恋日の女
修行をする際に大事なもの。それは集中力だ。
抑える力。止める力。自分の心の雑念や周囲の働きかけにつられないで焦点を合わせる力。即ち、精神統一力。
太陽光も虫眼鏡で焦点を一点に統一することで、高熱を生み出す。水も一点に絞ると、ダイヤモンドを切リ裂く。同様に人間でも――
「繰気弾!」
その瞬間まで留めておいた気弾を、心眼の働きに従って、滝にぶつけた。繰気弾は、物体に激突しても消滅しない。とはいえ俺は、それを試したいわけではなかった。
その上を、狙っていた。自分の力というよりは気力を計るために。
滝の右側、苔むした岩に当たって僅かに水流が乱れているところが狙い目だった。水流に裂け目ができた。そのまま指を横に引くと、繰気弾は滝を真横にすっぱりと切り裂いた。
「よぉーし!相変わらず絶好調だぜ!」
まさに一撃必殺だな!滝だから死んでないけど、まあいいだろ。結構時間かかったからなあ、あのポイントに気づくまで。おかげで心眼も鍛えられた。…ま、別にこれができたからどうってわけじゃないんだけどさ。なんとなくすごい感じがするじゃないか。
じゃ、息抜き終わり。再び本腰を入れて修行に取り組むぞ。
まずは場所移動だな。見た目のそれっぽさはあるが縦横無尽に動き回るには適していない滝壺傍から離れようとしたところ、その滝壺に空から何やら落ちてきた。
「きゃあぁぁあぁぁあぁぁ!!」
――ドッボーン!!
聞き覚えのある大声と共に。同時に響く大きな水音。そのあまりの唐突さに俺は驚き、やがては深く呆れながらブルマを滝壺から掬い上げた。
「何やってんだおまえ…」
一瞬にして全身ずぶ濡れとなったブルマはポニーテールの髪から水を滴らせながら、笑って言い切った。
「へへ。見っけ!」
「何が『見っけ』だ。危なっかしい現れ方しやがって」
おまけにそんな軽装で。そんな真夏みたいな格好でこんな北に来るやつが…
そこまで考えて、俺はふと不思議に思った。
「…どうしてここがわかったんだ?」
俺がここにいることは誰にも教えていなかったのだ。ブルマにも、プーアルにも。その他誰にも…
ブルマは偉そうに片眉を上げて見せたが、それも途中までだった。
「ふふん。この天才ブルマ様に不可能は…っくしゅん!」
少々的外れな自画自賛の言葉は、すぐさま大きなくしゃみに変わった。俺は再び呆れながら、その話題を打ち切った。
「カプセルハウスは持ってきてるのか?」
「エアクラフトに置いてあるわ」
「ああ、あれか」
滝の上空を見上げたブルマの視線の先に、小型のエアクラフトがあった。キャノピーは開けっ放しに、オートホバリングしている。ひょっとしなくても、あそこから落ちたのか。なんとまあ相変わらずドジなことで。俺はさらに呆れながらそこにあったミニトランクを手にし、エアクラフトをカプセルに戻した。そしてその両方を手渡してから、やや機械的に言っておいた。
「早いとこ風呂入って体温めとけ。それから、もっと布地の多い服を着ろ」
「あんたは来ないの?」
「俺はまだ修行の途中だ。陽が落ちるまでは続ける」
「ふーん…」
どことなく不満そうに呟いたブルマを、俺は無視した。敢えて背中を向けて、敢えてその場から飛び去った。滝を越えた崖の上、ブルマの姿が見えないところまで行ってから、舞空術を解いた。
逃げた、と思われるのは心外だ。だが、それに近い心境であることは否めなかった。
なんか調子狂うんだよな、ブルマがいると。気が抜けるっていうかさ。せっかく乗ってるところなんだから、邪魔しないでくれよな。
と、面と向かって言うことができないが故の行動なのであった。


それにしても、何しに来たんだ。
どうしてわざわざ会いに来るんだ、なんて無粋なことは言わない。でもそれにしたって、離れてからまだ一ヶ月くらいしか経ってないだろ?
そんなことを考えながら、俺は気を集めた。もうすっかり慣れたこの作業。だが、問題はここからだ。
何か問題あったかな。デートの約束してたとか…いや、もし約束していて俺が忘れていたなら、あんなににこにこしているわけがない。捨て台詞を吐いて怒ってどっか行っちまうに決まってる。それこそ、何しに来たんだ、という気はするが、それがブルマのパターンだ。
地形のパターンを読む。弾を確実に当て続けていくために。繰気弾は、物体に激突しても消滅しない。そのことを利用した連続攻撃を磨くことと、弾そのものの持続力の底上げ、というのが、この修業の狙いなのだ。
それとも、考えなしに来たのかな。いつもの気まぐれで。あの服装を考えるとそれもあり得るな。
「繰気弾!」
その瞬間まで留めておいた気弾を、眼前に聳える岩山へとぶつけた。まずは慣性で次の岩山へとぶつける。それから少しだけ指を引いて軌道を修正し、さらなる岩山へと――
「あ…っ」
三つ目の岩は掠った。だが四つ目の岩を捉えることはできなかった。さらにそこでうっかり手を下ろしてしまったのが、まずかった。
まったくもって今さらながらの失敗だった。制御不能となってしまった繰気弾は、何本かの木を薙ぎ倒して、そのまま空の彼方へと飛び去った。消滅したのでないことは、肉眼でわかった。
あらら。どっかいっちまった…
俺は非常に不甲斐ない気持ちで、崩れた一つ目の岩を踏みしめた。こんなの、繰気弾を開発し始めた頃以来の失敗だ。技を応用した戦い方を身につける、っていう段階でやることじゃないよなあ…
失敗の理由はわかっていた。集中力だ。自分の心の雑念や周囲の働きかけにつられないで焦点を合わせる――焦点を合わせるどころか、精神が完全に二分されちまってたからな、今。調子いいからそれでもいけると思ったんだが、ダメだったみたいだ。
やはり集中力は大事だな。よし、じゃあ気を引き締めて、もう一度やり直すぞ。
「はぁーーー…」
俺は今度は両目を閉じて、気を集めた。繰気弾が形を成しても、目を開けなかった。第一の目標はすでに決定している。さっき掠った三つ目の岩だ。その後は、その場その場の臨機応変な判断で攻撃対象を捉えるのだ。実戦ではじっくり狙っている暇などないのだからな。
「ばっ!!」
勢いよく発射した繰気弾が、一つ目の岩山のど真ん中を貫いた。そこで少し指を引いて軌道を修正し、次の岩山をも真正面に捉える。三つ目の岩は足元を狙うつもりで地面すれすれに。四つ目の岩は腕に当てるつもりで右上方に。五つ目の岩は後ろから回り込んで――
「あっ!?」
繰気弾は見事に狙い通りの動きをした。大岩を五つ貫き通しても消滅しなかった。でも、俺は六つ目の岩を狙うことはしなかった。
五つ目の岩の上に、何やら動くものがあったからだ。白い毛皮に包まれた小動物――野ウサギ!?いや…
「きゃあぁぁあぁぁあぁぁ!!」
聞き覚えのあり過ぎる大声を上げて、砕かれた岩の礫と共に地面へと落ちていくブルマの体を、俺はすんでのところで抱き留めた。そのまま礫の降らない離れたところへ着地すると、ブルマは俺の胸の中で大きな息を吐いてから、助けられた礼も言わずに言い放った。
「あー、びっくりした!こっちに撃つなら撃つと言ってよ、もうーーー!」
おまえこそ、いるならいると言いやがれ!
すぐさまそう返してやろうと思った俺だったが、口を開く前に気がついた。
――はっ。繰気弾は…
ブルマを抱き抱える自分の両手に。すぐに軌跡を確かめたが、求めるものはどこにも見当たらなかった。
…いかん。またどっかいっちまった…
「はぁ〜〜〜…」
俺は深い深い溜息をついた。…こりゃもう今日は修行にならんな…
かくして俺は、自分のペースを守ることを諦めた。どうせもうじき日没だ、残りの時間はブルマにくれてやる。どうやってかは知らないがここを見つけてわざわざ邪魔しに来てくれた礼だ。
俺は黙って地を蹴った。伝えてやるのも癪な気がした。ブルマは俺の両腕に収まりながら、まるで他人事のように首を傾げた。
「どこ行くの?場所変えるの?」
「カプセルハウスに戻る」
それを無視するほどの気概は俺にはなかった。もともと無視するほど怒っていたわけではないのだ。
「戻る?修行は?」
「今日はもう止めだ」
「あらそう」
そして、一見しおらしくそう答えたブルマが首元にしな垂れかかってくるのを見て、俺の心境はさらに複雑なものとなった。
なんだかブルマの望み通りになっているなあ。とはいえ、ブルマを擁護するわけではないが(そんな義理はない)、ブルマはわざと邪魔しているわけではないのだ。これはもう、こいつの根っからの性質なのだ。
だからこそ困るんだよなぁ…


そんなわけで、修行は途中でお開きとなり、俺はいつもより数時間早くシャワーを浴びる羽目となった。
「るーるるっるるんる〜ん。あ、ちょっと待ってね。ごはんすぐできるから」
バスルームを出てみると、ブルマが上機嫌で夕食用のテレビディナーを温めていた。苦笑しつつ冷蔵庫を開けると、中にはビールとバドワしか入っていなかった。ふーむ…居座るつもりはないようだな。
「いっただっきま〜す。あ、おいしい。このテレビディナーは当たりね。これ、まだ販売されてないやつでさ、モニターを兼ねて付き合いのある食品会社がくれたのよね。ちょっと多過ぎるから持ってきたんだけど。置いてったら食べる?」
明るく朗らかな、だがなんてことのない言葉と共に、食事は始められた。牛肉にナイフを入れながら俺はそれに答え、また一つ事実を手に入れた。
「時々ならな」
「じゃ、少し置いてくわ」
連れ戻しに来たわけでもないらしい。やっぱり約束とかはしてなかったんだな。
「ねえ、ところであんた、まるっきり薄着だけど寒くないの?」
肉を口に入れると、ブルマがパンをちぎりながらそんなことを訊いてきた。俺は口を動かしがてら目の前の人間をこれまでとは違う角度から観察して、さっくりと言ってやった。
「おまえとたいして変わらんだろ」
荒涼とした北の地に不似合いな白い毛皮を脱いだブルマは、まったくいつもと変わらぬ服装だった。真夏を思わせるショートパンツに素足。風呂上りの俺よりも軽装だ。
「今じゃなくて、外でよ。ここ、結構気温低いじゃない。なのに、いつもとまったく同じ格好でさ」
「動けば暑くなるからちょうどいいんだ」
「あんたって意外と野生児よね〜」
呆れたように言い捨てると、ブルマはそれきり口を噤んだ。ここからは食事に専念するつもりらしい。それで俺はさりげなく、水を飲んでいるブルマに水を向けた。
「なあブルマ、おまえ一体何しに来たんだ?」
なんかさっぱり、話が見えてこないんだが。気まぐれで押しかけてくることがこれまでまったくなかったわけではないが、それは居場所を教えている時のことだった。それに、押しかけてきているわりには押しが弱いというか…なんとなく手応えが薄いような気がするのは、俺が慣らされてしまっているからなのだろうか。
「何だっていいでしょ。理由がなくちゃ来ちゃいけないの?」
ところがブルマはここぞとばかりに押しの強さを発揮して、話を誤魔化しにかかった。その卑怯な手口に、だが目論見通りに俺が引っかかっている隙に、ブルマは食事をすっかり平らげ、話題を最初のものに戻した。
「はい、ごちそうさま。うん、量も充分ね。このテレビディナー7種類あるの。2つずつあと6種類、それとモーニングプレートも合わせて全部で15食フリーザーに入ってるから」
「それのどこが少しなんだ」
「半月持たないもん。そう考えたら少しでしょ。それともあと半月で帰ってきたりするわけ?」
ブルマは一応訊いてはいたが、もちろん嫌みであることは俺にはわかった。同時に、それは単なる嫌みで、別に拗ねてるとかそういうのじゃないということもわかった。だから俺はもうまったくいつも通りに振る舞うことにした。どうやら手応えも戻ってきたようだしな。
「…まあな。それに悟空なら一食にも満たないだろうしな」
「確かに、孫くんなら全然足りないわね」
俺の誤魔化しを、ブルマはさくっと片づけた。テレビディナーのトレイをも片づけながら。直後に食べ終わった俺が食後のコーヒーをすっ飛ばして冷蔵庫からビールを取り出すと、片手を差し出しながらブルマは言った。
「そうだ。それで思い出したわ。ここへ来る途中、天津飯さんに会ったの。東の方で、餃子くんと一緒に、なんか気の修行してた」
「気の修行!?げげ。あいつまた新しい技を生み出すつもりじゃないだろうな」
「さあねえ。話はしなかったから詳しいことはわかんないけど」
「声かけなかったのか。またどこかに落っこちたのか?」
「違うわよ。ただそっとしといただけ。だって、なんかすっごく近寄りがたい雰囲気だったんだもの。後ろ姿見ただけで、もう気迫びんびんで」
「…俺にもそうしてくれたらよかったのに…」
「あんたは全然迫力ないもの」
言ってくれるなあ…
苦笑しながらビールを啜り込むと、ブルマがテレビのスイッチを入れた。何度かチャンネルを変えた後で、観たことはないがなぜか新鮮味を感じないドラマのところでチャンネルを固定した。
「このドラマ、今すっごい人気なのよ。そのわりに俳優がいまいち格好よくないんだけどね」
「おまえ本当に好きだよな、そういうの」
「あたしだけじゃないわよ。すごい人気だって言ったでしょ。みんな観てるのよ。男も女も関係なくね。恋人同士一緒に観たりしてるわけ」
そしてローソファに座りながらそう言ったので、その右隣に俺も座り込んだ。
それはつまり、一緒に観ろってことだろ。そのくらいわかるさ。
そんなわけで、時折ビールを啜りながら、俺はそれを観た。はっきり言ってまったく気にならない、他人の、それも作りものの恋愛話を。熱いわりに突っ込みどころがいっぱいあったが、それは一切口に出さずに。こういうのを観てる時に何か喋ると、ブルマが怒るからだ。勝手にやってきてテレビ見始めるようなやつに怒られたくない、とは言ってやれない俺なのであった。
やがて30分もすると、CMが入った。二缶目のビールを取りに行こうと腰を上げかけると、ブルマが俺の腕を引っ張った。
「なんだ?」
「うん。あのね、あたしたち会うのひさしぶりでしょ。そうね、だいたい二ヶ月ぶりってとこよね」
「そうだな」
「なのに、何もしないのかなーって思って…」
…………。
俺の心は一瞬、無になった。だがやがて呆れがやってきたことは、言うまでもない。
「おまえ、もう少し雰囲気とかタイミングとかいうものをだなぁ…」
「何よ。あんたが何もしようとしないからでしょ」
おまえにその気がなさそうだったからだろ。
とは、俺は言わなかった。思ったことは思ったが、すぐにそれは少し違うような気がしたからだ。
機嫌はよかったからな。修行を切り上げたことを喜んでいるような節もあった。でも、少なくとも『このドラマ観た後で』とか言いそうな感じではあったぞ。
要するに俺は空気を読んでいたのだった。様子見を兼ねて。せっかく俺が『わざわざ来たんだから構ってやろう』と(途中から)思って優しく接してやっていたのに。そういう人の心の機微をまるっきり無視しやがって。
「わざわざ彼女がこんな辺鄙なところまで会いに来てやったっていうのに、キス一つしようとしないんだから。いくら鈍いったってねえ…」
「ちょっと黙ってろ」
俺は口を封じた。ブルマの口と、自分の口をいっぺんに。どっちが鈍いんだ。そういう水かけ論を避けるために。
ひさしぶりとはあまり思わなかったが、してみるとそれなりにひさしぶりなような気もするブルマとのキス。唇に残るほの甘いアルコールの香り。温かな肌、仄かな髪の匂い。
ひさしぶりとか、そうじゃないとかは関係ない。そういう気分に、俺はなってきていた。それなのに、ブルマは未だにこんなことを言っていた。
「…このやり方のどこに雰囲気があるって言うのよ?」
「嫌ならやめるぞ」
「あっ…」
一体どちらに非があるのか。それがこれではっきりした。とはいえ、俺はそれを口にしようとは思わなかった。ブルマが怖いからではない。俺は空気が読めるからだ。
空気が読めるから、ブルマの返事を待つことなく、その肌に触れた。下ろした髪の間からのぞくうなじ。毛先が遊ぶ鎖骨。ふくらんだ胸の頂にある、唇と同じ色の…
「あっ、ああ…………ねえ、ヤムチャ…」
微かに身をよじらせながら、ブルマが呟いた。呼んだのでも、止めたのでもないということは、少しばかり頑なな、でもそれ以上のものではない瞳でわかった。
「ベッド行くのか?」
「…うん」
やれやれ。今日はずいぶん注文がうるさいな。どうせ最後はそんなのどうでもよくなるくせに。
まあこいつは、もともと妙に神経質なところがあるからなあ。…最初だけ。途中からはそりゃもう大胆なもんだ。
「はいはい」
本人曰く『ひさしぶり』らしいブルマの心境を、俺は深くは考えなかった。どうせ後は寝るだけなんだ、早々とベッドに入ってしまったとて、何の問題もない。
こうして俺たちは他人の恋愛を観るのをやめて、自分たちの恋愛に没頭することになった。ひょっとしなくても、これを狙ってあんなドラマなんか観せたんだろうなあ。流れはともかく、結果的にはまったく思惑通りになっているな。そう俺は思ったが、ブルマをベッドルームへ連れて行くことはやめなかった。
この思惑に乗らずに済ませられるやつがいたら、一度ご教授願いたいものだ。


翌朝、俺はいつもよりほんの少しだけ遅い時間に目を覚ました。さらに、目を覚ますなり頭も醒めたが、それは日頃の修練の賜物ではなかった。
ブルマに、ベッドから蹴落とされたのだ。
…まあ、よくお眠りで。
人を蹴飛ばしてもなお起きない寝相の悪い彼女の体に布団をかけ直してから、俺はベッドルームを抜け出した。ここはだいぶん北だから、外はまだ薄暗い。だが、暗くても朝は朝だ。せっかく起こしてもらったんだから、修行しなきゃな。
「ふあぁ…く〜〜〜〜〜」
しばらく体を解していると、欠伸が出てきた。それを噛み殺しながら、伸びをした。…昨夜はちょっと熱が入り過ぎたな。なんかブルマの感度がえらいよかったみたいだからさ…
もちろん、ブルマのせいだけじゃないけどな。ああいうことは一人じゃできないんだから。
つまり、俺は調子がよかった。相変わらず、と言っておこう。朝はちょっと自力じゃ起きられなかったが、体のキレは悪くない。繰気弾だって、これこの通り。
「はっ!!」
まずは何も考えずに、前方に飛ばした。滝を避け、聳える崖を避け、木々を避け、反対側の崖を避け、地面から突き出した岩を避け…
最後は再び自分の掌に戻した。僅かなエネルギーの消耗もなく。う〜ん、今日も絶好調…
「ヤームチャーーーッ!」
さてそろそろ本腰を入れようとしたところ、カプセルハウスから俺を呼ぶ者が現れた。俺は今朝はそのことに、声を聞く前から気づいていた。
「おす」
「おはよ」
とはいえ、まったく意外じゃないわけではなかった。一緒に夜を過ごした朝にしては、早起きだ。そのくせすっきりした顔しやがってまあ…
これは嫌みじゃない。どちらかというと、嬉しくなってしまう類のことだ。
俺がうっかり予定外にほのぼのとした気分になっていると、ブルマは言った。
「ねえ、あたしもう帰るわ。今日わりと忙しいの。お昼に約束入ってるし」
それは非常に肩透かしな台詞だった。がっくりというよりは、呆然としてしまう展開だった。
「…おまえ一体何しに来たんだ?」
まさかとは思うが、するためだけに来たのか?そこまで性欲が強いとは思っていなかったが…
「あ、そうだったわね。これあげる」
ブルマは思い出したようにそう言った。だが、本当に忘れていたわけではないことは、その後すぐにわかった。
一見無造作に、ブルマはそれを俺の方へと放り投げた。だから俺も何の躊躇いもなくそれを受け取った。考え込んだのは、それを手にした後だった。何も知らされてはいないがなぜかそれとわかるハートの形のこの包み…
「じゃあね、ハッピーバレンタイン」
…やっぱり。
俺は一瞬にして腑に落ちた。それでなんとなく最初おとなしかったんだな。きっと様子見してたんだろう。そして『雰囲気』…………これはどうやら、俺に非があるようだ。
「来月はちゃんと帰ってきてよ」
そう言いながらエアクラフトに乗り込むブルマを、俺は曰く言い難い気持ちで見ていた。来月、何があるのか。この上、それにまで気がつかないわけはない。
「バーイ。修行がんばってね!」
あっという間に地を離れ、少しだけホバリングした後で、ブルマは帰っていった。来た時と同じような唐突さ。とはいえ、それは妙に爽やかな余韻を残していた。俺は思わず笑いを漏らして、手元に残されたチョコレートを弄びながら、大地に残されたカプセルハウスへと戻った。
修行は一時切り上げだ。手ぶらじゃなくなっちまったからな。ちょっと、これを持ったままでは、修行がやりにくい。それに、どうせそろそろ朝メシにする時間だ。
ハウスには、コーヒーとパンの香りが溢れていた。ブルマの置いていったモーニングプレートを一つレンジに突っ込んで、それができるのを待ちながら、自分が淹れるものにも似た濃さのコーヒーを飲んだ。やがてできあがったパンとプレート、そしてチョコレートを持って、テーブルについた。
心のカレンダーに印をつけてから。
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