同異の女
それは天気のいい日だった。
薄く雲がたなびく、気持ちのいい午後だった。トレーニングの休憩がてらテラスへ行くと、昼食の後からずっとそこにいたブルマが俺の顔も見ずに訊ねてきた。
「ねえヤムチャ、あたしのこと好き?」
「…好き…だけど」
軽く面喰らいながらも俺は答えた。ブルマの他には誰もいなかったのでそうすることができた。するとブルマは視線を動かしたが、それは単に見ていた雑誌の右から左へ移動しただけのことだった。
「じゃあ愛してる?」
「…………」
今度は俺は答えることができなかった。思わず息を呑んでいると、ようやく顔を上げながら、ブルマが片頬杖をついた。その顔には色気の欠片もなかったが、ある種の威圧はあった。
「ねえ、どうなの?愛してるの、愛してないの」
果たしてここで『愛してない』と答えることのできる男がいるだろうか。
「…はい、愛してます」
我ながら感情の篭らぬ声だと思った。だがブルマはさして気にした様子もなく、再び雑誌に目を落とした。
「次、暖色と寒色、赤と青どっちが好き?」
「一体何をやってるんだ…」
この時になってついに俺は、その質問をしてみようという気になった。いかにも暇そうだったから、訊くのを端折ったんだ。ブルマは軽く笑いながらも頬杖は崩さずに、あっけらかんと言った。
「心理テストよ。ちょっとやってみたの。暇だから。この雑誌に載ってるの」
それは本当に暇なんだな。
俺はたいして呆れはせずにそう思い、ブルマに倣って片頬杖をついた。なんとなく、相手してやろうかなって思って来たんだ。だってすごく退屈そうに見えたから。こんな暇潰しに付き合わされるとは思わなかったが。
「ねえそれで、暖色と寒色。赤と青」
「俺、中間色が好きなんだけど。緑とか紫とかさ」
「そういう選択肢はないの。赤と青!」
「…じゃあ青…」
どうやら『どちらでもない』は用意されていない心理テストらしい。まあブルマには合っていると言えるかな…
のんびりと雑誌を捲るその姿をなんとはなしにのどかな目で見た時、ブルマの質問が一転して鋭くなった。
「恋人が自分と同じ性別になったらどうする?」
「…………」
俺は再び息を呑んだ。…どうするって。本人に訊かれてもな…
ここに至ってようやく俺は気がついた。最初から心理テストだとわかっていればすぐにも気づいたに違いないそのことに。
「そういうのは普通、自分を当て嵌めるものなんじゃないのか?」
好きかとか愛してるかとか、相手に直截訊けるなら心理テストなんてする必要ないじゃないか。深層心理を占うにしたって、直截訊いちゃダメだろ。
ブルマからの返答は、ある意味非常にブルマらしいものだった。
「自分を枠に嵌めたって仕方がないでしょ。そんなことして一体何の意味があるっていうのよ」
俺が返す言葉を見つけられずにいると、ブルマはさっさと話を先に進めた。
「いいじゃない。ちょっとしたお遊びよ。…あっ、ヤムチャ、これ行きましょ。映画」
同時に雑誌のページも先へ進んだ。俺が答えなかったことにも怒らない。結果の気にならない心理テスト。本当に暇なんだな。
「来月初日封切りの製作費百億ゼニーの超大作アクション映画。三部作ってちょっと面倒くさいけど、まあいいわ。いつものシアターでいつもの時間にね。あっ、この服かわいい〜」
…………
……


…確かにそんな、暇潰し的な口約束ではあった。
俺は返事をしなかった。訊き返すこともしなかった。『いつものシアター、いつもの時間』、それだけで話は通じた。だから黙って了解した。それがいけなかったのだろうか。
うん、たぶん間違いなくいけなかったんだろう。
約束した映画の二回目の上映が始まってもブルマが現れなかったので俺は待ち合わせ場所を離れ、公衆電話の受話器を取った。そして一瞬の後にそれを置いた。…今から電話してもあまり意味がないような気がする。どこかへ出かけてしまってもうC.Cにはいない可能性が高いし、もしいたとしても『もっと早くに電話しなさいよ!』とかって怒られるんじゃないだろうか。ここは直接出向いてさりげなく切り出した方がいいかもな。
せっかくひとが乗りかけた修行を切り上げて来てやったのに。具合が悪くて寝てるとかじゃなかったら、絶対に怒ってやる。やがてC.Cへと向かう途中、俺はそう決意した。飛んで行く気にはなれなかったので、地道に地面を歩いていた。それがその心境を呼んだのだろう。だがC.Cのゲートを潜りテラスにいたプーアル、ウーロンと顔を合わせた後で、その心境は少々変化した。
「あれっ、ヤムチャ様。おかえりなさい、今回は修行を終えるの早いですね。修行中に何かありましたか?」
「ああ、ちょっとな。ブルマはいるか?」
「起きてはいるみたいだぜ。さっき内庭から声が聞こえたからな」
…はー、やれやれ。ブルマにとってはまったくいつも通りの暇な休日か…
さて、何と言って切り出そう。まず何のために俺がここに来たのかをはっきりさせておかないとな。
軽く頭を振りながらエントランスへ入り込むと、向こうからちょうどブルマがやってきた。ブルマは俺と顔を合わせるなり笑って言った。
「あれ。おかえりヤムチャ、早かったわね」
帰ってきたわけじゃない。その台詞を俺は思わず呑み込んだ。
「何だ、その格好は!?」
スレンダーなシルエットの白のショートタキシード。カラーは細め、パンツはノータックストレートで、もとより長い足がより長く見える。淡いピンクのシャツに、それよりは濃いピンクのベスト、同生地のタイ、ポケットチーフ。妙に凛々しく整えられた化粧。一応リボンはついているものの、いつもよりはだいぶん大雑把な髪型。さらに…。ブルマのその格好は『ちょっとやってみた』では済まされない凝りようだった。ブルマは笑って胸を張ると、まるっきりわかりきったことを口にした。
「何って男装よ。なかなかイケてるでしょ」
『そんなことはわかってる』。その言葉を、俺は懸命に呑み込んだ。
「一体どうしてそんなこと…」
「だって、瞬時性転換マシーンなんかを作る時間はなかったんだもの」
続く言葉には、脈絡というものがまるでなかった。俺は面喰らいながらも、一つ非常に気になったことを訊いてみた。
「…胸はどうしてなくなってるんだ?」
「さらしよ。ちょっと痛いんだけどね」
張っていたにも関わらずなかった胸に目を落としながら、ブルマはあっけらかんとそう言った。そしてさらに言い放った。
「じゃあね、あたしもう行かなくちゃ。ちょっと遅くなっちゃったから急いでるの。帰ってきたら遊んだげる」
「ちょっと待て。行くってどこに行くんだ」
片手を振りながら涼しい目元を細めて爽やかに去ろうとするブルマの腕を、俺は当然捉まえた。そして予定していたのとは少々違うニュアンスで、ブルマのその行為を咎めた。おまえが今日行くところは俺のところしかないはずだろ!忘れていたにしたって、せめて思い出してから行け。いくら何でも構わな過ぎじゃないか。これじゃ、俺は一体何の為に修行を切り上げたのかわかりゃしない。
俺の語気は自然と強まった。だがブルマはさして気にした様子もなく、胸のポケットからカードを一枚取り出した。俺の台詞を言葉通りに受け取りながら、俺の鼻先でそれをひらつかせた。
「オークションよ。科学関係の骨董品のね。本当は父さんが行くはずだったんだけど用事で行けなくなっちゃったから、あたしが行くの。絶対欲しい物があるのよ」
なんとなく、俺はそのカードを手に取った。そしてそのままなんとなく目を通した。やがてその一文がなんとなくではなくしっかりと目に留まった。
「おいブルマ。これ、『男性限定』ってなってるぞ」
「うん、そうなの。おかしな決まりよね。おかげでこんな格好するはめになっちゃった」
「まさかおまえ、そのなりで行くつもりなのか?」
「もちろんよ。何日も前からこのオークションを楽しみにしてたんだから」
ブルマはひたすらにこやかに笑っていた。俺はというと、もうすっかり初めの態度を崩されていた。どうやらこのオークションが俺との約束を忘れさせたらしいということは過ぎるほどにわかっていたが、すでにそこは言及すべきところではなくなっていた。
「やめておけ。バレたらどうするんだ。何か罰則があるかもしれないぞ」
「平気よ。絶対バレっこないから。ほら、サングラスかけたら結構それらしくなるでしょ」
「いや、見た目は誤魔化せても声でバレる。どう聞いても女だ、おまえの声は」
「大丈夫だって。競りの時に声なんか誰も気にしないわよ。気にするのは競り値だけよ」
「例えそうだとしたって、こんな小柄な男はいないぞ」
「何言ってんの。クリリンがいるじゃない。クリリンはあたしより小さいわよ」
終始ブルマは笑顔だった。どこまでも笑顔で、俺の言葉を跳ね除けた。俺はその笑顔を怒鳴りつけることができずに、結局はすべての意味で折れてしまった。
「わかったよ。俺が行ってきてやるよ…」
俺は本当に何のために修行を切り上げたんだろう。そう心の奥では思いながら。


それから15分ほど経っただろうか。
俺は自分の反射的な感情というやつをどうにも持て余しながら、鏡の前に座っていた。いつもは座らず見ているだけの、ブルマのドレッサーの鏡の前に。
「まずは顔の傷を隠さなくちゃね。今時、顔に傷をこさえてる科学者なんていやしないんだから。まっ、科学者じゃなくたってあんまりいないけど」
そう文句を言うブルマは、今だに笑顔だった。なんともいえず楽しそうに、手首を返しては俺の顔に次から次へと化粧品を塗りつけていった。
「ブルマサマ、ブティックカラゴチュウモンノシナガトドキマシタ」
舞い散る粉に咽そうになったちょうどその時、メイドロボットがやってきた。運ばれてきたものは、思っていたよりは堅苦しくない感じの白のロングタキシード。タックはありカラーもぱりっとしているが、シャツはブルーでタイはアスコットタイだ。略正装といったところか。やや気を抜いてそれらを身につけると、すかさずブルマが黒縁眼鏡を差し込んできた。
「どうしてサングラスがいるんだ?俺はれっきとした男だぞ」
「わかってるわよそんなこと。だけどこういう小物は必要よ。あんたは科学の知識はまるでないんだから、せめて見た目をそれっぽくしておかなきゃね」
やれやれ。男装の次は変装か…
「うん、なかなか似合うじゃない。駆け出しの助手って感じがするわ」
…感じがするんじゃなくて、そうなんだろ。
俺がその言葉を呑み込んだのは、喜々として俺の髪に揃いのリボンをつけるブルマに気を取られたからではなかった。その後の、その発明品――ミクロバンド――を腕にはめるブルマの姿が不本意だったからだ。…まさかこういう展開になるとはなあ。肩を竦めた俺の脳裏に、数十分前の会話が蘇った――
「わかったよ。俺が行ってきてやるよ…」
「いいわよ別に。あんた、科学のことなんて何もわからないでしょ」
「物がわかってるんなら用は足せる」
「オークションだって一度も行ったことないくせに」
「性別を偽って行くよりはマシだろ」
「だけどもし競り負けたりしちゃったら…」
「金はあるんだろう?」
「…そうね、じゃあ頼もうかしら。確かに顔を出すなら本物の男の方がいいものね。あたしはポケットにでも入って行こっと」
「は?一体何言って…」
「気づかれなければ男も女もないでしょ。ほら、覚えてない?ミクロバンド。体が小さくなるメカよ」
――俺は『代わりに行ってやる』って言ったつもりだったんだ。…『代わりに』を端折ったのがいけなかったのだろうか。でも、普通はわかると思うんだが…
「絶対に見つからないようにしろよ。うっかり元に戻ったりするんじゃないぞ」
ちなみに招待状は一人一枚らしい。つまり女だとバレずとも姿を見られたら終わり、というわけだ。
「そっちこそ、あたしが欲しいって言った物は絶対に落札してよ。はい、イヤホン、これは耳の中に入れて。マイクは喉元、スイッチは首の後ろね。喉の震えが音声になる仕組みなの。サブマイクもちゃんとついてるから、うっかり聞き洩らしたなんて言い訳はなしだからね」
おまけに密談用超小型インカムを携帯。もう立派な犯罪行為だ。
「よし、じゃあもう行きましょ。だいぶん遅くなっちゃったから、飛んでってね。オークション会場に潜入よ!…あ、そこの招待状と小切手帳持って。胸ポケットには入れないでね。当たったら痛いから。あと、トイレに行きたくなったらあたしを下ろしてから行ってよね」
俺は返事をしなかった。訊き返すこともしなかった。文句をつけるタイミングはすでに逸していた。『ポケットにでも入って行こっと』そう言い出した時点で突っぱねるべきだったのだ。訊き返すことなんてせずに。ミクロバンドのことを口にされる前に…
一通りの指示を終えると、ブルマは早速小さくなって所定の位置についた。俺は仕方なく招待状と小切手帳をスラックスのポケットに突っ込んで、胸元のミニチュア人間を押さえた。風圧で飛ばされないように。…そう、わざともしくはそう装ってブルマを置いていくことはできる。物理的には。だが、精神的にはできようはずもなかった。
そんなことをすれば怒られるに決まっているからだ。そこまで理不尽な結果を呼び込んでたまるか。もともと約束を破ったのはブルマなのに、どうして俺が悪者にならなきゃいけないんだ。
そう思いながら空へと飛んだ直後、ようやく俺は気づいた。
反故にするどころか思い出させもしないまま、話が進んでいるということに。


オークション会場はウェストエリアの郊外にあった。
広い敷地の中央に建つ、レンガと鉄骨にガラス張りの二階建ての広大な建物。燦々と陽が射す二階まで吹き抜けのロビー。開放的なのは建物だけではなかった。入場者に対しても、招待状の確認と簡単なボディチェックのみ。とはいえこのボディチェック、ブルマはどうするつもりだったんだろう。おとなしく触られているとは到底思えないんだが。
武器などは当然持っていなかったので俺は難なくそれらをパスし、会場内へと入り込んだ。オークションはすでに始まっていた。
『――さあ、次は前時代17世紀に作られたカルペッパー型木製顕微鏡…』
わかるようでわからない科学品の説明と、それに続く競りの声。ボディチェックを受けている間どこぞへ身を隠していたブルマが、足元に駆け寄ってきて歓声を上げた。
「活気あるわね〜。思ってたのとはちょっと違うけど、おもしろそうだわ」
「少し声が大きいぞ。おまえ、オークション来たことあるんじゃないのか?」
「ここまで本格的なのは初めてよ。もっと小さい入場制限も何もないやつなら行ったことあるけどね」
俺はどこか騙されたような気持ちになりながら、ブルマを胸ポケットに忍ばせた。視界に入る邪魔くさい眼鏡のフレームを少しずらした時だった。
『さあ、次は前時代19世紀の物理学者ロイ・ジェイ・グラウバーの“光のコヒーレンスに関する論文”、直筆原稿です。500000ゼニーからです』
「あっ、出た!ヤムチャあれ。あれ落として!1000000!」
「だから声大きいって。…1000000っていきなり過ぎないか?せめて600000くらいから…」
「いいの、どうせそのくらいの値はつくから。1000000!」
「わかったよ。…1000000!」
俺が声と手を同時に上げると、場内の空気が一変した。大きなざわめき。数瞬の後に静寂。それからワンテンポ遅れて、おずおずと場を締める声――
『…はい、ただいま1000000ゼニー、1000000ゼニーです。上はありませんか』
きっと、どこの金持ちのボンボンだ、とか思ってるんだろうなあ。今ちょうどそういう格好してるしなぁ…
いたたまれないとまでは言わないが苦笑せざるをえない視線がそこかしこから浴びせられた。だが、実際に苦笑することはなかった。
「1100000!」
すぐにボンボンがもう一人現れたからだ。まあボンボンかどうかは知らないが、呆れた神経の持ち主であることは確かだ。初値の2倍にさらに上乗せ…
「むむ…、1200000!1200000って言って、ヤムチャ!」
そしてさらにそれに上乗せする俺の彼女。俺はすっかり呆れながらも、自分の役割を果たした。
「はいはい。…1200000!」
『はい、1200000ゼニーです、1200000ゼニーです。なければ、この品1200000ゼニーです』
「1300000!」
『1300000が出ました。はい、ただいま1300000ゼニーです』
「ええい、しつっこいわね!じゃあ1400000!!」
「わかってるから、そう大声出すな。落とせばいいんだろ。…1400000!」
「1450000!」
「くー、諦めの悪い!1500000!」
「あのな、ちゃんと落とすから、だからおまえも声落とせ。…1500000!」
「1550000!」
「えーい、これでどうよ。1600000!」
「おいブルマ、気持ちはわかるがもう少し静かにしろ。周りに聞こえるぞ。…1600000!」
「1610000!」
今にも飛び出さんばかりのブルマを胸元に押さえつけながら、自分の懐にはない金額を叫び続けた。さてこの、中途半端に現実感覚を漂わせながらしぶとく追ってくるボンボンと、青天井だろうがなんだろうが落とせばいいという姿勢のブルマ、どちらがより(少しだけ)賢いんだろう。そんな皮肉を心に思った時、ブルマが俺の胸を叩いた。
「あー、もうこれで決めるわ!2000000!!」
「2000000って。それは飛び過ぎだろ。だいたいそれじゃ初値の4倍…」
「いいから早く!2000000!!」
どうやらこの紙一重の状況に耐えられなくなったらしい。その気持ちはわからないでもないのだが、いかんせん声が大き過ぎた。
『2000000です、2000000ゼニーが出ました!…で、えー…今叫んだ方はどなたでしょう…?』
俺の役目は物の見事にショートカットされた。いきなり飛び出した甲高い声に、当然と言えば当然のざわめきが場内のあちこちから漏れ聞こえた。
「女の声みたいじゃなかったか?」
「いや、子どもだろう」
「2000000だって?本気か?一体どこのボンボンだ」
まったく、こいつは……
俺はやや憮然としながら、さっきまでとは一転して胸ポケットの奥へ潜り込んだブルマを小突いた。本当には潰してしまわないように。こんなに小っこいのに声が会場中に響くってどういうことだ。鼓膜が破れるかと思ったぞ。
「…本気も本気!ボンボンじゃなくて、あたしが落としたの!だって絶対欲しいのよ〜ぅ…」
ぶつぶつと零される本人にとっての呟きを聞きながら、俺は息を吸った。そして吐いた。
「2500000!!」
同時にインカムのスイッチを切った。もっと早くにこうしておくべきだった。どうせブルマは俺の言うことなんて聞きゃしないんだから。そしてブルマの声は聞きたくなくとも聞こえるんだから…
『2500000が出ました!はい、ただいま2500000ゼニーです!なければ、この品2500000ゼニーです。ない様なので、この品2500000ゼニーでお買上げです』
そのアナウンスは明らかに興奮していた。それはそうだろう。初値の5倍。しかも最後は初値をそっくり上乗せだ。きっと、何考えてるんだ、って思ってるだろうな。
ただ当てつけのためだけにそうしたとは、まさか思うまい。

落とした品物が舞台の袖へ引っ込むと、ほとんど入れ替わりにブルマがポケットから出てきた。自然、俺の視線は厳しくなった。珍しくブルマも悪びれていた。俺と目を合わせるなり、再びポケットの奥に引っ込んだ。
「まったく、だから声が大きいって言ったんだ。バレたらどうするつもりだったんだ」
でも俺がそう言うと、開き直った。
「だって、あんたがもたもたしてるから」
「ちゃんと落札しただろ。もういい、さっさと帰るぞ。手続きしてくるから、おまえはそのへんの物陰で待ってろ。手続き中に大声を出されちゃかなわん」
「ちぇーっ」
思っていた通り、インカムを切っていてもその舌打ちは聞こえた。ちっとも嫌み通じてないな。そう思いながら、俺はブルマをポケットから出した。それ以上何も言ってこなかったのをいいことに、そのまま傍を離れた。そして舞台横で、競り売り人の営業トークに晒された。
「こちら落札品プレートです。そちらの端末に住民番号を入力してください。購入のお手続きは任意の時間にどうぞ。オークションをごゆっくりお楽しみください」
「すぐ手続きするよ。そうのんびりとはしていられないんでね」
「まだまだ掘り出し物がたくさんございますよ。特に今回は偉人の直筆原稿が多々揃っておりまして…」
「ああ、でもこれが今一番興味のある物なんだ」
なかなかそれっぽいことを言っているな。5倍もの値をつけたアホな人間とは思えん。
「そうですか。お客様のような方にこそ買っていただきたい物がたくさんあるのですが、残念です。では、あちらのお部屋で購入手続きをなさってください」
少々学者ぶってみた俺に対し、競り売り人はまるっきり金持ち扱いをした。物の価値がわかっているかよりも金か。科学者の集まりとはいっても、競りともなればそれほど固くはないようだ。
俺はいろいろな意味で苦笑しながら、示された個室へ入った。これまでいたところとは打って変わって閉鎖的な雰囲気の、少々暗過ぎる感のある小部屋。しばらく待っていると、やがて落札物がカートに乗って運ばれてきた。俺が小切手帳を取り出すと、カートを操作していた男が言った。
「ロイ・Jに興味がおありなのですね。でしたらおもしろい物がありますよ。イグノーベル賞の授賞式で彼が使っていたモップ、そのうちの一本がこの後出品されます」
俺は思わず手を止めた。ここに足を踏み入れてからというもの、俺はわけのわからない単語ばかり聞いている。今ようやく、わけのわかる単語を聞いた。『モップ』。とはいえこれは…本当の本当に価値がわからん。
「授賞式会場の倉庫から発見されたんです。紙飛行機を除けていただけのものですから汚れも少なく美品です。コレクターズアイテムとしてはお勧めですよ」
男はさらにわけのわかる単語を連発したが、俺はますますわからなくなってしまった。『授賞式』…『紙飛行機』…モップなのに『美品』…
「あいにく俺は代理人なんだ。共同研究者の女性にこれが欲しいと言われてね」
「なるほど、そうでしたか。それであなたはその女性が欲しいというわけですね」
「…ま、そんなところかな」
少しだけ科学者らしい切り返し。それに男はいかにも男同士の会話らしい受け答えをしてくれた。こりゃあ変装の必要、全然ないな。
俺は2つ目の潜入アイテムである伊達眼鏡も外した。そして、0の数を間違えないよう気をつけながら、小切手を切った。

落札品の入ったカプセルを手に会場へ戻ると、俺の求める女性はいなかった。
「ブルマ?おい、ブルマ」
インカムの呼びかけにも応答しない。舞台前に齧りついているのかと思い探してみたが、会場内のどこにもいない。帰った?――とは思えない。別に怒らせるようなことは何もしていない。というか、これで帰られたら俺が怒る。
俺は再び眼鏡をかけて、できるだけさりげない足取りで、唯一、強いてあげればブルマが一人で行くかもしれないところへ行ってみた。…手洗い。女性用トイレ。十分ほど近くのロビーに張りついてみたが、封鎖されていたそこから出てくる者はいなかった。それで、本格的に捜索せざるをえなくなった。
小さくなっているのをいいことに、何か悪戯しているのかもしれない。そうだな、他の科学品を盗み見するとか。俺にはあんまりおもしろみのあるオークションとは思えないが、ブルマは時々ひどく科学者染みたところを見せるからなあ…
実際、今俺がこんなところにいるのもそのせいだ。俺は眼鏡をダストシュートに捨てて、フロア端のエレベーターへと向かった。おそらく地上階にはいまい。一階は会場の他にはフロントとロビーだけだし、二階は見るからに何もなさそうな開放的なホールだ。地階への案内はどこにもないが、エレベーターが通ってるんだから何かあるんだろう。
さて地下へ行くと、そこは地上階とは打って変わってオフィスビル的なフロアだった。地下だから採光がないのは当然としても、ずいぶんと雰囲気が暗い。エレベーターを降りてすぐのところにまたもやフロントがあって、そこに座っていた線の細い男が俺に声をかけてきた。
「こちらのフロアはオークションの管理オフィスとなっております。何か不手際などございましたでしょうか」
「ああ、いや。そういうわけじゃないんだ。ちょっと、その…迷ってしまってね」
『人を捜している』。そう素直に言わなかったのは、捜し人が女だったからだけではない。その男の目つきが気に食わなかった。慇懃無礼。丁寧な口調とは裏腹に、明らかにこちらを煙たがっている目つきだった。俺はまるっきり能天気な迷子を装って、さりげなく辺りを見回した。遠く中央のエレベーター前に、本当に迷い込んだと思われる二人の科学者らしい男が見えた。彼らは黒いスーツを着た一人の男に尋問されていた。
「オークション会場は一階です。地階はすべて立ち入り禁止となっております」
さらにそう慇懃無礼に畳みかけられて、俺は足を踏み入れたばかりの地下一階を追い出されることとなった。釈然としないまま再びエレベーターに乗り込んだ、その直後だった。
『あっ…!』
ふいにイヤホンから声が聞こえた。一音だったが確かに聞こえた。甲高い、だが途切れゆく悲鳴。俺は訊き返すことはしなかった。すぐさま別の声が聞こえてきたからだ。
『よせ!彼女に手を出すな!!』
『彼女』。その言葉の意味を噛み締めながら、イヤホンの音量を上げた。バレている。そして揉めている――ブルマの声は聞こえてこなかった。ただ延々と、知らない男たちの会話が耳に流れ込んできた。
『するな、だと?ずいぶんと偉そうな口をきくものだな』
『すみません、叔父上。ですが、その女性は私の知り合いなのです。どうか私に任せてもらえませんか』
『ダメだ。ここを見られたからには逃がすわけにはいかん。知り合いならばなおのことだ』
『逃がしなどしません。ただ女性が苦手な叔父上の手を煩わせたくない、それだけです』
『ふん、うまいこと言いおって。さっさと連れてけ。処分は報告しろよ』
『ありがとうございます。――そうだな、仮眠ルームへ運べ。そう、地下二階のだ』
一体何が起こっているのか。今一つ掴み切れないまま、俺はエレベーターのコンソールへ手を伸ばした。エレベーターは停止階制御されていた。地階は地下一階しか受け付けない。
俺の指は自然、地上一、二階のボタンを押した。一階で下り、カゴを二階へ送った。それからドアをこじ開けて、地下二階への直下通路――シャフトへ飛び込んだ。

二階分を飛び降り地下二階のエレベータードアをこじ開けると、またもやオフィスビル的なフロアが広がった。地下一階と違うのは、フロントと人気がないことだ。だからというわけではないが、とりあえず目の前に見えたドアを手刀でぶち壊した。慎重にいくつもりはなかった。わざわざシャフトなどを通ってきたのは、単に床を破って建物を崩壊させることを避けたからに過ぎない。それに万が一抜いた床の下にブルマがいたら大変だ。
「ブルマ!」
開いたドアの向こうとマイクの両方に向かって、俺は叫んだ。返ってきたのは、やけに愉しそうな囁きだった。
『よく眠っている』
二度目に聞く男の声。だがその印象は先ほどとはまるで違っていた。ブルマを庇っていた時にはなかった厭らしさとねちっこさ、それが声という形を取って俺の耳に入った。
『さて、どうするかな。今のうちに挨拶を済ませておくか、それとも…』
瞬間、背筋に悪寒が走った。男の声はそこで途切れた。はっきりとも言わなかった。だが、俺にはわかった。
ものすごく趣味の悪い事態になっている。俺は二つ目のドアを目前にしていたが、ブルマがその中にいないだろうことはなんとなくわかっていた。
「ブルマ、ブルマ!起きろーーー!」
だからまた叫んだ。起きてどうなるものではないかもしれない。でも堪えられなかった。さっさと起きていつもの剣幕で抵抗しろ。そうも思った。
『…ん…』
俺の願いは一部聞き届けられた。俺の声に答えるように、すぐさまくぐもった吐息が聞こえてきた。
「ブルマ、そこはどこだ!?教えろ。叫べ!」
端的に俺は言った。しらみ潰しに探してる場合じゃない。声が聞こえりゃ飛んでってやる!
だがブルマは応えなかった。僅かな沈黙の後に、再び男の声が聞こえてきた。それは最高に俺の神経を逆撫でするものだった。
『おひさしぶりです、ミス・ブルマ。ご気分はいかがですか。先ほどは叔父が失礼しました。叔父はあまり教養のない人間でして、科学界にはまるで疎いのです。私が居合わせなかったら、一体どうなっていたことか。本当に事が起こる前に気がついてよかった』
「何を寝言抜かしてやがる。この狸が!」
歯の浮くような口調に胸糞の悪さを感じながら、三つ目のドアを蹴り破った。誰もいない空間を前に、ブルマの声が聞こえてきた。
『ええと、あなたの名前を訊いてもいいかしら?それとこの…』
そんなことを悠長に話している場合じゃないだろう!
強く思ったそのことを、俺は口にはしなかった。相手の目論見を見抜けないブルマのよそゆきの声を咎めるよりも、新たなドアを破ることを優先した。この時、すでに俺にはわかっていた。
『ネフューです。覚えておられなくてもしかたありませんね。挨拶以上のお話をするのはこれが初めてですから。パーティではあなたはいつも忙しそうだった。ですが私はいつもあなたのことを見ていました』
『そ…それはありがとう。ところでこの…』
俺の声は届いていない。ああ、ブルマは俺の言うことなど何も聞いちゃいないんだ。
『世界有数の大企業C.Cのご令嬢。科学に長けた次世代の頭脳。美しいその容姿。叔父などのために処分してしまうのは惜しい…』
――それにしても、いい加減に気づきやがれ!
五つ目のドアを前にした時、狸が尻尾を出した。だがそれは俺をまったく釈然とはさせずに、再び悪寒をもたらした。
『あなたが私にすべてを任せてくれるなら、悪いようにはしませんが…?』
わざとらしい物言い。ねっとりとした声音。
『叔父も女を一人消すよりC.Cと繋がることを望むでしょう』
『何を勝手なこと言ってんのよ!』
今さらながらにブルマが声を上げ始めたが、それは何ら気分を変えはしなかった。…こんなの、俺は聞きたくなかった。断じて聞きたくなかった!拳を固め次のドアへ向きかけると、その思いは決定的なものとなった。
『…あっ!』
『そんな反抗的な目をするんですか?じゃあ閉じてしまいましょう――この口がまだわからないことを言うんですね。これも塞いでしまいましょう…』
その瞬間、俺は思わず拳を解いた。虫酸が走った。堪えきれずイヤホンに手をかけたところで、その声は聞こえてきた。
『い…いや……やっ…』
微かな、途切れゆく悲鳴。マイクでなければ拾えないブルマのその声を聞いた時、ふいにわかった。
ブルマの居場所が。遠くそのドアの向こうにいるということが――
「…ヤムチャーーーッ!!」
最後の声は、直接聞いた。破ったドアの向こうは、廊下よりもさらに暗かった。暗色の室内、暗色のチェア、暗色の男。ベルトとアイマスクさらに自らの衣服で、ブルマはすっかり拘束されていた。その上胸元がはだけられていて、さらにブルマの自由と視界を奪った男が、今日は紅くはないブルマの唇をも奪おうとしていた。
「このっ…!」
その光景を目の当たりにした瞬間、理性はおろか野生の勘すらもどこかへ飛んで行ってしまった。気づけば俺は、どう考えても必要のない巨大な気弾を一発、放ってしまっていた。
「きゃあっ…!」
「うああぁぁっ!!」
二人の悲鳴が聞こえた。男の体が吹っ飛んで向こう壁にぶち当たった――この際はよかったというべきか、血気に任せた一弾は至近距離にも関わらず二人の横を素通りしていった。風圧からブルマを守ってくれたチェアベルトを感謝はせずに外すと、男が崩れた壁から体を離しながら嘯いた。
「…な…何だ、貴様は…」
「こいつの男だ!」
俺は突っぱねた。そんな問答をしている場合じゃない。今では戻りつつあるそういう自分の理性を突っぱねた。同時にブルマの体を引き寄せた。ブルマはきょとんとした顔で抱かれるままになっていたが、外れたアイマスクの下から涙が一滴零れたことに、俺は気づいていた。涙の跡をそっとなぞると、ブルマは一瞬唇を噛んでから、胸元に顔を埋めた。その瞬間、俺の気はすっかり男から逸れた。今すぐブルマを確認したい気持ちでいっぱいになった。でもそれを制したのも、またブルマだった。
「大変。ショートしてるわ」
手は俺の腕を掴み声も少し震わせながらに、そう言った。その台詞の内容ではなく口調に意外を衝かれて、俺は訊いた。
「何が」
「防音装置よ。空調と連動してるみたいね。これはひょっとすると発火するかも…」
返ってきた声は、またもや淡々としていた。懸念するというよりはまるで分析するような目。それに少しばかり呆れかけた時、背後で爆音がした。
「きゃっ…」
ブルマの言葉はだいぶん控え目に過ぎた。それとも動揺していて読み違えたのだろうか。それは発火どころか立派な爆発だった。壁に亀裂が走り、爆風が僅かな照明を壊した。
「これは止められそうにもないな」
数分前の自分に罪悪感を抱きながら呟くと、今悲鳴を上げて抱きつき直してきたばかりの人間が、それは強気な発言をした。
「そんなことしてやる義理ないわよ。こんなところは潰れて当然なの!さっさと行きましょ」
そして俺から体を離して、言葉通りさっさと行きかけた。俺はすっかり呆れながら、その体を抱え込んだ。ブルマの足元がふらついているのがわかっていたからだ。ブルマは素直に体を預けはしたが、持ち前の向こう意気は健在だった。
「バーイ。後始末がんばってね」
片手は俺の肩を掴みながらも、もう片手は言葉と共にさっきはあんなに嫌っていた男に向けた。そればかりか笑顔すら零した。
…こんな強気なやつにあんな声を出させたのか…
直に一撃叩き込んでおいてやればよかったかもしれない。奇妙な敗北感を味わいながら俺は床にうずくまる男を無視し、ブルマを抱いて天井に一撃叩き込んだ。


吹き上がる黒煙。舞う炎。風に乗って漂ってくる焦げた匂い。
気づいた時には爆発となっていた発火は、建物を脱出した時には火災となっていた。大火とならずに済んだのは、単に周囲の広大な敷地のおかげに過ぎない。少し離れた地にその体を下ろすと、ブルマは遠く建物の入り口に集まる人だかりに目をやりながら、他人事のように呟いた。
「派手にやったわね〜…」
「元はと言えばおまえが原因だろ」
それを聞いてふいに俺は、ここは少し言ってやろうという気になった。すでに罪悪感は消えていた。男の姿が目の前から消えた今、その言葉だけが脳裏に思い起こされた。
「なんであたしが原因なのよ?あれはあんたが…」
「誰にでもいい顔するな!」
誰にでもっていうか男に。名前も知らない相手にあんな態度を取られるとはどういうことだ。おまけにえらく美化してたぞ。
言いたいことはたくさんあったが、俺はそれらをすべて呑み込んだ。そんな嫉妬染みたことは言わない。一つ大事なことを思い出させてやれば充分だ。
「いい顔って何よ?わけわかんないこと言わないでよねー」
偉そうにブルマは口を尖らせた。それは俺の取りたい態度だ。そう思いながら、俺はブルマの顔を見返した。強気な目元に仄かな赤み。早くも怒り切れない気分に俺はなり、我ながら怒気の篭らぬ口調で切り出した。
「おまえは人に言ったことをすぐ忘れちまうからなぁ」
「はぁ?」
「どうして俺が今日C.Cへ来たと思う?」
ブルマは少し瞳を弱めた。同時に偉そうな姿勢も弱めた。まだ思い出してはいないようだが、考え込んではいるらしい。小首を傾げるその様は、なかなか殊勝に見えた。
「おまえとデートするためだぞ。一ヶ月ぶりに!おまえとデート!!」
でも俺がそう言うと、けろっと言い放った。
「なーんだ。そんなのちゃんとわかってたわよ」
「わかってた!?それならどうして来なかったんだ。せっかく俺が修行を切り上げて来てやったのに。やめるにしたってせめて一言断れ!」
俺の語気は当然強まった。ブルマはきょとんとした顔で俺を見ていたが、悪びれてはいなかった。その口から出てきた言葉は依然として俺の期待を裏切った。
「ねえヤムチャ、…えっと、さっきから一体何の話をしているの?もうちょっとちゃんと説明してくれると嬉しいんだけどな〜…」
おまけに態度も裏切っていた。小首を傾げて俺を見上げて、あまつさえ片手を頬に添えて笑ってみせた。それはあざとい仕種だった。そういうことは別の機会にやれ。そう思いながら、俺は教えてやった。
「約束してただろ!今日、俺と!一ヶ月前、いろいろ俺に言わせた時に!」
「えーー……――」
ブルマは目を丸くして、ただそう声を漏らした。俺は少しだけ時間を与えた。謝るための時間をではなく、思い出すための時間を。我ながら寛大だ。俺は本当に気が長い。こんなに時間をかけて思い出させてやるやつはなかなかいないぞ。
「――っとぉ…」
でもブルマがそう言葉を結んで、今度は口元に指を当てたので、俺はその寛大さを捨て去った。
「もうおまえとは約束しない。誘いにだって乗らないからな!」
そして、自らを戒めるためにもそう決めた。思い出せもしない約束に付き合おうとした挙句、笑顔に流されてブルマの勝手に付き合ってあんな思いをするなんて、俺は一体何なんだ。せめてさっさと怒ってとっとと手を引いていたら――…まずかったか。俺がいなかったら、こいつどうなっていたんだろう。今さっきのことを思い出して寒々とした気持ちになった時、ブルマもまた思い出させるようなことを言った。
「せっかく格好よく助けてくれたんだから、そういうこと言わないの。いいじゃない、これから付き合ってあげるから。ね!」
それはあっけらかんと笑いながら。付き合うったって、何に付き合えばいいのかわかってんのか。俺はあくまで嫌みを言ってやろうとしたが、できなかった。ブルマが物理的に俺の口を封じたからだ。
ブルマがつま先立ちで首に抱きついてきた時、俺はその手を除けなかった。触れた唇も解かなかった。そこまで突っぱねる気にはなれなかった。だが、目は閉じないでいた。…そこまでの気持ちにはなれなかった。だから、気づいた。さっき建物から逃げる時も同じような姿勢を取っていたはずだが、今になってようやく気づいた。ブルマのはだけたままのシャツの下から何もつけていない胸が覗いていることに。
…しょうがないなぁ。俺は溜息を呑み込みながら、キスを終えたブルマのシャツのボタンを留めてやった。さらにベストの前をしっかり合わせ直してやってから、ゆっくりとキスを返した。自分でもわからないが、唐突にそういう気持ちになった。ブルマを確認しておきたくなったのだ。
こうして俺は結果的にはまた流された。それは次のブルマの言葉からも明らかだった。
「じゃ、行きましょ。そうね、久しぶりにバーなんかいいわね」
何事もなかったかのように俺の腕を取るブルマと取られる自分自身に呆れながら、俺は言った。
「その格好でか?」
「あら、いけない?男の恋人に見えるかしら?」
「…それはないだろうな」
「じゃ、いいじゃない」
酔っぱらっても上着は脱がせないようにしないとな。俺はそれだけを心に決めて、ブルマに腕を引かれ続けた。口では抵抗してみたが、実のところ異存はなかった。結構かわいいんだよ、この男装。ボーイッシュで爽やかで、でもやっぱりブルマのままっていうか。少々他人の目は気になるが、どうせ一時のことだ。いつもよりふくよかな胸を腕に当ててくる涼しげな横顔をちらと見ると、ブルマが言った。
「その前に少し時間潰さないとね。やっぱり食事かしら。映画は…今あんまりいいのやってないのよね〜」
「…ああ、そうなのか…」
やっぱり笑って、あっけらかんと。俺は呆れを通り越して諦めの境地になった。こいつ、ちっとも思い出していないな。それどころか、たぶんもう思い出す気ないんだろう。俺も怒る気なくなっちまったしな…
「何か食べたいものある?少しかっちりしたレストランに行ってもいい?」
「いいけど、個室にしとけよ。俺はともかく、おまえのその格好がな…」
「そんなに気になる?じゃあ、途中でドレス買って着替えるわ」
「いや、そこまですることはないさ」
後はただ、普段通りの会話が続いた。ブルマはもう、まったく何も気にしていないようだった。そして俺も、それが全然気にならなかった。それでいいと思った。ブルマがいつものように笑っているならそれでいいと思った。
――今だったら『それでも愛する』って答えるかもな。
あの時答えられなかった質問を、ふいに思い出した。ブルマは俺にとってはあらゆる意味で初めての女だ。それが初めての男になったってたいして変わら…
…ないわけはないか。
煙と熱を伴う赤い空は完全に背後に消えていた。一点の曇りもない青い空。それを見ながら俺は、気づけばそんなことを考えていた。あの時とは少し違った、自主的な気持ちで。そしてそれに気づいた時、ちょっと照れくさくなった。だから 決めた。
約束とそれをした時のことは思い出させないままにしておこう、と。
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