読む女
俺たちは唇を合わせた。
カメハウスから半km離れた、あの樫の木の下で。
ここはもはや俺たちにとって定位置となりつつあった。

武天老師様の元での修行も1年を過ぎた頃、俺の生活に変化が訪れた。修行の内容が変わったのだ。
これまでの様々な肉体労働による過密スケジュールは終了し、俺は今やよりそれらしい鍛錬へと進んでいた。組み手。メディテーション。自主トレーニングなどがそれである。
考えてみれば悟空やクリリンは、あの肉体労働を8ヶ月で終えたのだから、俺はそれより劣っているとも言える。
だが、しかたがない。やはりこういうことは、より若い方が吸収が早いのだからな。
俺はまだ17歳だというのに、何だかひどく自分が年を取っているような気持ちになった。


ブルマがカメハウスに来ている。窓の外は酷い嵐だ。
「やっぱり無理だって」
受話器を置きながら、ブルマが言った。
「カプセルも何も持っていかなかったから、適当に宿を取るって」
クリリンとランチさんのことだ。2人は夕刻買い物に出かけ、そしてこの嵐に遭った。宿か、そうだろうな。この天候では乗り物は無理だ。
俺の当番の時じゃなくてよかった…瞬時に俺はそう思った。ランチさんと2人宿を取るなどと言ったら、ブルマが何と思うかしれない。
「大丈夫かなあ」
宿を取ると簡単に言うが、人の考えなどみな同じだ。どこの宿も満室だろう。
まるで俺の考えを読んだように、ブルマは笑って言った。
「平気じゃない。どこも開いてなかったら、C.Cのホテルに行くよう言っといたわ。あたしの名前を出せばフリーパスだから」
まったくおまえは、こういう時には役に立つな。…いや、C.Cがか。
ブルマはわざとらしく窓の外を見た。
「本当に嫌になっちゃうわねえ。これじゃ、あたしも帰れないわ」
よく言うよ。どうせ泊まるつもりだったくせに。
俺はそれを口に出した。ブルマの返答は意外だった。
「失礼ね。違うわよ。明日は用事があるんだから。研究所の定例会。今夜、資料を纏めるつもりだったのに」
呆れた。おまえ、そんな素振り微塵も見せなかったじゃないか。
「昼間やっときゃよかったのに。こんなとこ来てないで」
普通、そう思うよな。だがブルマはあいつらしい返答で、俺の考えを瞬殺した。
「気が乗らなかったのよ」
無敵の言葉だな。

「うん、なかなか旨いじゃないか」
俺は手放しでそれを褒めた。そうだよこれでいいんだよ、こういうので。
ランチさんの穴埋めとしてブルマの作った飯は、こう言っちゃなんだが(初回を除けば)今までで一番おいしかった。
そうなんだよ。おまえは腕は悪くないんだから、普通にしてればいいんだよ。
そう思ってからなぜか俺は、この台詞の『腕』という部分を『顔』に置き換えても何ら問題はないことに気がついた。
俺はなんとはなしにブルマの顔を見やった。
その瞳に不機嫌が表れているのを見てとって、さらに箸を進めた。


「きゃああああああああー!!!!!」
ブルマの声が響き渡った時、俺はリビングで腹筋運動をやっていたところだった。
目を開けると、辺りは真っ暗だった。ほとんど瞑想状態でトレーニングをしていたので、いつのまにか照明が落ちていたことに、気がつかなかったのだ。
「ブルマ?」
闇に目を凝らしながら腰を上げた。耳に、ブルマの喚きたてる声が聞こえてきた。
「このエロじじい!!何てことすんのよ!!」
…エロじじい?
武天老師様か!!
即行で師の名前が浮かぶというのも情けない話だが、事実なのだからしかたがない。
俺は声のする方へ足を向けた。…バスルームだ。
「…まさか」
そのまさかだった。俺がバスルームへ足を踏み入れた時、ブルマはタオル1枚の姿で
「本気で殺すわよ!!」
武天老師様の首をほとんど締め上げているところだった。
俺は目を覆った。いろいろなものに。
ブルマのそのあられもない姿にも目を覆ったし、武天老師様の窮状にも目を覆った。そして、こういう事態が起こり得る可能性に気づかなかった自分自身にも目を覆った。
「武天老師様…」
俺はブルマを老師様から引き剥がしその身にローブを被せると、我ながら情けない声をそれでも何とか絞り出した。
「勘弁してくださいよ…」
この言葉に反応したのは老師様ではなく、ブルマだった。
「それはこっちの台詞よ!一体どうしてくれんのよ!!」
いつもの勢いに輪をかけて迫力のあるブルマに、俺はおずおずと尋ねた。
「一体何があったんだ?」
「な…何がって…」
ブルマはこういう時としては珍しく言い澱んだ。老師様が火に油を注いだ。
「いやー、ええもん見せてもらった」
「えぇーい、うるさい!!それ以上言ったら今度こそ殺すわよ!!」
これは本気で殺人事件が起こると踏んだ俺は、強引に老師様をリビングへと連行し(こういう時に老師様が本気を出さないことだけが、唯一の救いだ)、ブルマの様子を確認すると、自身バスルームを後にした。
…はずだったのだが、いつのまにかその裾をブルマに掴まれていた。
「トリートメント流したいから、バスルームの外で見張ってて」

まあ、要求する気持ちはよくわかる。…でも、何でそれが俺なんだ?
俺しかいないからだよな。それも実はわかっている。でもなあ…
「まったく嫌んなっちゃうわね!!」
シャワーと共にブルマが怒声を流しだす。
「あんたの師じゃなければ、とっくに抹殺してるところよ!!」
…話かけないでほしいよなあ。
そりゃ曇りガラスだから見えないんだけど、…あんまり存在をアピールしないでくれないかなあ。
何考えてるんだろうな、こいつは。そりゃ俺は武天老師様よりは安全だけど(老師様より危険だったら終わりだ)、普通、男をこういう状況におくか?
いや、危険だからだよな。それはわかっている。でもなあ…
シャワーの音が止んだ。ブルマの声が聞こえた。
「あがるから廊下で待ってて」
俺は溜息をついた。


ブルマが俺の部屋に布団を運び入れている。
「…本当にここで寝るのか?」
冗談…じゃないんだろうか。
ブルマはいともあっさり答えた。
「当たり前でしょ。今夜1人で寝ろっていうなら、今すぐここを出ていくわよ!」
…冗談じゃないのか、やっぱり。
俺はまた溜息をついた。
「まったくおまえは…」
俺のことを男と思っているのかいないのか。
何を考えてるんだか、さっぱりわからん。
男と思われてないわけはないと思うんだけど…だってそうじゃないと付き合わないし。
「何よ?」
口篭る俺を、ブルマは不思議そうに見上げた。
俺は頭を掻いた。

「まったくおまえは無茶苦茶だなあ」
たまらず俺は口に出した。
俺とブルマは、俺の部屋で並んで床に座っていた。ベッドを背にして。
「無茶苦茶なのはじいさんでしょ」
その話じゃねえよ…まあ否定はしないけど。
「あんた、本当にあのじいさんを師と仰いでるの?欺瞞じゃないの?」
ブルマの非難に、俺は苦笑しつつ答えた。
「武天老師様は含蓄のあるお方だよ」
それは確かだ。あの方は人間の心を見抜くお方だ。それを日常生活にも持ち込んでくれると、もう言うことないんだけどな。
「ま、いいけど。今夜はちゃんとあたしを守ってよね」
俺がおまえをか?…この状況でか?
おまえは一体俺のことを何だと思っているんだ。…まったくまいるよなあ。
そんなことを考えて、ふいに俺は気がついた。ブルマが俺を見つめている。
これは…
俺、何かしたほうがいいのだろうか。
でも、この状況で何かするということは…
その時、ブルマが笑った。
「悶々としてるわね」
「え?あ、いや、そんなことは…」
しまった。この返事は、肯定しているも同然だ。
ブルマはまた笑った。
「必要かどうかじゃないわ。あんたがどうしたいかなのよ」
瞳に俺の姿が映っていた。
「おやすみ」
そう言ってベッドに潜った。


…まったく、俺ってまだまだ青いよなあ。
女の子の方が先に大人になるって本当だな。
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