遊歩の女
毎日毎日、同じことを続けていた。
「明日からは面積が倍になるぞい」
「今日からは10kg増しの甲羅じゃ」
ノルマは上がれど、基本的には同じことを三年間。雨の日も風の日も。
やがてそれには慣れた。だが、飽きることはなかった。もちろん、嫌気がさすなんてこともない。
武天老師様を信じていたから。何より、大きな目標が俺にはあったからだ。


天下一武道会を間近に控えたその朝、俺とクリリンはいつものように修行していた。
相変わらずの、牛乳配達に畑仕事。だが、ちっとも焦りは湧かない。
今では俺は知っていた。自分の力が、以前の何倍にもなっているということを。三年前では考えられない跳躍力。まるで空を飛んでいるかのように長い滞空時間。鍛えられた腕力。比喩ではなくほとばしる気力…
「老師様、朝の修行終わりました!」
いつもの台詞をクリリンと重ねながらカメハウスのドアを開けると、老師様はいつもとは少し違う言葉を返してきた。
「よし、では朝飯にするかの。腹ごしらえが済んだら、街へ行くぞい」
驚いたというほどではない、でも確かに、出鼻は挫かれた。普段まったく街へ出ないわけではないが、通常は買い出し以外の外出は禁止されているのだ。何か訊きたい気持ちになったのは当然だろう。
「ちょっと、せめてシャワーを浴びさせてよね。そんな汗と埃に塗れた体じゃ、どこにも入れないわよ」
しかし俺たちが何をかを言う前に、昨日から来ていたブルマが怒ったようにそう言った。それで、言い出したのはきっとブルマだな、ということが見て取れた。
「それもそうじゃな。それではおぬしら、朝飯を終えたら身なりを整えて、街へ行くぞい」
ついでに、老師様がそれは軽ーく承知なさったらしいということも見て取れた。まったく、女性に甘いお方だ。
「みんなでですか?」
「そうみたいよ。あたしは来なくていいって言ったのに」
「ほっほっ。ま、邪魔はせんよ」
「ブルマさんは街に何しに行くんですか?」
「髪切りに行くのよ。だいぶんむさくるしくなってきたからね」
「へー、切っちゃうんですか。でも何もこんなところで切らなくても、都で切ればいいんじゃないっすか?」
聞いたところなんてことのないクリリンとブルマの会話を、俺は聞くともなしに聞いていた。なんか、どこかで聞いたような会話だな。そんなことを思いながら。
「あたしじゃないわよ。ヤムチャのよ」
「えっ、俺?」
でも次の瞬間思い出した。確かに聞いた――いや、かつては自分がした会話だということを。そして俺は、かつてのその時よりはだいぶん具体的に反論した。
「別にむさくるしくないだろ。前髪は適当だけど時々切ってるし、後ろはこうして縛っとけばすっきりしたもんだ」
「何言ってんの。むさくるしいことこの上ないわよ。そのいかにも手入れしてない長髪、まるで山にでも籠ってるみたいじゃないの」
そりゃあだって、実際籠ってるんだからな。
荒野に籠っていた頃とほぼ同じ髪型をしている、現在山野に籠っている俺としては、そのブルマの言葉には反論の余地がなかった。
「道着もいい加減くたびれてきてるしさ。三年ぶりに世の中に出るんだもの、ちょっとは小奇麗にしなくちゃね」
それでも、まったく不満に思わないわけじゃない。それどころか、ブルマの言葉のすべてに、俺は納得がいかなかった。
…酷い言われようだな。
それじゃまるで俺が汚いみたいじゃないか。修行しかしない毎日の中、ちゃんと髭は剃ってるし、体も清潔に保っているというのに。まあ確かに昼間は埃塗れだけどさ。
それにだ、俺たちは世の中から隔絶されているわけじゃない。毎日いろんな人と顔を合わせるし、こうしてブルマだって来ているじゃないか。
話が見えているが故に、俺はいろいろと思った。そして話が見えているが故に、それらのことを口にはしなかった。
…要するに、切りたいんだよな。
自分の好きな髪型にしたいんだろ。なんか知らんが思い立ったんだろ。昨日まではまったくそんなこと言ってなかったのに、唐突なんだからもう…
最後に、そう思った時だった。
「何よ。嫌なの?」
どこかで聞いたことのある台詞が飛び出した。眉が、軽くだが上がっていた。声はまだそう怖くはなかったが、兆しはあった。
「あたしはあんたをより格好よくしてやろうって言ってんのに、それを嫌がるなんてそんなことしたらバチが…」
「…ああ、うんうん、わかったわかった」
いつか当たるバチよりも、目の前のブルマの方が怖い。今この時の先に起こりえることを想像するだに恐ろしい。
過去の記憶に背を押されて、俺はブルマを宥めにかかった。今はまださほど怒っていないブルマを。
この手の話に乗らなければどうなるか、俺は経験済みなのだ。


だけど、思い出すなぁ。
以前、ブルマに髪を切らされた時のことを。
あの時は、なんだかわからないうちにヘアサロンに連れて行かれて、気づいた時にはすっかり短くされてたんだよな。それまで俺はずっと長くしてたから、心許ないったらなかった。…まあ結局は、いつの間にか慣れたがな。
で、今はというと、話はだいたい見えてはいるが、今ひとつ気乗りしないままに、エアジェットの操縦なんかをさせられていたりする。確かにカメハウスでは俺が一番下位なわけだが、なんだかな…
そんな小さな不満の種の他にもう一つ、無視できない感覚が俺にはあった。
…こんなことして遊んでていいのだろうか。
天下一武道会はもう目前、今こそ気を引き締めて、より一層修行に励む時なんじゃないだろうか。残り少ない時間を大切に……いや、今さら一日修行をケチってみたってしかたがないか。ここはどーんと余裕を持っていくことにしよう。
――天下一武道会――
眼下に広がる海の向こうに、俺は思いの向かう先を重ねていた。三年前はまったく歯が立たなかった、自分はまだまだ、そんなことだけを強く思ったあの大会。世界中から集まってくる海千山千の強者を相手に、今回はどこまでやれるだろう…
俺は懸念していたわけじゃない。自分の力はわかっていた。あの時とは段違いに強くなった自分を見せつけるチャンスを、心待ちにしていた。そう、気が引き締まっていないのは、俺なのだ。今すぐにでも、戦いの場へ赴きたい。早くあの武舞台に立ちたい。その思いが日一日と強まっていた。三年もの間、修行に修行を重ねてきたのだ。腕が疼かないわけはない。
「おっ、おい、ちょっとヤムチャ、スピード出し過ぎだぞ」
「え?ああ、すまん」
ふいにウーロンに指摘されて、俺は気づいた。危うくスピードメーターを振り切りそうになっていたことに。それで俺はゆっくりとエアジェットのスピードを落とし、改めて目的地を確かめた。
今はまだ、近くの街へ。
心だけはそこを飛び越えて。


相変わらず静かな街だ。
田舎だからな。…そう思っていることに気がついて苦笑したのは、いつのことだっただろう。
西の都。南国パパイヤ島の武道会場。人々の喧騒。溢れる熱気。荒野を出て後訪れたそれらの場所の雰囲気に、俺はすっかり慣らされてしまっていた。そのことに、かつてこの街に来た時に気づいて、少々感慨を抱いたものだ。
この街は、荒野にいた頃よく訪れていた街に、似ていたからだ。最も天候は違うので、雰囲気だけだが。この閑散とした雰囲気…本来ならば肌に馴染むはずの乾いた空気。
そんな街の中にある、街に一軒しかないヘアサロン(ということに看板はなっているが、もちろんかつて俺が連れて行かれた西の都のヘアサロンとは似ても似つかない雑多な雰囲気だ)を、俺は初めて訪れた。ブルマとプーアルも一緒だ。
「こういうところに来るの、ひさしぶりですね」
「ひさしぶりもひさしぶり、三年ぶりよ」
三年か…
横町へと消えていく他の面々を遠目に見ながら、俺はなんとなくしみじみとした気分になった。
なんだか、ついこの前のことのように思えるな。髪を切ったのも、武天老師様に弟子入りしたのも。
「いらっしゃいませ。カットですか、パーマですか」
「あ、あたしじゃなくて、こっち。この鬱陶しくってダッサイ長髪をバッサリ切ってやってほしいの。髪型はこれね」
でも、そうじゃない。その証拠に、短かったはずの俺の髪は、再び『ダサイ』と言われるほどに長くなっている。そして相変わらずブルマは独断専行…
「かしこまりました。では、左手前のお席へどうぞ」
「行ってらっしゃい、ヤムチャ様」
「途中で文句言っちゃダメよ〜。大丈夫。絶対、後悔させないから」
フォローのつもりだろうか、なぜか声援を受けながら、俺はまな板の上の鯉になった。


「う〜む…」
しばらくの間、俺は鏡に映る新しい自分の髪型を眺めていた。
涼しい。…ひさしぶりに。
途中から後ろにやってきていたプーアルに、鏡越しに訊いてみた。
「これでいいと思うか、プーアル?」
「はい、とってもお似合いですよ、ヤムチャ様!」
…本当に?
いや、確かに似合ってないわけではないんだが……でも少し纏まり過ぎというか……今ひとつ迫力に欠けるよな。そりゃ俺は甘いマスクではあるんだが、これから武道会に出るんだからさ。
ほとんど切られていない前髪を、指で軽く引っ張ってみる。『鬱陶しい』なんて言ってたわりに、ここんとこは長いままなんだよな。…やっぱり、自分好みにしたかっただけじゃないか。まったく、人をおもちゃ扱いしやがって…
店内には他に客はなくのんびりとした雰囲気だったので、俺は散々鏡の中の自分の姿をためつすがめつしてから、カッティングルームを出た。髪を切った後特有の照れくさいような気持ちを押し隠してロビーへ行くと、そこにブルマはいなかった。
「プーアル、ブルマはどうした?」
「ブルマさんならレディスルームで髪を切ってますよ」
え?
俺は一瞬呆けた。『ヘアサロンで髪を切る』という当たり前のそのことが、ひどく意外に思えた。だって、そんなこと何も言ってなかったのに。また思い立ったのだろうか。あれだな、女心となんとやら――しかし、ブルマの女心は本当に動きが早い。
「はい、お疲れ様です」
「わー、頭が軽ーい!」
「さっぱりしたでしょう。とてもよくお似合いですよ」
やがてご機嫌な声が聞こえてきて、その声の主が現れた。俺はその時、出会い頭に敵(なんのかは知らん)と遭遇した程度にはびっくりした。
「ブルマ、その髪…」
「切っちゃった」
…かわいい。
その時はそう思った。見慣れた長い髪はばっさりと切られていて、すっかり襟足が覗いていた。上の髪は少し長めで、前髪はそのまま。
なるほどそうか。これが今の流行りか…
「ありがとうございました。またのご来店お待ちしてます」
さっき鏡の中で見た髪型を今は目の前に見ながら、ヘアサロンを後にした。…男と女で、結構イメージ違うな。それとも髪質のせいかな。俺とは違ってサラサラストレートのせいか、ずいぶんと軽やかに見える。菫色の髪から覗く瞳の色もきれいに映える。
「何いつまでも見とれてんのよ。それとも変?」
そのうちいくらも経たないうちに、ブルマがそんなことを言ってきた。そう、『言って』。それが質問ではないということは明らかだった。
「いや…なかなか似合ってる。かわいいよ」
「サンキュー」
少し照れを感じつつも言ってやった俺の言葉に、ブルマは当然のようにそう答えた。自信家だなぁ。俺はそう思ったが、嫌な感じはしなかった。
だって、ブルマは本当にかわいいから。今みたいに機嫌のいい時は文句なく。ブルマが自信を持っていることというのは、確かに事実に裏打ちされている事柄なんだ。
「あんたも似合ってるわ。すごく格好よく見えるわよ」
「見えるんじゃなくて格好いいんだ」
だから、次にブルマが口にした褒め言葉に、俺もそう答えておいた。まったく、こいつはこと他人に関しては厳しいんだから。もう少し素直に褒めてくれないものかな。まあ、言いたいことはわかったけど。それに、確かに格好よさというものは見た目だけで成り立つものではないからな。でも、だからこそ心身共にそうなってやろうじゃないか。見た目じゃなく、内から出てくる迫力というものを、感じさせてやろうじゃないか。
少し長い前髪の隙間から見える青空。その向こうへ、俺の心はまた飛んだ。不思議なことに、この武道とはまったく関係のない無駄な時間が、俺にそのことを考えさせた。すると、ブルマがそれを見透かしたように言った。
「武道会、がんばってね」
そして、傍らに浮かんでいたプーアルを引っ掴んで、自分の腹に押し当てた。軽く首を捻った俺の視界を、青い瞳が遮った。
…………かわいいことするなあ…
啄むようにされたブルマからのキスは、俺の心を今あるところへと戻した。風に遊ぶ切りたての髪のわずかに触れる距離にいる女の子の目の前、武道会場から遠く離れた片田舎の地面の上に。その瞬間、俺はまったく何も考えずに、ブルマにキスを返したくなった。そうしなかったのは、すぐに視線の端から苦しそうなプーアルの声が聞こえたからだ。
「…あの、ちょっと、ブルマさん…」
俺とは違う方法で視界を遮られていたプーアルは、ブルマが手を離すと、目を瞬いて呟いた。
「一体どうしたんですか、いきなり…」
「ごめんごめん、なんでもないのよ。ね、ヤムチャ」
俺はかなりくすぐったい気持ちで、しれっと惚けるブルマの声を聞いた。武道会が終わったら、今のキスを返してやろう。そう思いながら。


横町を抜けると、グローサリーストアの前のベンチに屯している一同の姿が目に入った。俺は少しどきりとしたが、ウーロンがこう言ったので安堵した。
「おっせーぞ、おまえら。たかが髪切るのにどれだけかかってるんだ」
別にキスしてたから遅くなったというわけではない。むしろ、まったく時間の取らない道端でのキスだったわけで…………ううん、ブルマもよくやるなあ。
「あたしに言わないでよ。田舎の美容師なんだから、しょうがないでしょ。だいたい、あんたはついて来なくていいって言ったのに」
「あれ、ブルマさんも髪切ったんすか」
「まあね」
「よくお似合いですわ」
聞いたところなんてことのないその会話を、俺は少し遠い目をして聞いていた。今そこで何をしていたかということの他にもう一つ、俺が惚けたかったそのことを口にしたのはウーロンだった。
「何だ何だおまえら、同じ髪型しやがってよ〜」
あからさまにからかうようなその口調に、俺はさらに視線を遠くへ飛ばしたが、心の中では同意していた。
…だよな。
俺もそう思ったよ。少し経ってから。
だが同時に思ったことにやはりブルマは心外だったらしく、照れもせずに怒り始めた。
「どこが同じなのよ。ヤムチャはショートボブ、あたしはショートでしょ」
「何が違うんだよ」
「全然違うわよ」
あんまり違わないよなぁ…
仮に違うのだとしても、見た感じはほとんど同じだ。考えてみれば、同じヘアサロンで、同じ人間の選んだ髪型にしたわけなんだから、似て当然なんだよ。
「何も違わないだろ。いやらしいな〜おい」
「何でそうなるのよ!?」
「回りくどい言い分使うからだよ。素直に揃いの髪型にしたいって言えばいいのによ」
「あんたアホ!?」
「おまえ、図星さされたからって、ムキになるなよ」
はっきり言って恥ずかしいことこの上ない二人の会話を、俺はひたすら無言で聞いていた。俺は、ブルマがわざと同じような髪型にしたとは思っていない。そういう『恋は盲目』的なことはブルマはしないと思う。だいたい揃いにしたいなら、俺の髪を切る必要ないだろ。
だから、これは完全にブルマの『うっかり』なのだ。そういう浅はかなところが、ブルマには結構あるのだ。
でも、今はそれは言うまい。あんまりフォローになってる気しないし。ウーロンはともかく、俺までもが逆撫ですることもあるまい。
「全然図星じゃないってば…」
やがて、根負けしたようにブルマがそう呟いた。珍しいことだ。俺はちょっと慰めてやりたいような気持ちになったが、その思いは武天老師様の声に流された。
「さて、では、そろそろ一張羅を作りに行こうかの」
「一張羅?」
「武道会に行く用意じゃよ。二人揃いのスーツをあつらえてやるぞい」
俺の心は再び大地を離れた。落ち着きがないと思うだろうか。でも、そういう気持ちなんだ。腕が、心が、疼いてしかたがない。たぎる思いを止められないんだ。
だが、もちろん俺は、それだけの男じゃない。
武道会が終わったら。ブルマの髪を撫でてやるさ。
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