放つ女
ブルマの機嫌がすごくいい。その理由もわかっている。
それが俺にはおもしろくない。

昨夜、俺は自我を保つことに成功した。
こんな時に限って素直に戯れついてくるブルマを、無理矢理引き剥がしたのだ。
「ちょっと、何すんのよ?」
その時あいつは、まったく理性の欠片もない瞳で俺を見上げて言ったものだ。俺が理性をめいっぱい酷使しているというのにな。…ズルイよな。
「もう少しくっつかせてよ。ひさしぶりなんだから」
いつもは絶対そんなこと言わないのに。こいつ俺のこと苛めてるだけなんじゃないかと、本気で思いかけた。
だが、そうじゃない。その時、俺にはわかったのだ。
今までもなんとなく思ってはいたんだけど、その時は決定的にわかった。もはや疑念の余地はない。
こいつは子どもなのだ。何も考えていないのだ。
今まで、無防備だとか無頓着だとか無作法だとか色々言葉を当てはめていたけれど、そんな面倒なことをしなくとも『子ども』の一言ですべての説明がつく。子どもだからバスローブ一枚で俺の前をうろつけるし、子どもだから俺と一緒の部屋で寝たりもできるのだ。
自分が女だということは知っているし、恥をかかされることを嫌ってはいても、本質的にはわかっていない。それが『子ども』だ。時々大人っぽく見えたりすることもあるが、あれは一種の『背伸び』だ。あの嵐の夜がそのいい例だ。
こいつは、自分が拒否すれば何の問題も起こらないと思っているのだ。その甘さが子どもでなくて何だというのだ。
自分が拒めば俺は何もしないと。俺を口先だけで御することができると、そう思っているのだ。…そして悔しいことに、それはその通りなのだ。
だって俺、あんまりそういうことしたいと思わないからなあ。あんまりっていうか、思ったことないんじゃないかな。そりゃあ、ブルマといる時はそういう気持ちになることもあるけど、それはあいつが(無意識に)そう仕向けるからであって、あいつがいなければ何も思わない。俺には武道があるからな。昇華みたいなもんだ。厳密には違うけど。
だから俺はあいつに構わないことにした。いや、別に距離を置くとかじゃなく、あいつのそういう仕種に構うのを止めるってことさ。子どもだと思えばなあ。感じ方も違ってくるもんだよ。

でも、あいつはそれを知らない。だから、自分が俺をすっかりやり込めたと思っていて(いや、やり込められたことは確かなんだけどな)、機嫌がいい。それが俺にはおもしろくない。


晴れない気分で、俺は気の修行をやっていた。とてもよく晴れた朝――というか昼。俺の体内時計によると10時頃。
ブルマに気は見せないとは言ったが、ひた隠しにするというわけじゃない。そこまでやると嫌味だろ。それにこんな人里離れたところにいて、さらに人目を避けようとするのもバカバカしい。そこまでやるなら追い返してるさ。…できるかどうかは別にしてな。
そんなわけで俺は、カプセルハウスをギリギリ視認できる場所にいた。ブルマはきっとまだ寝ている。プーアルは俺の修行の内容などわからないだろう。わかったとしても口外しないに違いない。ここは時折クーガーも出るしな。冬はいないと思うけど、用心にしくはない。
俺は大きく息を吐いた。まずは精神統一だ。
目下の課題は気の集中と保持だ。これは精神力に大きく左右される。そもそも気というのは、力以外のものに依るのだからな。古来の思想にもある。気とは、体の「伸筋の力」、「張る力」、「重心移動の力」であると。俺の場合たぶん力むのがいけないのだ。気力を穏やかに保つのだ。穏やかに…
俺は目を閉じかけた。
「わっ♪」
「うわっ!!」
だがそれより一瞬早く、背後からそれを塞がれた。甲高い声と共に。…声の主を説明する必要があるだろうか。
俺は開きかけていた拳を閉じた。
「ブルマ!おまえいきなり何する…危ないだろうが!!」
気が集まる前でよかった。集めた後だったら暴発してたぞ。まだコントロールできないんだからな。…自分が未熟で助かった、というところか。
「何がよ。ぼーっとしてたくせに」
ぼーっとしてたんじゃない!集中してたんだ!!だいたいおまえ、邪魔しないって昨日言ったくせに…
信じた俺が悪いのか?ああ、そうですか。
俺の抗議の視線も何のその、ブルマは快活に笑ってみせた。
「怒らない怒らない。余裕がないと大成しないわよ」
言うが早いか、あっという間に駆けていった。一体何なんだ。しかも妙に鋭いこと言いやがって。
…いや、今のは屁理屈だ。騙されるな――…あれ?
あいつ今、俺のジーンズ穿いてなかったか?しかも、お気に入りのやつ。…さては、勝手に部屋に入りやがったな。
まったく闖入者も極まれりだ。やっぱり追い返そうかな。
…それができれば苦労しないんだけどな。


腹が減った。まだ(体内時計は)11時を回ったばかりだというのに。
あの技を使うと腹が減る。保持できず3回も放出してしまったからなおさらだ。
気は集まるのだが、保てないのだ。どうしても制することができない。ブルマ言うところの質量が大きくなる前に、手を離れてしまう。小さければコントロールできるけど、それじゃ意味ないしな。
これは本気で精神力不足だろうか。まいったなあ。

それからもう30分ばかり食い下がって、俺はハウスに戻ることにした。やっぱり腹減った。悟空がよくこの台詞を連呼していたけど、こういうことだったのか。それだけ気を使っていた――つまり強かったってことだな。…まったく癪な話だな。
今日のハウスにはいい匂いは漂っていなかった。昼は料理しなかったんだな。飽きるの早いな、あいつ。
淹れたばかりのコーヒーを飲みながら、プーアルと一緒にサブマリンサンドイッチを作っていると、ブルマが外から戻ってきた。…やっぱり俺の服着てやがる。
頬を紅潮させ手を擦り合わせながらコーヒーに手を伸ばすブルマに、俺は尋ねた。
「おまえ、何やってたんだ?」
俺の服着て。
「ん?ちょっと空調システムをね。何ともなかったけど」
まったく呆れるな。何もこんなところに来てまで、メンテナンスすることもないだろうに。いい加減、メカキチも過ぎるというも――
その時、ブルマが俺の足元に屈みこみストッカーを漁り始めた。俺は目を背けた。
…腰の隙間から覗いてやがる。
予想して然るべきことだよな。男物のジーンズなんか穿いたらさ。まったく、無頓着にも程がある。まだ俺(とプーアル)しかいないからいいものの――いや、俺にも気を遣ってくれよ、やっぱり。
俺の素振りにまったく気づいた様子もなく、ブルマはストッカーから瓶を取り出し、ドライストロベリーを口に入れた。…子どもか。そうだったな。それにしても、そのドライストロベリー…
俺がちらりとプーアルに目をやると、ブルマもまた同じことをした。
「そうだ。プーアル、あんた、あのバスローブどこで買ったの?めちゃくちゃかわいいじゃない。いいセンスしてるわよ、あんた」
プーアルは衒いもなく答えた。
「あれはこの前、町に買出しに行った時に…あ、ヤムチャ様のぶんもありますよ」
着るか!!
プーアル、おまえは気が利きすぎだ。いや利くのはいいんだが、あまりブルマに合わせないでくれ、頼むから。バドワといい、このドライストロベリーといい、あのバスローブといい…俺の家がまったく俺仕様じゃなくなっているじゃないか。
そりゃあ、確かにブルマは俺の彼女だけど…おまえがそこまで気を遣うことはないんだ。っていうか、ここ俺の家か?本当に。
俺の疑念を深めるべく、ブルマは言った。切り分け皿に乗せられたばかりのサブマリンサンドイッチを摘み上げながら。
「これから書斎使うから。入って来ないでね」

蔑ろにされてるなあ、俺。
まったくあいつは、いつもそうだ。あいつは押しが強いからな。押しが強い上に子どもときては、勝てなくても無理ないぜ。
そう、この『ブルマ子ども説』は効力を発揮しつつあった。すでにさっき、あいつの有り様を見ても何とも思わ――いや、ちょっとは思ったけど。でもあれは、あいつがあんまりはしたない有り様だったからだ。うん。
とにかく、あいつは子どもなんだから。少しは大目に見てやらなきゃな。
俺は精神を再建しつつあった。


午後、俺は気の修行に熱を上げた。それと共に、外気は冷えていった。
気づけば雪が降っていた。
ここで雪を目にすることは珍しい。深夜に降りだすことはあるが、たいがい朝には消えている。気温が低いわりに日照がいいのだ。
いつの間にか薄曇りとなった空の下で、それは積もっていった。真っ白な世界の中で、俺の掌の上だけが光を放つ。なかなかいい気分だ。
静かだ。もともと音の少ない場所ではあるが、いつにも増してそう感じる。それとも俺の心がそうなっているのだろうか。非常にいい感じだ。これは…
俺は目を瞑った。心の中にイメージを描いた。いつもと同じ。でもいつもよりスムーズだ。
拳を開いた。充実した気が質量を持ち始める。いつもと同じ。でも…
…これは。
「てーいっ♪」
「いてっ!!」
だがその球が現れるより早く、俺の額に球が当たった。
…これは!?
球の軌跡を逆に追うと、その先にブルマがいた。手に雪の塊。白い球。
「ブルマ!おまえ何する…!!」
もう少しだったのに!!
俺の怒号も何のその、ブルマは陽気に笑ってみせた。
「雪が降ったら雪合戦。常識よ!」
そんな常識、俺は本当に知らん!!俺は荒野育ちなんだ!!
自分の怒りをセーブしつつ、反撃しない(しようとも思わん)俺に、ブルマはさらに雪玉をぶつけてきた。
…本当に子どもだ。子どもすぎるぞ。
何か別の意味で腹が立ってきたな…


雪は深々と降り続けた。夜も更け、今や本当に森は静かになっていたが、俺の心は反対だった。
まったく、あいつは。まったく、まったく。邪魔すんなって言っただろうが!
本当にあいつは俺を甞めているよな。そりゃ確かに俺は甘いけどさ。
気の修行は今日はもう終わりだ。あれは体力を使いすぎる。いくらでもできるというものではない。
だ・か・ら、邪魔すんなって言ったのに!
…いや、言ってないか?いやいや、直接言ってなくとも伝わるはずだ。普通はな。
まったく、まいるよなあ。
あいつは本当に、いろいろな意味でまいるやつだ。

俺はハウスへと歩を進めた。体内時計はまだその時間ではないと告げていたが、もう今日の修行は終わりだ。…何だか疲れた。
ハウスまでもう100mばかりというその時、俺はその光に気がついた。
ドーム型のハウスの上部、たぶん2階の屋根のあたりから僅かに光が漏れている。その上だけ空が薄明るく見える。何だろう。

リビングには誰もいなかった。キッチンにも。…バスルームにも。
自然、俺は2階へと足を向けた。
たぶんブルマだろう。プーアルはもう寝ている時間だ。あいつは朝が早いからな(というより、ブルマが遅すぎるのだが)。
ブルマは自分の部屋にいなかった。…俺の部屋にも。なぜこんな当たり前のことを確認しなくちゃならないのか甚だ疑問だが、俺は一応確認した。
次に、個室に取り巻かれるように2階の中心に位置するパーティルーム(端にソファを置いてリビング仕様にしているのだが、俺はまだ一度も使ったことがない。そんなヒマないからな)へと向かった。外から見えたあの光は、たぶんこの上部だ。
ドアを開けると雪が降っていた。比喩とか、映像などではない。本物だ。見上げると、中心部の天井がなかった。
そしてその真下に、ブルマが膝をついていた。バスローブ一枚の姿で。
俺は呆然と、視線を上に下に行きつ戻りつさせ、最後に下の人物に声をかけた。
「…おまえ、寒くないのか?」
「フロアヒーティング効いてるから」
あ、本当だ。
かなり設定温度を上げているのだろう。天井(はないから、そのまま空か)から散らつく雪は、床から1m程のところで溶け消え、床には水滴の一点もなかった。俺は再び、本来天井のあったところを見上げた。
「天窓か…」
「あんた、知らなかったの?自分の家でしょ」
グサリ。
思わず目を伏せてしまった俺に、ブルマは笑って言った。
「修行ばっかりしてるからよ。書斎だって、まだ一度も使ってないでしょ。そのうち、あたしがこの家乗っ取っちゃうわよ」
俺はぐうの音も出なかった。まったくその通り、すでに乗っ取られつつある。
俺はちょっと不貞腐れて、ソファにどっかりと腰を下ろした。
「で、おまえはここで何してるんだ?」
「見りゃわかるでしょ。雪見てんのよ」
そりゃわかるけど。いや、そうじゃなく。
さらに訊ねようとした俺の声に、ブルマの言葉が被った。
「きれいよねえ」
それが本当にただそれだけという感じだったので、俺は思わず声を高めてしまった。
「まさか、おまえずっとそうしてたのか?」
ただ見てたのか?雪を?
「そうよ。いけない?」
…わからん。
そりゃおまえにとっては珍しいものなのかもしれないが、まったく初めてというわけじゃないだろう(そういうことは言っていなかった)。それに昼間だって、さんざん遊んでたのに。
女だよなあ、こういうのって。
こういうところで女扱いするのは、別に問題ないだろう。女って、大人も子どもも、一種独特の価値観を持っているからなあ。無駄や無意味に思えるものにえらく熱中したり(ドラマとかな)、で、こっちがそれを尊重しだすともう忘れてたりするんだよな。一貫してないっていうか、どうにもわからん人種だよ。
ブルマはそれだけ言うと、また空を見上げた。時々手を伸ばして雪に触れたり、なんとなく自分の膝を撫でたり、まったく何もしていなかったり(これがほとんどだ)しながら、黙って自分の身には届かない雪を見つめていた。
これは、俺のことはまったく眼中に入っていないな。…やっぱり子どもだな。

そんなブルマを横目に見ながら、ソファの上でうたた寝しかかっていた俺の耳に、その音が聞こえた。
葉が風になびく音。葉と葉がぶつかり合う音。何かが風を切る音。
開けた薄目に、届かないはずの雪の成れの果ての塊が、尖端を下に落ちてくるのが見えた。
一瞬で目が覚めた。

俺はソファから文字通り飛び上がった。左腕をその背中に回し、ブルマを床に組み伏せた。当然、数メートルの水平移動の後にだ。
俺たちの体とほぼ同時に床に落ちた氷柱は、微塵も砕けなかった。尖端が、数瞬前までブルマの座っていた位置を指し示した。

あっぶねえー!
俺は空を見上げた。続く塊はない。
そういえばハウスの横に大きな樅の木が立っていた。風で流されたな。
「大丈夫か?」
自分たちの倒れている場所が天窓の位置から外れていることを確認して、俺は俺の下になるブルマを見た。ちょっと強く床に伏せすぎたか?
床に接する後頭部に手を触れた。…大丈夫だな。
首の後ろ、頸椎のあたりも…よし。

俺は息を吐いた。安堵と共に、眠っていた感情が目を覚ました。
ちょっとびっくりさせちゃったかな。
俺はそこに映る感情を確かめるべく、ブルマの瞳を見た。
俺とブルマの視線が合った。なぜとはなしにそれは絡み合った。

…あ。

解けだした気持ちの中に石が投げ込まれた。
俺は、ブルマの耳元に今だ留まる自分の手を、退けることができなかった。
言葉が出てこない。思わず息を呑んだ。ブルマが身を固くしたのがわかった。

違うんだ。
ちょっと俺の怖さを思い知らせてやろうとか。そんなこと思ってない。そんなの最低だ。
でも、体が動かないんだ。退けようと思ってるのに、動けないんだ。こいつの頬に触れそうで触れない手が、こいつに触れたいって言っているんだ。
ふいに、ブルマの指が俺の首筋に触れた。両の手が俺の頬を包み込んだ。
柔らかい唇。俺はいつの間にかそれに応えていた。思わず目を固く閉じた。

ダメだ。

ダメだ。ダメだ。ダメだ。
俺は修行中の身なんだ。
そうだ。相手は子どもなんだ。
子ども。子ども。子ども…

…ダメだ。

瞬間、唇が離れた。穏やかなブルマの声がした。
「あんた、えらいわね」
俺は目を開けた。あいつが仄かに笑って俺を見ていた。
俺は言葉と表情の両方で、あいつを探った。
「…おまえ、試したのか?」
「まさか。あんたが嫌がってるから止めたのよ」
固まる俺に、ブルマは続けた。
「嘘よ。あたし、する気ないもん。あんただってそうでしょ。…気が合うわね、あたしたち」
そしてにっこり笑った。

おまえ、子どもなんじゃなかったのか?やっぱり大人なのか?
ああ、ダメだ。わからない。
本当にわからない。

ブルマはそっと、だが確かな足取りで部屋を出ていった。
俺はただただ呆然と、それを見送った。


ドアの閉まる音がして、俺は思いだした。
…ロシアンルーレットか。
さっきまでブルマの座っていた場所を見た。落ちた氷柱は、少し溶けかけていた。
俺、また落とされたんだな。


少し気を引き締めなくちゃいかんな…
inserted by FC2 system