泳歩の男
一週間ぶりにカメハウスへと向かう朝。あたしはいつもより念入りに服を選んだ。アジュールブルーのホルターネックキャミソールに、センタープレスのサブリナパンツ、その上にホワイトのデニムジャケット――こんな風にトータルコーディネートするのは久しぶり。ちょっとしたデート気分ね。
「よっし。オッケー!」
鏡に向かってウィンクすると、美人がさらにかわいくなった。…ちょっと魅力振り撒き過ぎかしら。今度は軽く小首を傾げて笑ってみた。…うん。こっちの感じでいこうっと。あたしが何しにカメハウスへ行っているのか、今日ははっきりわからせてやるわ!
あたしがすっかり自分を盛り上げきったその時、キーテレホンから声が聞こえてきた。発信場所はエントランス――
「おまえ、まだ支度終わらねえのかよ。ったく、いい加減にしろよな」
…うるっさい。
あたしのデート気分は、早くもぶち壊された。ウーロンのやつ、たいして気乗りしてないくせして、いっつもこういうこと言うんだから。一体、何様のつもりなのよ。あんたはおまけなんだっつーの。だいたい、女性を急かすなんてマナー違反もいいところじゃない。
「おっせーぞ、おまえ」
あたしがエントランスに顔を出してもなお、ウーロンは文句を言い続けた。ふてぶてしいその顔に、あたしは思いっきり皮肉を投げつけてやった。
「女の朝は忙しいのよ。恋人に会いに行くとなればなおさらね。女に縁のないやつには、どうせわからないでしょうけど!」
ま、ヤムチャがそれっぽくないってことはこの際横においといて、一応、恋人は恋人よ。だからあたしは、恋人に会いに行ってる女なわけよ。なのにどうもそこのところをわかってないみたいなのよね、カメハスの男連中は。
「何が恋人だよ、よく言うぜ。だいたい、何もなくたって待たせるくせによ」
「…あんた、留守番してる?」
そしてウーロンのやつも。
ヤムチャがいなくなってからも、相変わらずウーロンはこんな風にあたしに突っかかってくる。最近では特に態度があからさま。ま、ウーロンの言うことなんか痛くも痒くもないけど、イライラしちゃうのはどうしようもない。
「ほら、行くわよ。さっさと乗って」
「おまえが待たせてたんだろ…」
しつこくぶつくさ言うウーロンを、それでもあたしはエアジェットに乗せてあげた。主がいた頃と変わらない、一歩引いた態度であたしたちを見ているプーアルと一緒に。
残されたあたしがどれほど孤軍奮闘しているか、ヤムチャのやつに教えてやるのよ。蚊帳の外になんて、絶対にいさせないんだから。どうにかしろなんてことまでは言わないけど、せめて慰めるくらいのことはしてもらわなくっちゃね。

C.Cを離れ、カメハウスまであと数十kmとなった時、エアジェットのエアコンが勢いよく風を吹き出し始めた。ちらと外気温センサーに目をやると、そこには信じられない数値が表示されていた。
プラス7度。30度超え…!
常夏って恐ろしいわね。まだ初夏だっていうのに。ちょっと厚着し過ぎたかな。
そうは思っても、ジャケットを脱ごうという気はあたしにはさらさらなかった。当ったり前よ。あたしはヤムチャに会いに行くんだから。それ以外の理由なんて、絶対にないんだから!
「ウーロン、ちょっとこっち来て計器見てて。オートパイロットにしておくから。あたし髪纏めるわ」
「なんだよ。おまえまだ用意できてなかったのかよ」
「こんなに暑いとは思ってなかったのよ!」
こうるさいウーロンの口を封じ込んでから、あたしは後部座席へと移って、それまで下ろしていた髪を低い位置で編み込んだ。最後にリボンを結びつけた時、あたしはふと思い出した。
確か、ヤムチャを送って行った時もこんな感じだったわ。『暑い』ってあたしが言うと、ヤムチャはしれっと答えたものよ。
『季節による寒暖差がなくて修行もはかどるというものだ』
あいつ、今でも同じこと言えるのかしら。あんな偉そうな態度、取れるのかしら。
修行バカがこの猛暑をどう過ごしているか見ものね。…思いっきりからかってやろうっと。




エアジェットをカメハウスの手前に着けてキャノピーを開けると、暑い空気がなだれ込んできた。ジャケット越しの肌にさえ、日差しの強さがわかった。
「うへぇ。マジで暑いな、ここ」
「でも、思ったより乾いてるじゃない」
意識して長所へ目を向けると、ウーロンが眉を顰めてあたしの言葉を否定した。
「干乾びてるっていうんだ、これは。プーアル、おまえ大丈夫か?毛、刈った方がいいんじゃねえのか」
その台詞は、あたしの不快感をちょっぴりだけ刺激した。全身つるっぱげのプーアルか。見たくないわね、はっきり言って。
思わず想像してしまったその姿を脳裏から追い払ってプーアルからも目を背けると、さらに見たくないものが目に飛び込んできた。かつて偉そうに嘯いていたあたしの恋人とその兄弟子が、こちらへ向かって歩いてきていた。
上半身すっ裸で。脱いだシャツをタオルのように首元に巻きつけながら。…まったく。オヤジかっつーの。
「ちょっと、何よその格好。みっともないわねー!」
『思いっきりからかってやろ』。あたしのかわいい遊び心は、すでに姿を消していた。あたしは彼氏を武道の修行に送り出したのであって、オヤジを工事現場に派遣したわけじゃないのよ!!
「今が一番暑い時分だからな」
思いっきり非難してやったにも関わらず、ヤムチャは態度を崩さなかった。…なんか前に言ってたことと違うわね。あたしがちょっぴり呆れていると、ヤムチャがやおら、そのタオルもどきで顔を拭い始めた。…あああ。もう、そういうのやめてよ!
「だからって、レディの前でくらい慎みなさいよ。あんた、マナーがなってないわよ!」
「暑い時に服を脱ぐのは動物の本能だぞ」
さっぱり堪えていない顔でヤムチャはそう言い放ち、あたしをすっかり呆れさせた。よくもそう、いつもいつもそれっぽい台詞を思いつくものね。でもその格好じゃ、それっぽさも半減よ。いつもの格好つけは、一体どこへいったのよ。今!今こそ、格好つけなさいよ!
あたしは少し微妙な気持ちになって、ヤムチャの胸元を伝う汗を見つめた。…だから田舎は嫌なのよ。すっかり気を遣わなくなっちゃってるんだから。都にいた時はもうちょっとそれっぽかったのに…
「午前の修行はもう終わり?…亀仙人さんは?」
ジャケットの襟を正しながら、あたしはあたしに一番気を遣わせている人間の行方を訊ねた。ふん。そうよ。あたしがこんな格好をしてきたのは、別にヤムチャのためなんかじゃないわよ。どうせあのじいさんのせいよ。本当に恥も外聞もないエロさなんだから、亀仙人さんは。あたしはもう何があっても絶対に肌を見せないわよ。あたしはセクハラされるためにここに来てるんじゃないんですからね!
「武天老師様なら隣町の方とサメの件で…あ、ブルマさんも何かご用ですか?」
「まさか。そんなわけないでしょ!!」
起きながら寝惚けたことを言うクリリンくんを、あたしは思いっきり怒鳴りつけた。そんなことしたら、一体何を要求されるか知れたものじゃないわ。師匠の性格くらい、いい加減にわかりなさいよ!
っていうか、本当にわかってないわけ?暑さでバカになってるんじゃないの?ヤムチャも何だか反応鈍いし。
…いえ、いつものことか。


開け放ったドアと窓から僅かに戦いでくる、肌を弄らない熱い風。レースカーテン越しに注ぎ込む、肌を刺さない強い日差し。
カメハウスのリビングに座り込んでランチさんの出してくれた水煎茶を飲みながら、あたしはひたすら自分の心と戦っていた。
「ちょうどいいところにいらっしゃいましたわ。みなさんこれから昼食にするところでしたのよ」
「…あ、そうだったの」
ランチさんが涼しく笑って言ったので、あたしもできる限りの涼しい顔でそれに答えた。本当にできた人ね、こっちのランチさんは(正直、時間に関してはあたしが非礼だったと思うわ)。カメハウスにはもったいないくらいの人材よ。
やがて、できていない人間が2人、バスルームから戻ってきた。カメハウスへ入るなり、甲羅と彼女を放り出してシャワーへと走った一応の恋人とその兄弟子が。さっきまで首にかかっていたシャツはタオルに、滲む汗はシャワーの滴に、それぞれ取って代わられていた。濡れそぼった短い髪。額に滴る水の粒。どこからどう見てもスポーツマン…
…あー、爽やか。あー、涼しげ。最初っからそういう風にしてればいいのよね。ヤムチャは見た目はいいんだから。黙っていれば凛々しいし。喋り過ぎなければクールに見えるし…
その見た目だけは涼しげな男の後ろで風鈴が揺れた。やっぱり見た目だけは涼しげなその光景が、あたしの心をダメ押した。
「…あつ〜い…」
ここにきてついに堪らず、あたしはテーブルの上に突っ伏した。…どうしてここにはエアコンがないのよ。常夏地帯の必需品でしょうが!!
「上着をお脱ぎになってはどうですか?家の中にいれば、それほど陽には焼けませんよ」
「…そうね〜…」
嫌味のないランチさんの言葉に表向き頷きながらも、あたしは姿勢を変えられずにいた。
そうじゃないのよね。肌は焼けてもいいのよ別に。っていうか、夏に焼かないでどうするのよ。でもさあ…
あのじいさんの前では焼きたくない。それがあたしの本音よ。
少しだけ顔を横に向けると、今度はタオルを髪にあてているヤムチャの姿がグラス越しに見えた。まあ格好はいいけどさ、やっぱり気は遣ってないわよね。いいわね、男は。隠すところ少なくって。
「熱中症になっちゃいますよ」
「熱失神したら大変だぞ」
揃いも揃って同じような態度を取る弟子たちの声は、あたしの不快感をちょっぴり刺激した。特に後者。ヤムチャってば、またそんなそれっぽいこと言っちゃって。専門家でもないくせに。…でもそうね。倒れちゃったら元も子もないかもね。特に気を失っちゃったりしていたら、その隙に何をされるか。想像がつくだけに嫌過ぎるわ。
今はいないんだから、まあいいか。亀仙人さんが帰ってきたらまた着ることにしよっと。そう思って、あたしはジャケットを脱いだ。その直後、全身に悪寒が走った。
「…ひゃあああぁんっ!」
ホルターネックの背中を滑った感覚は寒過ぎた。背筋を上から下へと伝う、こそばゆいに留まらない指の感触。…髪、纏めるんじゃなかった。あたしが一つだけ自分の非を認めると、振り向くまでもなくわかりきった犯人の声が(こんな文字通り背筋の寒くなるようなことをするの、他にいないわよ!)、真後ろから聞こえた。
「ほっほっ。今日も暑いのう。海水浴日和じゃわい」
「いきなり何すんのよ、このセクハラじじい!!」
「何、予行練習じゃよ。オイルを塗って肌を焼く時のな」
「必要ないわよそんなもの!!」
とっくに思っていたことを、あたしはさらに強く決心した。例え肌が焼け爛れようとも、亀仙人さんには絶対オイルを塗らせない!!
「何を言う。夏は海じゃろ。小麦色の肌じゃろ。そんなモモヒキみたいなもの穿いとらんで」
「これはサブリナパンツっていうのよ!」
それだけじいさんくさいくせして、どうしてそういうところは衰えないわけ!?史上最悪の老人ね!
「だいたい海って何よ、海って。修行中でしょ、あんたたちは!!」
師匠に加えて最悪のタイミングで事を起こした弟子たちを、あたしはようやく射程に入れた。立派な幇助よ、今のこいつらのタイミングは。まさかこいつら、グルなんじゃないでしょうね!?
「い、いえ。だから修行ですよ。今、サメ追いのバイトやってるんすよ、おれたち。今日でもう5日目に…」
「そうそう、隣町のビーチでな!」
またもや揃いも揃ってクソ真面目に、弟子たちはあたしに答えた。…それだけだった。相変わらず空気の読めてないやつらね。それなら師匠を怒りなさいよ!
でも、あたしはそれは口に出さなかった。…それが期待できるようならね、あたしだってこんな格好してきてないのよ。
あたしの怒りは早くも呆れに変わり始めた。それを弟子の一人がさらに根強いものにした。
「で、老師様。どうするんです、この修業、まだやるんですか?」
「当たり前じゃ。まだまだ続けるぞい」
「このままでですか?」
「このままじゃ」
まるで何事もなかったかのように、ヤムチャはさっさと場を流し、話を進めていってしまった。相変わらず弱いわね。本当に弱過ぎよ。あんたは他のみんなとは立場が違うんだから、少しは言ってくれたっていいのに。後で文句言っとこっと。
「このままって言われてもなあ…、クリリン?」
そのままヤムチャはあたしを無視し、すっかり気が合っているらしいクリリンくんへと視線を移した。珍しく師匠に口答えするその様とある感情に誘われて、あたしは話に割って入った。
「ねえ、それって何なの?」
ヤムチャは答えなかった。なぜか目を閉じた弟子の横で、師匠が滑らかに言葉を繋いだ。
「隣町のビーチに近頃サメが出るんじゃよ。それで海水浴客が減っておってな。武道家であるわしらにどうにかしてほしいという話じゃ」
「ふーん…」
カメハウスに出入りするようになって以来、初めてあたしは亀仙人さんの言うことに感心した。サメ退治か。ようやくそれらしくなってきたわね。『バイト』っていうところが、ちょっと引っかかるけど。
「じゃから、午後からはビーチに行くぞい。さてランチちゃん、準備はできとるかの」
緩んだ口から歯を覗かせて、亀仙人さんがランチさんに顔を向けた。ランチさんがにこやかにそれに応えた。
「ええ、お弁当も飲み物も、もう用意してありますわ」
あたしは再び呆れてしまった。感じたばかりの感心は、すでに消えかけていた。…どこが修行よ。ただのピクニックじゃないの。さらに出てきた亀仙人さんの言葉が、僅かに残っていた感心を完全に吹き飛ばした。
「ブルマちゃんは水着の用意しておらんじゃろ。よかったら亀仙流の水用道着を…」
「着るか!!」
あたしはただもう反射的に、亀仙人さんの頭を殴りつけた。またそれ!?本当に修行してるわけ!?ひょっとして、ただの口実なんじゃないの!?
さらに反射的に弟子たちの姿を探すと、2人はすでに2階へ続く階段の上へと消えていた。…逃げたわね。いついつまでも気弱い弟子たち――
「ブルマさん、よろしかったらわたしの水着をお貸ししますわ」
邪気なく笑いかけるランチさんの好意に、あたしは素直に甘えることにした。というか、それしか選択肢はなさそうだった。
まったく、そういうことは来る前に教えてよね。そうしたらばっちり用意してきたのに。…あたし、引っ掛けられてるんじゃないでしょうね?


「わたしはもう自分のものを選びましたから、どれでもお好きなものをどうぞ。水着の上に着る服がご入用なら、こちらにありますわ」
自室のクロゼットを開け放って、ランチさんは部屋の外へと消えた。遠ざかる足音よりも、近づいてくるかもしれない足音の方を気にしながら、あたしはワンピースタイプの水着を一枚引っ張り出した。
「う〜ん…」
そして鏡に映すまでもなく、着たばかりの水着を脱いだ。次にセパレートタイプを試してみたけど、やっぱりそれも同じだった。
「うぅ〜ん…」
さらに何回かの試着を繰り返して、あたしは何回かの唸り声を上げた。ちょっとした精神的ダメージを、あたしは受けていた。
ランチさんの水着は、どれもあたしには合わなかった。デザインではなくサイズ的に。ウェストはぴったりなんだけど、バストとヒップがちょっとずつ余る。ランチさんって、スタイルいいわねえ。あたしだって、結構自信あったんだけどな。
しかたなくタイフロントのトップとタイサイドのビキニを選んで、少しきつめにストラップを結んだ。後は上に羽織るもの――
それにもあたしは苦労した。今度はサイズではなくデザインの点で。ランチさんの服ってどうもちょっと…かわいいにはかわいいんだけど、性に合わないっていうか。もう少し動きやすそうなのはないわけ?こんな長いスカートで、よくあんなに軽やかに動き回れるわね。あたしはちょっとごめんだわ。だいたいスカートなんか穿いてたら、何されるかわかったもんじゃないし。
クロゼットの隅から隅まで探しまわって、まずは上に羽織れそうなノースリーブカーディガンを見つけ出した。それをハンガーから外していると、階下から声が聞こえてきた。
「おーい、まだかよー?」
本日2度目の、女性を急かすブタの声。…もうぅ、うるさい!よその家でくらい、おとなしく待てないの?男はパンツ一枚穿けば終わりかもしれないけど、女はそうはいかないのよ!
「早くしないとおいてくぞー」
「今行くってば!」
ドアを開けてそう言葉を投げながら、あたしはやる気も投げ出した。もうやめた。面倒くさい。どうしてあたしだけがこうも気を遣わなくちゃならないわけ?本来あたしは遣われる立場なのにさ!
少し乱れたクロゼットに背を向けて、あたしは自分の荷物を弄った。パジャマ代わりに着ようと思って持ってきたホットパンツ。もうこれでいいわ。どうせすぐ水着になっちゃうんだから。これ以上ウーロンに偉そうな口を叩かれてたまるもんですか。
そうしている間にも、まるで念仏のようにぼそぼそと、低い声が開けたドアの隙間から漏れてきていた。カーディガンに手を通しながらリビングへ下りていくと、思った通りウーロンが文句ならぬ差し出口を叩いていた。
「だいたい、あいつはおまえがいないのをいいことになあ…」
周りには、どことなく気後れしたようなみんなの顔。正面には、いつもの惚けたヤムチャの顔。
「ちょっと、ウーロン!余計なこと言わないでよ。あんたは自分のことだけ心配してればいいのよ!!」
ウーロンが何を言おうとしてたのか、あたしにはすぐにわかった。男のお喋りって最低ね!あー、さっさと下りてきてよかった。
「言われて困るようなことしてんなよ」
「あたしは何もしてないわよ。だけど、あんたが言うとそう聞こえないのよ!」
ぬけぬけと言い放つその顔を、あたしはきつく睨みつけた。まったく、いつの話をしてるのよ。あたし自身が忘れてたようなこと、今さら持ち出さないでほしいわ。何だってこいつは、こういつもいつも場を引っ掻き回そうとするのかしら。そんなにケンカさせたいわけ?モテない男の僻みもいい加減にしなさいよ!
「屁理屈女」
「お喋り男!」
「けっ」
あたしが言い返すと、ウーロンは一瞬にしてそっぽを向いた。わざとらしく鼻を鳴らしながら。まー、いちいち癇に障るブタだこと。いくら図星だからって、もう少しまともに口を閉じられないものかしら。
ともかくもあたしはウーロンの声を封じ込んで、その顔を視界から追い払った。やっぱり気後れしたようなみんなの姿が目に入った。何とも言えない沈黙の中で、お喋り男のお喋り相手が口を開いた。
「あー…じゃあ行きますか、老師様」
そしてさっくりと場の空気を流した。とてもこの場にいたとは思えない、惚けた口調で。まったくいつも通りの、気の抜けた声で。…ヤムチャってば、今の聞いてて何も感じなかったのかしら。まあ、その方がいいけど。
全部終わったことだもの。っていうか、始まってもいなかったわ。時効どころか、完全に濡れ衣よ。それなのにウーロンのやつ…C.Cに帰ったらきつく言っておかなくちゃ。
「やれやれ、待ちくたびれたぜ」
ヤムチャにも似た態度で、ウーロンが腰を上げた。その顔には、話を混ぜっ返そうとする気配はなかった。とはいえ反省の色もなく、今度は別の方法で場を引っ掻き回し始めた。
「それにしても、おまえその格好で行くのかよ。ビーチったって、隣町なんだぞ」
水着の上にカーディガンを羽織っただけのあたしを胡散臭そうな目で見て、そう文句をつけた。反射的に視線を投げながら、あたしは一瞬感じた恥じらいと体裁も投げ捨てた。
「いちいちうるさいわね。そんなわけないでしょ。これからホットパンツを穿くのよ!」
あんたが早くしろっていうから、着る物もとりあえずに来てやったんでしょうが。いつもはいいだけエロいくせして、こんな時だけ常識家ぶってんじゃないわよ。もういいわ。ここで着てやる。どうせ水着なんだから。これ以上ウーロンに口実を与えてたまるもんですか。
カーディガンの隠しポケットに突っ込んでいたホットパンツを身につけると、ウーロンはもう文句を言わなくなった。ランチさんがてきぱきとテーブルの上のグラスを片づけ始めた。そのままキッチンへと行ってしまうと、初めにヤムチャが次にクリリンくんが、黙って後に続いた。
「よーし、いくぞクリリン」
「いいですよ。準備OKです」
これまでとは一転して気の入った声が、キッチンから聞こえてきた。少しすると、2人揃って大きなバスケットを手に外へ出て行った。その時にはすでに亀仙人さんが、ハウスの前に車を用意していた。のどかさ全開のサンルーフ付きのワゴンカー…
…やっぱりピクニックだったわ。
呆れ混じりの納得を心に植えつけられていると、弟子たちが前席に収まった。末弟子が運転席に、兄弟子が助手席に。汗を流しながら後部座席へのステップをよじ登っているウミガメには目もくれず、亀仙人さんが緩んだ口から歯を覗かせた。
「では行くぞい。道筋はこれまで通りじゃ。さて、運転は弟子たちに任せておくとして、ランチちゃんとブルマちゃんはわしと一緒に最後列に…」
「乗らないわよ!!」
「この車は最後列が一番快適なんじゃぞ。レディファーストじゃ。ささ、遠慮せんと」
「そんなこと言って、みえみえなのよ!!」
まったく、ピクニックにしたって、もう少し真面目にやれないものかしら。何度も思ったことだけど、ランチさんは偉いわ。
「はて、何のことかの。わしはただ最年長者として礼儀の模範を示しているに過ぎんのじゃが」
「嘘おっしゃい!!」
まったく誰にも加勢されることのないまま、あたしは自分で自分の身を守り続けた。しつこい勧誘を振り切って何とか2列目に収まると、ワゴンのエンジンがかかった。
「じゃあ、行きますよ」
まるで何事もなかったかのように、前席のヤムチャが言った。まるで何事もなかったかのように、あたしの後ろで亀仙人さんが答えた。
「発車オーライじゃ」
その瞬間、あたしの身に事が起こった。
「ちょっと!お尻触らないでよ!!」
すぐさま腰を浮かせて振り向くと、亀仙人さんが飄々として嘯いた。
「はて、何のことかの」
「惚けないでよ!今、シートの隙間からお尻触ったでしょ!」
「ちっとくらいいいではないか」
あたしが思いっきりバラしてやると、あろうことか亀仙人さんは開き直った。どこが礼儀の模範なのよ。中途半端にボケた老人って最低ね!
「いいわけないでしょ!!」
「とんでもないじいさんだな…」
わざとらしく眉を寄せて、隣でウーロンが呟いた。そしてわざとらしく視線を宙に泳がせて、太ももに手を伸ばしてきた。
「ちょっとウーロン、紛れて触ってんじゃないわよ!プーアル、ウーロンと席代わって!!」
わからないとでも思ってるの!?小狡いブタも最悪!
今ではあたしは完全に、席を立っていた。体を浮かせたプーアルの下へウーロンを押し込もうとしたその時、それまでまったく口を開かなかったドライバーがおもむろに呟いた。
「…もう本当に行きますよ?」
場の空気をまったく無視した、淡々とした口調で。いつになく冷静な声で。そして誰の返事も聞かずに、いきなりワゴンを発進させた。
ちょっとおぉ!あんた、これまで流すわけ!?一体どういう神経してるのよ!!
その言葉は口にできなかった。スタートダッシュが尋常じゃなかったからだ。あまりの速さに、あたしはもうシートベルトを掴むので精一杯だった。ようやくベルトを締めてシートに座った頃には、エロいじいさんもエロいブタもすっかり落ち着いてしまっていた。完全にタイミングを逃してしまったことを、あたしは認めざるを得なかった。
…何これ。そりゃ、結果的には治まったけどさ。でも、何か違うわよ。絶対に間違ってるわ!弱いとかそういう問題じゃないわよ、これは。あんた、本当に彼氏なの!?
それを言うタイミングも、あたしには与えられなかった。ヤムチャは黙々と前だけを見て、ワゴンをぶっ飛ばしていった。


まばゆい緑の山々と、きらめく紺碧の海岸線。果てしなく続くビーチに、集まる海鳥と人々。それが遠くに見え始めた頃、ようやくワゴンのスピードが落ち着いた。それであたしも何とか気分を落ち着けて、沸々と湧き起こる不快感をとりあえずうっちゃってしまうことにした。
だって、この前の時もこうだったのよ。
何かと言っては、亀仙人さんがちょっかいを出してきてさ。気がついたら二日経ってたのよ。冗談じゃないわよね。あたしの週末を何だと思ってるの。そりゃ、ここの人間は年中休日だからいいかもしれないけどさ、あたしは嫌よ。せっかくの週末をセクハラで潰されるなんて。だから、今日はできるだけ引き摺らない。ヤムチャのやつは、後でこってり油を搾ってやるわ。
「なかなかきれいな海じゃない。それに結構人もいっぱい来てるのね」
まずは心の底から思ったことを、めいっぱい自制心を発揮してさりげなく口にしてみた。車の外に広がる景色。それ以外のことについて話すつもりはなかった。そんなことしたら、また怒りが再燃しそうだわ。
「海水浴場ですからね」
あたしに答えたのはクリリンくんだった。あたしはちょっぴり意外を感じながら、再び思ったことを口にした。
「この田舎の一体どこに、こんなに人がいたのかしらね。で?サメはどこにいるわけ?」
「奥の入り江のロープの向こう側ですよ。あの白い家が浮いてる手前辺りです」
「…家?」
思わず声を詰まらせると、クリリンくんが助手席から腰を浮かせた。
「ほら。あれですよ」
強引に伸ばされた短い腕の先に、白い点が見えた。家かどうかまではわからないけど、確かに白い四角っぽいものが海の上に浮いている…
「何あれ。本当に家なの?どうしてそんなものが海の真ん中にあるの?」
「休憩所か何かだったらしいですよ。今は完全に廃屋ですけど」
「ふーん…」
一通り納得させられながらも、あたしは首を捻らずにはいられなかった。逐一丁寧に答えるクリリンくんに対してじゃない。その隣の男にだ。…どうして何も言わないのかしら。そりゃ、ヤムチャが答えなきゃならないってわけじゃないけど。でも、いつもだったらこういう時は、なんとなく偉そうに鋭いんだかズレてるんだかわかんない説明をしてくれるものなのに。そんなに集中しなきゃならないほど、運転が難しい道でもないと思うんだけどな。なんか変な感じ。位置がいつもと違うせいかしら。いつもはドライバーズシートかその隣だったからなあ…
ワゴンはビーチを横目に走り抜けて、比較的人気の少ない入り江の手前で止まった。砂浜へと降りるなり、亀仙人さんがすました顔で言い切った。
「さて、まずは何はともあれ弁当じゃな」
もうあたしには呆れる理由はなかった。そうでしょうよ。ピクニックなんだもの。お昼ごはんまだなんだものね、そりゃ食べるでしょうよ。
小動物たちがビーチマットを、兄弟子がビーチパラソルを、手際よく設えた。姿の見えない末弟子の姿を探していると、ワゴンの後ろから数十分ぶりに耳にする陽気な声が聞こえてきた。
「いいですよ、ランチさん。バスケットは俺が持っていきますから」
「あら、ありがとうございます」
来る時と同じようにバスケットを、今度は一人でヤムチャが手にしていた。数十分ぶりに目にする妙に気の入ったその態度に、あたしは再び首を捻った。
…なーにあれ。ずいぶん態度違うんじゃない?
この前あたしが家事やってた時は、ろくに手伝ってくれなかったくせに。っていうか、その前にランチさんが家事やってた時だって、たいして手伝ってなかったくせに。どうして今頃になって気利かせてんのよ?なんか、さっきからずっとそうなのよね。まあ、毎日家事やってくれてる人に気を遣うのはいいことだけどさ。たまに会いに来てるあたしにも、同じくらい気を遣ってほしいものだわ。
あたしはそれほど怒っていたわけじゃない。ちょっぴり不審に思っただけだ。でもそれも、ほんの僅かな間のことだった。
あたしの見ているその前で、それまで開いていたバックドアが閉まった。それで、それまでバックドアに隠れていたヤムチャの表情が、はっきりと見えたのだ。
正確に言うと表情ではなく、視線の動きが。ランチさんの上から下までを舐めるように這う、その眼の動きが…
「どうかなさいましたか?ヤムチャさん」
「い、いえ、別に…」
慌てたようにランチさんから目を逸らしてその場を去ろうとするヤムチャを、あたしは心の中で怒鳴りつけた。
別にじゃないでしょ!
何なのよ、その露骨な態度は。まったく、やらしいんだから。そりゃあんたがそういうのに弱いっていうのは、もうわかってたけどさ。そこまでわかりやすい行動取ることないでしょ!惚けたふりして、しっかり見てるわよね、こいつ。差つけてんじゃないわよ!
そのままヤムチャがこちらへ向かって歩いてきたので、あたしは黙って背を向けた。言わないわよ、こんなこと。情けないったらありゃしない。…………ふんっだ。いいもん。ランチさんはどうか知らないけど、あたしはまだまだ成長期だもん。きっとすぐに見返してやるんだから!
あたしが横目で見ていると、ヤムチャはあたしの視線に気づいた様子もなく、少し離れたところに腰を下ろした。亀仙人さんとクリリンくんがすぐにそこに加わって、3人で何やら話し込み始めた。それはそれは賑やかに。やがてランチさんがやってくると、みんなが準備している間はいいだけ存在感を消していたブタが、厚かましくも言い放った。
「あー、腹減った。腹と背中がくっつきそうだぜ」
「まあ、ウーロンさんたら」
無遠慮なウーロンの言葉を受けて、ランチさんがバスケットの中身を広げ始めた。青い海。白い砂浜。ピクニックをする団体客。もうどこからどう見たって、これは立派なサマーホリデー。一足早いサマーホリデー…いい生活してるわよね、ヤムチャのやつ。ひとの気も知らないでさ!
「たくさん作ってきましたから、遠慮なく食べてくださいね。ブルマさん、ストロベリーサンドイッチはお好きですか?」
「あっ、うん。大好き!」
さりげない口調で示されたランチさんの好意に、あたしは素直に飛びついた。もういいわ。ヤムチャのバカのことなんか、気にしない。ランチさんのことだって、気にしない。だって、ランチさんいい人だもん。
「いっただっきまーす!」
同じようなタイミングでみんなが一様に、おそらくはそれぞれの好物に口をつけ始めた。まさにあたしも自分の好物に齧りつこうとした、その時だった。
「ちょっと待った!」
見事に空気に逆らった言葉が、すぐ横から飛んできた。いつの間にかヤムチャが隣に来ていて、妙に真面目くさった顔つきであたしを見ていた。
「ブルマ、それを食べる前に俺と勝負しようぜ」
「…勝負?」
一体どんな態度を取ってやろうか、考えるヒマもなかった。自分に向けられるものとしては聞き慣れないその言葉に、あたしはただただ眉を顰めた。ヤムチャは気にした風もなく、軽く笑ってさらりと言った。
「ジャンケンだよ、ジャンケン」
…何それ。
あたしは一瞬、完全に呆けた。
ようやく話しかけてきたと思ったら、いきなりジャンケン?っていうか、食べ物を取り合ってジャンケン?小学生かっつーの。でも変ね。いつもならこういうの、真っ先に譲ってくれるのに。差をつけてるにしたって、わざわざ嫌がらせしてくることないでしょ。だいたい、こういうクリームものあんまり好きじゃないくせに。
「な。勝ったら先に食べていいから」
「いいけど…?」
わけがわからないままに、あたしは頷いた。とりたてて断る理由も見つからなかった。食べる順番なんかどうだっていいわ。ケンカ売られたような気もたいしてしないし。さっぱり実のない賭けだけど、せっかくだから付き合ってやるわ。
「一回勝負だからな。後出しなしだぞ。本気でやれよ」
ヤムチャが妙に気の入った様子だったので、あたしもそれなりの態度で事に臨んだ。あたしがこっそり感謝したことに、ウーロンはいつもの煽りを入れてはこなかった。なんとなく暇潰しをするような態度で、横目に見ているだけだった。…よかった。こんなことまでケンカ扱いされちゃたまんないからね。他のみんなもそれぞれの態度で、ぼんやりとあたしたちを見ていた。小動物たちはこぞって何かを口に入れながら。ランチさんはまったくいつもの調子でにこにこと。亀仙人さんはさりげなくランチさんの背中に回り込みながら。クリリンくんだけがどことなく呆れた風を漂わせていた。たいして強くもない周囲の視線の中、あたしはヤムチャとジャンケンをした。
「じゃあいくぞ。ジャーンケーン、ポンッ!…あっ」
「はい、あたしの勝ち〜。じゃあ、いただきまーす!」
文字通りほんの少しの時間を無駄にして、あたしはストロベリーサンドイッチを口にした。
「う〜む…」
あたしが一切れ目を食べ終わっても、ヤムチャはストロベリーサンドイッチを食べようとはしなかった。小さな唸り声を発した後で、ランチボックスからBLTサンドイッチを二切れ引っ掴んだ。やっぱり、たいして好きなわけじゃないのよね。あたし以上に実のない賭けしてたのね、こいつ。
「あ、ちょっと?」
からかいどころというよりは突っ込みどころ。それをあたしが口にしようとする前に、ヤムチャはさっさと元いた場所へと戻ってしまった。それであたしは考えざるを得なくなった。
…一体、何だったのかしら。
からかってるにしては、それっぽくない態度だったし。遊びにしては、切り上げるの早過ぎだし。っていうか、どうしてわざわざ戻るわけ?やっぱり、嫌がらせのつもりだったのかしら。それにしちゃ、ずいぶん中途半端だったけど。
「ブルマさん、お飲物は?紅茶にコーヒー、ストロベリーソーダもありますけど」
「あっ、ストロベリーソーダを貰うわ」
ランチさんがさりげなくあたしの好物をちらつかせたので、あたしはここで考えるのをやめた。
だって、バカバカしいもの。どうしてジャンケン一つで、こうも考え込まなきゃいけないのよ。っていうか、なんでたかがジャンケンが、こうまで不審に思えるわけ。本当に今日のヤムチャってば、言葉少な過ぎ。もうちょっとちゃんといろいろ言いなさいよ。まあいいわ。今はあんな無粋なやつのことより、イチゴイチゴ…
「おまえ、よくそんなにイチゴばかり口にできるな」
「別にいいでしょ」
そう思っていたにも関わらず、さらにまたウーロンが突っかかってきているのにも関わらず、気づけばあたしはヤムチャの方を見てしまっていた。その顔には、とりたてて気になるような素振りはなかった。まったく何事もなかったかのように、亀仙人さんやクリリンくんと賑やかにやり合っていた。今日すでに何度も目にしたこの光景。きっといつも通りのヤムチャ…
「さて、腹ごしらえも終わったところで、そろそろ修行を始めるぞい」
「はい!!」
やがて亀仙人さんが腰を上げて、アロハシャツを脱ぎ捨てた。浮き輪片手に海へと向かう師匠の後ろを、それぞれの水着姿となった弟子たちが元気よく追いかけた。揃ってランチさんへと顔と声を向けてから。
「ランチさん、今日も荷物番頼んますね」
「くれぐれも俺たちのところへは来ないでくださいね。危ないから」
「ええ、大丈夫。いつものようにいたしますわ」
慣れた口ぶりで笑って答えるランチさんと、それでも心配そうに彼女を見つめるヤムチャの顔を、あたしはどことなく醒めた気分で見ていた。
…なんだかなあ…


体育会系男たちの姿が海の中の点になってしばらくすると、自然と残りの男たちは散開した。プーアルは無邪気に、ウーロンは明らかに建前として、他の海水浴客に入り混じって波打ち際で砂遊びを始めた。ウミガメは元から眠そうな目をさらに眠そうにして、岩陰に収まっていた。あたしはというと、肌にサンオイルを塗りながら、『サメ追いの修行』とやらをうんと遠目に眺めていた。
遊泳禁止区域を示すロープの向こうを、右から左、左から右へと盛んに動く2つの点。その手前にある、たいして動かない1つの点…
一体どんな修行なのかしらね、あれ。なんか、ただ泳いでいるようにしか見えないんだけど。
「ねえランチさん、あれって何やってんの?本当にあそこにサメがいるわけ?」
あたしに続いて水着姿になったランチさんの前にサンオイルを滑らせながら、あたしは訊いてみた。ランチさんは脱いだワンピースを丁寧に畳んでから、オイルを手に取った。
「さあ、詳しいことはわたしにはよくわかりませんけど。昨日『またハンマーが出た』って言ってましたわ」
「何それ。サメに名前つけてるの?でも、『出た』ってことは、やっつけてはいないのね」
「やっつけるわけではないみたいですよ。何か特別なやり方があるとか」
「ふーん…」
退治するわけじゃないのか。もしかして『サメ追い』って『サメ追い漁』のことなのかしら。『サメ追い漁』のバイト…ありそうな話だわ。
たいして気にはならなかったけど、あたしは考え続けた。正確にはサメ追いのことではなく、それをしている一人の人間のことを。…ヤムチャも、もうちょっといろいろ教えてくれてもいいのに。そりゃ、あたしも訊かなかったけどさ。それにしたってねえ…
「泳ぎにいかれたらいかがですか、ブルマさん。荷物番ならわたしがしてますから」
「うん、もう少ししたらね。ちょっと食べ過ぎちゃった」
少し膨らんだ胃の辺りを擦りながら、あたしは自分の着ている水着の持ち主へと目をやった。ランチさんの着ている水着は、あたしが借りたものよりもだいぶんシンプルなものだった。本来ボディラインを強調しないはずの、淡い黄色のワンピース…
「…ね、ランチさん、ボディのお手入れって何してる?」
声を顰めてあたしが訊くと、ランチさんは軽やかに笑って言った。
「そうですね、してるというほどのことはないと思いますわ。日焼け止めと保湿ケアくらいかしら。この時期は特に空気が乾いていますから」
「ふーん。ランチさんて年いくつ?」
「今年で18になりますわ。ブルマさんは?」
「今年で17…」
ちょっぴり微妙な気持ちになりながら、あたしは答えた。うーん。ランチさんもまだ成長期か…
あたしは話題を変えることにした。正直言って、分が悪いわ。あんまり踏み込まないようにしよっと。
「ねえ、カメハウスなんかでおさんどんやってて嫌にならない?大変でしょ、男所帯で」
「そんなことありませんわ。みなさん、おもしろくていい方たちばかりですし。それにここに置いてもらえて、わたしもすごく助かっていますのよ」
「助かってる?それってどういう意味?」
今度の話題は問題なく続いた。…次の瞬間までは。
「…っくしゅん!」
ふいに戦いだ浜風が、ランチさんの髪の色を変えてしまうまでは。その瞬間あたしはすぐに会話を投げ出して、慌てて体を後ろに引いた。…あたしは何もしてないわよ。何もしてないから、撃たないでよね!
「…ふぅ〜」
金髪のランチさんは荒い息を吐き出しながら、両の拳に力を入れていた。銃を構える気配はなかった。というより、持っていないようだった。そうよね。海に銃なんか持ってきてるわけないわよね。ランチさん、切り替えも何もないワンピース着てたし。あたしが軽く胸を撫で下ろすと、ランチさんはさっきまでとは全然違った軽やかさで立ち上がって、腰に手を当てた。
「おっ、やってるな。相も変わらずちんたらした修行を。いつ見てもだるい野郎どもだ」
…ちんたら。だるい…?
あたしは呆気に取られながら、ランチさんの視線を追った。そこには確かに相も変わらず、海の中で同じ動きを繰り返している3つの点があった。そうね、確かにだるいかもね。まだやっぱり怖いけど、言うことにはわりと賛成できるのよね、このランチさんは。…それにしても『おもしろくていい方たち』と『だるい野郎ども』、一体どっちが本音なのかしら。
「ここにいても退屈だから、冷やかしに行ってやろうぜ」
誘いをかけるランチさんの声は軽やかだった。笑顔も軽やか。さっきまでとは本当に違った意味で。自分が危険に晒されていないことを見て取って(考えてみれば当然よね。あたしは何もしてないんだから)、あたしは完全に息を抜いた。
「でも、危なくない?サメがいるんでしょ。来るなってさっき言ってたじゃない」
「平気だろ。オレなんかちょくちょく見に行ってるぜ。いざとなったら、オレがサメを撃ち殺してやらぁ」
実にさりげなくそう言うと、ランチさんは足元に畳んであった自分の服を拾い上げた。かと思うと乱暴にそれを投げ捨てて、さらに次の瞬間には、いつの間にか手の中にあったひときわ大きな拳銃の安全装置を外していた。
あのワンピースの一体どこに、そんなもの隠してあったわけ!?ホルスターなんて着けてなかったじゃない。それに、さっきやっつけないって言ったのに…
「おーい、そこのカメ。こっち来て荷物番してろよ。サボるんじゃねえぞ」
塗りかけのサンオイルを蹴飛ばしながら寝惚け眼のウミガメにそう言葉を投げつけると、ランチさんはさっさと海へ向かって歩きだした。恐れ半分好奇心半分で、あたしはその後を追った。
一体どんな修行をしているか、知る権利くらいあたしにだってあるわよね。どうせランチさんをとめることはできないんだから、この際あたしも便乗しちゃお。


あたしとランチさんが海の中へ泳ぎ出すと、まるで潮が引くように周りから人がいなくなった。理由は一目瞭然だった。
金色の髪を彩るスカーフを、さらに彩る黒色の銃器。さっきまで見事に隠されていたランチさんの拳銃は、今ではまったく隠されていなかった。赤いスカーフをホルスター代わりに、堂々と白昼の元に晒されていた。おかげでナンパが寄ってこないどころか、まるっきり海独占状態よ。ま、ラッキーってことにしとくわ。どうせあたしの生活圏内じゃないしね、ここ。
「修行って言やぁ聞こえはいいけどよ、あいつらサメと追いかけっこしてるだけなんだぜ」
「追いかけっこ?」
「海の外へ追っ払うんだとよ。やっつけた方が早いと思わねえか?」
「それで『サメ追い』って言うのね」
「追ってるとはとても思えねえけどな。結局は戻ってきちまうなんざ、無駄な努力もいいところじゃねえか」
「ランチさん、詳しいわね」
「ここんとこ毎日だからな」
「ふーん…」
さざめく波音をBGMに言葉を交わしながら、あたしたちは泳ぎ続けた。やがて遊泳禁止区域を示すロープが見えてきて、たいして動かない1つの点の正体がまずわかった。
「よう、じいさん。調子はどうだ?」
それは亀仙人さんだった。亀仙人さんは浮き輪に体を預けたまま、ただただロープの内側でプカプカと波に揺られていた。どうしたって修行をしているようには見えない。きっとウーロンと同じ口ね。まあ、誰かれ構わず痴漢するよりは、女体観察の方がまだマシか…
「やれやれ、もう来たのか。今日はまたずいぶんと早いの」
のんびりとそう言うと、亀仙人さんは手で水を漕ぎ漕ぎ、あたしたちの方へとやってきた。どうやら、こっちのランチさんの言ってたことが本当みたい。それにしても緊張感ないわねえ。本当にサメ、いるのかしら。
「ヤムチャとクリリンくんは?」
「どこかそのへんの水の中におるじゃろ」
緊張感どころか興味すらなさそうに亀仙人さんは言い捨てて、次の瞬間緩んだ口から歯を覗かせた。
「さて、ランチちゃん。この辺りは危ないから、もうビーチに帰ろうね」
「あそこにいても退屈なんだよ」
「まあそう言わんと。お肌でも焼いてみたらどうじゃ?ビーチにこうのーんびりと、横になってな。余計なものは何も身につけんと」
本日2度目のセクハラ発言。…今度はランチさんか。節操のないじいさんね。おまけに、無駄に根性が据わってるわ。よりによって、こっちのランチさんにそんなこと言うなんて。頭の銃が見えないのかしら。2人の会話を聞きながら、あたしはさりげなくランチさんの後ろへ回り込んだ。とばっちりはごめんだわ。今はヤムチャもいないことだし…
「そんなことして何が楽しいっていうんだよ。ったく、毎日毎日ひとをこんなつまらねえことに付き合わせやがって。とっとと終わらせやがれ!」
思いきり凄んでみせたランチさんは、でも銃に手をやることはしなかった。それでいて、この場を去ろうとする気配もない。…案外、気が長いのね。そう思った時、ランチさんの背中越しに人影が見えた。
あたしの失礼な恋人とその兄弟子が。ランチさんの背中から顔を出すと、すぐさまヤムチャと目が合った。
「やっほー、ヤムチャ」
とりあえず軽く手を振ってみると、ヤムチャもまた同じような仕種をした。 あたしはちょっぴり嬉しくなって、そのままヤムチャが来るのを待った。 でも、結局話をすることはなかった。
「出やがったな。よーし、一丁手本を見せてやるとするか」
それより早くランチさんが、あたしの横でそう呟いたからだ。その手には、一瞬前には頭に乗っていたはずの銃が、がっちりと握られていた。まっすぐに腕を伸ばしたその姿勢は、完全に戦闘態勢。っていうか、すでにトリガーに半分指がかかってる…!
「撃っちゃダメです、ランチさん!」
「撃たねえでどうやってやっつけろって言うんだよ!」
「海の中で発砲したら暴発…」
「このランチさんがそんなヘマするわけねえだろ!」
弟子たちが一斉に叫び始めた。何が何だかわからなかったけど、一つだけわかっていることがあたしにはあった。
ランチさんを止めることはできない。こいつらには絶対に。ううん、きっと神様でも。
「ブルマ、下がれ!!」
ヤムチャの声を耳の端に聞きながら、あたしはどうにか頭を下げた。その直後だった。
「Fuck you!!」
ランチさんの声が、すべての音を掻き消した。続いて、いつもよりはだいぶん少なめの銃声と、激しい水飛沫の音が鼓膜に響いた。…わかっちゃいたけど、ランチさんてば過激過ぎ。よっぽどサメよりランチさんの方が怖いわよ!
「ちっ」
銃声はすぐに止んだ。同時に鋭い舌打ちの音が聞こえた。あたしが頭を上げると、驚いたような師弟の顔が目に入った。
「ほ」
「あっ」
ほとんど同時に一音を漏らした亀仙人さんとクリリンくんは、ただただ一点を見つめていた。呆然と動きを止めているヤムチャの髪を濡らす赤い滲み…
「だぁーーーーーっ!!」
「あっ、ちょっと!」
あたしが声をかけた時には、すでにヤムチャは泳ぎ去っていた。歯噛みのような奇声を上げながら。それはそれはものすごいスピードで。一目散に沖へと向かって。
「ちょっと、何!?どうしたの!?まさか当たったの!?」
わけがわからず叫びたてると、クリリンくんが少しだけ眉を寄せて、でも淡々とした口調で言った。
「跳弾ですよ。…あ、大丈夫、傷は浅いです。少し掠った程度です」
「でも血が出てたわよ!ちゃんと手当しないと。なのにどうしてあっちへ行くのよ!?」
「今、海の中にいるのは危険なんですよ。きっとあの廃屋へ向かったんだと思います。他に上がれるところはないですから」
クリリンくんの説明調のその台詞は、あたしの不快感をかなり刺激した。…一体何が危険なのよ。だいたいそれならどうして岸へ上がらないの?もうちょっと、一般人にもわかるように説明できないわけ?っていうかね、あたしが聞きたいのはそんな言葉じゃないのよ。
「後追っかけるわよ!家って距離はどれくらい!?」
普通はこうでしょ、こう!なのになんでそんなに落ち着き払ってるのよ。あんたが行きたくないのはしょうがないとしてもね、彼女を誘導するくらいしなさいよ。本当に空気の読めてないやつ。そんなだから彼女ができないのよ!!
あたしが思いっきり睨みつけてやると、クリリンくんは慌てたように口を開いた。
「わ、わかりました。じゃあ、少し様子を見てからにしてください。数分経っても反応がないようなら、おれと一緒に行きましょう。武天老師様、それでいいですよね?」
「しかたあるまい。それにしてもヤムチャのやつ、まこと運がないのう」
「まったくです」
淡々と頷きあうだけの師弟の姿を間近に見て、あたしはすっかり頭にきた。なんて冷たいやつらなの。弾が当たったっていうのに、運の一言で片づけるなんて。っていうか、まさか亀仙人さんが何かしたんじゃないでしょうね!?
「さて、ランチちゃん。わしらはビーチへ帰るぞい。もう気が済んだじゃろう」
「済むわけねえだろ!撃ち逃がしたんだぞ!ちくしょう、こんなことならマシンガンを持ってくるべきだったぜ…!」
一応はそうじゃないことを臭わせるランチさんの怒声だけが、この時は率直に感じられた。共にビーチへと去っていく亀仙人さんとランチさんの後姿を見ながら、あたしはちょっぴり考え込んだ。ひょっとして本当にサメを撃ったのかしら。だとしたら、あたしたちはランチさんに助けられたってことになるのかな。


数分後、あたしはクリリンくんと一緒に沖の廃屋とやらへ向かった。
「サメなんて、どこにもいないじゃない」
「ゆっくり泳いでいるぶんには、あまり近寄ってこないんですよ。見つけたら騒がないで、おれに教えて下さいね」
「やっつけるの?」
「いえ、とりあえずゆっくり逃げます」
「……」
さざめく波音をBGMに、盛り下がる一方の会話を続けながら。…なんかあたし、ランチさんの気持ちわかってきちゃった。確かにだるいわ、これは。ヤムチャもよくそんなだるいことやってられるわね。あいつ、結構血気早い方だと思ってたのに。勇気あるっていうよりは、見切り発車タイプって感じだけど。…カメハウスに少し染まってきたのかしら。嫌ねえ…
「そこの浅瀬、ところどころ瓦礫が露出してますから、気をつけて」
クリリンくんの言葉は、あまり正確ではなかった。数本の支柱に持ち上げられて海に浮く、白い家。その周りを囲んでいる狭い浅瀬は、ところどころどころか、まるっきり瓦礫の山だった。その歩きにくさと足元を泳ぎまわる色のきれいな小魚に気を取られていると、先へ行ってしまったクリリンくんの声が聞こえてきた。
「大丈夫ですか、ヤムチャさん」
視線の先では、ヤムチャがないに等しい家の壁に手をついて、肩で息を切らしていた。大きく揺れる背中と、その上にある赤黒い髪。全然そう見えないにも関わらず、ヤムチャは答えていた。
「ああ、何とかな。でも今は休憩させてくれ。血が止まるまでだな」
「そうですね、老師様にそう伝えておきます」
まったく、呆れるわね。
なんだって、こいつらはこうも無頓着なのかしら。血が止まればいいってもんじゃないでしょ。黴菌とかいろいろさあ。だいたい血が出てるの頭なのに。この調子じゃ暑さにやられるだけじゃなく、本気でバカになって帰ってきそうだわ。
「申し訳ないんですけど、ブルマさん。おれ見回りがありますから…」
「はい、ありがとね」
さっさと背を向けようとするクリリンくんに、あたしはおざなりに礼を言った。クリリンくんもわかんない人ね。結構ヤムチャと仲良さそうにしてるのに(なんかいっつもつるんでるし)。それともあれは兄弟子のお義理なのかしら。
「はぁーーーーー…………」
クリリンくんの姿が波の間に消えた頃、大きな溜息が聞こえた。…この見栄っ張り。そう思いながら、あたしは頭上の男に声をかけた。
「ちょっと、大丈夫?」
「ああ…ん?…あれ、来たのか」
「…さっきからいたわよ」
いつもの惚けたヤムチャの態度は、いつもとは違う感覚をあたしに与えた。でも、あたしはとりあえずそれを横に置いておいた。
今はそれどころじゃないと思ったから。怒るのなんか、いつだってできるわよ。
「そこに上がりたいんだけど」
少しだけ嫌味たらしくそう言ったのは、家へと上がる階段が崩れ落ちて原形を留めていなかったからだ。気が利かないわよね。家じゃなくて、ヤムチャがさ。
「あー…ああ、はい」
ヤムチャの反応はやっぱり悪かったけど、それもあたしは我慢した。差し出された手を掴んでどうにか廃屋の上へ攀じ登ると、まず最初にそれが目に入った。
薄汚れた白い家の、崩れ落ちた白い壁。そこについた、数点の鮮やかな赤い染み…
「…ちょっと、ねえ、大丈夫?」
「ああ、もうじき血は止まるよ」
我ながらおずおずとして聞こえた声に、ヤムチャは薄く笑って答えた。…本当に見栄っ張り。というより、やっぱり無頓着か。ヤムチャってば、こういう傷いっつも甘く見るんだから。ランチさん、ヤムチャの面倒ちゃんと見てくれてるかなあ。今のところは大丈夫そうだけど、特に顔の傷は何が何でも手当てするように、後で頼んでおかなくっちゃ。
そんなことを考えながら、あたしはごく自然なこととして、ヤムチャの頭に手を伸ばした。するとヤムチャもごく自然な雰囲気で、あたしに反応した。
今一つ気の入らない態度とは裏腹の素早い動きで、あたしの手を払った。まるで撥ね除けるように。いえ、絶対に撥ね除けたわ。だって、本人も認めたもの。
「あ、悪い。でもまだ血が止まっていないんだ。手につくとマズイから…」
…何それ。
血がついたら何だっていうのよ。止まってないんだもの、触ればつくのは当り前でしょ。あたしはそんなこと気にしないわよ。あんただって気にしたことないくせに。そんな気遣い、今まで一度だってされたことないわ。柄にもないことしてんじゃないわよ。
いつもだったらすぐに口に出したに違いないその言葉を、この時あたしは呑み込んだ。いつもだったらもう一度伸ばしたに違いない手も、この時は引っ込めた。
どうしてかしら。自分でもわからない。でも、ショックだったの。
ヤムチャに手を払われたことが、ちょっとショックだった。いえ、すごくショックだった。そしてそんなことにショックを受けている自分が、なにより一番ショックだった。
こんなの、あたしも突っぱねてやれば済むことなのに。『格好つけてる場合じゃないでしょ』って言ってやれば済むことなのに。今まではそうしてきたのに。なのにどうして今はそうできないのか、自分でも全然わからない。
本当にどうして?今さら遠慮してるってわけじゃ絶対にないし…………
ヤムチャはそれきり何も言わなかった。だからあたしも何も言わなかった。少し気まずい沈黙を持て余していると、やがてヤムチャが腰を上げた。
「あー、…じゃあとりあえず帰るか」
その言葉を聞いた時、あたしは一つだけ自覚した。
もう流されるのは嫌。
何をなのかはわからないけど、流されるのだけは嫌。とにかくそれだけは絶対に嫌。
そして、ヤムチャはまた流そうとしてる。何を流そうとしているのかはわからない。でも流そうとしてるってことだけは、はっきりしてる。
どうしてよ?そりゃ、今までのは大目に見てあげたわ。でも、どうしてあたし自身とのことまで流すのよ。
「あたし帰んない」
気づけばあたしはそう言っていた。完全に反射的にだったけど、どうしてなのかはわかっていた。
一緒にいる限り、ヤムチャはどこまでも流そうとするんだから。こういう時はいつだって、わかんないか流すかのどっちかなんだから。
「あのなブルマ…」
「あんた一人で帰ればいいのよ。あたしのことなんか放っといてさ。いいのよ、あんたはもうここの人間なんだから」
「は?…いきなり何を…」
さっぱりわけがわからないといった顔つきで、ヤムチャが言った。その態度があたしの心に火をつけた。
あったまきた。もう本当にあったまきた。わからないのに流そうとしてたわけ?そんなこと許されると思ってるの?この際、わかってることだけでも全部言ってやる。
「だって、なんか冷たい!」
「冷たいって…何が?」
「全然話に乗ってこないし。亀仙人さんがあたしにちょっかい出しても何も言わないし!」
「だってそれは…」
感じたままをあたしは口にし続けた。それでいいと思えた。だって、全部本当のことだもの。ヤムチャの素っ気なさも、気の利かなさも、惚けたようなその態度も。
ただ一つわからないのは、それがどうして今日に限ってこうも鼻につくのかということよ。
「あたしがどうしてたかなんて、どうでもいいんでしょ。あたしといるよりみんなといる方がいいんでしょ。どうせランチさんの方がスタイルいいわよ!」
この時この瞬間だけ、あたしは後悔した。
これじゃまるで、あたしがランチさんに嫉妬してるみたいじゃない。でも、そうじゃない。そうじゃないってことだけはわかってる。だってあたし、ランチさんのこと好きだもの。そりゃちょっとは羨ましいけど(そういう意味では嫉妬してるのかもしれないけど)、そんな目で見たことだけはない…
あたし、一体何が言いたいのかしら。自分でも全然わかんない。それなのにさらに、わからないことが起きようとしてる。
…ヤバイ。
あたし、泣きそうになってる…
最後までわけがわからないままに、あたしは心と口の両方を閉じた。もうこれ以上何も考えたくない。何も言いたくない。わけのわからないことで、泣きたくなんかない。本当に、全然わかんない。自分のことなのに、全然わかんない。あたし、どこかおかしいのかしら。
「いや、あのさ…そういうんじゃないから。そういうんじゃないだろ。誰のどこがいいからそう思うとか、人が人のことを思うのってそういうことじゃ…」
そして、ヤムチャの言ってることも、全然わかんない。本当に、わからなさ過ぎだわ。
「…ごめん」
ふと、すべてのわからなさを無視するように、ヤムチャがおもむろに呟いた。あたしの体を抱きながら。一体何に対して謝っているのか、怒っているはずのあたしにもさっぱりわからなかったけど、本心から謝っているのだということだけはわかった。だからあたしも、本心から思っていることだけを口にした。こういう時、いつも口にする言葉を。たった一つだけ、それだけは最初からずっと思っていたことを。
「…ねえ、キスして」
「うん」
これまでに何度か聞いたいつもと同じ肯定の返事は、いつもとは全然ニュアンスが違っていた。…あたし、言わなくってもよかったみたい。
わけのわからないケンカ。わけのわからない仲直り。全然すっきりしない気持ちで目を瞑ると、頬にヤムチャの手が触れた。
わけがわからないままのキス。でも感触だけは知ってるキス。いつもの、あたしの知ってる通りのキス…
その瞬間、またわけのわからないことが起こった。
キスした途端、消えちゃった。いつもと同じ感触を確かめた途端に、消えちゃった。出かかっていた涙も。わけのわからなかった気持ちも。わかっていて口に出した感覚さえも。
…一体、何だったのかしら。本当に、わけわかんない。


やっぱり、あたしどこかおかしかったみたい。
わけがわからないままにわけのわからない感覚が消えて、ヤムチャと一緒にビーチへ戻ると、いっぺんにいろんなことがわかってきた。
まずは、最も目に見えて不思議だった、お昼ごはんの時のヤムチャとのやり取り。
「よし、やるぞクリリン!」
「はい、どうぞ。いつでもいいですよ」
みんなが帰り支度を始めるとなぜかいきなり、思いっきり気を入れたヤムチャが、どう見ても全然気の入っていないクリリンくんを相手に、ジャンケンを始めたのだ。
「ジャーンケーン、ポンッ…あっ!くそっ!!」
「はい、ヤムチャさんがドライバーですね」
「おまえ、そろそろ負けたらどうだ?いくらなんでも勝敗のバランスが悪過ぎると思わないか」
「そんなこと言ったって、ジャンケンなんですから」
「ちくしょう…」
本当の本当に悔しそうに、ヤムチャは顔を顰めていた。あたしはもう言葉を呑み込まなかった。
「…バカ…」
いえ、呑み込めなかった。どんなに努力しても、そんなことできそうになかった。
あんた一体、どれだけ本気でジャンケンやってるのよ。何なのよ、そのガキっぽさは。本当に17歳なの!?彼女に一度ジャンケンで負けたくらいで、会話切り上げてるんじゃないわよ!!っていうか、そんななら最初っから振ってこないで!めいっぱい深読みしちゃったじゃないの!
「帰りくらいあたしが運転してあげるわよ。あんたたち、まだ修行あるんでしょ?」
あまりの情けなさに思わず情けをかけてやると、クリリンくんがすました顔であたしに答えた。
「ええ、まあ。この後は午後の修行を途中から」
「しばらくはこのままの状態が続くじゃろうな。さっきランチちゃんが発砲してしまったからの。こりゃ、まだまだサメがいなくなるには時間がかかるだろうて」
「はぁー…、やっと一番しつこいのを追い払ったところだったのに…」
今度は、そう言うヤムチャだけではなく、隣で頷くだけのクリリンくんも、本当の本当に悔しそうな顔をしていた。当然あたしは不審に思って、気がつけばランチさんと同じことを言っていた。
「どうして撃っちゃダメなの?だいたい、撃たないでどうやってやっつけるのよ?」
だって、こいつらはただ逃げてるだけなんでしょ。それでどうやって追い払うのよ?
するとヤムチャがさっくりと答えた。本当に、さっくりと。
「銃で一匹やっつけたって、それで他のサメを呼び寄せてたら意味ないだろ。血を流さないなんてどだい無理な話だし。…あれ、ひょっとして言ってなかったか?」
「これっぽっちも聞いてないわよ!!」
「そうか。それは悪かった」
思わず怒鳴ってしまったあたしに、ヤムチャは思いっきりすまなさそうな顔をした。少し遠くでウーロンが、例によって例の目つき――『おまえら、またやってんのか』――をしていたけれど、あたしはそれを咎めなかった。
ええ、やってるわよ。これがやらずにいられますか!ヤムチャが何も言わなかったおかげで、あたしたちはしなくてもいいケンカをしたんですからね!今さら手を除けた理由がわかったって遅いのよ!
「自分のやってることくらい、彼女にちゃんと教えなさいよ!それだからあんたは――」
「うんうん、わかった。悪かった。次からはそうするから…」
ヤムチャは平謝りしてたけど、本当に反省しているのかどうかは怪しいものだった。だって、すぐにこんなことを言ったのよ。
「ところで、なあ、ブルマ。ランチさんの服って一体どうなってるんだ?いつもいつも一体どこに銃を隠し持ってるんだ?」
「知らないわよ、そんなこと!」
「…ひょっとして、知られたら恥ずかしいところなのか?」
「バカッ!!」
今度はあたしは完全に、意識的に怒鳴りつけた。
これであの時の視線の意味もわかったわ。あの、ランチさんの体を探るような視線の意味も。でも、だから何よ。今日のところはやらしくはなかったみたいだけど、たいして変わりゃしないわよ。…染まってきてる。確実に染まってきてるわ…!
…言ってやるべきかしら。言ってやるべきよね!でも何て?
咄嗟に言葉が出てこなかったので、あたしはとりあえずヤムチャを睨みつけた。ヤムチャはわかってるんだかわかってないんだかそれすらもわからないような顔をして、頭を掻き始めた。気まずくはないけど、あきらかに膠着状態。それにあたしが業を煮やした時、ヤムチャが言った。
「うーん…じゃあ、そろそろ帰りますか、老師様」
あっ!こいつまた流そうとしてる…
思った時には、すでにヤムチャはあたしから目を逸らしていた。のみならず、体も背けかけていた。もうー!!どうしてあんたはそうなのよ。それが嫌だってさっき…!……言ってないか。言ってないわね、そういえば。でも、それくらいわかりなさいよ。彼氏なら、そろそろそういうのいろいろわかりなさいよ!!
あたしはすっかり頭にきて、ヤムチャの方へと手を伸ばした。でも、それを掴むことはなかった。
「…ひゃんっ!」
ふいに走った悪寒が、あたしの手を引っ込めさせた。背筋から腰までを伝う、指の感触。…ちょっとおぉ!!
「いい加減にしてよ、このセクハラじじい!!」
問答無用であたしは決めつけた。 そしてそれはやっぱり当たっていた。
「何、ちと心配になってな。きれいなお肌がただれてしまっては大変じゃろ。ここは日差しが強いからの」
「放っておいてちょうだい!!」
「そうはいかんわい。弟子の彼女は大切に扱わんとな。気の利かない弟子に代わって心を配るのも師匠の務めじゃ」
亀仙人さんの言葉に触発されたわけでは絶対にないけれど、あたしはヤムチャに目をやった。去りかけていたはずの男はいつしかあたしの方を向いていて、慌てたように両手を振っていた。その姿に、あたしは完全に逆撫でされた。
誰もあんたのせいだなんて思ってないわよ。でも、違うでしょ。ここは絶対にそうじゃないでしょ!!
「あんたたちねー!!」
どうしてこいつらはこうなの。なんだって、そうも変わらないの。少しは成長できないの!?
強く強く込み上げてくるその思いを、あたしは口にはしなかった。できなかったわけじゃない。あくまで自分の意志でしなかった。
「もういい!さっさと帰るわよ!ヤムチャが助手席!クリリンくんがあたしの後ろ!亀仙人さんは最後列よ!わかった!?」
すでにあたしは自分の感情を棚上げすることに決めていた。だって、成長の余地のないじいさんとガキくさい男に、何を期待するって言うのよ。あたしは自分の意志で来てるんだから、自分の意志で勝手にやるわよ!
「やれやれ。いつまでもつれないのう」
「最後列が一番快適なんでしょ!最年長者は敬わなきゃね!!」
しつこく付き纏ってくる亀仙人さんに、あたしは思いっきり嫌味ったらしく言ってやった。ヤムチャは敬ってるみたいだけど、あたしにはそんな義理はないわ。自分の身くらい、自分で守ってみせるわよ!
どうせヤムチャは修行バカ。こんなじいさんを敬えるほど修行バカ。そう思って、少しは大目に見てやるわ。
大目に見きれているうちに成長しなきゃ、捨てるけどね。
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