値偶の女
今日も陽が昇る。
遠くで鶏の声がする。温い夏の風が吹き込んできて、眠りの余韻を押し流す。陽が高くなる前に早朝の修行。陽の動きと共に進む修行。湖に映る陽の光。木々から差し込む木漏れ陽。窓の外に大きな夕陽――
そして今日も陽が落ちる。


「…はぁ、はぁ、…お、終わり、っと…」
ゆっくりと湖岸へ上がると、一足先にそうしていたクリリンが、天を仰いで大きく息を吐き出した。
「ふーーー。今日も暑いっすねえ。…なんかサメのやつ、いつもよりスピード鈍くなかったっすか?」
「…ああ。サメも夏バテするのかもな。おかげで水が気持ちよかった…」
うだるような常夏の夏の午後。サメ相手の修行と蜂相手の修行の合間。俺はクリリンに続いて木陰に入り、その隙間から空を仰いだ。燦々と輝く太陽。それを横切る鳥の群れ。遠くに浮かぶ入道雲。いつしかその向こうまでも見渡していると、俺とは違って一瞬で視線を落としていたクリリンが、訝しげに俺を見た。
「ヤムチャさん?どうかしたんっすか?」
「ああ、いや、別に…」
俺は言葉を濁した。自分が何をしていたか、クリリンに声をかけられて気がついた。だが、それを口にすることはしなかった。
「なんでもないよ。さて、そろそろ蜂に刺されにいくとするか」
「それなんですけどね。おれ昨日、一箇所しか刺されませんでしたよ」
「何、本当か」
「それもロープが絡まって転んだ時に刺されたやつだけですよ。おれそろそろあの修行、卒業かもしれませんね」
「ぐぬぬ…先を越されてたまるか!」
すでに会話はいつものものとなっていた。一時涼しくなった気分は、すっかり熱くなっていた。視線は何もない空から蜂の巣のある場所へ続く小道へと向けられていた。でも、次の修行場所へと赴く途中、ふと左手に海が見えた時、俺は思った。
本当に暑いな。…海水浴日和だ。


蜂の唸る羽音。その音が、一瞬変わったような気がした。何とか蜂刺されの痕を片手の指の数にとどめてカメハウスへ帰りつくと、ドアの外にブルマがいた。
「よう、ブルマ。海水浴場へ行った時以来だから…2週間ぶりか」
のんびりと両頬杖をついてポーチに座り込んでいるその顔に、俺ものんびりと声をかけた。いつにもまして驚きがなかった。来ていることはわかっていた。さっき蜂の羽音に混じってエアジェットのエンジン音が聞こえたからな。気が散ったのとは違う。毎日聞いている音だ。自ずと聞き分けられるようにもなる。
ブルマがぴくりと眉を上げた。その声を受け止めようとした時、クリリンが横から顔を出した。
「違いますよ、ヤムチャさん。3週間ぶりですよ」
「一ヶ月ぶりよ!」
そんなわけで、その声は俺ではなくクリリンへと向けられた。どことなく怖い視線も、俺にというよりは前にいたクリリンに強く向けられた。
「まったく。カレンダーくらい見なさいよ。あんたたち、世捨て人?」
「ひどいなあ、ブルマさん。そんなことないですよ。ここらの人たちはみんな、毎朝おれたちの配る牛乳を今か今かと待っているんですからね」
「それは修行でしょ」
「まあまあブルマ。冗談だよ、冗談」
そう、照れ隠しの混じった冗談。少なくとも俺の言ったことはそうだった。クリリンは本気だったみたいだが。
「つ・ま・ん・な・い!」
今度ははっきりと怖い視線を俺に向けると、ブルマはハウスの中へと入っていった。クリリンがどこか窺うような顔をして俺を見た。俺は苦笑と、肩を竦めて両手を上げるジェスチャーを返しておいた。それからブルマの背中を追う形となって、開け放たれたままのドアを潜った。

カメハウスに入ると、こちらもまた一ヶ月ぶりに顔を見せたプーアルが、蜂刺されの手当てをしてくれた。プーアルらしい言い方で近況を報告しながら。
「すみませんヤムチャ様。もっと早くに来たかったんですが、夏休みの宿題がとても多くって…」
「…夏休み。そうか、もうそんな季節か」
「はい。一ヶ月以上あるんですよ。宿題は全部やってきましたので、夏休み中ずっとヤムチャ様のお世話ができます!」
「はは。それはがんばったな」
「本当に大変だったぜ。ブルマは横からガミガミうるさいしよ」
「何よ、その言い方は。あたしはみてあげてたんでしょ!」
キッチンにいたブルマが咄嗟に顔を振り向けて、そう叫んだ。ウーロンが慌てて顔をテレビへと向け直した。俺はというと、奇妙に落ち着いた気持ちで、自分の経験したことのない『夏休み』のことを考えた。
あれからもうすぐ一年経つのか。とは、思わなかった。俺が思ったのはもっと身近なことだった――『夏休みの宿題』。それでしばらく来なかったのか。確か長期休みの前にはテストもあったよな。あれはそこそこ点を取っておかないと、補習だなんだで余計に時間が取られるんだ。
ちょっとした懐かしさ。それと新鮮さを、俺は感じていた。身が入らないというほどではない。だが確かに間違いなく、それに気を取られる時間が時折やってくることに、俺は気づいていた。いや、正確には今気づいた。なぜなら、それを考える必要はもうなくなった、そう思った自分がここにいるからだ。
…二人の面倒を見てたのか。ふーん…
「手当て終わりましたか?じゃあ、お夕食にしましょうね」
すでに手当の終わっていたクリリンにではなく俺に向かって、ランチさんが言った。テーブルに皿を並べながら、ブルマがちらと俺を見た。
「クリリンが一箇所で、ヤムチャが五箇所か。やっぱり兄弟子だったのねえ」
それは呆れているというよりは、単に言ってみただけという感じだった。そしてクリリンは、得意気にではなく悔しそうに口を開いた。
「ちくしょう、あの時、陽が差し込んでこなければな〜」
そう、結局クリリンはまた一箇所刺された。どうやらやつにはどうしても避けられない落とし穴があるらしい。
「木漏れ陽の逆光にやられるとは、クリリンも案外と運がないのう」
「だな。しかもその一箇所が尻っていうのがな。いくら薬塗るためったって、鏡にケツの穴映したくはねえな、おれは」
「ウーロン、下品なこと言わないの!これから食事するのよ!」
そんなわけで、俺は意外と面目を失わずに済んだ。そしてひさしぶりに、ブルマを隣に夕食の席についた。


そしてその後またひさしぶりに、ブルマの発明品を見た。
「えっ、作った?って、花火をか?」
「そうよ、すっごいでしょ!」
いや、発明品とは言わないか。とにかく俺は驚いた。ある意味では、発明品を見せられた時よりも驚いた。その理由はウーロンがやつらしい言い方で代弁してくれた。
「花火くらい買えばいいのによ。浮かれてるを通り越してヒマ人だよなー、おまえ」
「誰のせいでヒマだったと思ってんの?」
するとブルマがさらにその理由を述べた。それは俺を非常に納得させる言葉だった。
プーアルはともかくウーロンに最後まで付き合うなんて、ブルマにしてはずいぶんと気が長いな。そう思っていたのだが、実のところはやっぱり付き合いきれていなかったようだ。
「はは。まあまあ、じゃあさっそく見せてくれよ、そのヒマの成果をさ」
なんとなくほっとしてしまった照れ隠し。軽くブルマの背中を叩くと、ブルマは俺を軽く睨みつけて言った。
「ふんだ。よっく見てなさいよー」
「はいはい」
ビール片手に窓から顔を覗かせる老師様。その窓の下に眠そうな顔をしたウミガメ。おっかなびっくり花火を見ているクリリン。腕組みしながら壁に身を凭れている、お酌をする気はない方のランチさん。白けた顔でポーチに佇むウーロンと、どことなく身を竦めているプーアル。みなの視線の集まる中、一つめの花火に火が点けられた。
シュルルルル…、パーン!
夜空に木霊する花火の音。夜空に光る火花の塊。夜空に上がるブルマの歓声。
「やった!成功よ!!」
「うーん…」
それらを受けて、俺は思わず言葉を呑み込んだ。
微妙だ…
模様が見えない。水平になってる…確かに上がってはいるのだが、それだけで花火と言ってもいいものか。いや、素人なんだから上がっただけ上出来か…
だが、それも一瞬のことだった。上げていた両手を下ろして振り向いたブルマの笑顔を見た瞬間、俺の口はすっかり滑らかになった。
「ねっ、すごいでしょ!」
「うん、すごいすごい」
まあ、かわいいもんだ。否定したら怒る、ということを除けばな。
完全に情緒的心境から、俺は合いの手を入れた。一方俺の背後では、そういうものには左右されない面々がそれぞれの発言をしていた。
「ふむ。なるほど、確かに花火じゃの」
「ずいぶん高く上がりましたねえ。雲の上までいったんじゃないですか。カメであるわたしが見るにはちょっとキツい角度でしたよ」
「もう少し模様がこっちを向いててくれるとなおいいんっすけどね」
「いや、なかなかたいしたもんだぜ。おまえ、ひょっとして弾丸の調合できるんじゃねえのか。オレに特製ナパーム弾作ってくれよ」
ランチさんの台詞に、C.C組は口を噤んだ。その直後だった。
「うわあぁぁぁぁぁーーーーー!!」
ドーーーーーン!
一瞬の沈黙を破って、夜空に大声が響き渡った。ほとんど同時に、カメハウスの屋根に何かが落ちてきた。
「なんだ?」
「こりゃまたえらい勢いで落ちてきたのう」
「花火の殻じゃないの」
「殻は叫びませんよ」
珍しく惚けるブルマにクリリンが突っ込むと、屋根の上の物が動いた。それは見覚えのあり過ぎる人影だった。
「いちちちち〜…おー、いて〜」
「孫くん!」
「悟空!!」
ブルマが叫ぶと悟空は顔を上げて、次にみんなが叫ぶと口を開いた。
「あれ?ブルマ…みんなも。なんでここにいるんだ?」
「何言ってんだ。おまえが落ちてきたんだぞ」
「一体どこから落ちてきたんだ?」
再会の喜びは驚きに彩られた。一方、悟空はきょとんとした顔をして、腰に当てていた手を前に垂らした。
「オラ道よくわかんなくなったからいっぺん高いとこから見てみようと思ってジャンプしたんだ。そしたらいきなり火の玉が襲ってきて…」
『まあとにかく下りてこい』。そう言おうとしただった。
「いいから早く下りてらっしゃい。一体どこに当たったの?手当てしてあげるわ」
今度はブルマが腰に手を当てて、妙に落ち着きはらった声を投げかけた。やっぱりきょとんとした顔で、悟空が屋根から下りてきた。いつものように身も軽やかに飛び上って。瞬時に俺が思ったそのことを、またもやブルマが口にした。
「なーんだ、どこも何ともないじゃない。大げさなんだから」
ブルマらしい軽やかな言い方で。すると悟空が途端に眉を顰めた。
「すっげえ痛かったんだぞ。まだちょこっと熱いしよ」
「一体どこがよ?」
ブルマは知りたがっているというよりは、単に訊いてみただけという感じだった。悟空もそれに、実に無造作に答えてみせた。
「シリだ」

「な?すっげえ赤くなってっだろ?」
「わざわざ見せなくていいっつーの…」
ウーロンが薄目を閉じてさらに顔を伏せると、開け放たれた窓の中からブルマが声を響かせた。
「ほら孫くん、手当てするからこっちいらっしゃい。どうせお腹も空いてるんでしょ。おやつもあげるから」
「おっ、サンキュー」
絶妙に悟空を釣り上げる声を。悟空はすぐさま下ろしていたズボンを上げて笑顔となった。それを見て、俺も思わず笑みを零した。
ブルマと悟空の会話は、場からすっかり驚きを取り去っていた。なんとなく何が起こったのかわかったし、反面なんとなく何事もなかったかのような雰囲気にもなっていた。ころころと駆け出していった悟空に続いてカメハウスに入ると、ブルマが救急箱と手土産の箱を開けていた。
「一気食いしないでよ。これ結構いいお菓子なんだから。じゃ、まず洗うからね。どう?沁みる?」
偉そうなわりに優しい手つきでブルマが悟空の尻に濡らしたガーゼを当てると、菓子を一つ呑み込んでから悟空が言った。
「ブルマ、そこは違えよ。そこはしっぽの跡。なんか当たったところはもっと下だ」
「うんもう、紛らわしいわね!」
さらに傷を見せるよう指示するブルマをよそに、俺たちは土産話に花を咲かせた。悟空の話しぶりはシンプルだったが、話の内容は決してそうじゃなかった。
「名前を呼ぶ?それだけなのか?」
「ああ、そんでよ、返事しねえと呑み込まれちまうんだ。ひょうたんからこうパーッとへんてこな雲が出てきてよ…」
「ちょっと孫くん!こっち向かないでよ!」
「それで呑み込まれちまったのか。で、それからどうしたんだ?」
「うん。オラ如意棒持ってたから、下に落っこちる前に如意棒をこう壁に向けてよ…」
「こっち向かないでったら!それにパンツ下げ過ぎ!」
一同の中でも特に俺とクリリンは話にのめり込んだが、そのうち悟空のシンプルな話しぶりが仇となってきた。声をかけられるたび、そちらへ顔を向けるのだ。終いにはそのことが完全に話を中断させた。
「えー?だっておめえがシリ見せろっていうから…」
「お尻じゃなくてお尻にある傷を見せろって言ったのよ、あたしは!」
「それのどこが違うんだ?」
「全然違うでしょ!!」
確かに、女の子にとっては全然違う。いや、普通は男にとっても全然違う。
俺は数時間前のクリリンのことを思い出しながら、ブルマの手からピンセットを取り上げた。
「どれ、俺がやってやるよ」
途端にブルマがそっぽを向いた。とはいえ別に、俺がそっぽを向かれたわけではない。ブルマはただ悟空から目を逸らしただけだ。どうやらだいぶん恥ずかしかったらしい。視線を明後日の方向へ向けながらも手では差し出してくる薬瓶へガーゼを突っ込みながら、俺はちょっと自分のデリカシーのなさを反省した。…すごく自然な雰囲気だったから任せてたのだが。悟空も一応男の部類に入るんだな。いや、ブルマが女だったってことか…
「…で、オラどうしても我慢できなくってよ、そこでしょんべんしちまった」
「ははは」
悟空の真後ろから俺の隣後ろへと居場所を変えると、ブルマはすっかりおとなしくなった。ランチさんもどことなくおとなしげに銃を磨いたりしていた。リビングの真ん中でいつまでも冒険譚を語る悟空。それを囲む俺とクリリン、ウーロンにプーアル。こんな言い方をするのもなんだが、みんながいるカメハウスにしては珍しく男が幅を利かせている夜。それは武天老師様が口を開くまで続いた。
「ふむ、なかなかよい旅をしておるようじゃの。今晩はここに泊っていくがよい。おぬしら、あまり夜更かしするでないぞ、明日の修行に響くからの」
「あたしもう寝るわ。その前にお風呂借りるわね」
次いでブルマがそう言って立ち上がった。そしてバスルームのドアが閉まったその瞬間、場の雰囲気がいつものものに戻った。
「じゃあわしはちょっとトイレに…」
「どこへ行くんですか、武天老師様」
まずはクリリンが老師様を止めた。当然だな。一見自然な動きに見えるが、バレバレだ。
「だからトイレじゃよ。急に腹が痛うなってな。あいたたた」
「それはブルマの風呂が終わってからにしてください」
だから俺が宣告の役を買って出た。分業、分担。ブルマと青髪のランチさんがいる時によく起こる、いつもの事態だ。
「しょうがないじいさんだな…」
「オレの風呂も覗こうとしやがったらぶっ殺してやるからな」
「ん??」
いつもと少し違うのは、俺たちの会話の意味がわからない人間――悟空が目を瞬かせていることだった。




翌朝。
いつものように修行をするべく部屋を出た俺は、いつもとは違う事実に遭遇した。
「よう、おはよう悟空。ひょっとしておまえも修行するのか?」
階段手前でおち合った兄弟子が一人ではないという事実。悟空は起き抜けにしてはぱっちりとした目をして、元気に言った。
「うん!オラなんとなく起きたんだけど、牛乳配達しに行くってクリリンが言うからさあ」
「しーっ。ブルマやウーロンたちが起きちまう。そうか、おまえと修行するのは初めてだな」
「オラもじっちゃんの修行すんの久しぶりだぞ!」
「へっへー。久しぶりだからって負けないぞ」
「ああ、俺だって」
俺はすっかり楽しい気分になった。昨日ブルマたちがやってきて、俺の日常は軽く打ち破られた。次に悟空がやってきて、完全に打ち破られたというわけだ。
だが、その気分はやがて変わった。ほんの数分後、3人揃って外へと出た後に。気分が壊れたわけではない。ただ少し、変わったのだ。
「え?オラやっちゃダメなのか?」
「おぬしが入ったらこの二人の修行量が減ってしまうじゃろ」
窘めるように武天老師様は言っていたが、そうではないことは明らかだった。
「これはあくまでクリリンとヤムチャのための修行メニューじゃ。それに悟空よ、おぬしには亀仙流の修行はもう必要ないじゃろう」
「そうかなあ」
「じゃが、湖での修行と反射神経を養う修行なら参加してもいいぞよ。くれぐれも二人の邪魔をせんようにな」
「うん、わかった。オラそうする」
「じゃあな悟空、また後でな」
からりと笑うクリリンと共に、俺は甲羅を背負った。肌に当たる温い風が、心なしか冷たくなったような気がした。
そうだ、悟空は卒業した弟子なのだ。すでに一人で歩いているのだ。もう先の世界へと踏み入れているのだ。
「よし、では始めるぞい」
「はい!!」
いつも通りの鬨の声。だが自ずと力が入った。気を入れて早朝の修行を始める俺たちを見る、いつもはいないきょとんとした顔。それに、俺はかえってはっぱをかけられたのだった。


牛乳配達の後は畑仕事。その合間、鶏につつかれた鼻を擦りながらカメハウスを通りかかると、その手前に悟空がいた。
少し離れたところにプーアルがいた。ポーチにはブルマがいた。窓からはウーロンが顔を覗かせていた。庭先の木に向かって型などをやっている悟空を、残る三人は黙って見ていた。
「おはよう。どうしたみんな、やけに早いな」
どことなくのんびりとした一同に、俺ものんびりと声をかけた。返ってきた反応は、いささか変則的なものだった。
「ブルマに起こされたんだよ。朝っぱらからうるさいのなんのって。おれはもっと寝てたかったのによ」
「あたしじゃないわよ。孫くんがいけないのよ!」
「ん??」
ウーロンからブルマ、ブルマから悟空。早起きの功なり罪なりを最終的に擦りつけられた悟空はきょとんとした顔をしていたが、もちろん俺にはわかった。 悟空がブルマを、ひいてはみんなを起こしたのだということが。軽く苦笑していると、こちらは完全に功としたらしいプーアルが元気に言った。
「それで、ヤムチャ様の修行にお付き合いしようと思ってこうして待っていたんです!」
「そうか。それは殊勝なことだな」
とはいえ、楽しいことなど何もないが。そう続けようとしたところ、武天老師様が後ろから顔を出した。
「なんじゃ、おぬしらも修行をしたいのか。どれ、では今女子用の道着を――」
「着・ま・せ・ん!」
即座にブルマが叫んだ。俺は思わず身を竦めたが、それも一瞬のことだった。
「あたしたちはイチゴを採りにいくの!修行には興味ないの!」
ブルマが続けてそう言ったからだ。…ああ、そういえば隣に果物畑があったな。イチゴだったかどうかはわからないが。
「え…でもさっきブルマさん、ヤムチャ様の修行を見に行くって…」
「おっまえ、素直じゃないなあ」
そこへプーアルとウーロンがわりあい淡々と口を挟んだ。二人とは対照的な態度でブルマがまた叫び立てた。
「そういうことじゃないでしょ!」
俺は思わず笑ってしまった。確かにそういうことじゃないな。老師様も、悟空にはダメだと言っていたのに。本当に女性に弱いお方だ。
「まあまあブルマ。どのみち畑に行くんだろ?だったらもう行くぞ。この時間はそうのんびりとはしていられないんだ」
「そうですね。みんな用意はできているようですし」
俺が軽く窘めると、クリリンもそれに続いた。ここまでも、そしてここからも、ブルマがいる時に起こりがちないつもの事態だった。
「いやいや、まだブルマちゃんが道着に着替えていな――」
「しつこいわね。着ないって言ってるでしょ!」
「さっきから一体何の話をしてんだよ。女子用の道着って何だよ。プーアル、知ってるか?」
「ううん、ボクにもさっぱり…」
「オラ知ってっぞ。黒くってこんな形しててよ、ひらひらしたもんが周りについてて…」
「孫くん!余計なこと言わないの!!」
まったく無邪気に騒動を拡大しようとする人間がいることを除けば。そんなわけで、俺は再び窘めることとなった。
「まあまあブルマ、そう怒るな。ウーロンも、この話はもう終わりだ。さっさと行くぞ」
「もう〜」
ブルマは大きく不平の声を上げた。それでも俺が歩き出すとついてきて、さらに意外にも早く話題を替えた。
「ちょっとヤムチャ。何よその鼻、どうしたの」
それは明らかに咎めている声だった。先ほど武天老師様に向けられていた厳しい視線が、今では俺に向けられていた。いつものように気力と体力の尽きかけたところでイワンさんちの番鶏にやられたつっつき傷。再び滲み始めた血を拭いながら、俺はちょっと困った。
「ああ、いや、これは…」
「ヤムチャさんはイワンさんちの鶏に好かれてるんですよ。おれはすっかり飽きられちゃって見向きもされませんけどね」
するとクリリンが横から出てきてそう言った。…なかなかうまい言い方をするな。それとも本当にそう思っているのだろうか。
「はは。あそこの鶏かあ。オラもいっぺえつつかれたっけなあ」
「そういや悟空も好かれてたよな。よく髪の毛引っこ抜かれてさ」
「なんだ、結局髪の差かよ。あ〜あ、ハゲって淋しいね〜」
「おれはわざと頭丸めてるんだよ!」
「しょうがないわね。後で手当てしてあげるわ。でも、気をつけてよ」
ともかくも俺はそれほどは面目を失わずに済んだ。そしてひさしぶりに、ブルマを隣に道なき道を歩いた。


鼻につく乾いた土の香り。時折屈んだ股の間から覗く大きな太陽。
朝の修行を、俺はまったくいつも通りに行った。脇目も振らず、手と足をフル回転。この修行を始めてはや三ヶ月、耕す畑の面積はだいぶん大きくなっていて、ともすると終わらないうちに朝陽が昇りきってしまう。そう、ここでは太陽が時計代わりだ。とはいえ、それを気にして空を仰ぐことはなかった。遠くに広がる果物畑に目をやることもなかった。そんなことをしている暇があったなら、手を動かすべきだ。その結論に俺はとうに達していたし、実際そんなに気にならなかった。イチゴ摘みをしている、その事実だけでだいたい想像がついた。それでも、ブルマのその声は耳に入った。
「ぎゃっ、蜂!」
あまりに大きい声だったからだ。俺は一瞬手を止めた。そして反射的に顔を上げた次の瞬間、完全に動きを止めることとなった。
「ほっ、ほっ、ほい、ほい、ほい、ほい…」
何百という数の蜂の群れ。その中にあって、落ち着き払った様子の悟空。俺はまるっきり狐に抓まれたような気分でそれを見ていた。そのくらい悟空の動きは常軌を逸していた。いや、果たして動いているのだろうか。そう疑ってしまうくらいの速さだった。手元がまるで見えないのだ。だが轟々と唸り狂う蜂の羽音が瞬く間に消えていくのは事実だった。今では隣のクリリンも動きを止めていた。だから、やがてあっけらかんと呟いた悟空の声ははっきり聞こえた。
「ほい、全部やっつけたぞ」
「ほっほー。悟空もなかなかやりおるようになったのう」
今や修行どころか呆然と立ち尽くすばかりだった俺とクリリンを咎めはせずに、老師様が笑った。怒られなくてよかった。そんなこと思うはずもなかった。
「悟空のやつ、とんでもないことするな…」
「まったくだ。信じられん――」
クリリンに同意しかけて俺はやめた。気づいたからだ。武天老師様が、褒めはしたが驚いてはいない、ということに。…本当に世の中、上には上がいるものだ。
「ほれ、いつまでも見とらんで続きをやらんかい。朝飯が遅うなってしまうじゃないか」
「はい!!」
いつもと変わらぬ口調ではっぱをかける老師様に、俺はいつもより気を入れて答えた。呆然の後にやってきたものは、無力感ではなく期待と闘志だった。
強さに限界はないのだ。武天老師様と、そして悟空がそれを証明してくれている。ならば俺も――


午前の修行は、もともと雑多なものだった。
悟空がいた頃は一般学習というやつをやっていたようだが、俺はそれはパスさせてもらっていた。それでも数回は受けさせられた。どんなものかというと…ブルマに知れたら殺されそうなやつだった。武天老師様は、このテキストには常識が詰まっていて常識を知ることは人生を有意義に過ごすためには必要だ、などと言っていた。完全には否定できないが…武天老師様にとっては常識なのかもしれないが…だが、俺にとってはこの上なく危険なものだった。それはもういろいろな意味で危険だった。
ともかくもそういう経緯を経て、午前中は俺はクリリンとは別々に、老師様のものとしては比較的常識的な修行をしていた。あ、老師様の言う常識とは違う常識だぞ。岩を三百砕いたりとか(これは一ヶ月に百個ずつ増えていった)、谷の中に放り投げたそれらを探し集めたりとか。…あまり常識的ではないかな。しかし、少なくとも環境や時間に左右されないやり方であるには違いない。だからイレギュラーな修行(村の人に頼まれた力仕事とかだ)があれば時間がズレることもあった。でも、この日はそれとも少し違っていた。
「何やら二人とも気が乗っとるようじゃな。どうれ、その調子でこの後の湖の修行もがんばってもらおうかの」
いつものように朝食の最中にではなく、朝食をとるためカメハウスへと戻る途中で、老師様は言った。前置きとなる理由も、後に続く説明もなかった。
「湖の修行ってサメ相手のやつですよね。あれは午後のはずじゃ…」
クリリンが俺に先んじてそう言うと、老師様の微かな笑みは微かならぬ戒めとなった。
「今日からしばらく昼前に行うのじゃ。どうやら午後では修行にならんようじゃからの。バテていない本気のサメに追いかけてもらうんじゃな。おぬしらは水浴びしとるわけではないのじゃからな」
…ヤバイ。昨日の会話聞かれてた…
一体どこにいたんだろう。いつものように遠くの岩の上にいるとばかり思っていたのに。
俺はかなりの不覚を感じた。サボったというわけではない。だがいつもより楽だったことは確かだ。そして『楽だ』と思ってしまったこともまた確かだった。
…もっと上を見なければ。俺は修行をするために修行をしているのではなく、強くなるために修行をしているのだから。楽だと安堵するのではなく、物足りないと考えなければならなか ったのだ。
他人の力を見せつけられてではなく自らの未熟さゆえに、俺は気を引き締めた。するとブルマが早くも気を緩めさせるようなことを言い出した。
「ねえ、それあたしも見にいっていい?お弁当作るから!」
「弁当!?おまえ、そんな慣れないことして大丈夫かよ。本当に浮かれ…」
「うるさいわね。もうその台詞はいいっつーの」
それにはすぐに横槍が入った。みなまで言わせず、ブルマはウーロンの言葉を退けた。いつもよりは険のない、いつもの舌戦。珍しくウーロンに軍配の上がりそうな、ブルマのはりきった笑顔。今の俺とは対極的な、緊張感のないその雰囲気。
だが、違和感はなかった。もちろん邪魔だとも思わなかった。かといって安堵したりもしない。もう乱されない。ブルマがいてもいなくても。すでに俺にはわかっていた。
問題は心なのだ。強い意志と信じる心。
それこそが必要なものなのだ。

…だといいな。
「ぷは〜。食った食った、ごっそさん!すっげえうまかったぞ!!」
小一時間後。リビングで丸いお腹を擦りながら笑顔を閃かせる悟空を見て、俺は考えていた。
これまでにも思ったことだ。こんな小さな体の一体どこにあんなたくさんの食べ物が入るんだろう。そして今思い始めていた。もしこの食欲が悟空の強さの秘訣なら、俺は一生悟空には追いつけなさそうだ。
「あらあら。口の周りについてるわよ、悟空さん」
「おっまえ、相変わらずよく食うなあ…」
いつにもまして多くの料理を作ったランチさんは嬉しそうに笑い、心なしかあまり食べていないようだったウーロンは呆れを隠さず呟いた。
「だってこのメシうめえからよ。ウーロンはそれっぽっちで足りんのか?」
「足りるも足りないもないぜ。こう眠くちゃメシなんて喉を通らないっつーの」
「そっか?オラは腹減ってっと眠れないけどなあ。へんなやつ」
「悟空はそうだよな。腹が減ってると何もできないもんな。こないだの武道会でだって『ごはんの時間』って言われた途端に起き上がったもんな〜」
リビングの真ん中でいつまでも話題を提供し続ける悟空。それを囲む俺とクリリン、ウーロンにプーアル。ブルマとランチさんは時折笑いを漏らしながらも着々と皿を片づけていた。いつもとは少し違う雰囲気の食後の時間…
「さて、ではそろそろ湖に行くとするかの」
やがて窓辺で煙管を吹かしていた老師様が腰を上げて、いつもとは少し違う修行の幕開けを告げた。すでにはっぱをかけられていた俺とクリリン、そして腹いっぱいになった悟空は、それは元気に立ち上がった。
「はい!!」
「オラ、湖の修行やるのひさしぶりだ。サメのやつ元気にしてっか?」
「ああ、相変わらずすごい勢いで追いかけてくるよ。ここんとこちょっと夏バテぎみだけどな」
「でも今日はまだ陽が低いから、そんなこともないだろう」
「いってらっしゃい、みなさん」
いつも通りのランチさんの見送り声が、朝の風景を締めくくった。とはいえ湖へ向かうのはいつもの三人に悟空とプーアルを加えた計五人。でも、今の俺にはそれはたいした違いではなかった。
いつも通りでも、いつも通りじゃなくとも構わない。俺はただやるだけだ。いつだってそうであるはずだ。




「…はぁ、はぁ、…10往復目、っと…」
ゆっくりと湖岸へ上がると、数瞬先にそうしていたクリリンが、息を吐きながら呟いた。
「ふーーー。これで半分ですか…」
それは聞いたところなんということのない口調だったが、俺にはわかった。わかりきったことをことさらに口にするクリリンの心境が。だから俺もことさらになんということのない声を作った。
「…ああ。そうだな」
すると近くの木の上で何やら木の実を食べていたらしい悟空が下りてきて、明るく叫んだ。
「じゃあ、続きやっか!オラこの修業を10回以上やるの初めてだな!」
…俺たちもなんだよ。
俺はその言葉を呑み込んだ。クリリンも言わなかった。おそらくは俺と同じ心境から。…悟空に対する競争心とそこからくる見栄――つまるところ、プライドだ。何が何でも隠そうとまでは思わないが、俺たちよりもだいぶん早くに湖を泳ぎ切りなおかつけろりとしている悟空に向かって弱音を吐く気にはなれない。それでは立つ瀬がなさ過ぎるというものだ。これを見越して今日この日に修行量を倍にしたのなら老師様はなかなかの策士ということになるが、はてさて…
どこぞの岩の上にいるであろう師匠を探して、ぐるりと周りを見回した。そうして見つけたのは老師様ならぬ六人目の人間だった。
「…あ」
俺の目を引いたのはブルマの姿そのものではなく、現れた場所だった。思わず小さく声を漏らすと、クリリンが訝しげに俺を見た。
「ヤムチャさん?どうかしたんっすか?」
「ああ、いや、今ブルマが来たんだ。ほら、あそこで水に足つけてる。だけどあそこの水位…」
「あっ。まずいですね。あのあたりは深いからサメが行くかもしれませんよ」
そうならないよう、俺たちがサメを引きつければいい。単純にそう言い切ることはできなかった。それがいつもと同じ修行であるはずなのだが、それでも…
「オラ、ブルマに言ってきてやるよ」
その時、悟空が邪気もなくそう言って、ブルマのいる横岸へと駆け出していった。止める暇もなかった。
「悟空のやつ、元気だなあ」
羨望と微笑ましさを同時に感じながら俺が言うと、クリリンがこの時とばかりに声を顰めた。
「ところでヤムチャさん。なんかサメのやつ、いつもよりスピード速くなかったっすか?昨日に比べてじゃなく、その前よりも」
「ああ。俺もそう思っていた」
武天老師様の声にサメが応えたのだろうか。なんかいきなり速くなってた。もう少しで食いつかれる。何度そう思ったことか。
「それなのに悟空のやつ、平気で先に行くんだからなあ。まいっちゃうよなあ」
それを口には出さず心の中でだけ思っていたのは、単にクリリンと同じ心境であるからだった。 本当に悟空にはまいる。今日は朝からまいりっぱなしだ。悟空が俺たちの先をいっていることなどとうにわかっていたが、同じ修行に携わっているからなおさら差がはっきりするのだ。
「よし、じゃあ続きをやるか。悟空を待つ必要はないだろう」
「そうですね。おれたちもいつまでも負けてはいられないですからね」
それでも、嫌な気持ちにはならなかった。それもやっぱり、クリリンと同じ気持ちであったからだった。
俺たちは心持ち甲羅を背負い直して、湖へと飛び込んだ。


サメは鳴かない。時折鳴き声にも似た音をたてることはあるが、それほど大きな音ではない。修行を始めてしまえばまず聞こえない。だから、その異変に気がついたのは、水を伝わってくる気配によってだった。
俺は思わず手を緩めて後ろを見た。そして次の瞬間、それは慌てて水を漕いだ。サメがまさに足先に迫っていたからだ。やがて半身分の距離を稼いで息継ぎをした時、今度は肉眼で異変を捉えた。
「…クリリン!おい、クリリン!」
俺はすぐに叫んだが、頭一つ分前をいっていたクリリンもまた、すでにそれに気がついていたようだった。なぜか遠く横岸へと流れていく大きな水跡。俺たちの後ろにあるはずの水跡――そして実際、俺たちの後ろにはそれがあった。
「何だと思う、クリリン!」
「わかりません!あんな大きな動物、このサメの他にはここにいないと思うんですが!」
水飛沫の音を掻き消すべく、俺たちは叫んだ。すぐにそれを掻き消すように、新たな水飛沫の音が響いた。近くにではない、今や遠くといえる場所に、それは大きな水音と飛沫が同時に起こった。
「あっ!」
「何!?」
俺たちはほぼ同時に叫んだ。水飛沫の中から黒っぽい動物が姿を現した。この湖にはいないはずの大きさのその動物は、他にはいないはずのサメだった。俺たちがいたのはほとんど真後ろであったが、見紛うはずはない。俺たちが知っているものよりはやや小さめの、だが同じように獰猛なその後ろ姿。そこはブルマがいた場所だった。サメが躍りかかったのは、ブルマが足をつけていた場所だった――
「ブルマ!」
「悟空!」
俺たちはまた同時に叫んだ。言葉こそ違ったが、見ていたものは同じだった。強い日差しを受けて輝くサメの牙。その陰に見え隠れする菫色。それらの上に、逆光を浴びながら飛び上った小さな体。
それはするどい一撃だった。サメの鼻先をつくそのあまりの足さばきに見とれて、俺は思わず手を緩めた。そして次の瞬間、それは慌てて水を漕いだ。完全に返り討ちにされたサメが、今度は俺たちの方へとやってきたからだ。クリリンと俺は二匹のサメに追われて、かつてないマンツーマンへの修行へと雪崩れ込んだ。
「…はぁ、はぁ、…ど、どういうことなんだこれは…」
ひとまず岸へ上がった俺たちの目の前で、二匹のサメが円を描いて泳ぎ始めた。見当がついたというよりそれ以外には考えようのない答えを、クリリンが口にした。
「…ひょっとして子ども、ですかね。このサメの…」
「だからここのところ動きが鈍かったんだな…」
一匹しかいないはずのサメがどうやって子どもを作ったのか。そういうことを考えるのはやめておいた。それに関してはただ、いるかもしれない三匹目の親サメに注意しておけばいい。それよりもっと気になったことが、この時の俺にはあった。
「…悟空のやつ、速かったな」
「速過ぎですよ」
俺の言葉にクリリンは一も二もなく頷いて、さらに念を押すように言った。
「それなのに、全然本気出してませんでしたよ」
「たまらんなあ…」
俺は思わず本音を出した。泣き言ではない、本音を。
「まあ、おれは必ず追いついてやりますよ。同じ武天老師様の弟子なんですからね」
「当然、俺もだ」
競争心を含んだ連帯感。クリリンと強く目配せしあったところで、悟空が戻ってきた。悟空は湖面を泳ぐサメを見るなり、明るい声でこう言った。
「すっげえなー!サメ二匹もいるんか!おめえたち、オラがやってたのよりうんとすげえ修行してんな!」
俺とクリリンは何も言わなかった。ただ黙って、再び目配せした。クリリンの目にはきっと俺と同じ、新たな気合いの光が見てとれた。
「悟空には負けられないからな」
少し前のクリリンの台詞を俺が口にすると、クリリンはその前の俺の台詞を口にした。
「じゃあ、続きをやりますか」
「よーし、オラがんばるぞー!!」
おまえはがんばらなくてもいいんだよ。
皮肉と微笑ましさを同時に感じながら、俺は湖へと飛び込んだ。


「…はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…」
「はぁーーーーー…」
つきかけた体力を振り絞って岸へ上がり、かつてないほど荒い息を俺が吐くと、クリリンもかつてないほど長い息を吐き出した。悟空はというと少しだけ声を落として、でも俺たちからすれば充分に元気な声でこう言った。
「は〜。オラ腹減った…」
これにはさすがに俺は呆れてしまった。だがクリリンはおもしろそうな顔をして、悟空に負けず陽気に笑った。
「悟空、ヤムチャさんと一緒にブルマさんのところへ行ってろよ。おれは老師様を呼んでくるから」
「老師様がどこにいるのかわかるのか?」
「さっき向こうの岸でサングラスがちらっと光ったのが見えました」
さっくりと答えるクリリンに、俺は思わず感心した。さすが兄弟子、余裕がある。どうやら俺は、悟空のみならずクリリンにも勝たなければならないようだ。
「おーいヤムチャ、早く早くー」
ぴょんぴょんと飛び跳ねるように木立の隙間を行く悟空を、俺はなかなか楽しい気持ちで追いかけた。こうやってると悟空はまるっきり普通の子どもに見えるんだがなあ。体は小さいし無邪気だし、それは笑顔がかわいいし。とても俺たちの先を行く武道の達人には見えないよ。
悟空の先導する道ならぬ道を歩いていくと、やがてさっき遠目に見た場所へ出た。見晴らしのいい、程よく草の生い茂った岩場。そこの木陰の一角にブルマはいた。キャミソールにショートパンツ、麦わら帽子という、実に夏らしい格好で。そしてその姿を見た瞬間、俺は何よりも先に苦笑した。
ブルマは盛大に眠りこけていた。あまりいいとは言えない寝相で。きっと慣れない早起きをしたせいだろう。その手足を軽く揃え、ほとんど外れかけていた麦わら帽子を少し眩しい白い素足の上に乗せてから、ブルマを背に腰を下ろした。木の真下にバスケットとその他諸々の包みがあったので、軽く引き寄せて中身を開けた。途端に悟空が歓声を上げた。
「ひょー!いっぺえあるなあ!」
「うーん、これはブルマのやつがんばったなあ」
俺はすっかり感心した。いろいろな意味で。まず量。どう見ても30人前はある。悟空のことだからひょっとするとこれでも足りないかもしれないが、作る方からすれば大量もいいところだ。それから、意外と気を遣ったらしいこと。丸いおにぎり、(たぶん)三角のおにぎり、丸でも三角でもないから俵型?と思われるおにぎり。BLTサンドのベーコンはちょっと焦げてる部分もあるが、一体何枚焼いたのかと考えただけで舌を巻く。ちゃっかり自分の好物であるストロベリーサンドイッチを入れているのがかわいいくらいだ。
「なあなあ、オラもう食べてもいいか?腹と背中がくっつきそうだ」
「ああ、みんなもそのうち来るだろう」
「いっただっきまーす!!」
大口開けておにぎりに齧りつく悟空を前に、俺はBLTサンドを一つ取った。恥ずかしながら、ブルマの作った物を食べるのはこれが初めてなんだ。作った物に乗ったり作った物で遊ばれたりしたことならあるんだがな。
実に変わった彼女だ。俺は心の中でちょっぴり穿ったことを思いながら、サンドイッチの端を齧った。照れ隠しの一口は、すぐに大きな二口目を呼んだ。…結構うまい。正直あまり期待してなかっただけに、なおさらうまい。なんだ、ブルマのやつこういうのちゃんと作れるんじゃないか。あまりにもうまかったので、俺はそこまで思ってしまった。ちょっとひどいかな。でも、ブルマがキッチンに立ってるところなんて見たことないから。ハイスクールに行ってた時だって、調理実習で作ったものとか一度もくれたことなかったし…
これは起きたらめいっぱい褒めてやらないとな。そう思いながら今度はおにぎりに手を伸ばすと、悟空が少し意外なことを言い出した。
「なんだ、ブルマのやつ。また変わった味のもん食ってんなあ」
悟空がメシの味に文句をつけるなんて珍しい。さては辛子の塊でも入っていたかな。その手にあるサンドイッチを見て俺はそう思ったが、間もなく悟空が言ったのはメシの味についてではないことが判明した。
「イチゴはそのまま食った方がうまいとオラ思うけどなあ。へんなの」
悟空が文句をつけたのは、俺も確かにそう思うデザートのあり方についてだった。より正確に言うならば、デザートと食事のコラボ。ブルマの好物、ストロベリーサンドイッチ。
「女の子は果物にクリームをかけたりするのが好きなんだよ。これでもかってほど甘くしたりな」
「でもしょっぺえぞ、これ」
「しょっぱい?」
文句を言いながらも悟空は食べた。それで俺も首を傾げつつ、ストロベリーサンドイッチを食べてみた。イチゴとクリームをパンに挟んだだけというそのシンプルな料理は、なかなかに玄妙な味がした。
「なるほど。確かにしょっぱいな…」
「な?まずかないけど、へんな味」
そう言いながらも悟空はさらに一つ食べた。俺は少し考えて、自分ももう一切れ摘んだ。
「悟空、このイチゴのサンドイッチあったこと、みんなには内緒な」
「どうしてだ?」
「どうしても。そうしておけば、全部俺たちが食べられるだろ?」
こういう時は食べ尽くしておけばいいんだ。どこからか見つけてきた珍しい果物を俺が食べ尽くしてやると、プーアルが満足そうに笑ったりしていたもんだ。ま、本来そういうのとは違うかもしれんが、わざわざ水を差すこともあるまい。ブルマは充分がんばった。俺はそう思う。
悟空は一瞬きょとんとした目で俺を見たが、すぐに手元のサンドイッチに目を落とした。
「ヤムチャがそうしろって言うならそうする。オラこれそんなに嫌いじゃねえし」
「ああ、俺もだ」
ブルマの名誉のために言っておくと、クリームは甘さ控えめを狙ったようだったので、結果的にそれほど塩辛くはなっていなかった。…甘過ぎるかな。でも食べられない味ではなかったことは確かだ。それにしたってブルマもなあ。自分の好物に限って失敗するなんて、間抜けだなあ。きっと、油断大敵ってやつだな。
想像を味わいながら、俺はストロベリーサンドイッチを数切れ食べた。その間に悟空はおにぎりを数十個とBLTサンドを十数個とストロベリーサンドイッチを十数個食べた(ストロベリーサンドイッチは他の物に比べ数が少なめだった。きっといつもはほとんどブルマしか食べないからだろう)。最後のストロベリーサンドを悟空が掴んだ時、ブルマが目を覚ました。
「うーん……あれ、あんたたち、いつからいるの」
「つい今だよ。クリリンは老師様とプーアルを呼びにいってる」
今だ寝惚け眼のブルマに、俺は笑顔で答えた。でも、まるっきり気を抜いていたわけではない。大なり小なり怒られるであろうこと、それが俺にはわかっていた。そしてそれは、もうすぐにやってきた。ブルマは体を起こすなり、眉を上げて叫び立てた。
「ちょっと孫くん!あんた、あたしのサンドイッチ食べたわね!それも全部!もう、信じらんない!」
「へ?オラそんなことしねえよ。まだこっちにいっぺえあるって。ちゃんとみんなの分残してあらあ」
「それじゃなくってイチゴの方よ!バスケットに入ってたやつ!あたしのストロベリーサンドイッチ!」
「あ、それは食っちまった。ダメだったんか?でも、ヤムチャがそうしようって言うから」
「なーんですってぇー!?」
俺が口を挟む間もなく、悟空が全貌を明かした。こうして俺は思っていたよりずっと早く、思っていたよりずっと怖い視線と声に晒されることとなった。
「あ、いや、ちょっと食べたらおいしくってさ、それでつい食べ過ぎちゃって…」
「ふんだ。ヤムチャのバーカ!」
「ご、ごめん。明日またイチゴ貰ってくるから。それで許してくれよ。な?」
「嘘つき。いやしんぼ!」
俺たちはいま一つ文脈の繋がらないやり取りをした。ブルマは褒め殺しに乗らないばかりか、聞く耳すら持っていなかった。あー、怖い。食べ物の恨みって悟空に限らず怖いんだな。…俺、選択肢間違えたかな。
はっきり言ってブルマを宥めきる方法は俺にはなかった。だからその時クリリンたちがやってきたことは、まったく渡りに船だった。
「…あの、ブルマさん、…どうかしたんっすか?」
「べ・つ・に!」
やや遠くから飛んできたクリリンの声を切って捨てると、ブルマは即座にそっぽを向いた。とりあえず表立って怒ることはやめたようだ。それでも空気が完全に流れるはずはなく、悟空を除く全員が窺うような顔をして俺を見た。だが、もちろん俺にはブルマの言葉を否定するつもりはなかった。
とはいえ、笑って誤魔化す気力もすでになくなっていた。だからただ心の中で苦笑して、今度は本来しょっぱい食べ物に手を伸ばし始めた悟空へと目をやったのだった。

『よく動き、よく学び、よく遊び、よく食べて、よく休む』
武天老師様の教えだ。俺はこれを聞くとよく悟空のことを思い出していたものだが、その感覚は至極妥当であったことが今日証明された。
「みんな、もう食わねえんか?」
「じゃあオラ、残りのおにぎり全部食っちまっていいか?」
「ぷは〜、食った食った。…オラ、眠くなっちまった」
まさによく食うなり悟空は寝た。そして昼寝から起きるなりこう言ったもんだ。
「よーし、次は反射神経の修行だな!」
老師様の鬨の声などまるで必要なし。よく呑み込んでいる…のとはきっと違うな。悟空の場合はおそらく本能だ。
「じっちゃん、今どこであれやってんだ?」
「おぬしがいた頃と同じじゃよ。例のカメハウスから少し離れたところにあるフタバガキの木じゃ」
「そっか。蜂たち元気かなあ」
こうして今日は悟空に促されて、午後の時間が始まった。いつもとは少し違うタイミングでする、いつもの修行。仄かな湖風を感じながら腰を上げると、ふとブルマと目が合った。いや、合ったというより、はなから凝視されていた。
「なんだ?」
「べーつーにっ」
俺が声をかけると、ブルマは途端に目を逸らした。…まだ怒ってんのかな。本当に食い物の恨みって怖ろしい…
「そうだ老師様、湖の修行ですけど、明日からはこれまで通りで結構です。サメのやつ子ども産んでたんっすよ。そしたらもう速いのなんのって」
「それは本当じゃろうな。嘘をついて楽をしても己のためにならんぞ」
「そんなことしませんよ。おれらはこれからもっともっと修行をして、絶対に悟空に追いついてやるんですからね」
「それだけじゃない、追い抜いてやりますよ」
「うむ、その意気じゃ」
「がんばって、ヤムチャ様!」
ぴょんぴょんと跳ねるように駆けて行く悟空を先頭に、ちょっと怖いブルマを後ろに、俺たちはいつもの道を歩いた。やがて実をつけ始めたばかりのフタバガキの木が見えてきた。ブロッコリーのように茂った葉の中から今日も出てくる先住者。俺たちが木に体をロープで結わえると、老師様が巣を杖で叩いた。あっという間に視界が蜂で埋まった。こうしていつもの修行が始まった――
――そう、俺は思っていた。やや体力の尽きかけてきた終盤、クリリンがそう叫ぶまでは。
「で、できた…!」
その時俺は鼻先に纏わりつく数匹を腕で払ったところで、少々崩れた体勢にあった。クリリンはというと、頭上に手をかざすという、一見妙な姿勢を取っていた。
「見ろよ悟空、ヤムチャさん!ほら、おれにも蜂掴めたぞ!!」
その言葉に俺はすっかり驚いて、半ば無理矢理顔をクリリンの方へと向けた。まさに一匹の蜂がその拳の中から覗いて見えた。
「な…」
「やるなー、クリリン」
無邪気に笑う悟空をよそに、俺は一瞬言葉に詰まった。クリリンのやつ、そんなことをやっていたのか…!しかもやれてしまったのか。俺なんか考えもしなかったというのに。こりゃあうかうかしてられんな…
「ヤムチャさんもやってみたらどうっすか。初めは一匹に的を絞るといいですよ」
「そうだな、どれ――」
クリリンに反対する理由はなかった。俺が目星をつけるため視線を動かそうとしたその時、それまで目を離せなかったクリリンの拳の中の一匹が動いた。そしてそれを教えようとした瞬間、首の後ろに感触が纏わりついた。
「いっ…!」
「いってえぇぇぇーーー!!」
そんなわけで、俺はクリリンに教えることなく自らの痛みに声を上げた。当然クリリンは防ぐ間もなく拳の中の蜂に反撃を食らったのだった。




「おかえりなさい、みなさん。お茶の用意できてますよ」
「ひょーっ!いっぺえあるなあ。いっただっきまーす!!」
「おっまえ、よく食うなあ」
「腹減ってたからな」
カメハウスに着くなり、悟空は3時のお茶を開始した。俺はというと軽く息をついて、テーブルから少し離れたところに腰を下ろした。お茶に手をつける前にするべきことがあったからだ。
傷の消毒。その事実の差に加え、今日は不本意なことが一つあった。結局あの一刺しが、心密かに決めていた目標を破らせることとなった。蜂刺されの痕を片手の指の数にとどめること。ここ一週間ずっとクリアできていたのになあ…
「首と、あとどこ?刺されたところ」
「ん?ああ、肩の後ろと二の腕のあたり…」
「じゃ、シャツ脱いで後ろ向いて」
俺の隣に座るなり、きびきびとブルマが言った。その手にはすでに消毒薬が握られていた。ほんの一瞬、俺はそのことに気を取られた。手当ての仕方一つとっても性格は出るものだ。自ら傷のあるところに回り込むタイプ。自分は動かず傷の方を向けさせるタイプ。ちなみにランチさんとプーアルは前者のタイプだ。
シャツを脱ぎ捨て座り直した俺の前では、そのランチさんに手当てされているクリリンが悔しそうに歯噛みした。
「ちくしょう、あの蜂思いっきり刺しやがって。これじゃ箸も持てやしない」
「いつまでも掴まえたことに喜んでおるからじゃ。拳の中に入れとるだけじゃ、そりゃ刺されるに決まっとるわい」
「せっかく掴まえられたのにね。残念ね」
「じゃがまあ、その意気やよし、じゃな」
咎めを含まない老師様の窘めの声に、俺は軽いばつの悪さを感じた。…俺なんか、まだ何もしてなかったのに。何もしていないということに不覚を感じて不覚を取るなんて、不覚の極致もいいところだ。
俺は自省し始めていた。だが、落ち込んでいたわけではなかった。ただ、振り返っていたのだ。自省は大事だ。特に不覚を取ったその時に深く自省することは(洒落だ)。自分を省みることで、自分を知ることで、自分を育てていくのだ。とは誰の言葉だったか…
とはいえご覧の通り、思考はいま一つ真摯さに欠けた。偏にそれは、背中越しに聞こえてくる明るい声に影響されてのことだった。
「だーいじょうぶだって。あんたもあれくらい、そのうちできるようになるわよ」
「ああ」
「あっ、昨日より傷が増えたこと気にしてんの?でも、そんな簡単に上達するわけはないんだから」
「…ああ」
「目立つところを刺されてないだけいいじゃない。それだけで充分、感謝すべきよ」
「ああ…」
優しい手つきで手当てしてくれてるわりには無造作な、ブルマの言葉の数々。…なんか、だんだん本音出てきてるな。できると言った次の瞬間もう否定してるし。俺のこと軽く侮りやがって。慰めてくれているのはわかるんだが。ああ、まったく痛いほどわかるよ。痛いほどにな…
そんなわけで少し情けなく思いながらも、俺は自省することをやめた。これ以上ブルマに『慰める』なんて慣れないことをさせては、俺の心の傷に障る。まったく、ゆっくり考えごともさせてくれないんだから…
…ま、考えてる暇があったら体を動かせってことだな。そう思い直した時、ブルマは今度はこんなことを言い出した。
「明日も修行見に行くわね。お弁当作って!何か食べたいものはある?」
まるで何事もなかったかのような笑顔で。それはむしろ浮き立った雰囲気ですらあった。だから俺も言っておいた。
「塩入りじゃないストロベリーサンド」
ブルマの態度を見習って、できるだけさりげなく。とはいえ、もちろん嫌みではない。なぜなら――
「あれはあれで悪くないけど、疲労回復にはやっぱり砂糖だよな」
「ちょっと何よ!気づいてたんじゃないの!もうー!」
「なに、食えない味じゃなかったよ」
――だからだ。単に先のブルマと同じ、事実に基づいた感想…
「フォローになってないわよ!!」
「んー、じゃあそうだな。ちょっと変わった味だけど悪くない。悟空もそう言ってた」
「一体どういう舌してんのよ!」
少々目論見と違ったことに、ブルマはそれは激しく怒り続けた。別にへこませるつもりがあったわけではないが、普通はもう少し謙虚に答えるんじゃないだろうか。
「あ、ブルマは別に料理下手じゃないと思うぞ。ただちょっと間抜けなだけで。きっと慣れの問題だろ。砂糖と塩を間違えるなんて、いかにも不慣れな間違いだもんな」
「そんな慰め方されても嬉しくないのよ!!」
所謂逆ギレってやつか。らしいといえばらしいかな。どことなくおもしろい気分にさえなりながら、俺はブルマの怖い態度を受け入れた。聞いたところ厳しいブルマの言葉は俺にほとんどダメージを与えなかった。そっくりそのまま返してやりたいことだらけだったからだ。
「…あのー、ヤムチャさん、ブルマさん、どうかしたんっすか?」
だから、やがてクリリンがおずおずとそう声をかけてきた時も、俺はこう答えることができた。
「あ、いや、別に…」
「なんでもないわよ!」
でも、続くブルマの声を聞いた時には思っていた。ちょっとやり過ぎだったかな。少し本気で怖くなってきてる…
勢いよくそっぽを向いてそのままテーブルについたブルマの、隣に座るべきか否か。ここでわざわざ遠くの席についたりすることはできないとわかりつつも俺がそれを考えていると、おもむろに悟空が立ち上がった。
「あー、食った食った。ごっそさん!じゃあオラ行くな」
そして顔中に菓子くずをつけたままで、そう宣言した。ウーロンが飛ばされた菓子くずを顔から払いながら、軽く水を差した。
「今からかよ。せめて明日にしろよ。もうすぐ夜だぞ」
「うん、でもみんながんばってるのに、オラ一人のんびりしていられねえ」
やっぱりカラッと悟空は言った。そうじゃなくとも、それは全然嫌みには聞こえなかった。そうさ、俺たちはがんばっている。同じ亀仙流の弟子として。同じ武の道を行く者として。ただいるところが違うだけだ。立ち位置が違うだけなんだ。
「ひさしぶりにみんなでメシ食えて楽しかったぞ」
「うむ。悟空よ、さらなる成長を楽しみにしておるぞい」
「おれだって、次に会う時はうんと強くなっててやるからな。驚くなよ」
「悟空、また天下一武道会で会おう」
「悟空さん、さようなら」
「お体に気をつけて…なんて、言う必要ないですわね」
軽い別れの挨拶。軽い檄。軽い笑顔。それはやってきた時とは打って変わって、穏やかな雰囲気だった。つい今まで怒っていたブルマさえもが声を和らげて悟空を見た。
「孫くん、これあげる。お腹が空いたら食べなさい。だから変なもの拾い食いしちゃダメよ」
「なんだこれ?食いもんなんか?」
「あたしのおやつよ。朝、あんたが文句言いながら食べてたやつ。本当はあたしの分なんだけど、もう全部あげるわ」
ブルマが悟空に渡したものはカプセルだった。カプセルに入ったおやつ…その時点で、一体どれほどの量なのかだいたい察しがつく。まったく、ブルマも悟空に甘いよな。同じ『文句言いながら食べた』やつに対して、その態度の違いはなんだ。…いや、俺は文句言ってないぞ。本人に言ってないばかりか、本人のいないところでだって言ってない。それにしたって、どうして悟空に対してはそう太っ腹なんだ。昼だって、結局最後は俺に対してだけ怒ってたしな。
とはいえ、俺はそれほど不本意なわけではなかった。ただ少し思ってみたまでのことだ。
「ふーん。サンキュー、ブルマ。じゃあなみんな、バイバーイ」
「バイバーイ」
「まったなー」
やっぱりカラッと悟空は別れの言葉を口にした。笑顔で手を振った直後にはもう窓を乗り越えていた。さらにその直後には猛スピードで地平線の果てへと駆け出していた。
「よしよし、あやつめ、ちゃんとわしの言いつけを守って走っておるな。天晴じゃ」
砂埃と陽炎の向こうに悟空の姿が消えた頃、老師様がそう言ってサングラスをきらめかせた。俺はその言葉を、少しだけ羨ましい思いで聞いた。
何にも頼らず自分の力だけで道を行く悟空の足は、なんて軽やかなんだろう。筋斗雲に乗っていた時と変わらない爽快さ。一筋縄ではいかない冒険の数々。いつだって感じる新しい風。常に変わる太陽の光。
だが、俺はわかっていた。自分自身の立ち位置というものを。やがて、それまでどことなく文句をつけているような心配顔を覗かせていたブルマが、しれっとした様子でお茶を飲み始めたので、それはより具体的な形となって俺の中に浮かび上がった。

そう、俺は今しばらく、この地で修行を積む。
腹を壊さないよう、気をつけながら。
web拍手
inserted by FC2 system