駆け行く女
ヤバい。忘れていた。


ブルマが部屋にやってきた時、俺は荷を解いているところだった。
「何これ、きったない部屋ね」
ブルマはわざとらしい抜き足で部屋へ入ると、ベッドの端に腰を下ろした。
「しょうがないだろ。戻ってきたばかりなんだから」
「たいして荷物ないくせに。ちゃっちゃと片付けちゃってよね」
彼女だったらこんな時、少しは手伝ったりするもんなんじゃないかと思うんだけど、ブルマはそんな素振りはまったく見せず、退屈そうに足をぶらつかせていた。
「ねえ、明日つきあってよ」
「おまえ、帰ってきた途端にそれかよ…」
さすがにげんなりした俺は、何とか穏便にお断りさせていただく決心をした。
「休ませろとは言わないけどさあ、もう少し待てないのかよ」
「いいじゃない、明日くらい」
何が「明日くらい」なんだ。さっぱりわからん。
「明日くらいって何だよ」
茶化すように俺が言うと、ブルマの顔色が変わった。
それに気づいた時にはすでに、俺はブルマの平手を食らっていた。
左頬骨にジャストミート。
「ってーーーーー!」
いきなり何だよ。
俺は血色のよくなりつつある左頬を擦りながら、横目でブルマを見返した。
「信じらんない!」
それはこっちの台詞だ。
「だから何だよ?」
こんなにされても怒らないなんて、俺って鍛えられてるよなあ。
「あんた、本当にわからないの?」
「何が?」
ブルマは一呼吸おいてから、さらに語気を荒くして叫んだ。
「誕生日でしょうが!!あたしの!!」
あ。
燃え立つ瞳で俺を睨みつけると、ブルマは乱暴に壁のコンソールを叩き、俺に弁解の隙も与えず足早に部屋を飛び出した。
「バカッ!!」
ドアの向こうで発せられた最後の台詞は、廊下中に響き渡っていた。


ヤバい。忘れていた。マジで忘れていた。


思えば3ヶ月前、修行に出る前にさんざん念を押されたんだった。1ヶ月前にあいつが俺のところに来た時も、言っていた気がする。
それなのに、すっかり忘れていた。今回の修行は長かったからなあ。…言い訳にしかならないな。最低だな、俺。
そして最悪だ。完全にブルマを怒らせた。あれは、プレゼント程度では許してもらえそうにもない。
「まいったなあ…」
その呟きに答える者はなく、俺はひたすら溜息をついた。

翌朝、ブルマは起きてこなかった。俺は勿怪の幸いとばかりに、善後策を講じようとしたが、何も思いつかなかった。
とにかく謝ろう。それしかない。
俺がブルマの部屋へと続く長い廊下(特に今みたいな時は長く感じる)を歩いていると、向こうからものすごい勢いでブルマが駆け出してきた。
「あ、ブル…」
「ごめん、後にして!!」
一言のもとに切り捨てると、あっという間に廊下の向こうへ消えていった。
何だ何だ何だ何だ。
昨日はあんなに食らいついてきたのに。一体どうしたんだ。
呆然と後姿を見送る俺の耳に、ブルマの叫びが聞こえてきた。
「あたしのクララちゃーん!!!!」
クララ?
誰だそれは。

「どうしたんだ、あいつ」
「さあ…」
「クララって何だ?」
ウーロンとプーアルもやってきて、3人雁首揃えて訝しんでいると、通りかかったブリーフ博士が教えてくれた。
「ブルマが今やっている研究だよ」
「研究?動物実験でもしてるんですか?」
博士は手を横に振り振り答えた。
「細菌の名前だよ」
「細…」
俺たちは揃って声を失った。
「クラミドフィラ。頭文字をとってクララだね」
「あいつそんなものに名前つけてるのか…」
もうすぐ20歳になる女のやることじゃないよなあ。
「ほとんど病気だな」
ウーロンも呆れている。
「でも、ブルマさんの専門は科学でしょう?どうして細菌なんか…」
プーアルが、俺の素朴な疑問を代わりに提出してくれた。
「ま、趣味の一環じゃな」
それが趣味なのか。
「あいつ細菌兵器でも作る気じゃないだろうな…」
洒落にならないことをウーロンが言った。

「ブルマさんてば遅いわねえ」
ママさんが溜息をついた(ちなみに、この人はそういう時でも目は笑っている。器用な人だ)。実際その通りで、ブルマは夜になっても帰ってこなかった。
パーティルームのテーブルには、あいつの好物がところ狭しと並べられて、今日の主役を待っている。ママさん主催の誕生日パーティだ。
このことは、当然ブルマも知っている。よく漫画なんかに「びっくりパーティ」とかあるけど、あれは現実的ではないと俺も思う。だってもし主役が捕まらなかったらどうしようもないじゃないか(人には都合ってもんがあるからな)。それにブルマは表立ってちやほやされたい性質だから、隠すよりも盛大にやるほうが喜ぶのだ。
なんだけど、事実としてブルマは帰ってこない。ブルマはあれで意外とお祭り好きな人間で、パーティなんかをすっぽかすようなやつではない。俺とケンカしているとは言え、それを理由に断ったりはしないはずだ。むしろ俺を除け者にして楽しむだろう。
「どうせ買い物にでも行ったんじゃねーの」
ウーロンが白けた顔で言う。
そうかなあ。
俺は納得しなかった。
あいつ白衣着てたんだよなあ。あんな格好で遊びに行くかなあ。
俺はリビングへ赴くと、コンソール脇の電話を手にとって、心当たりの番号をダイアルし始めた。

9時を回った。仕方がないので、パーティの料理はブルマを除く皆で片付けることになった。あいつの好きなイチゴのケーキだけは残して。
ウーロンとブリーフ博士だけが何の頓着もなく、料理にかぶりついた。
俺がうまくもないビールをちびちびと舐めていると、リビングで電話が鳴った。先に俺がかけた電話への返信だった。
「よう、ヤムチャ。さっき電話くれたか?出られなくて悪かったな」
「うん、ちょっとな。そっちにブルマが行ってないかと思ってさ」
相手はハイスクールの同級生で、今はブルマと同じ学院に行っているやつ。あの、俺に忠告してくれたやつだ。
「さあなあ。俺は学部が違うから…あ、ちょっと待って」
電話の向こうからはしっとりとしたBGM(どうやら邪魔したみたいだな、悪いことをした)と、やつが誰かと話している声が聞こえた。
「あのさ、彼女が知ってるって言うから、ちょっと代わるな」
俺はやつの彼女とは面識がないが、ブルマとはある。彼女は、ブルマと同学部の上に同室なのだ。
「ブルマなら昼間来てたわよ。クララを見に」
クララ?…ああ、あれか。
「っていうか、あたしが呼んだんだけど。結局死んじゃってて、えらく落胆してたわ。夕方あたしが帰る頃にはまだいたわよ」
「そうか、ありがとう。邪魔してごめんな」
「ツケはブルマに回しとくわ」
彼女は軽快にそう言うと(さすがブルマの友人だ。気風がいい)、ちょっとしたアドバイスをしてくれた。それで、俺は行ってみることにしたんだ。

俺は彼女が教えてくれた抜け道を通って、院内に入り込んだ。立派な建造物侵入罪だ。ブルマが訴えないことを願おう。
本舎からはだいぶん離れて敷地ギリギリに建っている研究室(マイナーな分野なのか?)を覗く。
やっぱりいた。わけのわからない器具がいっぱい並んだ長机に突っ伏して寝入っている。
俺はブルマの頭を突付いたり腕を揺すぶったりしてみたが、全然起きない。こりゃ本寝だな。
眠りながらもその腕で大事そうにかき抱いている、ペットボトルのような形の容器を、腕の隙間から引っ張り出す。中にはただの(そうとしか俺には見えない)黄色い液体。
これがそんなにいいかねえ。女ってわかんねえな。いや、こいつは女じゃないかもな。
気を長く持つことにして窓際の椅子に腰を下ろし、ぼんやりと外を眺めていると、しばらくしてブルマが目を開けた。
「んあ?」
寝惚けている。こいつはひどく寝起きが悪いんだ。
「あんた、いつからそこにいたの?」
怒っていない。というより、まだ寝ているなこいつは。
「10分前に来たばかりだよ。おまえ、全然起きなかったから」
前半は嘘だ。「男は待たされても待たされたとは言わないもの」だとこいつが言っていたからな。
ブルマはしばらく無言で俺の顔を見ていたが、やがて目も覚めたらしく、唐突に叫んだ。
「あ!パーティ」
「終わったよ。一応9時頃までは待ってたんだけどな」
俺の言葉に、チラリと腕時計に目を落とす。
ブルマは深い溜息をつくと、こともなげに言った。
「帰る」
俺はブルマを見た。その顔は少し青ざめて見えた。
「大丈夫か?」
「何が」
「疲れてるみたいだからさ」
ブルマは俺を睨みつけた。何だよ。俺、何か気に障るようなこと言ったか?
しかしブルマはそれ以上何も言わず、俺たちは学院を後にした。

学院に来た経緯をぽつりぽつりと話しながら、俺たちは歩き続けた。
「どっか行くか?」
俺はブルマに訊いてみた。
「え?」
「あまり時間もないけどさ。一応誕生日なんだし」
そう言って返り見ると、ブルマがいない。
あいつは何故か俺の数歩後ろで立ち止まり、妙に硬い声音で言った。
「あんたの部屋へ行きたい」
「え?いや、そりゃ帰るけど」
俺はブルマの言葉の意味を図りかね、そう答えた。
「…そういう意味じゃなくて」
ブルマはゆっくり息を吐いた。何かを堪えているような表情だった。
「あんたって本当に鈍いわねえ」
実に10もの時を数えて、俺はブルマの真意を理解した。


俺たちは一緒に眠った。
肌と肌を寄せ合って眠るって、なんて気持ちいいんだろう。
(ちなみに、することはした。そこらへんはカットな。なんとかうまくできたとだけ言っておく)
俺はブルマの額に口づけた。
ブルマは俺の胸に顔を埋めた。
俺が優しい睡魔に誘われて幸福の海に沈み込もうとしたその時。
ベルが鳴った。

「えーーーーー!!!!」
劈くようなブルマの声が部屋に響いた。
「うっそ!マジーーー!!」
ブルマが携帯電話に向かって何やら延々と喚いている。
やがてそこらじゅうに散らばった衣服をかき集め、それらをすばやく身に着けると、部屋の隅に丸まっていた白衣を引っ掴んだ。
「おい、ブル…」
「ごめん、行ってくる!!」
おいおいおいおい…
言うが早いか、一目散に駆け出した。愛する者の名を叫びながら。
「あたしのパリダちゃーん!!!」

「余韻ねえなあ…」
俺はブルマの消え去ったドアへ向かって呟いた。
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