白日の女
一日が終わった後でカレンダーに印をつける。もしくは、一日の始まりにカレンダーをチェックする。
そういうことをした方がいいのかもしれないなと、その日初めて思った。

ハウスの中に充満する甘く芳しい香り。皿いっぱいに盛られた黒く丸い菓子。
カメハウスのドアを開け、嗅覚と視覚の両方でその事実を捉えた時、俺は思わず訊いてしまった。
「な…何ですか、ランチさん。このチョコレートの山は…?」
バレンタインデーは終わったよな。俺、確かにブルマにチョコレート貰ったよな。まさか夢だったわけじゃないよな。
頬っぺたを抓る。そんな古典的なことをしてみるつもりはなかった。そんなことをせずとも、武天老師様の修行は常に今が現実であることを教えてくれる。さっき土木工事の修行の途中、うっかりツルハシで自分の足を掘りかけた。
だから、そのいつもとは違う3時のお茶の様子を見て俺が心に呟いた言葉は、単純に事実確認の言葉だった。
「ホワイトデーのお菓子ですわ。ホワイトチョコレートケーキを焼いたんですけど、間違って普通のチョコも買っちゃったので、いろいろ作ってみたんです。これがトリュフでしょ、これがロシュでしょ、これがファッジでしょ、これがボンボンでしょ。いっぱいあるから遠慮なく食べてくださいね〜」
…バレンタインの時より、気合い入ってる。
笑顔で言い切るランチさんを見て俺はそう思い、今だ呆然とさせられながら、その台詞を口にした。
「…ランチさんはいつもこういうことをするんですか…?」
バレンタインデーの時にも発したその台詞を。似て非なる意味の言葉を。…女の子って、こういうこと本当に好きだよな。と言いたいところだが、ホワイトデーって女の子のイベントじゃないよな?
「去年はマシュマロを山ほど作ってましたよね」
「ええ。暑さで全部くっついてしまいましたけど…」
「このチョコレートもくっつかんとええがの〜」
「あらやだ、私そこまで考えてませんでしたわ」
和やかに繰り広げられる一連の会話を、俺は呆れ笑顔で聞いていた。…結構ボケてるな。のんびりした人だとこれまで思い込もうとしていたんだが。やっぱり天然ボケだったのか…
そして、どうやらランチさんにとってイベントというものは、料理の腕を振るうきっかけの一つであるらしかった。生活を楽しんでいるというところか。おぼろげに結論づけながら、俺は切り分けられた白いケーキに口をつけた。ランチさんが少しだけ声を落して、大皿に残るケーキに視線を投げた。
「ブルマさんたち、来ませんでしたわね。ブルマさんにもこのケーキ、食べてもらいたかったのに」
「そういえばそうですね。いつもならもう来てる頃なのに」
「ブルマさんの分、取り置きしておこうかしら。これから来るかもしれませんものね」
「マメじゃのう、ランチちゃん」
和やかに続けられる、今日という日に関する会話。俺はただ黙ってそれを聞いていた。少し肩を竦めながら。なんとなく立つ瀬がないような気分になりながら。
…来なくてよかった。そんなこと、思っちゃいけないのはわかってるんだけど…
俺たちに配ったものよりはだいぶん大きめに、ランチさんはケーキを切り取った。そのままナイフを使ってその一切れを別皿に乗せたところで、それは起こった。
「…っくしゅん!!」
ランチさん特有のその資質を発揮する、例のくしゃみ。手に持っていたナイフがクリリンのところへ飛んでいった。俺はすぐさま飛んできた皿を受け止めた。
「お、茶の時間か」
金髪のランチさんはこともなげにそう言った。クリリンが呆れ顔でナイフを大皿の横へ置いた。俺も同じ態度で、手に持っていた皿を大皿の横へ置いた。するとランチさんが、またもやこともなげにこう言った。
「お、これオレの分か」
「違いますよ。それは今ランチさんがブルマさんのために取っておこうって…ホワイトデーのケーキだから」
「ああ、あいつな。そういえばチョコ貰ったっけな。そんならさっさと除けておけ。食っちまうところだったじゃねえか」
「今そうしていたところなんですよ…」
「やれやれ、ランチちゃんにも困ったもんじゃの」
さらに続けられる、今日という日とランチさんに関する会話。それを俺はやっぱり黙って聞いていた。
今や本気で考え込みながら。

「なあクリリン。ランチさんはあれでいいのかな。さっきの白いケーキ。普通はあれは俺たちが用意すべきものだろ?」
お茶を終え、湖へと向かう途中で、俺は訊いてみた。クリリンは一瞬考え込む素振りを見せたが、すぐにこう答えた。
「そうですねえ。でも、しかたありませんよ、おれたちは修行中なんですから。ランチさんはわかってくれてますよ」
「まあ、そうかな…」
さほど深く考えることなく、俺はクリリンの言葉に同意した。去年のホワイトデーも同じように過ごしたらしいクリリンが言うのだから、たぶんそうなんだろう。老師様もごく自然に受け止めていたしな。俺も、今日がホワイトデーだということに気がついていなかったにも関わらず、なんとなく受け止めてしまったからな。
だから、ランチさんのことについては、わりとすぐに気持ちの上で決着がついた。次に俺が考えたのは、当然ブルマのことだ。
何もしなかったら怒るかな。…表立っては怒らないかもしれないな。バレンタインがああだったから。でも、『忘れてた』なんて言ったら、さすがに黙ってはいないだろう。『どうせそんなことだろうと思ったわ』とか、『別に期待してないから』とかって、思いっきり突っ撥ねそうだよな。
またケンカになるかな。そんなことを、俺は心配していたわけではなかった。ブルマがどう反応するか。正直なところ、それは俺にとってどうでもよかった。ただこう思った。
――覚えているってことを、教えてやりたい。
ホワイトデーは忘れていたわけだが、それはこの際横に置いておくとして。あの時嬉しかった気持ちはちゃんと心に残ってるってことを、教えてやりたい。だって、俺は忘れてない。そりゃ思い出して反芻したりはしないけど、ちゃんと覚えてる。あの時俺の部屋で話したことも、しっかり覚えてる。
きっと忘れないと思う。一生とまでは言わないけど、しばらくは忘れないと思う。だからブルマにも少しは…そう少しは、そういう感覚を与えたい。何も格好いいことをして格を上げようとは思わない。それは無理だ。クリリンの言うように、俺は修行中の身なのだから。でも、この日どんな風にかして俺と過ごしていたってことを、記憶に残らなくてもいい、一日の最後に思い起こせる程度には…
――今からでも間に合うよな。まだ来てないんだから。
時折その結論を差し挟みながら、俺は考えた。考えながら、湖での修行を開始した。
そして、サメに足を食われかけた。

湖から上がった俺を待っていたものは、本日二度目の師の打擲だった。
「こりゃヤムチャ。おぬし、さっきから何をやっとる。気が弛んでおるぞい」
「すいません、老師様…」
『ついうっかり』。俺は今度はその台詞を言わなかった。今のはうっかりではない。それが自分でよくわかっていたからだ。
「足がいらんのか?どれ、わしが一本減らしてやろうか?」
「い、いえ。滅相もない。申し訳ありません、気をつけます…」
まさか老師様の言葉を真に受けたはずはない。だから、足を庇ったというわけではない。ただ、なんとなく後ろへ一歩下がった。その直後だった。
「いてっ!」
今さっきサメに掠られたばかりの足に――そしてさらに数時間前にツルハシを掠めた足に、はっきりとした痛みが走った。すぐさま目を落とすと、蛇が一匹、足首に噛みついていた。
クリリンがたいして驚いた顔もせず、淡々と言い放った。
「ヤムチャさん、今日足に何か憑いてるんじゃないっすか?」
「そうかもしれない…」
俺は我が身を呆れながら、だが淡々と蛇を足首から外した。思わず声を上げてはしまったが、実のところそれほど痛くはない。この辺りに治療を必要とするほどの毒を持った蛇はいない。それでも一応蛇の種類を確かめると、クリリンが俺より先に首を傾げた。
「あれ?イチゴヘビじゃないっすか。出てくるの早いっすね。どこから来たんだろう」
『イチゴヘビ』というのは通称だ。本当の名前は知らない。野イチゴの周りによく集まっているので、そう呼んでいるのだ。
「きっとここじゃな。ここに野イチゴが生っておる」
老師様が杖で茂みを示しながらそう言った。木の根元の陽に照らされた小さな茂みに、小さな赤い果実が数個輝いて見えた。ヘビイチゴを野イチゴの茂みに放すと、代わりに小さな感慨がやってきた。
「早いなあ。もう春か…」
「もうすぐ天下一武道会から一年経つんですねえ。…悟空、どうしてるかなあ」
時の経過と悟空の動向。これらはたいていいつもワンセットで話題に上る。なぜかと訊かれても説明できない。ただいつもそうなのだ。そして、その話題を〆る人間とその言葉も、ほぼだいたい決まっている。
「ほれほれ。いつまでものんきなことを言うとらんで、さっさと次の修行の準備をせんかい。一年はあっという間。三年だって、あっという間じゃ。気を引き締めんと、悟空に勝つことはおろか、自らを引き上げることすらできんぞい」
「はい!!」
今日もやっぱり予想を裏切らない展開となった。俺とクリリンは心持ち甲羅を背負い直して、湖を後にした。でも俺は、まだ考えていた。
この甲羅を背負っている限り、格好つけてもしょうがないよな。なんてことを。

さらに反射神経を養う修業。夕陽に向かって長距離走。
途中で脇道に逸れながらも、俺はいつも通りに一日の修行を終えた。終えてしまった。
結局、ブルマたちは来なかった。俺は少し気を殺がれて、そのことを考えていた。一日の終わりに、ベッドの上で。去年にも似たそのことを。
なんとなく、来ると思ってたんだよな。来るような気がしてたんだよ。何か言ってくるような気がしてたんだ。さりげなくでも、直截でも。バレンタインのことに触れるような何かを。…まあ、今年は去年とは違うけど。無視される理由は何もないからな。
まあ、いいさ。約束してたわけじゃない。みんなに知られたわけでもないから、来なくて気まずい、ということもない。来るも来ないも、ブルマの自由だ。俺は修行中の身だから。動くことのできない人間だから。
…とっとと寝ちまおう。




翌日。足首の絆創膏を剥がすところから、俺は一日を始めた。
重なる四つの傷は、すべてすっかり塞がっていた。ただのごく薄い傷跡。きっと水が沁みることはないだろう。
だから、昨日の余韻と言えるものは、今だ皿に残っているチョコレートだけだった。半量ほどに減らされたチョコレートの山は、今のところくっつきあうことはなく、今、3時のお茶の時間になっても、着実に減らされ続けていた。金髪のランチさんが、飽きもせずボンボンだけに手を伸ばしていたからだ。時々外側のチョコレートを口から出してはいたが、それには誰も言及することはなかった。金髪のランチさんに文句をつけるなんてもっての他だし、何より作った当人だ。当人がそれでよしとしているのだから、きっといいのだ。それに、そんなことをしているわりに酒を煽ることはしないのだから、なかなかに立派な姿勢だ。
「ランチさん、チョコレート好きだったんですね…」
「ん?まあ、嫌いじゃあねえな」
単純なのか迂遠なのかわからないクリリンの声に、すっぱりとランチさんは答えた。その直後だった。
「こんにちは〜」
勝手にドアを開けて、客人がリビングに入ってきた。俺はちょっと意外を衝かれて、場の第一声をクリリンに譲った。
「あっ、ブルマさん。こんちは」
「よう」
「てっきり今週は来ないのかと思っとったわい」
まあ、意外に思ったのは俺だけではないようだったが。ブルマは場に漂う薄い意外感はまるっきり無視して、おそらくはブルマにとっての意外な事柄を口にした。
「今日は南から回ってきたんだけど、丘がすっごくきれいね。あの、赤や紫の花つけてるのって何の木?」
「はてさて。それは気づかんかったわい。聞いたところ桜ではないようじゃが」
「桜はこの辺りにはほとんどありませんよ」
今はいない女性に代わって(どう考えても女向けの話題だよな、これは)、老師様とクリリンがそれに答えた。俺はまったく二人に同感覚だったので、黙って会話を聞いていた。いつものように傍へと飛んできたプーアルの背中を叩きながら。絆創膏剥がしておいてよかった。そう心の片隅で思いながら(プーアルは目聡いからな)。
今はいない女性に代わって、ウミガメがコーヒーカップを三客運んできた。客が客らしからぬ慣れた手つきでコーヒーポットを傾けると、ランチさんが腰を上げた。
「そうだ、おまえにホワイトデーの菓子あるぞ。オレが作ったんだけどよ」
俺は少し意外に思って、ランチさんの顔を見た。でもすぐにその視線を、隣へと移すこととなった。
「えっ、ランチさんが!?嘘!!」
言葉と共にブルマが、俺以上に意外そうな視線をランチさんに向けたからだ。誤解していることは明らかだったので、俺はすぐにそれを解いてやった。
「違う方のランチさんだよ。青い髪の方の」
「えっ、あ、そう…そうよね」
「昨日作ったやつだけど、まだ平気だろ。平気じゃなかったら残しとけ」
「うん、ありがとう。いただきます」
とはいえ、場の流れが途切れたのはその時だけで、その後は非常に自然な雰囲気でランチさんとブルマのやり取りは続いた。やや不敵さを伴った笑顔で皿を差し出すランチさんと、自然な笑顔でそれを受け取るブルマを見て、俺は少し自分の行為を反省した。…余計なこと言ったかな。ランチさんが作ったことに変わりはないんだからな。でもなあ…彼女も難しい資質を持っているな。
そしてやがて始まったプーアルとブルマの会話にも、俺は反省させられることとなった。ブルマに向けたプーアルの顔が、本当に済まなさそうに見えたからだ。
「あのう、ごめんなさい、ブルマさん」
「ん?何?どうかしたの?」
「えっと、ボクすっかり忘れてて。その、昨日がホワイトデーだってこと…」
「ああ、そのこと。いいのよ別に。そういうつもりであげたんじゃないから」
「でも…」
「その気持ちだけで充分よ」
昨日という日についての会話を、ブルマは笑顔で流していた。一体何を流しているのか、それは容易に読み取れた。そしてそれに対してプーアルは、終始態度を崩さなかった。いつまでも眉を下げたまま、ブルマの傍らに留まり続けた。きっと俺だったら、ここでほっとしてしまっているに違いない。偉いな、プーアル…
俺は少々肩身を狭くして、コーヒーを啜り続けた。すると急に、ブルマがウーロンに水を向けた。
「あたしとしては、ウーロンにその態度を見せてもらいたいわね〜」
いや、自然な流れかな。どうしていつもわざわざカメハウスでそういうことを言い始めるんだとは思うが、いつもの流れだ。いつもと少し違うのは、今この時点ですでにわかってしまっているということだ。…そういうことなら、どう考えてもウーロンにはまったく分がない。
だが、それにも関わらず、ウーロンは受けて立った。
「どうしてそこでおれを出すんだよ。っていうか、おまえ、その態度の違いは何なんだよ」
「ほんっと、かわいくないわね、あんたは」
「どっちが」
さらに五分五分に持ち込んだ。…ウーロンも、ある意味偉いな。
C.Cにおける事実。見習うべき態度と、とうてい見習うことのできない態度。それらを目の当たりにしながら、俺はお茶の時間を終えた。正確に言うと、切り上げた。そして図々しいかなとは思いつつ、ブルマにもそうしてもらうことにした。
「なあ、ブルマ」
「何?」
「ちょっと話があるんだ。話っていうか、教えておきたいことが…」
しかたがない。今ここで声をかけておかないと、次は夜になってしまう。できることなら夜は避けたい。夜は数が多い上に、目が利かないから。昨夜は踏み込んだだけだから一匹で済んだが、摘んでいる間となるとそうはいかないだろうからな。
「老師様、俺、一足先に湖へ行っていますから」
俺が声をかけたのはブルマと老師様だけであったが、表情を変えたのは二人だけではなかった。奇異とまではいかないが意外そうな目でみんなが俺を見ていることに、俺は気づいていた。これもしかたがない。我ながら露骨だと思う。
きっと、以前の俺だったら、こういうことは極力避けようとしただろう。いや、今だってその感覚はたいして変わっていない。でも、今日は別だ。もう昨日じゃないけど、でもやっぱり別だ。
「ごめんね、ランチさん。ケーキの残り、後でもらうことにするわ。ウーロン、食べちゃダメよ。これはあたしのだからね!」
どこかで聞いたような台詞を口にしてから、ブルマは立ち上がった。いや、覚えてる。ちゃんと覚えてるさ。
こうして俺は、一度は眠らせた気持ちを再び引っ張り出すこととなった。今さら感はあまりなかった。
つまるところ、完全に眠らせてはいなかったのだ。


とはいえ、最初に思っていたのと同じ姿勢を貫く気は、俺にはなかった。とっくに気づいていたからだ。ブルマはもう切り替えてしまっているらしい、ということに。プーアルに対する姿勢も、ウーロンに対する態度も、まあさっぱりしたもんだ。去年のことを思えば信じられないことではあるが、事実は事実だ。…逆だったらよかったのにな。嫌なことほど頭に残るっていうやつだろうか。
最もそれは、俺自身についても言えた。嫌というほどではないが流し切ることは俺はできずに、できるだけさりげなく訊いてみた。
「昨日はブルマ、何してたんだ?」
「学校よ。ハイスクール。土曜登校だったの。かったるかったわ〜」
ブルマの返事は、あらゆる意味で俺の意表を衝いていた。だから俺は、思わずこう言ってしまった。
「偉いな。ちゃんと行ったのか」
「全授業サボったわ」
「それは…何しに行ったんだ…」
「レポート出しによ」
咎めるべきなのか、褒めるべきなのか、俺は非常に迷った。ブルマが提出するレポートを俺やウーロンに押しつけて、ハイスクールそのものをサボっていた記憶が、脳裏に残っていたからだ。
そしてその迷っている間に、俺のターンは終わった。
「ヤムチャは何してた?ランチさんはいつから金髪になってるの?」
「昨日。お茶の時間の途中からだ」
「ちゃんとケーキおいしいって言ってあげた?」
前半部分を流したことは気づかれなかった。だが笑顔で放たれたその台詞は、またもや俺の意表を衝いた。
「ケーキ…」
「さっきのホワイトガトーショコラよ。食べたんでしょ?」
「…食べた」
「いつもいつもとは言わないけど、そういう時くらいは感想とかお礼言わなきゃダメよ」
「うん…」
完全に読まれているな。やっぱり昨日来てくれなくてよかったかもしれない…
「バレンタインの時もそうだったし。亀仙人さんもクリリンくんも、全然女の人に気を遣わないんだから。亀仙人さんはエロいだけエロくてさ。そういうのには、あんたは染まらないでちょうだいよ」
「はい…」
俺はすでに頭を垂れていた。ブルマのターンが長過ぎる…
おまけに、言っていることが何だか微妙だ。バレンタインに触れていることには違いないが、方向性がちょっとな。っていうか、去年にその態度を見せてほしかった…
去年は俺が何もしていないのに怒ってたんだぞ、こいつ。バレンタインにチョコをくれた女の子が俺を見るたび怒ってたんだ。非常に気まずい思いをしながらも俺は女の子を無視してたのに、ブルマはその俺を無視してたんだ。無視して、一人でハイスクールサボって、どっか行ってた。
あの日、プーアルとウーロンと一緒にハイスクールの外庭で弁当を食べていたことまでを、俺は思い出した。どうしてそうなったのかまでは覚えていない。…いや、ウーロンがなんかぶつぶつ言いながら、声をかけてきたような気がする。女の子の視線を避けて外でメシを食ってた俺に。『まだケンカしてんのかよ』とかなんとか。『おまえは悪くないんだから放っとけ』なんてことも言っていた。放っとくも何も、俺は無視されていたわけだが。そして、そこまでを思い出した時、俺の気分は少し変わった。
…今年は、去年よりはマシかな。
いや、マシどころか、何も問題ないな。ブルマは俺にチョコをくれた。今もこうして隣にいる。いろいろ注意されてはいるが、それだって優しく感じられる。
そんなことを考えているうちにも足は先へと進み、やがて草木に囲まれたT字路にぶつかった。鬱蒼とし始めた雰囲気の中、風に紛れる音に耳を傾けながら、俺はブルマの手を取った。
「…ああ、ブルマ、そっちじゃない。こっちだこっち」
ブルマがいつもの道を辿ろうとしていたから。そして、俺の前へ出ようとしていたからだ。
「え。泳ぎ始めの岸ってこっちじゃなかったっけ…」
「いや、あってる。でもその前に行きたいところがあるんだ」
「行きたいところ?」
この瞬間、また俺の気分が変わった。
今のこの状況がとても嬉しく思えた。なんとなく、手を引っ張っていきたい気持ちになった。ブルマの隣で手を繋ぐのではなくて、後ろ手に引いていきたい気持ちになった。ま、いずれにせよ後ろに置く必要はあるわけだし。
だが、その思いを行動に移すことはなかった。
それより前に気づいたからだ。俺たちが足を止めているにも関わらず聞こえてくる足音に。一瞬会話が途切れたにも関わらず聞こえてくる人の声に。それは忌避すべき爬虫類の足音では、絶対になかった。そもそも蛇には足がない。それに何より喋りません…
「武天老師様!!」
大体の場所しかわかってはいなかったが、俺は叫んだ。そしてそうしただけで、老師様は姿を現した。
「ありゃ〜。見つかってしもうたわい」
「もう、武天老師様がもっと近くへ行こうなんて言うから」
「だって近づかんと話が聞こえんじゃないか」
さらに何も訊いていないにも関わらず、二人は自白し始めた。潔いと言うべきか、甞められていると言うべきか。っていうか、クリリンだったのか。俺はまたてっきりウーロンかと思っていたのだが…
「一体何してるんですか!!クリリンまで!!」
「す、すいません。でもヤムチャさん、甲羅を忘れていったから…」
「そうじゃそうじゃ。わざわざ持ってきてやったんじゃぞ。わしは師匠だというのに」
「だったらどうして隠れてるんですか!!」
「いやなに、邪魔をしてはいかんと思うてな。何やらチュウでもしそうな雰囲気じゃったからのう。ささ、わしらに遠慮せんと続きを…」
「そういうんじゃありません!!」
クリリンはすぐさま頭を下げたが、武天老師様は延々と食い下がった。俺はというと、ひたすらに叫び続けた。相手は師匠。自分は弟子。そういうことを気にしている場合ではなかった。そういうことを気にしていては往々にしてやっていけないことがあると、老師様自身がこれまでの修行生活の中で教えてくれたのだ。……それにしても、危ないところだった。早いうちに気がついてよかった。ちょっと…いやかなり、そういう気分になりかけていた。物音に注意していてよかったよ。イチゴヘビ様々だな。
「またまた惚けおって。こんな人気のないところに女子を連れてきておいてそんなわけないじゃろう」
「本当に何もしません!!」
とはいえ今では、そのイチゴヘビに注意を向けることすら、困難になってきていた。自然の音と俺の声、すべてを掻き消す老師様の言葉はいつまでも続いた。今や俺は完全に老師様に食いつかれていた。
「別について来たって構いませんよ。そういうんじゃないですから。だから隠れてついて来ないで下さい」
だから、食いつかれたままに、先へ進むことにした。…いいんだ。もともとそういうつもりじゃなかったんだから。俺はただ、教えてやりたいだけだったんだから。
こうして俺はまた今日も、自分の気持ちを眠らせることとなった。


毎日修行しに来ている湖の脇の、いつもは通らない獣道。当初の予定通り先頭に立って、俺はそこを歩いた。
「一体どこへ行くんですか」
「年寄りをあまり歩かせんでくれんかのう」
「だったら初めからついて来ないでください…」
何をしにどこへ行くのか言ってしまえば、老師様はついて来なかっただろうか。いや、そうは思えない。だって、俺はちゃんと『湖へ行く』って言ったのに、老師様は後をつけてきたんだからな。まったく、困ったお方だ。
「ねえ、本当にどこまで行くの?」
「うん、ちょっとな、いいものがあるんだよ。まあたいしたものじゃないんだが、ブルマなら好きそうだと思ってさ」
不思議そうに俺を見るブルマを振り向き見た瞬間、俺は初めてそこを見つけた時と同じ気分になった。そう、あの時もそう思ったんだ。ブルマに教えたら喜ぶだろうな、って。じゃあなぜ教えなかったのかというと、忘れてしまったからだ。見つけたということと、教えるということの両方を。そしてそのまま思い出すことはなかった。その頃の俺は修行をこなすことに精一杯で、心に留めておく余裕などなかったのだ。
「うん、ここだ」
軽く時の流れを噛み締めながら、草を掻き分けた。次に鬱蒼とした木立を抜けると、昨夜夜目にどうにか確かめたその場所が、春の風景となって目の前に広がった。
太陽の光に照らされて緑色を増す大地。左手にある、遮るものなく見渡せる蒼い湖。おそらくはさっきブルマの言っていた花咲く丘とやらが、赤や黄色の山となって遠目に見えた。…こんなにきれいなところだったのか。去年はまったく気がつかなかった。それとも初春と初夏では違うのだろうか。
案内してきた俺自身が風景に目を奪われて、一瞬言葉を失った。目的を思い出しかけたその時、ブルマが叫んだ。
「あっ!イチゴ!!」
目敏いな。さすが好きなだけある。
「うわ〜大きい。これ野イチゴよね?あっ、よく見たらすっごくいっぱいあるじゃない!」
教えるまでもなかった。思っていた通り――いや、思っていた以上の態度で、ブルマは草地を飾る野イチゴの茂みへと駆けて行った。
「ほほ〜、こりゃあなかなか立派に生っとるのう」
「本当、大きいっすね。それに早いや」
昨夜俺が思ったのにも似たことを、老師様とクリリンが口にした。ブルマはというと、すでにその先へといっていた。
「ねえ、これ食べられるの!?」
実に率直だ。色気より食い気とはこのことだ。これはもしそういう気分になっていたとしても、絶対にイチゴに負けていたな。
俺はまったく呆れはせずにそう思い、この場合これ以外にはありえないだろう言葉を返してやった。
「もちろん」
「やったー!」
ほとんどそうなりかけてはいたが、ブルマはここで完全に相好を崩した。うーん、かわいいかわいい。ひさびさに目にした、単純な笑顔だ。
思い出せてよかった。昨日じゃなく今日でも、教えることができて本当によかった。俺はこういう、ブルマの単純に嬉しそうな笑顔がすごく好きなんだ。こういう表情が一番、女の子だなっていう感じがする。女の子って笑ってるだけで場が明るくなるよな。不思議なもんだ。
さらに続いて、俺はブルマの女の子ぶりを堪能することとなった。俺がそこへ行く前に、ブルマが野イチゴの茂みに手を伸ばしたからだ。注意を喚起する暇はなかった。
「ぎゃー!何これ!気っ持ち悪ーい!!」
一瞬にしてそれまでの笑顔をかなぐり捨てて、ブルマは叫んだ。そして同時に手を引いて、その身を飛び退らせた。もうその仕種だけで、何が起こったのか俺には見当がついた。近づきつつ目を凝らすと、野イチゴの茂みの真ん中あたりを、例によってイチゴヘビがのたくっていた。
「それはイチゴヘビだよ。野イチゴのある場所によくいるんだ」
遅ればせながら俺がそのことを告げると、ブルマは怒りを露わに再び叫んだ。
「えぇー!?何その理不尽な生き物!!」
理不尽な生き物…
すごいこと言うなあ。もうすっかりイチゴに目が眩んでいるな。まあ、あながち間違いでもないが。こいつは近くにいるやつをほぼ無差別に噛むからな。俺なんか、昨日2回も噛まれた。…それにしても、どうしてそうも不用心なんだ。こういう人の手のまったく入っていないところには、たいてい何かいるもんだ。イチゴヘビのことは知らなかったのだからしかたがないとしてもだ、他の嫌いそうなものがうじゃうじゃいるであろうことくらいには予想がつくだろうに。蜘蛛とか、毛虫とか、ミミズとかさ。女の子ってそういうの嫌うくせには、全然注意しないんだよな。自衛本能なさ過ぎだろ。
「待ってろ。今摘んでやるから」
呆れの伴わない思考を続けながら、俺はブルマの怒り顔を背後に置いた。…おまけに面倒くさい。まあ、そういうのもかわいいところではあるんだけど。ブルマの場合は特に。そのくらいの弱みもなかったら、もう完全に立場ないからな。
そんなわけで、俺は当初の予定通り、野イチゴ狩りへと取りかかった。するとクリリンと老師様が傍にやってきて、さりげなく笑って言った。
「おれも手伝いますよ。おれもブルマさんにチョコレート貰ったから」
「そうじゃな。どれわしも」
ああっ…!――
その瞬間、俺は心の中で軽く呻いた。…そういうこと、言わずに済ませようと思ってたのに。きっとブルマにとっては今さらだ。実際、そういう雰囲気は微塵もなかった。
俺はできるだけさりげなく、端的に言うとこっそりと、後ろを返り見た。でもブルマの表情を窺う前に、次の台詞が飛んできた。
「それにしても、よくこんなとこ知ってましたね、ヤムチャさん」
「そういやおぬし、昨日の夕陽マラソンの時、やたら時間がかかっておったな。さてはこれを探しておったな。いやらしいやつじゃ」
「どこがいやらしいんですか、どこが!」
っていうか、そういうことバラさないでくださいよ…
それにしても、武天老師様にかかると、何もかもがそういうことになってしまうみたいだ。困ったお方だ。
「ちょっと心当たりがあったから確かめに走っただけですよ」
「ふむ、まあ走っとったんならよしとするかの」
ある意味ではオープンな老師様の言葉に乗せられて、俺は隠すのはやめることにした。すでに隠せているとは思えない。どうしても隠さなければならないというわけでもない。ただちょっと不覚というかなんというか…間抜けなような気がするだけだ。
ブルマはというと、先ほど抜けてきた木立を背後に座り込んで、どことなく楽しそうにこちらを見ていた。何をかを感じているのか、何を考えているのかはわからない。でも、とにかく自然な笑顔。だから俺は自分からは何も言わずに、地に敷いたスカーフにイチゴを積み上げることに専念した。
武天老師様の言葉を借りるなら、それでよし。そう、喜んでくれたのなら、それでいいんだ。
やがて思っていたよりもずっと早く、イチゴの小山ができあがった。3人がかりだったからだろう。老師様も結果的には充分に協力してくださった。ここは何か言いつけられるべきだろうな。俺はそう思ったのだが、どうやら老師様は俺などには用はないらしかった。
「やれやれ、少し腰が痛うなってしもうたわい。後でランチちゃんに揉んでもらうとするかの」
「でも、今日はランチさん金髪ですよ。そんなこと頼んだらきっと撃たれますよ」
クリリンに軽く窘められつつ、さっさと俺を置いて行ってしまった。恩を着せない方だと言うべきか、実を取る方だと言うべきか。…きっと、俺に揉まれても嬉しくないんだと思う。なるほどブルマの言うように、俺はランチさんに気を遣った方がよさそうだ。
「俺たち、いつもの岸へ行くけど、ブルマはどうする?」
自分の持ち時間がなくなったことは、もうわかり過ぎるほどわかっていた。何か話したいことがあるような気はするが、今すぐには出てこない。結局単純にそう訊いた俺に、ブルマは目を細めて答えた。
「あたしここにいる。ここで見てる。終わったら教えてね」
それは必ずしも俺の期待に添うものではなかったが、期待を裏切るものでもなかった。ブルマは面倒くさがっているようには見えなかった。未だ変わらぬ自然な笑顔で、この場を楽しむつもりであるように思えた。だから俺も、それを自然に受け止めた。でもその後に続いた言葉には、少しく意表を衝かれた。
「ところで、あたしもちょっと話あるんだけど」
「何だ?」
「もっと近づいて」
「うん?」
いや、完全に意表を衝かれた。頬に両手を当てられてもまだわからなかった。だって、ブルマがこんな風にしてきたことなんてなかったから。こんなに自然にキスをしてきたことなんて、これまで一度もなかったから。
「サンキュ」
そしてその後に零された言葉と笑みに、また意表を衝かれた。あまりにも自然だったから。でも、すぐにわかった。
「また後でね」
ブルマが言ったのはそれだけだった。ほんの短い、ごくごく普通の一言。だけど、俺にはそれで充分だった。
去り際のキス。その時に感じていたこと。
…覚えてる。何もかも覚えてるさ。


その後すぐにいつもの岸へと出向いて、俺は修行を開始した。
湖を数十往復。サメを背後に置いて。予想に反して足の四つ目の傷に水が沁みたが、全然構わなかった。血のせいでサメが騒いでも、むしろいい修業になる。今ではそう思えた。
修行をこなし終えてふと横岸を見ると、ブルマが白い歯を見せて笑っていた。俺はすっかり幸せな気持ちになって、そちらへ向けて手を振った。クリリンがどことなく無表情ながらに俺を見た。クリリンは何も言わなかった。
でも俺には、クリリンが初めて本当に羨ましがっているように見えた。
拍手する
inserted by FC2 system