引かれる女
『行列正則化とIIB行列模型』
『Wilson的繰り込み群による多様体の変形』
『Dielectric効果及びMyers効果によるD-branesの解析』
…見ただけで頭が痛くなってきた。
俺は、床に散らばる頭痛の種を掻き集めた。
「ちょっと、勝手に動かさないでよ。わかりやすいように置いてるんだから」
パソコンのキーを打ち込む手は休めず、ブルマが言った。俺は思わず片眉を上げた。
俺は格別きれい好きというわけではない。ましてや掃除魔でもない。ではなぜ、わざわざブルマの散らかした資料を片付けているのかというと、
「…あのな、ここは俺の部屋なんだ」
からだ。

現在ブルマは、読むことすらできないタイトルの論文を執筆中だ。物理のスキップに必要なものらしい。
「おまえさあ。ちゃんと部屋宛がわれてるんだから、そこでやれよ」
暫定的に滞在するカメハウスにおいて、ブルマには一室が与えられていた。こいつが女だということもあるけど、それでもやっぱり、C.Cと違って部屋数に限りのあるカメハウスの中では破格の待遇だ。…押しが強いって、いいよな。
わざとらしく(というか、わざとだ)不貞腐れてみせる俺の苦情にも、ブルマは飄々とした態度を崩さなかった。
「だってここ、いい風が入るんだもの」
そんなことですら、こいつにとっては理由となるのだ。まったく、どんなことだって正当化しちまうんだからな。
そして、俺もなんとなくそれを受け入れてしまっている。やっぱり、慣れだよな。それともう1つ。
…諦めだ。


まったくマイペースで事を進めるブルマを尻目に、俺は自主トレのため北の山岳地帯へと向かった。昨日とは違う場所だ。あの場所は…飽きた。そうさ、飽きたんだ。それ以外の理由なんてない。
今度は努めて見晴らしの悪い場所を選んだ。いろんな状況に対応できるようにならないとな。そうだろう?
未だ誰にも気づかれていないその場所で、俺は熊を3頭薙ぎ倒した。
ちなみにツキノワグマではなかった。別にどうでもいいことだけどな。


3時の休憩にとカメハウスへ戻った俺は、再び部屋の掃除を余儀なくされた。窓から戦ぐ夏の風が、無人の部屋を資料やメモで派手派手しく飾り立てていたからだ。
「終ったんなら片付けろよなあ…」
ぶつぶつと独り言を呟きながらそれらを拾い上げる俺の耳に、階下から俺を呼ぶウーロンの声が聞こえた。
「ヤムチャ、お茶だぞー」
返事をせぬままリビングへと下りていくと、クリリンが不思議そうな顔で俺を見た。
「あれ?ブルマさんは?」
「知らないけど?」
俺がそう答えると、ウーロンがすかさず視界の隅から口を出した。
「おまえらまたケンカ…」
「してないって」
俺は朝からずっと修行してたの!おまえらみんな知ってるだろ。
まったく、何でもかんでも俺のせいにしないでくれよな。
その時、ランチさんが玄関ドアから顔を覗かせた。黒光りする(手入れしたばかりらしい)ショットガンを片手でくるくる回しながら。
「あいつなら西の都に帰ったぜ。資料を取りに行くって言ってたな」
言い終えるとガンを構え、テーブルの上のパイを狙ってみせた。
二重の意味で首を竦めながらウーロンが呟いた。
「遅刻の上に忘れ物か。しょうがねえなあ、あいつ」
「おまけにサボリ魔だしな」
もう改心したみたいだけど。
笑って俺が応じると、それを無礼講の合図と受け取ったのか、クリリンも追随した。
「人使いは荒いですしね」
「我侭なんだよ、あいつは」
もともと結構言うやつだけど、本人がここにいないとあって、ウーロンの口はさらに滑らかになっていた。
それが皮切りだった。あっという間に、場はブルマの形容大会と化した。
「ひとの言うこと全然聞かないしな」
「お嬢様と言うより女王様だ、あいつは」
「自分勝手ですよね」
「そのくせトラブルメーカーで」
陰口?まあ、そうとも言うけどな。でも、みんな本気であいつを嫌っているわけではないし、言うことはまったく全て的を得ている。こんなこと本人に言ったって不快がるだけだし、大目に見ようじゃないか。…っていうか、悪い、俺も参加した(どれが俺の言葉かわかるか?)。
「何かっていうと、すぐ怒鳴るしな」
「口は悪いし、人は殴るし」
「傍若無人ですよね」
永遠に続くかと思われた言葉の暴力は、だがそうではなかった。やがてそれはやってきた。
「おまえ、あいつのどこがいいんだ?」
ウーロンがそう言うと、みんなは一斉に黙り込んだ。興味と、どこか珍獣を見るような視線が俺に浴びせられた。
「どこって言われても…」
俺は完全に言葉に詰まった。
「何かいいとこあるのか?おまえだけに見せるいいとことかよ」
「そ、それは…」
「だいたいおまえら、どういう付き合いしてるんだ?」
「あいつ、手に負えてんのか?」
俺は酬いを受けた。『お調子者』と言うブルマの声が、脳裏に響き渡った。

まったく、この日は話題に事欠かなかった。
夕食の時間になってもブルマが戻って来ていないことがわかって、みんなは今度は思い出話を始めた。あいつに関する思い出話だ。
今度は俺は口を噤んだ。さっきのこともあるし、この話題は俺を直接痛めつけることがわかっていたからだ。
まったくあいつはエピソードに事欠かないやつだ。後から後から出てくるあいつの失態話に、俺は身を縮こまらせた。
ウーロンが舐めさせられた飴の話(これはとうに知ってたけど。ついにバレたかって感じだ)。
ウミガメがあいつに遭遇した時の話。
海中洞窟で悟空を見捨てかけたという話(おいおい)。
これもやっぱり海中洞窟で見つけたダイヤの話…(いつかのクリリンの言葉の謎がこれで解けた)
これだけでも充分すぎるのに、さらに隠れたエピソードが多々あるらしいことに、俺は気づいた。
…なんか、時々妙に話が途切れるんだよな。
クリリンもレッドリボンの話を不自然に端折るし(俺、この時の話詳しく聞きたいんだけどなあ。おもしろそうだし)、武天老師様は初めて会った時のことを話したがらないし、…俺にもあいつに関して口外できないこと結構あるし(荒野で奇襲かけた時のこととか…)。あいつ一体今までどんな生き方してきたんだ。
害を受けていないのは、ランチさんぐらいだ。彼女はどちらかというと及ぼす方だからな(乱暴な方のランチさんな)。
これに悟空の話が加われば、一体どんな怖ろしいことになるのやら。悟空はあいつと最も付き合い古いし、なにしろ天真爛漫だから、きっと俺たち以上にやらかしやらかされているに違いない。
俺に語り手の順番が回ってくる前に、あいつには帰ってきてもらいたい。でも、やっぱり今は帰ってきてほしくない(恥ずかしすぎる)。
俺は相反する2つの気持ちに悩まされた。

俺は修行に逃げた。…本当に、俺修行しててよかった。
今日はもう、あいつのことを考えるなって言う方が無理な状態だ。いつもとは違った意味で。
あいつには今までさんざん手こずらされてきたけど、こんな風に困らせられることがあるとは思わなかった。…あいつ、本当にどういう人間なんだ。
脳裏にみんなの言葉を纏めてみた。
自分勝手で我侭で女王様気質で聞く耳持たなくて口が悪くて乱暴で傍若無人で人使いが荒くてトラブルメーカーで。下品で恥知らずで日和見で…
…まだまだあるような気がするな。
俺は自身の言葉も付け加えてみることにした。
行儀悪くて口達者でうるさくて変な研究ばっかりしてて。
意地っ張りで強情で素直じゃなくて扱いにくくて俺のこと甞めてるし。
はすっぱでおてんばで無頓着で気が強くて強引で…

月が西の雲間に隠れて、俺の一日は終了した。鬱蒼と茂る森から一歩外に出て、俺は遠目に、大自然の中には不釣合いな見慣れたものの姿を認めた。
エアジェットだ。あの崖の上に一機のエアジェットが留まっている。
どうやら俺はいっぱい食わせたらしい。はは、ざまあみろ。
崖の上からちらりと覗く両足に目を留めて、俺がその下へと歩んだ時、1冊の小冊子が落ちていることに気がついた。例の頭痛の種だ。それを拾い上げ、ブルマのところへ上り着いて、目に入った惨状に俺は呆れ果てた。
ブルマはすっかり寝入っていた。散乱する冊子。書き散らかされたメモ(置石されていた)。電源の切れたパソコン。…そしてあの食べ物。
おまえ、家の中でも外でも同じかよ…本当にだらしないな。
すかさず先の言葉に付け加えた。『だらしない』、と。
冊子は掻き集めた。メモはそのままにしておいた(勝手に動かしたらまた怒られそうだ。順番とかあるかもしれないし)。パソコンの埃を払った。食べ物はエアジェットの隅に投げ捨てた。そしてブルマの体を揺すぶった。
というかさ、俺が通りかからなかったらどうしてたんだ、こいつ。ここでエピソードを作り終える気だったのか?
そりゃあここは常夏だから凍え死にはしないけど、熊だって出るのに…昨日襲われたばかりなのに。
さらに俺は付け加えた。『懲りないやつ』。
「うう〜ん…」
ブルマが身動ぎした。俺がさらに揺さぶると、ブルマは目を開けるより早く俺の服の裾を引っ掴み、それを胸元へと引っ張った。
…布団と間違えてやがる。
「起・き・ろ」
「…あ。ヤムチャ、おはよ」
耳元に吹き込んだ俺の声に、ブルマは起き上がった。掴んだ裾は離さずに。例の台詞は出てこない。どうやら機嫌はいいらしい。
「何よ。まだ夜じゃない」
…違った。まだ起きてないだけだった。
俺がその頬を軽く叩くとブルマは目を瞬かせ、1つ大きな伸びをした。欠伸もした。両腕をぶんぶん振り回し始めた。かなり強引に自らを起こそうとしているのが、明らかだった。
「おまえ、ほんっと寝起き悪いなあ」
「あんまりそういうこと外で言わないでよね」
「何で?」
ブルマはそれには答えず、散らばったメモを乱雑に掻き集めると、傍らにあったパソコンを膝の上に置いた。キーに乗せた指が止まった。
「げ、電源落ちてる」
「バッテリー切れたんだろ」
「ちぇっ」
苦々しげに舌打ちすると、ブルマはパソコンを乱暴にしまい込み、同時にメモを握り潰した。俺は軽く目を瞠った。
「必要なものじゃなかったのか?」
「さっきまではね」
さっきまで?でも今入力しようとしたじゃないか。入力しないならなおさら取っておくべきだろうに。おかしなことするなあ。まったく『支離滅裂』だよな。
待てども待てどもこいつの形容にプラスのものが加わってこないので、俺は気持ちを切り替えることにした。
崖の先に足を投げ出し気だるそうに息を吐くブルマの隣に、腰を下ろした。
「おまえ、いつからここにいたんだ?」
「9時くらいかな。月がきれいだったから」
月がきれい?
俺は再び目を瞠った。
だって、こいつがそんなことを言うなんて。てっきり今日も、俺の修行の邪魔をしに来ていたものだと思っていたのに。
その時、つかの間隠れていた月が、流れる雲の後ろから姿を現した。千条の光が万物を輝かせた。
菫色の髪を縁取る光線。逆光の中で輝く蒼い瞳。微かに笑みを浮かべた唇…
俺は顔を逸らした。

…またか。
おまえ、いい加減しつこいぞ。1度やれば充分だろうが。そんなに俺をオモチャにしたいのか。
まったく、ウーロンの言う通りだ。女王様気質だよ、おまえは。平気でひとのこといたぶりやがって。
それにしても、あれはエアジェットの中に放り込んだはずなんだけどな。まだどこかに隠し持ってるのかな。

いつもの俺だったら流されたに違いないこの雰囲気を、俺は切り捨てた。そうさ、2度も同じ手に嵌ってたまるものか。
俺が様子を見ていると、ブルマはぐるりと周囲を見回して、おもむろに立ち上がって言った。
「もう帰ろっか」
思わずブルマの顔を見返した。あいつはまったく邪気のない瞳で俺を見た。
「何?」
俺はその時、自分が酷く重大なミスを犯したことを悟った。

そうなんだ。
こいつ、口は悪いし態度は悪いし、しつこく食い下がるところもあるし、嫌味だって言うけど、でも本当に人の嫌がることはやらないんだ。
だから、誰も本当におまえのことを嫌いにはならないんだ。
だから、俺も本当におまえのことを…

俺はブルマに、俺の隣、あいつが今まで座っていた場所を指し示した。
「ブルマおまえ、もう1度ここに座れ」
「は?」
ブルマはまったく要領を得ない様子で佇んでいた。俺はその瞳を正面から見据えて言った。
「やりなおしだ」


「ちょ…ちょっと、ヤムチャ」
いつまでも呆然と立ち尽くすブルマに業を煮やし、俺はその腕をとった。そしてもう一度、月の光の中にこいつを置いた。
片腕を掴んだまま、頬に手を伸ばそうとした俺を、ブルマは怪訝そうな瞳で見つめた。
「何よ。一体どうしたのよ」
こいつは。自分からする時はあんなに大胆なくせに、どうしてこういう時だけ初心なんだ。
「嫌なのか?」
「…何言ってんのあんた」

俺はブルマに何も言わなかった。何も言うつもりはなかった。
そんなこと絶対に言うものか。


俺も案外意地っ張りだな。
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