徐歩の女
「まーだ怒ってるのか、ブルマのやつ。ほんっとしつこいんだからな」
最後まで無言を貫き通して夕食を終えたブルマがドアの向こうへ消えてしまうと、ウーロンが呆れたように呟いた。
「おまえもおまえだけどな。あんなの全然たいしたことじゃないだろ。適当にうまいことおだてて仲直りしちまえよ」
「そんな器用なことができればな、そもそもこんなことにはならんのだ」
「あー、そうかよ」
白けきった顔でコーヒーカップに砂糖を落とし始めたウーロンを横目に、俺は苦い苦いコーヒーを飲み干した。直後に、俺のカップに砂糖を入れようとしていたプーアルに気づいて、少しだけ面目なく思った。
ブルマに無視されるのはこれが初めてではない。だが、今日はこれまでのケンカとはちょっと心境が違った。これまでのケンカには、自分ではどうすることもできない理由があった。ラブレターを貰ったとか、急に予定が入ってブルマとの約束が潰れてしまったとか。でも、今日は違った。今日はブルマは俺の失言…というか、正直なところ何にかはよくわからないのだが、とにかく俺の何かに怒った。それで、みんなで遊びに行ったマリンパークを飛び出してより数時間、今だに俺を無視し続けている。理由はさっぱりわからないが、いやわからないからこそ、俺は非常に不甲斐ない気持ちを味わっていたのだ。
悪いことをした覚えはない。だが、怒らせるようなことはしたらしい。つまり今ウーロンに言ったように、もう少し器用であれば…その『何か』にちゃんと気がついていれば、ブルマは怒らなかったかもしれないのだ。これが情けなく感じずにいられようか。
「はいヤムチャちゃん、コーヒーのおかわりどうぞ〜。それでねパパ、そしたらおとなりの奥さんがね…」
空になったカップをそつなく埋めていったママさんは、ポットをテーブルに戻すとそのままブリーフ博士との会話を再開した。俺はどこか助かったような気持ちになりながら(こういう気分の時はママさんの天真爛漫さは正直キツい)、プーアルがカップに砂糖を落とし込む様を見守った。ふと一つ溜息を洩らすと、ウーロンがまるっきり他人事のように言い放った。
「いっそ放っとけばいいんじゃねえか?どうせたいしたことじゃないんだしよ。たまにはおまえもそういう態度に出てやれよ」
「…ああ、そうだな」
俺はまったく同調できぬままに頷いた。そんな風に割り切ることができればな、悩んだりはせんのだ。などと言う気にもなれなかった。きっとウーロンにはわかるまい。ウーロンは女の子と付き合ったりはしていないのだから。好きな子と付き合ったりはしていないのだから。
性格のせいではない。俺だって、ブルマと付き合うまではわからなかったんだからな。


「は〜い、おはようヤムチャちゃん。今日で17歳ね。おめでとう、もう大人ね〜」
翌朝、二番目にその言葉をかけてきたのはママさんだった。一番目はプーアルだ。これは好意の量というより、起床時間に関係している。より正確に言うと、俺が起きてから顔を合わせる人間の順番だ。その証拠に、三番目はウーロンだった。
「なんだ、おまえ今日誕生日だったのか。それはおめでとさん」
実に感情の篭らぬ声で、まるっきりついでのようにそう言った。まあ、ウーロンが男に感情篭めるなんてありえなさそうだからいいけど。そんなことを思っているうちに、ママさんの機関銃声が始まった。
「パーティはハイスクールから帰ってすぐにする?それとも夜?誰か呼びたいお友達はいるかしら?ヤムチャちゃんのお誕生日パーティなら、きっと来たがる女の子がいっぱいいるわよ〜。お料理たくさん用意するから、どんどん呼んでね。何かお料理のリクエストはあるかしら?ケーキはもうお店に頼んじゃったんだけど…」
俺は言葉を差し挟むタイミングを図ることもできずに、ただ話が途切れるのを待った。傍らではプーアルとウーロンが、俺に近い態度でママさんを見ていた。今は口以外動かない女主人に代わって、メイドロボットがキッチンとダイニングテーブルを行き来し始めた。ママさんに話しかけられてからそこを一歩も動いていなかった俺は気づかなかった。
「おっはよ!ねえ、プレゼント決めた?」
いつの間にかブルマがリビングに来ていたことに。そしてさらにダイニングにいた俺たちの背後にやってきていたことに。
「プレゼント?」
「誕生日のプレゼントよ。一緒に買いに行こうって言ったでしょ」
「えっ…」
一度は惰性で訊き返した俺は、もう一度そうすることができなかった。『そんなこといつ言った』。そういうことを訊くつもりはなかった。ちゃんと覚えていた。恥ずかしながらしっかり覚えていた。
「しょうがないわね。じゃあ、放課後までに考えておいてね」
初めに俺の背中を軽く叩いたブルマの手はやがて腰へと当てられ、終いにはダイニングのチェアを引いた。最後の態度に倣って俺がその正面に座ると、さらに続いて隣に座ったウーロンが、拍子抜けしたような顔で呟いた。
「なんだ、もう仲直りしたのか。どうやってしたんだ?」
「わからん…」
間抜けにも俺自身拍子抜けしてそう呟いた。本当にわからなかった。だって、俺は今の今まで一度もブルマと口をきいてはいなかったのだから。考えてみる余地すらなかった。でも、兆候はあった。
昨夜、だいぶん遅くのことだ。自分の部屋へ引っ込む途中、廊下でブルマに会ったんだ。会ったというか、後姿を見たんだ。俺の部屋より奥にある、ブルマの部屋へと向かっていく後姿を。ブルマは早くに風呂を済ませていてすっかり部屋に篭ってしまっていたから、たぶんトイレにでも行ってたんだと思う。まあ、そのへんのことはどうでもいい。どうでもよくないのは、その時のブルマの様子だ。
ブルマのやつ、鼻歌歌ってたんだ。おかしいよな。周りに誰もいない(と本人は思っている)にしたってさ。俺は当然意外に思ったが、声をかけることはしなかった。無視されたら嫌だから、ではない。俺が声をかけることでその鼻歌を止めてしまうのが嫌だった。…同じ?いや違うさ。解りにくいかもしれないがな…
「なんだそりゃ。勝手に怒って勝手に怒るのやめたのか?本当に勝手なやつだな、あいつは」
「でもよかったですね、ヤムチャ様。ブルマさんにもお祝いしてもらえて」
「…ああ…」
俺は今一つ納得できぬままに頷いた。怒っていないのはもちろんいい。でも、どうしてそうなったのか知りたかった。だが、それを訊くことはできなかった。
言えばきっと火種を投げ込むことになるだろう。時々あるんだ。俺はただ訊いただけなのに、『どうでもいいでしょそんなこと!』とかって怒鳴りつけられること。まあ、そういう時のブルマはたいして怖くはないが。でも、答えてくれないことには違いない。
「母さん、パーティは夜からにしてね。放課後はあたしたち出かけるから。それと、女の子は誰も呼ばないわよ!」
「ははーん。ブルマのやつ、女の子呼ぶって聞いて焦ったな。でもいつもだったら怒鳴りまくるところだろうによ。案外かわいいところあるな。勝手だけどよ」
少し首を竦めながら呟いたウーロンの言葉を、俺は無視した。幸いにしてブルマには聞こえていないようだったから。そして、曖昧にでも頷く気にはなれなかったからだ。
きっとウーロンにはわかるまい。ウーロンはブルマと付き合ってはいないからな。そう、ブルマは『案外』じゃなく『だいぶん』かわいいところがあると思う。怒っていたのに、こんな風に切り替えてくれたりとか。特に今日は、いつにも増して何も言わず。
違うかな。でも、それ以外に思いつかないんだよな。――『誕生日だから』。だって、流すにしても許してくれるにしても早過ぎだからさ。
「この際だから、思いっきりふっかけとけよ。誕生日なんだから遠慮すんな。おまえ、こんな日でもないとそういうことできないだろ」
「はは…」
こんな日でもそういうことできないかも。
俺は苦笑しながら記憶を掘り起こした。もう何ヶ月も前の会話。似たようなことをブルマも言った。俺はしっかり覚えていた――
「あ、いや、俺、別にプレゼントはいらないから。その気持ちだけで」
「何言ってんの。誕生日にプレゼントはつきものでしょ。遠慮しないで。あたしたち恋人同士じゃない!」
同時に見せたあけっぴろげな笑顔も。それにつられた自分自身も。
「…うん。あー、いやでも本当に。そうだな、ブルマが笑って祝ってくれればそれだけでいいよ。――なんて…」
「ヤムチャ…」
その後の、両手を組んで俺をじっと見ていたブルマの顔も。その時の潤んだ瞳も。――あの時、俺は実感したんだ。この子、俺のこと本当に好きなんだなって。形だけじゃないんだなって。…今思うと俺はかなり恥ずかしいことを言っていたが。でも、嘘じゃない。さらに今も変わっていない。そしてブルマは今そうしてくれている。
俺はそこはかとなく甘い気分になりながら、少し冷めたコーヒーに口をつけた。今のところ、交わした会話以外に特別なことは何もない。でも明らかに違っていた。いつもとも。今までとも。
好きな子のいる誕生日。それを俺は、初めて感じていたのだった。


ハイスクールへの道すがら。最初に再び今日の話題に触れたのはプーアルだった。
「そうだヤムチャ様、ボク後でブルマさんのママさんに焼き包子リクエストしておきますね。お好きですもんね」
「ああ、肉包(ロウパオ)な。そういやあれは毎年食ってるなあ」
毎年と言ってもプーアルと会ったのは3年前だから、まだ2回だが。どこかの町で食った時に『うまい』と言ったところ、プーアルが用意するようになったのだ。
だからこの言動は、完全に好意の量に因るものだと言える。だがその後に続く声は、とてもそうとは思えなかった。
「包子なんていつでも食えるだろ。どうせならもっと豪華なものを頼めよ。牛の丸焼きとかよ」
「そんなものどうやって用意するんだ」
「あんたもしつこいわね。それは無理だって言ったでしょ。あんたの誕生日だってヤムチャの誕生日だって同じよ。…ああでもそうね。豚の丸焼きなら作れるかもね〜」
「どういう意味だよ、それは」
「あ〜ら、わからないの?」
いつしかいつも通りとなった雰囲気の中で繰り広げられる、いつもながらのブルマとウーロンの舌戦。プーアルはいつものようにぽかんとした顔をしていたが、俺はいつもと違って呆れたりはしなかった。拍子抜けしたりもしなかった。つい数十分前までは、この舌戦すら聞けないだろうと思っていたのだ。感謝とはいかないまでも充分だという気はする。
いつもながらの足取りでハイスクールのゲートを潜り、いつもながらの流れでブルマと別れた。そして次に顔を合わせた昼休み、外庭の一角で弁当を広げながら、ブルマはごくごく自然な笑顔で言った。
「そっちのクラスの6限目って体育よね。じゃ、帰りはあんたが迎えにきてね。いつもと同じ…ううん、今日はあたし屋上にいるから」
「ああ、わかった」
この、当たり前のような空気が俺は嬉しかった。どうして屋上にいるのか、そんなことを訊くつもりはなかった。そんなにたくさん弁当のおかずを俺に寄こして腹は埋まるのか、などと言うつもりもなかった。きっとサボりながら菓子でも食うんじゃないかな。
なんとなくそれに一枚噛みたい気分になりながらも、俺はまたブルマと別れた。ま、あれだ。6限目はグラウンドだ。灰色のペントハウスに同化する菫色をこっそり見るのも悪くない。実際には視認できなかったが俺はそんな気持ちで授業を終えた。さっさと荷物を纏めさっさとクラスを後にしようとすると、前の席のやつが気だるそうに口を開いた。
「えー、おまえもう帰るのか?もうちょっと待ってろよー。今、どっかのクラスが調理実習だったらしいんだからさ」
「そうそう、クッキーだとよ、クッキー。絶対誰か持ってくるって」
それは急いで去らねば。教えてくれたことに感謝しながら、俺は事実を告げた。
「ブルマが待ってるから」
それで充分だと思った。俺とブルマが付き合っていることはもうみんな知っている。ブルマが気の強いやつだということもだいたいの人間には知られている。
だがクラスメートの反応は、俺の予想を裏切った。
「もったいねーなー。どうせ待たせてるんならなおさら貰ってからいけよー」
「そうそう、それが作ってくれたやつに対する礼儀だぞー」
一体どういう思考なんだ。だいたい調理実習なんだろ。それ以前に、ブルマと付き合ったことがないからこそ言える台詞だよな…
俺はまったく呆れながら、いるのかどうかわからないクッキーをくれる子よりも、屋上で俺を待っているブルマを優先した。俺自身のために。時が経つにつれ増えてくる未練がましいクラスメートに別れを告げて、さっさと屋上へ向かった。さっさと階段を上り、屋上へと続くロックの外れたドアに触れたところで、俺は自分がさっさとはしていたがこっそりとはしていなかったことに気づかされた。
「ヤムチャくん、ヤムチャくん!」
開きかけたドアの向こうではなく背後から聞こえてきたその声。まるっきり惰性で振り返ると、見覚えのない女の子が一人、ピンクのペーパーバッグを差し出してきた。
「これ、あたしが作ったクッキーなの。食べてください!」
一人で来てくれてよかった。友達連れだとすごく断りにくいからな。すでに背景を知っていた俺は、我ながら珍しいことにこの時はわりあい冷静に対処することができた。
「…あー、悪いけど、俺そういう物は貰わないことにしてるから――」
「えぇー。だって、ヤムチャくんのためだけに作ったのよ!」
「うん、ごめん。でもその気持ちだけで充分だから――」
「そう思うんなら食べて!ねっ、一口でいいの!」
「いや、そういうわけには…」
だが、女の子はなかなか引き下がろうとしなかった。どうしてそんなに熱心なんだ。調理実習で作っただけなんじゃないのか。心の中でそう突っ込みを入れた時、また背後から声が聞こえてきた。
「いいんじゃない?一口くらい食べてあげれば〜?」
その瞬間、俺は冷静ではなくなった。ペントハウスの上から身を乗り出すように覗き込んでいる顔に見覚えがないわけはなかった。
「…あ、ブルマ…」
「何よブルマ、あんたどうしてそんなところにいるのよ!」
「あたしは最初っからずっといたのよ」
だるそうに呟いて、ブルマが梯子を下りてきた。一見のんびりとしたその様を、俺は固唾を呑んで見守った。いきなり怒鳴りつけられるのはもちろんだが、こんな風に間を置かれるのもすごく怖い。どう解釈したのかはわからないが、この展開でブルマが怒っていないわけがない。…まさか両成敗したりはしないだろうな。俺はちゃんと断ったんだぞ――
「ええとあの、ブルマこれは…」
一体何から話したものだろう。そもそも話すことがほとんどないのだが。とりあえず貰う気ないってことだけはわかってもらわないと…
だが、ブルマは俺の話など聞いていなかった。いつにもまして聞いていなかった。ちょっぴり冷や汗を掻き始めた俺の横にやってきたかと思うと、いつもとは違う動きで手を閃かせた。
「一口でいいのよね。じゃあ一個貰うわね」
そして素早く奪った女の子のペーパーバッグに手を入れた。小さな丸いクッキーが一個出てきた。と思った次の瞬間だった。俺は口の中にクッキーを押し込まれると同時に、その声を聞いた。
「はぁいヤムチャ、あ〜ん」
「…………」
物理的、精神的、両方の理由から、俺は声を呑んだ。…そういう解釈なのか?ブルマにしては珍しい…っていうか、すごく恥ずかしいんだけどこれ…
言葉を喉に詰まらせているうちに、ブルマがクッキーを引っぱった。砕けた欠片が口の中に残った。…なるほど確かに『一口だけ』だ。心境はわからないが筋は通っている。呆然としたままクッキーを喉に落とし込むと、ブルマがまた手を閃かせた。そして今度は自分の口にクッキーを放り込んだ。俺の口からもぎ取っていった、食べかけのクッキーを。
「はい、一口終わり。んー、あんまりおいしくないわね。ま、授業で作ったものなんてこんなもんか。あんた今度はちゃんと味見してから持ってきなさいよ。ひとの彼氏に変なもの食べさせないでよね」
「…………」
俺はまた呆気に取られて、完全に言葉を呑み込んだ。というより、言うべき言葉が見つからなかった。だってまさかブルマがこんな時に、なんていうかこんな当てつけるような真似――
「…な、何よ!彼女面してんじゃないわよ!」
「彼女面じゃなくて彼女なのよね〜」
―― 『ような』じゃなかった。やっぱり、ブルマは当てつけていた。声を荒げ始めた女の子を前ににっこり笑って、一見自然に俺の腕に手を絡めてきた。その仕種がいつものことではないと知っているのは俺だけだった。
「このサボリ魔!言いつけてやる!」
果たして目論見通りにいったと言っていいものか。ともかくも女の子はすっかり騙され、足早に階段を下りて行った。最後に見せたその目には、俺ではなくブルマへの怒りが溢れていた。
「あーブルマ、少しやり過ぎ…あれはかなり逆恨みしてたぞ。言いつけるって――」
俺は少々情けなく感じながら、ペーパーバッグを放り投げ得意気に舌を出している自称『彼女』を見た。ちょっとかわいい、などと思っている場合ではない。ブルマが恨みを買わなきゃならない謂れはないのだ。俺がもっとうまく断れていれば。後をつけられたりしなければ…
「別にいいわよ。鍵替えられたって開けられるし。それよりさっさと行きましょ。呼び出し食らわないうちにね」
ブルマはあっけらかんとそう答えた。さすがサボリ魔。慣れている。ひょっとしてサボれればそれでいいのかもな。
俺はそう思ったが、もちろん本心ではなかった。言いながらドアを潜るブルマの手は、依然として俺の腕に絡んでいた。もう当てつける必要はないにも関わらずだ。屋上から階下までのごく僅かな距離、腕を引かれながら俺は思った。
今日のブルマはなんかかわいい。…ような気がする。


とはいえ、それがどうしてなのかなど、俺は考えもしなかった。それどころか、『考えろ』と言われていたことを考えるのさえ忘れていた。
「ねっ、それでプレゼントは何がいい?一体何がほしいの?」
ハイスクールを出たところでそう言われて、ようやく思い出した。最も、前もって考えていたとしても、答えは同じだったように思う。
「何でもいいよ。ブルマのその気持ちだけで」
「今さら遠慮しないの。ほしいものくらいあるでしょ」
「うん、でも本当に何でもいいんだ」
ブルマがくれるものなら何でも。くれようと思うものなら何でも。くれようとする気持ちがあれば、もう何でも。
ぶっちゃけた話、今のこの状況だけで俺はもう充分なのであったが、それは口にしなかった。それを言っては埒が明かない。せっかくプレゼントしてくれようとしてるんだ。その気持ちを無駄にするわけには…といって、何か思い浮かぶわけでもないのが困りものだ。単純に『ほしいもの』というならあるんだが。銀色の盤龍棍とか。でもそういうものを頼むわけにはいかないしなあ…
そう、嬉しく思う一方で、俺は少し困ってもいた。半歩先を行くブルマが、あきらかに俺の様子を窺っていたからだ。あからさまに俺の顔を覗き込んで…なんというか、期待に満ち溢れた眼差しで。これはいよいよ適当なものを頼むわけにはいかない。ここは一つ『君の愛』とか言ってみるべきだろうか。いや、さすがにそれはちょっと…………女の子にとっての花に該当するものって何だろう。そう思考の角度を変えた時、軽く首を傾げてブルマが言った。
「物じゃなくてもいいのよ。何かしたいことはない?ヤムチャの誕生日なんだから、ヤムチャの好きなことしましょ!」
その言葉にではなく表情に、俺は感化された。言うと同時に漏れたブルマのあけっぴろげな笑顔が、自然と俺をそういう気持ちにさせた。
「じゃあ、マリンパークに行こうか」
俺が言うと、ブルマはさらに首を傾げた。
「マリンパーク?って昨日行ったとこ?」
「ああ。昨日はほとんど見ずに帰っただろ?」
「…………。…そうね。いいわね。あたしも結構好きだったし…」
ブルマが一瞬言葉に詰まったのがわかった。その理由もわかったが、俺は少し苦笑いしただけで気は病まずに済んだ。ブルマが切り替えてくれていることは、もうはっきりしていた。いつもより優しくなっているらしいこともわかっていた。だから、俺も言えた。昨日をやり直したい、などと思ったわけではない。蒸し返すつもりももちろんない。俺がどうしてそうしたいと思ったのかの答えは、ブルマの言葉の中にあった。
誕生日だから好きなことをしてもいいと言うのなら、誕生日じゃない日に邪魔をしたブルマの好きなこともちゃんとしておかないといけないよな。


…なんて、いかにもこじつけっぽく聞こえるだろう。自分でもそう思う。っていうか、こじつけだ。
でも、それでよかった。どことなく拗ねたような顔つきで隣を歩き続けたブルマは、マリンパークへ入ると、途端に相好を崩した。
「わー、きれーい!」
「かわいー!」
ゲートを抜けてすぐの青い水の全方位トンネルで歓声を上げて、そのまま寄ってくるサメと共にフロアへと進んだ。サメをかわいいと言うその感覚は今一つわからなかったが、とても楽しんでいるということはわかった。さらに、再び半歩先を歩き始めたブルマの顔がガラスに映った時、俺は早くも自分の望みが叶えられたことを知った。
そう、俺がほしかったのは、その笑顔。なんてこと、さすがに面と向かっては言えないからな。…かつての俺は言っていたが。あぁー、恥ずかしいなあ俺。忘れていてくれるといいんだが。でもまるっきり忘れられていてもそれはそれで淋しいな…
我ながら幸せな思考を続けながら、俺はブルマの後ろ隣を歩いた。やがて目の前に大きな水槽が現れた。二階分吹き抜けの、目の覚めるようなターコイズブルー。大きなサメと共に小魚の群れが泳ぎ回っている様はまさに凝縮された海の中。今では言葉少なにブルマはそれを見ていた。青い水の色を映す穏やかな青い瞳。昨日とは大違いだ。昨日はここでブルマが踵を返した。その瞳には青い炎が燃えていた。
そこで俺は思考を閉じて、慌てて先へと進んだ。ブルマが急に足を速めたからだ。まったく、帰るのも進むのも早いんだから。軽く自嘲しながら後を追うと、やがてブルマが足を止めた。俺たちの他には誰もいない次なるフロアのドーム型水槽に、さっきとは似て非なる歓声が響いた。
「わぁ……すっごーい!きれーい…」
爽快な青緑から鮮やかな菫色へ。移りゆく水の色に負けず輝く鮮やかな熱帯魚の群れ。極彩色に極彩色が重なって、まるで花畑だ。ふと、水の色に溶け込んでゆく菫色の髪を隣に見ながら、俺はまた昨日のことを思い出した。最後まで追い続けた、人波に消えていく菫色の髪を思い出した。困ったようなプーアルと何とも言えないウーロンの顔も思い出した。それで、息を呑んでいるらしいブルマとは反対に、思わず呟いてしまった。
「昨日はこれ見ないで帰っちまったんだよなあ…」
「誰のせいだと思ってんのよっ!」
途端にブルマが声を上げた。おまけに拳も上がりかかった。でも俺は、昨日とは違って言い訳せずに済んだ。一瞬しまったと思ったが、こう言うことができた。
「ごめん。でもいいじゃないか、こうして二人で一緒に来れたんだからさ」
ブルマの拳は飛んでこないとわかっていたからだ。拗ねたような瞳も、わざとらし過ぎる大声も、なんだかかわいく感じられた。なぜだろう、ブルマが本気で怒っているわけではないとわかったのだ。だから、そう思ってしまった。プーアルとウーロンには悪いが、二人で仕切り直ししてよかった。昨日二人で来たのでもなく、今日みんなで来たのでもない。そのことに感謝すべきかも…
ふと、あの時にも似た顔でブルマが俺を見た。それで俺はつい足を速めた。今日は場を流してくれるやつらがいないから。実のところ俺自身は、そんなに恥ずかしいことを言ったとは思ってないんだが。でも、あの時もそうだったからな。きっとブルマの怒り方がかわいかったから、つられて俺もちょっぴりかわいいことを言ってしまったんだ。…なんか俺、最初から全然変わってないな。
俺は少々ふがいなく感じたが、それは長くは続かなかった。なんとはなしに頭を掻きかけたところで、ブルマが言った。
「あーん、もう、ヤムチャってば早い!もっとゆっくり歩いてよ〜」
そして一見ごくごく自然に俺の腕に手を絡めてきた。だが、当然俺は知っていた。この仕種がいつものことでは全然ないということを。ブルマ自身、きっとそれを認めていた。なぜなら平然としたその顔が赤かったからだ。
つい今さっきまでは自分が先に行ってたくせに。
幸せな愚痴を心の中で吐いてから、俺は思った。
なんだな。ブルマもそんなに変わっていない…いや。
なぜだろう。突っ張っているのに、なおさらそれがかわいく、そして近くにいるという感じがする。


単純に喜んでいいのかどうかはわからないが、俺たちは非常にそれっぽい時間を過ごした。
ブルマはどこまでも腕を組みながら隣を歩いた。広いところも狭いところも。なんかもう、魚を見に来たというより、腕を組みに来たみたいだ。とはいえもちろん、俺には異存はなかった。はっきり言ってとても嬉しい。ひさしぶりにものすごく『付き合ってる』っていう感じがする。…ここのところが、素直に喜んでいいのかどうかわからないところだ。他人には『付き合ってる』ってはっきり言えるんだけどなあ。ブルマが今日みたいな感じなら特に。
やがてまた目の前に大きな水槽が現れた。やっぱり二階分吹き抜けの。最初に見たのと違うところは、フロア全体がカフェテリアになっているということだ。水槽も照明も深く澄んだ深海の色。軽く息をついた時、ブルマが言った。
「ね、何か飲まない?一緒に」
「ああ、いいよ」
俺は一も二もなくそう答えた。すでに一緒にいるのにわざわざ『一緒に』と言ってくるブルマがとてもかわいく思えた。かわい過ぎて怖いくらいだ。…本当に怖くならないように注意しないとな。ちょっと気を抜くとブルマはすぐ怒り出すから…
「オッケー!じゃあ、あたし買ってくる!」
だがブルマが言うなり腕を離して駆け出していったので、俺はすっかり気を抜かれた。ブルマが自分で買いに行く、というのがなかなか珍しいことだったからだ。通常、ここは誰かに買いに行かせるところなんだ。誰かって、今は俺しかいないのだが。ずいぶん気を遣ってくれてるな。なんだか怖いな…
軽く首を竦めながらも、俺はブルマを見送った。注文カウンターのある二階への階段を上って行くその姿を眺めた。慌ただしく行き交う人波。その隙間を縫うように歩いていく後ろ姿。昨日と似たようなブルマの姿は、昨日とはまったく違う感覚を俺に与えた。…さらさらのきれいな菫色の髪。華奢なそれでいてメリハリのある体つき。ショートパンツからすらりと伸びた足…
俺はとてもラッキーだと思う。ブルマを好きになれたことが。容姿に似合わずとても怖いと知った今でも好きでいられることが。ブルマが俺を好きでいてくれることが。どうして俺なんか、とまでは思わないが。だってブルマはいかにも女の子っていう佇まいしてて、その実だいぶん強いやつなんだから。頭いいくせして結構抜けたやつなんだから。りりしいわりに女に縁のなかった俺とどっこいなんじゃないかと思うよ。
そして、そんな風に思えることがこの際はまた嬉しい。一年前の自分には考えられなかったことだ。延々と幸せな思考を続けながら、俺は軽く手を振った。どうやら俺の視線に気づいたらしいブルマが、こちらに戻りがてら先にそうしてきたからだ。そしてそのことが、さらに俺を感心させた。…俺の方から女の子を見て、なお且つ返された笑顔に応える。本当に、一年前の自分には考えられなかったことだ…
だが、その感心は長くは続かなかった。というよりほとんど一瞬の後に吹っ飛んでいった。
ふいにブルマのかわいさが間抜けさに変わった。駆けながらに階段を踏み外すという迂闊さに。いや、迂闊なのはトレイを持たせながら手を振らせた俺だろうか。ともかくも、ブルマの体は宙を飛んだ。その動きが尻もちをつける体勢にならないことは明白だった。
「ちっ…」
…鬱陶しい人波だ!
結果的には第三者を最も強く呪いながら、俺も宙へ飛んだ。人波を飛び越えがてら、子どもの頭へ落ちかかるトレイとグラスを弾き飛ばした。そんなことをしている余裕があったのも、ブルマが派手に階段から『飛び上がり』落ちたからこそだ。ラッキーと紙一重の皮肉を呑み込みながら、ブルマの体を抱き留めた。手摺りを一蹴りして階段の脇へと降りると、ほぼ同時にグラスも落ちた。やや離れた、人気のないフロアの片隅に。
「ふぅーー…」
グラスの砕け散る音だけが聞こえた。誰の悲鳴も上がらなかった。そのことに安堵して大きく息を吐き出した時、腕の中でブルマが言った。
「あーん、せっかく作ってもらったのに…」
「そんなことはどうでもいい!」
思わず俺は怒鳴ってしまった。階段を踏み外す直前のブルマの仕種を思い出して、さらに怒鳴ってしまった。
「グラスを気にしながら落っこちて、まだグラスを気にするのか。おまえはどこまで間抜けなんだ!」
だが、次の瞬間気がついた。今日は気がつくことができた。自分が今まさにブルマを怒らせるようなことを言ったということに。俺を見るブルマの瞳が、まんじりとして動かないことに。
「…あ。悪い、今のはその…」
一転して俺は固まった。身も心も。ここで手を離したら、また行ってしまうんじゃないだろうか。そう考えたら、もう支える必要のないその体も放せなくなった。一年前の自分には考えられなかった行為。とはいえ、そんなことを思う精神的余裕はなかった。おまけにうまい言い訳も出てこない。その時だった。
ブルマがふいに笑った。…ような気がした。それを確かめる時間とつられる余裕は俺にはなかった。俺はただ感じただけだった。
視界に被さる菫色の髪を。ふわりと漂う甘い香りを。それはひどくゆっくりとした一瞬だった。頬に優しい言葉代わりのキス。肩に置かれたブルマの手のぬくもりを感じると共に、ようやくわかった。ブルマは怒っていないということが。それどころか…
「…えっと。じゃ、場所変えよっか」
やがて伏し目がちに立ち上がったブルマの頬は、明らかに赤かった。そのこととその言葉の両方が、俺にその事実を思い出させた。――第三者の存在。鬱陶しかったかつての人波。寄せられる周囲の視線の中、ブルマは少しはにかみながらこう言った。
「やっぱりプレゼントあげるわ。何がいい?」
もう貰ったよ。
果たしてこの衆人環視の元、それを言うべきか。俺が迷っているうちに、ブルマが再び腕を絡めてきた。一見ごくごく自然に。まるで当たり前のような雰囲気で。
本当に恥ずかしいのかな。俺は幸せな疑問を横に追いやって、ブルマに一歩歩み寄った。ブルマの仕種がいつも通りではないと知っているのは、ここでは俺だけだから。今のこのかわいいブルマを――自分の彼女の存在を眩しく思いながら、ブルマに合わせた。場所を変えるため、一緒に歩き出した。幸せな悩みを一個抱えながら。
…さて、プレゼントは何にしよう。
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