竜変の男
朝、キッチンでコーヒーを飲みながら考えた。…今日って何日だったっけ。
その後、みんなと一緒に朝食を摂りながら考えた。…朝っぱらからよくそんなに食べられるわね。
日光浴がてらテラスでお茶を飲みながら考えた。…いつもいつも同じようなことばかりやってて飽きないのかしら。
惰性で昼食の席につきながら考えた。…こいつって、本当にマイペースなんだから。
3時にケーキをつつきながら考えた。…あたし今日、お茶ばかり飲んでるわね。

つまり、あたしは退屈だった。
だから、思いっきり退屈そうにしていた。主に誰かさんへのあてつけとして。あたしはこんなに退屈してるのに、ヤムチャはまったくいつも通りにトレーニングなんかしてたから。彼女が退屈してる横で、自分だけ満足そうに爽やかな汗掻いちゃってさ。これがデートだったら、間違いなくフラれてるわよ。せめて声くらいかけなさいよね。ま、『一緒にやるか?』とか言われても、絶対に断るけど。うちにいる時くらい、そういうボケに付き合わせるのは、なしにしてほしいわ。
3時のお茶の後で、さらにソーダを一缶開けた。一人テラスに陣取って、沈む夕陽が薄い雲の向こうに隠れていくのを見ていた。そしてそれがほとんど消えかかった時、ついに耐えきれなくなった。
「ねえ、ヤムチャ。映画観に行こ、映画」
だから、散歩ついでに外庭まで足を伸ばして、やっぱりまだそこにいた男に、当然の要求をしてみた。ヤムチャはゆっくり手を止めて、ちょっぴりだけ意外そうな目であたしを見た。
「映画?今から?もうすぐ夜だぞ」
「オールナイトのやつ」
「オール……ちなみに、ジャンルは?」
「恋愛映画」
別にどうしても映画が観たいってわけじゃない。特に恋愛映画じゃなきゃダメっていう心境でもない…ことはないか。これは代償行動ってやつね、きっと。
「今日一日すっごく退屈だったんだから。あんた、あたしのこと放っておきっぱなしだったんだから、夜くらい付き合いなさいよ」
「うーん…」
あたしは誘っていたわけではなかった。そんなこと、ヤムチャにだってわかっていたはずだ。でも、ヤムチャは珍しく渋った。
「明日にしないか?昼間にゆっくり…」
「いや!あたしは今、退屈なの!」
明日は明日でいいけどさ。あたしは今のこの気分をどうにかしたいのよ。
「うーん…まあ、とりあえずお茶でも飲みながらゆっくり話さないか?」
「そんなの飲み飽きちゃったわよ」
1つずつ、あたしはヤムチャの逃げ道を潰していった。ちょっと面倒くさくはあったけど、苛々したりはしなかった。だって、勝ちが見えてるから。流そうとしなかった時点で、ヤムチャの負けよ。『今日は疲れてるから』。その台詞を使えないところが、ヤムチャの弱いところよ。どれだけトレーニングした後でもすっごく元気だってこと、あたしは知ってるもんね。
「じゃあ、もうじき夕食の時間だから、その後で決めよう」
「ダメ!今決めるの!」
ようやく思い至ったらしいその一手も、あたしは封じ込めた。たぶん次あたりは映画の内容に触れてくるはずよ。ヤムチャって、恋愛映画苦手だから。
もう勝ったも同然ね。そう思って息を吐いた時、後ろから声が飛んできた。
「おお、いたいた。ブルマ、ちょっといいかね?頼みたいことがあるんだよ」
「いいけど、手短にしてよ。あたしは今、ヤムチャと今夜の予定を立ててるんだから」
あんまり長く話し込まれると、その間に逃げられちゃうからね。そのことだけを気にしながら、どこからともなくやってきた父さんに顔を向けた。でもそうしてしまったことを、次の瞬間後悔した。
「その今夜なんだがね。ちょいとパーティに顔を出してくれんかな」
「えぇー?何よ父さん、またダブルブッキングしたの?しっかりしてよ、もう。だから秘書つけろって言ってんのに」
「何人もつけたんだがね。どうしてか、みんなすぐに辞めてしまうんじゃよなあ」
「それは父さんがネコの世話とかさせるからでしょ!いい加減、会社にネコ連れてくのやめなさいよ!」
「そうは言っても、社長室にいると退屈でなあ。みんなは一体どうやってヒマを潰しているんじゃろうねえ」
元より緊張感のない顔をしている中年が緊張感のないことを言う様は、本当の本当に緊張感がなく感じられた。普通は社長の秘書って言えば、出世への階段だと感じるはずなんだけど。こんなボケたじいさんみたいな社長にネコの世話なんかさせられちゃ、どうしたってそうは思えないわよね。
「しょうがないわね。一時間だけよ。そのくらいでいいのよね?」
無視しとけばよかった。あたしはそう思いながら、渋々現実を受け入れた。
一応親だから。というより、社長だから。親の顔を立ててあげようなんてこれっぽっちも思わないけど、C.Cを潰されちゃかなわないわ。あたしはお嬢様でいたいのよ。
「それで充分じゃよ。ほい、ポケットピストルと短縮のみの業務用超小型携帯電話。もし何か文句を言われたら電話しておくれ。1番はわし、2番は家だからね」
「どうして家の番号が入ってるのよ!家にいるなら自分で行ってよ!」
「念の為じゃよ、念の為」
「それに、ポケットピストルなんてどうするのよ?」
「これはな、ドレスの胸元から取り出すんじゃよ。ちらりと肌を覗かせながらな。あくまでちらりとじゃぞ。ギリギリ見えそうで見えないのがたまらな…」
「一体何の話をしてるのよ!!」
っていうか、娘にさせないでよ、そんなこと!立てるも何も、親の顔そのものがないじゃないの!
「やれやれ、おっかないのう。一体反抗期はいつになったら終わるんじゃろうなあ。これじゃあヤムチャくんも大変じゃろう」
「行くのやめるわよ!!」
はぁー。
我ながら深い溜息を、あたしは吐いた。どうして子どもは親を選べないのかしら。お金持ちじゃなかったら、とても我慢できない環境よ。時々、自分がまっとうに育っていることに自分自身で感心するわ。
「まあいいわ。痴漢除けに貰っておくわ。パーティっていつ行ってもオヤジの巣窟なんだから」
うちの父さんみたいなね。
色気のないパーティグッズを受け取ると、父さんはさっさとうちへと戻って行った。きっと、別のパーティに行く準備をする為よ。そうであることを願うわ。もし電話した時うちにいたりしたら承知しないからね。
後には当然、あたしたちが残った。あたしと、殊勝にも逃げなかった逃した獲物が。
「あんたも行く?」
なんの気なしにあたしは訊いてみた。…ううん、まだ完全には切り替えられていなかったのかもね。ヤムチャはやや伏し目がちに、呟くように言った。
「…行った方がいいのか?」
質問の形を取った、拒否の言葉。それにあたしは、溜息をつくことなく答えた。
「いいわよ別に、無理して付き合ってくれなくても」
だいたい予想通りよ。まあ、ちょっと強引に誘えばきっと来るんでしょうけど。そこまでするものでもないわ。連れてったって、見せびらかすような相手もいないし。本当に会社関係のパーティって、オヤジの巣窟なんだから。
「そのかわり終わったら食事付き合って。たぶん小腹埋めてる暇ないし、それにせっかくドレスアップするんだから」
それでも、一度は引いた釣り針をあたしは再び投げ入れた。理由は口にした通り。父さんっていつも、日付どころか時間が押し迫ってから言い出すのよ。きっともう、すぐにでも行かなくちゃいけないわ。…それとヤムチャが、あからさまに安心した様子を見せ『なかった』から。
なんていうのかしらね、こういうの。素直じゃないっていうのとも違うし。手応えあるっていうほどの態度じゃないし。まあとにかく、隙ありよ。
「ちゃんとシャワー浴びてね。それからこないだ買ったブルーのジャケット、あれ着てきて」
「はいはい」
「『はい』は一回!」
「はいはい」
ヤムチャは非常に好ましくない態度を取りながらも、トレーニングを切り上げて、あたしと一緒にうちの方へと歩いた。
シャワーを浴びて、自分を引き立てるジャケットを着て、あたしからの電話を待つためよ。言うまでもなくね。


光沢の弱いミッドナイトブルーのチューブロングドレス。同色のシフォンのアームストール。髪は首筋を露出しないハーフアップ。
慣れない頃はうっかり赤やグリーンのドレスを着ていっちゃってたものだけど、今ではこれが定番。あたしは派手顔美人なんだから、せめてドレスは抑えめにしなきゃ。目立ったっていいことないのよ。っていうか、目立つほどにいいことないのよ。酔っ払ったオヤジくらい、しょうもないものもないんだから。…いえ、酔っ払ってもいないのにしょうもないじいさんよりは、まだマシかしらね。
ともかくも、自分でもどうかと思っちゃうほど色気のないドレスを身につけて、さらに色気のないパーティグッズの一つをドレスの中に隠すと、ヤムチャが呆れたように呟いた。
「それ、本当に仕込むのか」
「だって、見えるところに持ってなきゃ、相手をビビらせられないじゃない」
あれよ。ランチさんが銃をちらつかせるみたいな感じよ。最もランチさんの場合は、銃が見えたと思った途端に撃たれるけど。あたしは撃たないわ。撃ちたくないからこそ、前もって見せておくのよ。と言っても、覗き込まなきゃ見えない場所だけどね。つまり、そういう風にあたしの胸を見たやつだけがビビるっていう寸法よ。あー、焦りまくるオヤジ連中の顔が目に浮かぶ。思いっきり酔いを醒ましてやろっと。結構使えるわね、このポケットピストルって。やり方もスマートだし。父さんあんなこと言っちゃって、自分で自分の首を絞めてるって、わかってるのかしら。わかってないでしょうね、きっと。
楽しいというほどではないにしてもどことなくおもしろいような気分に、あたしはなってきた。でも携帯電話を入れたパーティバッグを手に出陣の声を上げかけた時、ふいに気づいた。
「ちょっと、何よその顔?」
ヤムチャがあからさまに浮かない顔をしていることに。思いっきり眉を寄せたその表情に、あたしは見覚えがあった。もう、ヤムチャってば往生際が悪いんだから。
「ん?いや…俺、やっぱり…」
「今さらデートのキャンセルはなしよ」
あたしはまた一つ、ヤムチャの逃げ道を潰してやった。逃げ道っていうか、逃げ口かしらね。たいして気乗りしないんなら、さくっと断っちゃえばいいのに。昔はよくそんな風に思ったものだけど(特にハイスクールの頃)、今は違うわ。やりやすくて結構なことよ。はっきり言って、土産話になると思えばこそ、あたしはこんなに前向きにオヤジの相手をしようという気になってるんだから。パーティに銃を携行していくなんて、本当ならおもしろいはずもないわよ。どうして本来人と出会うべきパーティで、人を撃退しなくちゃならないわけ。もうほんっと、少しは若い男がいたらなあ。…おっと、話が逸れたわ。とにかく、ヤムチャはそういう色気のない話好きだからね。好きっていうか、色気のある話に乗ってこないだけだけど。
「じゃあね。遅くても、一時間半後には電話するから。ちゃんと用意しといてよ。オーシャンブルーのジャケットだからね!」
ヤムチャはそれ以上何も言ってこなかったので、あたしはさっさと今夜の予定を口にした。そしてそのまま部屋を出た。
ヤムチャって、場を流すことはうまいくせして、流されるのにも弱いんだから。調子いいんだか悪いんだかわかんない性質だけど、こういう時はやりやすくて結構なことよ。




あー、お腹空いた。
一切の色気を持ち合わせずに出席したパーティで、自ずと湧いてくる食い気を、あたしは非常に持て余した。
お茶は飲んでたけど、食べ物はほとんど食べてなかったからなあ(水っ腹で、お腹が空かなかったのよ)。お腹鳴っちゃったらどうしよう。一時間と言わず、30分くらいで切り上げちゃおうかしら。
自然と行きついたその考えを実行するため、まずはパーティ会場を隅から隅まで見渡した。とりあえずそこそこ格のある人物にだけ顔を見せておけばいいのよ。…招待主と政界の人間くらいか。このパーティ、レベル低いわねー。格のある財界の人物、ほとんどいないじゃない。ライバル会社はいるけど、それだって格が下だし。ひょっとして来なくてもいいレベルなんじゃないのかしら。父さんもそういうの見極めてから招待受ければいいのに。おまけにダブルブッキングなんかしちゃってさ。本当に考えなしなんだから。だから秘書つけろって言ってんのに…
ひたすらに父さんの悪口を心の中で呟きながら、あたしは会場を一周した。そして最後に、一応確認してみた。
もしそうだったらこういうパーティも少しは楽しくなるのに。これまで何度か、そして今日もやっぱり思ったそのことを。
いい男、いないかしら。
せめて若い男。話ができそうな若い男。お腹空いてるから、カクテルで時間潰すのちょっと辛いし。あ、ボーイハントしたいっていうわけじゃないのよ。別にあたし、男に飢えてないから。じゃあなぜ若い男を探すかっていうと、若い女はいないからよ。中年の女ならいるけど、中年の女と話が合うことなんてほとんどないわ。そんなのどこの世界だって同じよ。だから若い男。そしてどうせ探すのなら、いい男の方がいいじゃない。
…そんなの、どうせいやしないんだけど。
いつもの結論に、あたしは落ち着きかけた。虚しく空のカクテルグラスをボーイに戻したその瞬間、いつもとは違う現実が目に入った。
小物財界人たちがひしめき合う会場の隅。いくつかできている人の輪の陰に隠れるように佇んでいる一人の男。
あらら。あーらら。
いい男、いるじゃなーい。
あたしの3大フェイバリットにばっちりハマってる。金髪に青い瞳、鳶色の髪に緑の瞳。もう一つは言わないでおくわ。とにかく、その筆頭よ。掃き溜めに鶴ってこういうことを言うのね。
一体、どこの誰かしら。見たことのない顔よね。パーティの面子って、いつもそんなに変わらないんだけどな。肩書きのレベルが変わるだけで。あたしが来させられるのは、たいてい今日みたいなたいしたことない顔ぶれのパーティばっかりだし。誰かの秘書かしら。それともあたしと同じ二世とか。
そんなことを考えながら、あたしは件の男の斜め横へと移動した。別に何もしやしないわよ。ちょっと近くで見るだけよ。だって、好みのタイプなんだもん。ここまで揃ってるのって、そうそういないもの。
きらきらと照明に透ける細い金髪。限りなく透明な青い瞳。すっきりした顔立ち。それでいて漂ってくる甘い雰囲気…いい。すっごくいい。もし今フリーだったら、絶対この人に声かけてるわ。
「どうぞ」
囁くようにそう言って、カクテルグラスを掲げる姿。そつがない仕種。丁寧な、でもマナー以上のものを感じさせる甘い声。ああ、話してみた〜い…
「今日はお父上の代理ですか?ブリーフ博士は5都合同レセプションにご出席なさっていますよね」
…って、あら?
あたし?
「先ほどTV中継されていましたね。ニュースにも出ていましたよ。やはり世界のC.Cともなると違いますね」
ふーん。そうなんだあ。
父さんってば、そんな派手なことしに行ったんだ。あたしにこんな場末のパーティ押しつけてさ。ズルイわねー。だいたいTVに映るんなら、あたしの方が適役なのに。あんな白髪の中年よりも、若くて美人のあたしの方が絶対に画面映えするのに。
「私も二世なんですよ。最もC.Cとは比べものにならない小さな会社の三男ですが」
どこの二世も似たようなもんね。面倒なことばかり押しつけられちゃってさ。と言いたいところだけど、違うわね。三男なのにパーティに出てるってことは、めちゃくちゃやる気あるじゃない。
心の中ではいろいろと考えながら、表向きは優雅なレディとして、あたしはこの降って湧いた夢のような社交場を楽しんだ。そう、ほとんど夢よ。華やかなパーティで出会う、若い男と若い女。世の中ではそれが現実みたいに思われてるけど、そんなこと万に一つもないんだから。…少なくとも、あたしが行かされるようなパーティでは。そして今はその一つってわけ。きっと神様の計らいね。しょうもない父親をフォローする健気な娘に、ロマンティックな夢のご褒美をくれたのよ。あー、ヤムチャ連れてこなくてよかった。
心浮き立たせる甘い夢。それはなかなか終わらなかった。むしろさらに広がった。丁寧なそれでいてマナー以上のものを感じさせる甘い声が、本当にマナー以上のものになったのだ。
「父はレストランとバーを経営しているんです。よろしければ、この後お相手願えませんか」
あらら?
「このエリアにも数店構えています。すぐにでもお席をご用意できますよ」
あららららー。
なんて素敵なお話。そうね、レストランはダメだけど、バーで一杯飲むくらいならいいかも。それくらいの時間なら、きっと誰にもバレないし。今日、ちょっとそういう気分だし。ここんとこしばらく、外でお酒飲んでないし。それに外でお酒飲んでも、なんかノリ悪くって。あたしがどんなに話してても、相槌しか打ってくれないのよね、ヤムチャのやつ。
あたしは思わず考え込んだ。でもそれもほんの少しの間だけ。柔らかそうな細い金髪の下にある、あたしを見る優しい青い瞳を見た瞬間、あたしの心は自ずと定まった。
…やめた。
やっぱりやめた。惜しいけどやめた。もったいないけどやめた。だって、ヤムチャ待ってるもん。全然気乗りしてなかったみたいだけど、きっと待ってるもん。っていうか、絶対待ってる。そんなことわかってる。あたしが待たせてるんだからね。
ちょっと考える振りしてみただけよ。あんまりおいしい話だったもんだから、つい、ね。それくらいしてみたって罰は当たらないでしょうよ。
「ごめんなさい。この後、約束があるの。そろそろ行かないといけないから」
「そうですか、それは残念です。まだパーティもたけなわだというのに。抜け出すのなら裏口から出た方がいいかもしれませんね。フロントを通るときっととめられますよ。C.Cのご令嬢を主催者が見逃すとは思えませんから」
「あら、そうね。それはお気遣いどうもありがとう」
「約束の場所までお送りしましょう」
まー、なんて隙のない騎士道精神。そしてこの流暢に流れる会話。スマートな男っていいわね〜。やっぱりヤムチャ、連れてくればよかった。連れてきて見習わせてやればよかったわ。
いい男と過ごす一時の時間。そしてこの後に控えている、わりといい男と過ごすそれなりの時間。あー、あたしって幸せ者。…ひょっとしてフリーだったらもっと幸せになれたのかもしれないけど。まあ、それは考えないでおくわ。
「裏のパーキングに車を用意してあります。どうぞそちらに」
「いえ、ここでいいわ。どうもありがとう」
土産話にできないわね、これは。最後にそう思いながら、あたしはパーティ会場の裏口を抜けた。いい男に見送られて。そしてわりといい男に電話をするため、いい男に背を向けかけた。その時だった。
口元に、そのいい男の手が当てられた。…ロマンティックには程遠いやり方で。
ほとんど真後ろから伸びてきたその両手は、あたしの口を封じ切れなかった。バッグを漁るため上げたあたしの右腕が、偶然その腕を振り払った。あたしは即座に、自分の唇に触れる男の指先を噛んだ。
「つぅっ…!」
そして、バッグに突っ込みかけていた右手を閃かせた。
「この女!」
ばっちりヒットした左の頬を擦りながら、元いい男が叫んだ。おかげさまで殴るのだけは一級品よ。ヤムチャとそのエロい師匠のおかげでね!
「待っ…!」
つわけないでしょ!
「くそっ!」
男の口車に途中まで乗ってしまったことを後悔しながら、あたしは薄闇の中、路地裏を走った。パーティ会場の裏口は、表通りには続いていなかった。…ありえない出会い。表通りに出られない裏口。裏のパーキングに用意された車。――完全に計画的犯行よ。フラれた腹いせとかじゃないわ。
誘拐かしら。でも、いくらC.Cの一人娘ったって、あたしもう子どもじゃないのに。金持ちの娘なんて他にいくらでもいるのに、何もこんな公の場で、わざわざ立派なレディを誘拐しようとしなくても。そんなの、あまりにもリスク高過ぎ…
っていうか。追っかけてき過ぎ!
そう、男の足音はいつまで経っても消えなかった。いつまでも、どこまでも。…何考えてんの、この男。しつっこいわね!いい加減に諦めなさいよ!!誘拐なら、もう完全に失敗してるじゃない。普通は騒がれた時点で引くもんでしょ。ここはひとまず引いてやり直しなさいよ。他の娘に!
ふいに路地が二股に分かれた。一方はこのまま直進の、相も変わらず狭い路地。もう一方の、右手に開けた場末のビル街を、当然あたしは選んだ。数mを走った時、強いビル風が吹き抜けた。
「あー、もう!」
風を受けるアームストールを、あたしはすぐに脱ぎにかかった。肌に纏わりつくストールから腕を抜くため体をよじると、それまであたしの二の腕があった場所を、もう一つの風がすり抜けた。
…嘘。
どこへともなく消えていく、銅色の塊。銃弾……何考えてんの、こいつ!どうしてこの状況で撃ってくるわけ!?こんな、どこに当たるのかもわからない状況で。死んだらどうしてくれんのよ!っていうか、死んじゃったら人質も何もないじゃない。そんなのただの殺し…
…まさか。
さらにもう一発、弾が飛んできた。足元ではなく、頭上に。避けることなくそれを見送ったあたしの右脇に、3発目の弾。もう疑う余地はなかった。
こいつはあたしを足止めしようとしてるわけじゃない。人質を足止めしようとして撃つバカはひょっとしたらいるかもしれないけど、人質を足止めしようとして胸や頭を狙うバカがいるはずないじゃない。…こいつは、あたしを殺そうとしてる…!
なんで?どうして?あたしは一応考えてみたけれど、実のところそうするまでもなくわかっていた。男は中途半端に本当のことを漏らしていた。…世界のC.C。ニュースに取り上げられるほどの格。二世。まったく現実離れしてるって思うけど。おまけにいつの時代のやり方だっていう話よ。だけど、有効であることには違いない。
4発目の弾が飛んできた。あたしは叫び出したい思いを堪えて、目についたビルの開けっ放しになっているドアの向こうへ飛び込んだ。
冗談じゃないわよ!!
勝手に決めつけないでほしいわね。あたしは後を継ぐなんて、一言も言ってないのに。父さんもそういうこと、ちゃんと言っておいてほしいわ!!
そうだ。父さん――
奇跡的に手放さなかったパーティバッグの中身を、あたしは即座に床にぶちまけた。フロントの前に飛び散らかった 中身の中から超小型携帯電話を拾い上げた時、金色の髪がドアの外にちらついた。その青い瞳に捉えられてしまう前に、階段を駆け上がった。今のこの状況の元凶とも言うべき人物への回線を開きながら。
短縮のみの業務用超小型携帯電話。入力装置を省いて通信機能だけを搭載した超軽量カード型。通信はボタン一つ。回線速度も超速。警察の番号さえ入れておけば完璧だったのに…
「父さん!あたしよ!警察に――」
『おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか電源が入っていない為かかり…』
「クソ親父!!」
さては電源切ってるわね!!たかがレセプションと娘とどっちが大事なのよ!!何が『電話しろ』よ。あんの大嘘つき!!
電話を床に叩きつけたい衝動と、あたしは戦わなかった。そんなことをしているヒマはないわ。とはいえ、辿り着いた2階の端にあったエレベーターはチェックした。見たところ稼働しそうな気配はない。そうでしょうね。ドアが開いてたくらいだもの。廃ビルか。電話、ないわよね当然。
えぇい、さっさと出てちょうだいよ。そう思いながら、2番の回線を開いた。
「はい、もしもしC.Cです」
期待を裏切らない短いコール音の後で耳に入ってきたものは、今のあたしの心境にはまったくそぐわないものだった。この上なくのんびりとした、和やかでかわいらしい声。でも今のあたしには、それに何かを感じている暇はなかった。
「プーアル!あたしよ、ブルマ…きゃっ!!」
5発目の弾が壁に当たった。フロア端に立っていたあたしの頭の横30cm。外れたとはいえ驚かされるには十分だった。さっきあたしが上ってきた階段に、首から上だけの男の姿が見えた。
ちょっと、何その荒っぽいやり方!普通、その位置からは撃たないでしょ。それに、さっきからずいぶんと気楽に撃ってくれちゃって。そんなにいっぱい弾持ってきてるわけ!?
思わず落としてしまった携帯電話を拾い上げて、あたしは走った。犯人が上ってきたものとは別の、もう一つの階段へ向かって。すかさず電話を耳に当てると、回線はまだ繋がったままだった。もう一度呼びかけようとしたその瞬間、明らかに沈痛なヤムチャの声が聞こえた。
「ブルマ、大丈夫か?まさか弾が当たったんじゃないだろうな?」
その台詞にかなり驚かされながらも、あたしは口ではこう答えた。
「わかってんなら早く来てよ!」
直後、6発目の弾が当たった。あたしの真上の天井の壊れた照明に。
「きゃあぁぁぁーーーーー!!」
降り注ぐガラスの欠片。思わず瞑ってしまった目。反射的に頭を覆う腕。やめざるをえない通話。
「おいブルマ!どうした!一体何をやってるんだ!?」
頭上の手の中の携帯電話の向こうで、ヤムチャが叫んだ。すぐにあたしも、心の中で叫んでしまった。
もうー!
一瞬、エスパーかと思ったのに。そりゃ、そうじゃなくたって文句なんか言わないけどさ。
そして、そんなことを言っているヒマもない。
「殺されそうなの!!」
足は3階へ、目は背後に迫る男へ、耳は電話の向こうのヤムチャに向けながら、あたしは叫んだ。
「父さんのせいで!警察に電話して!場所はウェストエリアのビル、ストリート裏の――あっ!」
7発目の弾が、真横の壁に当たった。驚きのあまり緩めてしまった手の中から、携帯電話が滑り落ちた。それは上がり途中の階段を転がり落ちて、男の足元でとまった。
「ブルマ!ブルマ!!ウェストエリアだな!?待ってろ!すぐ行くからな!」
最後に聞こえたその言葉を心に刻みつけながら、あたしは3階へと駆け上がった。


それから5分ほどの間に、あたしは1ダース以上の銃痕を目にした。
階段は両手足の指の数近く駆け上がった。途中でドレスの裾に自らスリットを入れた。靴を投げつけた。暗闇に光るアクセサリーを、男の目につくところに捨て置いてもいった。
どうしよう。どうしよう。
通信手段はない。銃声は響いているはずなのに、誰もやって来ない。そう、誰も。…ヤムチャのバカ!すぐ来るって言ったくせに。嘘つき!!父さんもよ。何が『電話しろ』よ。したわよ。でも、出ないんじゃ意味ないでしょ!誰も彼も口先ばっかり。中でも最悪なのは、あの男。思いっきり騙してくれちゃってさ。最後まで騙されてなかったのが唯一の救いだわよ!
一体、あたしが何をしたっていうのよ?何にもしてないわよ。何にも悪いことしてないわよ。あたしは父さんのやり漏らした仕事をしただけ。話しかけられたから話しただけ。なのにどうして、こんなことになってんの?全部断ればよかったの?そうかもしれない。何もかも断って、ヤムチャと一緒に映画観てればよかった。父さんなんか無視して、だらだらと今夜の予定を話し込んでいればよかった。ただ一緒に家にいればよかった…
…やだ。涙出てきちゃった…
じわりと滲んできた涙は、でも零れるほどのものではなかった。だから、あたしはそのままにしておいた。いいの。どうせ誰もいないし。そう、誰も。あの男以外は。
…ああ、疲れた。お腹空いた。足痛い…………
ごちゃごちゃとダンボールや機材のひしめく倉庫らしきフロアの片隅に、あたしは座り込んだ。もうこれ以上することはない。逃げること以外には。でも、ここは隔離された場末のビル。それもいつか行き詰る…
今、自分自身のいる世界を、あたしは見回した。窓の外は漆黒の空。明かり一つ射さない真っ暗なフロア。あたしのドレスも夜の色。何もかも黒一色の世界。…なのにどうして、それだけがないのかしら。
あたし、そんなに高望みしてないと思うんだけどな。ただ一緒に映画行こって言っただけだし。強引だったけど、嫌だってはっきり言われたら引くつもりだったし。あいつ、体力バカだし。空飛べるし。きっとあんな男、敵にならないくらい強いのに。なのに、なんで来ないのかしら。
ヤムチャを疑ってるわけじゃない。きっと、神様のせいよ。神様が意地悪してんのよ。さっきあたしに夢を見せて、その後落としてくれたみたいにさ。
ただ一つわからないのは、どうしてあたしがそんなことされなきゃいけないのかってことだけど。だって、あたし何もしてないのに…
あたしが考えることをすらやめようとしたその時、世界の片隅に音が響いた。
銃声じゃない。静かな足音。男があたしを探してる。階段を上りきった。それ以上、上へ行くのをやめた。あたしのいるフロアにやってきた。…もうダメ。きっと絶対見つかっちゃうわ。そしてそのまま殺される。ああ、あたしの人生ここで終わるのね。短い生涯だったわね。美人薄命って本当ね。…最後にイチゴ食べたかった。最後に……
あたしは思い浮かべていた。思い浮かべるしかなかった。思い浮かべながら、隠れていた機材の陰から少しだけ顔を出した。ほとんど諦めの気持ちで。
薄く射し込んできた月明かりに照らされて、フロアの真ん中を歩いている男の姿が見えた。パーティで見た時とは別人のような、冷たい雰囲気。無造作に構えられた、黒光りする銃器。少し乱れた細い金髪の下にある、あたしを探す青い瞳。それを遠目に見た瞬間、あたしの心は自ずと切り替わった。
…………あったまきた。
なんであたしが、こんな目に遭わなくちゃならないのよ。なんだって、こんな気分を味わわなくちゃいけないのよ。どうしてあたしがこの世で最後に見るものが、あんなやつの顔なの。どうしてよりにもよってあんな男の瞳なのよ。
銃ならあたしだって持ってんのよ!…ポケットピストルだけど。命中精度めちゃくちゃ低いけど。弾、4発しかないけど。だけどやってやる。そうよ、時間くらい稼いでやるわ。
だって、ヤムチャは来るもん。絶対に来るもん!あいつは、やる時はやるやつだもん。っていうか、そうであってちょうだいよ!!
あたしはもう隠れることをやめた。上半身を完全に機材の陰から出して、ポケットピストルのトリガーを引いた。やり合うとなれば先手必勝よ。あたしはそれを、よーく知っているのよ。
自分の撃った弾がどこへ行ったのか、それはあたしにはわからなかった。でも銃声を響かせた直後、床に伏せながら撃った男の弾の行きついた先はわかった。あたしと機材から反対方向の、半mは離れたダンボールの角――
…オッケー!
いけるわ。思ってたよりもずっといい。当たる気はあんまりしないけど、あいつの姿勢を崩すことならできそう。だいたいあいつ、射撃の腕てんでないんだから。さっきから軽く2ダースは外してるわ。絶対にあたしの方が腕は上よ。あたしは当てたことあるもんね!…孫くんに。よーし、こうなったら絶対に時間を稼いでやるわ!
機材とダンボールの陰を走って、階段へとあたしは向かった。足が痛いけど、これは生きてる証拠。お腹ペコペコだから、フルコースで食べちゃお。そしたらその後、ゆっくり疲れを癒してもらおっと!
2発目の弾を放ってから、階段を駆け降りた。途端に銃声が鳴り響き始めた。でもあたしはその弾痕を見ることはなかった。下手な鉄砲どころか、届いてさえいないから。うんと焦ればいいのよ。そしてうんと撃てばいい。弾がなくなるかもなんて思ってない。誰か来てくれるかもなんて、もう期待しない。あたしがここにいるってわかればいいの。他の人間は逃げたって、ヤムチャは絶対に来る。あいつは銃声なんか、屁とも思わないんだからね!
あたしはひたすらに、階数を数えた。両手の指ほどの数の階段を降りた時、3発目の弾をチェックした。ひょっとして、このままビルを出られるかも。だけど、問題はその後よ。路地に出たら、なんとしても距離を稼がなくちゃ。撃ちまくられる前に、どうにかして当てなくちゃ。まったく、一体何発持ってきてるのよ。腕なんか全然ないくせに。あたしに半分よこしなさいよ!宝の持ち腐れってこのことだわ。
あたしは今やすっかり冷静になっていた。もはや余裕すら感じられた。そしてそのことを、次の瞬間後悔することになった。
完全に見落とした。階段の、最後の一段を。
「きゃぁっ!」
思いっきり床に叩きつけられた。手からポケットピストルが零れ落ちた。瞬時に銃声が響いた。
…ヤバ!
暴発しちゃった。貴重な一発なのに…
自分の迂闊さを、あたしは呪った。でもそれも、ほんの一瞬だけ。すぐにポケットピストルを拾い上げて、最悪の形で辿り着いたフロアへ足を踏み入れた。
背後に自分のじゃない銃声が迫ってきたから。それと――
僅かに血の滲む右足が、だいぶん痛かったからだ。


何分経ったかなんてわからない。あたしはただひたすらに銃を構えて、鳴り響く銃声を聞いていた。いつまで経ってもビルの外には出ていかない銃声を。
入り込んだフロアには、何もなかった。デスクの一つすらも。この上なく開放的なホール。男が目もくれずに階段を降りて行ってくれたことだけが、唯一の救い。
どうしよう。
当たらなかったらどうしよう。きっともう逃げられない。逃げたって走れないんだもの、絶対いつかは当たっちゃう。そしてそのまま殺される。あたしの人生ここで終わるの?こんな場末のビルの片隅で?まだこんなに若くて美しいのに?やだ。そんなのやだ。だいたい、あたしは決めてるのよ。死ぬ間際には、絶対にイチゴを食べるって。そして愛する人に看取られて、静かに目を閉じるの。それはもう美しくね。もし愛する人が先に死んじゃってたら、別の愛する人を見つけるわ。とにかく、一人で死ぬのはごめんなのよ。殺されるのなんか、まっぴらごめんなのよ!
あたしは延々と考え続けた。もう、それしかすることがないから。…ひょっとして、死んでもドラゴンボールで生き返らせてもらえるかしら。ありね。それは大ありね。ドラゴンレーダー、父さんにだって作れるわよね。まさかそれまで無視しないでしょうね?そんなことしたら、夢枕に立ってやるから。作るまでずっと呪ってやるから!それから、ヤムチャもよ。あいつ、どうして来ないのよ。すぐ来るって言ったくせに。口先ばっかりなんだから。ヤムチャのバカは、父さん以上に呪ってやるわ。それはもう、何もかも呪ってやる。新しい恋人なんて、作らせてやらないわよ。一生、夢枕に立ってやるわ!
でも、本当はそんなことしたくない。夢枕になんか立ちたくない。あたしは生きていたい。もし生き返らせてもらえるとしたって、死にたくなんかない。殺されたくなんかない。だって、あたし何にもしてないもん。高望みだってしてないわ。ただちょっと、構ってほしかっただけだもの。一緒にごはん食べたいだけだもの。一緒に眠りたいだけだもの。ただ一緒にいたいだけだもん…
また涙が出てきた。頬に零れ始めたそれを、あたしは拭わなかった。銃を構えていたから。当たらないかもしれないけど、構えを解く気はない。響き渡る銃声から、耳を塞ぐつもりもない。
いろいろと考え込みながらも、あたしは耳だけは澄ませていた。だから、それが聞こえた。…ような気がした。
考えることをきっぱりやめて、さらに耳を澄ませた。そしてやがてその声が窓の外にはっきり聞こえた時、あたしは思わずポケットピストルを取り落としかけた。
「ブルマーーーーーッ!!」
来てくれた!
そう思ったのと同時だった。男の足音がフロアの端に響いたのは。でも、あたしは男を見なかった。
弾は一発。男はあたしを見つけてる。でも、あたしは男を見なかった。
ただ、窓を撃った。窓の外にいるはずの、男へ向けて撃った。あたし自身の想いを乗せて。
だって、ヤムチャは来てくれたもん。もう、すぐそこにいるんだもん。後はあたしが呼べばいいだけよ。
ヤムチャはきっと、応えてくれる。絶対に、やってくれるはずだもの!
窓ガラスが砕け散った。ほとんど同時に、銃声が響いた。2発、3発。でもあたしは、その後に続くものを見なかった。あたしに迫る弾丸も。壁にできてほしいと願っていた弾痕も。それどころか、男の姿さえ。
ただ一つのものだけが、目の前にあった。ずっと見たかったものだけが、あたしの前にあった。あたしの3大フェイバリットの一つ。最後の一つ。黒い髪に黒い瞳。わりといい男。…あたしの恋人。
ヤムチャは握った拳をそのままに、すぐに男のところへ飛んで行った。そう、『飛んで』。またもや銃声が響き渡った。チェンバーに残っていた全弾。計5発。でもやっぱり、それもヤムチャの拳に収まった。ヤムチャは一撃を男の胸に食らわせると、ゆっくりと直立不動の姿勢を取った。最後に両の拳をぱっと広げて、掴み取った弾丸を床へ零した。
キザよね。
でもあたし、そういうの結構好きだわ。
すでに笑っている自分を、あたしは自覚していた。 でも少しだけ気がかりなことがあったので、シンプルにそれを訊いてみた。
「死んだの?」
「いや、気絶しただけだ。肋骨くらいは折れているだろうが…」
「そっか」
『死んじゃったらどうしよう』。実は最後に、あたしそう思ったのよね。自分がじゃなくて、犯人が。うまく当たってくれたとしても、もし死んじゃったらどうしよう、って。生きてても殺人犯になっちゃったら、人生終わったも同然じゃない。もちろん正当防衛なんだけど、世間の目って厳しいものよ。『犯人を殺して我が身を守ったお嬢様』、そんなレッテルあたしはごめんだわ。それならいっそ一度死んで、生き返らせてもらった方がまだマシよ。そんなこと考えてたら当てられなさそうだから、意識して考えないようにしてたんだけど。
でもそういうことも、ヤムチャはきれいに片づけられるのよね。事後処理の達人ね、こいつ。
「はーーーぁ。疲れた〜〜〜。もうダメかと思った…」
何もかもがすっきりと終わった。完全に気を抜いたあたしにまず襲ってきたものは、肉体的な疲れだった。足の痛みはもうそれほどでもないけど(きっとただの捻挫ね、これは)、やっぱり疲れた。ものすごぉーく疲れた。我ながら色気がないと思うけど、これが現実よ。ポケットピストルを床に放り出してあたしが床に座り込むと、ヤムチャが傍にやってきた。
「ごめんな。遅くなって」
そして当たり前のように、遅くなったことを謝った。まるでデートに遅れた時のように。だからあたしも、そういう時にするように、言葉を返した。
「そうね。ほんっと遅かった。もうギリギリよ」
さりげなく広げられた温かい胸の中に、顔をうずめながら。
んー、幸せ。
なんだか、すっごく報われた感じ。やっぱりやる時はやるじゃない、あんた。ま、そんなことわかってたけどね。
だって、最初っからそうだったもん。初めて一緒に行動したあの時から。まだ付き合ってもいないあの時から。あたしを助けてくれたもん…
「あいつは何なんだ?殺し屋か?」
あたしが心身共に一息ついたその時、ヤムチャが言った。あたしは呆れを隠せずに、その言葉を否定した。
「まさか。そんなんじゃないわよ。ただの素人よ。どっかの会社に雇われたどっかの素人」
「何言ってんだ、素人がここまでするわけないだろう」
「素人じゃなかったら、あたしは今生きてここにいなかったわよ。ものすごい数の銃声、聞こえなかった?」
「…聞こえた」
「ね」
惚けてるわよねー、こいつ。
こんな程度の男が殺し屋だったら、一体ヤムチャは何なのよ。雲の上の存在?そしてヤムチャが雲の上の存在だったなら、孫くんなんかはどうなっちゃうわけ。宇宙を統べる人?現実味のない話よね。だいたい孫くんなんかに統べられちゃ、宇宙も終わりだわ。でも、ヤムチャが雲の上の存在ってとこまでは許してもいいかな。そしたらあたしは神話の世界の女神様くらいのものにはなれるし。だって、あたしはヤムチャに守られてるんだもん。おまけに、たいていのことなら言いなりにできちゃうもんね。
あたしは延々とバカなことを考え続けた。きっと、さっきまで厳しいことばかり考えていた反動よ。温かい胸の中で髪を優しく撫でられながら、ゆるゆるとどうでもいいことを考えるの。んー、幸せ…
…だったのだけど、それはそれほど長くは続かなかった。やがてヤムチャがあたしの髪を撫でていた手を止めて、こう言ったからだ。
「とにかく、早く帰って手当しないとな。それから警察と博士に連絡を…」
どうやら、あたしの足の怪我に気づいたみたい。遅いわねー。っていうか、鈍いわ。全然空気読めてないんだから。ここでうちに帰るなんてありえないわよ。いいだけしっぽりしておいて、今さらそれはないわよね。
そう。『ただ一緒にいたい』、その欲求を満たしたあたしは、すでに次の段階に進んでいた。だから、手を止めながらも腕はまだあたしを抱いている男に、当然の返事を返した。
「いや!」
「……はい?」
途端にヤムチャが、これまで纏っていたゆったりとした雰囲気を捨てた。自然な包容力は弱々しい挙動に、当たり前のように堂々としていた声は引き気味の声に、すっかり取って変わられていた。でも、あたしはそれには構わなかった。
まあ、いつも通りのヤムチャだったからだ。
「嫌よ。帰らない。後でデートするって言ったでしょ!」
「いや、それは。…言ったけど。それは明日にしよう。まずは足の手当てだ。それからあいつを警察に引き渡して、ブリーフ博士に連絡だ。博士にも関係あるんだろ?それに、プーアルとウーロンが心配してるだろうから」
「父さんなんかどうだっていいわよ。警察だってごめんだわ。こんなことでニュースになんかなりたくないわよ」
「だけど、その足じゃ歩けないだろう」
「平気よ。あんた、飛べるじゃない」
「でも……」
1つずつ、あたしはヤムチャの逃げ道を潰していった。ちょっと呆れは湧いてきたけれど、面倒くさくはなかった。ヤムチャにしてははっきり断っている方だとも思ったけど、引くつもりはなかった。
だって、あたしはそれを励みにがんばったんだから。そういう、生きていてこその楽しみを思い描きながら、踏ん張ったんだから。これで『今夜はゆっくり休め』とか言われたら、不貞腐れちゃうわよ、本当に。
「う〜ん…」
「まずショッピングね。ドレス、ダメになっちゃったから。ヤムチャはタイ締めてね。ギリギリだった埋め合わせよ。そしたらごはん食べに行こ!」
どうやら逃げ口は尽きたようだったので、あたしはさっさと今夜の予定を口にした。
約束自体を反故にしなかった時点で、ヤムチャの負けよ。最も、日時なんかは忘れても約束自体を取り消したりはしないってこと、あたしは知ってるけどね。
そして、ヤムチャは今もやっぱりそうだった。困ったように頭を掻いて眉間に皺を作りながらも、充分に軽い口調でこう言った。
「しかたがないな。じゃあ、一気に飛んでくぞ。急がないとショップが閉まっちまうし、第一そんななりでは街を歩けん」
その瞬間、あたしの心に勝利感ではなく怒りが湧いた。
失礼ね。そんななりとは何よ、そんななりとは。そりゃ褒められた格好じゃないのはわかってるけどさ(だからショッピングしようって言ったのよ)、わざわざ口にすることないでしょ。ヤムチャってば、余計な口ばっかり軽くって。こういう時は黙って笑って、キスの一つもしとけばいいのよ。スマートじゃないんだから…
それでもあたしは、『見習わせてやろう』とはもう考えなかった。そんなこと考えるわけもない。そして、考えている暇もなかった。
余計な口を叩いていたはずのヤムチャが、いきなり黙ったかと思うと、そのままキスをしてきたからだ。そしてやっぱり黙ったまま、あたしをお姫様抱っこした。
…あら?
そう思った時には、すでにあたしは空にいた。そうしてあたし専属の乗り物は、早くも目的地へと向かっているようだった。まだ一言も告げていない、目当てのショップのあるエリアへと。その何でもないような顔つきと体の一部を見比ながら、あたしは言ってやった。
「あんたどうしてジャケット着てこなかったのよ。約束したでしょ。あんたっていっつも口先ばっかりなんだから」
ほとんど唯一とも言える欠点を、ことさらに攻撃する言葉を。だって、なんか悔しかったから。矛盾してるかもしれないけど。
「はいはい」
「『はい』は一回!」
「はいはい」
ヤムチャは非常に好ましくない態度を取ってから、またあたしにキスをした。さっきよりもずっと長くて深いキス。今度はあたしはさっきほどは驚かなかったけど、その代り思わずにはいられなかった。
…なんか、スマートなんだかスマートじゃないんだか、さっぱりわかんない態度ね。
でもま、いっか。
うんと色っぽいドレス買っちゃおーっと。
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