左の女
午前中、武道会を観戦する前に、ブルマは病室へとやってくる。俺はそれを、肉眼によらず知ることができる。
なぜなら…

どすどすと荒々しい足音が、ドアの向こうから近づいてくる。
「あんた、また勝手に出歩いたわね!」
ほとんどドアが開くと同時に、ブルマの叫び声が俺に届いた。
「だって暇なんだよ」
開口一番、俺は答えた。表向き、本当のことを。
言えるわけないだろ。おまえのせいで病室にいたたまれないなんて。そんなこと言ったら、俺が殺される。
苦心の末に無難(だよな?)な言葉を返した俺を、ブルマが睨みつけた。
「どうしてそうバカなの!」
何でそうなるんだ。
暇だとバカなのか?どういう理屈なんだ。
「おまえ、意味がわからないぞ」
本当に天才なのか?
「あんたがバカだからよ!」
俺は言葉に詰まった。…それを言っちゃあ、お終いだろ。
まったく、ひどいやつだよな、こいつは。口が悪いことこの上ない。おまけに最後はいつもバカ呼ばわりだ。
照れてる?まさか。
こいつにそんな機微はない。俺も昨日の雰囲気など引き摺らない。俺たちはそういう仲だ。そしてそれだからこそ、きっと俺はこいつと付き合っていけるのだ。
まあ、時々はな。もう少し女らしくなってほしいとも思うけど。でもやっぱり楽だよな、こういうの。たぶん、男ならわかるはずだ。それとも俺だけかな。…確かに、仲間内には全然理解されていないようだけど。
「おまえら、飽きもせずよくやるなあ…」
言い争う俺たちに、一緒に来ていたウーロンが呆れたような声を出した。
だから、これはケンカじゃないんだって。見てわからないかな。
…わからないか。こいつ本当に怖いからな。ケンカじゃないってわかってる俺だって怖いくらいだしな。
「うるさいわよ!ウーロン!!」
ブルマの矛先が変わった。
ウーロンもなあ。いつもいつも同じツッコミをよく入れるよ。それがどういう結果を引き起こすか、いい加減わかりそうなものなのに。俺に言わせれば、それこそ『飽きもせずよくやる』よ。
最も、そのおかげで俺は助かってるんだけどな。…だから、忠告しないんだ。

「おい、なんだよこれ」
一頻りいたぶられた後で、ウーロンがまたツッコミを入れた。俺のギプスに書かれた文字だ。
それには書いた当人が答えた。
「事実を書いたまでよ」
「おまえらまたケンカしたのか…」
だから違うと何度も…いや、違わないか。途中まではケンカだったしな。
まったく、ブルマのやつもなあ。くだらないことでよく怒るよ。寝言なんていちいち真に受けるなよ。…かわいかったけど。
「余計なお世話よ!」
再びブルマのウーロンいびりが始まった。…今度はちょっと照れてるな。
それにしてもウーロンもよくやるよ。
相変わらずの集団は、相変わらずの様子を見せて、病室を去っていった。やつらにはやつらの、一日がある。
…武道会だ。

「準決勝か…」
俺がこんなところで暇を持て余している間にも、武道会は着々と進んでいく。そして、終わる。
「俺、何やってるんだろうなあ…」
思わず声に出してしまってから、俺は気持ちを改めた。
こういう負の感情は傷の治癒にもよくないと、ブルマが言っていた。らしくないとも。
言ってくれるよな。俺だってちょっとは考えるんだぞ、そういうこと。本当にバカ扱いしてくれるよ、あいつは。
俺はいつもとは少し違った理由から、院内放浪の旅に出た。

子どもがいた。俺は思わずそれを目で追いかけた。
子どもってかわいいよな。どこがって訊かれても困るけど。俺は子どもが好きだ。…あ、変な意味じゃないぞ。
中途半端な年齢の子どもは、あまり好きじゃないけど。子どもなのか大人なのかよくわからない年頃の子。特に女の子。行動が全然読めなくてな。…それでうっかり殴ってしまったこともある。あの時は大変だった。
複雑な思いに俺がとらわれていると、その子どもが寄ってきた。俺が子ども好きってわかったのかな。俺は軽く微笑んだ。そしたら無視された。
何でだよ!
思わず叫びだしそうになった俺の視界のぎりぎり片隅に、その女性が映った。母親が俺の後ろにいた。…叫ばなくてよかった。
まったく子どもの視界って狭いんだからな。母親しか見えてねえ。
唯一の目標へと向かって走り出した子どもの足が、何もないところで躓いた。その体が傾いた。一瞬宙に浮いた。その空間の下は階段だった。
俺は反射的に地を蹴った。
…きき足じゃない方の足で。


「まったく、何考えてんの!あんた、何やってんの!」
ほとんどドアの向こうから、ブルマの怒声が響き渡った。
俺は答えなかった。ドアが開ききっていなかったということもあるけど、すでに覚悟していたからだ。ブルマの罵詈雑言の嵐を。
「よう」
ブルマは答えなかった。ずかずかとベッドに歩み寄ると、枕元に置かれた、新しい闖入物を指差し言った。
「何なのよ、これは!?」
俺は苦い笑いを噛み殺した。わかってるくせにな。
「痛み止めだよ」
あまり効いてはいないけどな。
ブルマはほとんど覆い被さるようにして、ベッドの上の俺に凄んでいた。最も、こいつはいつもそんな感じだけど。でも、この時は迫力が違った。
「どうしてそんな無茶をするのよ!!」
俺は溜息をついた。両腕を腿の上に投げ出した。
「しょうがないだろ」
「しょうがなくないでしょ!!人を助けるのは立派よ。でも何も足を使うことないでしょうが!!しかも、左足を」
言うなよ、それを…
俺だって使いたくて使ったわけじゃないんだ。気がついたら蹴っちまってたんだ。そうさ、俺の不注意なんだ。
「バーカ!!」
わかってる、俺はバカさ。もうわかったから、そろそろ終わりにしようぜ。
「バカって言ったやつがバカなんだぞ」
そういうわけだからさ。もう終わりにしようぜ。
俺は笑った。苦々しい思いで。笑い話にするつもりだった――ブルマがその一言を発するまでは。
「ガキ」
…んだと?
一瞬、耳を疑った。
高まる血の気を自覚しながら、俺は改めてブルマを見上げた。あいつはとうに俺からは視線を外し、すでに別のことへと意識を向けつつあるようだった。だが、その意識を、俺は引き寄せた。
「おまえ、言うに事欠いて『ガキ』とは何だ、『ガキ』とは!!」
俺はその言葉を使われるのが大嫌いなんだ。おまえだって知ってるだろうが!
俺は口を噤んだ。次の言葉が出てこなかったからだ。だがそれは俺の性分のせいであって、決して怒りが治まったからではない。そんな俺に、ブルマはさらに言い放った。
「本当のことを言っただけでしょ」
本当のことだって?
じゃあ、そのガキと付き合ってるおまえは何なんだ。保育士か?それでそんなに口うるさいのか。俺をガキ扱いしてるからか。
固く拳を握り締めた。…引っ叩いてやりたい。
だが、それはできない。そのことだけはわかっていた。俺は拳に神経を集中させた。声音を抑制するなどという余計なことはせず、ただ拳だけに全神経を集中させた。
「出て行け」
その言葉に反応するブルマの姿と声を、俺はあえて意識しないよう努めた。
「出て行け。早く」
俺の自制心が保たれているうちに。拳が固められているうちに。早く出て行ってくれ。
ブルマが部屋を出て行く様を、俺は見なかった。ただただ、ドアの閉まる音が耳に届くことを待っていた。
「はぁーー…」
その音が聞こえると同時に、大きく安堵の息を吐いた。
そしてゆっくりと拳を解いた。

コーヒーを口に含んだ。本来甘いはずのコーヒーを。ブルマ言うところの『甘すぎる』はずのコーヒーを。
「はぁ〜あ…」
再び息を吐いた。先のとは違う性質の息を。
…疲れた。
すっげーーー疲れた。まったく、余計な気力使わせないでくれ。ただでさえ、精神的にまいっているというのに。
わかっているさ。
俺は頭に血が上っていた。わかっているさ。わかっていたから、我慢できたんだ。
俺は部屋を見渡した。閉まりきっていないドアと、倒れたスツール。あいつがどんな風に動いたか――怒ったか、だいたい想像がつく。
だけどな、あいつが悪いんだぞ。『ガキ』なんて言ったあいつが。
俺がそう言われるの嫌いだって知ってるくせに。なのに言うか?それだけは言っちゃいけないことってあるだろ。
しかもあいつ(一応)彼女だろ?なのに言うか?
まったく、あいつは配慮がなさすぎだ。そんなこととうにわかってたことだけど、それにしたって限度が過ぎる。
っていうかさ、頼むよ。俺、本当に嫌なんだからさ。
「はぁーーー…」
…本当に、疲れた。


翌朝。いつもの時間になっても、ブルマはやって来なかった。
まあ、そうだろうな。当然だ。
でも、俺は謝らないぞ。俺は悪くない。
っていうか、ここで謝ったらまた繰り返されそうな気がする。謝るのは構わないから、それだけは勘弁してほしい。
だって、本っ当ーーーに嫌なんだ。
ドアの開く音がした。それがブルマによるものではないことだけは、その人物の顔を見る前からわかっていた。だって、足音がしなかったからな。
「よう。またケンカしたな」
ドアが開ききってからかけられたウーロンの声に、俺は苦笑した。まったく、俺たちってわかりやすすぎだよな。
でもな、あいつが悪いんだぞ。あいつがあんなこと言うから…
再び心中一人ごちて、俺は気持ちを改めた。もう、やめよう。
いつまでもそんなことを言ってみても始まらない。今考えるべきことは…
…どうやって、謝るか、だ。
そう、俺は謝ることに決めた。そこまではいい。だが、その方法が問題だ。
謝る前に、あいつに問題の本質をわかってもらう必要がある。謝ってしまった後でそれを言っても、あいつはきっと忘れてしまう。というか、聞いてくれない気すらする。
でも、謝らない限り、きっと話そのものを聞いてくれないだろう。あいつはそういうやつだ。
俺は迷い込んだ。出口の存在すら感じられない迷路に。そんな俺の様子にウーロンは一言も言及することはなく(こいつは大概いつもそうだ。俺たちのケンカをからかうことはするが、心配しているわけではないのだ)、俺の左足を宙に拘束する白い布を外しにかかった。
「ほら、さっさと用意しろ」
「何の?」
俺はまったくわけがわからず、ウーロンの顔を見返した。
今日、何かあったっけ。検査とか?そういうの全部あいつにまかせてたからなあ…
「なんだよ。聞いてないのかよ」
この俺の反応に、ウーロンは心底呆れたような声を出した。
「いくらケンカしたからって、そういうことは聞いとけよな…ほら、外出許可証だ。武道会見たいんだろ?」
瞬時に俺は、ウーロンの手にあるそれを見た。無機質な真っ白い紙に記された、俺の自由の証。それが誰の手柄によるものなのかなど、考えるまでもなかった。
今は無人の、スツールの上の空間を見た。
あいつ、大人だな…
思わずそう感じかけて、俺は自身の認識を翻した。
いや、違うか。ケンカする前に取ったんだろうからな。ウーロンに持ってこさせるあたり、やっぱり子どもだな。
「だから早くしろって。またブルマにどやされるぞ」
ウーロンが苛立たしげにせっついた。
…どちらにしても、どやされる運命か。
俺は腹を決めた。


腹を決めといてよかった。
武道会場に着いた瞬間、俺はそう思った。
ある程度予想していたことではあるが、ものすごい人込みだ。開催中はいつもそうだけど、特に今日は準決勝だしな。おまけに同流対決ときた。これで盛り上がらなきゃ嘘だよな。
さんざん病院内を歩き回っていたおかげで松葉杖の使用はもうお手の物だけど(情けない自慢だなあ)、その人込みを掻き分けるのはなかなかキツかった。…プーアルに来てもらえばよかったかな。
武舞台に辿り着いた時には、軽く汗を掻いていた。武舞台正面最前列に陣取る一同を見つけて、俺は手を振った。みんなはそれぞれの方法で、俺に返した。問題は、ブルマだ。
一体どういう態度を取ったらいいんだろう。そもそも、顔を合わせてくれるだろうか。出来ればみんなの前では、あまり露骨な態度を取らないでくれるとありがたいんだけど…
口々にこれからの試合のことについて話すみんなの背後から、菫色の髪が覗いた。俺とブルマの目が合った。あいつは…
「べー」
舌を出し口を動かして(声は聞こえなかったけど、たぶんそう言ったんだと思う)赤目を剥いた。
俺はまったく拍子抜けした。
…こいつ、本当に子どもだな。俺のこと全然言えないじゃないか。
でも、俺はブルマのそういうところが嫌いじゃない――時もある。そして、今はそういう時だ。
俺はさっさと席に着いた。いつまでも怪我人がうろつくのも周囲に迷惑だし。それはブルマの隣だった。
別に、不思議なことじゃない。いつもの定位置だ。
いや、不思議と言えば不思議かな。いつも定位置なんだよな、俺たちなぜか。
2人だけの時は別として、他に人がいる時は、ケンカしてようが何してようが、なぜかいつも定位置だ。ブルマが周囲に対して(形だけは)平然を装う、ということもある。だからといって、折れてくるわけでは絶対ないが。
この時もそうだった。ややもして、ウーロンに不機嫌をぶつけた後で、ついでのようにブルマが俺に言い放った。
「ガキ」
俺は苦笑した。でも、拳は握らずに済んだ。
俺がガキなら、こいつもガキだ。ガキにガキって言われてもな…やっぱり腹立つけど。でも、大人に言われるよりはマシだよな。
その時、試合開始の銅鑼が鳴った。俺は意識をそちらに向けた。


それはまったく見ものだった。
亀仙流の一番弟子と二番弟子。その2人が、天下一を決める大会の舞台にいる。
そして末弟子が、観客席にいる。…そうさ。
やっぱり悔しいよ。俺もあそこにいたかった。悟空ともう一度戦ってみたかった。
でも、俺は明日を見る気になっていた。この試合を、第三者としてきっちり見られる気持ちに、俺はなっていた。
武道家の血。白い監獄の中で澱みかけていたそれが、きっと流れ出したんだ。


俺は隣の子どもを見た。俺に『ガキ』と言い放った子どもの姿を。
ブルマはまったく熱中していた。拳を握り締めて。
こいつもおかしなやつだよな。
武道は嫌いだ何だと抜かすくせに、結局応援してるんだよな。しかも、こんなに身を入れて。
寝てなきゃダメだと言ったくせに、外出させてるんだよな。それも、自分で段取りつけて。
まったく、おかしなやつだよ。
俺はブルマの手を握った。こいつが他人の緊張の中に身を置いているのがわかったから。
そして、俺がそうしたかったからだ。

俺たちは人知れず手を繋いだ。そのままずっと。
…と思うか?
こいつ、振り解いたんだぞ!俺の手を。せっかく怪我人が半身を犠牲にして手を握ってやったのに。振り解くか、普通?
まったく俺は呆然とした。その隙をついたように、ブルマが俺の左脇に滑り込んだ。左腕を自分の肩に回して、俺の体重を奪うように体を寄せた。そして大きな溜息をついた。
…おまえなあ。
少しは俺の身にもなれよ。こんな時くらい、俺を立てろよ!
せっかく手を繋いでやったのに。それがどうして、そんな保護者面されて体を支えられなきゃいけないんだ。格好悪すぎるぞ。
だから俺は腕を外した。そして掌をブルマの左肩に置いた。
こうしておけば、他人には立派なカップルに見えるし、仲間内に気づかれそうになった時には、すぐにでも自然な体勢に移行できるってもんだ。一石二鳥だ。
…俺(の左足)はだいぶん辛いがな。




「サンキューな。大変だっただろ」
夜、再び監獄に戻されて、俺は陽気な声を出した。
外出を許されたくらいで、急に病院が楽しい場所になるはずもないけれど。それでも、今の俺には違って見えた。
そしてそれは、この口うるさい子どものおかげだ。
ブルマはまったく謙遜することなく、大仰に胸を張った。
「大変だったなんてもんじゃないわよ。特例中の特例よ。おまけに本人には邪魔されるし」
「何の話だ?」
俺、何もしてないよな?…良くも悪くも。
「昨日の事故よ!ようやく話を取り付けて許可証貰いに行ったところだったのよ。危うく取り消されそうになったんだから。あんたタイミング悪すぎ!」
これにはまったく返す言葉がなかった。
「とにかく、もう少し自重してよね」
「わかったよ」
俺は首を竦めつつ、ブルマの頬に手を触れた。
どうしていきなりそうなるのかって?

だ・か・ら。ケンカじゃないって言っただろ。
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