潜る女
ついにきた。
ブルマがその一言を発した時、俺はそう思った。
「ねえヤムチャ、あんたそろそろ髪切らない?」
今だ観光客の引きも引かない、常夏の夏の季節。全身をしょっぱくさせた一日の夜のことだった。
「まだいいだろ」
短く答えた。特に長いその部分を、片手で撫でつけながら。
ブルマは俺の手の下からその部分を掴み取ると、示すように宙に浮かせてみせた。
「でもボサボサよ。せめて整えないと」
整える?
俺は少々意外に感じた。
『整える』とはこいつにしてはえらい譲歩だな。…短髪に飽きたのかな?
それはいい兆候であるように思えた。少なくとも一歩前進だ。長髪への道の。
「そうだな…」
突如持たされた余裕という名のペンで、俺はその台詞を書きだした。そして実際、口にもした。
「帰ったら切るよ」
長い長い間が開いた。ブルマは目を見開いて、俺の台詞を復唱した。疑問符つきで。
「…帰ってくるの?」
「秋になったらな。そろそろ3年経つし」
再び間が開いた。って、何だそれは。
俺が帰っちゃマズいのか?出てくる時と態度変わってないか?おまえ。
まあ、帰ると言ってもとりあえずのところは、だけど。
やっぱり、筋は通さなきゃな。C.Cの人たちには世話になったし。俺がこいつと付き合ってることも知ってるし。それにこいつと約束もしたし…
それにしては納得のいかない反応だけど。
「ふーん」
ブルマは短く呟くと、窓の外に目を向けた。
…やっぱり納得いかねえ。


今の俺には選択肢が比較的多く用意されていた。どうやら修行期間に比して増えていくようだ。成長してるってことなのかな。
とりあえずC.Cに一時帰還するということはブルマにも話した通り。武道会前には再び武天老師様の元へ行くとして、後のことは…検討中だ。
3年か…
長かったな。そして、いろいろあった…
…などと思うことはない。そんな感傷に浸ったりは、俺はしない。
臨終の際じゃあるまいし。そもそも、まだ何も始まっていない。だいたい、3年って長いのか?
武天老師様の元での修行として、悟空に比較すれば長いけど(あいつは1年間に満たないからな)。それ以外に「長い」と思わされる要素はないんじゃないだろうか。
そんなわけで、俺はあくまで1つの区切りとして、修行開始当初の口約束を遂行し、C.Cに帰らせていただくことにした。あそこには俺の部屋もあるしな。
…あるんだよな?
帰還を告げた時のブルマの反応を思い出して、俺は少々不安になった。

「ありますよ。あるに決まってます!」
プーアルがカメハウスにやってきて、俺の不安は解消された。
「ボクが毎日掃除してます!」
恩を着せているわけではない。衒っているわけでもない。プーアルは極々自然にそうしているのだということが、俺にはわかっていた。
まったく、かわいいやつめ。
C.Cに戻るという話に対して、最も喜色を露にしたのはこいつだろう。俺も主冥利に尽きるというものだ。
同時にプーアルは、少し意外なことも教えてくれた。
「ブルマさんも、時々掃除ロボットを入れてくださいますし」
掃除なんて、あいつはまったく嫌いなものだと思っていた。ロボットにやらせているあたり、好きではないんだろうけどな。それにしても、使っていない俺の部屋を掃除してくれるなら、使っている俺の部屋もしてくれればいいのにな。
まあ、とりあえず部屋はキープされているわけだ。よかったよかった。
「いつ帰られるんですか?ボク、迎えにきます」
喜色満面で発したプーアルの言葉を、俺は退けた。
「1人で出てきたんだ。1人で帰るさ」
それが男ってもんだ。
一人前の、な。


「では武天老師様。後日、よろしくお願いします」
それだけを、老師様に俺は言った。
それ以上のことはすでに前日口にしていた。別れの際はしつこくない方がいい。
「じゃあな、クリリン。また後で頼むよ。ランチさん、ウミガメも、元気で」
俺はさっさとエアジェットに乗った。自然と足が早まった。
早く立ち去りたい、などと思っていたわけではない。カメハウスは俺にとって、とても居心地のいい場所だった。でも…
エアジェットが地を離れ、誰の姿もが彼方に消え去った時、俺は心に叫んだ。
――俺は自由だ。

俺は地を巡った。
あの山岳地帯を。北の森を。今は咲かない桜の地を。ある感慨を抱きながら。
おそらく、この中のどこかには再び来ることになるだろう。でも、今はとりあえずさよならだ。
空から、かつて自分の立っていた地々を見下ろした。
なんていい気分なんだ。
これが何かを為したということなのか。いや違う、これから始まるんだ。
そうさ、始まるんだ。俺が始めるんだ。そうさ、俺が。
…自由ってすばらしいな。

そこはとても鮮やかだった。
鮮やかに映った。俺の目には。
「少しやってくかな」
砂埃を撒き散らしながら、エアジェットを地につけた。
一面の地平線。蒼穹の空。…やっぱり俺はこういうところが好きなんだよな。
桜もいいけど。雪も悪くはないけど。
「はぁーーー…」
地に足を踏みしめ、拳に心を溜めた。

あー、やったやった。
思いの他、熱中してやっちまった。今日は修行はしなくていいはずなのにな。やっぱり本分なんだよな、これが俺の。
自然と落ち着いた心でそれを見た。地平線の向こうに暮れなずむ太陽。ただ1つの線を境に変化し続ける空色。
…こういう景色だったら、あいつも気に入るかもな。
ふいに俺は思い出した。
「そろそろ帰らなきゃな」
あいつのところに。




ネオンの映える薄闇の中、C.Cのポーチを潜り抜けた俺を、その住民が出迎えた。
「おかえりなさい、ヤムチャ様!」
「まあヤムチャちゃん、おかえりなさい」
「ひさしぶりじゃなあ」
「おっせーぞ、おまえ」
うん、まずまずいい反応だ。…一人を除けばな。
そして、一人が除かれていることを除けばだ(しつこい表現だな)。
「ブルマは?」
俺は訊いた。当然だ。
あいつは絶対いなきゃダメだろ!!
どうしてあいつはこういう時、いつもいつもいないんだ。俺がここを出て行く時も、そうだった。…また寝てんのか?
だが、この心中の嫌味は、ウーロンによって否定された。
「どっか行ったっきり帰ってこねえんだよ」
「夕方まではいたんですけど」
夕方まではいたのか…
それを知った瞬間、俺はブルマを責めることができなくなった。
なぜなら、俺はその時分には、ここにいるはずだったからだ。そのように知らせていたのだ。
そう、遅刻したのは俺なんだ。つい1、2時間のことと思ったのが間違いだった。俺が夕陽に見とれている間に、あいつは出かけたというわけだ。まったく、間の悪いことだ。
いや、悪いのは俺なんだけどな。

ひょっとすると、親譲りなのかもしれないな。
腹に入れたら確実に死んでしまうであろう量の料理を目の前にしながら、俺は思った。
ママさんが俺のために用意してくれた馳走は、絶品だった。文字通り、食べても食べてもなくならない。あ、本来の意味も兼ね備えてはいた。それは本当だ。
同時に、少々偏ってもいた。例えば、パイが5種もあったり。飯類とデザートが同量であったり。そんなことはどうでもよく感じられる程の全体量であることも含めて、その極端ぶりは、ブルマのそれに合い通じるものがあった。
ママさんのもてなしの精神と、博士の科学者ぶりが結実したものがあいつのあの様なのだと考えれば、少しく見方も変わってくるというものだ。それがいいことなのかどうかは知らないが。
俺たちはまったく、食べに食べた。飲みに飲んだ(酒じゃないぞ。俺はまだ未成年だ)。楽しむに楽しんだ。
気づけば時計が明日を指しかけていた。
依然、ブルマの帰ってこぬまま。

さすがに俺は心配になり始めた。いや、正確にはもっと早くにそうなっていたのだが、最も心配するべき人たちがそうではないので、遠慮していたのだ。
「なに、そのうち帰ってくるじゃろ」
「ママも遊びに行っちゃおうかしら」
のんきだよなあ。
それとも豪胆と言うべきなのかな。確かにこれくらい肝が据わっていなければ、16歳の女の子一人、あてのない旅に送り出したりしないよな。ドラゴンボールを探しに出なければ、俺がブルマと会うこともなかったわけで…やっぱり憚ってしまうよな。
そこに、ウーロンとプーアルがダメ押しをした。
「しょうがねえな。あいつが帰ってこないなんて、いつものことだ」
「そうですねえ…」
なんてこった。
そりゃあ俺だって多少甞められているとは感じていたが、まさかここまでされる程だとは。いくらあいつでも、こういう時くらいは立ててくれるだろうと思っていたのに。だいたい立てるも何も、彼女が彼氏を待つことなんて当たり前だと思うんだけど。
それとも、そもそもが待っててもらえてなかったのかな。俺が帰るって言った時、あいつどことなく変だったし。俺に構うの面倒くさくなったとか。…ありそうなことだな。
睡魔が徐々に忍び寄って、自然、場はお開きとなった。俺は溜息をつきながら、リビングを後にした。そして、あの部屋へと行った。
あの部屋――俺の部屋。
…部屋はあるんだよな。一体どういうことなんだろうな。
もう付き合うつもりがないんなら、維持しておかないと思うんだけど。みんなの手前があったとしても、別室を用意しておくとか。あいつはそういうやつだよな。
それとも開けたら全然違う部屋になってるとか。もしくは何もなくなってるとか。…ありそうなことだ。
どちらにしても、開けないことには始まらない。例えそれが終わりの始まりだとしても。とりあえず今日はここで寝る。後のことは明日考えるさ。
俺はドアを開けた。
そこは俺の部屋だった。窓から流れ込む空気。壁にかかった時計。ベッド脇のサイドテーブル。その向かい側に据え付けられた、棚とクロゼット。置きっぱなしにされたトロフィー。以前となんら変わりない。
「ふー…」
俺は安堵の息を吐いた。開いた窓から吹く風を遮断して、ベッドに寝転がった。そして気づいた。
背中に感じる異物感。ベッドの中に何かある。
いや、違う。…いる。
一瞬の躊躇いの後、布団を捲り上げた。…やっぱり。
ブルマだった。

俺は驚かなかった。ただ呆れがあるのみだった。
2回目ともなればなあ、誰だってそうなるさ。まったく、こいつは…
「おいブルマ!おい起きろ!」
心配させやがって!
俺はブルマを揺すぶった。寝起き云々など、考える余裕もなかった。
だって心配したんだぞ!いろいろな意味でな!
まったく、こいつは何考えてんだ。
俺の部屋に勝手に入るな!男のベッドで寝るな!紛らわしい行動取るな!
「あぁ…?」
おもむろにブルマが頭を持ち上げた。その瞬間、俺は軽い戸惑いに包まれた。
…俺のタイ?
どう見ても俺のものに思えるブルータイが、ブルマの顔の下にあった。俺、これ持っていってたはずだけど。どうしてここにあるんだろう。
そして、どうして濡れているんだろう。
そう、まだ一度も使っていないそのブルーのタイが、一部分だけその色を濃くしていた。
俺はブルマの顔を見た。ブルマは今だ半開きのその目で、ぼんやりと俺を見返した。その手は目を擦ることも、隠すこともしなかった。
…こいつ、気づいてないんだな。
それとも、それじゃないと思うか?そうだな…
涎…それもありえないことじゃない。でも、そんなのわかるだろ。口元を見れば。
関係のない夢を見て零しただけ…まあな、可能性としては0じゃない。そうさ、いつだって可能性は0じゃない。
俺は視野を広くした。
俺の部屋。俺のベッド。俺のタイ。そしてブルマ。
紛らわしい行動、か。
全然紛らわしくないな。最も、本人は気づいていないようだが。
俺は目元をなぞるように、ブルマの顔を引き寄せた。ある動物を連想させるその目元。そうだな、可能性は0じゃない。
でももしそうだとしても、俺には何の問題もない。
俺はただ、口づけるだけだ。

「あんた、遅いわよ」
口を尖らせながら、俺の髪の特に長いその部分を、ブルマは撫でつけた。何度も、何度も。
思わず俺は笑みを漏らした。
咎められているのに、嫌じゃない。不思議なものだな。
そうしたら、ブルマが俺を小突いた。拳と化したその手で、俺の頭を。
どうしてそんなことをするんだと思う?
どうして咎めるんだと思う?どうして殴るんだと思う?
不満を湛えたブルマの瞳を見ながら、俺は笑って言った。
「ただいま」
そんなこと、鈍い俺にだってわかったさ。




なんとなく話をしているうちに、ブルマは再び眠ってしまった。
…正直、どういう神経してるんだとは思うけど。それに少しプライドも傷つくよな。
でも、今日はいい。ブルマをベッドに寝かせ(未使用だからまあいいだろ。だいいち、こいつの部屋のロックナンバーがわからん)、自分は床に転がって、俺は天井を仰ぎ見た。
かつて見飽きた白い壁。かつて毎日眠ったベッド。かつて過ごした女の子。
すべて元通り。あの頃がまた始まる。…いや、そうじゃない。
俺が始めるんだ。


街も人も寝静まる朝靄の中、俺は自分の部屋を後にした。またしばらくはさよならだ。
修行さ。それが俺の本分だ。ブルマには書置きを残してきた。直接は伝えていない。そうさ。
男は黙って去るものだ。
ふっ、格好いいな、俺って。




…それにやっぱり、もう少し髪伸ばしたいしな。
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