くすぐったい女
痒みは人を変える。マジでだ。


…痒い。
俺は足を交錯させた。左足を上にして。
「あんたも本当、タイミングの悪い男よね」
足の位置をうんと高めた。こうすれば、上半身の方により体重が乗るのだ。本来のそれとは違う目的で、今の俺にはそれが必要だった。
「せっかく大団円なのに。せっかくハッピーエンドなのに。せっかく夏なのに」
細心の注意を払いつつ腕立て伏せを続ける俺にとって、ブルマの言葉は耳に痛かった。
「もう言うなって…」
そんなこと、俺が一番よくわかってるんだからさ。

最近俺はちょくちょくと、ブルマの部屋に出入りしていた。
夜、食事を終えた後。風呂に入るまでの長い長い長い時間。
本当に、今の俺にとって時間は長かった。今の、修行を禁じられた俺にとっては。
まあ、禁じられたとはいっても、まったく何もやっていないわけじゃない。せめて筋力トレーニングくらいはやらないと。いくら足を痛めているとはいえ、3ヶ月(そう診断された)も無為に過ごすなど耐えられない。だいたい、そんなことをしていたら、体があっという間に鈍ってしまう。俺の3年間を返せ!…なんて台詞は使いたくないからな。
しかし筋力トレーニングで潰せる時間など、たかが知れているわけで。要するに、俺はヒマ潰しのためにブルマの部屋を訪れていた。
…全然、潰せてないけどな。
だって、あいつはずっと研究してるし。俺に構ってなんかくれやしねえ。
一人淡々とわけのわからないもの燃やし続けやがって。一体何が楽しいんだ、あんなこと。
ひたすらに同じ動作を繰り返す(こんな行為にも何かの意味があるなんて、科学って本当に理解しがたいよな)ブルマを見ながら、俺は思っていた。
…羨ましいな、忙しそうで。
正直に言おう。俺はブルマといちゃいちゃしたくてここに来ているわけではない。
恋人としてのブルマにではなく、科学者としてのあいつに、ちょっぴり期待していたのだ。
すぐに完治させてくれとは言わないからさ(そんなの無理に決まってる。俺にだってわかるさ)。少しこう…なんかさ。何かいいもの作ってくれないかなって。あ、何とは訊かないでくれよな。まったく思い浮かばないんだからさ。そういう知識は俺にはない。
思考が途切れた。それに気づいた時には遅かった。あの感覚がまた俺を襲い始めた。

「あんた、何やってんのよ」
完全に本能に支配された手の動きをブルマに見咎められて、俺は苦々しげに呟いた。
「痒いんだよ」
そう。痒いんだよ。
足のギプスが。っていうか、足が。
マジで、すっごーーーーーーーーーーく痒いんだ。またそれがヒマを感じた途端にな、一層激しくなるんだよ。
俺は再び掻き始めた。決して肌には届かない、その部分を。
「ギプスの上から掻いたってどうにもならないわよ」
そんなことわかってるよ。だけどな…
「だって、本当に痒いんだぞ」
本当に、本当にな。本当に、本当に痒いんだ。
ブルマがまたあれを燃やし始めた。俺は溜息を呑み込みながら、それを見た。


「おまえ、飽きもせずよくやるなあ」
ウーロンが呆れたように呟いた。俺は心中、それに答えた。
飽きてきてるさ、当然だ。
C.Cの外庭。日中は主にそこで、俺は筋力トレーニングをしていた。
俺は家の中より外が好きだ。育ちのせいもあるかもな。それに、外にいると五感が刺激されてとてもいい。…忘れられてな。
ふと、頭の後ろに組んでいた腕を解いた。俺は突発的に気を溜めた。
「わっ!」
前触れなく吹っ飛ばした俺の気の塊に、ウーロンが叫び声を上げた。
「いきなり何すんだよ、おまえ!びっくりするじゃねえか」
「時々やりたくなるんだよ」
「おまえ、本当に…」
『あんたって本当に修行バカなんだから』
脳裏にブルマの声が響いた。俺は口に出してそれに答えた。
「バカでもいい。俺は修行がしたいんだ」
そうさ、修行がしたいんだ。武道に身を窶したいんだ。
訝しげなウーロンの視線に気づいて、俺は我に返った。思わず頭を掻いた。…俺もだいぶん精神的にきているな。
おもむろに空を見上げた。
…あー、痒い。

夜、ブルマの部屋へ行った。あいつはまさに、白衣を身につけたところだった。
研究が熱を帯びる前に、あいつが無我夢中になる前に、頼んでみるつもりだった。あいつの手を止めるつもりで、俺はデスクの横にあるスツールに座り込んだ。
「…なあ、痒みを抑える薬とかないのか?」
そっちかよ!というツッコミは止めてくれな。
マジで痒いんだぞ。加えて、この手の届かないもどかしさが堪らない。非常に嫌な感覚だ。修行ができないならせめて、これをどうにかしてもらえないものか。
ブルマはいともあっさりと、俺の言葉を切り捨てた。
「あるけど、病院で出されてるのと大して変わらないわよ。それに、あたし医学は専門じゃないし」
「…役立たず」
「何ですって!!」
俺は慌てて口を押さえた。
つい、ぽろっと言ってしまった。全然そんなつもりなかったのに。…まったく、痒みは人を変える。
「じょ、冗談だよ。冗談」
「冗談でも言っていいことと悪いことがあるわよ!」
ブルマが右手を振り上げた。俺は思わずそれを掴んだ。手加減せずに。
…あ、ヤバイ。
ブルマの瞳が燃え立ったのがわかった。
「離しなさいよ!!…あんた、卑怯よ!!」
卑怯かどうかは知らないが、初めてであることは確かだ。俺はこれまでいつだって、こいつに殴られてきた。殴らせてきた。その方がいいと、なんとなく踏んでいたからだ。…まあ、実際に防げなかったということもあるけど。だってこいつ、前触れも何もなくいきなりくるからさあ。
でも今日は前触れがあった。だから掴めてしまったわけだ。
もはや手遅れと知りつつも、俺は手を離した。そして、反射的に飛び退った。そんな俺をブルマが睨みつけた。
「出てってよ」
向けた背中に溢れる怒りが、ここは引くべきと俺に語っていた。
「ヤムチャのバーカ!!」
いつもの台詞が、閉じたドアの向こうから聞こえた。

自分の部屋に戻った俺は、沈思黙考した――
ヤッバイなあ。かなり怒ってたな、あれは。
飛び退ったのもマズかったかな。あそこで殴られておくべきだったのかも。そうすれば、少なくとも明日に持ち越すことはなかったような…たぶんだけど。
まあ、しょうがないな、もう終わったことだ。…明日、謝ろうっと。
それよりも、だ。
今はこの痒みだ。一刻も早く、この痒みを何とかせねばならん。もとはといえば、今のケンカもこの痒みが原因なんだからな。
――そして、結論を出した。


翌朝。俺は早々にC.Cの外庭へ出た。修行再開だ。今までも少しはやってたけど、本格的にだ。
何かやっていた方が痒みが紛れることが、明白だからだ。だから、修行だ。
もちろん治療はまだ必要なので、どこかへ行くことはしない。本当はそうしたいところだけど、医者と、特にブルマが許してくれないだろうからな。
俺は気合を入れた。
ひさびさの修行だ。腕が鳴るぜ。
修行といったら、まずかめはめ波だよな。やっぱり、何はともあれ、あれをやらないと。すでに武道会で使ったし。実質的に免許皆伝だ。
大地に足を踏みしめた。…ひさしぶりのこの感覚。
拳に集まる気。…隠す必要ないって、いいなあ。
高まる興奮――
その時、C.Cの方角からこちらに向かって駆けてくる一人の姿が見えた。
「ちょっとあんた!何やってんのよ!」
「あ、おはようブルマ」
ブルマだ。とりあえず俺は、自分の欲求を開放するのは後回しにすることにした。
「昨夜はごめん。俺…」
「そんなことどうでもいいわよ!あんた何やってんの!!」
謝ったのに流されちまった。これは吉とみていいのか?
「何って、修行だよ」
「ダメに決まってるでしょ、そんなこと!」
「別に平気だって」
俺が言うとブルマは腰に手を当て、居丈高に言い放った。
「あんたに、ジュニアスクールの子でも知ってる言葉を教えてあげるわ。『急がば回れ』!そんな修行はやめなさい」
「まだ何もやってないのに…」
「だったらなおさらよ!」
ブルマはまったく聞く耳を持たなかった。俺はブルマに片手を引っ張られ、自分の部屋へと連れ戻された。
そりゃあ、そんなの本気を出さずとも簡単に振り解けるけど。このタイミングでそれをするほど、俺だってバカじゃない。
「今日は一日家の中にいなさい!いいわね!」
そう一言命令して、ブルマは学院へと出かけていった。
…やれやれ。

夜になった。だが、今夜の俺にはブルマの部屋へ行く気はなかった。
もうケンカはしたくない。せっかく許して(?)くれたんだから。
それに、俺はわかったんだ。やっぱり、この痒みなんだ。この痒みが思考を鈍らせ、延いては俺から注意力を奪うんだ。
さらに、もう1つ。今日の俺は、ものすごくイライラしていた。
一日中家の中にいたからだ。いつもの筋力トレーニングさえも、家の中でしていた。外庭にも出ることができなかった。何度もそうしようとはしたが、ことごとくプーアルとウーロンに邪魔された。ブルマの命令は絶対なのだ(特にウーロン)。
もともと俺は家の中があまり好きじゃない上に、この監視ぶりだ。腐るなという方が無理だ。
だから俺は外に出た。みんなが部屋に引き取った頃を見計らって。プーアルとウーロンはもう寝ただろうし、ブルマは…あいつは研究だ。どうせ俺になど構いやしない。
空は晴れ渡っていた。だが星は見えなかった。都特有のガスとネオンのせいだ。俺は外庭の真ん中にすっくと立ち、掌を空に向けた。…何をするのかって?
俺の手で空に星を作ってやるのさ。

今まさにそれを放たんとしたその瞬間。
「あんた、ダメって言ったでしょ!」
ブルマの声が背中に届いた。
またかよ…
俺は思わず溜息をついた。
「いいじゃないか少しくらい」
せめて、1発くらいやらせてくれよ。
「いいわけないでしょ!あんたは怪我人!怪我人は怪我人らしくしてなさい!」
こんな元気な怪我人がいるか!
俺はブルマを睨みつけた。
俺だってな、絶対安静とかなら我慢するさ。でも、俺は元気だ。修行だってしたいんだよ。
それに痒いんだよ!何かしていたいんだよ!
「何よ、その目は」
ブルマが俺を睨み返した。俺はそれに嘆きで返した。
「…なあ、もう放っといてくれないか」
「放っておけるわけないでしょ!」
何でだよ!
「…俺の体だ。どうしようと俺の勝手だ」
そうだよ。俺の勝手だ。
修行しようと。痒みを紛らわせようと。何をしようと、勝手のはずだ。
それなのに、どうしておまえはそううるさく口を出すんだ。
「最低ね!」
ブルマが俺を引っ叩いた。今度は俺は避けなかった。いや、避けきれなかった。まさか、ここでこうくるとは。
「バカ!!」
そう叫ぶと、ブルマは一目散に駆け出した。俺はそれを、呆気に取られた目で見ていた。
…わけがわからない。どうしてそうなるんだ。
本当に、あいつはめちゃくちゃだ。


一晩をベッドで過ごして(結局修行はしなかった。そんな気分になれなかった)、俺は考えていた。
やっぱり、わけわからん。
どうしてあそこで殴るんだ?俺、そんなひどいこと言ったか?当たり前のことを言っただけだよな。
でも、もう一人の俺は気づいてもいた。
…俺も言い過ぎた。
というより、昨夜の俺はおかしかった。何であんなこと言ったんだ?あいつが俺のことを心配してることなんて、わかりきったことなのに。
やっぱり、痒みだよな。この痒みが悪いんだよ。
痒みが思考をおかしくしてるってわかってたはずなのに。無意識のうちに負けちまった。
俺は体を仰向けた。その言葉は自然と出てきた。
「謝ろうっと」

夜、ブルマの部屋へと行った俺は、そのドアにかかるプレートに躊躇した。
『Don't disturb』――邪魔すんな!
だいぶ怒ってるなあ。いつもはここまではやらないもんな。いつもはどっちかって言うと、俺が謝ってくるのを待ってる感じ…
…まいったなあ。
俺は頭を抱えた。




翌朝。またもや俺は痒かった。
でも、負けなかった。だって、やっぱり謝らないと。
悪いのは俺だもんな。正確にはこの痒みなんだけど。
再びブルマの部屋に行った。相変わらずあのプレートはかかっていた。でも、俺はドアを開けた。
だって、謝らないと。それに朝はあいつも起きてくるはずだし。きっとプレートは外し忘れたんだろうし…寝る前にわざわざ外すやつなんていないだろ。だから大丈夫だ。…たぶん。
様々な要因に後押しされて、俺は部屋の中を覗き込んだ。その時だった。
「あ!ヤムチャ!」
ブルマが俺を見た。というより、凝視した。
そして、俺にまったく何をする隙も与えず、大声で叫びたてた。
「お願い!そこの資料、アタッシェケースに入れて!」
はい?
資料?アタッシェケース?
一瞬ブルマの指差す方に目をやって、訊ね返そうと再び視線を動かした俺の目に、そのブルマの姿が入った。
身に着けていたワンピースを床に投げ捨てて、さらに下着も脱ごうとしている。おっ、おまえ!!
俺は慌てて目を逸らした。背中越しにブルマの声が届いた。
「こっち見ないでよ!」
そういうことは先に言え!!
「あたしこれから学会なの!わかったら、さっさと入れて!」
入れる?…ああ、資料か。
かろうじて一箇所に集められていると言える(これでもこいつにしては上出来だ。いつもの乱雑さだったら、まったくわけがわからないところだった)床の上のその資料を俺がケースに詰めると、ブルマはそれを即行で引っ手繰った。そしてタイをポケットに捻じ込んだ(皺になるぞ)。
取り残されたような思いに俺が囚われていると、ブルマが顎をしゃくった。次にそう言われるまで、俺はその行為の意味がまったくわからなかった。
「あれあげる!わかんなかったら父さんにでも訊いて!」
意味を汲み取ろうとしている俺をよそに、ブルマが床の隅からカプセルを1つ拾い上げた。転がっていたツールが蹴飛ばされた。
「絶対使えるから!じゃあね!!」
最後の言葉はほとんど廊下の向こうから聞こえた。
俺の意識は完全に取り残された。


…一体何だったんだ。
あいつ、怒ってないのかな。…いや、そうじゃないな。
あれは棚上げしただけだ。学会って言ってたな。…どうせ俺はそういう位置づけなんだよな。
俺は部屋の中を見回した。まったく、ひどい状態だ。
床の上にはツールやパーツが所狭しと散らばり、参考資料と思しき冊子の山は崩れ、スツールは将棋倒し、脱ぎ捨てた服はそのまま。…せめて下着くらい隠していってくれ。
俺は部屋の掃除を始めた。…習性で。
パーツ(片付けてやりたいのだが、知識のない俺には分類できない)と下着(見ないふりしてデスクの下に隠した)以外のものを所定の位置に収め、部屋を出て行きかけて、俺は思い出した。
最後に言ってたよな、何かやるとか。
あんなに怒っててどうしてそういう展開になるのか、わからないけど。だいたい、それどころじゃないように見えたけどな。
ブルマの顎の示していた方向を何とか思い出して、俺はそれを手に取った。それは…
…俺にはさっぱりわけのわからないものだった。
俺は溜息をつきながら、ブリーフ博士を探した。

どうやらブルマは、かなりすごいものを作ったらしい。
らしいというのは、博士の説明を聞いても、さっぱりわけがわからなかったからだ。本当に、いつにも増してわからなかった。そして、それがすごいということの証なのだ。俺たち一般人にとっては。
だって、『ベリリウムを基布化した』とかさ。わかんないだろ、はっきり言って(ベリリウムは俺も知ってるけどな。というか知るはめになった)。俺にわかったのは、それがギプスであるということだけだ。
そう、あいつはギプスを作ったのだ。それも博士の目から見てもすごいギプスを。
…一体、どうなってるんだろうな、あいつの頭の中は。
あいつの態度の悪さが時に違う意味をはらんでいるってことは、わかってきたんだけどさ。それを踏まえても読めなさすぎる展開だよな。
あんなに怒ってたのに。あんなに焦ってたのに。なあ。
…あいつ、おもしろいな。

学会からブルマが帰ってきた。ひどくくたびれた様子で。
ポーチの前でトレーニングしていた俺は、エアジェットから降り立つあいつのその瞳にかかる靄を遠目に見て、瞬時に悟った。
…こいつ、寝てないな。
徹夜明けのブルマ。これほど怖ろしいものは、この世にない。
…いや、1つあったか。それは起きがけのブルマだ。
だが、俺は声をかけた。今の俺にとって、こいつは怖くなかった。このひどく快適なギプスを着けた、今の俺には。
「よう」
「ハイ」
あいつは普通に答えた。
少しだけ意外だった。あんなに怒ってて、しかも徹夜明け。いつものこいつなら、絶対憂さ晴らしするはずだ。…そう、憂さ晴らし、をな。
俺はブルマについてC.Cの中へと入った。少し足元が危なげだったし。まあ、そうじゃなくてもそうするつもりだったけど。
ブルマは黙って自分の部屋へと向かった。俺がデスク横のスツールを軽く引くと、何も言わずに座り込んだ。そして長い長い溜息をついた。
「はあーーーーー…」
相当疲れているな。
俺は笑った。きっと、笑っちゃいけないところなんだろうけどな。笑うなという方が無理だ。
あんなに怒ってたのに。修行はダメだと言ってたのに。間が悪いだ何だとバカにしてたのに。翌日学会だというのに(学会自体はこいつにとっては屁でもない。ただ早起きするのが苦手なのだ)。
それなのに徹夜したんだな。しかも絶妙のタイミングの悪さで。
まったく、ひとのこと言えないよな。本当にこいつは矛盾の塊…いや、違うな。
ブルマが俺を睨みつけた。俺は笑いを引っ込めなかった(正確に言うと、引っ込められなかった)。無駄だ。今のおまえは怖くない。
「…で、どう?調子は」
おもむろにブルマが口を開いた。ほとんど息も絶え絶えに。俺はその科学者魂に応えてやった。
「ああ。なかなか快適だよ。軽いし、衝撃も伝わらないし、違和感も全然ないし。ただなあ…」
正確を期して。
「やっぱり痒いんだよ」
ブルマが息を呑んだのがわかった。怒りの前兆だ。
でも無駄だ。今のおまえは怖くない。
呆れと怒りの綯い混ざった口調で、ブルマは言った。
「もういい加減、痒みのことは忘れなさいよ」
そうは言うけどな。本当に痒いんだよ。
本当に、本当に、痒いんだ。
「おまえは痒くなったことがないから、そんなことが言えるんだ」
「知らないわよ、そんなこと」
「消費者のニーズを知ることが開発の第一歩。おまえ、いつもそう言ってるよな」
俺は論陣を張った。本来、領分じゃないけどな。多少はこいつに慣らされた。それに、本当に痒いんだ。
ブルマが背を向けた。でも、俺は謝らなかった。だって、本当に痒いんだ。
「だから、今からそれをわからせてやる」
足も。…おまえも。

俺はブルマの背後を取った。手加減せずに。
卑怯だよな。ああ、まったく卑怯だよ。
でもいいんだ。こんな遊びに卑怯も何もない。

「あっははははははは!!」
ブルマが笑い出した。いや、俺が笑わせた。
床に組み敷いたあいつの両手を掴み上げながら、俺は人間の最も弱い部分を攻め立てた。…あ、変な意味じゃないぞ。
それはまったく楽しかった。ひとをくすぐらせるのって、本当に楽しいよな。どうしてこんなことがこんなに楽しいんだろう。きっと本能だな。
そもそも、こいつがこういう風に笑っているということ自体が楽しすぎる。こいつは笑う時は結構豪快に笑うけどさ、大概、小バカにしてる時だもんな。そして、されているのはいつも俺だ。
「…ちょっと!やめてよ!!」
冗談じゃない。こんな楽しいことやめてたまるか。
それに、やめた途端怒り出すくせに。…もう少しだけ楽しませろ。
「痒いのとくすぐったいのは別でしょ!!」
いーや、似たようなもんだ。…今の俺にとってはな。
「あっはははは!!」
さんざんブルマを笑わせた後で、俺は手を緩めた。
あー、満足した。すっきりした。
この手はきっと一度しか使えないからな。存分にやらせてもらった。
「本当にバカなんだから!」
笑いを抑えられない俺に、今やすっかり笑いを引っ込めたブルマが、呆れたように叫んだ。
そう、呆れたように。怒りも混じっていたけれど、ほとんど呆れだ。…本当に疲れているんだな。
俺はブルマの口に指を当てた。いつもいつもこうるさいことを言う口を。
そして塞いだ。
いつもいつも思っていることと正反対のことを言う口を。




…そろそろ息をしないとマズイかな。

俺は唇を外した。息をするために。人間って不便にできてるよな。
ほとんど同時に新鮮な空気を取り入れて、先にブルマが呟いた。
「…あんた、怪我人のくせして何してんのよ」
「怪我人だってこういうことはできるんだよ」
っていうか、今までだってしてただろうが。まったく素直じゃないんだからな。でも今日は、それは言わないでおいてやるよ。
「サンキュー」
完全にすべてを消化して、俺はその言葉を呟いた。ブルマが軽く目を瞠った。
「痒いんじゃなかったの?」
…そうだった。まだその問題が残っていたっけな。
「ああ、痒いよ。だから、誤魔化してるんだよ」
そうだよな。
こいつは痒みは解消してくれなかったんだからな。本人に責任を取らせる。理に適っているじゃないか。




俺はブルマの部屋へ行くのをやめた。
あいつの作ったギプスのおかげで、以前よりは突っ込んだ修行ができるようになって(まだ完全に本格的なものではない。骨折していることは依然事実だからな)、ヒマじゃなくなったからだ。
…というのは、対外的な理由だ。
なんかな、やっぱり違和感あるんだよな。
俺があいつの部屋に行く、ということに。なんか、らしくないっていうか。どっちかというと来てもらった方がしっくりくるんだよな。
撤退するタイミングを見計らうのも難しいし。機嫌の悪い時に踏み込んだりしたら、目も当てられない。
だから、やめた。そうしたら、あっちの方から来るようになった。
以心伝心かな。…あいつにそんな機微あるとも思えないけど。でもそれは、あいつに言わせれば俺は鈍いらしいから、お互い様かもな。

とりあえず、俺は快適になった。
そういうことだ。
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