導く女
「危なげな手つきだなあ…」
思わず呟いてしまった俺を、ブルマは横目で睨みつけた。
「この前食った飯、本当におまえが作ったんだろうな?」
実は詐称していたんじゃないのか?おまえならやりそうなことだ。
「失礼ね。包丁が苦手なだけよ」
そう言うとブルマは包丁を弄るのをやめ、ピーラーを取り出した。始めからそうしときゃいいのにな。見得張りやがって。
ブルマはくぐもった声音で呟いた。
「あんまりやったことがないのよ」
「それであそこまで作れるものなのか?」
妙な表現だと思うだろうが、この前俺が食った飯は、ここまで妖しげな手つきの人間が作ったとは思えないくらいには、うまかったのだ。
「言ったでしょ、レシピと手順だって。科学実験みたいなものよ」
微妙に怖い比喩を、ブルマは使った。

現在、カメハウスの住人は6人に増えていた。武天老師様、クリリン、ランチさん、ウミガメ、俺、そしてブルマ。
ブルマが武天老師様に弟子入りしたわけでは、無論ない。今季猛威を振るっているバカはひかない夏風邪に、ランチさんがやられてしまったのだ。
女手が必要ならばとブルマが協力を買って出たわけでも、実はない。こいつはそんな殊勝なやつじゃない。ただヒマだから来ているだけだ。事実いるのは今夜だけで、明日にはどこぞのシンポジウムに行くという。世の中、それほど甘くはないのだ。
「後で簡易糧食送ってあげるわ。それと掃除ロボットも」
「それは助かる」
ひょっとすると、おまえよりもな。
こんな台詞を思いつく程度には、俺はブルマに慣らされていた。

修行は8割方に減少していた。寝込んでいるランチさんと家事に慣れないブルマを慮ってのことだ。武天老師様も融通がきくよなあ。
と、素直に感心していた俺の耳に、クリリンが囁いた。
「ただブルマさんにちょっかいを出したいだけですよ」
…なるほど。さすが兄弟子。わかっているな。
俺は経験の差を感じた。
「だからヤムチャさん、できるだけブルマさんについていたほうがいいですよ。ランチさんの世話は、オレがしますから」
こいつは本当に武天老師様を尊敬しているのだろうか。俺はそう思いながらも、忠告には従わせてもらうことにしたのだった。

夜の修行を終え一風呂浴びようとしていたところを、ブルマに呼び止められた。
「ヤムチャ、お風呂に入る前にECGとらせて」
「ECG?」
「心電図。『気』の研究よ」
ああ、あれか。
「心電図なんかで何かわかるのか?」
「さあ、わからないけど。とりあえずその辺から詰めていかなくっちゃね」
言いながら手際よく仕事にかかる。俺は思わず微笑を漏らした。
「何よ」
怪訝そうに口元を尖らせるブルマに、俺はさらに笑ってみせた。
「一端の科学者らしくなってきたなあと思って」
俺の言葉にブルマは、ほとんどふんぞり返って答えた。
「あたしは元から天才よ」
「そうじゃなくって…」
前は片手間にやっている感じだったが、今はすっかり身を入れている。そう俺が言うとブルマは笑って答えた。
「雑念がないから集中できるのよ」
「雑念?」
今度は俺が怪訝に思う番だった。ブルマは俺の鼻に指を当て、語気を強めて言った。
「あんたよ。あ・ん・た」
「俺が雑念なのか?」
「それ以外の何だっていうのよ」
ブルマは言い放ち、無言で作業を続けた。俺は自分の疑念を口にした。
「だったら何でここに来るんだ?雑念はないほうがいいんだろ?」
その瞬間、俺の頬に痛みが走った。俺は一瞬息を止め、我に返って叫んだ。
「いきなり何するんだよ!」
俺はひりつく頬に手を当てながら、加害者を見返した。ブルマは掬うように俺を睨みつけていた。瞳が青く燃えていた。
「あんたは…」
それは絞り出すような声だった。俺は一時自分の怒りも忘れて、ブルマの顔を凝視した。
「あんたは!いつまで!そうやって!生きていくつもりなのよ!!」
瞬時に立ち上がりドアを開けると、荒々しい足取りで部屋を出て行った。
「…一体何なんだよ」
俺は呆然としてそれを見送った。


翌日。
ブルマはにこやかだった。…俺以外の者に対しては。
あくまで俺を除外して、かいがいしく家事をこなすその姿に、カメハウスは一種異様な緊張感に包まれた。
「ヤムチャさん、頼みますよ…」
口に手を当て、クリリンがおずおずと言った。
頼まれたって困るよなあ。俺にも、わけがわからないんだから。
何なんだろうな、あいつは。いつもだ。いつもわけのわからないことで怒るんだ。
それとも俺が気づかないだけで、何かしているんだろうか。でも気づかないんだから、しょうがないじゃないか。
一体どうしろっていうんだよ。

俺はずっとそんなことを考えていた。ずっとだ。
考えてもしょうがないのにな。わからないものはわからないんだ。なのになんで考えてしまうんだろう。

そんな俺を、武天老師様が呼び止めた。老師様はいつもののんびりとした口調で、だが厳しく俺を戒めた。
「ヤムチャよ。おぬし、修行に身が入っておらんようじゃのう」
ぎくり。
俺は心の中で首を竦めた。そして思った。
…あいつのせいだ。
武天老師様は俺の言葉も待たず、先を続けた。
「すべてを捨てろとは言わん。修行は、武道は、己のためにやるものじゃ。己を磨き、それによって人生を充実させようというのが、わしの流儀じゃ。だが、雑念にも程がある」
俺は目を瞠った。
…雑念。
これが雑念なのか。
これがあいつの言っていた『雑念』なのか。
俺はやっとの思いで声を出した。
「老師様は俺に雑念を捨てろと…」
だが武天老師様は頭を振った。
「違うな、ヤムチャ。そうではない。雑念を完全に捨ててしまっては、人間ではなくなる。そういうものじゃ。雑念というものは、いわば人間の欲求の1つじゃ。それとどう付き合っていくかが、人生なのじゃ」
付き合う?雑念と?
俺にはわけがわからなかった。

武天老師様に諭されて、俺はカメハウスへと戻った。今日はもう修行はしなくていい、そういうことだった。
俺がリビングへ足を踏み入れた時、そこには誰もいなかった。
「ブルマ?」
呼びかけて、ふと気づいた。今日はシンポジウムの日だ。俺たちが修行している間に出かけたに違いない。
俺は溜息をついた。

ランチさんの様子を確認して、俺は街へ買出しに出かけた。気分転換のつもりもあったし、いずれ誰かがしなくてはいけないことだ。ならば、今は使いものにならない俺がするべきだ。そう思って。
一通りの注文を終えて帰路に着こうとした俺の目に、交差点の向こう側に佇むあいつの姿が入った。
あいつ――そう、ブルマだ。
どうしてこんなところにいるのだろう、とは思わなかった。おそらくシンポジウムの帰りに違いない。そういう時間だ。
俺が訝ったのは、どうしてすぐに気がついたのかということだ。
ここにはこんなに人が大勢いるのに。あいつは取り立てて目立つ人間というわけでもないのに。
…雑念、だからか?
雑念だから、俺を掻き乱すのだろうか。
俺はブルマの姿を遠目に、しかしまじまじと見た。そして思わず呟いた。
「派手な服着てるなあ…」
間抜けだと自分でも思う。だけど事実なのだから、しかたがない。
学者ってあんなに派手だっただろうか。しかも、とてもハイスクールに通っているようにも見えない。
そう考える俺の視界の片隅で、ブルマが男達に絡まれているのが見えた。
ほら見ろ。いわんこっちゃない。
俺は駆け出した。

俺がそこに現れた時、ブルマはひどく微妙な顔をした。何というかな、たまんないなあ、といった感じだ。何なんだよ、それは。しかも助けてやったにも関わらず、礼も言わない。
まったく、何なんだ。でも俺は離れようとは思わなかった。どうしてだろうな。
俺たちは歩き続けた。ひたすら無言のままに。
ブルマは何も言わなかった。俺も何も言えなかった。

『雑念』。
俺にはわからなかった。でも、何か言わなければいけないということだけはわかっていた。
俺は自分の感じるままに言葉を紡いだ。
「…おまえも俺にとって雑念だったよ」
そうだ、ここまではいい。ここまではわかるんだ。
「だから、掻き乱さないでほしいんだ」
これも、わかる。でも…
ここから先がわからない。
俺は言葉に詰まった。
神妙な顔つきでブルマが俺を見ている。ふとある1つの事実に気がついて、俺は言った。
「あ、いや、いなくなってほしいとかじゃなくって、その…」

再び黙る俺の手を、ブルマが掴んだ。
俺はブルマの顔を覗き込んだ。
あいつは笑っていた。

「行きましょ」

俺たちは手を繋いで歩き出した。
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