寸歩の女
園児たちのはしゃぎ声、引率の先生らしき人の大声、親の叱る声とその子どもの泣き声。
ごった返す人混みの中、俺はそれらを聞きながら、今朝ハイスクールに来る前のC.Cでの光景を思い返していた。
「ブルマちゃん、ヤムチャちゃん、お弁当できたわよ〜ん」
にこにこと笑いながら、弁当の入ったミニバスケットを差し出すママさん。
「いいお天気でよかったですね、ヤムチャ様」
前日までの曇り空を憂えていたらしいプーアル。
「野外授業だからってサボんなよ」
最後に白けた目つきでウーロンが呟くと、ブルマは言った。
「そんなセコいことしないわよ」
――確かにそう言っていたはずなのに…


「わー、見てあれ、一匹こっちに来るわ。あっ、欠伸した。すっごい牙!あんなので噛まれたらイチコロね〜」
嘘つきだなあ、もう…
写生大会のためやってきた動物園のアムールトラの檻にへばりつくブルマの姿に、俺は呆れを禁じえなかった。
珍しく真面目に課外活動に参加したと思ったらこれだ。これじゃ、そこらの子どもと変わらんぞ。
「あのさ…」
「んー?」
できるだけ気分を害さないよう、言葉を控えめに、俺はブルマに切り出した。
「そろそろ場所決めないと…何もしてないまま、昼になっちまうぞ」
「何もしてないってことはないでしょ。こうやって場所を吟味してるじゃないの」
ブルマは、良くも悪くもその場を投げ出すことはしなかった。誰が聞いても絶対に苦しい言い訳としか思えないだろうことをそれは堂々と口にして、その場に居座り続けた。それでも少しは無茶を言っている自覚があったのか、やがて語気を緩めて付け足した。
「それに、お昼食べてからでも十分間に合うわよ。絵なんか、ちょちょっと描いとけばいいのよ」
それだってちゃちゃっと課題を片付けてしまえるやつの言うことだよな。俺はそう思ったので、頭を掻き掻き、お伺いを立てた。
「じゃあ俺、あっちの方で描き始めてていいかな。こういうのあんまり得意じゃないんで…」
「待ってよ、あたしも行く」
そしてトラの檻の傍から離れかけると、途端にそう声が飛んできて、襟首を掴まれた。一瞬苦しくなった息を整えながら、俺は今度は断りを入れた。
「ブルマが俺のペースに合わせることはないよ。俺はこういうの初めてだし、もともと絵って苦手だから…」
「何よ、あたしが一緒じゃ嫌だって言うの?」
「いやいや、まさかそんな。滅相もありません」
「じゃ、いいでしょ。そろそろお昼だし、一緒にお弁当食べましょ」
…早くも話が捻じ曲げられている。
当然俺はそのことに気づいたが、当面はそれでもよしとすることにした。先にメシ食っちまって、そのぶん早めに描き始めればいいだけだ。園内では自由行動となってるんだから、文句を言われることもあるまい。クラスの違う男女が一緒に行動してても何も言われないくらいなんだからな。
「あー、いい天気!絶好の行楽日和ね〜」
やがて腰を下ろしたわりあい静かな芝生の片隅で、空を仰ぎ見てブルマは言った。
「一応、授業中だけどな」
「硬いことは言いっこなしよ。さ、お弁当食べましょ。よし、今日は苦手な物は入ってないわね。絶対偶然だろうけど、母さん偉い!」
やれやれ。
すっかり行楽気分であるらしいブルマの様子に俺はまたもや呆れの息を吐いたが、やがては自分もその雰囲気に呑み込まれた。赤いギンガムチェックのレジャーシートに籐のピクニックバスケット。そこから出てくる数種のサンドイッチにお茶。これでピクニック気分にならない方がおかしい。さすがママさん、といったところか。他にもカップルで動いているやつが何人かいたようだが、ここまで浮かれた装備をしているのは、俺たちくらいのものじゃないだろうか。
「いっただっきま〜す」
「いただきます」
さわさわと揺れる木立。その中でさえずっている鳥の声。遠くに動物たちの喧騒。何とも和やかな空気の中、ちょっと早めの昼食を俺たちはとった。それはいつものハイスクールでの昼食と違うようで、どこか似ていた。いつもと違うことといえば、ブルマが俺に食べたくない物を押しつけないことと、今は二人とも同じ課題を抱えているということくらいだ。考えてみれば、例えこんな形でも一緒に授業受けるのって初めてだなあ…
「珍しいよな、ブルマがこういう行事に初めっからきっちり参加するなんてさ」
少し気が緩み過ぎたのかもしれない。気づけば俺はそんなことを言っていた。ブルマは二切れ目のサンドイッチをパクつくのをやめて、片眉を上げつつ言った。
「ケンカ売ってんの、あんた?」
「え?いやいや、まさか。えーと、ただ…ブルマって行事とか面倒くさがってるように見えたから――」
「場所が動物園だから来たのよ。それだけよ」
「ふーん。でも、ここに来たのって初めてだよな。来たかったんなら、休みの日にでも言ってくれれば――」
「うるさいわよ、あんた」
はいはい、そうですか。
妙につんけんした態度に迎撃されて、俺はあえなく口を閉じた。まあ、食事の邪魔すんなってとこだな。別に構わん。文句つけてるわけじゃないんだ、単なる茶飲み話だ。必要ないと言うならそれまでだ。
「あ〜、なんだか眠くなってきたわ。昼寝しちゃおうかしら」
口調とは反対にのんびりとサンドイッチを齧っていたブルマは、俺より一足も二足も遅くに昼食を終えた挙句にそう言って、そのままシートの上に寝転がった。行儀悪いなあ。などと今さら言う気は俺には全然なかったが、それ以外の注意はしておいた。
「それはいいけど、いいのか絵描かなくて。景色なんだから少しはここで手を着けておいた方がいいと思うぞ」
するとブルマは面倒くさそうに両手で顔を覆いながら、呟いた。
「うーん、苦手なのよね、絵って」
言うことが変わってきてるな…
さっきは、『そんなの適当にすぐ終わる』みたいなこと言ってたのに。…まあ、適当に終わらせるつもりであるのは間違いないようだが。俺は呆れを呑み込みながら、画板を取り出した。俺もまた適当に終わらせるつもりだったからだ。時間内に。きっちりと。
だって、うちに帰ってまでこんなもの描きたくないし、かといって放課後残されたりするのも御免こうむりたい。そんなことでトレーニング時間を潰されるなんて、まっぴら御免だ。ある意味では俺もブルマと同じ、こんなちんたらした行事に重きを置いているわけではまったくないのだ。
「あっ、こら、寝るな」
とはいえ、似ているはずの俺たちの行動は完全に真逆で、渋々ながら鉛筆を取った俺に対し、ブルマは本当に昼寝を始めた。俺がそう声を荒げても、体を起さなかった。
「だって、眠い〜。眠いし、だるい〜」
「そんなの俺だってだるいぞ。だけどなあ、そこを学校と教師に対する付き合いでこうしてやってるわけだ」
「それ全然自慢になんない〜」
うるさい。
ちょっと冗談めかしてでもそう言ってやろうか俺が迷っていると、ブルマは器用に転がりながら頭をこちらへ寄せてきて、淡々と言い捨てた。
「あんたついでに描いといてよ。違うクラスなんだから同じだってバレやしないでしょ」
「…まあ、いいけど」
それには俺はさして迷わずにそう答えた。ここまでの態度と矛盾している?でもブルマは、いつも俺の課題をやってくれるし、当てられたところは教えてくれるし、何だかんだ言って世話を焼いてくれてるんだから…。体力を分け与えることはできないんだから、手間くらい肩代わりしてやってもいいだろう。
そう、手間だけ。残念ながらそれ以上のものは俺にはない。そしてその事実はすぐにブルマも知るところとなり、そしてブルマは実に遠慮容赦のないやつなので、いつしか体を起こし俺の背中越しに手元を覗き込みながら、無造作に言い放った。
「へったくそねー、あんた」
「こういうの苦手だって言ったろ。絵ってあんまり描いたことないんだよ」
「それにしたって、それじゃパースも何もあったもんじゃないじゃない。遠くの木はこう、近くの木はこうでしょ」
案ずるより生むが易し、みたいなものだろうか。結果的にブルマは自主的に筆を取ることとなった。その手からきびきびと引かれた線は、確かに物の大きさ・位置を正確に捉えてはいた。
「何か景色っていうより設計図みたいだな」
「放っといて」
こうして俺は、ブルマがこの課題を億劫がっているらしい理由を知った。下手ってわけじゃないけど、絵心はないな。まあ、もともとありそうな感じには見えなかったが。部屋に飾ってある絵やポスターよりもいじり途中のメカの方が多いようなやつだもんな、ブルマは。
俺はすっかり納得した。ブルマは怒りながらもささっと構図を取り直して、指で木の高さを測ったりしながら、こう言った。
「そうね、じゃああたしがパースを取るから、あんたがそれに肉付けしてよ。葉っぱとか雲とかいろいろ描き込むの。色は自分でつけるから」
…いきなり本格的になりやがった。
しかも、分業分担だ。やっぱりこいつ絵心ないな。だって、絵ってそういうもんじゃないだろ。どういうものかと説明できるほど、俺にだってあるわけじゃないが。
だから俺は何も言わず、ブルマの案に従った。ま、合理的でいいんじゃないかな。ただの野外授業だし、もしバレたとしても二人とも同罪だ。たまには片棒を担いでやるさ。
「ねえ、このへんにリスとか描いたらどうかしら」
「どこにもいないぞ、そんなもん」
「でも、きっとかわいいわよ」
「動物園でリスがうろついてたら、逃げたと思われるんじゃないか?」
「それもそうね」
それは、なかなか平和な光景だった。自分の目にも、傍目にも。どこからどう見ても、絵を描いている男女の生徒だ。俺はおそらくかつてないほど、このハイスクールでの一時間に馴染んでいた。クラスでぼんやりと授業を受けている時よりも、グラウンドで健全過ぎるほど健全に体を動かしている時よりも、自然な気がした。それで俺はひさしぶりに痛感した。やはり俺にとってハイスクールというものは、ブルマに付随してくる付属品だ。それ自体にはなんら価値のないものなのだ。
つまるところ、ブルマの顔を立てて通っているわけだ。そのわりにブルマは時々俺を無視して帰っちまったりするけど。授業がつまんないっていうのは、よくわかる話なんだけどな。問題は、何も言わずに一人で帰っちまうってことと、どこに行ってるのかわからないことだ。C.Cに戻ってメカを弄ってたりすることもあるけど、夕食時まで帰ってこないこともザラだからな。特に、ケンカした時とか。まあ、それは俺も悪いわけだが…
途中で鉛筆から絵筆に持ち替えて、俺は時々陥る思考を展開し続けた。いつもならそこで終わる思考が途絶えなかったのは、単純作業ゆえの退屈さと、今自分の置かれている場所の空気によるものだった。木立の向こうに感じられる人の気配も疎らな、いつまで経っても誰も来ない、俺たちしかいないこの場所に吹く風の匂いが、俺の心を刺激したのだ。
俺もたまにはサボろうかな。それでこういう、人目につかないところでトレーニングするのだ。だって一人でC.Cに帰ってたりしたら、ブルマに怒られるだろうからな。だから、ブルマも誰もいないところで、一人だけでトレーニングに集中する…………ダメか。それでは怖くてその後C.Cに帰れない。帰るなり、『どこに行ってたのよ!?』とかって食ってかかられるに決まってる。
なんか理不尽だな。大いに理不尽だ。といって、俺が同じように食ってかかってみても、怒られるに決まってるし。だいたいそういう時は、ブルマはすでに怒ってるんだった。
…なんか、本当に理不尽だな。
さしたる感慨もなく、思考はそこに定着した。怒りはもちろん、呆れすらなかった。俺にはすでにわかってきていた。女の子は理不尽であると。その中でブルマはわりと考えがしっかりしている方だ。時々すごく理不尽だけど。でもそれは、所謂女心となんとやらっていうやつで、女の子と付き合ってるんだから仕方ないというか、それこそが付き合ってるという証であるというか、まあとにかくそんなところ……
「あんた、どこのおっさんよ!」
「…な、何だ?」
ふと思考と手元の両方をとめて、俺は声のする方を見た。俺の真横で、非常に理不尽なことが起こっていた。
「あんた、すっごぉーく失礼よ!」
ブルマが額がくっつかんばかりの至近距離にまで顔を近づけていて、唸るように叫んでいた。その表情も、まさに唸るようなものだった。
「信じらんない。デリカシー無さ過ぎ!!」
「え、何が?」
俺はすっかり虚を衝かれて、目を丸くした。目前に迫るブルマの顔は、怖いというより、わけがわからなかった。
「何がじゃないでしょ!さっきから何を言っても上の空で!女と二人でいるときにそれはないでしょ。『あなたにまったく興味ありません』って言ってるようなものじゃない!」
「あ…えーと…………ごめん。そんなつもりは…」
俺、上の空だったかな?っていうか、ブルマ何か言ってたか?その言葉が口から出る前に、俺は気づいた。そう思うことこそが『上の空』であったということなのだと。ついでに、言い訳するのもやめた。興味がないどころか、むしろブルマについて考えていたわけではあるが、その中身はと言えば、あまり本人には知られたくないことであったからだ。
「じゃあ、どういうつもりだったのよ!?」
「あー…いや、それは……」
「ほーら、答えられない!!」
まったくもって、ごもっとも…
俺は完全に言葉に詰まった。まあ、何だ。怒ってる理由がよくわからないのだから、お手上げだ。ちょっと話を聞いてなかったくらいで、ブルマがここまで怒ったことはない…はずだ。でも、そんなに特別なことを話していた記憶はない。上の空でも、それはわかる。だって、俺、女の子にそういうこと言われて流せるほど免疫ないからな。だから、正直何が何だかわからないというのが、本音なのだが。でも、それを言ったらもっと怒られるんだよなあ…
まあ、今は怒ってるっていうより、不貞腐れてるみたいだけど。
なぜそれがわかったのかというと、ブルマが隣に居続けたからだ。いつものようにさっさとどこか行ってしまうのではなく。これは所謂一つの俺のターン…なんとかしろってことなんだ。誰がそう言ってるのかって?うーん…神様?
「えーと、その…後で何か奢るから、機嫌直してくれないかな…」
ちょっと卑怯な戦法だろうか。でも、俺が真っ先に思いついたのがこれだった。何しろブルマは隣にいることはいるが、完全に明後日の方向を向いているので、とりあえずこっちを向かせる必要があったのだ。怒ってはいるけど口を利いてはくれる時なんかに一番有効なのが、この手なのだ。
「物で釣って機嫌取る気なの!?」
でもこの時は、半分しか利かなかった。ブルマはこっちを向いてくれたけど、今度はそのことについて怒り出した。俺は慌てて前言を撤回した。
「ご、ごめん。そんなつもりは」
…あったけど。だって、ブルマ時々イチゴで釣られてくれるから…
目の前にないとダメなのかも。思ったより甘くないな。こういう時ってどうすればいいんだろう…
みんなはどうしているんだろう。俺はこの時、いつもとは少し違う心境に達した。ブルマのことでも自分のことでもなく、至極一般的なことを考えた。遠くに聞こえる人のざわめきがそうさせたのかもしれない。一体、この動物園内に今何組のカップルがいることだろう。まったくケンカしないやつなんていないよな。…いないと思いたい。他人同士が付き合っている以上、確執は生まれるはず…いや待て、そんなに大層なことなのか?俺は単に何かのせいにしたいだけじゃないのか…
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
俺は素直にお手上げすることにした。ここはシンプルに考えるべきだ。ブルマは怒ってる。俺には理由もわからない。だったらこの際、すべてを譲ってしまうべきだ。
ブルマの眼光が強くなった。一拍置いて、押し殺したような声がその口から呟き漏れた。
「…後でじゃなくて、今度でしょ」
「今度?」
一体何が。そう訊くより早くブルマは続けた。
「そうよ。はい、復唱して!」
「今度…………奢るから?」
奇跡的に、俺は言葉を拾った。他に思い当るところがなかった。
「なんで疑問形なの?」
「あ、今度奢りますから…」
「今度っていつ?」
「えーと…………今週末?」
「じゃあ、どこ行くか決めたら教えてね」
「…………」
そうしたら、なぜかどこか行くことになった。
「返事は!?」
「…ああ、うん」
本当に、どうしてそうなるのか、さっぱりわからない。いや、週末っていうのは、さっき話したような気がする。それで思わず口から出たのだと思うのだが、なんともはや…
「じゃ、そろそろ片付けましょ。水捨ててきてあげる」
「…ああ…」
満面の、とまではいかないまでもブルマは笑顔になって、すっくと立ち上がった。そして二つの水入れを持って、足取りも軽やかに広場へと消えていった。俺は半ば放心しながら、その後ろ姿を見送った。
なんでこれで収まるんだ。これって、単なる遊びの約束だよな。しかも週末どこかへ行くことなんて珍しくもないことなのに。それにしても、俺、都のことなんかさっぱりわからないんだけど。そういう罰ゲームなのか?
腑に落ちない気持ちと体を、芝生の上に横たえた。青く広い空を見ながら、俺は非常に小さなことを考え始めた。
ウーロンに訊くのはありかな。…微妙だな。ウーロンに話を通すとブルマが怒るからなあ。通さなくても知られただけで怒るし。でも、いつもいつの間にか知られてるんだよなぁ。
…やっぱり本人に訊くべきか。
極当たり前の結論に達したところで、ブルマが戻ってきた。踏みしめられる草の音を聞いて俺は体を起こし、忘れないうちにと切り出した。
「あのさ…」
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