前向く女
かわいいと思ったんだ。
さらさらの髪も。くるくるとよく動く瞳も。高い声音も。華奢な体も。すごく女の子って感じがして。
それが今じゃあ…

「何だってあんたはそう、誰にでもホイホイついていくわけ!?」
ハイスクールの廊下の片隅。クラスメートの目も憚らず、ブルマが俺に怒鳴りつけた。俺は思わず目を瞑った。
「ついていくってそんな…ただ訊かれたから、ついでに案内しただけじゃないか。休み時間だったし」
俺の事実に基づく弁明は、まったく受け入れられなかった。それはブルマの瞳に宿る炎を、ますます燃え立たせただけだった。
「だから、何であんたに訊くのよ!あんた転入生でしょうが!」
そりゃあ、そうだけど。
そんなに目くじら立てることないじゃないか。たったこれだけのことで。おまえ、怖すぎだよ。
「いいじゃないか、わかったんだから」
ちゃんと案内できたんだから。何も問題ないじゃないか。どうしてそこまで過敏になるんだ。
「この能天気バカ!!」
いきなりブルマが吐き捨てた。俺は笑顔を捨てた。
「何だよ、その言い方」
「バカだからバカだって言うのよ!少しは人心ってものを読みなさいよ!」
何だよそれは。どうしてそこで人心が出てくるんだ。俺は親切をしただけなのに。
まったく、おまえはいつもそうだ。わけのわからないことばかり言いやがって。その口の悪さもどうにかしろ!!
そうは思っても口には出せない。だからこそ余計に腹が立つ。
「ふん!」
「ふん!!」
俺とブルマはほとんど同時に鼻を鳴らすと、背中を向けて、それぞれの方角へと歩き始めた。




「懐かしい…」
思わず俺は呟いた。ベッドの中で。未だ鮮明に思い出せる(起きたばかりだからな)夢の感想を。
もちろん、この夢はまったく事実というわけではない。夢だからな、いろいろな要素が混じり合っている。俺はハイスクール時代には、ここまではっきりとブルマと言い合いをしたことはないしな。でも、雰囲気や空気はあの頃と同じだ。
今さらどうしてこんな古い記憶の夢を見るのか。それはなんとなくわかっている。
今があの頃みたいだからだ。毎日(といってもまだ5日目だけど)ブルマがいて、なんやかやと怒鳴りつけられて、慌しく一日が終わる。懐かしい空気だ。
でも、それももう終わり。俺は今日、カメハウスへ戻る。

と、格好つけてはみたけれど、すぐなんだよな、戻り着くのって。せいぜいエアジェットで2〜3時間だ。
まったく科学ってやつはなあ。感慨ってものを捨てさせるよな。
だからブルマもあっさり了承した(あいつはC.Cに帰っていった)んだろう。別れの情感も何もない。利便性って、人を淡泊にさせるよなあ。


ひさしぶりの常夏の中で、俺はまずクリリンと顔を合わせた。樫の木を臨む平地。俺たち2人定番の修行場所だ。
「よう。ただいま、クリリン」
「あっ、ヤムチャさん。おかえりなさい」
兄弟子に対する敬意。俺は努めてそれを持つことにしていた。
カメハウスには去年顔を出したきりだから、こいつと話すのも4ヶ月ぶりか。長いような短いような…
とにかく俺とクリリンは、さしたる前置きもなしに会話に入った。こいつは気さくだからな。俺もよくそう言われるし。そうなんだよな。兄弟子というよりは、仲間っていう感じだよな。うん、『気さく仲間』だ。
「武者修行はどうでしたか?」
「ああ、実りはあったよ」
さっぱり実らんという実りがな。
でもまあ、それもいいさ。実力的には上がった(と思う)しな。これからは精神修行だ。
「そうっすか。オレも1度やってみようかな」
「ああ、そうしろ。なかなかいいぞ、自由って感じがしてな。気分爽快だぞ」
特におまえは1人なんだから、余計にな。
「そうっすね、自由ですもんね。…で、どうでしたか?」
意味ありげなクリリンの視線に、俺は気づかなかった。
「そうだな、北の方は結構自然が厳しいな。その分、気は引き締まるけど」
「んもう、そうじゃなくって。ヤムチャさん惚けるのうまいんだから」
は?
「いいじゃないっすか、教えてくださいよ。オレたち仲間じゃないっすか」
それはそうだけど。おまえ、何が言いたいのかさっぱりわからないぞ。
「ブルマさんですよ。ブ・ル・マさん。どこまでいきましたか?」
クリリンの台詞に俺はピンときた。おまえか!あいつに俺の居場所を教えたのは。
「…北の森まで来たよ」
その後、桜の森にも来たよ。荒野にまで来たよ。…修行の邪魔をするためにな。
「で、それから?」
「それからって何だよ?」
「だからどこまで…」
ようやく俺は理解した。クリリンの言わんとしていることを。
「…あのな、俺は修行に行ってたんだぞ」
おまえ、何考えてんだ。
「でも、ずっと一緒にいたんでしょう?人里離れた場所で」
…何だ、その言い方は。
確かに何度か会ったけどな。2人っきりじゃなかったし、プーアルもいたし、俺は修行してたし…だいたい何で『ずっと』いたって決めつけるんだ。俺はそんな節操のない人間じゃないぞ。
「またまた〜。もうバレバレですって」
俺の言葉を、クリリンはまったく受け付けてくれなかった。いくら何でもしつこすぎだ。
一体何だってんだ。

俺はすぐにカメハウスに溶け込んだ。ここはまったく、他人を拒まない場所だ。まあ、俺は他人じゃないけど。もともとここにいた人間だからな。
3時のお茶を兼ねて一頻りみんなと談笑した後、クリリンとランチさんがそれぞれの持ち場(クリリンは修行、ランチさんは洗濯物の取り込みだ)へと戻るのを見て、武天老師様が俺に言った。
「で、どうだったかな。武者修行の成果は」
俺の答えは決まっていた。
「はい、自分がまだまだ未熟であるということがわかりました」
言いながら微かに俯く俺を見て、老師様は陽気に笑った。
「ほっほっ。よいよい。至らなさを知るのもまた好事じゃ」
やっぱりな。老師様はわかっておられたか。
そうだよな。腰は軽くとも仙人と呼ばれるお方だ。俺みたいな若僧のことなんて、お見通しだよな。
「…で、どうだったかな。おぬし個人の成果は」
ぎくり。
俺は思わず身動ぎした。
『個人の成果』。ひょっとしてバレてるのか?…あの技のこと。
まったく油断していた。ブルマももう忘れているようだから、大丈夫だと思ったのに。…さすが老師様。
「まだまだです。老師様には遠く及びませ…」
俺の言葉は遮られた。
「ちっ」
老師様の、指を鳴らしながらの舌打ちで。
…ちょっと老師様。それはあんまりじゃないですか。それは弟子が頼りなくておもしろくないのはわかりますが、この場面でそのジェスチャーはないでしょう…
何とか不満を押し隠そうとする俺を、老師様はやれやれと言った口調で諭した。
「まったく、いい若いもんがしょうがないのう。こんな絶好の機会を物にできんとは。わしが若い頃はもっと能動的に動いたもんじゃ」
はあ?
「悟空やクリリンと違って、おぬしはもう少し大人だと思っておったが…つまらんのう。老人の興味1つ満足させてくれんとは。しょうがない、1つわしが指南してやるとしようかの。『脅威の亀ちゃん』の出番じゃ」
老師様は心持ちサングラスを持ち上げると、その奥から意味ありげな光を閃かせた。
「まず雰囲気作りじゃ。おぬしらはどうも、殺気だってていかん。確かにブルマちゃんはかなり怖いおなごだが…」
「む、武天老師様!!」
さすがに俺はわかった。これでわからないわけがない。
「俺は修行に行ってたんですよ!!何考えてるんですか!!」
勘弁してくださいよ。
「固いことは言いっこなしじゃ。だいたいあれだけ一緒にいて何もせんとは、お主も案外問題ありじゃな」
俺は絶句した。


…なぜ?
なぜ、誰も彼もが(とは言っても、クリリンと老師様だけだけど)俺とブルマが『ずっと』一緒にいたと思うんだ?
前は、ケンカばっかりしてると思っていたくせに。…なぜ?
実際一緒にいて、それがどこからかバレたとかならまだわかるが、そうじゃないんだからな。一緒にいたのなんて、全部合わせても1週間くらいだ。半年で一週間。長くはないよな?…濃くはあったが(異常にな)。
それ以外は、極めて真面目に修行していたのに。曲解されるにも程がある。
不愉快だ。ああ、不愉快だ。


俺の精神は勝手に鍛えられていった。というか、鍛えないとやっていけない。だって、こんなんだぞ。
「行くぞ、クリリン」
「どこからでも。ヤムチャさん」
クリリンとの自由組み手。寸止めなし。ほとんど実戦だ。そして、俺にとってはひさしぶりの『人間相手の』戦いでもあった。
…見える。動きが。
もちろん、全部がというわけじゃない。クリリンはそんなに弱いやつじゃないからな(少なくとも俺以下ではないだろう)。ただやつが地を蹴った次の瞬間、特に向かってくる姿をよく捉えることができる。きっと慣れだな。オオカミどもの動きで慣れたんだ。やつらとの戦いは最初が勝負だったからな。
俺はクリリンの腹部に拳を当てた。まず1本。
「早い!ちょっとヤムチャさん、早すぎますよ!」
ああ、俺も自分で驚いたよ。
だが、俺は平然を装い言ってみせた。
「ふっ、武者修行の成果だ」
「いいなー、ヤムチャさん」
おい!
何だその台詞は。いいって何がだ!
…いや、俺の強さを褒めてるんだよな。そうだよな。そう思おう。
俺はクリリンの顔を見た。口元の緩んだ、どこか遠くを見るようなその笑顔。
…無理だ。

だが、クリリンは大人だった。武天老師様も。2人は、いつまでもねちねちと俺を弄ったりはしなかった。
…忘れた頃に言うんだよ。
しかも時々。ひょいっと。ついでのように。…ヒマなのかなあ(特に老師様)。
別にいいけど…とは言い切れないところが辛い。
言う方は気楽に言ってるんだろうけどな。言われる方はたまらない。
前にもこんなことあったよな。俺ってそういう性なんだろうか。


それから1週間程経ったある日。3時の休憩を取るためハウスへと向かっていると、頭上から声がした。
「ハーイ、ヤムチャ」
ブルマがエアジェットから降りてくるところだった。プーアルの姿も見える。相変わらずの無音航行だな。びっくりするじゃないか。
「よう」
俺の応答は続くブルマの言葉に掻き消された。
「似合う?」
言いながら駆け来ると、ブルマは俺の目の前でくるりと身を翻してみせた。俺は思わず一瞬固まった。
おまえ、いきなりだなあ。
似合うも何も、俺、今おまえがいるのに気がついたばかりだぞ。
「ああ、うん、なかなか」
ブルマの服に目を走らせるより先に、俺は答えた。
見もしないで返事するのは失礼だって?確かに、一般論としてはそうだろう。だが、俺の立場になってみればわかるさ。
だが、俺のこのスピード重視の対応は、結局のところ、そうではない場合と大差ない結果をもたらした。ブルマは口を尖らせて言ったもんだ。
「なかなか、何よ。あんたも中途半端な男ね」
そうだった。こいつは肯定的な事柄でさえ、否定できるやつなんだった。
俺は改めてブルマを見た。身に着けているのは、ビビッドオレンジのワンピース。また珍しい格好をしているな。そういや前にも着てたっけ。ワンピースに目覚めたのかな。
だが前に見た時とは、決定的に違う点が1つある。…派手だ。あの時感じた清楚さは、やはり奇跡だったんだな。
「…大変お似合いでございます」
嘘じゃあないぞ。派手だけど。
「よろしい」
しかし一体、こんな流れで褒められて、嬉しいものなのだろうか。ものすごく疑問だけど、それは言わないことにする。本人の問題だしな。今はそんなことよりも…
「…なあ、おまえ何か言ったか?カメハウスのみんなにさ」
俺はブルマの耳に口を寄せて囁いた。
やっぱり不思議なんだよな。みんながどうしてあんな風に思うのかがさ。俺がここに来るより前にそう思われていたみたいだから、俺の失言ではありえない。ということは、後はこいつだよな。こいつが何か言ったんじゃないか。例えば惚気話をしたとかさ。
…惚気話?
俺はブルマの顔を見やりながら、自分の言葉を反芻した。
――ありえない。
こいつがそんなことを言うなんて、天地がひっくり返ってもありえない。例えこの世に2人きりになろうとも、こいつは俺を貶すだろう。こいつはそういうやつだ。ちらとでもそんなことを考えるなんて、俺もどうかしているな。
考え込む俺をよそに、ブルマはさっくりと答えた。
「言ってないわよ」
そうだよな。いやまったく、俺がバカだったよ。
その時、クリリンがカメハウスから顔を覗かせた。俺はブルマから身を離した。なんとなく、反射的に。
「あっ、ブルマさん。ひさしぶりっすね」
「ハイ、クリリン。相変わらず元気そうね」
何だおまえら、その会話は。
『ひさしぶり』なんて声かけるの珍しいよな。ましてやブルマに。ひょっとして…
「おまえ、最近カメハウスに来てないのか?」
俺は再びブルマの耳に囁いた。
「うん、前にあんたとここで会って以来ね」
…それだ。
前に来た時、やたらブルマが来るって言ってたからなあ。それでぴたりと来なくなったから、俺のところに入り浸ってると思われたんだな。
ブルマのやつも、露骨すぎだ。それじゃバレバレじゃないか。…いや、実際は違うんだけど。
もう少し配慮してくれよなあ。そりゃ性分なんだろうけどさ。

ブルマを迎えるみんなの態度は、俺の考えを裏付けた。
「おひさしぶりですわね、ブルマさん」
今まで気にしてなかったけど、ランチさんも何か思っているかもな。この人、考えてないようで考えてたりするからなあ。
「おぬしら、一体何をしておったんじゃ」
武天老師様の言外の意に気づいたのは、俺だけだった。いや、ひょっとするとクリリンも気づいていたかもしれない。しかし、ブルマは気づかなかった。…よかった。
それにしても、そんなに変かなあ。
そりゃ俺とブルマは付き合い長いけど、俺はほとんど修行してるわけだし。みんなそんなことばかり考えながら生活してるわけじゃないと思うんだけど。…いや、この際一般論は無意味だな。要は武天老師様はそうだということだ。
やっぱり娯楽だよな。娯楽が少ないんだよ。
でも、武天老師様の娯楽って…
…うーん。
思わず腕組みした俺の耳に、ブルマの声が聞こえてきた。
「受験と進学の準備をしてたのよ」
またその話か。しかしそれにしても、似合わない台詞だなあ。
そう感じていたのは、やはり俺だけではなかったようだ。ブルマが言うや否や、クリリンが驚いたように叫んだ。
「えっ、ブルマさんって学生だったんですか?」
そうだろう。そうだよなあ。そう思うよな。
「どこから見ても、ピチピチの天才女子高生だったでしょ。そしてこれからはピチピチの天才女子大生よ」
どこから見ても放蕩娘だったよなあ。これからだって、きっと同じだ。
ブルマが言い終えると、みんなは一斉に押し黙った。ほうらな。
やはり俺は間違っていなかった。俺の感覚は正常だった。こいつが異常なん…
「てっ!」
瞬間、腕に痛みが走って、俺は顔を上げた。俺の腕を抓りあげるブルマと目がかちあった。
俺は目を逸らした。


夕刻。再び修行に精を出す俺のところに、クリリンがやってきた。
「あのう、ヤムチャさん」
どことなく影のあるその表情に、俺は異変を感じ取った。
「どうした。何かあったのか?」
「それが…俺、今ランチさんと買出しに行って来たんですけど、そしたらその隙にブルマさんがキッチンに立て篭もっちゃって」
面目なさそうな顔で、クリリンは言った。思わず俺は、天を振り仰いだ。
あいつは、何かあったから立て篭もったのではない。この場合、何かあるのは立て篭もられた方なのだ。
「何作ってるかわかるか?」
わかるようなら問題はないんだけどな。
「それがさっぱり。見たことないメカ使ってるんですよね」
「…なるほど」
それは大問題だ。
俺は黙考した。しかしそれも一瞬のことだった。
「よし。ここは任せろ。俺に策がある」
不安げな顔を崩さないクリリンと共に、俺はカメハウスへと戻った。

なるほど、妖しげな機械だ。
調理台の上に鎮座ましますメカを見て、俺は思った。
上部にハンドルのついた、直径30cm程の円柱形の機械。一見スライサーのようにも見える。だが、そうではないことはすぐにわかった。
スライサーに骨は入れない。おまけに血が滴ってやがる。…魔女実験か?
「今日は何を作るんだ?」
あまり知りたくはなかったけれど、とりあえずそう訊いた。まずはここからだよな。
ブルマは俺の質問はまるっきり無視して、怪訝そうな顔で俺を見た。
「あんた、何してんの?」
なるほど、言わない気か。
ということは、おそらく初の試みだな。こいつ、妙に勿体つけるところあるからなあ。
俺は思案を巡らせた。声音と態度が鍵だよな。うまくできるかなあ。
いや、できるかどうかではない。やらなければいけないんだ。…よし。
「俺、サウスカントリーの料理が食べたいな」
もともと甘やかさには自信がある。相手がこいつだと思わなければいいんだ。問題はさりげなさを装えたかどうかだ。
ブルマは黙り込んだ。俺はひたすら次の言葉を待った。
「あんた、あれ好きなの?」
「ああ、おいしかったし」
これは本当だ。おいしかったし、口にも合った。それに何といっても、普通っぽいところが最高だ。
「ふーん」
ブルマは何やら考え込んでいる様子だった。おまえ、考えることなんか何もないだろ。食べたいって言ってるんだから、作ってくれよ、な。頼むからさ。
「わかったわ。まっかせといて!!」
よーし。OK!
ブルマは胸を叩いた。俺も心の中で胸を叩いた。よかったよかった。

それにしても緊張した。ひさしぶりに使ったな、ああいう声音。
俺もなかなかやるもんだろ?
と言いたいところだけど、正直疲れた。もう2度とやりたくないな。少なくともあいつ相手には。もっと楽な相手なら別だけど。
あ!今のなし。今のなしな。

さて、問題の科学実験は…
幼鴨の輻射加熱物血添え(幼鴨のロースト・ブラッディソース)、菊苦菜の輻射加熱物(チコリーのグラタン)、海鮮の熱放射加熱物(ブイヤベース)の3種だ。
「この鴨の料理はね、古典料理の中でも名品中の名品なのよ。歴史的価値をも持つ名レシピよ」
そういう価値あるレシピが、幾度俺たちを困らせてきたことか。
俺は鼻をひくつかせた。うん、この前と同系統の匂いがする。
それを確認してから、俺は逡巡するクリリンに囁いた。
「大丈夫だ。俺を信じろ」
まったく格好いい台詞だよな。とても、ただ飯を食うだけとは思えん。

俺の面目は保たれた。ブルマの作ったサウスカントリー料理3種は、概ね好評だった。
概ね、というのは僅かに綻びがあったからだ。おそらく察しもつくんじゃないかと思うが、メインの鴨のソースがそれだ。血のソース…
まさかこうくるとはな。油断も隙もないやつだ。…気を抜くのが早すぎたな。
だがそれも少々舌に重いという程度で、美味の範疇ではあった。まあ9割方OKだ。
感動の面持ちで箸を伸ばすクリリンに、俺は言った。
「もうわかっただろ。サウスカントリーの料理は安全なんだ。この際だから、思いっきり褒めとけ」
「ヤムチャさん…」
クリリンが俺に感謝の念を抱いているのがわかった。
「これも武者修行の成果だ」
ひょっとすると1番の成果かもしれん。
その言葉は飲み込んだ。


あー、やっと落ち着いた。
リビングの片隅、壁に背を凭れて、俺は腰を下ろした。
ブルマの料理のおかげでクリリンの口も封じられたし(しばらくは俺に頭が上がらないだろう)、武天老師様は…もう諦めた。師匠の打擲だ、甘んじて受け止めようじゃないか。そうだな、精神鍛錬だと思うことにしよう。何て言うんだっけ、そういうの。…言葉攻め?
黒色の液体に砂糖を落とした。1、2、3個。うん、やっと甘さが感じられるようになった。
「学院はいつからなんだ?」
俺は、隣に同じようにして座り込むブルマに訊ねた。そういうことを全然聞いていないことに気づいたのだ。あいつは素っ気なく答えた。
「さ来週から。だから、忙しくなるわよ」
「そんなこと言って、サボるなよ」
サボったってさして支障ないんだろうけどな。まったく、嫌なやつだよな、こいつは。
「失礼ね。そんなことしないわよ。スキップするつもりなんだから。最初にめいっぱい履修しておくわよ」
珍しくもブルマの声には、気合染みたものが篭っていた。なるほど、短気がいい方に出たってことか。でもそれなら…
「ハイスクールは何でスキップしなかったんだ?」
当然の疑問を、俺は口に出した。あんなにサボるくらいなら、さっさと飛ばせばよかったんじゃないか?
ブルマは一転して気のない素振りで、さらりと答えた。
「いろいろあるのよ。面倒なことがね。まあ、おかげでたっぷり遊べたし」
…やっぱり放蕩娘だ。こいつは気づいていないようだが、今自分でそれを認めたぞ。
こんな風に他愛のないことを、俺たちは話した。のんびりとした、毒も害もない空気の中で。ひさしぶりだな、こういうの。
カメハウスの持つ雰囲気のせいもあるけど、やっぱり他人がいるというのが大きいな。こいつと2人きりでいると、妙な緊張感が走るからなあ。だいたいこいつが起因だけど。
それが悪いってわけでもないけど。まいることがあるのは確かだ。…やっぱり精神鍛錬かな。
俺は、カップに口を寄せるブルマの横顔を見た。ふと、カメハウスに戻る前に見た夢のことを思い出した。
正確には夢の内容ではなく(そんなものとうに忘れた)、一番最初に感じたブルマの印象だ。所謂第一印象ってやつだな。
かわいいって思ったんだよな(確か夢の中でもそう言っていた。それはなんとなく覚えている。だから思い出したんだ)。だってこいつ、見た目は本当にかわいいからなあ。
まあ、騙されたわけだが。それも物の見事に。
でも、騙されつつ好きになっていったんだ。人間っておかしなもんだよな。それとも俺がおかしいのか?
そうかもしれない。俺、流されやすいからなあ…
少々危険な結論に俺が達しそうになった時、ブルマが言った。
「じゃあ、あたしそろそろ帰るわね」
「あれ、泊まっていかないのか」
俺はまったく意外に思った。こいつ、最近妙に引き際いいな。科学の勝利か?
「あたしもいろいろ忙しいのよ」
そう言うとブルマはプーアルに二言三言話しかけ、カプセルを手渡した。それからドアのところまで行くと、カメハウスのみんなに言った。
「じゃあね、みなさん。今日はお邪魔さま。…言っとくけど、ケンカしてないからね」
俺はもう少しで叫び出すところだった。そういや、そうだったな。
さっさとカメハウスを出て行くブルマの後姿に、俺は話しかけた。
「おまえ、よく覚えてたなあ」
「あら、あんたは忘れてたの?」
「うん」
「まったく、あんたは幸せ者ね」
別れの機微も何もない。そんな会話を一見平然と交わしながら、俺は心の中で計っていた。
何をって?…タイミングだよ。
わかんないんだよなあ、未だに…
ブルマとはもう3年にもなるし、きっと何十回(そこまではいかないか。でも2桁であることは間違いない)はしてるはずなのに、未だに…
ケンカの後なんかはひょいっとできるんだけどな。怒ってる時とかも。でも、そうじゃない時はどうも…
「じゃあ、あたし行くから。修行がんばってね」
エアジェットをカプセルから戻しながら、ブルマが言った。

俺はブルマの瞳を見た。そこに映っている自分自身の姿を見た。

あー、やっぱりダメだな、こういうの。
なんていうか、耐えられない。…こういう自分に。
こういうことをしようとしている自分の姿に。平常心ではとてもとても。殊に今のような穏やかさの中では。
これはマジで精神鍛錬…

心の中で頭を抱える俺に、ブルマが囁いた。
「そうそう、あたししばらく来ないから。だから今のうちよ。…したいことがあるならね」
俺は腕を下ろした(心の中で)。
あいつの瞳の中には、相変わらず俺がいた。
…ああ、まったく。
おまえにはかなわないな。

ブルマが1歩踏み出した。俺はその体を捕まえた。あいつが俺を見上げた。俺はその頬に触れた。
まったく、受身だ。…格好悪いな、どうにも。


あいつの乗ったエアジェットが星と消えた。それを見届け、カメハウスへ戻ろうと踵を返して、俺は固まった。
カメハウスの軒先に、住民たちが勢ぞろいしていた。
「いいなー、ヤムチャさん」
「うむ、よくやった」
「お二方、仲良しになったんですね。よかったですわ」
ランチさんの一言が止めだった(やっぱりこの人もそう思ってたんだな…)。

…辛い修行の日々が、また始まる。
inserted by FC2 system