逃げる女
眠れない。眠れるわけないよなあ。
午前4時。疲れた体をベッドに横たえて、俺はもはや目を閉じることを諦めていた。
先のブルマとの間に起こった出来事を、俺は思い出したりはしなかった。わざわざそんなことをしなくとも、脳裏に広がりっぱなしだったからだ。
あいつは最後に笑っていた。でも、あれですべてが終わったと思えるほど、事は単純じゃない。
やっぱり、気まずいよなあ。ケンカしたわけじゃないけど、どうしたって気まずいよ。
どうしようか。どうすればいいかな。やっぱり謝るべきかな。
あの時あいつが身を固くした様を、俺ははっきり覚えていた。
あれは俺が悪い。退けられなかった俺が悪い。だって、俺は男だ。やっぱり怖いよな。
その後のあいつの行動がよくわからないけど。まあ、あいつは月の満ち欠けよりも変わりやすいやつだからな…
しかし謝るっていうのも、なかなか難しいよな。タイミングとかさ。…さっき謝っておけばよかった。


…何てこった。
俺が目を覚ました時、陽はとうに朝陽ではなくなっていた。
情けないなあ、女のことで寝坊するなんて。本当に情けない。修行に出てからこっち、寝坊なんてしたことなかったのに。
朝――じゃないんだったな。陽が目に眩しい。眼圧が高まっているような気もする。完全に寝不足だ。

ラバトリーで身なりを整え部屋へと戻ってきた俺の目に、あいつが映った。
…ブルマだ。正直、あまり嬉しくないタイミングだ。まだ頭も完全に醒めていないし、寝坊したということも知られたくない。…理由なんてわかるだろ。
でも、あいつは俺の部屋の前にいる。声をかけないわけにはいかない。
「…おまえ、何してるんだ?」
おはようという言葉を俺は呑み込んだ。やましいことがあると、人って不自然になるな。
「ブルマ?」
返事はなかった。それどころか、あいつは俺の方を見ようともしなかった。…まいったな。気まずいだろうとは思っていたが、まさかここまで露骨だとは。
頭を掻き掻き、さてどうやって部屋に入ろうと俺が思案していると(なにせこいつは俺の部屋のコンソールの前にいるのだ)、ふいにブルマが振り向き、笑顔で言った。
「あんたこそ何してるの?修行は?」
こいつも結構がんばってるなあ。
俺も会話に乗ってやりたいのは山々なんだが、あいにくそれは禁句なんだ。
「ああ、ちょっとな」
「そうなの。あたしもちょっとね」
「ちょっと?」
「ええ、ちょっと…」
…まるでダメだな。
これは少し距離をとった方がいいかもしれないな。いや、距離をとると言っても、こいつを帰すとかそういうことじゃない。そんなことしないよ。俺が1、2日修行に明け暮れればいい。そもそも本来そのはずなんだ。こいつがいるから少し弛んでるけどな。
そう俺が考えていると、ブルマが唐突に叫んだ。
「じゃっ!」
言うが早いか廊下を駆け出した。全速力で。その脈絡のなさに思わず俺は呆気に取られたが、階段へと消えかけるあいつの姿に妙な緊張感を感じとって、ある疑惑を抱いた。
まさか、おまえ?
階段を降り切る寸前、あいつの手を取った。あいつは俺の顔も見ず言い放った。
「放してよ!」
ブルマに手を振り払われて、俺の疑惑は確信に変わった。俄かに思考回路が接続した。
いくらなんでも逃げるのはダメだろ。そんなの俺にだってわかるぞ。
気まずいのはわかるさ。逃げ腰になるのもわかるよ。でも逃げるのはダメだって!!
ブルマは森の奥へ奥へと走った。逃げてはいるが、隠れてはまったくいなかった。
本当に理解に苦しむよ。
何なんだその逃げ方は。そんなおおっぴらに逃げてどうするんだ。この後は?永遠に逃げるつもりか?
…おまえならやりかねん。

俺はブルマを見失った。白銀の世界の奥深くで。でも、俺は慌てなかった。だってな。
バレバレなんだよ、足跡で!…まったく、あいつも抜けてるよなあ。
ここには俺たちしかいないんだから。しかも雪が降ってからは、奥には俺だってそんなに行っていないんだから、奥へ逃げれば逃げるほど追跡しやすくなるわけだ。
バカなやつだよ、本当に。怒る気力なくすよな。

カラマツの木立の影にブルマはいた。あいつの顔は見えないけど、足跡が続いているし、菫色の髪が戦いでいる。…こういうやつのための言葉、あるよな。頭隠してなんとやら、ってやつだよ。
これが見つけてほしくてわざとやってるとかならかわいいけど、こいつの場合そうじゃないからなあ。単に詰めが甘いだけだ。
俺はブルマの佇んでいる木を背にうまいこと隣に忍び寄って、思いきり叫んでやった。
「わっ!!」
「きゃっ!!」
ブルマは目に見えて驚いた。ふん、昨日のお返しだ。飛び退り反対側へと逃げようとしたその手を、今度こそ俺は掴んだ。やれやれ。
「掴まえたぞ」
俺は笑ってみせた。こいつを非難する気は、もうなかった。
「逃げるなよ。だいたい、おまえが逃げることないだろ。悪いのは俺なんだから」
そうなんだ。俺が悪いんだよ。
だから、おまえは堂々としてりゃいいんだよ。昨夜そうだったみたいに。…昨夜は確かにそうだった。それがどうして、今さら逃げたりするんだろうな。まったく困った性格だよ、おまえも。
倒木を前にして、俺はブルマの手を放した。どう考えても、謝るときの姿勢じゃない。いいさ、逃げられたらそれまでだ。
「何がよ?」
ブルマに訊ね返されて、俺は一瞬言葉に詰まった。
でも、ちゃんと言わなきゃな。
「俺が怖がらせた。悪かった」
数瞬の間が開いた。次にブルマの口から出た言葉は、俺を放心させた。
「ちょっと、勘違いしないでよ。あんたなんか怖くないわよ!全然、これっぽっちも怖くないわ!!」
俺はブルマの顔を見た。その表情は虚勢ではなかった。どうやら、本当にそう思っているみたいだ。
「じゃあ、何でだ?」
俺はブルマのあの行動を、一種の自己防衛本能の現れだと思い始めていた。試したのじゃないとすれば、それしかないじゃないか。
「何でって」
ブルマは絶句した。ように俺には見えた。
だが、それは来るべき舌戦の幕開けだった。
「この大バカ男!!鈍感!!」
何だ何だ。
「やっぱりあんたはただの鈍感よ。褒めて損したわ!!」
おまえ今まで逃げ腰だったくせして、何でいきなりそうなるんだ。それに、バカはいいとして、その鈍感っていうのは何なんだ。
「何だよ、その言い方」
「本当のことを言ったまでよ。何度でも言ってやるわ。この鈍ちん!!」
こいつ。
俺が心の底から謝ったというのに。…本当に怖がらせるぞ。

俺はブルマを倒木に押し付けた。両の腕でその体を組み敷く。
昨夜と同じ体勢。だが、俺はもう助けない。
…怖がらせてやる。


こいつがどう感じるかは別としてな。
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