聖楽の男
テーブルの上にミニツリー。窓辺を飾るポインセチア。窓から覗くクリスマスイルミネーション。
「嬉しい、ありがとう!一生大切にするね」
…どうせすぐに別れるわよ。
ふと耳に飛びこんできた隣のテーブルの声に、あたしは思わず心の中でツッコミを入れてしまった。
「素敵!これ、高かったでしょ?」
そんなの、あたしなんかいつでも買えるもんね。
「お揃いのマフラーなの。あたしが編んだのよ」
ダサ!ペアなんて、今時ありえないわよ。
エスプレッソカップの底に溶けきらなかった砂糖が見えてきた頃、ようやく周囲の声は止んだ。それでようやくあたしもツッコむことをやめて、コーヒー味の砂糖をスプーンですくって舐めた。
今日はクリスマス。
暦の上ではクリスマス。世の中もクリスマス。街の風景もクリスマス。カフェの中までクリスマス。
クリスマススィーツを食べながらプレゼント交換。それからライトアップされたクリスマスツリーを見に行って、適当なところで食事。後はまあ、親密度によっては帰ったり帰らなかったり。きっとそんなところよね。本当にわかりやす過ぎ。恥ずかしくないのかしら。どのテーブルのカップルも、似たり寄ったりの雰囲気出しちゃってさ。
っていうかさあ。…なんだって、こんなにカップルだらけなわけ?
カフェはカップルでいっぱい。本物と即席のカップルでいっぱい。街中がカップルでいっぱい。右も左もみーんなカップル。
あーあ。お茶なんかするんじゃなかった。

彼氏からのクリスマスプレゼントが欲しい。
あたしはそんなこと、これっぽっちも思ってなかった。
思うわけがない。だって、いないんだもの。…クリスマスに。彼氏が!いないの!!
まったく、どこほっつき歩いてんのかしらね、ヤムチャのバカは。いつもいつもここぞって時に限っていないんだから。それでいて、どうでもよくなった頃にひょっこり帰ってきたりするのよ。ひょっとして、わざとやってるんじゃないでしょうね?
ま、いたとしても、やっぱりプレゼントはいらないけど。ヤムチャのセンスじゃ、さしずめアクセサリーってとこでしょ。あたしアクセサリーあんまりつけないし。それよりもシチュエーションに凝ってほしいな。100万ゼニーの夜景を見ながら食事、とか。2人っきりでバカンスとか。
…絶対、あいつのセンスじゃ無理だけど。
見た目はいいけど、中身が伴っていないのよ、ヤムチャのバカは。あいつに似合うのは、バカンスじゃなくて修行。夜景どころか人っ子一人いない山。
そしてあたしは今年も家族と過ごすクリスマス。ちぇっ。


漫然と帰りついたC.Cは、出かけた時とは少しだけ様子が違っていた。
まだ陽も落ちていないのに起動されているホームイルミネーション。ポーチ前に設置された、クリスマスカード用の大型メールボックス。そろそろカードが届き始めてる頃ね。でも、あたしはそんなことどうでもよかった。
あたしが気にしたのは、そのメールボックスの横。乗り物カプセルの発着場所として短く刈られた芝生の上――
…ふんっだ。
ちっとも乱れていない芝生を目にしてポーチをすり抜けてから、あたしは気分を切り替えた。
何して時間潰そうかしら。
ヒマそうにしてるのだけは絶対に嫌。でも、外で時間を潰すっていう方法はもう失敗しちゃった。昨日基幹を作り上げたあのメカ組み上げちゃってもいいんだけど、クリスマスにオイル塗れっていうのもなあ。うっかり鏡でも見ようものなら、思いっきりヘコみそうよね。だからって、新しく図面を引くような気分じゃないし。いっそ一人でクリスマスのない国へバカンスにでも行こうかしら。
一瞬は名案のように思えたその考えを、あたしはすぐに引っ込めた。そのね、クリスマスのない国へ行くのにもね、クリスマス一色のエアポートを通らなきゃならないわけよ。おまけに飛行機じゃ席立てないし。これ以上ツッコミのバリエーションを増やすのはごめんだわ。
…あーもう、クリスマスなんてものを考えついたやつを殺してやりたい。
我ながら殺伐とした気分で、あたしは廊下を歩き続けた。とりあえずは絶対に苛立たされるであろうウーロンへの切り返しを用意して、リビングのドアを開けた。
「よ。おかえり」
その瞬間、あたしはすっかり呆けてしまった。予想通りのウーロンの態度も、どうでもよくなった。あたしに声をかけた人間の存在が、完全に予想外だったからだ。いつにもまして白々しい目つきであたしを見ているブタの隣に座っている黒髪の…
「あんた、どうしてここにいるのよ?」
呆けたままあたしが訊くと、ヤムチャはちょっと不貞腐れたような顔をして、ぶっきらぼうに呟いた。
「なんだよ。いちゃいけないのか?」
「だって何にも…」
帰ってきた気配なかったじゃない。
連絡がないのはいつものことだとしても、それにしても何にも…エアクラフトのカプセル、持っていかなかったのかしら。じゃあ、どうやって帰ってきたんだろ。民間の飛行機?そんな面倒なことしなくても、電話してくれたら迎えに行ってやったのに。
「おまえ、素直に喜べよ。かわいくないやつだな」
ここでウーロンがいつもの態度を発揮し出したので、あたしはようやく我に返った。
「うるさいわね!ちゃんと喜んでるわよ!」
まったく、少し驚くくらいのことも許してくれないわけ?了見の狭いブタね!そんなだから、こいつはいつまで経ってもクリスマスを一緒に過ごす相手ができないのよ。
「そんなら早いとこどっか行っちまえ。おまえが去年食ったぶんのイチゴは、おれが食っといてやるからよ」
何だかわけのわからないことをウーロンは言ったけど、あたしにはそんなこともうどうでもよかった。
「だってさ。どうする?」
おどけたように両手を広げるヤムチャに返す言葉も、すでに決まっていた。
「行く行く!用意してくるからちょっと待ってて!」
こんな不愉快なブタと一緒にクリスマスを過ごす義理は、あたしにはないわよ。




「で、どこに行くんだ?」
C.Cを出て少しすると、いつものようにヤムチャがそう訊いてきた。だから、あたしもいつものように答えた。
「ショッピング!それからいつもの遊園地!!」
心の奥にこっそりと、未練の気持ちをしまいながら。
本当は、もっとちゃんとしたクリスマスデートをしたいけど。でもレストランも押さえてないし、今から遠出なんて、もっと無理。クリスマスのない国に行くのならいいのかもしれないけど、クリスマスのある国に今から行ってたら、クリスマスが終わっちゃう。この際、妥協しなくっちゃね。
そして妥協するのなら、いつものコースが一番よ。不慣れなことしてもたつかなくって済むし、何よりこのコースは人目につくのよ。せっかくクリスマスに彼氏がいるんだもの、ここは見せびらかさなくちゃ。特にこいつは、普段全然人前に姿を見せないんだから。…武道家の彼氏なんて、持つもんじゃないわね。
カフェにいた時には気づかなかったクリスマスデコレーション。クリスマスカラー一色のウィンドウディスプレイ。さっきまでとは全然違って見えるクリスマスイルミネーション。それらを一通り堪能してから、あたしはヤムチャの様子をチェックした。
ちょっと髪伸びてるわね。でもま、いっか、このくらいなら。適度なロン毛で格好いいし。あんまり長過ぎると山男みたいで嫌だけど。ヤムチャの髪って、伸びると変にカールするんだから。うまいことセットするんならそれでもいいけど、そうじゃないから始末に負えないのよね。あとは服…
「どうしよっかな〜。フォーマルって感じじゃないし、カジュアルもちょっと違うし。たまにはタイ締めてみる?」
メンズファッションエリアを歩きながらあたしが言うと、ヤムチャは惚けた顔をして思いっきり惚けたことを呟いた。
「あ、俺のか」
がくっ。
あたし、こんな惚けたやつでいいわけ?
今日初めて、あたしは他人のためではないツッコミを、心の中で入れた。
「そんなに変か?この服装」
さらにヤムチャがそう言ったので、あたしは少し言葉を濁してから、またもや心の中でツッコんだ。
「ん〜、悪くはないけど」
ちゃんと似合ってるんだけど。結構キマってるんだけど。でも、今日は特別感が欲しいのよ。そういうことがわかるようになれば、こいつはもっとよくなるんだけどなあ。
「あんたは磨けば磨くほど光る珠なんだから。ねっ!」
こういう時に時々見せる不本意そうな顔に向かって、あたしはことさらに笑ってみせた。同時に腕を取ってやると、ヤムチャはまだ少し不満の残る顔つきで、でもこう言った。
「…ま、いいけど」
うっしっし。
そのまま腕を組んで歩き出すと、その微かな不満顔さえもすぐに消えた。あたし、ヤムチャのこういうところ好きだわ〜。こういう楽ちんなとこ。こんなに扱いやすいやつ、そうそういないわよ。もちろん何もかもってわけじゃないし、面倒くさいこともいっぱいあったけど、慣れてみれば超楽ちんよ。このやり方で、たいていのことは済んじゃうもんね。
だからって、あたしはヤムチャを騙してるわけじゃない。わざわざ嘘を言っておだてたりなんかしないわよ。そんな卑屈なのはごめんだし、だいたいそんなことしてたら、よくなるものもよくならないじゃない。
磨けば光る、素直な珠。悪くない物件よね。

とはいえ実際にその珠を磨くのは、なかなか大変だった。
その後入った、最近見つけたちょっとシックなメンズショップで、あたしはヤムチャとさっぱりシックじゃない会話を繰り広げるはめになっていた。
「うーん、どうも動きにくいな。肩がスムーズに上がらないぞ」
「そんなの別にいいじゃない。何もその服着て戦えなんて言ってないわよ。ただ遊ぶだけなんだから」
「それはそうかもしれないけどさ。…いや、やっぱり肩は自由にさせてくれ」
「注文が多いわね。さっきは腰が回らないとダメだとか言って」
「ああ、それは当然のことだ」
あたしは溜息をつきながら、4枚目のシャツをフィッティングルームに放り込んだ。ヤムチャの言っていることは、それほどおかしなことじゃない。服を選ぶ時に立ち居振る舞いの点を考慮するのは当然のこと。でもヤムチャが言うと、全然そう聞こえないのよ。まったく、フィッティングルームの外で待ってるあたしの身にもなってほしいわ。さっきから、店員の視線が痛いったらないんだから。なんかもう特別感どころか、すっごく普通以下の事態になってる。
「まあいいか…」
5枚目のシャツを押し込んだ後でようやくその呟きが聞こえてきたので、あたしはさっさと決めてしまうことにした。
「タイはどうする?」
「これにタイは窮屈だな」
「…じゃ、ジャケットね」
すでに何点か選んでいたジャケットを、素早くフィッティングルームに滑り込ませた。こんなうるさいことを言うやつが、タイなんかつけるわけないわよ。もう、ヤムチャってばせっかく格好いいのに。宝の持ち腐れなんだから…
その宝の持ち腐れ感はすぐにいや増した。あたしが何か言う間もなく、さっきまでのぐだぐだぶりとは打って変わってすっきりとした声がフィッティングルームから聞こえてきたのだ。
「これ、この茶色のやつがいいな」
「えー、そお?あたしは白いのが一番いいと思うんだけど」
あたしはすぐさまその声を否定した。ヤムチャってば、すぐデザートカラーに走るんだから。店員があんまりしつこく薦めてくるから、とりあえず候補に入れておいただけなのに。確かにそれがこの店で一番、物がいいんだけどさ(はっきり言って値段の桁が違うのよ。だから薦めてきたんだと思うわ)。こいつも目が肥えてるんだか何なんだか。値段見て決めてるんじゃないでしょうね?
ここは一発、ジャンケンかな。そう思って拳を軽く握った時、ふいに第六感が働いた。
スタッフルームのドアの前で、店員が2人、ひそひそと内緒話をしていた。あからさまにあたしたちの方を窺いながら。一人は、最初っからあたしたちについてた男の店員。もう一人は今初めて見た顔の女――
えー、ここって女の店員いたの!?いないと思ってたから、ヤムチャを連れてきたのに。もう何よ。今日くらいヤムチャのやつに色目使わなくたって…
「ブルマ、俺これに…」
「あんたは引っ込んでて!!」
フィッティングルームから覗いたヤムチャの顔と声を、あたしは瞬時に退けた。自分が場違いな台詞を吐いているということはわかっていた。でも、抑えようとは思わなかった。
だって、わかったんだもの。まさに今、目の前へやってきつつある女の、この媚びたような目。これはもう絶対に、自分を売り込もうとしている目よ!!
「お客様。そちらの――」
女が口を開いた時、あたしはジャンケンするはずだった手を、固く固く握りしめていた。まさか殴ったりするわけはない。でも平手打ちくらいはさせてもらうわよ。いくらクリスマスの相手が欲しいからって、客をターゲットにしてるんじゃないわよ!
「――ブラウンのジャケットですけれど、揃いのレディスタイプもありますのよ。お客様は身長もおありですから、きっとお似合いに…」
一瞬、あたしは完全に呆けた。でも、次の瞬間には言っていた。
「それ貰うわ!!」
だって、ピピッときてたんだもの。そりゃ、ちょっと履き違えちゃってたかもしれないけど、きてたことに変わりはないわ。謂わば女の勘よ。
この際、ヤムチャにどれが似合うのかはどうでもいいのよ。『特別感』。それこそが、あたしの求めていたものなんだから!


その『特別感』は、思っていたよりもずっと肌に馴染んだ。
「わーい、お揃い!」
思わぬところから転がり込んできたそれっぽさと、手放しでそれを受け入れられることに、あたしはすっかり満足していた。
あー、シンプルな服着てきてよかった。コーディネート全然考えずに買っちゃったけど、バッチリよ。ヤムチャには絶対に白だったと今でもやっぱり思うけど、あたしにはこっちだわ。あたしはヤムチャと違って華やかな女優顔だから。華やかな人間は抑えめに。地味なやつは少し派手めに。服を選ぶ時の基本よね。結果的に、ヤムチャを立ててやったことにもなったし。あの店員、いい仕事するわね〜!
あたしが今日初めて心の中で他人のことを褒めた時、ヤムチャが言った。
「ちょっと子どもっぽくないか?俺たちもう2×歳だし…」
不満顔というほどではないにしても、いま一つ盛り上がりに欠けた様子で。でも、あたしはそれを次の一言で往なすことができた。
「いいの!クリスマスだもん!」
そう。こんなことが許されるのも、今日がクリスマスだからよ。あとはそうね、バレンタインデーとか。誕生日なんて、傍目にはわからないし。なんでもない日にペアルックなんてしてたら痛いことこの上ないけど、今日は特別な日なんだからいいのよ。
そして、こんなヤムチャの態度に目くじらを立てずにいられるのも、今日がクリスマスだからよ。そうじゃなかったら、絶対に怒っていたわ。だって、普通はそういうこと言わないわよね。思ってたって言わないわよ。彼氏なら、黙って彼女に合わせなくちゃ。例えそれが自分の趣味じゃなくたって、笑って受け入れるのが男の役目!っていうか、ヤムチャはこっちがいいって言ってたくせに。なのになんで、そんな態度なのよ。あたしと一緒じゃ嫌だって言うの?
…あ、なんだか腹立ってきた。
あたしの気分は、早くも盛り下がってきた。するとそれまで盛り下がっていたはずの男が、急に態度を変えた。
組んでた腕を解きかけてたあたしを横目に見て、くすくすと笑い始めた。思いっきり目じりを下げて。わざとかどうかは知らないけど、隠そうともしない忍び笑い(矛盾した言い方だけど、本当にそんな感じよ)。当然、あたしはそれを咎めた。
「ちょっと、何笑ってんのよ?」
一体何がおもしろいのよ。っていうか、あたしがおもしろくなくなるからやめてよ。
「いや…」
ヤムチャはそう口篭りながらも、さらに笑いを零した。そうしてあたしが本気でおもしろくなくなりかけたところで、おもむろに言い放った。
「かわいいと思ってさ」
「なっ…!」
恥ずかしげもなくまっすぐに視線を寄こすその笑顔を見た瞬間、あたしは自分の顔に血が上っていくのがわかった。そして自分でもわからないままに、気づけばこう叫んでいた。
「何よそれ!あんた、あたしをバカにしてんの!?」
どうしてなのかはわからない。でも、そう言っちゃってた。だって、なんか…なんか、こいつがこういう風にこういうこと言うのって、許せないのよ!
「どうして怒るんだよ?せっかく褒めてやったのに」
そう言うヤムチャの顔は、嘘をついている感じではまったくなかった。だけど、やっぱりあたしは叫んでいた。
「うるっさい!!」
だって、突然過ぎるし。雰囲気だって全然ないし。おまけに、なんか偉そうだし。だいたい、いつもはそんなこと言わないくせに。言ってほしいような時にはさっぱり言わないくせに。夜にだってたいして言わないくせに。こいつがこういうこと言うのって、こんな恥も外聞もなくこういうこと言うのって、たいがい相手を持ち上げて場を流そうとしてる時とか――
「あっ!」
ふいにあたしは気がついた。だから、それをそのまま言ってやった。
「わかった!ヤムチャあんた、プレゼントそれで誤魔化そうとしてるんでしょ!」
言った途端にすっきりした。自分の言葉がものすごく腑に落ちた。そっか、そっか。なーんだ!
さらに、目に見えて変わったヤムチャの態度が、あたしの心を落ち着かせた。ヤムチャは一転して言葉に詰まって、のけぞるように頭を引いて、今までとはまったく違う視線であたしを見ていた。その屈んでいないくせに小さく見える体に向かって、あたしは言ってあげた。
「いいわよ別に。プレゼント貰おうなんて思ってないから」
「え…そうなのか?」
図星を突かれたことを隠そうともせずに、ヤムチャはそう呟いた。いつもなら呆れちゃうところだけど、それよりも話題が逸れたことにあたしはほっとして、さらに言ってあげた。
「そうよ。プレゼントなんかどうだっていいの。それよりも、クリスマスを一緒に過ごすってことが大事なんだから。あんたはただあたしと一緒にいさえすればそれでいいのよ!」
そうよ。あたしは何も求めてないんだから。あんたなんかには、なーんにも求めてないんだから。だから少しはわきまえておいてちょうだいね!
――矛盾してる。
自分でもわかってた。あたし、言ってることと考えてることがすっごく矛盾してる。ううん、考えてることだけでも、めちゃくちゃ矛盾してる。何も求めてないのなら、いなくたっていいはずなのに。なのに、それは嫌なのよ。一緒にいたい。…好きだから。それなのに、さっきみたいなのは許せないの。ああいうこと言われると、どっか行ってほしいって思っちゃうの。
こういう矛盾を、あたしは時々感じることがある。でも、解消しようと思ったことは、まだない。
いいのよ。無理矢理考え込まなくっても。例え矛盾していたって、そんなのヤムチャに気づかれなければいいのよ。もし気づかれたって、言わせなければいいのよ。
ヤムチャからの返事はなかった。ま、だいたい予想通りよ。なんとなく会話が途切れてしまったので、あたしはさっさと先へ進めてしまうことにした。
「さっ。そろそろ遊園地行こ。あんまり遅くなると、夕方のクリスマスパレードが終わっちゃう」
曖昧な表情で目の前に突っ立っている男に向かって、あたしはことさらに笑ってみせた。同時に腕を取ってやると、ヤムチャは早くも笑みを浮かべて、ただこう言った。
「ああ」
そう、こいつはこんな風に誤魔化されてくれる男。
本当に、楽ちんな男だわ。だからあたし、こいつのことが好きなのよねー。




今、都にある中で一番大きなクリスマスツリー。ライトアップされたポインセチアの花畑。視界いっぱいに広がるクリスマスイルミネーション。
「わぉ!すっごい混んでる!!やっぱりクリスマスねー!」
クリスマスの遊園地は、見事にカップルだらけだった。もちろんあたしたちもその一組。それまで組んでいた腕をあたしが離すと、ヤムチャが少しだけ首を傾げた。
「おまえさあ…どうして喜んでるんだ?混んでることの何が楽しいんだ」
「だって、人がいないとつまらないわよ」
多ければ多いほどいいってわけじゃないけど、ある程度はいてくれなきゃ張り合いないじゃない。人がいてこそ引き立つってもんでしょ。カップルなんか世の中には腐るほどいるけど、こんな美男美女カップル、そうそういないもん!
「ふーん。ま、とにかく行くか」
たいして納得した様子も見せずに呟くと、ヤムチャは少しだけ左の袖を上げた。そしていつものようにあたしに向かって左手を差し出した。だからあたしも、いつものようにその手を掴んだ。
えへへ。
だから、遊園地って好きなのよね!
なんか知らないけど、遊園地の中でだけは手を繋いでくれるから。本当にどうしてかしら。いっつもそうしてくれればいいのに。ヤムチャってばひとに腕組ませてばっかりでさ、外では全然自分からしようとしないんだから。遊園地に何かあるのかしら。別に共通点とかはないと思うんだけど。家の中と外だし…
「うーんとね、まず最初は…」
軽い思考に邪魔されて、あたしが最初のアトラクションを決められずにいると、すかさずヤムチャが口を挟んできた。
「まずは観覧車だろ。エクスプレスパス取りに」
「あっ、そうね」
あたしが答えると、ヤムチャがあたしの手を引いて、観覧車の方へと向かって歩き出した。その態度に満足しながら、あたしは思考を打ち切った。
とにかくここでは、ヤムチャも少しはそれっぽくなってくれるのよ。おまけに今はペアルック。さらにこの親密な会話。どこからどう見たって、あたしたちは即席じゃない本物のカップルよ!この際だから、徹底的に見せびらかしておこうっと。あたしはフリーじゃないんだって、めいっぱい知らしめておかなくちゃ。
誰にかって?もちろん、世の中によ!

クリスマスというのは不思議なもので。
いつもは『かわいい』『きれい』としか思わないパレードも、なぜか自分に置き換えてみたくなっちゃう。
「いいなー。あたしもああいう古風な馬車に乗ってみたいな」
夕闇のクリスマスパレードの中で、一番あたしの目を強く引いたのは、いつもなら全然目にも留まらない、中世の4輪馬車だった。
馬ってとってもきれいよね。風になびくたてがみ。しなやかな筋肉。それに引かれる馬車の、無駄のあり過ぎる装飾美。かぼちゃの馬車もかわいいけど、あれはちょっとシックさに欠けるわ。
「作ろっかな。昔風のエアキャリッジ…」
今年はもう無理だけど、来年用に。それに乗って、ヤムチャを迎えに行くの。夜空に浮かぶ白い馬車。まるでお伽噺みたい。…本当は立場が逆だけど、それはこの際目を瞑るわ。
あたしの素敵な計画は、口に出した途端に潰された。ムードの欠片もない口調で、ヤムチャが言ったからだ。
「おまえ、なんかそれおかしくないか?どうして馬車に浮遊システムが必要なんだ。馬車ってのは馬が引くものなんだぞ」
「しかたないでしょ。馬じゃ遠くまで行けないもん。そこは作り物で我慢しなくちゃ」
「それ、ただの車だろ」
「いいのよ。気分なんだから」
一応反論はしてみたけれど、あたしの気分はとっくに壊されていた。もう。ヤムチャってばすぐ、こういうしょうもないツッコミ入れるんだから。男がロマンチストだなんて、大嘘よね。少なくともヤムチャには、全然当てはまらないわ。普通はこのパレードの時間が、一番盛り上がるはずなのに。ちっともそれっぽくなりゃしない。むしろ、現実味が増すばかりよ。
あたしの気分は、再び盛り下がってきた。一方盛り下げた男はというと、なんとなく曖昧な表情で、落ちかかる前髪を掻き上げたりしていた。その、一見なんてことのないヤムチャの仕種が、あたしをさらに冷静な気持ちにさせた。
…なんだろ。
楽しくないってわけじゃないんだけど。腹立つほどのこともないんだけど。そうなんだけど、いま一つ…なんか、これ以上ここにいても、あんまり意味ないみたい。ロマンティックな雰囲気とかにも全然ならないし。まあ、いつものことと言えばそれまでだけどさ。でも今は周りがそういう雰囲気になっちゃってるだけに、ちょっとね。ヤムチャってば、相変わらずわかってないんだから。…ひょっとして、本当にわかってなかったりするのかしら。
あたしはちょっと考えて、遊園地をとっとと切り上げてしまうことにした。わかってると思いたいところだけど、ヤムチャって時々ひどいボケかますから。もう雰囲気に訴えかけるのはやめて、直截、視覚に訴えることにするわ。
「じゃ、観覧車行こっか」
まだまだ続くパレードを横目にそれだけをあたしが言うと、ヤムチャは拍子抜けしたような顔をして、あたしの意を酌み取った。
「あれ、もう終わりにするのか?」
「予定が変わったのよ」
さっきC.Cに帰りつく前までは、絶対に見るまいと思ってたクリスマスドラマ。あれ、一緒に見ることにしよっと。きっとC.Cにはみんな揃ってるから、シチュエーション的には雰囲気に欠けるけど。その後で雰囲気が出ればいいわ。さすがに今日くらいは、あたしから言わせないでほしいもんね。
「予定?」
怪訝そうなその呟きを無視して、あたしはヤムチャの腕を引っ張った。まったく。どうしてあたしがお膳立てしなきゃいけないのかしら。いい加減慣れたけど、そのスイッチが入るの遅いところ、どうにかしてほしいわ。入るまでの我慢と思えばこそ、やっていられるのよ。こいつが外で男らしく見えるのって、戦ってる時だけなんだから。ある意味、本能的な男よね。孫くんもそうだけど、武道やってる男って、そんなのばっかりだわ。
それほど珍しくもない心境に陥りながら、あたしは観覧車へと向かった。ヤムチャといると、時々なんとなく思い出すのよね、孫くんのこと。きっとヤムチャが孫くんを追いかけているように見えるからだと思うわ。ヤムチャにとっての武道って、イコール孫くんなんじゃないかと思えるほどよ。亀仙人さんのところに弟子入りしたり、カリン塔に登ったり。まるっきり方向性が同じなんだもの。
だからといって、あたしはとりたててその事実に不満があるわけじゃなかった。どうしてヤムチャがそうするのかは、わかってる。敵わないから、追いかけるのよ。本当に、いつまで経っても敵わないんだから。敵わないどころか、追いつくのだってようやくでさ。でも、やっぱりあたしは、その事実に不満があるわけじゃなかった。
だって、孫くんは別格だもの。もしヤムチャが孫くんに追いついたりしちゃったら、あたし別の意味でショックを受けると思うわ。こんなこと、ヤムチャには絶対に言えないけど。…ま、とりあえず、そういう相手がいるのはいいことよね。
ラッキー。空いてる。
やがて観覧車に着いた時、あたしの思考は自ずと切り替わった。パレード、途中で切り上げてよかった。エクスプレスパスの列、ガラガラだわ。なんか今日、微妙に行動がスムーズね。普通のデートだったら文句なしの流れだわ。
一瞬感じたその思いは、観覧車が一番上に行くまで続いた。
眼下に広がる幻想的なクリスマスイルミネーション。夜空の下に浮かび上がるポインセチアの花畑。燦然と輝く巨大クリスマスツリーの星。周りの街の明かりを蹴散らしてしまうほどの光の洪水。
「きれーい…」
観覧車から見下ろす景色は、息を呑むほど美しかった。ツーシーターベンチの隣には、今日一日を一緒に過ごすあたしの恋人。その自分を包む現実を確かめてから、あたしは呑んでいた息を吐き出した。
そうねー…
普通のデートだったら、これでもいいんだけどなあ。結果的には、何も問題なかったし。そのかわり、いつのまにか特別感もなくなっちゃってたけど。
あたしって贅沢なのかしら。『いさえすればいい』、そう自分で言ったのに。何も求めてないとか…嘘つきもいいところだわ。
「ブルマ?どうかしたのか?」
ふと、ヤムチャが眉を下げてあたしを見た。その、あたしの心の動きをこんな時に限って中途半端に察知する顔と声を意識の中に入れた時、あたしの考えは自然と改まった。
…やっぱ、違うわ。
こいつよ。こいつが悪いのよ。ヤムチャのバカが、ちっともそれっぽくならないのがいけないのよ。ヤムチャってば、全然変わんないんだもん。いつもとぜーんぜん変わらないんだもん。もうちょっとこうさ。少しは格好つけてくれたって…
だけど今さら『格好つけて』なんて言うのもなあ。…情けなさ過ぎるわ。
あたしは完全に行き詰った。同時に現実も行き詰った。いきなりガクンと大きな揺れがきたかと思うと、ゴンドラが停止した。さらに、他のゴンドラの様子を確かめもしないうちに、アナウンスが流れた。
「…観覧車をご利用のお客様にご連絡します。ただいま電源系統の故障により一時停止しております。現在、復旧作業を行っております。ご利用のお客様にはご迷惑をおかけし申し訳ございませんが、復旧まで今しばらくお待ちください…」
「えー!ひっどーい!8時からクリスマスドラマ観ようと思ってたのにー!」
思わず叫んでしまってから、慌てて考えを改めた。…そういう問題じゃなかったわ。危うく本末転倒になるところだった。ドラマなんかどうだっていいのよ。これじゃ雰囲気どころか、クリスマスそのものが潰れちゃう。
とはいえどんなにやきもきしてみても、どうにもならないということはわかっていた。…ついてないなあ。最後の最後で、本ッ当についてない。この運の悪さは…やっぱり、ヤムチャのせいかしら。きっとそうよね。ヤムチャの運の悪さは天下一品なんだから。きっとヤムチャがいなかったら、こんなことにはなってなかったわよ。だいたいヤムチャがいなかったら、あたしはこんなところにはいなかったんだから。そうしたら絶対にこんな目にもあってなくって…
勝手なこじつけ。心のない屁理屈。わかっていながら、あたしはそう考えた。だってヤムチャが、今のこの状況にも全然動じてないみたいだったから。動じてないどころか、何も感じてないみたい。そんなの見ればわかるわよ。いつにもまして気の抜けたような顔しちゃってさ。…ふんっだ。ヤムチャのバカ。もうあんたなんかには、本当の本当に、何も期待しませんよーだ。
心の中で、あたしは思いっきり舌を出した。実際にもそうしてやろうと思った時、ヤムチャがおもむろに立ち上がった。
「じゃあ、帰るか」
そして、さっぱりわけのわからないことを言った。いえ、わけはわかるけど、めちゃくちゃズレてるわ。帰りたくても帰れないんだっつーの。電源系統の故障なんて、復旧に最低でも一時間はかかるはず…そんなことまで説明しなくちゃいけないわけ?
ひどい疲れをあたしは感じた。そこへヤムチャがさらに、追い打ちをかけてきた。
「うまい具合に電子ロックも外れてるな」
そう言って、ゴンドラのドアを弄り始めたのだ。確かにヤムチャの言う通り、ドアは完全手動に切り替わっていたので、いとも簡単に開けることができた。そのいとも簡単に開けたドアの隙間を、いとも簡単に広げようとする男を見て、あたしはすっかり呆れ果てた。
「まさか伝っていく気!?あんたはよくてもあたしは無理よ、そんなの!」
そんなの考えなくたってわかるでしょ。武道家(特に亀仙流)って本当に無神経なんだから。自分が体力バカだからって、他人にまでそれを求めないで欲しいわ!
「ちょっと!無理だってば――」
ヤムチャはまるであたしの言葉を無視して、そのままドアを開けた。その態度に少しばかり驚いていると、次にもっと驚くようなことが起こった。
「きゃあぁあぁぁあぁぁーーー!!」
その瞬間、あたしは思いっきり悲鳴を上げてしまった。もう驚いている場合じゃなかった。目の前からヤムチャの姿が消えたのだ。ほとんど一瞬で。伝っていくには早過ぎる。っていうか、落ちたのよ!何やってんのよ、あいつーーー!!
開け放たれたままのドアから、すぐさま身を乗り出して外を見た。頭を混乱させながら、でも心の奥底ではまだどこか冷静な気持ちで。ヤムチャがそのまま黙って落ちたりするわけないわ。そこまで間抜けであっていいはずがないわよ。たぶんどうにかしてその辺に掴まっているはず――
でもすぐに、あたしは可能性ではなく願望を口にすることとなった。
「……嘘……」
ゴンドラの下に人影はなかった。その下のスポークにも。右にも、左にも。どうにか見える遠くの支柱にも。ただ灯りだけが見えた。虚しく光り続ける地上のイルミネーションだけが。
「ヤ…」
今度こそ本当の悲鳴が、口から飛び出そうとしていた。その時、風が戦いだ。
違う。風もないのに、髪が流れた。さらに、髪が引っ張られた。
ありえない方向から伸びている指の先へと視線を流すと、そこにヤムチャの顔があった。あたしの頭上の空中に逆さまに佇んで、何事もなかったかのように笑っているヤムチャの顔が。ヤムチャはあたしと目を合わせるなり、薄く笑ってこう言った。
「なんてな」
……
…………
………………何それ。
『なんてな』じゃないでしょ!なんてことすんのよ、あんた!クリスマスサプライズだとしたって許さないわよ。性質悪過ぎだわ!!
「あんた何考えてんの!一体何やってんの!何なのそれは!どういう仕掛けよ!?」
今にも口から出てしまいそうな一言を堪えるために、あたしは非常にどうでもいいことを訊いた。言わないわよ、そんなこと。どうしてあたしがそんなこと言ってやらなきゃいけないのよ!
例によってヤムチャは無神経を発揮して、どうでもいいことだけに答えた。
「仕掛けなんか何もないよ」
軽く笑って、淡々と。ほっとする一方で、怒りが増していくのをあたしは止められなかった。
「何言ってんの!仕掛けがなくて浮いたりできるわけないでしょ。調子に乗ってないで、さっさと教えなさいよ!!」
そう。ヤムチャは浮いていた。どう見たって浮いていた。ゴンドラの上に乗っているのでもない。どこかに掴まっているのでもない。どこに触れることもなく、何もない空間に浮いていた。初めに見た時には逆さまになっていたその体を、ゆっくりと一回転させることまでやってのけた。でも、あたしはそんなことどうでもよかった。
ただヤムチャの態度が。いつも以上に飄々として見えるその態度が、気に食わなかった。だって、だって、だってーーー!!
「いや、本当に何も。ただ普通に飛んでるだけだ」
またもやヤムチャは淡々と言い切った。その瞬間、あたしは返す言葉を失った。
ヤムチャが嘘を言っているわけではないことがわかったから。そして次の瞬間、理解した。というより、思い出した。いつか見た孫くんの姿を。いつかどころか今でも記憶の鮮明なあの天下一武道会で、絶対にダメだと思っていた孫くんが空に姿を現した時のことを。…そうよ。あの時と同じよ。だけどそう感じたのは一瞬だけで、すぐにあたしの胸中は、孫くんの時とはまるで違う想いに満たされた。
「キッザーーーーー!!」
思いっきり叫んでやった。感じたままのそのことを。
「そうかな」
「どこの世界に『ただ普通に飛んでるだけ』の人間がいるのよ!」
「ははっ」
『ははっ』じゃなーい!
軽やかに笑い続けるヤムチャの顔は、あたしを全然安心させてはくれなかった。…だって、心配したんだから。本当に心配したんだから。本当にダメかと思ったんだから。ヤムチャのバカッ!!
喉元に詰まり続ける言葉をひたすらに呑み込んでいると、ヤムチャがゴンドラの中に降りてきた。そしてあくまで淡々と言い放った。
「で、どうするんだ?帰るのか、帰らないのか」
「もちろん帰るわよ!」
どこまでもキザね。『帰る帰らない』じゃなくて『飛ぶ飛ばない』でしょうが!
抑えていたあたしの感情は、早くも呆れへと変わり始めた。…ヤムチャってば、こういうことをしてる時に限って、らしいんだから。こういうことをしてる時に限って、格好いいんだから。なんてしょうもない男なの。
そのしょうもない男があたしの体に手を伸ばしてきた。今までよりさらに笑みを強めて。その手が本物かどうかの一応の確認と、自分の意思を示すために、あたしはその手をことさらに振り払ってやった。
「…おい、ちょっと、ブルマ…」
そう不満そうに呟いたヤムチャが何をしようとしてたのか、あたしにはわかっていた。わかっていたからこそ、手を除けた。そうそう思い通りになってたまるもんですか。そこまで格好つけさせてやる義理はないわよ。っていうかさ。
そんなのは後回しよ!
「一番上から見下ろしたいの!」
だって空を飛ぶんだもの。お姫様抱っこなんかされてる場合じゃないわ。頬を切る風。目の前に広がる果てのない空間。それこそが空を飛ぶことの醍醐味なんだから。それにこの、してやられたような感覚。ここは絶対、こいつの上から見下ろさせてもらうわよ!
ヤムチャは相変わらず不満そうな顔をしていたけど、あたしは構わずその肩に手をかけた。するとヤムチャが腰を落としたので、あたしは思いのほかスムーズに、ヤムチャの体によじ登ることができた。よしよし、従順ね。それがあんたのいいところよ。
「わぁーー!」
ヤムチャの頭を胸元に、つまり視界の隅に追いやって、あたしは一面の夜空を堪能した。感じられない距離感。全身を包む浮遊感。見渡す限り空というこの開放感――すでに何十回、いえ何百回と経験しているこの感覚。でも今あたしの下にあるものは、エアバイクでもエアクラフトでもなく、ただの生身の人間――
「すごいすごーい!人間って本当に飛べるんだ!」
「大げさだな。何度も見たことあるだろ」
「そうだけど、見てるのと自分が飛ぶのは違うもん!」
あたしの気分は、今やすっかり切り替わっていた。あたしはただただ感激していた。
「本当にまだ信じられないわ。よりによってあんたが飛べるようになるなんて」
ヤムチャが飛べるようになるなんて、はっきり言って思ってなかった。自分がこんな風に空を飛ぶことになるなんて、考えたこともなかった。
こいつ、また追いついたのね。…過去の孫くんに。
「どういう意味だ、それは」
その時、ヤムチャがあからさまに不服そうな声を出したので、あたしはようやく気がついた。自分がうっかり本音を漏らしてしまったことに。でもそこはそれ、にっこり笑って言っておいた。
「そんなことあんたがかわいそうで言えないわよ」
「…落とすぞ?」
「できるもんならね」
思った通り、ヤムチャはそうしなかった。それこそ『なんてな』とか言ってやればいいと思うんだけど、ヤムチャはそうはしなかった。そうだろうと思ったわ。あんたがあたしを振り払ったことなんて、一度だってないんだから。そんな意気地ないものね。そして、あたしはヤムチャのそういうところが好き。
ヤムチャのそういう、優しいところが好き。
「ねっ、もっと遠く行って。そうね、都が全部見渡せるところまで。それから、お姫様抱っこして!」
ちっとも怒っていないヤムチャの顔に向かってそう言いながら、あたしは思い出していた。少し前に、自分が望んでいたものを。白い馬車。夜空を駆ける白い馬車。一度はヤムチャに潰されたあの計画は、今や完全にヤムチャによってなかったことにされていた。
そんなの、もういらないわ。こっちの方が断然素敵だもん!っていうか、これが本来の形なのよ。あたしを運ぶ、あたしだけの乗り物。まあ、いつも手元にあるとは限らないのがネックだけど。
でも、今は手元にある。そして手元にあるうちは、完全にあたしの自由。それで充分。ちょっとくらいは妥協しなきゃね。
そうあたしは思っていたのだけど、ヤムチャは軽くその思いを裏切った。
「でも、帰らなくていいのか?予定があるんだろ」
「いいのよもう。そんなのどうでも」
中途半端にあたしを気遣うその声を、あたしは笑って往なしてやった。心の中に呆れを隠しながら。…まったく、しょうがないわね、この男は。この期に及んでそんなこと言うなんて。従順にも程があるわ。っていうか、従順なら、今のあたしの言うことをききなさいよ。まさかこいつ、まだわかってないんじゃないでしょうね?
数十分前とまったく同じことを、あたしは考えた。気が盛り下がらないことだけが、違うところだった。そしてもうそうならずに済むだろうことを、次の瞬間あたしは知った。
ヤムチャが優しく笑って、お姫様抱っこしてくれたから。その顔に、もう惚けた雰囲気はなかった。
うん、わかってる。
よかった。


それから小一時間ばかり、あたしたちは夜空のランデブーを楽しんだ。誰にも邪魔されない2人だけの空間。あたしたちしか見る者のない夜景を満喫。星空の下でデートの約束。もう特別感はバッチリ。あたしはすっかり満足して、肯定的な意味でのシンデレラの気持ちになった。
そろそろ帰らなくっちゃね。
そしてそれを口に出そうとした矢先に、ヤムチャが言った。
「なあ、そろそろ帰らないか?」
その言葉自体にはすごく同意だったのだけど、言い方があまりに色気のない感じだったので、あたしは訊いてみた。
「あ、疲れた?」
そういうこと全然気にしてなかった。こいつ体力バカだから、何時間だって飛んでいられるのかと思ってた。ま、あたしにはそんなつもり毛頭ないけどね。
するとヤムチャは惚けた顔をして、思いっきり惚けたことを言った。
「そうじゃないけど。これ以上外にいると体が冷えるだろ」
がくっ。
その瞬間、あたしはものすごくがっくりきた。本当にがっくりきた。だけど、にっこり笑って言ってあげた。
「もうとっくに冷えてるわよ。当然、この後は暖めてくれるんでしょ?」
武道家って、感覚も鈍いのかしら。だから気が利かないのかもね。…でも、夜はそうでもないのよねえ。一体どうやって使い分けてるのかしら。
あたしの気はちょっぴり逸れかけた。そうしたら、ヤムチャがキスしてきた。鼻先どころか頬と頬が触れるほどに深いキス。甘い甘い、夜のキス…それはあたしの気を引き戻すには、充分過ぎるものだった。
えへへ。
よかった。わかってくれてて。ひょっとしてまだわかってないのかと思っちゃった。ま、わかってなくても、わからせるつもりだったけど。だって、ヤムチャが一番それっぽくなるのは、夜なんだから。敵わないなって思うのは、はっきり言ってベッドの中だけなんだから。
だから絶対に、スイッチ切っちゃダメよ。まだまだクリスマスは、これからなんだからね。
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