聖日の男
あたしはバレンタインデーにチョコレートをあげたことがない。17年間、ただの一度も。
あげたいって思える相手がいなかった。いても彼女持ちだったりとか。他人のものに手を出したりはしないわよ。…向こうが付き合いたいっていうなら、別だけど。そもそも、そんな風に思える相手がいたことすら、ほんの1、2回。だって、学校の男子ってガキっぽくって。特にエレメンタリースクール。小等部の男子って、どうしてああもガキなわけ。好きなやつを作れる子の気が知れなかったわ。
だけど、バレンタインチョコレート売り場は大好きだった。見てるだけで楽しくなっちゃうわよね。フルーツを模ったもの、もはや食べ物の形ですらないもの、異国風味にアレンジされたもの、かわいい缶に入ってるもの。自分用に買おうかなって思うこともあったけど、それはやめておいた。ただなんとなく。買うのはいつも定番のキスチョコで…あ、もちろん父さんにはあげるのよ。だけどそんなの、数のうちには入れないわよ。あと、幼稚園の先生と、俳優とアイドルに送りつけたぶんもなしね。それは絶対に違うでしょ。
とにかくあたしは、バレンタインデーにチョコレートをまともにあげたことがない。最も、あげようとしたことなら一度ある。その時はすっごく気合いを入れてチョコを選んだし、ばっちりカードもつけた。でも、結局はあげなかった。なぜかというと――


…やっぱり、カードをつけるのはやめとこっと。
少しだけ色褪せた記憶を掘り起こした後で、それだけをあたしは思った。
何書けばいいのかわかんないもん。そういうこと書くのも今さらだし。かといって、義理ってわけじゃないし。いいわよね。顔合わせるんだもの、カードなんかつける必要ないわよ。
えっと、結局いくつ必要なのかしら。父さんとプーアルと…ウーロンは、態度を見てあげるかどうか決めるとして。亀仙人さんとクリリンくんと…やっぱりウミガメにも必要よね。何でも食べてるみたいだものね。それからランチさん。母さんなんかハブったって全然構わないけど、ランチさんをハブるわけにはいかないわ。ランチさんには結構お世話になってるから、ちょっぴりゴージャスなやつにしよ。ランチさんのことだから、あたしにも勧めてくるかもしれないし。――それで7個か。
多いわねー。こんなにいっぱい買うの初めて。おまけに、チョコって数かさばると結構重いわ。
休日の半分を注ぎ込んで、あたしは来たるべきバレンタインデーの準備を整えた。あとはこれに少し手を加えて、見た目に判別つくようにして…
気合い入り過ぎ?そんなことないわよ。お約束ごとだからやってるだけよ。バレンタインコーナーってあちこちにあって、意外と時間かかるし。どれが誰のかはっきりわかるようにしておいた方が、配る時に楽だし。そりゃ、全然楽しくないってわけじゃないけど。だって、バレンタインチョコ売り場好きだからね。
そんなところよ。




バレンタインデー当日。カメハウスへ向かう為エアジェットに乗り込む前に、あたしは本当に少しの間だけ、テラスへと顔を出した。そしてそこにいる人物に、もはや恒例となった毎年の連絡事項を告げた。
「父さん、チョコレート、リビングのテーブルに置いといたからね」
「おやブルマ。今年もくれるのかね。いやいや、ありがとう」
一見殊勝な父親のようなことを父さんは言ったけど、あたしは騙されなかった。
騙されるわけがない。目の前で繰り広げられている現実を見れば。
粉雪ちらつく二月の空の下。可動式テラスルーフも出さずにいちゃつく中年のカップル。テーブルの上には母さんお手製のチョコレートケーキ。否が応でも目に入る、フォンダンで描かれた大きなハートマーク。あたしからのチョコなんて、全然眼中にないんだから。
毎年毎年こうよ。『いつまでも恋人みたいな両親で羨ましい』、そう言われたことあるけど、あたしにはとてもそうは思えないわね。『恋人ができても絶対にバレンタインデーには家に招待しない』――バレンタインデーがやってくるたび、あたしはそう誓ってきたわ。実際、それを守ってもきた。
…まあ、去年は呼ぶまでもなく、うちにいたけど。
そうね、去年は確か、母さんはケーキを二台焼いてた。今年はケーキを一台と、チョコレートクッキー。あたしたちがカメハウスへ行ってていないからっていうのもあるけど、それにしたって露骨よね。だいたいこの父さんが好きで、どうしてヤムチャのことも好きなのよ。タイプ、全然違うじゃない。母さんの頭の中って、やっぱりわからないわ。
母さんと父さんに当てられながらも笑ってケーキを食べていたヤムチャのことを、あたしは一瞬思い出した。でも、一瞬だけだった。だって、一瞬しかその姿を見てないから。そしてもうしばらくは、その一瞬すら見ることもない。
「おーい、まだかよー?寒いんだから、早くしろよな。まったく、おまえはいつもいつも…」
その時、ポーチの方から小うるさい声が聞こえてきた。同時に覗いた小うるさいブタの顔を見て、あたしは思った。
…チョコレート、6個でよかったみたいね。


常夏の二月って、春みたい。
眼下に広がる緑色の山々。そのところどころに目につく茶色い木々。パラつく雨。風もちょっと強い。外気温は24度――どう考えても春ね。
「なあおい、あれ何だ?あそこの山」
エアジェットがカメハウスの手前の小さな山脈に差し掛かった時、窓の外に目をやりながらウーロンが言った。
「なんか煙立ってるぞ。あいつらがまた何かやってるんじゃねえのか?」
ここいらでおかしなことが起こっていたら、それは全部亀仙人さんたちのせい。今ではあたしだけではなくウーロンも、そう決めてかかっている。そして、それは今のところ100%の確率で当たっている。
「よし、じゃあ予定変更。修行現場に殴り込みよ!」
「巻き添え食らうなよー」
「あいつらがそんな派手な修行、してるわけないわよ」
あいつらはいつだって、派手な動きで地味〜な修行をしてるんだから。どうせきっとまた何かのバイトよ。
そうね、『おじいさんは山へ柴刈りに』ってところなんじゃない?最も、そのおじいさんはいつだって、見てるだけなんだけどさ。

「けーっ、ぺっぺっぺっ」
目当ての山の上空で、エアジェットのキャノピーを開けた途端に、ウーロンが外に向かって唾を吐いた。その下品な仕種を、あたしは咎めなかった。ちょうどあたしもそうしようと思ってたところだったからだ。
慌ててキャノピーを閉じると、ウーロンが今度は文句を、あたしに向かって吐いた。
「だから気をつけろって言ったじゃねえかよ」
「言ってないでしょ、そんなこと!」
目を擦りながらウーロンの揚げ足を取ると、プーアルが涙声で呟いた。
「いたたた…目に砂が入っちゃいました」
もうもうと立ち込める砂煙。ちょっとこれは、声をかけられそうにもないわ。驚かすのを諦めてエアジェットを下ろせそうな空地を探すと、少し離れた山腹に一ヶ所だけそれっぽいところが見つかった。おそらくは唯一とも思える立ち木のない場所。エアジェットを着けてほんの少しだけ歩いていくと、やはりというか何というか、一人悠々と座っている亀仙人さんの姿を見つけた。木の切り株に腰かけて、のんびりと煙管を燻らせている。
「とりゃあぁぁぁ!」
「たーーーっ!」
どこからか聞こえてくる弟子たちの声を耳の端に入れながら、あたしは声をかけた。
「こんにちは、亀仙人さん。今日は何やってんの?」
「おや、ブルマちゃん、来おったな。ほっほっ、なあに、これは間伐じゃよ。間伐のバイトじゃ」
煙管で作った雲を吹き消すように笑って、亀仙人さんはそう答えた、その瞬間、あたしは思わず眉を曇らせてしまった。
予想がこうもどんぴしゃにハマったのは、これが初めてよ。ついにあたしも、亀仙人さんの修行姿勢を把握できるようになっちゃったか。いやぁねえ…
「でやぁーーーっ!」
「とーーーっ!」
その時また声が聞こえてきて、さらに弟子の一人の姿が、視界に飛び込んできた。
「ヤムチャ様ーーーっ!」
途端にプーアルが歓声を上げた。あたしはというと、思わず両手を握りしめて、大きく息を呑んでしまった。
…かぁっこいーい…
どこかの高みから、突如躍り込むように舞い降りてきたその姿勢。武道のことなんか全然知らないあたしにだってわかるほど、きれいなフォーム。まるで一本のナイフみたい。蹴り一つで倒れ込む、それなりの大木(間伐だからね。本当に立派な木は倒さないのよ)。鳴り響く轟音と、舞い上がる砂塵…
様になってるなんてものじゃないわ。とてもバイトをしているとは思えない格好よさよ。前にも同じようなこと(っていうか同じよ)をしてるの、見たことあるけど。あの時も格好よかったけど、今はやり方だけじゃなく、雰囲気そのものがまるで違うわ。
これはやっぱりバイトの…いえ、修行の成果ってやつなのかしら。まだ一年にもならないのに。やっぱりすごいのかもね、亀仙人さんって。
「どれ、どうやら終わったようじゃの」
あたしが横目を流したちょうどその時、亀仙人さんがそう言って腰を上げた。そして、それまで切り株に立てかけていた杖を手に、あたしの隣へやってきた。
「おぬしら、終わったならさっさと帰るぞい。少々時間をオーバーしてしもうたからの。ほれ、こうしてブルマちゃんも来ておることじゃし」
いかにも師匠といった雰囲気を漂わせて、亀仙人さんは言葉を続けた。でもその言葉が終わると共に、あたしは握りしめたままの拳を、思いっきり亀仙人さんの頭に振り下ろすこととなった。
「ちょっと、どこ触ってんのよ!このエロじじい!!」
亀仙人さんの左手が、あたしのお尻を撫で擦ったからだ。普通ここは、肩を叩くとかするところでしょ!…あー、油断した。思いっきり油断したわ!!
苦虫を噛みながら顔を上げると、二人の弟子が少し離れたところに揃って立ち尽くして、こちらを見ていた。二人揃って驚いたような顔をして、間抜けに口をちょっと開けて。…完全に見てたわね、これは。でもそれがわかっても、呆れ以上のものはあたしの心には湧かなかった。
…もういい。あんたたちはもう何も言わなくていいわ。この碌でもない師匠を何とかしてほしいなんてことも、もう頼まない。自分の身くらい、自分で守るわよ。こいつらが強いのは、武道をしている時だけなんだから!
「あのー、ブルマさん」
「何よ!?」
そう思っていたにも関わらず、クリリンくんがおずおずと近づいて声をかけてきた時、あたしは思わずケンカ腰に反応してしまった。しかたないわよね。そりゃ頼もうとは思わないけどさ、だからって何も思わないわけじゃないんだから。
「い、いえ。別に…」
「…あー、武天老師様。間伐、一通り終わりましたが…」
すぐさま首を引っ込めたクリリンくんに代わって、もう一人の弟子が顔を出してきた。態度だけはおずおずと、でも口では何事もなかったかのようにそう言った。すると師匠が、こちらもまた何事もなかったかのような顔をして、それに答えた。
「よろしい。では、帰ってお茶にするかの。ランチちゃんが首を長くして待っておるだろうて」
…もう、ヤムチャってば。場を流すことばかりうまくなっちゃって。
あたしの思った通り、その場はそのまま流れた。あたしもいつも以上の呆れを抱くことはなく、場の流れに従った。
ヤバイわね。あたしもついに、馴染んできちゃってるわ。ここのこの、不自然に自然な流れに。


あたしたちは再びエアジェットで、亀仙流の3人は徒歩で、カメハウスへと向かった。
「3時のお茶が済んだら、もうひと山じゃ。今の山は少し時間がかかり過ぎじゃ。いつまでも気合いだけではいかんぞい。各々、自分の動きをよく意識せよ」
カメハウスの玄関先で珍しく訓示を垂れる亀仙人さんをあたしは見てはいたけれど、心には留めていなかった。それよりもっと気になることがあったからだ。
さっきから鼻に入ってくるこの匂い。いつもよりちょっぴり強い風に乗って流れてくる、この甘くかぐわしい香り。これはひょっとして…
なんとなく躊躇していると、クリリンくんがドアを開けた。その瞬間、あたしは自分の予想が外れなかったことを知らされた。
「おかえりなさい、みなさん。ちょうどチョコレートケーキが焼き上がったところですわ。あらブルマさん、こんにちは」
にこやかに笑って出迎えるランチさんと、その後ろに垣間見えるダークブラウンのお菓子。…やっぱり。先を越されちゃった。
「こんにちは、ランチさん」
それでもあたしは、表向きなんてことのない顔をして言葉を返した。別に悔しいというほどのことはないわ。ランチさんはきっとこういうことをするだろうと思ってた。母さんと同じチョコレートケーキっていうのが、ちょっぴり微妙な気分にさせるけど。
テーブルの上にはすでにお茶の用意がすべてされていたので、あたしは何も手伝うことはなかった。いそいそとコーヒーポットを運んでくるランチさんをただ黙って見て、その間になされたみんなの会話をただ黙って聞いていた。
「ランチさんの作ったチョコレートケーキ、とてもおいしいですよ。でも亀仙人様、あまり食べ過ぎないでくださいよ。糖尿病になってしまいますからね」
「なんちゅうことを言うんじゃ。それにカメの分際で、わしより先に食べよったのか」
「少し味見させていただいただけですよ」
「ウミガメさんにお手伝いしていただいたんです。とっても助かりましたわ」
「おまえ、そのなりで何を手伝ったんだよ?」
「チョコレートを溶かすボールを押さえたりとかですよ」
「そんなの、おれにだってできるぞ」
じゃあ、やりなさいよ。
厚かましくも文句をつけ出したウーロンの言葉だけに、あたしは突っ込みを入れた。心の中で。ウーロンのやつ、母さんのケーキ作りにだって手出ししないくせに。言うことだけは言うんだから。
「あの、少し甘めに出来上がっちゃったんです。亀仙人さんとクリリンさんは平気ですわよね。ヤムチャさんは甘いの平気ですか?」
「ええ、それは全然大丈夫です」
「おれなんか大好きだぜ」
訊いてないっつーの。
どうやらウーロンの言葉以外に、突っ込むところはなさそうだった。だいたい予想通りよ。…ウミガメって、やっぱり雑食なのね。
そうこうするうちに、ランチさんが温めたケーキナイフをチョコレートケーキに当てた。あたしはやっぱりそれも、黙って見ていた。…途中まで。
「…っくしゅん!!」
そう、途中で、ランチさんがくしゃみをした。あたしはちょっぴりだけ驚いて、すぐにその手からナイフを取り上げた。
はいはい、あたしが切り分けてあげるわよ。
さっさとケーキにナイフを当てたあたしの斜め隣では、金髪のランチさんがものすごく腑に落ちない顔をしていた。宙を掴む自分の手を見ながら、素っ頓狂な声で呟いた。
「なんだあ?オレ、一体何をしてたんだ?銃はどこいった?」
「銃なんか持ってませんでしたよ」
「間抜けな嘘をつくなよ、このカメ。そんならオレは、何を持ってたっていうんだよ」
あたしはさらにナイフを入れた。金髪のランチさんも結構馴染んできてるわね。銃がなくなったなんて、初めに会った頃になら、きっと大騒ぎだったわ。そう思いながら。
「ナイフですよ、ナイフ」
どうやら見かねたらしいクリリンくんが、横から口を出した。でもそれは、ランチさんに噛みつく相手を新たに与えただけだった。
「ああ?嘘つくなって言ってんだろ。ジャックナイフならちゃんとポケットに入ってらあ」
「いえ、そういうナイフじゃなくて…」
「やれやれ、ランチちゃんにも困ったもんじゃの」
「作ってる途中で変身しなくてよかったんじゃねえのか」
今ではもう一人の気弱な弟子すらも、口を出してきていた。亀仙人さんは眉を下げて、もりもりとケーキを口に運んでいた。ウーロンも以下同文。なんだか非常に微妙な会話で盛り上がり(下がり?)ながら、みんなはいつのまにかケーキを口にし、そして食べ続けていた。
ケーキを作った方のランチさんは、これで本望なのかしら。そんなわけないわよね。後で『とってもおいしかった』って言っておいてあげようっと。
そんなことを考えながら、あたしもケーキを口にした。お世辞抜きで、本当においしいチョコレートケーキを。
やがてケーキもなくなって、カップを空にし始めた人間もぼちぼち現れた。それであたしはようやく、自分の番が来たことを悟った。
「あのね。甘いものたっぷり食べた後で申し訳ないんだけど、あたしからもあげるわ。…えーとね。まずはランチさん」
ランチさんはいつの間にか矛を収めていて、おそらくは2杯目のコーヒーを飲んでいた。特にあたしに視線を寄こしたりはしなかったけど、あたしは構わなかった。
「あんまり興味ないかもしれないけど、捨てずに取っておいて。結構おいしいやつだから」
「おう、サンキュー」
意外にもランチさんはそうお礼の言葉を口にして、意外にもしっかりとした手つきで、あたしからチョコを受け取った。すぐに横に置いたけど、それは以前お土産を手渡した時に見せた『放り投げる』素振りとは全然違っていた。…やっぱり馴染んできてるわ。少し丸くなってきてる感じ。ここってのんびりしてるからなあ。感化されもするか。
「じゃあ次、みんなの分ね」
あたしはちょっと感心しながら、残る5つのチョコレートを手渡した。すると意外にも、クリリンくんがその言葉をあたしに投げつけてきた(こういうことはウーロンの専売特許だと思ってたわ)。
「どうしてランチさんのだけ、おれたちのと違うんですか?それにずいぶんと大きいですよね」
「ブルマちゃん、そっちの気があったのかの」
「バカなこと言ってないで。二人分よ、二人分」
当初とは違う意味での二人分だけど。まあ、二人分には違いないわ。
……さて、と。
ここであたしは息をついて、少しばかり考えた。
ヤムチャの分、どうしよう。
持ってきていないわけでは、もちろんない。別にケンカしたりもしてない。だけど、ここで渡すのもなあ……今思えば、ケーキ食べてる時にこっそりあげちゃえばよかったな。ランチさんが金髪のせいか、なんだか妙に空気が落ち着いちゃっててさ。ちょっとやだな、この雰囲気。
でも、考え始めて気がついた。ここであげない方がうんと不自然であるということに。
ま、いっか。
誤解されるも何もないし。こっそりあげたりする方がなんかいやらしいし。
「んー…じゃあこれ、ヤムチャの分ね」
ところが、あたしがヤムチャにチョコを手渡した途端に、空気が落ち着かなくなった。ある意味では意外でも何でもなく、ウーロンがその言葉をあたしに投げつけてきた。
「どうしてヤムチャのだけ、包装が違うんだよ?」
「うるさいわね。自分でやったからよ。作ったチョコだから、店では包めなかったの!」
あたしはあらん限りの自制心を発揮して、その言葉に答えた。本当にデリカシーのないブタ!どうしてここは流してくれないのよ。ランチさんのは流してたくせに。
「作った?おまえが?マジかよ。ちゃんと食えんのかよ、それ」
「毒は入ってないわよ」
「毒が入ってなきゃいいってもんじゃないんだぞ」
「どういう意味よ、それ」
「おまえが菓子作ってるとこなんて、見たことないぞ。ヒマさえありゃ、メカばっかり作ってるくせによ。あっ、あれか?昔おれに食わせた飴みたいに、何か仕込んでんのか?」
「あんたねー!もう、そのチョコ返しなさいよ!」
「やーだよ。これはもう、おれのもんだもんね!」
あたしがかねてより用意していた台詞を言うと、ようやくウーロンは黙った。あたしのあげたチョコレートを、わざとらしく懐に抱え込みながら。ったく。わけわかんないんだから、ウーロンは。
欲しいんならケンカ売ってくるんじゃないっつーの。貰えるだけで感謝すべき立場よ、あんたは。だいたい、『ありがとう』の言葉もないし。ウーロンに言ってもらったって、嬉しくもなんともないけど。それにしたってもう少し態度で表すべきよ。あんた、あたしに貰うの初めてでしょうが!それは他のみんなにも言えることだけど。ただの一人の例外もなく。
――そう。ヤムチャさえも。
去年はあげなかったの。初めてのバレンタインデーだったけど、あげなかった。
だって、ヤムチャってばチョコ貰って帰ってきたのよ!ハイスクールの女たちから。それも1個や2個じゃないんだから。だから思いっきり無視してやったの。そしたら、ヤムチャのやつ何も言わないんだもん。気づいてないわけないのに。だって、ハイスクールでは貰ってたんだから。あったまきちゃうわよね。
そんなことがあったのに、今年はちゃんとあげるんだから、あたしって心が広いわよね。ほとんど女神様よ。まあ、もう一年も前の話だし。ヤムチャもハイスクールやめちゃったし。…それに、去年のは結局食べなかったみたいだから(ウーロンががっつりせしめてるところを見たのよ)。許してやろうかなって…
あたしは本人と、何より周りに気づかれないように、ヤムチャの様子を盗み見た。ヤムチャはなんだか腑に落ちないような顔をして、あたしのあげたチョコレートをじっと見ていた。そして実際に、その腑に落ちない様子を言葉で表した。
「これ、本当にその…ブルマが、作ったのか?」
「そうよ!ありがたくいただきなさいよ!」
「…うん」
ヤムチャはやっぱり腑に落ちなさそうな様子で、チョコに目を落としていた。本人からのではなく周りからの視線に耐えかねて、あたしは会話を切り上げた。
別に、心を込めてやったとかそんなんじゃないのよ。手作りってことには、全然意味はないのよ。最初は買おうと思ってたんだから。だけど、ここじゃヤムチャだけにあげるってわけにはいかないのよ。でも、みんなと同じチョコってのもなんだし。違うのにしたって、ランチさんのと雰囲気被るし。それで差別化を図ってみたってわけよ。単なる思いつきよ、思いつき。まったく、面倒くさいったらなかったわ。
チョコなんて、ただ溶かして固めればいいと思ってたのに。なんか、色は変わっちゃうし。チョコなのに焦げたりするし。挙句に母さんは口を出してくるし。どうにかこうにか1個でき上がったのが、ほとんど奇跡よ。本当に、感謝してよね。
…そういうこと、言えたらなあ。
別に我慢したってわけじゃないけど、そういう言葉をあたしは呑み込んだ。ただなんとなく。バレンタインデーって、不公平なイベントよね。ちょっとそういうことしたら、すぐにそういうものだと取られちゃうんだもん。そのくせしないと義理みたいになっちゃうし。一体どうしろっていうのよ。
ま、とにかくあたしは任務をやり遂げた。それはもう立派に、バレンタインデーをこなしたわよ。
なんかちょっと想像と違ってたけど、まあいいや。


そうあたしは思っていたのだけど、それはまだ早かった。
窓辺で亀仙人さんが煙管をふかし始めた頃。ランチさんがいつものように、銃の手入れを始めた頃。プーアルとウミガメが今はいないハウスキーパーに代わってテーブルの上を片づけ始めた頃。2階へと続く階段に目をやりながら、おもむろにクリリンくんが呟いた。
「ヤムチャさん、どうしたんっすかねえ」
5分ほど前に自室へと篭ってしまった弟弟子を不思議がる言葉を。それには別に問題はない。あたしも同じように思っていたところよ。問題はそれに答えたウーロンの台詞だ。
「毒が入ってないかどうか調べてるのと違うか」
…クリリンくんに答えた?いいえ、違うわ。
これはどう考えたって、あたしにケンカを売っている台詞よ!
「あんたは一体、何が言いたいわけ!?」
「へ〜ん。べっつに〜。おれはただ心配してやってるだけだぜ。ヤムチャのやつと、明日の天気をよ」
「どうしてここで天気の話が出てくるのよ?」
「おまえがバレンタインのチョコを手作りするなんて、槍が降るんじゃねえかと思ってよ」
…何、この逆境的展開。
わけなんかわからなくたって、全然結構だけど。それにしたって、どうしてあたしがこんなこと言われなくちゃいけないわけ。
例の脅し文句を使う気は、あたしにはもうなかった。ウーロンが、食べもしないくせにあたしのあげたキスチョコを延々と弄り回していたからだ。そのかわり、あたしはすでに決めていた。来年は絶対に、ウーロンにはチョコをあげない。露骨だろうがなんだろうが、めいっぱい差別してやるわ!
「そうね、降るかもね。バレンタインデーにあんたがチョコを手にしてるなんて奇跡だもんね!」
思いっきり嫌味ったらしく、あたしは言ってやった。とりあえず今年はこれで勘弁しといてやるわ。来年、うんと後悔するのね。
心の中で、あたしはウーロンとの会話を打ち切った。でも実際には、そうできなかった。
ウーロンが堪えた顔を見せなかっただけではなく、あまつさえ平然と聞き捨てならない大嘘を吐いたからだ。
「へっ、知らねえな、おまえ。おれだってチョコくらい貰ったことあんだぜ。去年なんか両手に抱えきれないほどいっぱい…」
「それはヤムチャのでしょ!」
あたしは思わず言ってしまった。そしてそのことを、ものすごーく後悔することとなった。
「なんだおまえ、知ってたのか。ヤムチャがチョコおれに全部くれたこと。知っててあんな態度取ってたのかよ。かっわいくねえな〜」
「うるさいわね。放っといてよ」
「ヤムチャのやつも災難だねえ。こんなヒステリー女、おれだったら絶対にお断りだね。絶ーっ対に、ファンクラブのかわいこちゃんの方を選ぶね」
「あたしだってあんたなんか絶対にお断り!」
「一体、何の話ですか?」
それまでただ呆れたようにあたしたちを見ていたクリリンくんが、ここで顔を出してきた。瞬時に口を噤んだあたしとは対照的に、ウーロンがとうとうと喋り出した。
「ヤムチャがすごくモテるっていう話だよ。なにせハイスクールにファンクラブまであったんだからな」
すると亀仙人さんが一見気のいい師匠面で、ウーロンの言葉に食いついてきた。
「それは初耳じゃな。あやつ、そんないいこと一年近くも師匠であるわしに隠しおってからに」
さらにプーアルが従順な僕の顔をして、その話題を促進させた。
「ヤムチャ様は隠し事なんてなさらないですよ」
「ふむ。じゃあ、本当なんじゃな」
「すごいなあ。ファンクラブなんて、芸能人だけのものだと思ってましたよ」
「昔の話よ、昔の!」
あたしは事実を叫んだけれど、時すでに遅かった。みんなは実に和やかに、あたしの気持ちを逆撫でし続けた。
「昔の話だってすごいですよ。おれの少林寺の先輩にだって、ファンクラブなんかありませんでしたよ」
「そうですよね!ヤムチャ様、本当におモテになったんですから!」
「それなのにブルマなんかと付き合ってるんだからな。ヤムチャは偉いよ。だからおまえももっとかわいい態度を取らないと、罰が当たるぜ」
「余計なお世話よ!だいたい、あたしのどこがかわいくないってのよ。ちゃんとチョコあげたでしょ!」
「その態度がかわいくないって言ってんだよ」
あああー、ウザイ!!
ここにきて、ついにあたしの堪忍袋の尾は切れた。もうどうにも我慢できなくなった。今のこの状況に。どこまでもウザイことを言い続けるウーロンと、それに便乗するみんなと、そしてここにはいないヤムチャとに。
本当に、ヤムチャは一体何をしてるのよ。今こそあいつの場を流す能力が必要だっていうのに!!
至極当然の流れで、あたしは席を立った。するとウーロンが勝ち誇ったような顔をして言った。
「おっ、逃げるのか」
「違うわよ。ヤムチャの様子を見てきてやるのよ。もうすぐ修行の時間でしょ!!」
「ヤムチャに八つ当たりすんなよな」
「そんなことしないわよ!!」
っていうか、八つ当たりじゃないでしょ。もとはと言えば、ヤムチャが悪いんでしょ。ヤムチャがいなくなっちゃったから、ウーロンがこんなこと言い出したのよ。だいたいあたしは八つ当たりなんて、一度だってしたことないわ。あたしは心の広い女神様よ。ヤムチャだって許してあげたし、みんなにチョコだってあげたでしょ。っていうか、どうしてチョコあげたのに、こんなことになってるわけ!?
馴染めない。やっぱりあたしは、ここには馴染めないわ!!
あたしは我ながら荒っぽい足取りで、階段を駆け上がった。そして途中から、意識して歩を緩めた。最後にできるだけ静かにヤムチャの部屋のドアを開けた。
だって、女神様だし。だいたいここで大声なんか出したら、あいつらの思うツボよ。ウーロンが喜々としてわけのわからないいちゃもんをつけてくるに決まってるんだから!
あたしはめいっぱい自制心を発揮して、怒りを忘れようと努めた。そして、ヤムチャの部屋に一歩を踏み入れた途端、本当に忘れた。自制した結果によらず。
「…あれ?」
単純に気を逸らされたのだ。部屋にヤムチャはいなかった。いつもなんとなく座り込んでいる窓辺にも、よく腰を下ろしているベッドの上にも、時々体を解したりしている床の上にも、どこにも…
たいして広くもない部屋をぐるりと見回して、最後にあたしは気がついた。
「…何してんの、あんた」
そして、予定していた台詞を、まったく予定外の心境で口にした。
「なんでそんな端っこにいるの?それにチョコ、いつまでも持ってると溶けるわよ」
ヤムチャは部屋の隅にいた。ドア横の壁の、うんと端っこに。あたしのあげたチョコを手に、ただ突っ立っていた。なぜか肩身狭そうに。まるで居場所がないかのように。ここ、自分の部屋なのに。
…あ、ひょっとして1階の会話聞こえてたのかしら。この家狭いからなあ…
あたしは少し気まずくなった。でもそれも、一瞬のことでしかなかった。すぐにヤムチャが言ったからだ。
「いや、ちょっとその…チョコ食べてみようかと思って」
その言葉は完全に、あたしの意表をついていた。だからあたしは反射的に、こう答えてしまった。
「チョコレートケーキ食べた後なのに、またチョコ食べるの?」
まあ、食べちゃダメってことはないけど。だけどこいつ、特に甘党ってわけじゃないのに。それにしても、のんびりしてるわねえ。1階の連中とは大違いだわ。…本当に、ウーロンのやつ余計なお世話もいいところだわ。本人は別に何も感じてなさそうよ。
あたしは再びさっきの怒りを思い出した。そして次の瞬間、さらに思い出すこととなった。
「いいよ。後にするよ。それよりそろそろ行かなきゃな」
「あ、いい、いい。まだ行かなくて。そういうつもりで言ったんじゃないのよ。っていうか、今は行っちゃダメ!!」
「ダメってどうして。何かあったのか?」
「…チョコ、食べるんでしょ?」
飛び去っていた自制心を呼び戻して、あたしはそう答えた。別に食べてほしくて言ったんじゃないわ。今1階に行かれると困るのよ。絶対にファンクラブのこと訊かれるわ。そりゃあ、昔の話よ。今さらだってこともわかってる。でもだからこそ、聞きたくないのよ。せっかく忘れてもいい気分になってたんだから、このまま忘れさせてちょうだいよ。
ヤムチャは不思議そうな顔をしていたけれど、もうドアに向かおうとはしなかった。だからあたしは黙って、その隣の壁に体を凭れた。するとヤムチャも、そのまま壁に体を凭れた。少し首を傾げながらも、手はゆっくりとチョコの包みを開け始めた。それであたしはもうこれ以上何も言わないことに決めた。
鈍いやつって、こういう時は楽でいいわね。あたしだったら、絶対にもっと言及するわ。だって、我ながら不自然だと思うもの。
2月だというのに、部屋の窓はほとんど全開になっていた。そこから戦いでくる風は、いつもよりは少し強く、そして生温かった。差し込んでくる太陽の光は、肌に優しかった。やっぱり春ね。わかっちゃいたけど、全然そういう感じしないわね。バレンタインデーっていう感じ。バレンタインデーって、木枯らしの中で心温め合うっていうイメージだったんだけど。…それはうちの親のやってることか。完全に刷り込みね、これは。
そんなことを考えながら、あたしは黙って目の前の光景を見ていた。正面の窓に翻るレースのカーテンを。がさがさとチョコレートの包装が破られていく音をすぐ横に聞きながら。事ここに至って、あたしはすっかり後悔していた。
…口実、他のことにしておけばよかった。
何も考えずに言っちゃったけど、目の前でチョコレート食べられるのって、すっごく微妙。どうしてかわからないけど、いたたまれない感じ。なんとなく品定めされてるみたいな気もするし。自分で作ったやつだから、そう感じるのかしら。
まあ、雰囲気がないから、まだいいけど。
何も言わずに淡々と包み紙を開け続ける隣の男をちらと盗み見て、あたしはそう思った。ヤムチャの様子は、いつもと全然変わらなかった。ごはんを食べたりお茶を飲んだりしている時と、まったく同じ。片足を組んだりしてるところまで同じ(ごはんの時は座ってるから胡坐だったりするけど)。やっぱりこいつ、何も感じてないわね。
ま、その方がいいけど。
ちょっと想像と違うかなってさっきまでは思ってたけど、この方が気が楽でいいわ。あたしは母さんたちとは違って、繊細なんだから。娘の目の前で『あーん』とかやりあえるような図々しさは、あたしにはないのよ。
やがて、包装を破る音が止んだ。少しだけ意識を現実に戻されたあたしは、次の瞬間ふと気づいた。
ヤムチャがなんだか意外そうな目で、あたしを見ていることに。
「何よ?」
あたしが訊くと、ヤムチャはほとんど棒読みで、こう答えた。
「いや…かわいいチョコだなーと…」
あー、もう。
そういうこと、いちいち言わなくていいから。感じるのは結構なことだけど、口に出さなくていいから。男だったら、四の五の言わずに黙って食べなさいよ。ヤムチャってば気は利かないくせに、必要ない時に限ってお喋りなんだから。いつもわかりきったことばかり、わざわざ口にするんだから。デリカシーないんだから…
あたしはまたもや自制心を発揮した。ここでケンカするほどバカバカしいこともないわ。そう思ったから。心の広い女神様の気持ちになって、わかりきったことをわざわざ口にしてあげた。
「バレンタインのチョコがかわいくなかったら、大問題よ」
正論よ。かわいくないチョコあげるくらいなら、初めからあげないわよ。かわいくないチョコをわざわざ手作りしたりもしない。そんなの、ただの嫌がらせでしょ。そして、そんな嫌がらせに手間をさく気は、あたしにはないわ。だから、あいつらにはもうあげない。
今傍にある現実と、さっきまで傍にあった現実とが、あたしの中で混在し始めた。あー、疲れる。バレンタインがこんなに疲れるものだなんて知らなかったわ。 どこが恋人たちのイベントなのよ。…去年のあたしは、見事に騙されていたわ。騙したのはヤムチャだけど。
ヤムチャは何も言わなかった。ただ黙って、チョコレートを割り始めた。それであたしはまた、もうこれ以上何も言わないことに決めた。
いいの。もうあげちゃったんだし。このチョコはもうヤムチャのものなんだから。ヤムチャがどう感じようと、それはヤムチャの自由…
そのはずだった。ヤムチャがチョコレートを口に運ぶまでは。そのまま黙ってチョコを食べて、その後でものすごく単純なそれでいて重大な一言を呟くまでは。
「…しょっぱい」
「えぇー!嘘!!」
あたしは瞬時に自制心を投げ出した。…冗談でしょ。何この、少女漫画的展開!!
砂糖と塩を間違えたとか?ありえないでしょ、そんなの!!…母さんかしら。やたらめったら口を出してきてたからなあ、あの時。このチョコの形だって、母さんがあんまりしつこく言うからそうしたんだし。何が『ハートじゃなきゃダメ』なのよ。砂糖じゃなきゃダメだっつーの!!
あたしの頭の中はすっかり昨日の記憶で埋めつくされた。すると途端にヤムチャが言った。
「嘘に決まってるだろ」
………………。
その瞬間、あたしは完全に呆けてしまった。でも、その感情が湧いてくるのに時間はかからなかった。
「何それ!信じらんない!それがひとに物貰ったやつのすること!?」
あー、もう。バレンタインデーって、何て不公平なイベントなのかしら!
あげなきゃあげないで文句言われるし。あげたらあげたでまた言われるし。その上、なんだってあげた相手にまでからかわれなくちゃいけないわけ!?ありがたがられこそすれ、からかわれる筋合いなんてないはずよ。からかうにしたって、もうちょっとマシなやり方しなさいよ。洒落になってないのよ!…塩入りじゃなくてよかった。
「ごめんごめん。でもさ…」
あたしが怒鳴ると、ヤムチャは軽く身を竦めて、軽く笑った。軽く謝ってから、さらに軽く言った。
「ひょっとして、味見してないのか?」
「だって、作ったのそれ1個だけだもん」
作ったのっていうか、出来上がったのが、だけど。でも、そんなこと言わないわよ。言うわけないでしょ、この状況で!
ちょっと差をつけてやっただけで、この体たらくよ。苦労して差をつけてやったなんて言ったら、どれだけ調子に乗るかしれないわ。
「うーん…」
ヤムチャは唸りとも頷きともつかない声を一つ上げただけだった。それでいて、またチョコレートを割り始めた。もう片足は組まれていない代わりに、今ではより深く背が壁に預けられていた。部屋に来た時とは打って変わって大きくなったその態度に、あたしの口は自制するまでもなく勝手に閉じられた。
本ッ当に、わかってないわよね、こいつ。調子に乗るにしたってさ、方向性が間違ってんのよ。なんかヤムチャって、付き合えば付き合うほどそれっぽくなくなっていってるような気がするわ。態度はくだけてきてるんだけど、むしろそのせいでそれっぽくなくなっちゃってるっていうか。だって、わかってないところだけはずーっとそのままなんだもん。しょうもないわねー。
怒りに呆れが混じり始めた。いつものことよ。いっつもこんな風に、何となく気分が流れていっちゃうんだから。でもまあ、いいわ。いつもだったら文句の一つも言ってやるとこだけど、今は大目に見てやるわ。
とにかく、あたしはバレンタインデーをこなした。初めてにしては立派なもんよ。ヤムチャは全然立派じゃないけどね。
心の中では突っ込みを入れながら、2口目のチョコを黙って頬張るヤムチャを、あたしは大目に見てやった。でも、3口目のチョコを手にしたヤムチャにそうしてやることはできなかった。
ヤムチャがそれを自分の口には運ばずに、あたしに差し向けてきたからだ。相変わらず、そしていつものように黙ったままで。
「いらないわよ。それはあんたの!」
散り散りになっていた自制心を掻き集めて、あたしは本来わかりきっているはずのことをわざわざ口にしてあげた。いくらなんでも、わかってなさ過ぎ。ショートケーキの上のイチゴと同じ扱いしないでよ。せっかく苦労して作ってあげたんだから、ちゃんと自分で食べてよね。
「だから、あげてるんだろ」
これまでわかってなさそうな態度を取っていた男は、今では自らわかっていないことを暴露していた。っていうか、言ってることの意味がそもそもわかんない。あたしが黙っていると、ヤムチャはさらにしつこく勧めてきた。
「いいから食ってみろよ。せっかくおいしくできてるんだから」
「しょっぱいってさっき言ったくせに」
「嘘だって言ったじゃないか。しょっぱくなんて全然ないし、ちゃんとうまいよ」
「『ちゃんと』?へぇ〜、ふう〜ん。『しょっぱくなくってちゃんとうまい』ねぇ〜。それはそれはわかりやすい感想をどうもありがとね」
あたしはここぞとばかりに、言葉尻を捉えてやった。さっきの仕返しよ。それともう2度とあんなことされないように。鉄は熱いうちに打てってね。来年も同じようなことされちゃあ堪んないわ。
ヤムチャはちょっと眉を顰めて、さらに言い続けた。
「あのなあ…おかしな裏読みするなよ。そういう意味じゃないって。っていうかな、作ったやつが疑ってどうするんだ。変だぞ。変っていうか、もったいないぞ。本当にうまいんだからさ。だから食っとけ」
まー、お喋り。おまけに珍しくちょっぴり強気。本当に調子に乗ってるわね。間違った方向に。
調子に乗るのはいいけどさ、正しい方向に乗ってくれないものかしらね。わかってないくせに、筋だけ通ってること言うのやめてほしいわ。ヤムチャってば、いっつもそうなんだから。わかってなくって、一見最もなことばかり言うんだから。『おいしいから食べろ』なんて無神経もいいところよ。そんな理由でバレンタインチョコをひとにあげていいわけないでしょ。この鈍感!
怒りと呆れの拮抗する、いつもの心境にあたしは到達した。自制心はもう残っていなかったので、自分の本来の資質に頼ることにした。そう、あたしは心の広い女神様よ。だからここは無視してやるわ。こんなくだらないケンカ、買ってたまるもんですか!
そんなわけで、あたしはまるっきり無視をした。するとヤムチャが、チョコを持っていた手を引っ込めた。はい、ちゃんと引いたわね。全然偉くないけど、とりあえずはよかったわ。これでバレンタインデーはバレンタインデーのままで終わった…
あたしはそう思ったのだけど、それはまだ早かった。次の瞬間、チョコレートが丸ごと手元に飛んできた。それから言葉も飛んできた。
「まあ、適当に食っとけ。一口二口と言わず適当にな。俺は今はこれ以上食えないから。そろそろ修行の時間だからな。…そうだな。俺はその、ハートの中でも特にハートの篭ってそうなところさえ貰えればそれでいいかな。真ん中の一番かわいいとこな」
「これは母さんがっ…」
同時にあたしの中の女神様も、どこかへ飛んで行った。それでもどうにか、あたしは踏み留まった。
…そういうこと書かなきゃダメって言うから。ちゃんと伝えなきゃダメって言うから。でもあからさまなのはちょっと、だから。だからその代りに――
なんて言うわけないでしょ!
「ママさんが?」
「…なっ、何でもないわよ!」
あー、もう!本当に、バレンタインデーって不公平!
なんだってこんなに一方的なのよ。どうして女の方だけが気持ちを示さなきゃならないわけよ。っていうか!ヤムチャもわかってるのかわかってないのか、はっきりしなさいよ!わかってたって、いちいちそういうこと言わないでよ!来年は唐辛子入れてやる!!
「ははっ」
「ちょっと!笑ってんじゃないわよ!!」
あたしは思いっきり怒鳴りつけてやった。わかっているらしいくせに笑みを零し続けるヤムチャの顔を。…ええ、わかってるわよ、こいつは。わかってないやつが、こんな風に笑うもんですか!だけど、わかっててよかったなんて思わないわ。そんなこと思えないわよ。だって、間違ってるもん。わかってるやつの取る態度じゃないでしょ、それ。わかってるんなら、ちゃんとそれらしくしなさいよ。本当に馴れれば馴れるほど、それっぽくなくなっていっちゃうんだから…
「笑わないでったら!いい加減にしないと、このチョコ取り上げるわよ!!」
「ああ、ごめんごめん」
あたしがついにその台詞を口にすると、ようやくヤムチャは笑うのをやめた。そして軽く頭を掻いて、軽く謝った。その後また当然のように軽く笑ったので、あたしは言ってやった。
「ほんっと、あんたって、デリカシーの欠片もないわね!」
「デリカシーがない?…一体どこが?」
「何もかもがよ」
「…そうか?」
「自覚してないのがその証拠よ」
「うーん…」
唸りとも頷きともつかない声を、ヤムチャは上げた。それから軽く頭を掻いて、軽く首を捻った。軽く息を吐いてから、軽く言った。
「ま、いいさ。とにかくサンキューな」
そして、軽くあたしの頭を撫でつけて、軽くあたしの頬にキスをした。
一瞬だけ、あたしはぼうっとしてしまった。だって、突然過ぎるんだもん。っていうか、遅いのよ。初めから、そういう態度に出ておけばいいのに。デリカシーないっていうより、ズレてるのよね…
「じゃあ俺、行くな。あ、そのチョコ他のやつにはやるなよ。それから全部食っちゃダメだぞ。預けるけど、やるわけじゃないんだからな」
今ではヤムチャは完全に、わかっていることを告白していた。あたしは何とも言えない気持ちで、ヤムチャの手がドアにかかるところを見ていた。ほっとしたような惜しいような、そんな気持ちで。
淡々と、ヤムチャはドアを開けた。淡々と、その足を部屋の外に向けた。あたしが視線を手元のチョコレートに移しかけた時、淡々とした、それでいてどこか優しげに聞こえる声が耳に届いた。
「なあ、ブルマ」
「何?」
それであたしは視線を戻した。軽いとは言い切れない、薄い笑いを浮かべたヤムチャの横顔に。
「去年、ごめんな」
自分が目を瞠っていることを、あたしは自覚していた。自分が答えずにいる理由も、わかっていた。自制心や女神様の仕業ではなかった。そんなものはすでにあたしの中にはなかった。例えあったとしても、きっと同じ反応をしていたに違いないことも、わかっていた。
そのまま黙って、温い風に髪を戦がせながら部屋を出ていくヤムチャの後ろ姿を見た時、あたしはちょっぴり後悔した。
…カード、入れておけばよかったな。
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