスクールに通っているヤムチャにならともかく、どうしておまけでついてくるだけのウーロンに、そういうこと言われなくちゃならないのよ。いつも思うことだけど、なんか間違ってるわ!
慌ただしくエントランスへ向かう途中、ばったりと父さんに出くわした。両肩と頭の上に一匹ずつネコを乗せて、ちょうど1階の庭から出てきたところ。
「おやブルマ。今日はまだ学校かね?」
「今日が最後よ」
ここにはいない人物について訊ねているらしいその声に、端的にあたしは答えた。それきり通り過ぎようと背中を向けると、父さんが露骨に言葉をぶつけてきた。
「そうだったかね。ふむ、じゃあ、しっかりな。屋上でこっそりとがベストじゃぞ。くれぐれもこっそりとな」
「一体何の話よ!」
思わず振り返ったあたしがバカだった。四匹目のネコに臑を齧らせながら、父さんはさらに言葉を続けた。
「なんじゃ、屋上は嫌いか。では、階段の踊り場かのう。少々目撃率は高くなるが、それもスリルがあっていいかもしれんなあ」
「あんまりアホなことばっかり言ってると、親子の縁を切るわよ!!」
「スリルは不要か。ならば密室状態のロッカールーム…」
「クソ親父!!」
すでに星の数ほど口にした台詞を、あたしは今朝も口にした。もう、何なのこの人は。たまに学問以外の話を振ってきたと思ったら、いつもいつもこんな台詞。…どうして子どもは親を選べないのかしら。世の中って不公平よね!
今度こそ本当に、あたしは父さんに背を向けた。途端に、キーテレホンからウーロンの声が聞こえてきた。
「おいブルマ、いい加減にしないとおいてくぞ」
「今行くってば!!」
あたしの不公平感は深まる一方だった。そして、居候も選べない。どうしてあたしがおいてかれなきゃいけないのよ。ウーロンが一人で先に行きなさいよ!
もう、デリカシーのないやつばっかり。本当に嫌になっちゃうわ。せめて今日くらい、まともに過ごせないのかしらね!


それでもあたしは寛大心を発揮して、ウーロンとも肩を並べて登校してやった。相手をしてやる気はないけど。これ以上、不毛な会話をするのはごめんだわ。
あたしの願いは、遅まきながら天に届いた。いつものようにヤムチャの周りに纏わりつきながら、プーアルが遠慮がちに言ったのだ。
「ヤムチャ様。今日のお昼、ご一緒してもいいですか?」
これまであまり耳にしたことのない、従から主への頼みごと。でも、プーアルの気持ちは、あたしには理解できた。
プーアルってば、心配になっちゃうくらいヤムチャにべったりなんだから。C.Cに残るっていうのが、意外に思えるほどよ。言うこともかわいいわよね。どうしてヤムチャなんかになついているのか以外には、文句のつけようもないわ。
「いいんじゃないか?なあ、ブルマ」
「そうね、今日は天気もいいし。内庭あたりがいいかもね」
さりげなく水を向ける隣の男に、あたしは素直にそう答えた。途端に、もう一方の隣から余計な一言が飛んできた。
「珍しく今日はサボってないしな」
にやけと白けの入り混じった視線と共に。あたしは態度を崩さざるをえなかった。
「あんたうるさいわよ、いちいち」
「なんだよ、褒めてやったんじゃねえか」
「どこがよ!」
あたしは再び不公平感を噛み締めた。本当にどうして、残る居候を選べないのかしら。どう考えたって、ウーロンが一番先にいなくなるべきよね!
「あんたも出てく?」
思わず零した本音の言葉は、ウーロンの惚けた声に往なされた。
「なんだよそれ」
なんだよじゃないわよ。
厚顔よね、こいつ。ウーロンはおまけで置いてやってるだけだっていうのに。そういうやつに限って、しぶとく残るんだから。
結局は不毛な会話に突入したあたしとウーロンを、残る2人は黙って見ていた。いつものことよ。この主従ってば、2人揃って気弱でさ。いてもいなくても同じなんだから。唯一いることに意義があるとすれば、ウーロンと2人っきりで登校しなくて済むってことかしらね。
「じゃあヤムチャ様、お昼になったら内庭へ行きますね」
「ああ」
心持ちいつもよりも名残惜しそうに、プーアルは小等部のゲートへ向かった。心持ちいつもより優しげな顔つきで、ヤムチャがそれを見送った。妙にそれっぽい雰囲気を漂わせる2人を横目に、あたしは残る1人を促した。
「あんたもさっさと行っちゃいなさいよ」
「言われなくても行くっつーの!」
かわいくない捨て台詞を吐き捨てて、ウーロンがプーアルの後を追いかけた。小等部組の対照的な姿を目にして、あたしは思った。
来週からは、あのかわいいやつとかわいくないやつの両方を、あたし一人で面倒見なきゃいけないのか。…なんか本当に面倒くさそうね。




とはいえその時を待たずして、あたしはすでに面倒くさい気分になっていた。だいたいそんなことがなくっても、十分に面倒くさいところよ、ハイスクールは。
「あーあ、授業受けるの面倒くさ〜い。早く今日終わんないかな」
思わず漏れた呟きに、自分自身が感化された。かったるい金曜日の1限目は、最高につまんない数学。よくもまあサボらずに登校できたものだと、我ながら感心するわ。あたしって、なんて付き合いのいい人間なのかしら。
あたしを付き合わせているその男は、あたしの言葉など素知らぬ顔で、まったくいつも通りにのんびりとあたしの隣を歩いていた。 曖昧に惚けた表情。 普段と全然変わらない、廊下ですれ違う生徒たちへの挨拶…
ヤムチャのやつ、わかってるのかしらね。今日が最後だってこと。だからこそ、こんな不快な朝なのにも関わらず、あたしが一緒に登校してやってるってこと。最後くらい格好つけさせてやろうと思ったのに、ちっともそれっぽくならないんだから。…プーアルに対しては、ちょっと雰囲気出してたけど。ズレてるのもいいところよね。プーアルなんか、腐れ縁でしょうが。
怒りというよりは呆れの気持ちで、あたしはヤムチャに文句をつけた。心の中で。口に出して言うほどのものではなかった。ヤムチャが淡々とクラスに面する廊下のロッカーへと向かっても、新たに思うところはなかった。…まあ、いいんじゃない?こんなもんでしょ、今日のところは。むしろ格好つけない方が、面倒がなくていいかもね。
すでに気持ちを1限目へと切り替えて、あたしは自分のロッカーを開けた。持ってきたリュックをそのまま放り込んで、置きっぱなしにしていた数学のテキストを取り出した。自分のクラスへ入る前に一応ヤムチャの方へ目をやると、少しだけ意表をついた光景がそこにあった。
あたしよりも先に手をかけたはずのロッカーを、ヤムチャは未だに開けていなかった。何かに気づいたような顔をして、文字通り立ちつくしていた。
「何?どうかしたの?」
また課題忘れたのかしら。だから、出された日に教えろって言ってんのに。しょうがないわねえ。
ついいつものように、あたしはそう考えた。いつもの呆れが心に湧いた。やがて聞こえたヤムチャからの返事が、あたしの心を変えさせた。…悪い方に。
「あ、いや、えーと…俺、今朝教師に呼ばれてて。ほら、今日が最後だから。薫陶ってやつだよ。…先にそっち行ってくる!」
「は?」
「じゃあ、昼にな!」
思いっきり上ずった声で言い切ると、ヤムチャは疾風のごとく走り出した。いえ、どちらかというと脱兎のごとく、かしら。とにかく、その軽い姿が廊下の向こうへ消えるのに、十秒とはかからなかった。あたしの呆れが溜息に変わるのにも、そうはかからなかった。
何あれ。一応はわかっているみたいだけど。そりゃ、ヤムチャの足が速いのは知ってるけどさあ…あれがこれから薫陶を受けようとする人間の態度?
「最後まで落ち着かないんだから…」
格好つかないにも程があるわ。さっきまではあんなにのんびりしてたくせに。…あいつがゆったりとして見えるのは、単に何も感じていない時だけなのよ。今ので、それがよ〜くわかったわ。
今やあたしの意気は完全に抜かれていた。もう文句を考える気もなかった。かくなる上はただもう惰性で、あたしは廊下をヤムチャの走り去った方角とは反対へ――自分のクラスへと向かった。


金曜日の教室は、どことなく浮ついている。時折向けられるいつもの不躾な視線すら、上滑りしているみたい。これまでに何度も感じてきたことを、あたしは今日は特に強く感じていた。
「ああ、眠かった…」
2限目終了のチャイムが鳴り終わると同時に、あたしは自分の意識を解放した。思うまま机に突っ伏すと、後頭部に慣れた感覚が襲いかかった。
まばらに注がれる非難の視線。主に、授業中に指されて答えられなかったクラスメートからの。鬱陶しいわねえ。居眠りしてても指されないのは、あたしのせいじゃないでしょ。教師が勝手に誤解してるのよ。あたしは語学はそんなに得意じゃないのにさ。現に、居眠りしてて当てられて解いたことがあるのは、数学と物理だけよ。…理数系の教師って案外お喋りよね。
「ん〜〜」
あたしは今度は伸びをして、できるだけてきぱきと席を立った。丸くなりたがる体を起こすためと、語学のテキストを廊下のロッカーにしまうため。教壇の前を通りかかると、またもやいくつかの視線が飛んできた。嫉妬と妬みの入り混じった女生徒たちからのいつもの視線を、あたしはいつもとは少し違う気分で受け流した。
まったく呆れるわ。あたしを睨みつけてもしょうがないでしょ。ヤムチャは今日でいなくなるんだから、どうせならそっちに目を向ければいいのに。このハイスクールの女たちって、揃いも揃ってバカばっかり。あれほど外見と中身が釣り合わない男もいないってのに、最後までそんなことにも気づかないんだから。
かったるい金曜の朝。超つまんない数学の授業。それに続く、眠気を誘う語学の時間。その間にも向けられる、いくつもの不躾な視線。何ら目新しいところのない、典型的な週末のハイスクール。3限目のテキストをロッカーから取り出しかけて、あたしはついに諦めた。
…ダメだわ。もう限界。ここで物理の授業なんか受けたら、きっと発狂しちゃうわ。つまんなさ過ぎて。本当に、ハイスクールってなんて退屈なところなのかしら。今日くらいは真面目に過ごしてやろうと思ってたけど、やっぱり無理だわ。
こうしてあたしは、クラスメートへの体面を捨てることにした。要はあいつらにさえバレなきゃいいのよね。昼前に戻ってくれば――そうね、4限目の授業に顔を出していれば、きっとサボったことはバレないでしょうよ。


中等部校舎の屋上。いつものエスケープゾーン。
そこのペントハウスの屋根に、あたしはいつもと同じように寝そべった。少しだけいつもと違うのは、心を慰める甘いスナックがないこと。今日はサボるつもりなかったから、何も持ってこなかった。
いつものように高等部校舎を眺めてみた。なにげなく心当たりのクラスに目をやると、そこにヤムチャの姿はなかった。ヤムチャだけじゃなく、誰の姿も見えなかった。校外授業か。つまんないの。
たいして気を入れずにあたしはそう思い、何の感傷もなく仰向けになった。いつもの青い空を目の前にして、あたしはぼんやりと現実を憂えた。
…こんなことでいいのかしら。
もうちょっと、なんかさあ。少しは特別感があってもいいんじゃない?せっかく最後だって言うのに。父さんが言うようなことまでは望んでないけど。もともと雰囲気あるやつじゃないけど、それにしたってシチュエーション感なさ過ぎ。まったくいつも通りでさ。つまんない男ね、あいつ。
まったくモチベーションが上がらずに、あたしはヤムチャに文句をつけた。心の中で。面と向かって言ってやるつもりはなかった。本人があんな調子で、あたしが盛り上げてやらなきゃいけないなんて、そんなのバカバカし過ぎるわよ。本当にしょうもない男。まあ、いいけどさ。
「う〜〜」
あたしは一つ伸びをして、腕時計に手をやった。アラームをセットしておかなきゃね。別に何がなくても構わないけど、難癖をつけられるのはごめんだわ。サボったってことがバレたら、またウーロンがうるさく言うに決まってるんだから。あいつ、何だかんだ言って結局いつも便乗してくるのよね。本当にかわいくないったら。
こんなに面倒くさいサボりは初めてだわ。あたしって、本当に付き合いいいわよね。


30分後。アラームの音が頭の中に響いた。あたしは体を動かせずに、数分間それを聞き続けた。
あぁー、だるい。
昼寝を中断されるのって、なんてだるいのかしら。おまけに、どうして今日はこんなに天気がいいわけ。嫌味もいいところだわ。
空にたなびく初夏の雲。体を撫ぜる緩い風…
あたしは仰向けのままペントハウスの屋根の端から頭を落として、風に髪を戦がせてみた。ああ、いい気持ち。なんだか意識がまた遠く…
「ん?」
あたしの眠気は一瞬にして飛んでいった。逆さまの目線の先に、動くものがあったのだ。…高等部校舎の屋上に誰かいる。しかもペントハウスの屋根の上に。ご同類か。珍しいわね。
ちょっぴり新鮮な気持ちになって、体を起こした。こんなこと初めてだわ。このハイスクールにいるやつらは、中途半端にだるいやつばかりだと思ってたのに。潔くサボるやつも、ちゃんといたのね。
そのままあたしが目を凝らしていると、その潔い人物がまた動いた。下げた頭をだるそうに引っかき回して、何かを胡坐の横に投げ捨てた。後ろ姿だったけど、ひどく面倒くさそうなその素振りにあたしは深く同意した。わかる、わかるわ、その気持ち。こんな天気の週末は、何もしたくなくなるわよね。それでも登校してるんだから、あたしたちってば偉過ぎよ。これはもう友達になるべきかしら。一体どこのクラスの誰…
「あぁーーー!」
あたしの同調心は、次の瞬間消え去った。件の人物が体をこちらへ向けたからだ。さすがに顔かたちまではわからなかったけど、髪の色と体格だけで充分だった。
…ヤムチャ!
あいつ、何してんのよ!今は授業中でしょ!さんざんあたしを非難がましい目で見てたくせに。あたしのサボりには、あんなに渋々付き合ってたのに。何だって今さら一人でのうのうとサボってんのよ!!
そう、ヤムチャは実にのうのうとしていた。悪びれているような雰囲気は欠片もなかった。いつもより数段だらしなく胡坐を掻いて、後ろ手をついて、空とも地ともつかない方向に頭を傾げていた。ややもすると、またもやだるそうに、何かを後ろに投げ捨てた。その上今度は、横になりだした。無造作に頭の後ろで組まれた腕と、やっぱり無造作に組まれた片足が、あたしの呆れを誘った。
思いっきり気緩んでる。っていうか、気抜いてる。あんなだらしないポーズ取ってるとこ、見たことないわ。まったく、格好つけなんだから。…あたしも、まだまだ騙されてるみたいね。
あたしは体をうつ伏せて、軽く両頬杖をついた。体と心の両方を緩ませて、宙を隔てて同じシチュエーションの元にいる、見慣れない様子の男を見続けた。あたしにそっぽを向けてだらだらと何かを撒き散らしながら怠け続けるヤムチャを目にしても、呆れ以上のものは湧かなかった。もうそんな段階じゃないわよ。一人でサボってるってところだけは気に食わないけど。でも、今は放っておこうっと。ちょっとおもしろいからね。…しっかし、それにしても――
数時間前に感じたことを、あたしは再び感じ始めた。でも、同じ心境にはならなかった。あたしが自分の心の緩やかさを楽しんでいると、少しだけそれが破られた。
ヤムチャがあたしの方を見たからだ。そして、あたしに気づいた。さすがに表情まではわからなかったけど、慌ただしく腕を解く素振りで、それがわかった。
だから、あたしも頬杖を解いた。軽く手を振って、ペントハウスの屋根から下りた。ヤムチャはというと、やっぱり慌ただしく体を起こして、今度はこっちに体を向けた。あたしはそれを見ながら、屋上を後にした。
最後まで格好つかない男の元へいくために。

もう一つの屋上へと続くドアのコンソールに手を伸ばした時、あたしの中に新たな呆れが湧いた。ドアのロックが壊れていた。いえ、壊されていた。しかも、ツールで弄られた風ではなく、明らかに打撃の跡。
大胆ねー。っていうか、考えなさ過ぎね。どうすんの、これ。こんな開け方、泥棒だってしないわよ。泥棒は屋上なんかに用はないし。バレバレもいいところじゃない。
ヤムチャの無鉄砲さを目の当たりにしても、やっぱり呆れ以上のものは湧かなかった。しょうがない、後で直しておいてやるか。
ペントハウスの屋根に上がると、ヤムチャは何だか畏まった顔をして、胡坐を掻いていた。さっきのとは全然違う、崩れているところのない胡坐を。あたしの緩みは増す一方だった。
今さらそんな態度を取っても遅いわよ。もう全部見ちゃったんだからね。
「なーに、一人でサボってんのよ?」
たいしてその気はなかったけど、あたしは一応ヤムチャを咎めた。どうせサボるんなら、あたしも誘うべきよね。しかもここ、元はあたしのフェイバリットスペースだし。惚けた顔して、ちゃっかりしてるんだから。
「…あー…えぇと…」
予想通りのヤムチャの反応は無視して、あたしはその正面に腰を下ろした。いついつまでも、言い訳が下手くそなんだから、ヤムチャってば。例えうまいことを言ったとしても、顔色で丸わかりだけど。それがヤムチャの、最大の欠点であり長所よ。
「何してたの?」
今度は少し思うところあって、あたしは訊いてみた。何をしてたのかなんて、知ってるわ。すっごーくだらだらしてた。一体何て答えるのかしらね、こいつ。
「うーん、ちょっと…考え事を…」
予想以上にしれっとした声で、ヤムチャは答えた。あたしは思わず笑いかけて、次の瞬間口を噤んだ。意識的にじゃなく、無意識に。
意外だった。ヤムチャの声音がじゃなく、その表情が。どことなく遠くを見ているような、それでいて奇妙に落ち着いたその目つき。ちょっと本気入ってるみたい。そういえば、さっき何か持ってたっけ…
「何見てたの?」
さりげなくヤムチャの周囲に目を走らせながら、あたしはまた訊いてみた。遠目にもわかるほど気だるそうにヤムチャが放り投げていたものは、一つも見当たらなかった。おかしいわね、あんなに散らかしてたのに。僅かに芽生えた疑惑の種に、ヤムチャ自身が水を注いだ。
「いや、何も。空を見てたんだ。あんまりいい天気だからさ!」
俄然流暢になる口調。あからさまに上ずっている声音。何より前言を翻している台詞。すぐにあたしはピンときた。
悠々と空を見ている雰囲気じゃなかったわ。まともな考え事をしている感じでもなかった。…こいつ、何か隠してるわね!
「…つまり、言えないことなわけね!?」
今やあたしは、自分の腰を上げないことに全力をあげていた。もう、どうして今日が最後なのよ!こんな男の相手なんか、したくないっていうのに。らしくもなく強引にサボってまで、あたしの目を盗もうなんて。一体、何してたのよ。どうして最後までそうなのよ!!
「あ…いや、…えぇと…」
ものの見事にヤムチャは口篭った。完全に目を泳がせて、すぐにもこの場から逃げ出しそうな腰つきとなった。予想通りのその反応に、あたしの堪忍袋は今にも破れそうだった。
「…もうっ!」
「ま、待て待て!ちょっと待て!!」
たまらなく自分自身を持て余し始めたその時、ヤムチャが腰を浮かせた。そして、おずおずとお尻の下に手を伸ばした。もはや疑う余地もなく隠されていたものが、あたしの目の前に差し出された。
こうして、あたしの堪忍袋はギリギリ破れずに済んだ。

わざとらしいピンク色の封筒。裏面にハートの刻印。
これまでにも何度か目にしたことのあるそのセンスのない代物を、あたしはかつてない強い怒りと共に読み続けた。
この期に及んでまたラブレターよ。しかもまた隠してんのよ、こいつは!…でも、それすらどうでもよく思えてしまう現実が手の中にあった。
どうして11通もきてるわけ!?おまけにこの内容ときたら…!
「何なのこれ!一体どういうことよ!!」
結局、あたしの堪忍袋の尾は切れた。ラブレターをまとめて足元に叩きつけると、ヤムチャは困ったように口を開いた。
「そんなの俺が知りたいよ」
「あんたが何か言ったんじゃないの!?」
わざとだなんて言わないわ。むしろ無意識によ。なんたって、こいつは天然なんだから!
「俺が?言うって何を…」
いつものようにヤムチャは口篭った。いつもながらの気弱な目線を泳がせて、たぶん自問していた。いつもならここで(こっそり)一息入れるとこだけど、この時のあたしにはそうすることができなかった。
全然悪びれてないのよ、ヤムチャのやつ!なんか知らないけど、変に堂々としちゃってさ。見たところ小さくなってるけど、そんなの丸わかりよ!
やがてヤムチャが視線を戻した。その口から出てきたのは、まさしくあたしの感覚を裏付ける言い訳だった。
「さっぱり身に覚えがないな。だいたい、女の子となんかここしばらく話をしてないんだからな」
「調子いいこと言わないでよ!」
間髪入れず、あたしは怒鳴りつけた。だって、そんなの信じられるわけないでしょ。そんな女っ気ないやつが、どうして11通もラブレターを貰うのよ。おかしいじゃないの!
あたしは思いっきり睨みつけてもやった。それにも関わらず、ヤムチャは態度を変えなかった。もはや小さくなってみせることもせず、しれっとした顔で言ったものだ。
「だって、俺はずっとブルマと一緒にいたじゃないか」
今度はあたしは怒鳴りつけなかった。…確かにその通りよ。ヤムチャがハイスクールを辞めると決めてからは――特にここ一週間ほどは、ハイスクールの女たちとはたいして接してないとあたしも思うわ。ハイスクールにほとんど来てなかったんだもの。でも…
「…でも、じゃあどうして、こんなことになってるわけ!?」
切れた堪忍袋の尾を縫いながら、あたしは事の真相へと踏み込んだ。ラブレターそのものにも腹立つけど、それを隠していたのもとんでもないけど、さらに11通もだなんて異常もいいとこだけど、でもそれより何よりもっと問題なことがあった。
どうして、あたしとヤムチャが別れたことになってんのよ!?
今までだって、そういう嫌味言われたことあったけど。でも、今回のはそれとは全然違う。かなりマジっぽい雰囲気よ。ラブレターの差出人が、こぞって仄めかしてる――『傷心を癒したい』……汚いやり方よ。さすが他人のものに手を出すだけあるわよね!と言ってやりたいところだけど、これが揃ってみんな真面目系なのよね…
「こんなことって?」
心の中で首を捻ったあたしに対し、ヤムチャは実際に首を捻ってみせた。窺うような目線。何も知らないような口ぶり。…声音に態度にタイミング。3拍子揃ったその状態に、再び堪忍袋の尾が切れた。
「あんたねえ、いい加減に…!」
その惚けた態度やめなさいよ!そう言いかけて、あたしは口を噤んだ。
気づいたからだ。ヤムチャがさっきから、自分では何一つ話を進めていないということに。それどころか、あたしに訊いてばかりいるということに。これはヤムチャのことなのに。惚けた態度は地だからしかたがないとしたって、いつもならもっと必死に弁解してくるのに…
あたしはめいっぱい堪忍袋を広げて、あまり知りたくない真相を追究してみた。
「…あんた、ひょっとしてわかってないの?」
「……」
ヤムチャは答えなかった。素直なんだかふてぶてしいんだかわからない、まっすぐな目であたしを見ていた。少しだけ困ったようなその顔は、初めて課題の相談をされた時にそっくりだった。
なんてわかりやすいやつなの。…本ッ当にわかってないのね、女心が。確かにこのラブレターはどれもまわりくどいかもしれないけどさ。最後だから。そして可能性が出てきたから。だからみんな慎重に、少しずつ少しずつ近づこうとしてるんじゃないの。要するにかなり本気よ。本当に考えたのかしら。それだって嘘なんじゃないの?だいたい、あれが考え事をしてた人間の態度?真剣みの欠片もなかったわよ。今の方がよっぽどそれらしく見えるわ。
そう、ヤムチャは考え込んでいた。たぶん、今のこの場のことだけを。きっと後先何も考えずに。そんなの丸わかりよ。見飽きて目にタコができちゃったわ。
「で?どうするのかしらね、色男さんは?」
あたしはわざと真相には触れずにそう訊いてやった。教えてなんかやらないわよ。どうしてあたしがそんなことしなきゃいけないわけ。バカバカしいにも程があるわ。
「どうするって…」
思った通り、ヤムチャは口篭った。ぼんやりと宙に目線を泳がせて、たぶん自問していた。ほんの数十秒。やがてつるつると出てきた次の台詞で、さっきあたしが疑った思考のレベルが知れた。
「いいんじゃないか、放っておいて。内容もよくわからないし、何にせよ断るんだから、返事してもしなくても同じだろ。どうせ俺は今日までなんだし、そうじゃなくても知らない子ばかりだし…」
呆れと溜息。あたしには、もうそれしか湧かなかった。
まったく、その『知らない子』とやらに、この台詞を聞かせてやりたいわ。こいつを好きになったこと、後悔するの確実だわよ。まあ、知らないからこそ好きになったんでしょうけど。こいつ、見た目だけはいいからね〜…それにしても、11人もよくも騙せたものね。
目に余るラブレターを拾い集めると、それはなかなかの厚さとなった。…こんなに本気にさせちゃって。前にも思ったことだけど、ヤムチャってやっぱり詐欺師の才能あるわねえ。釣れてることに気づけないから、何も回収できないけど。
「はい」
ヤムチャが動こうとしないので、あたしはラブレターの束をその手に返してやった。まったく、こんな嫌味な代物、早くうっちゃってちょうだいよ。デリカシーないんだから。
「…あー…、はい、どうも…」
ヤムチャは何だかおぼつかない顔をして、それを後ろへ捨て置いた。『どうも』じゃないでしょ。後生大事にするわけじゃないところだけは評価してあげるけど…本当にわかってなさ過ぎ。あたしとこの子たちとで態度が逆だったら、絶対に捨てていたわ!
あたしはヤムチャの表情を探りながら、その体へ身を寄せた。それでもヤムチャは動かなかった。しかたなく片手を取ってあたしの肩に乗せてやると、ようやくヤムチャは口を動かした。
「ブルマ、何…」
「ごめんなさいのキス!」
ここは絶対に『ごめんなさい』でしょ!こいつ、一体どういう神経してるわけ!?
「え…………」
驚いたような呟きを漏らして、ヤムチャは黙り込んだ。長い長い長い沈黙。…ちょっとおぉ!もう、本当の本当に怒るわよ!
これ以上堪忍袋を広げるつもりはあたしにはなかった。もう袋ごと捨てかけた時、再びヤムチャが口を動かした。でも、沈黙は破られなかった。もう一方の手を今度は自力で動かして、優しくあたしの頬に触れた。…ふん。どうやら最低限のマナーはわきまえていたようね。あたしは現実を噛み締めながら、その唇を受け入れた。
これだけはっきり言ってもこの有様なんだから、仄めかしたってダメよね。みんな本当に、全然わかってないんだから。


ヤムチャとキスをすることは、その許しどころを確かめることでもあった。ラブレターへの態度から一転して、ヤムチャの唇は甘く優しかった――いつもそう。特にケンカの後は。それに加えてあたしが強く感じることがもう一つ…
でも、今日はそれを感じもさせずに、ヤムチャはキスをやめちゃった。正確に言うと、感じ取るより全然前に。目を開けると、ヤムチャはさっぱり色気のない目であたしを見ていた。えぇー?ちょっと、もう終わり?あんた、反省足りな過ぎるんじゃないの?
自分の沽券とヤムチャの鈍さを秤にかけて、あたしは考えた。何て言って取り計らえばいいのかしらね、こんな時。…本当は、取り計らわなきゃいけないのはヤムチャの方なのに。鈍いって最強だわ。
気を抜くと文句へ流れかける思考を、立て直すことはなかった。すぐにまたヤムチャが顔を寄せてきたから。…続き、あったのね。一体今のは何だったのかしら。変な間おかないでほしいわね。ヤムチャってば本当にタイミング悪いんだから…
あたしは再び目を閉じた。吐息が重なった。次の瞬間、ヤムチャが今度は体を引いた。
「ちょっとぉ!!あんたね、いい加減に…」
その無駄にやきもきさせるやり方、やめてよね!そう言いかけて、あたしは口を噤んだ。
視界の端に何か動くものがあった。すぐ近く。足元のドアのとこ。…誰かきた?そういえば、ロック壊れてたんだっけ…
「おまえら、まーたやってんのかよ。本ッ当にしょうがねえなあ」
誰かの正体はすぐにわかった。時間といい場所といい絶対にいるはずのないブタが、ペントハウスの梯子に片手をかけて、ものすごくふてぶてしい態度であたしたちを見上げていた。
「あんた何でここにいるのよ。授業は一体どうしたのよ!」
あたしが思わず怒鳴りつけると、ウーロンの態度はさらにふてぶてしくなった。
「とっくに終わったぞ。チャイム聞こえなかったのかよ。ったく、くだらないことで約束破るなよな。プーアルが見てたからよかったものの…」
「すみません、ヤムチャ様」
…プーアル!
ウーロンの背中からのこのこと現れた小動物を見て、あたしは過去の教訓を思い出した。
しまった。うっかりしてたわ。そもそもがプーアルに見つけられてから、あたしはここにくるのをやめたんだっけ。ヤムチャがこんなところにいるなんて珍しかったからつい…でも、いくら見つけたからって、何もこんな日にまで押しかけてくることないのに。気が利かないわよね。さすがヤムチャの僕だけあるわ。
苦虫を噛み潰しているあたしの横では、ヤムチャがらしくもなく落ち着いた表情で、2人の方に身を乗り出していた。珍しいこともあるものね。いつもだったらこういう時は、惚けてるか惚けたフリをしているかのどっちかなのに。思ったよりも反省して…あ、ひょっとして気がついてたのかしら。そっか、だからやめたのね。またいつものボケかと思っちゃったわ。
「見てたってどこ…いや、いつから?」
微妙に失言をかましながら、ヤムチャが2人に言葉を返した。それに答えるウーロンの顔は、ふてぶてしいを通り越して厚顔そのものだった。
「見られたくねえなら、どっかよそでやれよな。最後まで恥ずかしいやつらだぜ。普通に見られて困るようなことやれねえのかよ」
してる途中であんたが邪魔をしたのよ!
あたしは忍耐力を総動員して、その言葉を呑み込んだ。もう、せっかくヤムチャが矢面に立ったと思ったら、ウーロンのやつ何なのよ。どうしてこんな時にまで、そういうこと言われなくちゃいけないわけ?本当に空気の読めないやつね!
その空気の読めない邪魔者たちが、揃ってペントハウスの屋根へと上がってきた。ヤムチャはすでにいつもの態度を発揮して、黙ってそれを眺めていた。…ヤムチャってば、引くの早過ぎ。もうちょっと踏ん張りなさいよ。
僅かに芽生えた呆れは、すぐに育った。一応はすまなさそうな顔をしていたプーアルが、いつものようにヤムチャのところへと飛んでいった。するとヤムチャが、その頭を撫でたのだ。いつも以上に優しそうな顔つきで。
ちょっと、どうしてそうなるのよ。まさか、もう折れちゃったわけ?一言の咎めもなしに?いくら何でも早過ぎよ。あんた本当に主なの!?
数瞬の呆然の後に、あたしは理解した。…これよ。きっとヤムチャのこういうところが、みんなを誤解させたのよ。『優しい』ってさ。優しいんじゃなくて弱いだけだっつーの!
「おっ、これか。何だよ、ヤバイ写真でも隠し持ってたのか?」
その時もう一人の邪魔者が、意識を現実に引き戻した。ウーロンがさっきヤムチャが後ろに置いたラブレターの束を目ざとく見つけて、早くも一通を広げ始めていた。
「ヤバイって何が…」
惚けた素振りで振り向いたヤムチャの顔が、一瞬にして凍りつくのをあたしは見た。この時あたしは初めて、ウーロンの図々しさに感謝した。
ふーんだ。いい気味。
これで誰が悪いのかはっきりしたでしょうよ。たまにはヤムチャも、ウーロンとの不毛な会話を楽しんでみればいいのよ。いつもいつも他人事みたいな顔しちゃってさ。ずるいったらないんだから。
広げた一通にざっと目を通しただけで、ウーロンはラブレターをまとめて足元に投げ捨てた。少し前のおもしろがるような雰囲気は、すでに欠片もなかった。
「またラブレターか。よく貰うよな、おまえも」
白けきったウーロンの態度に、あたしはすっかり満足した。それが正常な反応よ。解釈も感覚もまったく同感だわ。わからないのはヤムチャくらいのものよ。あげる方もわかってなければ、貰う方もわかってないなんて、まったくもって不毛の極致だわ。
タイミングは最悪だったけど、たまにはウーロンに立ち会わせてみるのもいいかもね。躾の労力が分散できて――あたしは本気でそう思った。…一瞬だけ。ウーロンがその白けた目を、ヤムチャではなくあたしに向けた、次の瞬間までは。
「まったく、今に始まったことじゃないだろうがよ。いちいち目くじら立てんなよな。心の狭いやつだな、おまえは」
…ちょっと!どうしてそうなるのよ!
あたしの同感心は一瞬にして吹っ飛んだ。同時に繕っていたものが破れた。
「何言ってんの!貰う方が悪いんでしょ!!その上隠すなんて最低よ!どう考えたってヤムチャが全部悪いわよ!!」
そうよ、それにもっと最低なこともあったわ。説明するのも嫌になるくらい最低なことがね!
「またたいして話も聞かずに決めつけてんだろ。おまえはいっつもそうなんだからな」
「そんなのもう十分聞いたわよ!!」
いつもそうなのはウーロンの方じゃない。ウーロンだって、一度ヤムチャの言い分を聞いてみればいいのよ。こいつの本性が、よーっくわかるわよ!
あたしとウーロンの言い合いをよそに、ヤムチャはひたすらだんまりを決め込んでいた。プーアルと一緒に。あたしたちから少し距離を取って。…ずるいわよね、こいつ。さっきはあんなにぺらぺら喋ってたくせに。あたし以外にはああいうとこ、全然見せないんだから。プーアルだって、絶対騙されてるわよ。恋じゃないけど盲目に近いわ。騙されてないのはあたしだけよ!
「だったら怒ることないだろ。どうせ断るんだからよ。勿体ない話だよな。何だってヤムチャはおまえなんかが好きなんだろうな。物好きもいいところだぜ」
「ちょっと、何なのよそれは!!」
ウーロンの言葉は、あたしにとって最高に不本意なものだった。…ヤムチャがあたしのことを好きだなんて、知ってるわ。だから許してあげたのよ。なのに、その言い方は何なのよ。どうしてそんなことで、ヤムチャを責めるのよ。こいつ、一体何がしたいわけ!?
不毛を超えて無毛。もう、かける言葉すら惜しいわ!ウーロンから顔を背けると、頭を抱えるようにして縮こまるヤムチャの姿が目に入った。もう、何してんのよ、こいつは!今こそ腰の軽さを発揮して、どこかに連れ出してくれればいいのに。どうしてこいつは他人がいると、何もできないのかしら。情けないわね、まったく!
だから、あたしは一人でペントハウスを下りた。連れ出してなんかあげないわよ。どうしてあたしがそんなことしなくちゃいけないわけ。そういうのは男の役目でしょ!
ウーロンはさっぱり悪びれたところのない顔をして、その場に突っ立っていた。ヤムチャは相変わらず身を縮こまらせながら、呆気に取られたような目をしたプーアルと共に座り込んでいた。三者三様の目に見送られてドアコンソールに手を伸ばすと、いつもの感覚が心を過ぎった。上を仰ぎ見ると、やっぱりそれがそこにあった。
嫌味なほどの青い空。だけど、いつもと反対ね。いつもは空の下へ出ていくのに、今日はそこから立ち去ろうとしている…
…っていうかさあ。どうしてあたしが出ていかなきゃいけないわけ?
ものすごく根本的な疑問を見出したその時、頭上の一人と目が合った。いつしかヤムチャが中途半端に腰の軽さを露呈して、ペントハウスの上から身を乗り出していた。あたしを見下ろすその素振りは、数十分前に見たものとそっくりだった。
ラブレターをあたしに差し出した時のものと。あたしが立ってもいないのに引き留めた時のものと。あきらかに窺っているその瞳。地につかない足。なのに今はそれ以上動かない。…もう、ヤムチャってば本当に、ええ格好しい…
…いえ、単に弱いだけか。
あたしは息を一つ吐き出して、ドアのロックを弄った。かからないロックを。そもそもヤムチャがロックを壊さなければ、邪魔されずに済んだのよ。やっぱり、あたしが出ていく筋合いないわよね。
ドアを開けて、ポケットからマルチツールを取り出した。電子ロック接続部分のカバーを外して構造を見ていると、上から声が飛んできた。
「何やってんだよ、おまえ」
本来ここにいるはずのない、邪魔者の声が。ヤムチャの隣から覗き込むムカつくほど平然としたその顔に、あたしはことさら嫌味ったらしく言ってやった。
「ロックを直すのよ。これ以上不躾なやつが入ってこないようにね!」
本当はウーロンを追い出してやりたいところだけど、それは勘弁してあげるわ。それにどうせ追い出したって、覗き見されるに決まってるんだから。変化して飛んできたりしてさ。厄介な居候だわ、まったく。
「ロック?ああ、そういえば外れてたな」
「外れてたんじゃなくて、壊したのよ、ヤムチャが!」
さらに力を込めて言ってやると、ヤムチャが思いっきり体を竦めた。まったく、そんなにビビるんなら、こんなバレバレなやり方するなっつーの。気が強いんだか弱いんだか、わかりゃしないわ。
「おまえも案外無茶苦茶なことをするやつだな」
やや間をおいて、呆れたようにウーロンが呟いた。反論の声が上がらなかったので、あたしはロックの修理に専念することにした。
ウーロンも、これで少しはわかったでしょうよ。ヤムチャは兎の顔をした何かだってことが。何かが何なのかは、ちょっと思いつかないけど。狸じゃあないし、狐でもないだろうし…何かしらね、一体。
修理を終えてペントハウスを見上げると、その何かの顔が見えた。今だに竦んでいるその様と、ヤムチャを見るウーロンの呆れた表情を見て、あたしの心はすっかり晴れた。これが正常な結果よね。せいぜいそうやって反省して…
でも、その満足も一瞬のことに過ぎなかった。
「ところでヤムチャ様、お昼はどうしますか?」
ふいにプーアルが、まったく忠誠の揺らいだところのない顔つきで、ヤムチャの肩に飛び乗った。途端にヤムチャの顔が緩んだ。それはもう締まりのない笑顔だった。…全然反省してないわね、こいつ。
「面倒くさいから、ここで食べましょ。ヤムチャ、お弁当取りに行くわよ」
「ああ、うん…」
それでもヤムチャはあたしの言葉には、素直に従った。プーアルの背中を軽く叩いて、すぐに屋根から下りてきた。従順よね。一見すると。だから、みんな誤解するのよ。だからあたしが悪者にされるのよ。
こいつ、やっぱり狸か狐ね。落ちこぼれの狸か狐。きっとそれだわ。


2匹どころか山ほど邪魔者のいる昼休みの廊下を、ロッカーへと向かって歩いた。ヤムチャを隣におきながら。先に行くつもりも、行ってやるつもりも、あたしにはなかった。
「ドアのロックくらい、言ってくれれば開けるのに。どうして言わなかったのかしらね、色男さんは?」
「う…」
思いきり嫌味たらしく言ってやると、ヤムチャは一音の後に黙った。少し待っても続く言い訳がなかったので、あたしはいったん矛を収めてやることにした。
「もう隠すのやめなさいよ」
「はい…」
小さく呟くその声は、たぶん本当に反省しているとあたしには思えた。ったく、初めからそういう態度に出ろっつーの。そうすればあたしだって、くだらない本性を見ずに済んだのに。格好つけるところが間違ってるのよ、こいつは。
今一つ気分を切り替えられずに、あたしは自分のロッカーを開けた。リュックからお弁当を取り出してヤムチャの方へ目をやると、見覚えのある光景がそこにあった。
あたしよりも先に手をかけたはずのロッカーを、ヤムチャは未だに開けていなかった。何かに気づいたような顔をして、言葉を漏らした。
「…あ」
っていうか、気づいてる。ちょっとぉ!
「何よ。またラブレター!?」
「いや、違う違う」
あたしが訊くと、ヤムチャは慌てたように両手を振った。嘘をついている感じではなかった。でもそれで、安心できるはずもなかった。だって、こいつは天然なんだから!
「じゃあ何よ。プレゼント!?」
「違うって…」
再び発せられた否定の声は、収めた矛を取り出させるに十分だった。どうしてあんたが呆れるのよ。それはあたしのすることでしょ!…本当に反省してるのかしらね、こいつ。ひょっとして、あたしも騙されてるんじゃないのかしら。
あたしの疑惑をよそに、ヤムチャはのうのうとロッカーを漁り始めた。手つきにも表情にも怪しいところはなかった。再び矛を収めかけた時、まったく予期せぬ台詞が、ヤムチャの口から飛び出した。
「なあ、俺、飯食ったら帰ろうと思うんだけど」
「何で?」
あまりに直截的なその言い方に、あたしは思わず訊き返した。隠そうとしないのは進歩だけど、でも、あたしのサボリにはあんなに否定的だったのに。それに、せっかくあたしが一緒に登校してあげたのに…いや、もういいか。もうヤムチャの姿勢なんか、どうだっていいわ。
「ちょっと視線が痛いから。ほら、ラブレターくれた子からの様子見がさ…」
声を顰めるようにして、ヤムチャは答えた。完全なる呆れがあたしの心に広がった。
そんなの、返事してないんだから当たり前でしょ。同じ立場だったら、あたしだって様子を見るわよ。っていうか、そんなんで帰っちゃうわけ?弱過ぎるわ。素っ気ないを超えて、ただの無能よ、それは。
続く言い訳はなかった。あたしは溜息を呑み込みながら、あたしの顔色を窺うように傾げる顔に向かって、思いきり強く言ってやった。
「いいわよ。帰れば?最後くらい自分の好きなようにしなさいよ」
ヤムチャは答えなかった。でもその無言が、雄弁に心情を伝えていた。
「あんたが帰るなら、あたしだって帰るわよ。何が楽しくて、こんな日に真面目に授業受けなきゃなんないのよ」
まったく、付き合ってほしいなら、はっきりそう言えばいいのに。っていうか、もっと早く思い立てばよかったのに。そうすれば邪魔されることもなかったのに。本当にタイミング悪いわよね、こいつって。
あたしにはわかっていた。この後の展開が。どう考えたってコブ付きよ。この流れでプーアルがついてこないわけないわ。ウーロンだって何だかんだ言って、ついてくるに決まってるわよ。あいつらが気を利かせたことなんて、一度だってないんだから。だからきっと続きはなし。おまけに一緒にハイスクールにいるのももう終わり。
ふと、朝、父さんに言われた言葉が脳裏を掠めた。でも掠めただけで、棲みつくことはなかった。
おあいにくさま。そんな思考、ヤムチャにはないわよ。あったって、どうせしやしないわ。こいつは変なところで気が強いくせに、肝心なところでは絶対に弱いんだから。でもあたしから、そんなことする気はないわ。だって、それは絶対に男の役目でしょ。それにそういうのは、最後の最後にするからいいのよ。別れのセレモニーは、やっぱ別れ際よ。わかってないわよね、父さんも。
「ひさしぶりに映画観よっかな。それからショッピングね。今、春のバーゲンやってるのよ。それとも夏物、もう買っとく?」
ヤムチャ言うところの『痛い視線』とやらを肌に受けながら、あたしはロッカーを離れた。ヤムチャを見る女たちの目。そしてあたしに寄せられる羨望と嫉妬の眼差し。ヤムチャをハイスクールに連れてきて以来の、いつしか日常となっていたこの空気。
最後だと思えば、悪くない気分ね。爽快には程遠いけど。あたしもずっと騙されていたかったわ。


こうして、ヤムチャと過ごすハイスクール生活は終わりを告げた。さて、来週からはどうやってヒマ潰ししようかしら。
web拍手
inserted by FC2 system