困った女
あいつの『しばらく』ってどのくらいだろう。1ヶ月くらいだろうか。
そんな風に思っていたので、4ヶ月経ってもブルマがカメハウスにやって来ないことに、俺は驚いた。そしてプーアルの話を聞いて、また驚いた。
「学院は毎日行ってますよ。たまに帰って来ないこともあるくらいです」
「帰って来ない?」
「泊り込んでるみたいですよ。あとは徹夜明けで帰ってきたりとか」
俺は目を丸くした。
何なんだ、その気合の入れようは。ハイスクールの時とは、またえらい違いじゃないか。
確かに前から(特にメカを弄っている時とか)、脇目も振らないところはあったけどな。それにしても、極端なやつだ。
思わず黙り込んだ俺に、ウーロンが怪訝そうな声で訊いてきた。
「おまえら、話くらいしてないのか?電話とかあるだろ」
「うん、全然」
俺が短く答えると、ウーロンは飽きもせず例の台詞を口にした。
「電話もなし、会いにも来ない、か。まったく冷たい女だぜ。おまえよく我慢できるな。少しは言ってやれよ」
無言のうちに、俺は心の中で呟いた。
便りがないなんて、いつものことだ。それにそう言うおまえだって、ここに来るのは1年ぶりじゃないか。
そう、ウーロンは夏になるとカメハウスへやってくる。こいつは夏の海が大好きなのだ。理由は言わずもがなだ。
ウーロンの言葉に同意したのは、俺ではなくプーアルだった。俺に向けられる2人の目に苦笑しつつ、俺は3時のお茶を終えた。

確かにブルマの動向は、俺には意外だった。だが、それ以上のものではなかった。殊に不満には思っていなかった。
…俺、平気なんだよな、あいつが会いに来なくても。寂しいとか、全然思わない。
いや、いなくてもいいってことじゃない。それだったら、付き合う必要ないだろ。そうじゃなくて、いるってわかってるから、会わなくても平気なんだ。わかってもらえるだろうか。
そして、それはきっとブルマも似たようなもの――いや、違うか。あいつは俺に会いたがるし(嬉しいことだ、気持ちとしてはな)、実際会いにも来るからな。でも、寂しがってはいないと思う。たぶんあいつは、そういう理由で会いに来ているわけじゃない。だいたい、そんな玉じゃないだろ。現に今まで、寂しいなんて言われたこと1度もないし。…じゃあなぜだと訊かれても、困るけど。
北の山岳に辿り着いた。俺は意識を閉じた。そして、別の意識を開いた。俺には俺の、やることがある。
修行さ。決まってるだろ。


起床。早朝トレーニング。朝食。クリリンと組み手。自主トレ。昼食。そしてまたトレーニング…
規則正しい毎日が続いた。それは実に穏やかな日々だった。
リズムを狂わせるものは何もない。修行、修行の毎日。時折プーアルがやってはくるが、あいつは俺の邪魔はしない。まったく平穏な日々だ。
退屈そう?それは字面だけを見ているからだ。実際やってる人間は、大変なんだぞ。
それに、俺にはその他に、1つ大きな課題があるしな。北の山岳地帯で極秘に取り組む、ある課題が。
俺は瞳を閉じた。拳を開いた。心を研ぎ澄ませた。風がざわめいた。
「やーっほー、ヤームチャーッ」
…風に乗って、聞き覚えのある声が耳に届いた。

俺は周囲を見回した(何しろ山岳地帯だから、声のする方向がまるでわからないのだ。木霊でな)。50m程離れたところにある、高さ100m程のほとんど崖然とした岩山の上に、手を振るあいつの姿が見えた。
ブルマだ。夏休みになったと聞いてはいたが、ついに来たんだな。
…そして、どうやらここもバレてしまったらしい。一体、安息の地とはないものか。
溜息をつきかける俺の視界の中で、ブルマが崖から後退した。きっと崖から下りてくるのだろうと思いきや、あいつは再び現れた。駆け足で。
あ?
俺が怪訝に思ったその時には、あいつはすでに崖から足を離していた。
なああああ!?
考える余裕などなかった。俺はほとんど反射的に地を蹴りつけた。つーかな、人の落下速度ってめちゃくちゃ早いんだぞ!ほとんど一瞬だぞ!間に合ったのが奇跡だぞ!!
そう、俺は間に合った。あいつが地に着くより早く、何とかその体を抱き込んだ。受け止めるなんて格好いいもんじゃない。そんなタイミングを計る余裕などなかった。
キョトンとするあいつの顔にその無傷さを見てとって、大きく安堵の息を吐き出した。そんな俺に、助けられた当人は言い放った。
「ああ〜ん、もう、何すんのよ。せっかく格好よく決めようと思ったのに」
はああああ!?
ひとのポーズにケチつけんな!!落ちてくる女を格好よく抱きとめるなんて、ドラマか漫画の中だけだ!!
思わず心の中でそう叫んだが、ブルマの意図するところは、そうではなかった。
「あんた、気づかないの?あたしの体…」
淡々とそう言われて、俺は少し冷静になった。言われてみれば、こいつ妙に…
「…軽い」
というか、重さがない。
俺はブルマの体を弄った。腰にまわした腕をきつく締めた。指先で腹を押してみた。…確かに中身はあるよな。
「ちょっと、あんまり触んないでよ」
だったら、さっさと説明しろ。
「すごいでしょ。『空飛ぶマシュマロ』よ!食べると5分間体が浮くのよ」
言いながら、ブルマは胸元から小さな袋を取り出した。小指の爪ほどもない大きさのマシュマロが数粒、そこに入っていた。俺は即切り返した。
「何言ってんだ。全然飛んでないぞ」
確かに軽くはなってるみたいだけど。実際、俺の腕の中にいるじゃないか。
「いっぱい食べればもっと浮くわよ」
「あ、いい。いい」
マシュマロを口に入れようとするブルマの腕を、俺は掴んだ。これ以上の面倒はごめんだ。
再び溜息が漏れた。
「相変わらずわけのわからないもの作ってるなあ」
「ちょっとした遊び心よ。せっかく驚かそうと思ったのに」
「…驚いた。驚いたよ」
俺は心底呟いた。まったく驚いたよ。おまえのバカさ加減に。どうせなら、もっと有意義なものを作れないものなのかな、こいつは。
3度溜息をつく俺に、ブルマは口を尖らせて言った。
「ところで、そろそろ放してよ」
ああ、はいはい。
ブルマの足を地につけて腕を緩めようとして、俺は気づいた。再び、ブルマの体を弄った。
「ちょっと、何してんのよ」
「おまえ、ちゃんと食べてるか?」
ふいに、プーアルの話を思い出した。
「何よ急に」
「痩せたんじゃないか?不摂生してるって聞いたぞ」
泊り込みとか、徹夜とか。無茶してるって言ってたよな。
「そんなことないわよ。体重だって変わってないし」
体重については今はわからないが(軽くなってるからな)。確かにこいつはもともと細身だけど。それにしても…
「なんか腰つきが…」
頼りなげになってるぞ。
「ちょっと!やらしい言い方しないでよ!」
ブルマは俺を振り解いた。俺も別に、それ以上どうこうするつもりはなかった。
やっぱりどこか体つきが変わったような気はするけど。元気ならばそれでいい。そしてそれは、こいつの顔つきと今の行動で、充分にわかった。
僅かな怒りを撒き散らしながらエアジェットへと戻りかけるあいつに、俺は言った。
「おまえ、俺がここにいること、誰にも言うなよ」
こいつは忘れているようだが、口止めしておく必要はある。
「何でよ?」
「みんなには内緒なんだ」
俺の言葉に、ブルマはにっこりと微笑んだ。


午後の修行を終え俺がカメハウスへ戻ると、住人全員が浮いていた。
足元に30cm程の空間を置いてふわふわと宙を漂いながら、得意そうにブルマは言った。
「大好評よ。みんな遊び心がわかるわよね。…あんたと違って」
不本意な言い草だよな。
俺だって、遊び心がわからないわけじゃない。ただ、時と場合を選んでほしいだけだ。みんなだって、目の前で崖から飛び降りられたら、考えも変わるだろうさ。
不貞腐れかける俺に向かって、クリリンが言った。
「なかなかおもしろいですよ、これ。ハンモックに乗ってるみたいで」
だったらハンモックに乗っていろ。その方が絶対安全だぞ。こいつのこの手の発明品には、必ず何か穴があるんだ。もしくは裏がな。
PPキャンディのことを、俺は知っていた。当然、出所はウーロンだ。
しかし、ここの住人たちはそれを知らない。俺も言うつもりなどない。…そんな下品な発明品を自分の彼女が作ったなどと、吹聴したがる男がどこにいるだろう。
それにしても、わからないのはウーロンだ。こいつは被験者なのに。もう忘れちまったのか?それとも、友人と彼氏の密接度の違いかな。…羨ましいな。
「これっていくつくらい食べれば空まで行けるんですか?」
「計算上は834個ね。50m上がると仮定して。ただ下りる時に墜落するかもしれないから、気をつけてよ。ま、あんたなら大丈夫か」
「そんなに食べられませんよ」
クリリンとブルマの会話を聞きながら、俺は安堵した。ここに悟空がいないことを。
まあ、あいつなら大丈夫だろうけどな。


「常夏って陽が長くていいわよね」
未だ陽の落ちきらない夜、山岳地帯へと向かう俺の隣に並びかけながら、ブルマが言った。
「ついてくるなよ。言っとくけど、おまえの楽しめそうなものなんかないぞ」
雪も桜も何にもないぞ。ここは常夏なんだからな。
「いいじゃない。ひさしぶりなんだし」
ひさしぶり?
そういやそうだったな。全然そんな感じしないけど。
相変わらずのブルマの騒々しさに、俺のそういう気分はすっかり消し飛んでいた。もとより少なかったこともある。
「熊が出るぞ」
最近見てないけどな。ここは脅しておくべきだと俺は判断した。
「平気よ。あんたも行くんでしょ」
俺『も』じゃない!俺『が』行くんだ!!
こいつ、自覚ってものがまるでないな。自分が闖入者であるという自覚がだよ。
まあ、そんなものがあったら、こいつじゃなくなるか。
「忙しいらしいな」
のんびりと歩を進めながら、俺は訊いた。いつもならトレーニングも兼ねてひとっ走りするところだが、こいつがいるのではそうもいかない。
「まあね。9割方スキップしたわ。あとはこの休み中に提出物を仕上げて、それでおしまい」
「飛ばしてんなあ」
能力があることは知ってたけど。その精勤ぶりは異常だな。
「スキップするとね、年の1/3を自由な研究に当てることができるのよ。それにいつまでも先輩面されたくないし」
「誰の話だ?」
「1コ上の先輩よ。同じ首席で同じ研究室。あたしが2年になりさえすれば、条件が同じになるのよ」
首席同士でつるんでるのか…ひょっとして本当に嫌なやつなんじゃないだろうか、こいつ。
「珍しいな、おまえが他人の話をするなんて」
そのこと自体に興味はないが、それを話すブルマの様子が俺には興味深かった。
「おもしろいのよねえ、彼女。前時代の古書なんかもいっぱい持ってるし」
「…女なのか?」
俺は驚きを隠せなかった。てっきり相手は男だと思っていたのだ。まさか女でこいつと気が合うやつがいるとはな。いやはや。
こいつには、これまで友人らしい友人がいなかった。俺たちの他には。理由はだいたいわかるだろ。こいつは性格と能力が、他の追随を許さなすぎるのだ。こいつと友人になれるのは、一方的に慕う人間か、能力のある人間か、畑違い或いは利害関係のない人間だけだ。俺や悟空、クリリンなんかは2番目と3番目の該当だな。ウーロンは3番目だろう。やつも一応友人であると仮定すればの話だが。
とにかく、そういう特異な人間は、ハイスクールにはあまり(というかまったく)いなかった。女友達に限定すれば、ハイスクールどころかどこにもいないんじゃないだろうかと俺は踏んでいた。
それがいたのだ。しかも『前時代好き』という共通点を持って。怖ろしすぎる現実だ。
「あまりやりすぎるなよ」
いろいろな意味でな。
おそらく表向きの意味はこいつには伝わるだろう。言外の意も伝わってくれると、なおいいんだけどな。…でもそうしたら、俺の身が危ないか。
まあ、その友人とやらが料理好きではないことを願おう。


背後に崖。三方に森林。
先ほどブルマと会ったその場所に、俺たちはやってきた。ここ2週間程、俺はこの地点を好んでいた。
理由は特にない。ただ、1ヶ月に1度程度の頻度で、なんとなく場所を変えるのだ。やっぱり飽きるから。俺はもう2年以上もここにいるんだからな。
「いいか、おまえはあそこにいろ。絶対動くなよ。それから飛び降りも禁止だ」
俺は例のブルマが飛び降りた崖を指差し言った。こいつをここに近づけたくない気はするが(禁じたって、守るようなやつじゃないからな)、やはりここが一番監視しやすい。
俺は崖の下で、ブルマは崖の上で、それぞれの時間を過ごした。俺は修行。あいつは何かを数えながら(星を数え…るようなやつじゃないよな。何やってんだ?)、小一時間。
いつしか陽は落ちていた。鈍く輝く月の光。ざわめく木々。夜風が肌に心地いい。
と、ふいに静寂が破られた。
「ヤムチャ!熊ー!!」
叫ぶブルマの背後に、1匹の巨大な黒色の生き物が見えた。ツキノワグマだ。
「そこどいて!!」
おまえ、またっ…
俺はタイミングを計った。地を蹴る必要はなかった。ブルマは今度はすっぽりと、俺の両腕に収まった。そしてまたもや言い放った。
「だから、何で受け止めるのよ!」
「そんなこと言ったってなあ!!」
目の前で落ちていくのに、受け止めないわけいかないだろ!!
マジで条件反射なんだ。どうしようもない。
言い争う俺たちの前に、先のツキノワグマが現れた。崖後背の斜面を下ってきたようだ。
「下がってろ」
ブルマを地に下ろし、俺が身振りで指し示すと、ブルマは素直にそれに従った。
ツキノワグマは側面から襲い掛かってきた。俺はブルマを背にするよう努めながら、やつの正面を捉えることに専念した。
強敵という程ではない。俺にとっては遊びの範疇だ。
それにしても、ブルマといる時に限って、獲物が寄ってくるんだよな。こいつ、変なもの惹きつける魔力か何か持ってるんじゃないか?
あ!俺は変なものじゃないからな。
そんなことを考えながら、俺はひさびさの獲物を楽しんだ。

俺は倒したツキノワグマを森の奥へ放り投げた。あまり見せたいものじゃないからな。
満足の呈で一息つきかける俺の隣へ、ブルマがやってきた。
「あー、びっくりした。まさか熊が出るとは思わなかったわ」
「出るってさっき言っただろ」
おまえ、一体何を聞いてたんだ。…そりゃ、俺も脅しのつもりだったけどさ。
「だって、本当だとは思わなかったんだもの」
おまえ、すごく失礼だぞ、それ。…まあ、当たってるけどな。
「やれやれ」
背後の崖を背凭れに、俺はどっかりと腰を下ろした。隣にブルマが、足を崩して座った。
「疲れた?」
「全然。いい運動だよ」
しばらく熊とはやってなかったしな。大物は急所がわかりやすくていいよなあ。体力もあるし。長く遊べるいいやつらだ。
俺が言うと、ブルマは小首を傾げて下から覗くように俺を見た。
「やっぱりね。あんたすっごく楽しそうだったもの。…きっと、あたしよりああいうのを相手にする方が好きなのね」
そして口元に浮かべた笑みを一瞬にして消し去ると、おもむろに目を伏せた。
…おい。
何だ何だ。何なんだ、その仕種は。
俺はブルマの顔を見た。
長い睫のかかった瞳。どことなく引き結んだ唇。月光の射さない暗がりで見るその横顔は、いつもよりくすんで見えた。
ブルマ、おまえ…
…ツキノワグマにヤキモチ妬いてどうする。
思わず溜息が出た。まったく、しょうがないなあ、おまえは。
「ブルマ」
俺はゆっくりとその名を呼んだ。
「ん?」
そして再び向けられたその顔を見て、言葉に詰まった。
ブルマは笑っていた。深い憂いを湛えた瞳で。その2つのコントラストが、俺をたまらなく切ない気持ちにさせた。
…おまえ、なんて顔しやがる。
いつ、俺がツキノワグマを好きだなんて言ったよ?バカだなあ、おまえは。…本当にバカだ。
俺はブルマに身を寄せた。そっと頬に触れた。それでも身動き一つしないあいつと唇を合わせた。
やがてあいつが応えた。甘いものが俺の中を満たし始めた。
俺の体を。俺の心を。ブルマに触れる唇を。そして…
「ん?」
…本当に、甘い。
気づいた時には遅かった。すでにそれは、本当に俺の体を満たし始めていた。ブルマがその瞳にいたずらっぽい光を湛えて、俺を見た。
「へっへー、引っかかった!」
もはや憂いはどこにもなかった。いや、おそらく初めからなかったに違いない。
「やっぱりね、1つくらいは食べてもらわないとね」
…バカは俺か。

それから5分間、俺は浮き足だった。
文字通りの意味で。




まったく、こいつがいると穏やかさが掻き乱されるな。でも、悪い気分じゃない。
…途中までそう思っていた俺が本当にバカだった。
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